戦後日本左派運動論

 (最新見直し2007.3.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 突如、これまでの研究のエッセンスを抽出して「戦後左派運動論の俯瞰図」を試論してみたいと意欲した。敢えて問う理由は、れんだいこがこれから呈示する論が、世上のそれらと大きく異なり、なお且つれんだいこ史観の方が正確を得ていると確信するからである。

 「革命的理論なきところには革命的運動も無し」とは常に自戒的に云われていることであるが、「より正確な認識無ければ消耗する運動しか無し」という風に言い換えることもできるのでは無かろうか。心情的には革命的行動であっても、それを支える理論が無ければ前に進むことは容易ではない。いわゆる試行錯誤の連続になるが、それはそれでよいにしても、常に理論的な研鑚との擦り併せが無ければ成果が蓄積されにくい。昔から「学ばされば暗く、問わなければ危い」と教えられてきているところである。

 戦後左派運動の欠陥は偏にこの「学びと問いかけ」の弱さにある、とれんだいこは考える。その結果、任意の安上がりの理論に安住して囲い込み運動しか為しえていない。日本左派運動のお粗末さの原因がここにある。れんだいこはそう考えており、ここに試論を提供する次第である。

 そう云えば、最近「日本共産党の80年」なるものが出たらしい。れんだいこの手元にあるのは「日本共産党の65年」であるが、実に噴飯ものでしかない。新作はまだ読んでいないがそれを更に無気力化させたものだろうという推定できる。読んでもないのに云うのは憚れるが、現下党中央の場合にはその異邦人的性格からしてこの推測が外れない自信がある。まっそのうち目を通してみようとは思うけど。それほどひどいということだ。

 2003.3.29日 れんだいこ拝


【はじめに】
 まず、戦後左派運動を日共を中心の視座に据えて解き明かしたい。この観点の是非を確認したい。もし異論があるとするなら、社民系の運動も並列に取り扱うべきという観点であろう。これについては、れんだいこは次のように考える。

 社民運動は、「史上特異な戦後民主主義体制及びその秩序=プレ社会主義秩序」というフィルターを通せば、否定と是認の見直しを是非手がけたい興趣湧く考察課題である。だがしかし、実際に立ち現われた社民運動にはそのようなものは主ではなく、日共運動の急進主義性に対してより穏和な運動を対置して当局との緩衝的位置に立つという戦前以来の伝統が性格を規定していた。従って、常にヌエ的で捉えどころが難しい。そういう訳でまともな考察対象にし難い。という理由から、日共運動を中心視座に据えて分析していくことにする。

【戦後左派運動第一期の俯瞰図】
 戦後の日共運動は、GHQ通達による「10.10日獄中政治犯の釈放」から始まる。ここで踏まえておくべきことは、日帝の敗北による「8.15解放」には至らなかったということである。「8.15解放」は、朝鮮、中国、在日朝鮮人、中国人間に立ち現われ、日本左派運動自体の動きはこの場に及んでも至って穏和であった。従って、GHQの戦前の軍国秩序の解体とアメ帝的民主主義と秩序の敷設という観点からの共産主義者の利用という政策の強行的導入によって獄中政治犯が釈放され、ここから戦後左派運動がスタートしたという変調さが確認されねばならない。

 次に、その最初期の党運動を府中刑務所グループ・徳球―志賀ラインが担った、ということが確認されねばならない。これは必然でそうなったという理由は特段に無い。敢えて云えば、徳球―志賀ラインの能力の高さであり、それは「8.15解放」を勝ち取るまでは至ら無かったけれども、逸早く決起し、当局を追い詰め、獄中内外での活動を活発にしたことで判明する。既に10.10日の釈放を確信して、釈放時の声明草案を練り、その他基本的な合意事項の確立を求めていた。事実、10.10日の釈放後、脱兎の如き勢いで日共の党再建に邁進していった。この情熱において、他の刑務所例えば豊玉、横浜、大阪、宮城、網走に収監されていた者は格段に落ちる対応しか為しえていない。

 従って、その指導能力の高さ故に衆望が集まり、当然の如く徳球―志賀ラインを核として戦後左派運動が確立していくことになった。そのスタートは国立の自立会から始まり、10月下旬渋谷区千駄ヶ谷の電気溶接学校(現在の党本部所在地)に移転し、執行部をその序列1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)の7名順で形成した。更に、党拡大強化促進委員会を設立し、実践的指導と指針作りの確立=党綱領の確立を急いだ。

 
11.8日、党大会準備の為の「第1回全国協議会」が開かれ、12.1−3日にかけて「第4回党大会」が党本部で開催された。当時の党員数は1083名であった。この時、中央委員として1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)の7人が、中央委員候補として岩本巌.春日正一.蔵原惟人.紺野与次郎.志田重男.宗性徹.松崎久馬次の7人が選出されて中央委員会メンバーが構成されている。

 その後の拡大中央委員会において、政治局員に徳球.志賀.金.春日.宮顕が、書記局員に徳球.黒木.紺野.竹中恒三郎.山辺健太郎、書記長には徳球が選ばれた。こうして党は正式に再建された。同時に、この再建は徳球−志賀党中央体制として確立された。宮顕は中央委員の地位を得たが書記局入りは外され、アジプロ部長と機関誌「前衛」主幹を担当した。徳球主流派が組織.財政の実権を握った為の苦肉の人事であった。

 ここで留意すべきは、徳球書記長選出に当って、早くも宮顕―袴田ラインがこれに異議を唱え抵抗していることである。その大義名分は、最高指導者は戦前の中央委員から選出されるべきで、党の最後の執行部を担った宮顕―袴田ラインを核にして構成することこそ最も正当であるというものであった。しかし、「10.10日獄中政治犯の釈放」からこの時まで宮顕―袴田ラインの貢献にめぼしいものは無く一蹴されている。

 ここで踏まえておくべきことは、この時点においては宮顕―袴田ラインの「戦前小畑中央委員査問致死事件」の実態が明るみにされておらず、「スパイ摘発上の不幸な事件であったに過ぎない」という認識の下でその責任を問う状況に無かったということである。こうして、胡散臭い宮顕―袴田ラインの党内潜入を又もや許し、事あるごとに党内不和の策動を許していくことになった。徳球と宮顕の死闘は実にこの時より始まっている、という観点が欲しい。
 この時期の日共理論で問題となるところは、「連合国軍進駐=解放軍」規定である。今日訳知り顔で、この時の「連合国軍進駐=解放軍規定」の粗雑を批判する者及び党派が後を絶たないが、れんだいこは異議を申し立てる。なるほど、第二次世界大戦の底流に有った世界史の流れを「共産圏革命勢力対資本圏反革命勢力」との構図で読み取れば、「連合国民主主義対枢軸国ファシズム」との対立と見なすが如き解放軍規定はお粗末であったことにはなる。

 だがしかし、マッカーサーに率いられるGHQの初期対日占領政策を見れば、戦前の軍国主義的統制を大胆且つ徹底して解体しつつあり、それはやがて再開されるであろう日共運動の周辺環境を整備するものとして何ら問題は無かった。実にまさしく解放軍であったのではないのか。そして、そのGHQの手で抵抗する東久邇宮内閣を抑圧しつつ政治犯の釈放指令を為し遂げているのである。これを思えば、「連合国軍進駐=解放軍規定」を誤りとする批判は、為にするものでは無かろうか。

 「連合国軍進駐=解放軍規定」が批判されるべきは、その後の「東西冷戦対立構造」が明確になり始めた47年以降の流れに対しても相変わらず解放軍規定に拘り続けて来たことに対してであろう。これを指導したのが野坂である。この峻別を為さず、十把一絡げに批判することが果たして弁証法的であろうか。
 この時期の日共理論で問題となるところは、「GHQ分析及びマッカーサー政策の特質規定」の完全欠如である。前述の解放軍規定の是非論とも関係するが、「GHQ分析及びマッカーサー政策の特質規定」は前半と後半において質的に区分して把握する弁証法的認識が必要なところ、これらを一切無視してアメリカ帝国主義論の範疇で批判的にしか対峙し得ていない、という欠陥がある。むろん、総体としてどうなのか、特殊的にどうなのかの区別の意味においてであるが。

 どういうことかというと、分かりやすく云えば、「彼、我を知る」という客観認識の獲得能力如何に収斂する。残念ながら、日本左派運動は、今に至るまでこの軍事的認識が皆目できない能面テクノラートに占められている。

 れんだいこ史観に拠れば次のように言える。戦後の第一期における「GHQ及びマッカーサーの果たした役割」は、世界史上特筆されるべき善政であった、ということになる。その主たるものは、直接統治ではなく間接統治を目指したということ。報復ではなく理念的に指導しようとしたこと。日本史の宿アである官権力の強権を解体させ下からの自発性を重視したこと等々にあった。これにより、戦後日本には「世界史上稀なるある種のルネサンス」の息吹が横溢することになった。

 歴史に通じていれば、これは絶賛に値する善政以外の何ものでも無かった。日本左派運動は、こうした善政が「またしても上から与えられた革命」であったという認識の上で、これを活用する術を覚えるべきであった。が、一向にこの認識の獲得には至らず、アメリカ帝国主義論の乱用とその裏腹としてのソ共理論の導入に勤しんでいくばかりであった。「政権盗りに向かわず、とにかく何でも反対」という習性がこの頃に胚胎している。

 では、かの時「GHQ及びマッカーサー」は何故善政を敷くことができたのか。これが解明されねばならない。それは、GHQについては「ニューディーラー派」の分析に向かうことになる。「ニューディーラー派」の出自と本国で為し得なかった理想統治を日本へ輸入しようとした夢を解析せねばならない。マッカーサーについては、その資質と次期大統領候補として日本統治の成功という箔をつけて本国帰りを狙おうとしていた背景事情が解明されねばならない。そして最後に一つ。日本に触手を伸ばそうとしていたロシア大国主義との拮抗関係で、ロシア大国主義よりもより合理的な戦後行政を敷設していく必要が有り、これにより親米派を獲得するというグランドデザインがあった、ということが解明されねばならない。

 だがしかし、日本左派運動は、この観点よりの解析を今に至るまで為しえていない。多くの理論家が輩出しているが、公式主義的且つ図式主義という共通ベースの上で、右派左派を創出したに過ぎない。この貧困がこの後も纏いついていく負が凝視されなければ、本当のところが見えてこない。れんだいこはかく考える。

 2003.3.31日 れんだいこ拝

【戦後左派運動第二期の俯瞰図】
 徳球―志賀執行部として出発した戦後左派運動第一期は、翌年早々1.12日の野坂の帰国で終息する。この当時野坂は国際的大物共産主義者として演出されており、徳球―志賀系の指導路線に一抹の違和感を覚えていた連中が大々的に帰国歓迎ムードを煽っていった。翌1.13日、野坂は党本部に参上し、徳球とトップ会談を持つ。その結果、新執行部として徳球―野坂-志賀のトロイカ体制が確立する。これが戦後左派運動第二期の始発となる。

 出来上がった徳球―野坂-志賀のトロイカ体制は、それまでの徳球―志賀体制と如何なる変化を蒙ったか、これが分析されねばならない。結論から云うと、非常に穏和化されたということになる。その象徴的表現が「愛される共産党」であり、それまでの徳球式急進主義運動は大きな制約を受けることになった。この時、野坂は国際共産主義運動の闘士としての箔を持っており、その発言、指針に対して徳球が一定の敬意を払わねばならなかったという事情が推測できる。

 ここで踏まえておくべきことは、この時点では、宮顕同様に野坂の胡散臭い素性が露見していなかったということである。今日では、コミンテルン時代の野坂の挙動の不審、同志の当局売り渡し、そればかりかアメ帝ラインとの繋がりが明るみにされており、とてもではないが党内への潜入は許されるべきではなかったが、そういう素性が分かる時機ではなく、こうして指導部に野坂が入り込むことを許してしまった。こうして党中央は最高指導部に野坂を抱えることにより、早くもこの時期より戦後日共運動の変調さを見せていくことになる。
 しかし、この時期は圧倒的に戦後の混乱期の最中であり、大衆闘争は下から盛り上がってますます炎を燃え盛んにしており、徳球式の急進主義運動が支持される局面であったので、野坂も情勢についていくのが精一杯で、その悪事は影を潜めている。





(私論.私見)