1967年 戦後学生運動史第7期その2
ベトナム反戦闘争と学生運動の激化

 (最新見直し2007.2.17日)

 これより前は、「第7期その1」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第7期その2は、1967年から始まった。この期の特徴は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があり、この闘争に全学連運動各派が互いの勢力拡大をかけて鎬を削っていくことに認められる。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。

 こうした情況と世論を背景にして、この時期これに学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連 は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。

【1967年の動き(当時の関連資料)】

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1967年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

(学園闘争の流れ)(自治会執行部の争奪の動きとその関連)

【明大学費値上げ阻止闘争】

 1.20日、明大学費値上げ大衆団交に1万5000名。1.28日明大で、スト収束をはかろうとする全学闘書記局と闘争継続を叫ぶ闘争委員が対立するという事態が発生している。以降泥沼化し、右翼的体育会系、機動隊の乱入と闘争委側との抗争が続き、2.2日大内委員長及び介添え役としての斎藤全学連委員長立会いの下で当局と妥結調印が為された。こうして明大闘争はボス交によって敗北的に決着したが、おってこの経過が問題とされ斎藤全学連委員長の失脚へと向かうことになる。


 1.22日、高崎経済大でも「有力者の口添えと地元優先を理由に無試験入学」させる大学当局の遣り方に反発した学生が、不正入学反対バリストに再度突入している。2.6日から6.24日までの4次にわたる処分で、退学・13名、無期停学11名、3ヶ月停学24名、戒告12名、訓告9名という処分が為されている。ところが、闘争の過程で逮捕された学生数名が自治会役員選挙に獄中から立候補して全員当選という快挙を為している。


 1.28日、明大で、スト収束をはかろうとする全学闘書記局と闘争継続を叫ぶ闘争委員が対立するという事態が発生している。以降泥沼化し、右翼的体育会系、機動隊の乱入と闘争委側との抗争が続き、2.2日大内委員長及び介添え役としての斎藤全学連委員長立会いの下で当局と妥結調印が為された。こうして明大闘争はボス交によって敗北的に決着したが、おってこの経過が問題とされ斎藤全学連委員長の失脚へと向かうことになる。


 2.10日、国際基督教大学で、能研を入試に適用することに反対して学生約60名がバリケードを築き篭城(ろうじょう)。4.10日に機動隊が導入され、その騒ぎは12月まで続くことになる。学生運動そのものを認めない大学当局は、除籍11名、無期停学42名、運動参加者全員の処分を発表している。


【三派系全学連委員長に中核派の秋山氏が就任、以降更に激烈化していく】

 2月、三派系全学連中央委員会で、斎藤克彦委員長(明大.社学同)が罷免され、秋山勝行(横浜国大.中核派)が新委員長となった。

 2.26日、秋山新委員長による三派系全学連が、砂川基地拡張阻止青年総決起集会に労学1500名結集、機動隊と衝突。反戦青年委員会約1000名が共闘していた。この時のデモは、「基地突入」を目指す三派系全学連がゲート前に待機する機動隊に突っ込み大乱闘戦になった。多数の負傷者を出し、10数人が逮捕されている。これが秋山委員長時代の闘争の幕きりとなった。


【「善隣学生会館事件」発生】

 3.2日、「善隣学生会館事件」が発生している。詳細は「善隣学生会館事件考」を参照されたし。「善隣学生会館事件」とは、1965年頃までは友好関係を維持していた日本共産党と中国共産党の関係が、1966年の中国での文化大革命の発生と共に急速に悪化し、断絶状態に至った。これに伴い、日中友好運動に大きな混乱が発生した。


 3.12日、高崎経済大全学無期限スト突入。


 6.14日、東京教育大、筑波移転問題をめぐりスト突入。


【社会主義協会第8回大会、太田派と向坂派に分裂する】

 6月、社会主義協会第8回大会。この大会で、規約第二条の修正をめぐって、太田派と向坂派に分裂する。当時多数派は太田派であり、大会は、少数派としての向坂派の戦術−規約第ニ条の修正にともなう向坂、大内両代表の辞任ーによって、休会となり、事実上分裂した。「向坂派、太田派の分裂は、前者が協会の理論集団化への回帰をはかり、後者が完全な政治集団化への転化をはかったというものではなく、太田派、とくに当時の社青同協会派が、より完全な党派化をめざし、その主導権を向坂派はじめ学者グループから活動家グループヘ奪還しようとしたところにあったと正確に理解することが必要である」とある。「規約第ニ条の修正は、社会主義協会を党内派閥化、あるいは別党化させようとする一部組織破壊分子の策謀によるものであり、社会主義協会の伝統を杏疋し、社会主義協会の正しい発展を妨げるものであった。したがって、われわれの統一のための努力もついに結実せず、八月にいたって社会主義協会は分裂のやむなさにいたったのである。しかし、この分裂によって、われわれはマルクス・レーニン主義の理論の重要性を忘却し、社会主義協会の伝統に反する分子を除去することに成功した」。

 社会主義協会向坂派(以下向坂派という)は以降別党コースを執り、党派化を非難しながら、自らもまた一つのセクト性のつよい党派として成長、発展していくことになった。向坂派は、労農派系学者グループの再結集をはかるとともに、当時社会党内の主流派であった鈴木・佐々木派に協力と援助をもとめ、また総評民同のなかでは、太田氏と対立していた岩井章氏の全面的協力を得て再建をはかったのである。社研(佐々木派)は、その前身である五月会以来社会党内左派の統一的政治派閥として、協会との間に、歴史的に不分律としての分業体制が確立していた。それは、社会党内においては、社研が具体的な政治指導の任務を果し、協会は理論団体として、理論、学習の任務を果すというものであった。

 向坂派は、一九六六年、協会テーゼ「勝利の展望」の討論をはじめて、この期に分党、十一月に再建第一回大会をひらき、翌年九月の第二回大会で「向坂派テーゼ」を決定決定した。ここで、向坂派の党派的再建と登場が出現することになった。向坂派は、自らをマルクス・レーニン主義の集団と規定する。それはソ連共産党二〇回大会およびモスクワ八一ヶ国共産党・労働者党宣言の方向性を色濃く反映し、その後ソ連、東独などとの具体的な交流をふかめながら、ソ連型社会主義(実は修正主義から社会帝国主義に転落)を目標とする政治党派となっていく道をたどる。「平和革命必然論の立場にたつ向坂氏が、一九六〇年のモスクワ宣言によって、平和移行(平和革命)、平和共存、平和競争のフルシチョフ路線が一つの戦略方針として国際共産主義運動のなかで公認されたことに由来する。向坂氏と同派は、これに涙を流し、彼らの長年の主張が酬われたと考えた。以後、向坂派は、「わが祖国ソ連」にたいする絶対服従の方向をとることになる。彼らは、レーニン主義とは似て非なる宗派主義組織論のうえに、カウツキー主義とスターリン主義を同居、混在させ、自らソ連共産党の下僕とたりはてたのである」とある。

 〈3〉まなぶ−労大−社青同−向坂派協会−社会党という図式のなかで、まず社青同を向坂派が独占し、労働組合のなかに浸透、介入し、さらに党への介入、支配、占拠を強めるなかで、自らの組織を強化、拡大していく組織路線を着々実行し、C社研からもぎとった三月会という社会党内派閥をかくれみのとして、全野党共闘の名のもとに、実は日本共産党との統一政治戦線を結成しようとする方向性を明らかにしてきた時期である。

 「国際革命文庫」「日本革命的共産主義同盟小史」。

 6月、社青同第七回全国大会。東京地本の官僚的組織処分にようやく成功した協会派にとって、新しい全国分派闘争の再開を思いしらせることになった。新しい反対派が宮城―福岡連合、大阪―埼玉連合という二つの方角から登場した。前者は協会派系自らの内部から、後者は、第四回大会で一度はほうむりさられたかにみえた構造改革派の戦闘的再建として。

 宮城地本意見書は、第一に反戦闘争の強化、第二に「改憲阻止・反合理化」の基調の全面的再検討、第三に組織の民主的運営を要求するものであり、それは反対派全体に共通する意見でもあった。そして、協会派のメッカとされていた福岡地本が中央に反逆したことは、全国協会派に大きな打撃となり、反対派にとっては全国展望を与えるものとなった。


【ベトナム反戦闘争と学生運動の激化】

 この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという 分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国 アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。

 こうした情況と世論を背景にして、この時期これに 学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘 争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。


【新三派系全学連定期全国大会開催される】

 7.12日、新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)・85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)、他に168評議員.21オブザーバーの1500名が参加。新三派系が勢力を扶植しつつあったことが分かる。主な演説は各派が分担し、運動総括は中核派の秋山委員長、状勢分析は社学同の成島忠夫、運動方針は社青同の高橋幸吉が行い、秋山委員長を再選した。副委員長は、成島忠夫(静岡大.社学同).蒲池裕治(同志社大.社学同)、書記長に高橋幸吉(早大.社青大)を選出した。

 ただし、新三派系全学連の蜜時代はここまでであり、これ以降中核派の台頭が著しくなっていくことによってかどうか、翌68.7月、中核派は自前の全学連結成大会を開催し分岐独立することになる。同月反中核派連合の社学同「統一派」、ML派、社青同解放派、第 4インターなども又反帝全学連第19回全国大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、この反帝全学連も社学同と社青同解放派間の対立が激化し、翌69.3月社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れ となる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。12月、社青同解放派が「反帝学生評議会」(反帝学評)を結成する。


 7.13日、革マル派全学連が第24回大会開催。43大学66自治会、107代議員のほか750人のオブザーバーと発表されている。委員長成岡庸治(早大.一文)、副委員長根本仁(北教大)、佐々木通知(愛知大.豊橋)、書記長木下宏(東大.経)を選出した。


 7.13日、民青系全学連が第18回大会開催。75大学156自治会から354代議員と255評議員、オブザーバー122大学の192名と発表されている。「学生運動.民主運動から暴力学生集団.分裂主義者を一掃しよう」などのスローガンを採択している。委員長田熊和貴(東経大)、副委員長岩村智文(東北大)らを選出。


【中核派全学連誕生】

 12.17日、中核派が、秋山委員長、青木情宣部長(広島大)、金山克己中執委員らを迎えて単独で全学連主流派大会を開く。


(私論.私観) この頃の学生運動各派の特徴
 この当時の学生運動の流れは、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できることになる。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々であり、これらが混在することになる。ここで「当時の五流派その他系」の特徴付けをしておこうと思う。識別指標は様々な観点から可能である。

 第一に、「日本共産党の指導下に有りや無しや」を指標とすれば、指導下にあるのが民青同のみであり、日本共産党の党本部のある「代々木」を指標としてこれを「代々木系」と言い、これに反発するセクトを「反代々木系」と識別することが出来る。主にブントがこの意識を強く持つ。革共同系は、左翼運動の歪曲として「日本共産党」の打倒を標榜するところから「日共」と呼び捨てにすることとなる。ただし、この分け方も「日共」の打倒を観点とする立場と、「代々木」を正確には「宮本執行部の指導下の日共」と理解し、「日本共産党」の正当性系譜を争う構造改革派系諸派・毛派系諸派・民学同系とは趣が異なる。社青同解放派は社会党出身であるからまたニュアンスが異なるという風な違いがある。「代々木系」の民青同及び「元代々木系」の構造改革系派・民学同派は概ね非暴力革命的議会主義的な穏和主義路線を、それら以外の「反代々木系」 は概ね暴力革命的街頭闘争的な急進主義路線を目指したという特徴がある。 これによって「反代々木系急進主義派」は過激派とも呼ばれることになる。

 第二に、「『トロツキズム』の影響の有りや無しや」を指標とすれば、「代々木系」・「元代々木系」・毛派系諸派らのトロツキズムの影響を受けないセクトを「既成左翼」と云い、その影響を受けた革共同系及びブント系を「新左翼」と言いなし識別することも可能である。ただし、この分け方による場合、お互いを 「新・旧」とはみなさないので、「既成左翼」側が「新左翼」を評価する場合これをトロツキストと罵り、「新左翼」側が「既成左翼」を評価する場合スターリニストと雑言する関係になる。なお、毛派系は「トロツキズム」に替わるものが「毛沢東思想」であり少々ややこしくなる。「毛イズム」はスターリニスト的な系譜で暴力革命的急進主義路線を志向しており、「既成左翼」の側からは暴力革命路線でもって十把一からげでトロツキスト的に映り、「新左翼」側からはスターリニストには変わりがないということになる。社青同系の場合もこの範疇で括りにく い。「スターリニズム」・「トロツキズム」的なイデオロギーの濃いものを持たず、運動論的に見て穏和化路線を追求したのが社青同協会派であり、急進主義路線を選択したのが社青同解放派と識別することができる。その他ベ平連系 はそもそも左翼運動理論に依拠しない市民運動を標榜したところから運動を起こしており、市民的抗議運動として運動展開していった風があるのでこれも括れない。

 第三に、「ご本家意識の強い純血式運動路線に拘りを持つや否や」を指標とした場合には、運動の盛り上がりよりもセクト的な党派意識を優先する方が民青同・革マル派であり、その他諸セクトは闘争の盛り上げを第一義として競り合い運動を重視していったという違いがある。つまり民青同・革マル派は党派的に排他的非統一運動型であるということに共通項が認められ、これらを除いた他の諸セクトは課題別の共闘組織を組み易い統一運動可能型の党派であったという識別も可能である。この点で、民青同・革マル派の表面的な対立にもかかわらず両者には共通性が認識されるべきとも思われる。左翼運動の右派潮流の清掃に民青同が、左派潮流の清掃に革マル派が精出ししている経過があるように思われる。なお、この仕訳とは別途のさほどセクト的な党派意識も持たず統一運動型ともなじまなかった突出型の毛派系・ブント赤軍系・ アナーキスト系らも存在した。実に左翼運動もまたややこしい。

 あるいは又日本国憲法を主幹とする「『戦後民主主義』を護持しようとする意識が有りや否や」の観点を指標とする区分も出来る。概要穏和化路線に向かう党派はこれを肯定し、急進主義路線を志向する党派はこれの欺瞞性を指摘するという傾向にある。ただし、70年代半ば以降のことではあるが、超過激派と言われる日本赤軍の一部グループは、護憲傾向と民族的愛国心を運動の前提になるものとして再評価しつつある点が異色ということになる。

 私には、これらの違いは理論の正当性の是非もさることながら、運動を担う者たちの今日的に生物分子学で明らかにされつつある或る種の気質の差が介在しているようにさえ思われる。理論をどう構築しようとも、理論そのものは善し悪しを語らない。理論の正しさを主張するのはあくまで「人」であって、「人」はその人の気質性向によって好みの理論を採用する。理論の当否は、理論自身が生み出す力によって規定されるとはいえ、現象的にはそれを信奉する人の量と質によって実践的に検証される、という関係にあるのではなかろうか。であるが故に、本来理論の創造性には自由な空気と非暴力的相互批判の通行が担保されねばならない、と考える。これは私の経験からも言えるが、 セクト(一般に組織)には似合いの者が結集し縁無き衆生は近寄らず、近寄ったとしても離れるということが法則であり、事実あの頃私は一目で相手が何系の者であるかが分かったが、この体験からそういう気質論に拘るようになった。これは政治のみならず宗教であれ、業種・会社であれ、趣味であれ、有効な根底の認識となって今も信奉している。

【1967年の動き(当時の関連資料)】  (政治闘争の流れ)

 2.26日、秋山新委員長による三派系全学連が、砂川基地拡張阻止青年総決起集会に労学1500名結集、機動隊と 衝突。反戦青年委員会約1000名が共闘していた。この時のデモは、「基地突入」を目指す三派系全学連がゲート前に待機する機動隊に突っ込み大乱闘戦になり、多数の負傷者を出し、10数人が逮捕されている。これが秋山委員長時代の闘争の幕きりとなった。


 3.2日、善隣会館事件。


 4.28日、沖縄デー。三派系全学連の労学5000名が集会とデモ。


 5.26日、三派系全学連、砂川基地拡張阻止、公安条例撤廃のデモ 2000名結集し、機動隊と衝突。革マル派250名独自集会。


 5.28日、現地砂川で決起集会。この日は主催団体の揉め事で、共産党系の安保破捨中央実行委及び民青系全学連と、反戦青年委と反代々木系全学連の分裂集会となった。社会党は集会を中止した。このあと反代々木系全学連.反戦青年委700名が機動隊と衝突し、学生48名逮捕されている。


【「第7回6.15記念集会」】
 6.15日、「第7回6.15記念集会」。ブントが電通会館、中核派が九段会館、社青同解放派・社学同ML派・革マル派・民青同・アナーキスト系各派が独自集会。総参加者は約5000名。

 6.18日、「人民日報」は、次のような談話を発表している。

 「樺美智子は日本の反動派に殺害されたが、彼女は今なお日本人民の心の中に生きている。それにしても憤慨に堪えないのは、一握りの日本共産党修正主義分子が、意識敵に事実をねじまげて再三流言蜚語を飛ばし、恥知らずにもこの民族的英雄を『トロツキスト』であると侮辱したことである。現代修正主義者は、自ら革命をおそれる一方、他人にも許さない。彼らは、革命の原則を堅持し、敢然と革命をやる者には誰でも『トロツキスト』のレッテルを貼り付け、革命者を『反革命』に仕立てる恥知らずな腕前を持っている」。

 6.20日、4度目の原潜横須賀港寄港阻止闘争に各派の学生が参加。三派系はここでも機動隊と激しくぶつかった。


 6.30日、全学連、佐藤訪韓阻止闘争で300名が機動隊と衝突。


 7.9日、社共両党主催のベトナム侵略反対・砂川基地拡張阻止集会に労.学3万人。新しい戦闘的組織として誕生した三派全学連は反戦青年委員会と共に5000名の隊列で別行動をとり、基地正門前に座り込んだ。激しいジグザグデモで気勢を挙げる中、6時ごろから機動隊との激しい乱闘となり、100名以上が負傷、労働者数人を含む43名が逮捕された。「流血の砂川」が再現することになった。この時民青系全学連は2000名を結集し、整然デモ。革マル派は約250名で別行動となった。


 9.9日、「エンプラ寄港阻止1.17実行委」が発足。


 9.7日、佐藤訪台にして三派系全学連が羽田空港付近で機動隊と衝突。12名検挙される。


 9.12日、三派全学連が東京.清水谷公園で集会を開き日比谷までデモ、口火を切った。


【「激動の7ヶ月」】
 67.10月からの7ヶ月は、後に「激動の7ヶ月」と言われ、三派全学連の特に中核派の行動が目立った。この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルが定着した。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾 などが登場していたという背景と関連していたようである。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット・タオル覆面・ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。
(私論.私見)

 この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが 適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の警察警備隊指揮者にはこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう言う意味では取締り側にものどかさの度量があったのかも知れない。そういう時代が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していく。しかし、それでも闘争が活動家を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。

【佐藤訪ベト阻止羽田現地闘争へ】
 佐藤首相の南ベトナム訪問が発表された。今や、「ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する怒りの抗議を突きつける必要があった。中核派、社学同、解放派からなる三派全学連は、反戦青年委員会を巻き込みながら「労学提携による実力阻止」の強硬方針を打ち出した。この時、中核派は「ゲバルトで闘う」という方針を提起している。これをめぐって社青同解放派は「中核派の玉砕主義」と野次り、中核派は「社青同の日和見主義」とやり返したと伝えられている。しかし、この方針が受け入れられていくことになる。当時の朝日新聞記者高木正氏の「全学連と全共闘」が羽田闘争を克明に記述している。

 10.7日、三派全学連は中核派と社学同.社青同解放派の二派に分かれて集会を開いている。社学同.社青同解放派900名は中大に、中核派1000名は法政大に陣取った。この二派はあわや衝突寸前の動きをも見せていた。

 この時の様子が国会質疑で次のように語られている(「衆議院会議録情報 第056回国会 地方行政委員会 第3号」(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/056/0320/05610110320003c.html ))。
 後藤田説明員曰く、「当日の25百名の学生のうち、都内の学生は大体15百名程度、地方からの上京者は約千名程度と見ております。都内では早稲田、中央、法政、明大、東大教養学部、東京工大などの各大学、地方では立命館、京都大学、専修大学、横浜国立大学、埼玉大学、大阪市立大学、同志社大学、広島大学、岡山大学等の学生が目立っておりますけれども、参加した出身学校は、北は北海道大学から南は九州大学にまで及んでおります。

 さようにいたしまして、大学別の数でございますが、私どもが現認をいたしておりますのは、比較的多いのを申し上げてみますと、専修大学が64名、神奈川大学が17名、埼玉大学が60名、群馬大学が22名、静岡大学が23名、山梨大学が32名、大阪経大が25名、大阪市立大学が57名、大阪大学が40名、京都大学が78名、同志社大学が55名、立命館大学が111名、広島大学が55名、岡山大学が41名。なお、都内の大学は、それぞれ早稲田大学、明治大学、中央大学、法政大学、これら各大学相当数出ておるわけでございます。

 なお、これらの学生は、前日の七日総決起集会を開きましてからそれぞれ宿泊をいたしておりますが、法政大学にマル学同中核派を中心とした学生6百名、中央大学と明治大学に社学同と社青同解放派を中心といたしまして16百名程度、早稲田大学に革マル系全学連を中心とした3百名前後、社会文化会館に構革派学生を中心とした3百名程度が宿泊をいたしております」。

 
明けて10.8日、佐藤首相の南ベトナム訪問日を迎えた。ヘルメット.角材で武装した両派は数を増やしながら別個に羽田空港へと向かった。10.8日午前7時30分頃、社学同、解放派部隊1500名が、国電御茶ノ水駅から羽田へ向かった。午前8時、京浜急行大森海岸駅で下車した部隊は、佐藤首相が通過する予定の高速1号線の鈴ケ森ランプから柵を乗り越えて乱入、高速道路上を進撃していった。待ち受ける機動隊と乱闘になるも数で圧倒し、60年安保闘争以来はじめて機動隊の阻止線を撃破し実力で突破した。羽田闘争はこれでフタ開けした。.この闘い以後、いわゆる三派全学連は勇名をはせ。ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化していくことになる。部隊は空港へと向かった。そして、穴守橋付近で、萩中公園からデモしてきた反戦青年委員会グループと合流、同橋を固める機動隊と衝突して角材、投石でぶつかってゆき、これにたいし、機動隊は激しい放水で防戦した。
 
 早大からは革マル派400名、 社会党本部のある社会文化会館からは構造改革派300名も向かった。まず、革マル派が機動隊と衝突した後穴守橋下流の稲荷橋で集会を始めた。次に中核派が機動隊を「一瞬のうちに粉砕」して弁天橋に到着した。社学同.社青同解放派は穴守橋で投石.乱闘し始めた。装甲車が放火され燃え上がり始めた。迂回した機動隊は革マル派が陣取る稲荷橋に突っ込む形になりここでも乱闘となった。


 一方、法政大学に結集した千人の中核派は、萩中公園で総決起集会ののち、直線道路を突進してきたが、弁天橋から迎えうった200人の警官隊を、勢いのまま完全に圧倒して四散させ、弁天橋を固める警官隊と対峙していた。角材と投石で進んでくる学生たちを阻止し、放水車で追いかえそうとする警官隊、その激しい放水で川の中へたたき落とされる学生も多数いた。

 その間、10時半すぎ、佐藤首相の乗った特別機は、羽田空港を飛びたった。


【「第1次羽田事件」。羽田で三派と機動隊激突、中核派系京大生・山崎博昭君死亡】
 10.8日、いわゆる「第一次羽田事件」で中核派京大生が死亡し、樺事件の再来となった。10.50分頃、中核派のいる弁天橋上でも乱闘となったが、体制を立て直して猛然と殺到した中核派は装甲車を奪取した。1台の警備車の警官がキーを残したまま逃げ、学生がその車に乗り込んで獲得したものであった。学生は、バックして他の警備車を押しのけようと突進させた。その周辺で乱闘していた学生や警官が、危険を避けて、川の中に自分から飛びこんで難を逃れる。学生の乗った警備車は、前進しては速度をつけてバックし、他の警備車や放水車にぶつかっていく。その運転席に、ものすごい放水車からの水があふれた。運転席の学生がマイクで叫ぶ。「こちらは全学連主流派。すべての学友は、この車に続いて空港の中へ進撃してください」。この声に、周囲のビルの上や道に群がった野次馬の間から拍手があがった。

 その後一瞬、橋上の学生と警官隊の乱闘がやんだ。「誰か死んだ」の声が、野次馬の間にもひろがった。午前11時25分、京大生・山崎博昭の死亡事件が発生した。

 警察発表は、「学生が運転した車によるれき殺」であり、中核派は「機動隊員の警棒による撲殺」と解剖所見などをもとに発表し、見解が対立している。山崎氏の死の疑問は、現在にいたるまで解明されていないが、‘60年安保闘争の樺美智子に次ぐ、政治闘争史上二人目の犠牲者であった。

 いずれにせよ事件が起こった。午後1時居合わせた全員が一分間の「黙祷」を捧げた後、学生部隊は再び空港突入をはかろうとして突っ込んでいった。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。この日最後の大乱闘となった。結局3時頃、萩中公園に集まって解散し、10.8羽田闘争は終わった。この時、山崎氏の死のほか、重軽傷者600人以上、北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが第一次羽田闘争と云われているものである。

 この日、反戦青年委員会の労働者約2000名も参加している。青年部決定で組合旗を持って参加したのは、国鉄労働組合、動力車労働組合、東交等々。

 10.8羽田闘争は全世界に巨大な衝撃を与え、全米のラジオ・テレビが8日朝のトップ・ニュースで伝え、イギリスBBC放送、タイム紙、中国新華社、北京放送、パキスタン放送なども報道している。

 
なお、この日民青同系全学連は、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと言われている。あいにく「赤旗祭り」が多摩湖畔で開かれており、こちらに参加していた。10.9日、赤旗は、山崎君死亡事件に対し、「反革命分子と反動勢力とのあいだの衝突」と見解発表し、民青系全学連もこれに同調する中執声明を出した。

 「衆議院会議録情報 第056回国会 地方行政委員会 第3号」(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/056/0320/05610110320003c.html )で、後藤田氏は、山崎博昭氏死亡事件の様子を次のように答弁している。
 「私がそれでは現認状況を、書類を持っているので、詳しくお答えいたします。午前10時1分ごろに学生が、先ほど三井課長が説明をしました警備車の前面窓をハンマーや角材などでこわして、窓から中に入っております。学生の人相等も現認しておる者があり、黄色いヘルメット帽をかぶっていた男であります。北側の警備車の運転台の窓越しに他の学生と話をしておることも現認をしております。そうして11時ごろに北側の警備車を学生が運転をして前進をさせ、橋の西端付近まで進ませ、停止をさせておる。すると、今度はバックをさせまして、この警備車の後方に駐車しておりました放水車めがけて激突をさせる。それがために、放水車は5メートルくらい空港側に後退をいたしております。そうして11時24分ごろまでの間、同様方法で警備車を前進させては勢いをつけて後退をさせ、そうして放水車に激突をさせて、これを数回繰り返しましたので、放水車は空港内に10メートルくらい押し戻され、このために橋上には放水車がなくなり、警備車の一台が学生の手にわたって橋上の阻止線が破られた、こういう状況でございます。

 11時25分ごろにその警備車は橋の西端付近にありましたけれども、これを学生が空港内に向かってバックさせ始め、そのうしろには学生が押しかけて、投石をしながら車とともに空港内に向かって前進をしてきたわけでございます。11時27分ごろ、警備車はさらに後退をして空港内にまで進入する。橋のたもとから車首までの間大体数メートルの地点くらいまで車は中に入ってきております。学生も車のあとに続いて空港内に進入をして、投石活動を始める。この学生たちの進入を排除するために、空港内に待機をしておりました第五機動隊が、橋上に向かって一斉に学生たちの排除活動に入ったわけでございます。続いて方面機動隊赤坂大隊もそれに加わっております。

 すると、先ほど申しました警備車が、車の前及び橋の上に機動隊、学生の集団がいるにもかかわらず、橋上に向かって急発進をして機動隊のうしろから突っ込んだ、こういう形になったわけでございます。このために大部分の機動隊員と学生は避難をしておりますが、数名の警察官、学生が逃げおくれて警備車に接触をし、追突をせられる、こういうものも若干名出たわけでございます。警備車はそこで一たんとまったようでございますが、すぐにまた前進をした。そうして車と橋の北側手すりの間が大体一メートル足らずの間隔でございます。このとき倒れた警察官、学生を他の機動隊員が引き起こして助けておりますが、学生一名が警備車前部右角付近で右足を引っかけられて倒れて、前輪の右側で腹部をひかれて、機動隊員も倒れたままそこで足にけがをしております。警備車はそこで再び一たん停車をいたしましたけれども、このとき警備車の下には、車の右前輪と右後輪の間に学生と機動隊員が倒れておった。そのときの状況は、学生は橋の手すり寄りに足を向け、頭部が車の後輪近くにあって、くの字型にからだを曲げて倒れておった。警備車はさらに前進をして、右後輪が学生をひいて、機動隊員の足元近くを通っておるようですが、二、三メートル前進して、そこでまた一時停止する。また前進をして橋の西端に進んだわけですが、通過したあとには学生が頭部をまつ赤に血に染めて、ぐったりして倒れておった」。

【「第1次羽田事件」で、新左翼運動が昂揚
 この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、第一次羽田闘争は70年安保闘争に向かう導火線として、「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。

 また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され闘われたという点でも転回点となった。「直接行動ラジカリ ズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも言われている。この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区−市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャックの時代へと突入していくことになる。

 10.8羽田闘争に対して、46名の呼びかけ人(梅本克己、小田切秀雄、佐多稲子、杉浦明平、田中寿美子、鶴見和子、野間宏、羽二五郎、日高六郎、務台理作など)により「10.8救援活動についての要請」アピールが出されている。これにより「10.8救援会」画発足。


 10.8日以降、第二次羽田闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦 病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争へと立て続けに闘争が爆発してい くことになる。


 10.9日、各大学で山崎君虐殺抗議集会とデモが行われる。キューバ革命の指導者ゲバラの処刑がボリビア政府によって発表される。


 10.1 0日、空港公団、機動隊2000名を動員して三里塚空港杭打ちを実施。反対同盟1000名が阻止行動。


 10.12日、詩人の岩田宏、黒田喜夫ら4名が発起人となり、31名の連名で、「あの日、他の誰も為さなかった佐藤訪ベト阻止の行動をとった人たちを、暴力分子に仕立て上げることによって、その陰に私たちの権利である示威表現の自由を圧殺する国家権力の暴力と、何より佐藤首相の南ベトナム訪問という我が国の実質的なベトナム侵略戦争加担のモメントを画する支配層の行動を隠そうとしている」との抗議の声明書が発表されている。


 10.14日、梅本克己、大江健三郎、小田実、鶴見俊輔、羽二五郎、日高六郎、堀田善衛氏ら21名連名で、概要「国家権力によって武装された警官の暴力と、学生の肉体的行動による抗議とは、冷静に比較するならば、その暴力性において同じ程度のものではない。学生の行動の行き過ぎを批判するだけでなく、それに百倍する力を持って、日本の政治に対して抗議したい」との声明が発表されている。


 「10.13日には京都大学で学生葬が行われ、京大河野健二.井上清.野村修.同志社大鶴見俊輔各教授ら1300名が参加し、夜は反戦青年委員会の統一行動に引き継がれた。この日は全国反戦青年委員会の統一行動日として、全国各地で青年労働者の集会.デモが行われ、それがあわせて山崎君追悼.抗議の闘いとなった。東京では、7000名の青年労働者.学生が日比谷野外音楽堂を埋め尽くし、激しいデモを行い、大阪では大阪総評が一割動員を指令、組合旗を掲げて3000名が参加、雨の中を弾圧をけって闘い抜いた」とある。


 10.17日、日比谷野外音楽堂で「虐殺抗議、山崎君追悼中央葬」に1万余名が参加。秋山委員長逮捕される。但し、この頃三派間に中核派と反中核派の反目が生じつつあった。


 10.20日、国鉄労働組合と動力者労働組合が、三日間米軍基地へのガソリン輸送をストップさせる実力闘争を展開している。


 10.20日、吉田茂没(89歳)。10.31日国葬。


 10.21日、ベトナム反戦統一行動。全国44都道府県で140万人参加。東京集会昼夜で6万名参加。反戦青年委も参加。三派系全学連は7000名を動員し、警察側を驚かせている。この日、アメリカ、イギリス、西ドイツ、オランダその他で、ベトナム反戦統一行動が行われている。アメリカのデモは1932年以来史上最大規模の20万人デモとなり、デモ隊の一部が国防総省に突入、国防総省が休業に追い込まれている。


 11.2日、佐藤政府は、米国原子力艦艇エンタープライズを中心とする艦隊の日本寄港を了承。


 11.3日、三派全学連と反戦青年委員会の部隊が三里塚闘争に初めて組織的に参加。沖縄で祖国復帰総決起大会、18万名参加。


 11.11日、エスペランチスト由比忠之進が佐藤首相への抗議自殺、米空母イントレビッド号から脱走した4名のアメリカ兵がべ平連を通じて反戦声明を発表するという事件が起こっている。


【第二次羽田闘争。全学連3000名空港付近で機動隊と激突】

 11.12日、佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。社学同.社青同解放派は前夜中大に終結し、中核派も合流し東大に籠城した。この時も三派全学連3000名が羽田空港近くの大鳥居、羽田産業道路付近で機動隊と衝突した。羽田付近に到着した反中核派連合は、丸太をかかえた「決死隊」を先頭に、機動隊の阻止線を突破、激突をくりかえした。空港付近で機動隊と激しく衝突。学生運動史上最高の333名を越す大量検挙となった。

 反戦青年委員会主催の決起集会も、日比谷野外音楽堂に5千人を集めて行われた。革マル派は東粕谷中学校に結集、穴守橋へと向かったが、機動隊のサンドイッチ規制で、平和島までひきかえした。民学同・フロントなどの構造改革派系学生も別行動で参加しデモ。民青同系も約200名がゲート前で「佐藤訪米反対」を唱えている。

 この時の特徴として、機動隊側の装備の格段の充実が為され、検問強化.催涙ガス弾の容赦ない発射を浴びせられている。しかし、三派系は第一次、二次羽田闘争を高く評価し、ゲバルト闘争に自信をもたらし、「守りの運動から攻めの闘争へ移行し、定着した」と総括している。

 その一方で、各党派は、羽田闘争の評価をめぐって数多くの論争を産みだし、新たな党派の再編と分岐を準備する前段になった。中核派、社学同、ML派は、街頭実力闘争を評価し、「組織された暴力とプロレタリア国際主義の前進」(社学同)、「武装することによって7ヶ月の激動を勝利的に展開し、70年安保闘争を切りひらいた」(中核派)などと総括した。一方、革マル派、構改諸派は「街頭実力武装闘争は小ブル急進主義」とし、組織的力量を蓄えていくことの方が重要であると主張した。また、社青同解放派は「いったん持ったゲバ棒を二度と手放そうとしないのは誤りである。問題は街頭のエネルギーを生産点に還流し、労働者と結合していくことが重要」と総括した。


 11.12日、羽田で逮捕を免れた中核派学生約100名がその足で成田へ向かっている。


【中核派秋山委員長の檄】

 12.1日、前進紙上での秋山委員長の発言。

 「羽田闘争の衝撃が大きかったのは偶然ではない。支配階級にとっては『革命を現実的なものとして恐怖』し、死に物狂いで反撃に転じさせると共に、闘う側にとっても闘いは単なるおしゃべりや空想の産物であることを止め、勝利か敗北か、生か死かを究極にまで突き詰めることを要求されるのである。そうした意味で、羽田闘争は社共など公認の既成指導部のあらかじめ敗北した運動を乗り越える地平にある」。
 「羽田の闘争が示したものは、スターリン主義の決定的反動性である。日本共産党が果たした犯罪的役割には計り知れない程である」、「羽田闘争の最も重大な核心点の一つを為す官憲の虐殺行為に対しても、権力に手を貸し、闘う学生の死をあざ笑っているのだ。我々は絶対に許すまい」。
、「エセ『共産主義』国の反動的本質を今こそ決定的に打倒しなければならない。学生戦線における民青『全学連』の反動性を全大衆の力で暴露し、羽田を闘い得ず、逆に闘いに襲い掛かる彼らを徹底的に追放しよう」。

 12.2日、政府はこの日の閣議で、アメリカ第七機動艦隊の旗艦原子力空母エンタープライズの日本寄港を了承した。エンタープライズは加圧水式原子炉8基を推進力とし、戦闘機など70〜100機を搭載する巨大原子力空母であった。政府は当初予定していた横須賀を避け、佐世保を寄港地に決定した。以降、寄港阻止闘争が始まる。


 12月、社青同解放派が「反帝学生評議会」(反帝学評)結成。

 これより後は、「第8期その1」に記す。





(私論.私見)