2001.10.22日のしんぶん赤旗の「テロ集団をどう追いつめる 国連の下、国際社会の団結の力で」を論評する。この題字からして、かって戦前の治安特高が、「アカ集団をどう追いつめる 大御心の下、一億一心の団結の力で」を標榜していたスタイルと同根の精神であることが分かる。現下の党中央の論理様式はこういうところに思わず顕われるが、かってマルクスが為したような社会事象への根本原因の解明と革命策の提言などとは正反対の側にシフトしており、取り締まり論法を得手として振り回していることが分かる。れんだいこは既に何度も指摘しているが、この連中は共産党という名の風上におけるような代物ではないということを一刻も早く大衆的に確認する必要があるだろう。

 その内容を見るに極反動である。不破議長と志位委員長の連名書簡「一部の国による軍事攻撃と戦争拡大の道から、国連を中心にした制裁と“裁き”の道へのきりかえを提案する」がよほどお気に入りのようで自画自賛しているが、「米国で起きた同時テロは人類社会にとって許すことのできない凶悪な犯罪です。それだけに、この解決には人類全体による英知と努力での対処が求められています」という割には、中近東・パレスチナで同時進行形のアラブとイスラエルの五十年抗争にはさほどの反応を示さない。続けて赤旗は云う。「ウサマ・ビンラディンの率いるアルカイダは五十カ国以上に組織的ネットワークがあるといわれています。だからこそ、すべての国が足並みをそろえてテロ集団に断固たる措置をとって、彼らの逃げ場がなくなる状況をつくらなくてはなりません」。

 これは奇怪な構図ではなかろうか。今日日の「科学的」社会主義の自認者とは、事象の根本原因の解明と対策に向かわずに、表面現象に対症療法を凝らすのを好むようだ。だがしかし、その論は、お茶の間系ゴキブリ対処法コマーシャル「元から断たなきゃダメ」に一喝されるや、ひれ伏さざるを得ないだろう。

 驚いたことに赤旗論調に従えば、米英の報復戦争が良くないのは、それが下策だからという理由のように読める。「イスラム社会の反発を招き、国際社会を分断させ、テロ集団を利する。そして新たなテロと暴力を生む悪循環の道に国際社会を導いてしまう」かららしい。小泉首相がなぜ批判されるべきなのかは、そういう下策を全面的に支援するという同じ下策であるからという理由である、と云う風に読める。
 
 赤旗は云う。「一刻も早く、報復戦争をやめさせ、一部の大国主導でない各国が団結した国連中心の制裁と裁きの道に踏み出すべき」である。権限をもって行動できるのは国連しかない以上、この国連を使って成敗するというのが上策だということになるようである。不破−志位には、理論上はどうやら国連が鬼に金棒的な機関であるらしく、現在の国連はなまるっこいと云う。過去の事件と国連の関係で言えば、国連の権限を強化し、事前策としての予防検束にまで及ぶべし論まで煽る。

 当然、「今必要なのは、なによりも国連としてビンラディンの容疑を確認し、身柄引き渡しを要求することです」ということになる。では、ビンラディンが自首してこなかったらどうなるのか。それには次のように答える。国連憲章には非軍事的措置と軍事的措置をとることができる定められており、軍事的措置は、国連の監督下におかれ、武力行使発動の具体的手続きが守られるならば、国際社会の共同行動として是認されるという。実際には、ここで論の展開が打ち切られており、その国連軍がどうやってビンラディンを捕捉するのかについてはノーコメントである。

 不破らしく話を急転直下ずらしてオチへと導く。「一部の国が勝手に行動することは容認していません」、「今回の米英の軍事力行使は、安保理で認めておらず、“復仇(ふっきゅう)”を禁じた国連総会宣言(一九七〇年)にも反する報復戦争です」と云い、とにかくブッシュ−小泉政府のやることには反対だと云う。

 普通に読めば、論理が支離滅裂というか、ズバリ権力擁護理論でしかない。実際、赤旗論調に拠れば、安保理で認められた戦争なら追認する以外に無いことになるではないか。そういう場合には、安保理での認められ方に難癖つけてやはり本質是認、ポーズ批判で糊塗しようとするのだろうか。

 しかし、既に脳軟化の一層の腐敗局面に達しつつあることが分かる。しかし、当人も取り巻きもどこまで恥を晒しつづける気なのだろう。党内は恐らく恨み骨髄の気持ちを晴らそうとしてだろう当分放置し続ける作戦モードに入っているようでは有る。

 


 古本屋で高知聡著「日本共産党粛清史」を見つけ、只今読み込み中です。その中で、次のような話が入っております。神山茂夫が、「現代の理論」編集部との対談の際に、徳球の「気概と抱擁力の大きさ」について次のように述べています。「ええ。従って、やる気のある人を、入党の決意を持ち、一定の推薦者があればどんどん入れてくる。だから一方から言えば、スパイの容疑を持たれるような人も入ってきたし、戦前社会党系だった人も入って来た、天理教の人も入って来た。そういう条件も可能性も一杯あった。それを全部抱えて、次第にスパイだということが分かってくる人を段々に除いていく傾向で、解放直後は、転向、非転向に拘らずに早く一緒にやろうとした。特に徳田君はその点では、過去のことはあまり問わないという態度を取っていた」。徳球ならさもありなんと思っていたが、こうして具体的に裏付けられるとうれしい。

 現在の我々は、こうした徳球式左派運営と対極のことばかししており、これぞ左派の真骨頂とまで述べられていることが多い。分かりやすくする為に宮顕式党運営と云うが、何から何まで異なっている。同じ左派を標榜する者でも、これほど対立しているという例証として少し考察してみる。徳球式はどうやら、まずは風呂敷を広げて、「やる気のある人を、入党の決意を持ち、一定の推薦者があればどんどん入れて」いったようだ。宮顕式は違う。露骨に身上書で調べ上げ、政治意識が低い者の入党は容易であるようだが逆はそうではない。

 次に、徳球式は「スパイの容疑を持たれるような人も入ってきたし、戦前社会党系だった人も入って来た、天理教の人も入って来た。そういう条件も可能性も一杯あった」という開放系手法で、前歴よりも現に共に闘う意思の強い者を結集させることに意を注いだようである。ここも宮顕式は違う。閉鎖系で厳格な入党審査が為されるようである。その割にはスパイがうじゃうじゃしているようであるが。

 次に、徳球式は「それを全部抱えて、次第にスパイだということが分かってくる人を段々に除いていく傾向」を採ったらしい。この手法は一見無謀のように思えるが、よく考えると合理性があるということが分かる。なぜなら、どんなに閉鎖系にしてもスパイは入党してくるのが商売であるからして防ぎ切れるものではなかろう。それよりも、徳球式に実践で試し、実践で鍛え、その中からふるいにかけていき、上級へ行くほど機密が保たれるという方がより機能的なのではなかろうか。結局は組織と上に立つ人士の眼力に関係してくるであろうが。閉鎖系にしたからといって、スパイはスパイのような顔をしては入って来ず、もっとも忠実なイエスマンのような顔をして入ってくるのだから水際阻止は出来ない。それを思えば、功罪有るも徳球らしいと思う。

 次に、「解放直後は、転向、非転向に拘らずに早く一緒にやろうとした。特に徳田君はその点では、過去のことはあまり問わないという態度を取っていた」とある。これが獄中闘争を生き抜いた徳球の真骨頂である。必要な際には自慢はすれど、宮顕のようにのべつくまなく「獄中12年・非転向完黙唯一人士」を吹聴し、政敵相手にレッテル貼りなどしない。

 その他汲みだすべき教訓はいろいろあろう。三枚舌で極力統制を好むか、権威にへりくだり逆に対して尊大にするか、人の文章の添削などでかしこぶるか、辞典を好んで持ち出すか、護民官のつもりで自警団働きするか、お気に入りの法令を地球の裏まで拡大し、全てこの世は解決済みとする、高潔ぶって道徳を説きながら直にお里を知らせるか等々拾い出せばきりが無い。

 以上、徳球式と宮顕式はスタンスにおいて極的に対立している。これだけ異なるとどうして一緒に混じりえようか。分党すれば良かったが、史実は徳球の方が党中央であったから分党しようがなかった。この板に例えれば、れんだいこの方が管理人だから出て行けないのと同じである。宮顕派がその後の党中央を占拠するに至り、以来約50年ほどこの渓流の話ばかり聞かされてこれぞサヨだと思わせられている。不幸なことだと思う。


 あの頃の経験を思い出す。

 れんだいこは70年に上京した。東京では学生運動というものがあるげな、それが見えるという思いは、れんだいこ特有なそれでは無く、かなり一般的な通念になっていた。何しろ、親父が警察官であるなどということは恥ずかしくてノンポリの間でさえ云うのが憚られる雰囲気であった。気の早い連中は入学と同時に任意お気に入りのセクトに飛び込んだというかつかまった。れんだいこは暫く様子を見ながらと云っても僅か一ケ月ほどの期間に過ぎなかったがその所用期間を経て自治会系と結びついた。自治会は民青同系であったから、精力的な活動家然としていたれんだいこがもっと緊密になるのは成り行き自然であった。あんまり語りたくないが、我等がキャンパスは70年のこの時既に党派のルツボ状況にはなかった。このことがれんだいこにとって幸いだったか能力の開花を押し止めたのか今も分からない。

 前置きはこれぐらいにして次のことが云いたいところである。ある時、仲間内で日本の情勢規定論を交わしたことがあった。いわゆる「日本の国家権力の性格規定」として、共産党中央の云う「対米従属論」はどこまで正しいのか、そこから導入される「アメ帝と日本独占資本の『二つの敵』論」は的確か、という議論であった。仲間内の大勢は当然である論であった。それを証する為にあれこれの論文を読めば分かる論であった。れんだいこは孤立した。それほど知識は無く、感覚的に胡散臭く感じていたに過ぎなかったから論駁し得なかった。最後には嘲笑的に「認識が深まっていない」論で片付けられた。

 この時、何かの拍子で対立セクトの連中とゲバルト越しに言い合う機会があった。れんだいこは連中のオルグの標的にされていたようでもあり、僅かな時間ではあったが懇々と議論しあった。道中で「六全協のあの総括は何だよぉ、きちんと説明しろ」と云われたことを未だに耳に残している。残念ながられんだいこは六全協とはそも何ものかについて知らなかった。そういう遣り取りしながら、日帝自立論について話が進んでいった。聞き覚えの読み覚えの対米従属論で反駁しながら云いあったが、最後に聞かされたセリフが「認識が深まっていない」論であつた。

 れんだいこは何が云いたいのか。ある事柄を廻って、対立する見解があるとする。その見解が仲間内で当然とされていた場合、その当然論を力強く説く者が理論家一等賞であるが、それはその仲間内だけのことでしかない。それが証拠に、相手方の世界では反対の意見を力強く説く者が理論家一等賞になっているではないか。互いの理論家一等賞同士を掛け合わせるとどうなるのか。残念ながらそのような機会に接しなかったので分からない。それにしても、敷かれたレールの上でしかしゃべれない、自説を疑うことのない輩とは訣別あるのみと了解したれんだいこの変わり身は今でも「自分で自分を褒めてやりたい」ところでもある。以来、れんだいこは自治会活動から手を引き、サークルに埋没した。そこでもいろいろあったが正解ではあった。

 今から約30年前のことである。「対米従属」規定の議論の決着はまだ着いていない。なぜかと言うと、「対米従属論」を説く共産党中央がトーンを落としつつもそれを非として未だ認めないからである。状況は明らかに「対米従属論」のヌエ理論性が明白になりつつあるように思われる。しかし、それをケジメ付けずに逃げ回ればいつまでたっても決着しない、その間責任を取らずに済むだけのことである。

 れんだいこは、我がサイトで「戦後共産党史」を書き綴りながら、この「従属・自立論争」が60年安保闘争を挟んでの前後に宮顕党中央派と春日(庄)ら党内反対派との論争の中心テーマであったことを確認している。宮顕の直参の流れを汲む現下党中央が対米従属論は間違いであったと自己批判するならば、あの時の春日派との論争の責任問題にまで及ぶことを知る。到底出来ない相談であることが分かる。ちなみに、この過程では今日では悪名高い野坂参三と袴田里見が特に活躍して春日派追い出しに一役も二役も買っていることも明らかだ。これをどう弁明できるのだろう、そういう問題が纏っている。

 話を戻す。議論する場合に、相手の言い分を聞かない善人面した者が法があれば法を、それがなければマナーを持ち出してくる場合にどう対処すべきだろうか。議論になり得るだろうか。意図的か聞き分け能力不足か単なるその場凌ぎの護民官然とした恰好マン物言い士なのかの見極めが必要になるが、どちらにしても議論にならない。顔中ご飯粒だらけにした者が、目クソを笑い鼻クソを笑い掲示板を駈けずり回る連中に漬ける薬は果たしてあるのだろうか。

 この世をば我が胸中では万事解決済みとして如意棒を振りかざす自警団の跋扈ぶりを暫く眺めようとは思う。この連中と馴れ合うことなぞれんだいこは死んでも嫌だ。形勢利あらずば仰せの通りとして従うことならいくらでもできる。「障らぬ神に祟りなし」として、我等が父祖はそうして生き延びてきた。目下は、次の段階の人士つまりこの違いが分からない者に漬ける薬を思案中だ。それならできるから。その作戦第一は、気難し系とお人好し系の境界ラインをくっきりさせることだろう。この境には杭はないけれども、少しの違いが大きな違いの分かれ道であることを分かるように示すことだろう。その上でだ鶴首会議を開き、気難し系を刺激しないように持てなし上手な者に守り役をお願いする、この間我々は我々の桃源郷で次なるテーマに没頭できる、これで行くに限るかもね。



2001年9月28日(金)「しんぶん赤旗」

米軍支援後押しのテロ問題国会決議

自公保と民主で採択

共産、自由、社民は反対


衆院議運委 児玉議員が意見表明

 衆院は二十七日の本会議で、米国でのテロ事件に関する決議を、自民、公明、保守の与党三党と民主党などの賛成多数で採択しました。同決議は、「国際テロと闘わんとしている米国政府を支持し」「我が国として可能な限りの協力を行う」として、軍事報復の準備をすすめる米国政府を支持し、政府の対米支援策を後押しする内容となっています。決議には、日本共産党、自由党、社民党は反対しました。決議に賛成した民主党からは、生方幸夫氏ら一部議員が採決に欠席しました。

 参院でも、同趣旨の決議を自民・保守、公明両会派と民主党などの賛成多数で採択。日本共産党と自由党が反対し、党として賛成した民主党からは大橋巨泉氏が反対にまわりました。決議案文に「日本国憲法の理念を踏まえ」との文言が挿入されたことなどから、自主投票とした社民党では七人のうち福島瑞穂氏ら三人が反対しました。

 決議の採択を受け、小泉純一郎首相は「決議の趣旨を体し、先に発表した七項目(支援策)の措置を講ずること等、努力する」と表明しました。

 本会議に先立つ衆院議院運営委員会で、日本共産党の児玉健次議員は、「許しがたい同時多発テロに対し、国会として全会派一致でテロ根絶の意思を表明することが必要だ」と主張しました。

 理事会での協議をふまえ、(1)今回のテロ事件への厳しい糾弾(2)犠牲者への哀悼と遺族、関係者へのお見舞い(3)テロ犯罪の容疑者、犯罪行為を組織、支援した者を逮捕し、法に照らして厳正に裁くこと――の三点を明記した日本共産党の決議案文(別掲)を読み上げ、「この内容で、全会一致とすべく努力すべきだ」と強調しました。

 与党案の問題点として、児玉氏は「日本政府が準備している対米支援策は、自衛隊の海外出動など、憲法、国会論議、これまでの政府見解を大きく踏みこえるもの」と指摘し、「(米国政府への)可能な限りの協力」との表現を盛り込んで小泉内閣の無限定な米国支援を後押しする決議案を批判しました。

 また、与党案で「危機管理体制の充実強化」という当初案の表現を、「政府は、我が国…の危機に際しての安全確保のため全力を傾注する」との表現に変更したことについて、「表現は変えられたが、自衛隊による米軍基地警備を可能にする自衛隊法の改定などを国会として容認、支持するものだ」と批判。

 その上で、「国会決議は全会一致でなければならない。三会派が反対しているなか、決議をすすめるのは、国会の民主的運営の点から認めがたい」と批判しました。

 自由党の石原健太郎氏は「武力行使を含む自衛隊の行動は、自衛権の発動か、国連の武力行使容認決議にもとづく場合に限られるとの趣旨が反映されていない」と主張。社民党の保坂展人氏は、「自衛隊の海外派遣などを裏打ちするような国会決議には同意できない」とのべました。

 決議に賛成した民主党の高木義明氏は「全会一致にならず残念だ。危機に際して、何をなすべきかを明らかにし、(米国に)可能な限り協力するという立場の決議に賛成する」とのべました。

 参院で、日本共産党は、衆院と同様の決議案文を提出。議院運営委員会で、日本共産党の畑野君枝議員は、日本共産党の決議案文の趣旨を説明し、与党案について「小泉内閣の対米軍事支援策を後押しするもの」と批判しました。


日本共産党の決議案全文

 二十七日の衆院議院運営委員会で、日本共産党の児玉健次議員が読み上げた「米国における同時多発テロ事件に関する決議案文」は、次の通りです。(日本共産党が参院に提出した決議案文も同文です)

 九月十一日に米国で起こった同時多発テロは、命の尊さを全く顧みない卑劣かつ残虐な行為であり、かかるテロリストの暴挙は、ひとり米国民のみならず、平和を希求し自由と民主主義を尊ぶ人類すべてに対する許し難い挑戦である。

 本院は、不幸にもテロの犠牲になられた多数の方々に対し、心からの哀悼の意を表するとともに、ご家族や関係者みなさまの深い悲しみと激しい怒りを分かち合うものである。

 いま重要なことは、国連憲章と国際法にもとづいて、今回のテロ犯罪の容疑者、犯罪行為を組織、支援した者を逮捕し、法に照らして厳正に裁くことである。そのため、政府は、国際社会と協力し可能なあらゆる努力をつくすべきである。

 右決議する。



 治癒し難き無知について。

 宴が終わったつもりでいたのに、ソクラテスの「無知の知」の反対を地で行くような物知りぶりっこがお山から子分を連れて出没してきた。漱石先生が「智に働けば角が立つ」と訓示してくれたのは明治の頃である。これらの戒めがあっても功を奏さず、千早ぶるもとい知能ぶる紳士が徘徊してきた。まっこれは昨今のトレンドだから仕方ないかも。面白くも賢くもれんだいこは現代サヨソフィストと命名している。まことに的確表現であることが次第に知れてくるから可笑しい。

 昔から、知識が足りないながらも健気に生きている層を称して無辜の民と冠してきた。しかし、この民たちが無知かと云うと案外そうではない。生きる上でのメソッドを相応しく修得しており、むしろ叡智を井戸端で交換し合ってしぶとく生きてきた。本当に必要な知恵を嗅ぎ分け、これを親子言い伝えで摂取する。身近な見本を頼りにああでもないこうでもない云いながら毎日を懸命に生きている。時に嫉視し時に称えながらでも概ねそういう流れで世代を経ている。なぜ分かるのか、れんだこも紛れも無くその一員であるからである。

 ここに我こそは物知りの知識紳士であるを売りにする厚顔無恥なタワケ者がいる。必要も無いのに文法を講義し、人様の文章を嘲う。仮にだ。云われるように知識を持っていたとしよう。それを得てなお啓発されていないかようなブザマを晒しているとはどういう訳だ。そういう者こそ真の意味での暗愚であろう。なぜなら、無辜の民は地に水が沁み込むように知識を得て、いくら暗愚者が著作権を盾にしようとも、アングラ情報を発達させてでも開明して行くだろう。その可能性があるのに比して、既に知識を得てもなお啓発されない人士がいたとしたら、言葉の真の意味で暗愚というべきだろう。そういう暗愚者に限って知をひけらかすから滑稽である。己の貧困が暴かれるのを怖れるが如く知の共有化に立ち塞がろうとする。下々は何も分かっていないとして撒き餌するかの調子で薀蓄をひけらかす。いろいろ詭弁を労するが、云えば云うほど化粧が剥げ支離滅裂になる。これを称して関西では「阿呆」と呼ぶ。「阿呆」に漬ける薬は無く、如何なる優秀な教師をもってしても治癒し難い。むしろ知をつければつけるほど悪化するから始末に悪く処置なしとも云える。

 この「阿呆」どもには、他人様に対して挑む一つの癖のような共通手法がある。己の二枚舌、三枚舌が晒されることを極端に恐れて、先制的に相手を攻撃する。その相手が同様の表現をしようものなら、その物言いは何だ、謝罪せよ、全てはそれからだと来る。己のその種の発言は免責されるご都合主義であるからして批判の刃は決して自分には向かわない。それが出来るようならソフィストにもなれないから。という訳で、自身に対しては無限の慈悲で包み、相手方に対してはノミが跳ねてもウマが飛んだかのようになじる。

 このような調法な物言いの行為と主体者に対して、庶民は昔から「目糞が鼻くそを笑う」曲者と例えてきた。「天に唾する者はやがて自分に帰ってくる」と並んで、これはご先祖が獲得してきた知恵の一つであるからして大事に伝えねばなるまい。もっとも、現代的バージョンはもう少し進化しているから余計に可笑しい。「目糞が鼻くそを笑う」どころか、本物のクソまみれの者が体中に塗りたくったまま、「目糞、鼻くそを笑って街中を歩いたらどうなるのか」という風にコミックに発展している。この場合は、インターネット空間と言い換えても良い。さて、どうなるのだろうか。御節介に指摘してあげるべきだろうか、せざるべきか。自分でお尻を拭ける相手ではない。たけちよさんは既に一降りたと云う。れんだいこも二降りる。ちょろ9さん、後の衆よろしく頼むよ。れんだいこは、逆恨みされることを怖れるばかりである。


2001年8月5日(日)「しんぶん赤旗」

『歴史教科書』(扶桑社)は中国にたいする侵略戦争をどう書いているか

不破 哲三


 すでに、『歴史教科書』(扶桑社)の内容的な検討を、二回にわたっておこなってきましたが、今回は、中国にたいする侵略戦争の歴史が、この『教科書』にどう描かれているかを、とりあげたいと思います。

一、日中関係悪化の原因を「過激な」排日運動にもとめる

『歴史教科書』の叙述はここから始まっている

 日本と中国の関係についての『教科書』の叙述は、「第5章 世界大戦の時代と日本」の「第1節 第一次世界大戦の時代」で、世界大戦のさなかに日本が中国に「二十一か条要求」をつきつけ、「満州・モンゴルの権益保持」などを要求したいきさつ(一九一五年、245ページ)を日本の立場の弁護もまじえながら紹介したのを最後に、しばらく途絶えます。

 その次に、日本と中国の関係が問題になるのは、それから十三年飛んだ一九二八年の状況です。「第2節 第二次世界大戦の時代」が、「大正から昭和へ」「共産主義とファシズムの台頭」と続き、「協調外交の挫折と軍部の台頭」の項の中ごろに、「中国の排日運動」との見出しの文章があり、排日運動による日本商品のボイコットや日本人の襲撃の話が、いきなり出てくるのです。

 「清朝(しんちょう)滅亡〔1912年――不破〕後の中国では、各地に私兵をかかえた軍閥(軍事力を背景にした政治的勢力)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)していた。中国国民党の指導者蒋介石(しょうかいせき)は、各地の軍閥と戦い国内統一を目指した。1928年、蒋介石は北京をおさえて新政府を樹立したので、その勢力は満州にもおよぶようになった。

 中国の国内統一が進行する中で、不平等条約によって中国に権益をもつ外国勢力を排撃する動きが高まった。それは中国のナショナリズムのあらわれであったが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受けていたので、過激な性格を帯びるようになった。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になった」(263ページ)。

 この文章を読んだら、まるで日本が、中国の過激なナショナリズムに突然襲われた被害者であるかのように、誤解してしまう子どもが多いのではないでしょうか。しかも、ナショナリズムのその「過激」さは、ソ連の共産主義思想の影響によるものだというのですから。しかし、この文章は、“よくぞ、ここまで”と舌を巻きたくなるほどの、歴史の事実のとほうもない書き換えなのです。

 まず、中国人民の抗議が、「外国勢力」一般ではなく、とくに日本に向けられて「排日」「抗日」の運動がおこったのはなぜか、という問題です。それは、ソ連であれどこであれ、外国の「思想」の影響によることではありません。

 日本がすすめてきた中国侵略の行動そのものが、「中国のナショナリズム」の抗議と怒りを、「外国勢力」一般にではなく、日本に集中させたのです。日本の中国侵略の拡大という肝心の歴史的事実をおおいかくしたままで、この時期の日本と中国の関係の歴史を語る――ここには、この『教科書』が歴史を扱うさいの最大の不公正さの一つがある、と言わなければなりません。

中国情勢のあらましの動き

 これから、歴史の事実を見てゆくことにしますが、その前に、中国の政治情勢の変転をあらまし説明しておくことにします。

 (一)第一次世界大戦に先立つ一九一一年十月、孫文が指導する辛亥(しんがい)革命がおこり、一九一二年二月、清朝がたおれて、共和制の中華民国が成立し、袁世凱(えんせいがい)が大総統となりました。しかし、袁は革命を裏切る立場をとり、その政権も日増しに軍閥政権の性格をあらわにしてきました。袁が一九一六年に死ぬと、中国は、さまざまな軍閥が対立して政権を争いあう軍閥抗争の舞台となってゆきました。

 (二)これにたいして、一九一七年、孫文らの革命派はふたたび決起し、一九二一年には広東に新政府を樹立し、北京の軍閥政権と南北で対抗する情勢が生まれました。この政権の中心をになったのは国民党ですが、孫文と国民党は、中国共産党が結成された(一九二一年)あと、一九二四年、共産党と連合する「国共合作」の方針に踏み出し、反帝・反軍閥の方針をいよいよ明確にしました。孫文は一九二五年三月、病気で死亡しましたが、翌一九二六年の七月、国民党政府は、軍閥支配を打ち破って中国を統一するための「北伐(ほくばつ)戦争」を開始しました。

 (三)孫文亡きあと、政権と党の内部で、共産党との合作を続けようとする左派と、右派との対立が激しくなりました。右派の中心にいたのが、蒋介石でした。

 国民党政府の「北伐」は急速な成功をおさめ、一九二六年十二月には、揚子江南部の主要な地域が支配下におかれ、首都も広東から揚子江岸の漢口に移して、武漢政府が成立しました。ところが、北伐軍が上海と南京を占領すると、蒋介石は、一九二七年四月、軍事クーデターをおこして、激しい共産党弾圧にのりだし、その弾圧を後方の広州地方にも広げて、南京に反共国民政府をうちたて、ひきつづき「国共合作」の立場に立っていた武漢政府に対決をいどみました。この対決は、蒋介石の反共国民政権の勝利に終わり、武漢政府は九月、蒋介石政権の軍門にくだりました。

 (四)蒋介石は、クーデターのあとも、北伐の継続を宣言し、揚子江を渡って、さらに華北(中国の北部)への前進をめざし、一九二八年六月には北京に入城して、「北伐」を完成、中国の統一政権という体制をととのえました。

 一方、中国共産党は、農村での武装闘争に移り、一九三一年には華南(中国の南部)の江西省を中心に「中華ソビエト共和国」をうちたてますが、国民党軍によるはげしい包囲攻撃をうけて、一九三四〜三五年、約一万キロの行軍をおこなって西北地区に移動し、一九三五年、延安(陝西省)を中心に、解放運動の根拠地をうちたてました。

 国民党政権とのあいだでは、その後も国内戦争がつづきましたが、一九三六年十二月の西安事件(その地方の軍の責任者だった張学良〔ちょうがくりょう〕が、蒋介石を監禁して抗日のための国共合作をせまった事件)を転機に、二つの党のあいだの共同闘争の気運が強まり、時代は、日本帝国主義とたたかう第二次「国共合作」の時代へと転換することになります。

 一九二〇年代の後半、中国への進出をねらう日本の目の前には、以上のような政治的動乱が展開していたのです。

日本は一九二七〜二八年にこれだけの侵略行動をやってのけた

 では、この時期に、日本は、中国との関係でどのような行動をとってきたのか。

 その中心点をあげると、次のとおりです。

 (一)関東軍が侵略拡大の中心部隊となる。中国侵略の最初の中心部隊となったのは、関東軍でした。

 日本は、日露戦争のあと、ロシアから遼東半島南部の租借地を取り上げ、これを「関東州」と呼んで日本の支配下においていました。そして、一九一九年、ここに天皇に直結した軍隊として「関東軍」をおき、関東州の防衛と、やはりロシアから譲り受けた南満州鉄道の保護にあたることにしたのです。

 この関東軍は、発足当時の公式の任務を越えて、満州(中国の東北部)から華北(北京、天津をふくむ中国の北部)、モンゴル(内蒙古)にまで政治・軍事工作の手をのばし、中国にたいするその後の侵略拡大の中心部隊となってゆきました。

 (二)「北伐」を口実に山東出兵。蒋介石の国民政府軍が、軍事クーデターのあと、「北伐」再開を宣言して、揚子江をこえて華北への進撃を開始したとき、日本は、在留する日本人の安全のための「自衛」措置だと称して、ただちに山東省の青島(ちんたお)に関東軍の一部を派遣しました(山東出兵・二七年五月)。これは、中国に租借地や権益をもつ「外国勢力」のなかでも、突出した行動でした。山東出兵は、一回にとどまらず、翌二八年四月、五月と三回にわたってくりかえされ、とくに第三次の出兵では、総攻撃で山東省の首都済南市をほとんど壊滅させました。この乱暴な軍事行動は、中国の人民のあいだに「排日」の気運を一気にひろげ、日本軍の暴虐ぶりは世界でも有名なものとなりました。

 (三)「満蒙」生命線論を国策に。満州とモンゴル(内蒙古)は、日本が早くから侵略の第一の対象地域としてねらっていたところでした。

 第一次山東出兵のさなかの一九二七年六月〜七月に、田中義一首相(陸軍大将)の主宰で「東方会議」が開かれ、「対支〔中国〕政策綱領」が指示されましたが、ここでは、“「満蒙」地方は日本の国防上も国民的生存の上でも重大な利害関係のある地方だから、この地方における日本の「既得権益」「特殊権益」を確保するためには、必要な場合、軍事行動も辞さない覚悟をする必要がある”と、強調されました。日本政府は、中国の領土である「満蒙」(満州とモンゴル)を日本の支配下におくことを、公然と日本の国策とするにいたったのです。

 (四)満州支配をねらって張作霖(ちょうさくりん)爆殺。当時、満州では、軍閥の一人である張作霖が力をもっていました。日本は、最初は、この張作霖を味方として満州に支配の手をひろげるつもりで、いろいろ工作しました。張作霖がそう簡単には日本の言いなりにならないことがわかると、関東軍は方針を変えて、秘密工作で張作霖を消すことにし、一九二八年六月、張が乗っていた列車が通る線路に爆弾をしかけ、爆殺してしまいました(この真相が明らかになったのは、戦後のことです)。しかし、父のあとを継いだ張学良が、国民党政権の一翼をになう立場をとったので、爆殺によって満州の実権をにぎるという関東軍の思惑は成功しませんでした(『歴史教科書』は、この爆殺事件だけは、満州事変の前史としてとりあげています〔266ページ〕)。

 主だった事実をあげただけでも、日本は、中国の領土である満州、モンゴル、華北を侵略しようとして、一九二七〜二八年にこれだけのことをやったのです。

 中国人民の抗議と怒りが日本のこの帝国主義的行動に集中したのは、あまりにも当然のことでした。日本の侵略行動は、その他の「外国勢力」が「不平等条約」によって租借地などの「権益」をもっていたこととは、まったく比較にならない、中国の主権と独立にたいする野蛮で乱暴な攻撃だったのです。

 その事実をすべておしかくして、あたかも日中関係悪化の主要な原因が、中国側の「過激な」排日運動にあったかのように歴史を描くとは、何ということでしょうか。これは、歴史の事実の尊重という歴史家の良心を少しでも持っているものなら、絶対にやりえないことです。

二、満州事変――天皇制政府の責任を免罪する

「国家の秩序を破壊する行動」だと説明

 日本の中国侵略が公然と侵略戦争の形で展開したのが、一九三一年に始まった満州事変でした。『歴史教科書』は、張作霖爆殺などの前史を述べたあと、満州事変そのものについては、次のように説明しています。

 「1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側のしわざだとして、ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍がみずから爆破したものだった(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。

 満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、全満州を占領した。これは国家の秩序を破壊する行動だった」(266〜267ページ)。

 満州事変はたしかに直接的には「関東軍がおこした戦争」でした。『教科書』はこのことを指摘したうえで、関東軍のこの行動を「国家の秩序を破壊する行動」だと糾弾しています。執筆者たちは、これまで、日本軍の侵略行動についてはほとんど批判の言葉を向けてきませんでした。その習慣を破って、きびしい告発の言葉がここで飛び出しているのを見ると、こちらが驚かされます。

 そこには、満州事変が、まさに謀略で世界をあざむきながら全満州を占領したという戦争であって、さすがの執筆者たちでも、まったく弁護の余地はなく、経過の客観的な叙述だけではすませられなくなったという事情がもちろんあるでしょう。しかし、同時に重視する必要があるのは、もっぱら関東軍を糾弾することによって天皇制政府を免罪するという意図が、ここには強くはたらいている、ということです。

日本政府――謀略を承知のうえで戦争を正当化した

 柳条湖事件と呼ばれる線路爆破事件が、関東軍のしわざであることは、軍の中央部はもちろん、政府のあいだでも、秘密のことではありませんでした。

 外務省が編集した『日本外交年表竝主要文書 一八四〇〜一九四五』(一九六五年刊)には、爆破事件がおきた翌日(九月十九日)、奉天にいた林総領事が幣原(しではら)外相に打電した三通の極秘電報がおさめられていますが、そのなかで、林総領事は、“支那〔中国〕側に破壊されたと伝えられる鉄道箇所の修理のために満鉄から保線工夫を派遣したが、軍は現場に近寄らせてくれないと、満鉄の理事が言っている。今回の事件はまったく軍部の計画的行動に出たものだと想像される”

 と、関東軍の謀略の核心を正確に指摘した報告をおこなっています。

 また、朝日新聞社発行の『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻・資料編』(一九六三年刊)には、当時の「参謀本部第二課機密作戦日誌」が収録されています。それには、九月十九日午前に開かれた政府の閣議の様子も記録されていますが、そこに記された閣議の模様はこんな調子です。

 “南陸相がまず情報の説明をしたのに続いて、幣原外相が、外務省が得た各種の情報を朗読した。その情報は陸軍にきわめて不利なものが多かった。たとえば、撫順(ぶじゅん)の独立守備隊があらかじめ満鉄に列車の準備を請求していたのに、前の日になって十七日には出動しない、十八日に準備を変更せよ〔十八日は事件の当日〕との要請があったとか、関東軍司令部も、十八日の夜半に出動する準備をととのえた、などがあった。

 外相の言葉は、それとなく今回の事件はあたかも軍部が何らか計画的にひき起こしたものと推測しているようだった。それを聞いた閣議の空気をみて、南陸相は意気がややくじけ、朝鮮軍〔朝鮮に配置されていた天皇直属の部隊――不破〕の増援が必要だという提案をおこなう勇気を失ってしまった”(同書114〜115ページ)。

 政府は、この事件が「中国側のしわざ」などではなく、関東軍の陰謀であることを、事件の翌日にはすっかり承知していたのです。

 ところが、日本政府は、事件の六日後の九月二十四日、「九月十八日夜半奉天付近において中国軍隊の一部は南満州鉄道の線路を破壊しわが守備隊を襲撃しこれと衝突するに至れり」(注)と、事実をいつわって中国を非難する政府声明を出しました。戦争の「不拡大」方針というのは、この声明でうたわれたものですが、政府自身が謀略による開戦を正当なものとして追認してしまったのですから、この時点で、政府は、この侵略戦争にたいして、関東軍と基本的には同じ立場に立ち、同じ罪をになったことになります。

 (注)以後、政府の公式文書について、文章を読みやすくするために、原文どおりではなく、句読点を入れ、必要な部分はカナ書きにして引用することにします。

天皇――最大限の言葉で関東軍をたたえた勅語を

 しかも、軍隊にたいする統帥権をもっていた天皇は、関東軍の行動についても、続いて勝手におこなわれた「朝鮮軍」の満州出動についても、「此度(このたび)は致方(いたしかた)なき」といってこれを容認し、さらに翌年一月には、関東軍の将兵を最大限の言葉でたたえる勅語まで発表しました。

 「   満州事変ニ際シ関東軍ニ賜ハリタル勅語

 曩(さき)ニ満州ニ於(おい)テ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断(かだん)神速(しんそく)寡(か)克(よ)ク衆ヲ制シ速(すみやか)ニ之(これ)ヲ芟討(さんとう)セリ爾来(じらい)艱苦(かんく)ヲ凌(しの)キ祁寒(きかん)ニ堪(た)ヘ各地ニ蜂起セル匪賊(ひぞく)ヲ掃蕩(そうとう)シ克(よ)ク警備ノ任ヲ完(まっと)ウシ或ハ嫩江(のんこう)・斉々哈爾(ちちはる)地方ニ或ハ遼西・錦州地方ニ氷雪ヲ衝(つ)キ勇戦力闘以テ其禍根ヲ抜キテ皇軍(こうぐん)ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕(ちん)深ク其忠烈ヲ嘉(よみ)ス汝将兵益々堅忍自重(けんにんじちょう)以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ朕カ信倚(しんい)ニ對(こた)ヘンコトヲ期セヨ」

 関東軍の勝手な行動が、こうして、政府と軍中央部からも、最高の権力者である天皇からも簡単に追認されていったのは、関東軍の戦争行動そのものが、天皇制政府の国策にそったものだったからでした。

 『歴史教科書』が、「国家の秩序を破壊する行動」だといって、関東軍への告発につとめ、政府・軍部・天皇の責任をあいまいにしようとしても、その議論はなりたちようがありません。

 満州事変が関東軍の「国家の秩序を破壊する行動」によっておきたものだったら、それを是正する機会は、その後いくらもあったはずです。ところが、一九三二年三月、関東軍が政府をさしおいてカイライ国家「満州国」の建国に独走したときにも、日本政府はこれを追認し、九月には「日満議定書」を結んで「満州国」を承認しました。

 満州事変にあたって、国際連盟(第一次世界大戦後につくられた国際機構)はリットン調査団を満州に派遣し、その調査報告(リットン報告書)をもとに、この国際紛争の解決にあたろうとしました。リットン報告書そのものが、満州での「日本の権益」の尊重をうたうなど、かなり妥協的なものでしたが、これをうけての国際連盟の会議のなかでは、より妥協的な解決策を探る動きもすすみました。

 しかし、一九三三年二月、日本政府はこの問題についてのいかなる妥協にも応じないという立場でこれを拒否し、三月、国際連盟から脱退しました。日本は、国際連盟からの最初の脱退国という不名誉な地位を歴史の上でしめるにいたったのでした。

 なお、この経緯についての『歴史教科書』の叙述は、日本の「満州国」承認を日本政府がリットン報告書を拒否したあとのこととするなど、事実に反するものとなっています。

 「リットン調査団の報告書は、……日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。日本政府はこれを拒否して満州国を承認し、1933(昭和8)年、国際連盟脱退を通告した」(268ページ)。

 ここには、年代的な記述の大きな間違いがあります。

 日本政府は、リットン報告書を「拒否して満州国を承認し」たのではありません。日本が「日満議定書」を結んで「満州国」を承認したのは、一九三二年九月十五日で、リットン報告書が日本に送付されたのは、その十五日後の九月三十日、それにもとづく討議が国際連盟で始まったのは十二月二日でした。日本が提出された解決案(委員会の決議案)を採決で拒否したのは、翌三三年二月二十四日でした。

 日本の中国侵略をめぐる国際関係を叙述するにあたって、このような誤りをするということは、歴史教科書にとっては、きわめて重大なことだと思います。もしもこれが、たんなる記述ミスではなく、日本政府による「満州国」承認を、国際連盟の強硬策への対抗措置として描こうという思いからのことだったとしたら、そういう書物は歴史書の名には値しません。

「満州国」の現実をどう書いているか

 カイライ国家として樹立された「満州国」の状態について、『教科書』は例の“悪い面もあったがよい面もあった”式の叙述を、“よい面”をもっと露骨に前面に押し出す形でおこなっています。

 「満州国は、五族協和(ごぞくきょうわ)、王道楽土(おうどうらくど)建設をスローガンに、日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ、中国人などの著しい人口の流入があった。しかし実際には、満州国の実権は、関東軍がにぎっており、抗日運動もおこった」(268ページ)。

 この『教科書』によれば、“悪い面”は、関東軍が実権をにぎるという政治面にかぎられ、経済面は、重工業化など経済成長を特徴とした“よい面”で、中国人の大量の流入があったほど、「五族協和」「王道楽土」のスローガンがいかにも現実的な響きをもっていたかのように聞こえます。

 これも、まったく現実ばなれした記述だと言わなければなりません。

 中国政府がさる五月、日本政府に手交した『歴史教科書』についての「覚書」は、これに反論し、数字もあげながら、満州国の経済的な実態に関して、次の四つの点を指摘しています。

 ――関東軍自身が、一九三二年七月に制定した「満州経済編成の基本方針案」のなかで、“満州の重要事業は国策上重要な意義を有しており、日本国が経営することを理想とする”とはっきり述べている。この方針のもとで、「満鉄」、「満業」(満州重工業開発株式会社、一九三七年創設)など日本資本の企業が、中国東北地方の経済命脈を完全に支配し、日本が中国にたいして勢力を拡大し侵略戦争をすすめることに、直接貢献した。この地方の経済成長なるものは、実際には、中国にたいする侵略戦争のための経済成長であった。

 ――日本は、中国東北地方からほしいままに略奪をはたらいた。不完全な統計によれば、一九三一年から四四年の間に、東北地方から二億二千八百万トンの石炭(全生産量の30%)、千二百万トンの銑鉄(同じく40%)および大量の良質な木材が日本に運ばれた。さらに大量の戦略物資が、日本軍によって、中国内地にたいする侵略と太平洋戦争のために直接用いられた。

 ――日本はニセ「満州国」の政権と結託して東北地方に大量の移民をおこなった。不完全な統計によれば、一九三二年から三六年七月までの間に、日本は五度にわたって東北地方への移民をすすめ、日本人七十一万七千人、朝鮮人八十七万七千人が移り住んだ。それ以後も、さらに三十万人以上が移民した。日本軍は、こうした移民のために土地を強制的に占領し、当時の東北地方の耕作地全体の十分の一以上を占領することで、多くの中国の農民を困難な状況に陥れた。

 ――いわゆる中国人が東北地方に顕著に流入したのは、日本軍が、華北地方から千二百万人の中国人を強引に徴用し、強制や欺まんなどの手段で東北地方に連れてきて、ここの労働力に充当した結果である。

 「満州国」で中国人民がどんな被害を受けたのかについての、具体的事実をふまえての中国政府の指摘は、重く受け止めるべきだと思います。

 いま、日本でも「満州国」の実態について、少なからぬ研究・調査がおこなわれて、それにもとづく一連の著作が発表されていますが、その多くが、中国政府の指摘を裏付けていることを、指摘しておきましょう。カイライ国家「満州国」の現実には、“悪い面もあったがよい面もあった”式のごまかしの議論を許す余地はまったくないのです。

三、日中戦争――開戦の責任は“双方にあり”とする議論

開戦の最初から誰が侵略者かをごまかす

 いよいよ、一九三七年に始まる日中全面戦争の歴史にすすみましょう。

 『歴史教科書』は、日中開戦のいきさつを、次のように書いています。

 「1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した」(270ページ)。

 この説明で特徴的なことは、「日本側大規模な派兵を命じ、国民党政府ただちに動員令を発した」(「も」の太字は不破)ことで、日中戦争が始まったと、開戦責任は双方にありとする“どっちもどっち”式の描き方をしていることです。これは、どちらが侵略者かという、ことの本質をおおいかくし、日中戦争が中国にたいする日本の侵略戦争であったという事実をごまかすための、たいへん卑劣な論法です。

 だいたい、戦争の発端となった盧溝橋事件というのは、日本と中国の国境地帯でおこった事件でもなければ、すでに日本が占領して支配下においていた「満州国」あるいは租借地の内部でおきた事件でもありません。北京の近郊、いわば中国の中心部でおきた事件です。そういう地域に出ばって演習をやっていた日本軍が、その国の軍隊との間に部分的なトラブルがあったからといって、それを全面戦争の口実にするというのは、強盗的な侵略者の言い分でしかありません。

 では、いったい、北京の近郊という中国の中心部に、なぜ日本の軍隊がいたのか。『教科書』は、「日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団(ぎわだん)事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった」(270ページ)と説明していますが、これもあまりにも日本軍びいきの弁明です。たしかに一九〇〇年の義和団事件(北清事変)のとき、この事変に関する「最終議定書」(一九〇一年)によって、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなどとともに、日本が北京周辺への駐兵権を手にいれたのは事実ですが、この駐兵権というのは、北京と海岸にある港とのあいだの「自由交通を維持」するために特定の地点に駐兵するという、きわめて限定されたものでした。この権利をたてに北京周辺での兵力の増強を勝手にはかり、それを中国中心部に侵略を拡大する足場にすることを企てた国は、この「議定書」の関係国のなかには、日本以外にただの一国も存在しませんでした。

停戦協定を無視してむりやり全面戦争に

 しかも、“何者かの発砲”という偶発事件を、中国全面侵略に足をふみだす絶好のチャンスとしてとらえ、この事件を無理無体に日中全面戦争の口実に仕立てあげたのは、日本政府でした。

 満州事変の場合とちがって、今度は、現地の日本軍は、偶発的なトラブルとして事件を解決する方針で、中国側との交渉にあたり、この交渉は、事件の二日後には妥結点に達して、七月十一日午後六時、日本側の北京特務機関長と中国側の現地師団長とのあいだで「停戦協定」が調印されました。「事件」は、これで解決するはずでした。

 ところが、この日夕刻、日本政府は、現地のこの状況をまったく無視して、「華北派兵に関する声明」を発表しました。この声明は、七月七日の「事件」はもちろん、その後の現地での交渉の経過もすべてねじまげた上で、「以上の事実にかんがみ、今次事件は、まったく支那〔中国〕側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」と決めつけ、「よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し、政府としてとるべき所要の措置をなすことに決せり」と内外に発表したのです。

 これは、事件を意図的に中国全面侵略への転機にしようという日本の政府・軍部の侵略的野望を、むきだしに現したものでした。そして、七月下旬には、朝鮮軍・関東軍の部隊も続々華北に侵攻して、北京・天津地方を占領、八月には、日本から三個師団が海を渡って華北に上陸、中旬には上海方面にも戦線を拡大するなど、全面戦争への道を突きすすみました。

 これにたいして、国民党政府の側には、抗戦に踏み切るかどうか、最初の段階では動揺がありましたが、盧溝橋事件に先立って、国民党・共産党間の合作の動きがすすんでいたことも大きな力となって、八月半ばには、国民党政権も対日抗戦を決意し、全国総動員令が発せられます。

 いったいこの経過のどこを押したら、『教科書』の執筆者たちが描きだす“どっちもどっち”論などが出てくるのでしょうか。

四、「南京事件」をめぐって

「南京事件」とはどんな事件だったのか

 盧溝橋事件に続く部分で、『教科書』は、「南京事件」をとりあげています。

 「日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)」(270ページ)。

 この文章は、南京事件の叙述として、たいへん不正確なものです。「民衆にも多数の死傷者が出た」というのは、日本軍が行動したほとんどあらゆる戦場でおこったことで、これだけでは、「南京事件」がなぜ世界的な非難の的になったのかが理解できません。

 では、「南京事件」とは何だったのか。いまは、「大東亜戦争」を肯定する立場からの「南京事件」の弁護論がさかんですが、そういうことがおきる以前、一九七〇年代の初頭に出た日本史の書物から、事件の概略を紹介することにします。とりあげたのは、中央公論社が発行した『日本の歴史』の第二十五巻、林茂氏による『太平洋戦争』(一九七一年)のなかの一節「南京占領と虐殺事件」です。

 林氏は、まず事件の前史について語ります。

 「上海の防禦(ぼうぎょ)陣地を破られたあとは、南京までのあいだには中国の防禦線はなく、日本軍は日に六、七里というスピードで進撃をつづけた。この間、『軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして、上海付近より南京に至る約百里の間、殆(ほと)んど糧秣(りょうまつ)の補給を受くることなく、殆んど現地物資のみに依り、追撃を敢行せり』(『第九師団作戦の概要』)という状態であり、徴発を名とした掠奪が行なわれた。同時に、『敗残兵狩り』という名目で、一般民衆にたいする虐殺・暴行がくりひろげられ、それはやがて、世界を驚かせた南京虐殺事件の前史をなしている」(同書62〜63ページ)。

 短い文章ですが、この作戦にくわわった第九師団自身の作戦記録で証拠づけをしながら記述をすすめているところは、さすが歴史家の筆だと思わせます。

 南京事件の本史は、この前史に続くその後、とくに南京の占領作戦が終わったのちに、展開されました。林氏の続きの文章を読みましょう。

 「南京城にたいする攻撃は、十二月十日から開始され、十三日には日本軍の手中におちた。国民政府は漢口に逃げのびていた。そしてその日から、日本兵は捕虜の虐殺をはじめた。当時、旅団長として攻撃を指揮した佐々木到一〔陸軍中将――不破〕は、つぎのように書いている。

 『〔十三日〕午後二時ごろ概して掃蕩(そうとう)をおわって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。

 その後俘虜(ふりょ)〔捕虜のこと――不破〕ぞくぞく投降し来り、数千に達す、激昂(げっこう)せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮(さつりく)する。多数戦友の流血と十日間の辛惨(しんさん)をかえりみれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」といいたくなる。

 白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持合せなんか我軍には無いはずだった。(略)

 〔十四日〕城内にのこった住民はおそらく十万内外であろう。ほとんど細民ばかりである。しかしてその中に多数の敗残兵が混入していることは、当然であると思われる。(略)

 敗残兵といえども、尚(なお)部落山間に潜伏して狙撃(そげき)をつづけるものがいた。したがって抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に殺戮した。終日、各所に銃声がきこえた。太平門外の外濠(そとぼり)が死骸でうずめられてゆく』(『南京攻略記』『昭和戦争文学全集』別巻所収)」(同前63〜64ページ)。

 ここで紹介されている佐々木到一氏の『南京攻略記』は、「南京事件」から一年四カ月後の一九三九年四月、彼が「戦場記録――中支作戦編」と題してタイプ印刷を完了していた草稿を収録したものだとのことです(『昭和戦争文学全集』別巻『知られざる記録』〔一九六五年、集英社刊〕巻末の橋川文三氏の「解説」による)。戦争の指揮者が書いた記録だけに、この記述には、真実がもつ生々しさがあります。

 ただ、ここでは、捕虜の虐殺は激昂した兵士の自然発生的な行為だとされ、また一般住民の殺戮も「抵抗するもの、従順の態度を失するもの」への対応として説明されていますが、その後の研究では、捕虜や一般住民の殺害を命じた上級からの指示・命令が多く紹介されています。

 大虐殺事件は、兵隊が一時的な激昂にかられておこなった偶発的な事件ではなく、日本軍による捕虜と一般住民の組織的な殺戮だったのです(これまでの研究をまとめた最近の本には、藤原彰『南京の日本軍 南京大虐殺とその背景』一九九七年、大月書店刊)などがあります)。

 林氏の記述は、事件の国際的な反響をもふくめて、次のように続きます。

 「その後も、みさかいもなく一般民衆にたいする虐殺がつづくのであり、十五日の夜だけで二万人が殺されたといわれる。ドイツ人を責任者として南京につくられた国際救済委員会は、四万二千名が虐殺されたと推計し、そのほか、南京進撃の途上で三〇万人の中国民衆が殺されたと見積もられている。このニュースは世界に大々的に報道されたが、日本人は、戦後の東京裁判で追及されるまで、この事件を知らないでいた」(64ページ)。

「南京事件」は「論争」問題などではない

 「南京事件」が、日本軍の戦争犯罪として特別の注目を集めたのは、戦闘の結果として「民衆にも多数の死傷者が出た」という次元の問題ではなく、戦闘中も、さらにとくに戦闘終了後も、捕虜と一般民衆にたいする殺戮行為が大規模におこなわれた点にありました。その肝心の事実をぬきにした叙述は、とてもこの事実を正当にとりあげたものとはいえません。

 ところが、『歴史教科書』は、後段の東京裁判のところに、「南京事件」に関する追加的な説明を次のようにつけくわえ、いったん自分が認めた「民衆にも多数の死傷者が出た」ということさえ、真偽不明の「論争」問題にしてしまいました。

 「この東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」(295ページ)。

 これは、実にひきょうなやり方です。ごく一部の論者が、いろいろな思惑から、「南京事件」を否定しようと、いろいろな「論争」をおこしているのは事実ですが、その大部分は、誰(だれ)が何をやったなどの個別の事実についてその真偽を問うとか、殺された人の数が多く見積もられているとかいう種類の「否定」論です。こうした点では、史実をこまかく追究する「論争」はありうるでしょう。

 しかし、この問題で日本が問われているのは、捕虜と住民の大量虐殺があったかどうかの問題です。このことは、関係者の無数の証言が実証していることで、この基本点に関しては、歴史の事実を尊重する立場にたつかぎり、「南京事件」には論争の余地はありません。

 もし執筆者たちが、この基本点に疑問をいだき、大量虐殺などなかったと考えているのなら、堂々とそのことを事実をあげて示すべきでしょう。それをしないで、ただ「南京事件」は「論争」問題だと述べ、「日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害した」という東京裁判の「認定」そのものに「疑問」があると書き、「南京事件」など存在しなかったという見方に道をひらこうというのは、たいへん意図的な叙述だと言わなければならないでしょう。

 「南京事件」のほかにも、『歴史教科書』の執筆者たちには、日本がおこなった残虐行為については、できるだけ口をつぐむという習性があるようです。

 すでに前の論文でふれたように、『歴史教科書』は、国際的な大問題となった「従軍慰安婦」の問題についても、一言もふれず、日本が東南アジア各地でくりひろげた住民殺戮の行為も、「大東亜」解放の戦争という図式にあわないためか、完全に視野の外においています。この点でも、『歴史教科書』が、日本の将来をになう子どもたちを、国際社会、とくにアジアの一員として育てる教科書として、その資格をもたないことは、明らかだと思います。

五、「泥沼戦争」――中国側にその責任を問う暴論

当時の戦争指導者の嘆きが顔を出している

 『歴史教科書』の“どっちもどっち”論は、「目的不明の泥沼戦争」という次の項では、さらにひどいものとなります。

 「中国大陸での戦争は泥沼化し、いつ果てるとも知れなかった。国民党と手を結んだ中国共産党は、政権をうばう戦略として、日本との戦争の長期化を方針にしていた。日本も戦争目的を見失い、和平よりも戦争継続の方針が優位を占めて、際限のない戦争に入っていった」(271ページ)。

 「目的不明の泥沼戦争」というこの評価には、正直にいってあきれました。「泥沼化」の言葉は、勝利への見通しをもてないまま、中国侵略に固執しつづける日本の戦争方針への批評としてならなりたつかもしれませんが、双方が「戦争目的」を見失ったために際限のない泥沼戦争に入った、などとは、とんでもない歴史認識です。いや、ここにあるのは、歴史認識などといえるものではなく、日本の戦争指導者たちの当時の嘆きの声そのものの再現にすぎません。

 一撃すれば相手は屈服するだろうとの甘い見通しで全面戦争をはじめたものの、予想に反した中国側の強固な抗戦の意思に直面して、戦争の「長期化」が避けられなくなったことを、「泥沼化」と呼んでなげく、“共産党さえいなかったら、蒋介石はあんなに頑強に抵抗しなかったはずなのに”とこぼす――これが、当時の日本の戦争指導者たちの共通の心理状態でした。それをそのまま、日中戦争の評価としてもちだすところに、『歴史教科書』の執筆者たちが、いったい誰の立場で歴史を書いているかが、なによりも雄弁に現れているのではないでしょうか。

戦争の目的はどちらの側でも明白だった

 『歴史教科書』は「目的不明の泥沼戦争」といいますが、日本の側でも、中国の側でも、戦争の目的ははっきりしていました。

 日本の戦争目的は、中国の東北地方(満州)、華北、モンゴルなどにたいする日本の支配権を中国に認めさせ、さらに中国全体を日本の軍事的・政治的・経済的な影響下におくことです。

 一九三七年に対中全面戦争に踏み切って以後、日本は、天皇出席のもとでの御前会議の決定をふくむ公式の政府決定で、戦争目的をくりかえし確認していますが、そこには、表現はいろいろあったものの、次の諸項目が必ずふくまれていました。

 (イ)中国が「満州国」を承認すること。

 (ロ)華北、モンゴルを中国本土から切り離した特別の地域とし、日本軍の駐屯を認めること。

 (ハ)中国のその他の地方(上海など)にも、日本軍を駐屯させること。

 (ニ)日本・満州・中国の経済的一体化をすすめること。

 つまり、大規模な領土拡張と全中国の従属国化が、日本の戦争目的でした。日本が、この戦争目的を放棄し、侵略軍を中国から撤退させれば、戦争は「泥沼化」することなく、ただちに終結にむかったでしょう。日本があくまでこの戦争目的に固執したことが、自分を見通しのない「泥沼戦争」に追い込むことになり、さらには、東南アジア侵略・対米英戦争といういっそう無謀な戦争拡大への道にまで、日本をひきこんでいったのです。

 中国側の戦争目的は、日本の侵略を打ち破り、日本帝国主義を東北地方(満州)をふくむ中国全土から追い払って、中国の主権と独立を全面的に確立することでした。

 中国側が、「戦争の長期化」をも覚悟して、この戦争目的を実現するまで徹底抗戦するという態度を堅持したのは、二十世紀を彩る英雄的な叙事詩の一つをなすものでした。蒋介石の国民党政権も、一部の動揺はあっても、全体としてこの立場を崩しませんでした。中国共産党の確固とした立場と闘争が、国民党政権のこの態度をささえる大きな力となったことは事実ですが、それは、中国共産党の誇りとなる歴史です。それを、「政権をうばう戦略」に出たものだとか、「戦争の長期化」を方針としたとか言い立て、中国侵略に固執した日本の態度と同列において、“どっちもどっち”論を展開するなどは、言語道断の暴論というべきでしょう。

六、日本の戦争指導者たちの立場に立った「日米交渉」論

 中国侵略の事実を認めず、ことあれば“どっちもどっち”論をもちだす『歴史教科書』の歴史認識は、一九四一年に開始された東南アジア侵略および対米英戦争を正当化する「大東亜戦争」肯定論に、そのままつながってゆきます。

 この問題は、最初の論文「“日本は正しい戦争をやった” 子どもたちにこう思いこませる教育が許されるか――ここに『歴史教科書』問題の核心がある」でとりあげたものですが、あの論文では、この『教科書』が戦争を正当化している事実を系統的に紹介することが主で、執筆者たちが、どういう論理で正当化論を展開しているのかの内容については、十分立ち入った解明をおこないませんでした。

 ここでは、『歴史教科書』の日中戦争論が、「大東亜戦争」肯定論につながってゆく筋道に重点をおいて、一九四一年の「日米交渉」論をもう一度とりあげたいと思います。

アジア・太平洋の全域制覇という日本の野望が先行していた

 『歴史教科書』が、「大東亜戦争」を日本の「自存自衛」のための戦争――やむにやまれぬ“自衛戦争”として描きだす最初の文章は、「ABCD包囲網」を論じたつぎの一節です。そこでは、「経済封鎖で追いつめられる日本」という見出しのもとに、日本が、各国の連合戦線に包囲され、追いつめられる被害国として、描きだされています。

 「日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして、アメリカ(AmericaのA)・イギリス(BritainのB)・中国(ChinaのC)・オランダ(DutchのD)の諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網(ほういもう)が形成された」(274ページ)。

 この前も書きましたが、これは「当時の政府・軍部の説明をそのまま蒸し返し」たものです。オランダとの石油輸入交渉が事実上の決裂となったのは一九四一年六月でした。私は小学校の六年生でしたが、そのころから、「ABCD包囲網」(あるいは「包囲陣」)というこの言葉が、新聞でもラジオでも学校でも、対米英戦争を覚悟する「合言葉」としてくりかえされたことを、今でもよくおぼえています。「ABCD包囲網」の地図は少年雑誌の付録にまでつけられ、“日本が危険な敵に包囲されている、いまこれを打ち破らないと危ない”ということは、小学生の私たちでも当たり前の常識になるところまで、頭にたたきこまれたものでした。当時の戦争指導者たちが考えだしたこの宣伝文句を、六十年後の『歴史教科書』が、そのままの口調でよみがえらせたのです。

 この「ABCD包囲網」論は、侵略者とそれに反対する者との関係を、まったく逆さまに描きだした、日本側の戦争宣伝用の議論でした。

 もともと、対中国戦争のために東南アジアの資源を武力で確保しようという「南進」政策は、かなり早い時期から日本の国策の一つとなっていました。

 (一)ドイツのポーランド侵略によってヨーロッパ戦争が開始された一九三九年の十二月、陸相・海相・外相の三大臣(当時の政府は阿部内閣)が協議して「対外施策方針要綱」を決定しましたが、三大臣は、そのなかで、この国際情勢をうまく利用して、対中戦争の処理を促進するとともに、「南方を含む東亜新秩序の建設に対し有利の形勢を醸成する如く施策するものとす」という重大な方針を打ち出しました。これは、ヨーロッパ戦争のなりゆきのなかで、イギリス、フランス、オランダなどの力が弱まったら、そのすきにつけこんで東南アジアに侵攻し、この地域の資源を奪い取ろうという思惑を、早くもあらわにしたものでした。

 (二)一九四〇年九月、第二次近衛内閣は、大本営政府連絡会議で、日本の「生存圏」についての決定をおこないました。これは、ドイツおよびイタリアとのあいだで三国軍事同盟を結ぶにあたって、それぞれの国の「生存圏」を決定し、たがいに確認しあおうということからつくられたものです。「生存圏」というのは、日本が独占的に自分の支配下におくことをめざす地域をさした言葉です。

 この会議で決定した文書「日独伊提携強化に対処する基礎要件」は、いちばん最初に、日本の「生存圏」の範囲を次のように規定しました。

 「独伊との交渉において、皇国〔天皇が統治する日本という意味――不破〕の大東亜新秩序建設のための生存圏として考慮すべき範囲は、日満支を根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インド及び同太平洋島嶋、タイ国、英領マレイ、英領ボルネオ、蘭領東インド、ビルマ、濠州〔オーストラリア〕、ニュージーランドならびにインド等とす」。

 なんと、東南アジアの全域に西はインド、東は大洋州の広大な地域を勝手に日本の「生存圏」だと決め、ドイツやイタリアにもそのことを認めさせて、その全体を日本の支配下におさめようと計画していたのです。

 「ABCD包囲網」などという議論のでたらめさは、三国軍事同盟の締結交渉にあたって近衛内閣が決めたこの決定をみただけで、すぐさま明らかになります。日本政府は、「ABCD包囲網」などの話をもちだすはるか以前に、アジア・太平洋のこれらの地域を侵略と支配の対象とする計画を決め、そのことをドイツやイタリアとの同盟交渉の主題にしていたのですから。

「ABCD」諸国との矛盾・対立も原動力は中国侵略にあった

 さらに、一九四一年の時点での、「ABCD」諸国と日本との矛盾や対立というものも、すべて、日本が中国への侵略戦争に固執し、戦争継続の条件を確保しようとしたところからおこった矛盾・対立でした。

 当時、ヨーロッパでは、ヒトラー・ドイツの侵略にイギリスが対抗し、アジアでは、日本の侵略に反対して中国が抵抗戦争をたたかっていました。アメリカは参戦してはいませんでしたが、これらの侵略に反対し、イギリスや中国を援助する立場を明らかにしていました。

 アメリカが日本の戦争継続を助ける戦略物資の対日輸出を次第に制限しはじめたのも、この立場からでした。また、ドイツの侵略によって本国をじゅうりんされたオランダ政府が、日本の石油輸入の要請に応じなかったことも、ドイツと同盟した侵略国であるという日本の地位を考えたら、何も不思議なことはありませんでした。

 これにたいして、日本は、「生存圏」内の資源を武力で奪取しようとし、フランスがドイツに降伏して三カ月後の一九四〇年九月にはフランス領インドシナの北部に軍隊を進出させ、さらに一九四一年七月にはインドシナ南部に日本軍を進出させて、公然と「南進」作戦の態勢をととのえました。

 そして、ドイツのソ連侵攻(一九四一年六月二十二日)という新情勢をうけて開かれた七月二日の御前会議では、「南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」として、「南進」重点の方針を決め(「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」)、つづいて九月六日の御前会議では、日米交渉で十月下旬までに要求貫徹の目途がえられない場合には「ただちに対米英(蘭)開戦を決意す」との戦争方針を決定、東南アジア侵略と対米英戦争に踏み切る国策上の準備も着々と進行させたのです。

 「ABCD包囲網」というのは、この「南進」作戦を受け身の防衛的なものに見せかけて、国民の戦意を動員するための、政府・軍部の宣伝の手段にすぎませんでした。

『歴史教科書』の日米交渉論はどこがゆがんでいるか

 次に、『歴史教科書』の日米交渉論にすすみましょう。『教科書』は、日米交渉は、アメリカが「ハル・ノート」という強硬条件をつきつけたために決裂したとして、次のように書いています。

 「日本も対米戦を念頭に置きながら、アメリカとの外交交渉は続けたが、11月、アメリカのハル国務長官は、日本側にハル・ノートとよばれる強硬な提案を突きつけた。ハル・ノートは、日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた。この要求に応じることが対米屈服を意味すると考えた日本政府は、最終的に対米開戦を決意した」(275ページ)。

 この叙述のいちばんの問題点は、日本側がこの日米交渉でアメリカに何を要求したのかについて、なにも語っていないところにあります。さきほど紹介した九月六日の御前会議の決定は、十月下旬までに要求貫徹の目途が得られない場合には「ただちに対米英(蘭)開戦を決意す」とあったのですから、日米交渉の経緯を理解するうえで、いちばん肝心な問題は、御前会議が「貫徹」を求めた日本側の「要求」の内容にあったはずです。

 この日米交渉では、ドイツとの軍事同盟の問題など一連のことが検討の対象となりましたが、最大の焦点は、日中戦争をどう終結させるか、なかでも中国を侵略した日本軍の撤兵の問題にありました。日本は、わが国には中国に日本軍を駐留させる権利があると主張し、日米交渉で、アメリカにこの権利を認めさせようと、あらゆる努力を払ったのです。

 しかし、アメリカが、これを認めるはずがありませんでした。日米交渉が断続的に続いていた八月十四日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、大西洋上で会談して「大西洋憲章」を発表し、戦後の世界が立脚すべき基本原則を明らかにしました。この憲章は八項目からなるものでしたが、最初の三つの項目で、民族自決の原則とともに、いかなる国にも不当な領土の拡大を許さない立場がきびしく明記されていました。

 「第一に、両者の国は、領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない。

 第二に、両者は、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土的変更の行われることを欲しない。

 第三に、両者は、すべての国民に対して、彼等がその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」。

 これらの原則は、第二次世界大戦中、連合国の諸宣言のなかでさらに発展させられましたが、アメリカとイギリスが、この立場を、世界がまもるべき原則として宣言したことは、大きな国際的な意味をもちました。

 そのアメリカ政府が、もしも日米交渉のなかで、中国にたいする日本の駐兵権など、中国国民の「自由に表明する希望」と一致しない「領土的変更」やカイライ「政体」のおしつけを認めるようなことがおきたとしたら、自ら宣言した「大西洋憲章」の諸原則との矛盾に苦しまざるをえないことになったでしょう。

 「大西洋憲章」のなかで表明された諸原則は、その後の国際政治の発展にてらして、それだけの重みをもっていました。

日米交渉の焦点は日本の駐兵権を認めるかどうかにあった

 ところが、日本側は、“満州事変、支那事変以来の成果を壊滅させるものだ”といって、中国からの撤兵問題で本質的な譲歩をするつもりはさらさらなかったのです。

 たとえば、日米交渉が大詰めを迎えつつあった十一月二日、大本営政府連絡会議は、ゆきづまっている対米交渉を前進させるための「緩和」案だとして、甲案および乙案の二つの案を決定しています。それは、次のような内容のもので、中国の人民はもちろん、侵略に反対する世界の世論が求めているものとは、かけはなれたものでした。

 〔甲案〕中国に派遣されている日本軍は、中国の北部とモンゴルの一定地域と海南島については、平和の成立後、「所要期間」駐屯する。この「所要期間」とは、おおむね二十五年とする。

 その他の軍隊は、二年以内に撤退を完了する。

 〔乙案〕南東アジアおよび南太平洋地域に武力進出をしないことなど、南方方面の問題だけを交渉の対象にし、そこで合意が成立すれば、フランス領インドシナ南部に進出した日本軍は北部に引き揚げる。

 交渉が大詰めを迎えているこの段階でも、日本側は、「満州国」の現状維持はもちろん、中国の北部とモンゴルの要所に日本軍を置いて、この地方を自分の支配圏として確保し、さらには南部の海南島に軍隊を置くことまで、妥結の条件として要求したのです(甲案)。

 乙案にいたっては、交渉を東南アジアの問題だけにしぼって、中国からの撤兵問題は日米交渉の議題にはしない、話がまとまれば、フランス領インドシナの南部からの撤退は認めるから、日本軍の中国駐屯問題は日本にまかせてくれという、いっそう虫のいい「緩和」案でした。

 続いて開かれた十一月五日の御前会議では、東条首相は、アメリカから示された回答(十月二日に受け取った四原則の回答)に反論して、とくに日本の中国駐兵は交渉の絶対条件だということを、あらためて力説しました。

 「さらに重大問題は駐兵・撤兵の問題なり。彼〔アメリカ〕の言うのは、撤兵本位でこれを中外に宣明し、駐兵は蔭(かげ)の約束では、とのことなり。おもうに撤兵は退却なり。百万の大兵を出し、十数万の戦死者、遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国幣を費したり。この結果は、どうしてもこれを結実せざるべからず。もし日支条約にあるに駐兵をやめれば、撤兵の翌日より事変前の支那より悪くなる。満州・朝鮮・台湾の統治に及ぶにいたるべし。駐兵により始めて日本の発展を期することを得るのである。これは米側としては望まざるところなり。しかして帝国のいうておる駐兵には、万々無理なるところなし」(「昭和十六年十一月五日 御前会議」の記録から 『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻・資料編』566ページ)。

 大本営政府連絡会議で決めた二つの案のうち、甲案は十一月七日、乙案は十一月二十日、アメリカ側に提出されました。それらを検討したうえで、十一月二十六日、ハル・ノートが日本側に手渡されましたが、その時点では、日米両国とも、中国からの撤兵問題では妥協が不可能なことを知って、それぞれなりに戦争への決意をかためていたのでした。しかし、その準備は、日本側がはるかに先行していました。

 戦争を始める具体方針については、日本側は、甲案・乙案を決定した十一月二日の大本営政府連絡会議で、対米英開戦の方針を決定し、十一月五日の御前会議で最終的な確認を得ていました。

 「一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設するため、この際対米英蘭戦争を決意し、左記措置をとる。

 (一)武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」(「帝国国策遂行要領」)。

 これには、「対米交渉が十二月一日午前零時までに成功せば武力発動を中止す」という保留条件がついていましたが、その期限をまたないで、空母六隻からなる攻撃部隊は、十一月二十六日、真珠湾をめざして千島列島の基地を出発しました。これは、ハル・ノートが日本側に渡されたのと同じ日のことでした。

 そして、十二月一日の御前会議は、「対米交渉は遂に成立するに至らず 帝国は対米英蘭に対し開戦す」という最終決定をおこなったのでした。

 この全経過を見るならば、日米交渉を決裂させ、日本の戦争を対中国戦争から東南アジア侵略と対米英蘭戦争に拡大させるにいたった最大の原動力が、ここでも、あくまで中国侵略に固執した日本の態度にあったことは、明らかです。

 『歴史教科書』が、「ABCD包囲網」論議といい、「日米交渉」論議といい、日本を“追いつめられた被害国”であるかのように描きだしている根底にも、当時の日本の戦争指導者たちと、歴史認識の同じ流れがあることを強く感ぜざるをえません。

「侵略」の事実をいっさい認めない『歴史教科書』の立場

 『歴史教科書』をここまで検討してくるなかで、私は、一つの重大な事実にあらためて気づきました。それは、『歴史教科書』が、日本がおこした戦争の歴史を記述するにあたって、「侵略」という言葉を、いっさい使っていないことです。

 この『教科書』の執筆者たちは、冒頭の文章「歴史を学ぶとは」のなかで、「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである」、「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない」(6ページ)として、現代の価値観を歴史に押しつける態度を強くいましめています。

 そういう意味で、あえて「侵略」という言葉を避けたのか、というと、どうもそうではないようです。

 日本以外の国がおこした戦争については、執筆者たちは、「侵攻」「侵入」など、他国を侵すことを告発する言葉を、遠慮なしに使っています。一九三九年・ドイツのポーランドへ「侵攻」(273ページ)、一九四一年・ドイツのソ連への「侵攻」(274ページ)、一九四五年・ソ連の満州への「侵入」(288ページ)、一九五〇年・北朝鮮の韓国への「侵攻」(298ページ)、一九七九年・ソ連のアフガニスタンへの「軍事侵攻」(312ページ)などなどです。

 そうなると、執筆者たちが、日本の中国にたいする戦争について、また東南アジアに攻めこんだ戦争について、「侵略」という言葉をいっさい使っていないのは、「歴史」に現代の価値観を押しつけないという方法論からのことではなく、執筆者自身が、日本がおこなったことを、中国にたいする「侵略」とも、東南アジアにたいする「侵略」とも考えていないからだと、結論せざるをえません。『歴史教科書』は、日本の戦争行動については、「侵略」の言葉だけでなく、「侵攻」「侵入」をふくめて、他国を不当に“侵す”意味をもつ言葉は、いっさい使っていません。ここには、明らかに、「侵略」の事実を否定する執筆者たちの歴史認識と評価が表現されています。

 私は、三回にわたって、『歴史教科書』が明治以来の日本の現代史をどう描いているかを分析してきました。そして、そこに叙述されている文章の内容から、この教科書が、子どもたちに日本がやった戦争を“正しい戦争”だと思いこませ、朝鮮にたいする植民地支配についても、その犯罪性を感じさせないものとなっていることを、具体的に検証してきました。

 それらの分析と検証からの結論に、執筆者たちが、日本の戦争については「侵略」の言葉を使わないという態度を徹底してつらぬいている事実をあわせて、私は、いま、いっそうの確信をもって、“この『歴史教科書』は、日本がやった侵略戦争について、なんの反省ももたず、それが他国にたいする「侵略」であったことさえも認めようとしない人たちが、自分たちのその独断的な考えを次の世代に押しつけるために意図的につくった教科書だ”とはっきり言うことができます。

 戦時下に「大東亜戦争」賛美の教育をさんざん注ぎ込まれて育った世代の一人として、このような『歴史教科書』でいま子どもたちを教育することは、絶対に許してはならないというのが、私の結論であり、このことを最後にかさねて強調するものです。


〔補足〕「3・1運動」について。

 昨日付の不破論文で、五面の写真は、解説ぬきで「3・1運動」としましたが、「3・1運動」とは、一九一九年に起こった独立運動のことです(「万歳事件」とも呼ばれました)。三月一日、各界の名士が署名した独立宣言書をかかげ、「独立万歳」を叫ぶ民衆デモがソウル、ピョンヤンなど各地に起こり、三月〜四月のあいだに朝鮮全土に広がり、日本の軍隊と警察の残虐な弾圧をうけました。

 


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 有能人士の村八分騒動を笑う。

 漸く歴代4事務次官の更迭が決まった。小泉内閣に大臣数有れど、構造改革にかくも大胆に手をつけて成果を得たのは真紀子外相だだ一人である。訪米時に世話になった柳井駐米大使への義理立てもかくも見事にこなした真紀子はやはりタダモノではない。新人事を新次官との人選でやろうとしたことも当たり前のことで、福田のボンの云うように旧次官の人選となるのなら同じ系列の順送りになるのが当たり前で、これでは何のために更迭するのか意味がないではないか。結局、小泉は福田のボンの方に擦り寄った。恐らく稀代のペテン師への道へ踏み込んだことになるだろう。この先靖国神社でミソをつけ、秋口には経済失速の責めを受け、非難轟々の中で退陣していくことが予想される。考えてみれば、小泉もボンだからボン仲間の辿る道として致しかたないのかも知れない。

 さて、毎日新聞の社説に久しぶりに目を通して見た。抑制きかせ過ぎているが当たり前の見識を示している。この当たり前の判断が難しい世の中になったので、褒められることなんだろう。概要「今回の人事異動によって、小泉首相ら官邸側と田中外相との対立をクローズアップさせ、そもそもの根本問題であった機密費の究明や、外務省改幕引きを図ろうとしているとすれば、許されない」とある。「(駐日大使に起用されたライシャワー、モンデールら民間からの起用の例を引いたあと)外務省を改革し、外交を国民の目線に置こうとする外相の姿勢自体は評価できる」ともある。まさにその通りではないか。我が社会では、これだけのことがなかなか言えないのだから、お粗末な社会の木鐸であることよ。

 ちなみに、日経の社説になるとこうなる。まともに付き合うのは馬鹿馬鹿しいのでチャチ入れてみる。「次は田中外相の適格性が問われる」という見出しになっている。(ボソボソ)勝手にそっちへ誘導したがっているだけでないの。「人事を廻る今回の騒動が見せつけたように、言動の一貫性のなさ、首相官邸に対する反抗姿勢など外相が引き起こした様々な問題が日米外交の信頼性の低下を招いている」だと。(ボソボソ)「言動の一貫性」は時には危険なこともある。「首相官邸に対する反抗姿勢」がいけないなどと何を寝ぼけたこと云っているんだ。機密費事件に胡散臭い福田のボンが改革を邪魔すれば当然衝突しまんがな。になってしまっている。「日米外交の信頼性の低下を招いている」かどうか、何の根拠でそったらこと断定できるのよ。先の大臣河野の時には信頼性がグット増していたとでも云うのかよ。「一政治家としてならいいが、外相は首相の下で外交に当たる立場であり、首相の意向を説明するのが本来の姿だからだ」とも云う。(ボソボソ)どこの御仁か知らんが、かなり甘チャンで世渡りしてきた様子が垣間見える。この論に拠れば、首相オールマイティー、大臣はそのロボット説に五十歩百歩論であるが、どこの国の政体、あるいはいつの時代の仕組みのことを前提にしているんだろう。申し訳ないけど、首相にはそうした強い権限はないということが裁判でも明らかにされているでしょう。

 しかし、これが朝日記事になるとより露骨になる。(外相罷免の動きがあったことを述べたあと)「最後の最後まで自分の人事構想にこだわる外相に、さすがの首相も腹をくくったようで、二人の確執は今後も尾を引きそうだ」。(ボソボソ)ほほぉ、「最後の最後まで自分の人事構想にこだわる外相」ねぇ、書き方がいやらしいけどそれはそれとして、拘る理由があったのだからいいじゃないの。(官邸と真紀子の動向を微に入り細に入り伝えた後)「外相が外務省に出てきたのは、午後1時を回っていた。待ちかまえていた飯島秘書官が首相の指示を受け入れるよう強く要請。外相は黙って首を縦に振った」。(ボソボソ)この記者は、小説もどき記事を書くのが好きなようだが、外相と首相と官房長官の対立の原因の説明無しに書いて何の意味を持たせようとしているの。性格の悪さだけが透けてくる。

 とまぁ、れんだいこはこう云う風に分析するが、もちっとしっかりしたマスコミが生まれんとこの国はいよいよ駄目にされる。恐らく、戦前もこの調子で、真に有能な人士を村八分にして、それ南京が落ちた、マレーも落ちた、皇軍・神風・天皇バンザイなどという記事を書きつづけていたのだろう。少しも変わっちゃあ居ないではないの。

 真紀子対官邸の対立が伝えられている。小泉内閣の看板千両役者の二人が靖国神社参拝問題と外務省人事問題で初バトルに入った模様である。もっとも、外務省人事問題については、小泉首相は賢明にも次のような態度を示している。首相の役割は大綱を示すことであり、その指針に基づく具体化は各々の大臣の職掌である。信頼しているとしか申し上げられないという見解を示している。正論であるように思われる。

 小泉内閣ではしゃいるのは福田のボンの方であろう。真紀子は外相として存分に働き、いち早く構造改革に着手し、その成果を納めつつある。万一、真紀子のこの働きを咎めるなら、小泉首相の構造改革とはそも何ものぞという疑惑を呼び込むであろう。この点、福田のボンは少しも小泉を理解しようとしていない。官房長官の職責をかなぐり捨て、旧体質と利権を引きずる方向で、露に真紀子の外務省改革に立ちはだかろうとしている。誰が見ても更迭されねばならないのは、ボンの方だろう。

 ところが、この普通の見識がマスコミに現れない。歴代4次官の更迭に真紀子が反対、一点屈服などという記事を大見出しにしている。この間までの報道は、真紀子のこうした外務省改革に冷淡記事を書いていたではないか。このたびいよいよ具体化になると、外務省改革に真紀子が反対してるかのような記事に変質せしめてしゃぁしゃぁとしている。なぜ、かような与太記事ばかり流しつづけるのだろう。問題は、各社とも共通して同一論調記事を掲げていることにある。どうやら、ゲラずり段階の記事を各社で見せ合っているとしか思えない。報道の自主規制が次第に定向進化を遂げ、今や大本営発表化しているということだろう。

 只の一社でも良い。真紀子と官邸の対立が、新人事をめぐって旧次官の人選で引き継ぐのか(福田のボン派)、新次官との協議で人材登用し人事一新するのか(真紀子派)をめぐって火花を散らしていることにあることを指摘すべきだろう。これが問題の本質であり、柳井駐米大使更迭問題は技術レベルのことでしかない。この主客を転倒させて、柳井駐米大使更迭に真紀子が反対しているなどと−この間の流れからすれば有り得ない−すり替え記事化するのは、ペンの暴力ではなかろうか。

 こうしてよってたかって構造改革を行おうとする者を潰そうとし、何もしないのが仕事だと云う風潮を育み、同じく経済の活性化の双葉の芽をも潰し、一蓮托生型の官僚独裁国家を現出させようとする。そのひずみとして当然に派生する汚職、賄賂、私物化腐敗に正義面して騒ぎ立て、知能紳士を気取る。同じような紳士が政界にもいる。真紀子のひた向きな改革にこともあろうに「人格異常」呼ばわりして恥じないタッソ、拱手傍観する輩、今もって沈黙を続ける社共のええ加減さ、れんだいこはこうした事象に吐き気を覚えざるを得ない。こういう不毛な状況にどう立ち向かえば我が社会を揺することができるのだろうか。今問われているのはこうしたことだと考える。それとも、れんだいこの方がおかしいというのであれば、論拠を持って諭して欲しい。