徳田球一論

 徳田球一は「徳球」の愛称で親しまれている。「徳球」は特急をもじっているが、まことに彼の精力旺盛な革命的情熱をうまく表わしている。丁度、陰険さをもじった宮本顕治こと「宮顕」のそれと好対照となっている。

 2005.4.3日 れんだいこ拝


 「戦後の党再建の出発に当って、戦前の経験をもっと掘り下げて総括し、思想的統一を図るべきだったという意見が、今でも無いわけではない。確かにそれは党建設の必要にして重要な一課題ではある。しかし、戦後のこの時点で、まず総括からといって論議を先にしていたら、党は共産党として容易に再建されることはなかったろう。まっしぐらに大衆の中に入って闘った。多くの欠陥もあり、成功もし失敗もした。その行動にこそ、徳球に率いられた戦後の党の生命があったのである」(長谷川浩「2.1スト前後と日本共産党」)。

 徳球の履歴が次のように紹介されている。「名護・沖縄が生んだ偉大な思想家、政治家で、戦前、戦後の苦難の時代を高い志をもって社会運動に奔走し、日本を変革することに情熱を注いだ人物。1894年、名護の十字路近くに生まれた。沖縄で中学校を卒業し、23歳の時に上京。日本大学で学んで弁護士になり、社会主義運動に参加、1922年の日本共産党結成に働いた。1928年、3・15事件で検挙され、敗戦までの18年間獄中にあったが、戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、「徳球(とっきゅう)」の愛称で国民的支持と人気を得た。その後、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命。1953年に死去。その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現している。その業績を称えるため、記念碑も建立されている」(「思想家・徳田球一」)。

 戦前の党活動に功績大なるものがあるとすれば、田中清玄であろう。戦後の党活動に同じ者を見出そうとするならば、徳田球一だろう。あぁだがしかし、この両者が不当に落とし込められている。これほどの不義があるだろうか。興味深いことに、代々木日共だろうが新左翼だろうが、この構図は変わらない。今日の日本左派運動の貧困の要因には、この観点のお粗末さが背景にあるように思われてならない。なしてそういう変調史観になっているのか、この辺りから解きほぐさないと左派の再生は覚束ないであろう。道遠いしというより、頭がやられているとの感が深い。

 沖縄の名護の町の中心街の一角に、占領期日本共産党の指導者徳田球一の立派な顕彰碑が建っている。徳球は名護出身である。「為人民無期待献身」という徳球の筆跡を刻み、特徴あるマスクも彫られている。宮顕系党中央から抹殺されてしまった「徳球」は、沖縄では「郷土の英雄」である。

 2002.7.5日 れんだいこ拝

 私か共産主義者になったのは全く特別な境遇のためである。私の父方の祖父は鹿児島の生まれで封建政府の時代に普通の船乗からようやく商人になった。彼は自分の船で琉球にやってきて商品を安く仕入れそれを鹿児島や門司、大阪に売った。祖父のような商人はみな琉球に妾を囲っていたが、私の父はこの鹿児島の商人と琉球の妾の間に生まれたのである。(中略)

 私の父方の祖母は非常に貧しい農家の出身だった。彼女の生まれた家というのは全く豚小屋同然で家では彼女を妾に売らなければならなかった。彼女は祖父の妾となり私の父を生んだ。私の母も同じような結合から生まれている。

 彼女の母親も三人姉妹の一人として貧しい職人の家に生まれ、そのうち二人は妾に売られた。(中略)その当時の相場では15、6の娘がざっと20円位だった。(中略)私が若いときには30円から50円の間だった。

 母方の祖母は高利貸しだった。彼女は月1割で金を貸していた。(中略)家が貧乏だったので私は中学校を終わるまで祖母の家の仕事をしなければならなかった。私は帳簿付けをやったり毎月貸金の取立てをしたりした。学校に行けると思ったが実際には1ヶ月のうち20日くらいしかいけなかった。

 私は(中略)12の時高利貸しや何かが農民、労働者、貧しい人々を欺き搾取する方法を知り尽くした。私の若い心は勤労者や農民に対する同情と彼らー祖母を含めてーのけがれた商売に対する憎悪で一杯だった。私は金貸しに金を借りるのはよくない、搾取されるだけだと云い、私が稼いで家計を助けるまで待てと言った。(中略)祖母は私を憎んだ。彼女は私に靴を買ってくれなかったので、体操のときには祖父から旧い靴を借りなければならなかった。学校にはたいてい裸足で通ったものだ(中略)。

 かような雰囲気に育ったので貧しき人々に向けられた圧迫や不正義に対する私の憤りは非常に強かった。私は心の奥底でこのような社会では人は正しく幸福には生きられないと思った。私が政治的に目覚めてからはこの暗い世界に輝かしい光がさし始めたように感じた。(中略)

 16歳の時誰かが私に幸徳秋水の書いた「社会主義の真髄」を貸してくれた。「マルクスは言った」、「エンゲルスは言った」というぶっきらぼうな言葉が出てきて私は殆ど毎頁つかえてしまった。私は幸徳の書いたものから始めて社会主義を学んだ。

 (中略)。

 私が万世橋にやってくると政府の軍隊が行動を起こした。士官が発砲命令を下したが、兵士はそれに従わなかった。両側は軍隊に包囲され後ろからは警官に殴られ、我々は命からがら逃げ出した。あの時どんなに息をきらして本郷に逃げ、湯島天神にかけ上がったかは決して忘れないだろう。ともかく私はやっと逮捕を免れ無事に下宿まで帰ることが出来たのだ。

 米騒動は私にとって最初の大衆運動の経験だった。(中略)。私は政府のテロを憤った。この憤りは何年も心の中に生き残っていた。

 徳球は網走監獄で過ごした7回にわたる厳しい冬について次のように述べている。「その寒さというのは骨の髄まで入ってくる寒さだった。今でも網走の6ヵ年を思い出すと五体がぞっとするような気がする」。





(私論.私見)

寄 稿 増山太助『戦後期左翼人士群像』によせて(4)かけはし2000.11.13号より

徳田球一――ヤマト沖縄

 徳田球一は、五十九歳の若さで北京で死去した。骨や遺品類を日本に送るに当って、中国共産党は追悼集会を開いて三万人が参加、毛沢東主席は「徳田球一同志 永垂不朽」と記して革命家の死をとむらった。
 徳田の故郷である名護市は、「郷土の英雄」「国際的政治家」として、八〇年代はじめ頃に、市公報で北京の追悼集会の写真など、徳田球一特集号を出した。私は「労働情報」の講演会に行った時に、その公報をみて、ウチナンチューの誇りと沖縄とヤマトの違いを強く感じた。
 名護市は、社会党の戸口市長が徳田記念碑をつくることを発案(三鷹事件の喜屋武由放の働きかけもあって)、次の保守・比嘉市長も応じ、いまの岸本市長の時に完成した。その総体は二千万円ちかいカネがかかり(一般寄付金は千万円で、多くは沖縄で集まった)、三年の歳月を要したが市は四百万円の補助金をつけた。その市長提案に対して、自民、公明、社会党などは賛成したが共産党議員は、賛成も反対もせず―客観的には反対を意味する―、記念式典では、市の長老党員が他の人々とともにあいさつしたが、市委員会などの党代表のそれはなかった。
 この冷えた対応は、党本部の宮本委員長の徳田観の反映だったのである。徳田と宮本の路線対立とともに沖縄観の根本的違いがあったのである。
 牧瀬恒二は、七〇年「沖縄返還運動」の党担当者であった。彼は増山に「じつは、徳田が言っていたことだが、沖縄はヤマトではない。沖縄の共産党をヤマトの党の下部組織にしてはならない。そういうことをすると沖縄の人たちの自主性をそこなわれる」(二五〇頁、高安重正と牧瀬恒二―日本と沖縄は「対等の立場で結合」せよ―)と語っていた。
 高安重正(旧性高江洲)―戦前の全協二代目委員長、戦後は党沖縄対策責任者―と、私は一九四九年に横浜市委員会オルグ団会議で何回も同席した。よく分からなかったが、彼が発表すると中央の京浜担当の春日正一(のちに党幹部会員、統制委議長など)や市委員長丸山一郎(五全協中央委員、志田派「代貸し」といわれた)が嘲笑的によく批判していた。
 高安は一見、いかつい風貌だが、目と人柄はとてもやさしい様に感じた。鶴見に沖縄人部落があった関係でよく来たのだろうか。その高安は「徳田の考えを堅持していたが宮本顕治は人民党の党組織を解体して沖縄の共産主義運動を日本共産党の中央集権下におこうとした。だから、高安はこれに反対していたんだ」「それが除名の本当の理由かもしれない」と牧瀬は言ったという(二五五頁)。

徳田と宮本の沖縄党組織論

 徳田と宮本のどちらの沖縄論が正しかったのか?
 徳田は、第六回大会(一九四七年)の行動綱領で「沖縄の独立」を掲げ、大分裂下の国際派は、それを徳田の「民族主義的偏向」の一つと批判したことがあった。私も当時そう思ったが……。
 だが、その「沖縄独立」は、保守の大山元コザ市長(九九年死去)によって、遺言のように出版された。「独立」か「自治州」か「特別県」か等の是非はここでは略する。が、米日政府への批判は高まり、数年前に建てられた読谷村役場前の記念碑は当時の村長山内徳信(大田県政時の県出納長。今年の「人間の鎖」総責任者)によって、日本政府ではなく、「ヤマト政府」と記されていることを、われわれはしっかりとうけとめなくてはならない。
 沖縄の党組織(大衆団体も共通する)をめぐる徳田と宮本間の対立は、思想的には決着がついている、と私は信ずる。(つづく)