第三期【宮顕独裁体制確立

 戦後革命史の第三期は、55年の六全協に始まり、この時指導部入りした宮顕勢力が次第に勢力を伸張させ、59年の第7回党大会、61年の第8回党大会で遂に宮顕独裁を完遂する過程までを云う。問題は、この第三期を更に仔細に見てどう識別するかである。れんだいこは、次のように整理したい。

第@期 【六全協】  この時期「六全協大会」が開催され、党内各派の大同団結となった。この時それまで干されていた宮顕グループの執行部入りと、宮顕の書記局入りが為され野坂−宮顕執行部が確立される。宮顕は、当初は旧徳球系志田派と蜜月行脚していたが、それも束の間で本性を露にし始め、伊藤律−椎野系、志田系の旧徳球系グループの掃討戦を開始する。六全協から始まって旧徳球系グループの掃討戦を開始するに至るこの期間を【戦後党史第三期のミニ第@期】とみなすことができる。
第A期 【党内急進派争闘戦】  以降、宮顕は党内反対派の粛清に血眼になる。第二弾は党内急進派の掃討戦となった。主に学生運動グループが狙われ、その他戦闘的大衆団体も標的にされる。やがて58年第7回党大会に至るが、ミニ第@期から第7回党大会に至るこの期間を【戦後党史第三期のミニ第A期】とみなすことができる。
第B期 【第7回党大会】  第7回党大会が開催され、宮顕−袴田体制が確立された。この大会で、旧徳球系の完全放逐に成功した。次の掃討戦は、反徳球系急進主義者学生党員グループと春日(庄)ら構造改革派系に向かうことになった。これにも成功し、58年の第8回党大会はその凱歌を挙げる舞台となった。この期間を【 戦後党史第三期のミニ第B期】とみなすことができる。
第C期 【第8回党大会】  第8回党大会が開催され、宮顕−袴田の独裁体制が確立された。残るは志賀系のみであったが、中国派系の動きも目障りになりつつあった。各個撃破戦術はまず親ソ連共産党系の志賀グループの追い出しへ向かうことを指針させた。これにも成功し、64年の第9回党大会はその凱歌を挙げる舞台となった。この期間を【 戦後党史第三期のミニ第C期】とみなすことができる。





(私論.私見)