補足 「革共同の第三次分裂考」

 (最新見直し2006.9.22日)

【革共同全国委内でbPの黒寛とbQの本多の対立が発生する】
 1962.9月、「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点で、革共同全国委の中心人物であった黒寛とbQの本多氏の間の抜き差しならない意見対立が発生した。これが導火線となって革共同の第三次分裂がもたらされていくことになる。

【マル学同内部に深刻な対立発生】
 革共同全国委内の黒寛派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及し、四派連合問題を発生させた。マル学同内は、三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争を激化させた。「東大銀杏並木6千名集会」は、ブント、社青同などのヘゲモニーで開かれ、マル学同はその呼びかけに応えるという形で参加したが、全学連委員長・根本仁は、四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義、ベッタリズム統一行動」と非難し、「反帝.反スターリニズム」の方針を貫徹し得なかったと総括した。後者は前者を「セクト主義」と非難し、引き続き四派連合の統一行動を続けるべきだとした。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくことになった。

 1963.1.12日、マル学同全学連第33回中執委開催されるが、深刻な対立を引き起こした。「統一行動の中で、他の分派、例えば社学同などを充分に批判できなかった」といった意見が出されて、内部の分裂が公然化した。


【「革共同の第三次分裂」発生】
 2.20日、革共同全国委政治局議長黒田寛一他3名の政治局員が、「最後の手紙」と呼ばれた党内闘争の宣言を発表し、事実上の組織分裂を引き起こした。黒寛派は、「日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派」(革マル派)を結成し、機関紙「解放」を創刊し、反黒寛派は、「日本マルクス主義学生同盟中核派」(中核派)を結成し、機関紙「前進」を継承した。こうして、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを革共同の第三次分裂と云う。

 この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒寛派についたのは後にJR東労組運動の指導者として台頭していく倉川篤(松崎明)氏と森茂氏らの少数であった。こうして黒寛派は、革共同全国委から出ていくことになり、新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。

 マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立は当然の事ながらマル学同内部にも対立を波及させていくことになった。しかし、マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同ではむしろ圧倒的多数派であった。こうしてマル学同内部では革マル派が優勢を保ったため、本多派の方がマル学同全学連から追われ飛び出していくこととなった。「東京都内における学生活動家の数は、分裂当初、僅か18人になってしまった」と本多氏自身が語っている。本多派は以降新たにマル学同中核派を結成することになった。こうしてマル学同の学生組織も革マル派と中核派に分裂することとなった。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。これより以後は、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことに なる。

【「中核派と革マル派の対立の背景】
 この対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。古賀氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。
 概要「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのことである」。

 他にも、大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本多氏の気質として あったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せていた。黒寛の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」 であるとも看做していた。

 これに対し、革マル派は、中核派は黒寛理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、ズブズブ統一行動主義、過激主義」であると云う。例えば、こ の時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒寛理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと「我々は水ぶくれと寄せ集めによる『党建設』を絶対に拒否する」と理論化していた。

 運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わないことが革命的であるかの如くに云う日和見主義」といい、革マル派は、中核派に対して、「主観主義的情勢分析、分析ならぬ信念に基づく危機感のあおり立て」と云う。

 も う一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方も ある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張 し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。

 党建設を廻っての意見の対立も深刻であった。立花隆・氏は、著書「中核対革マル」の中で次のように分析している。
 「革マル派は、『社会民主主義やスターリニズムかに真にイデオロギー的に組織的に脱却した革命的労働者のケルン(中核)作りが必要』と力説したのに対し、これに対し中核派は、『ケルン作りと云えば聞こえはいいが、要するに革マル派のやっていることは、サークル作り、喫茶店で革命をおしゃべりする人間を集めて、ネチャーエフ的陰謀主義的な組織を作れば革命が出来ると思っている』、『党が建設途上にあろうとも、その党が党として大衆の前で帝国主義に対して闘って行く必要性、党の為の闘いと同時に、党としての闘いを展開していくことを忘れている』と批判した」。
(私論.私見)

 これらの主張は、私には、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないかと思える。革共同とブントとの違いのカオス・ロゴス識別に従えば、 中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から中核派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。 鎌田氏はこれを「再生ブントという性格的側面を色濃く持っていた」と指摘している。

 立花隆は、「中核対革マル」文中で、「どこまで行っても、水掛け論である。双方の悪口、なかなかよく相手の特徴をついている。どちらが論理的に正しいかなどということは、決められない。それれを決めるのは、歴史だけである。何年か何十年か後に、どちらかの党派が革命をやり遂げることが出来たら、そちらが正しかったということになるのだし、どちらも出来なかったら、どちらも正しくなかったということになるのだろう」と述べているのが参考になる。

 こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。

【マル学同全学連が、革マル派全学連に純化する】

 4.1−2日、マル学同全学連第34回中執委が開かれ、統一行動を唱える6名の中執を罷免するという分裂劇が演じられた。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。(乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した)


【全学連20回大会】

 7.5日、全学連20回大会で革マル派が主導権確立、根本仁(北海道学芸大)を委員長に選出した。革マル派は中核派130名の入場を実力阻止し、6中執の罷免を承認した。この時代議員の定員が満たされておらず、全学連の実質を喪失した事になった。以降革マル派全学連としてセクト化することになった。 


【清水谷乱闘事件】

 9月、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)250人が集会しているところへ、革マル派150人が押しかけ、角材で渡り合う乱闘事態となった。革マル派のその他党派への暴力的殴りこみはこれを嚆矢とするのではなかろうか。


【「新三派(社学同、社青同、中核派)連合」結成】

 1964.3.25日、社学同、社青同、中核派による新三派連合が結成された。


【四派連合が早大革マル派へ殴りこみ「7.2事件」】
 7.2日、翌日に予定された憲法調査会の答申に対する反対デモの計画を練るため早大構内に集まっていた革マル派約80名に対して、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力約100名が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけた。3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。

 早稲田大学一文学部の自治会権力をめぐる争いが原因となっていた。奥浩平氏の「青春の墓標」で次のように明らかにされている。
 概要「これまで日本の戦闘的学生運動にしるした早大一文の意味は計り知れないほど大きかった。安保闘争をはじめ大管法闘争においても早大一文は一千単位の動員を勝ち取ってきた。だがY派(革マル派のこと)が自治会執行部を占拠するや、一文は一挙に凋落して今日の姿になった。クラス討論は行われず、他党派の看板はブチ壊され、ビラ入れは暴力的に妨害された」。

 そうした状況の中で、自治会自治委員選挙が行われ、「フロント(構造改革派)の諸君が、一文の学生委員を圧倒的に固めた」。フロント40〜50名、M戦(社学同)15名、Y派(革マル派)15〜25名という内訳となった。形成不利な革マル派は、委員総会を「正当な委員だけで開かねばならない」という口実で自派だけで開いて切り抜けようとしていた。フロントは各派に支援を要請し、中核派その他がこの要請に応じ、一文自治会再建目指してオルグ団を派遣した。しかし、革マル派はこれら活動家に対する公然テロを開始した。7.2日夜、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力が、「徹底的自己批判を迫る」ことを決意し乗り込んだ、という経過であった。

 7.10日、革マル派全学連第21回大会開催。


 9.7−8日、中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成した。だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マ ルクス主義戦線派=マル戦派.独立社学同)と、そうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。





(私論.私見)