1965〜66年 全学連運動史第7期その1
全学連の転回点到来

 (最新見直し2007.2.17日)

 これより前は、「第6期その3」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第7期は、1965年から始まった。安保闘争の時の新入生は64年で卒業し、ほぼ「安後派」世代になったのがこの65年からである。この期の特徴は、もはや三方向に分化した学生運動の統一機運を最終的に破産させ、学生運動が新たな出発をしていくことを明確にさせたことに認められる。新たに新三派連合が誕生したことが全学連運動の転回点となった。社青同解放派と反戦青年委員会・ベ平連が誕生したのもこの時期である。

 65年初頭よりの慶応大学の学費値上げ反対闘争はその後に続く私立大学系の同種紛争のハシリとなった。この頃から「マスプロ大学の諸問題」が浮上し始め、学生運動は未経験の闘争に立ち向かっていくことになった。なお、2月にアメリカのベトナム民主共和国に対する爆撃が開始され、いわゆる反戦闘争と日韓会談阻止闘争という政治課題が、安保闘争後の低迷していた学生運動を盛り返させていくことになった。

 この頃既に党派的な運動能力を獲得していたのが革マル・民青同・社学同・社青同・中核派の五派潮流であり、これらのセクトが思い思いの理論と闘争方針を引き下げて以降の運動を組織していくことになった。中でも、後者の新三派系が反戦青年委員会 との統一闘争を獲得しつつ台頭を見せていくことになり、その倍加する勢いで 66年末新三派連合による全学連を誕生させた。こうして自称全学連が三系統確立されることになり、それぞれが競合しつつ学生運動を担っていくという学生運動の転回点に到達するに到った。

 この頃新たに、党の中国共産党との亀裂に伴い毛沢東思想の実践を強く主張する親中共系の日共左派系グループが登場することになり、学生運動内にも影響を与えていくことになった。この間ベトナム戦争がエスカレートしていく一方で世界的に反戦闘争の気運が高まり、この影響も加わってわが国の学生運動を一層加熱させていくこととなった。

 この65年時点より、闘争が多方面かつ連続して行なわれていくことになる。 これを追跡すれば紙数を増やすばかりとなるのでエポック的な事を経過順に見ていくことにする。なおこの年以降は、学園闘争の流れ及び自治会執行部争奪の動きとその関連、党派の形勢を一くくりにし、政治闘争の流れを区分して見た方が理解しやすいので二部構成とする。


1965年の動き

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1965年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

(自治会執行部の争奪の動きとその関連)
 この頃の各派全学連と傘下自治会は次のようになっていた。革マル派全学連は傘下の自治会をいくつか失っている。後の三派系全学連(東京都学連再建準備会、京都府我学連、九州学連−中核派.社学同.社青同)が有力私大の自治会を足掛かりに胎動を見せ始めていた。民青同系全学連が一部の国立大学と地方大学を中心に組織化しつつあった。この年は京大.東大.早大などで民青系が大きく伸びていくことになった。

 1月、慶応大学で授業料値上げ反対闘争が勃発した。一挙に3倍近い学費値上げが慶応大生を立ち上がらせることになった。1.30日、「初の」全学無期限スト突入。2.5日終結したが、これが学費闘争の先駆けとなった。この経過には高村塾長の「現在の学生に対する値上げではない。お前達には関係無い」という論理での強権的な遣り方が憤激を促したようである。


【第4インター第1回中央委員会】

  2.3日、第四インター日本支部発足。2.28日、第4インター統一後3ヶ月、第1回中央委員会が開かれた。太田は、次のような議案を提出した。

 「ついに二月七日、米帝国主義は北ベトナム爆撃を開始した。『世界革命』は次のように書いた。『現瞬間の世界情勢の特質は、主導権が米ソから、中国を中心とする植民地革命の側に決定的に移行したという点にあると我々は判断する。これは劇的な一瞬である』。まさにこのような瞬間にこそ、単一の、最高に緊密に団結した、強力な中央指導部の指令のもとに一体となって闘争する革命的前衛党の現存こそが、はかり知れぬ重大な意義を持つのである。このことを予測したがゆえに、我々は六三年秋以来、単一の強力な日本支部の建設を一刻も早く実現したいと、心血を注いで来たのだ。

 我々は二月二十八日、単一の日本支部をついにかちとった。我々は辛うじて間に合ったのだ。我々は危うくも間に合ったのだ。いま始まりつつある政治的激動=均衡の崩壊=革命前的情勢への発展の中で、階級闘争全体の主導権を掌握すべき部隊として、まさに時間切れ寸前にすべり込むことができたのだ」。
 「我々の今日的課題は、現実に日本の労働者階級を導いて政府危機を発展させる政治的機動を実施することである。我々はそれを拠点地区において、拠点単位において、ようやく、端初的形態においてではあるが始めようとしている。我々はゆっくりと構えていることはできない。評論家的に外から眺め、無責任な、高踏的な論評をして満足していることは断じて許されない。我々はいま、まさに時々刻々、革命的前衛としての価値それ自身を問われている」。
 「米軍がダナンに原子砲を配備したという事実は後のワシントンの見解(戦局の焦点はダナンに移るとする見解)と結びつけるならば、恐るべき爆発的な事態が次の一、二ヶ月のうちに展開されるであろうと我々は判断しなければならない」。
 「我々は次の数ヶ月の階級闘争の激化の中で、六・一五をはるかにのりこえるような敵権力との暴力的衝突を指導し得なければならない。 街頭での衝突と、『生産点での闘い』とは正しく弁証法的に統一されなければならない。『労働者階級』がゼネストを整然と打つところ迄成熟し、しかるのちに十分に準備された武力闘争が展開される、というような図式主義を断固として克服しなければならない。労働者は逆に街頭で直接に国家権力と対決する闘いを通じて、企業をこえた=個別資本への憎しみをこえた階級意識へ飛躍する。だからそれが次には企業をこえた政治スローガンのためのストライキの意識を成熟させるのである」。
 「我々はベトナム侵略反対闘争に立つ。アメリカ大使館への抗議行動を市街戦へ転化させねばならない。そして更に米軍基地に対する実力行動のイニシアをとらねばならない」。

 一中委議案は、採択されなかった。東北と関西がこれに反対し、東京は、旧JRをふくめて、議案の立場を基本的には支持したが(東京の旧JRは、街頭行動とストライキの関係についての太田の方針にたいしてだけ保留した)採択に付さず、方針としてはこの内容で関東が実践にうつすことに同意することで妥協が成立した。

 一中委譲案は、数日後に予定されていた三多摩での基地闘争について、同盟の機関決定を得ようとするねらいを、直接にはもっていた。この闘争は五月十八日に行なわれるはずになっており、日本の反戦闘争の新しい地平――米軍と日本の大衆の直接的衝突を切りひらく目的で、立川基地にむけて計画されていたのである。つまりこの議案は、三多摩社青同運動の政治的頂点を意味していた。六三年以降の政治的突出の最高の地点が、五・一八の半武装デモであり、その理論的裏づけが一中委譲案であった。もちろん旧ICPグループは、機関決定にはこだわってはいなかった。しかしこの闘争の成功をテコに、同盟全体を太田路線で獲得していこうとする意欲を議案は宣言していたのである。闘争にむかって、三多摩社青同の内外における政治的緊張は、増大していった。警察権力、社民官僚、同盟内部の論争、そして新たに、社青同東京地本を中心の舞台とする、社会主義協会派との分派闘争がはじまっていた。


 3.13日、社学同は64年にマル戦派、ML派、独立派、関西派に4分解していたが、東京社学同が、ML派の一部と独立派の共同による社学同統一派を結成する。統一派に参加しなかったML派の一部は毛沢東主義への傾斜を深めていく。


 3.19日、第2回全国学生文化会議が開かれた。


【社青同解放派が結成される】
 3.30日、社会党の青年組織である「社会主義青年同盟」の戦闘的分子分派が社青同解放派を結成している。この頃社青同学生班協議会は、 東大・早大等を中心に組織を拡大していく中で中央=協会派と対立し始め、こうした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されるという経過となった。社青同解放派は、その後67.10月、政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、67.12月、傘下の学生組織として反帝学評をつくねことになる。

 
もともと社青同は、日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワーに目を付けて党の若返りをはかって創設されたものであるが、ここへ戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派を結成したというのが史実のようである。解放派は、社青同内部で着々と勢力を伸張させ、東京地本を占拠するまでに至る。なお、第四インター系の加入戦術で解放派を離れた部分もあるが、ブント系に比しての「四分五裂」は少ない。「社青同解放派」は、その後政治団体として「革命的労働者協会」、傘下の学生組織として「反帝学評」を結成する。

 4.13日、高崎経済大で、「有力者の口添えと地元優先を理由に無試験入学」させる大学当局の遣り方に反発した学生が、不正入学反対無期限ストに突入している。


【新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成】 
 7.8日、都学連再建第14回大会が開かれ、新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成し、呉越同舟ながら何とかして自前の第三の全学連を創出させようと企図した。法政大(経.文).東大(医).早大(二法.二政).東工大など11大学の26自治会から76代議員、約300名の学生が結集した。日韓条約批准阻止闘争に対する全国学友へのアピールなどの決議と闘争スローガンを採択、大会宣言を発した。

 委員長に山本浩司(早大.二法)、副委員長に吉羽忠(東工大)、書記長に斎藤克彦(明大)、財政部長に山口紘一(法政大.経)を選出した。結成後アメリカのベトナム侵略戦争に抗議し、 米大使館へ400名がデモ。新三派系は折からのベトナム反戦闘争に最も精力的に取り組んでいくことになり、この時点では動員が少ないものの次第に勢いを増していくことになる。時代の気分をいち早くキャッチし取り組んだということになる。もっとも民青同系全学連も、4.22日アメリカ国務省政策企画委員長ロストゥ来日反対闘争に取り組み、羽田空港に3000名動員、抗議デモを行った。引き続いて来日したロッジに対しても連続してアメリカ大使館などに抗議行動を行った。

 革マル派はこれを第二全学連のための陰謀として、都学連再建は「無原則的な野合」だと厳しい批判を浴びせている。

【革マル派が第22回大会開催】
 7.9日、革マル派が第22回大会開催。124自治会から151代議員が参加したと発表されている。委員長には根本氏が留任。早大一文を中心に、札幌医大.秋田大.金澤大.奈良女子大.鹿児島大.東外大等が結集していた。

【民青系全学連の動き】

 7.10日、民青系都学連結成大会が開かれ、22大学.39自治会の代議員と400名の傍聴者が参加。委員長に沢井洋紀(東大.文)、副委員長に田熊和貴(東経大)と植田稔(早大.一法)、書記長に金子博(東大.教)を選出した。

 7.23日、民青同系全学連が、大阪で再建後の第1回大会を開催。68大学・142自治会、約1500名参加。去る日の全学連第15回大会が暴力によって流会を余儀なくされたという歴史的事情を踏まえて、この大会で先の再建大会を第15回大会とすることに決定した。

 この大会では、学生の身近で切実な要求実現、学園民主化闘争を引き続き闘うこと、政治課題として10.5日の臨時国会開会へ向けて日韓条約批准阻止闘争に全力をあげて取り組んでいくことを決議した。この頃私立大学の学費値上げ反対闘争、反動的寮規則撤廃闘争も取り組まれた。委員長に川上徹(東大教育)、副委員長に梓沢和幸(一橋大法)と山本巨人(大阪外大)、書記長に亘理純一(岩手学大)を選出した。


【第4インターの内部抗争】

 7月、第4インターの三多摩の旧ICPの指導的メンバー、徳川、中曾根によって「第四インターナショナルを脱退し、新しいインターナショナルをめざしてたたかおう」と題する文書(「徳川・中曾根提案」)が発表された。この文書は「第四インターナショナルは、死産であった」との主張を展開して次のように述べていた。

 「第四インターナショナルは、ロシア革命がヨーロッパ革命に引きつがれるという展望のもとで組織された。だが現実の世界革命は、ヨーロッパの方向にむかうのではなく、中国革命を突破口としてアジア=植民地革命の方向へ発展した。第四インターナショナルは、革命のこの転進に根づくことができず、土台を失なってしまった。このため、その生誕は一個の死産にすぎなかった。よってわれわれは、第四インターナショナルを脱退すべきだ」

 「徳川・中曾根提案」 は、同盟内部、とくに三多摩の同盟に、巨大なショックを与え、論争は、単なる太田の政治方針の是非をめぐるものから、太田を先頭とする党堅持派と、提案者達の解党派との論争という性格のものに急速に変った。「提案」を太田は大喜こびで利用した。彼は、5.18闘争の失敗を論争の片隅に押しやり、解党主義攻撃を通じて自らの権威を再確立しようとした。

 太田のこうした路線は、八月の第二回全国大会で粉砕された。二回大会前夜、宮城代議員団は、「提案」の問題提起は、同じ問題意識をもつものとして歓迎し、継続討論に付すべき性格のものであること、しかしその結論についてはいったん撤回する必要があること、また大会の討論の中心を、この間の政治方針、政治闘争の総括にうつすべきことを、徳川、中曾根に申し入れ、意志統一をはかった。

 その後の経緯について次のように記されている。

 第4インター2回大会は、東京に反太田派が生れたことによって、一中委とはちがった力関係になっていた。太田の起草した議案は、中執会議によってその矛盾を追求された。すなわち議案の全体が「米中戦争不可避論」でつらぬかれており、これは「ポサダス派」の主張と同一だが、「ポサダス派」を支持するのか、と詰問されて、太田は、「私はパブロを支持する」とこたえた。中執は、議案を採択にかけないことを決定し、討論の素材として太田が提起するだけのものとなった。大会の討論では、議案にたいする反対が、旧JRの部分から激しく展開されたが、旧ICPは太田擁護の論陣を張らず、沈黙を守った。

 大会は「徳川・中曾根提案」を継続討論に付すことを決定し、この問題で反撃のチャンスをつかもうとした太田の計画は挫折した。さらに第三の打撃が加えられた。太田の婦人メンバーにたいする誤った個人的指導がスキャンダルとして暴露され、はげしい糾弾を受けたのである。太田を査問せよという要求がつきつけられた。ここにおいて太田は、一切の役職からの辞任を表明した。大会はこれを受け入れ、太田を査問会議に付すことを決定するとともに、権限をもたない書記として太田を活動の場につけることを決定して閉会した。

 二回大会で逆転劇が演じられた直後から、太田の分派行動が開始された。旧ICPグループの一部が、太田の行動と路線を擁護し、太田派(のちに、BL派=ボルシェビキ・レーニン主義派と自称)を結成した。統一大会から丁度半年で、同盟は新たな分裂・分派闘争の時代に足を踏み込んだのである。新たに選出された中執は、BL派と反BL派との論争の場になった。統一した政治方針や戦術決定は得られなくなった。こうしたなかで、秋の日韓闘争が展開されていった。

 皮肉なことに、分裂が不可避的に進行していった六五年の秋は、東北と関西の加入活動が大きく前進し、そこでつくり出された杜青向の隊伍が、中央闘争において、三多摩を中心とする東京の社青同の隊列と始めて合流したときであった。国会前の闘争で、しばしば、宮城の社青同と三多摩社青同は、となり合わせに坐り込んだ。だが一方は、まさに上り坂にあり、意気軒昂の部隊であり、他方は、壁につき当たり、指導部が混乱し対立して、方向感覚を失ないつつあった。全国的な「政治的機動」が、はじめく可能になったこのときに、「単一の、緊密に団結した中央指導部」か、おそろしい早さで崩壊していったのてある。

【社学同統一派(共産主義者同盟統一委員会)結成】
 8月、社学同統一派(共産主義者同盟統一委員会)が結成された。これは社学同内のマル戦派とML派に参加しない独立派の勢力が増大し、これと関西ブントとが統一して結成されたものであった。

【反戦青年委員会結成】

 8.30日、反戦青年委員会が結成された。当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、すなわち「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。参加組織は、上記三団体のほか国労、全逓、全電通など総評系労組14単産の青年部が結集していた。

 反戦青年委員会は、青年労働者の中への影響という「事業」を進め、これに一定の成果を得た点で左翼運動の歴史に重要な貢献をしていることがもっと注目されて良いように思われる。反戦青年委員会には「日共」系を除くあらゆる左翼集団77の団体・個人が参加していくことになった。7月に結成されたばかり の新三派系都学連も加入していた。
「日本の声」派も運営委員団体として加入していた。

 60年代の青年左翼運動は、ほとんど学生運動に限られていたが、この反戦青年委員会が結成されると急速に労働者の間に浸透していった。反戦青年委員会のその後の経過は、次第に地区・職場・学校等に結成され組織も拡大していき、それと同時に急進主義化し始め、社会党及び日本共産党を「議会主義カンパニア派」と罵倒するに至り、これらとの「熾烈な党派闘争とそれを貫徹する独自部隊の結集」が革命的左翼の任務であるとするに至り、遂には社会党・総評の統制が及ばないことになった。

 この経過につき、高見圭司氏の「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。

 「六・七月は参議院選挙があり、社共総評は選挙にいっさいを注ぎ込み、ベトナム反戦闘争も、日韓条約批准阻止闘争も大衆闘争としてとりくまず、七月参議院選挙が終って、社会文化会館で党青少年局の諮間機関である青年対策委員会をひらく。当時の青少年局長は楢崎弥之助氏であり、青年対策委員長は前川参議院議員であった。この青年対策委員会は青少年局の書記局員、社青同の中執、総評青対部、全日農青年部などの党員で構成していた。

 この初の会議で、社会党、共産党、総評が日韓条約批准阻止にむけて何ら具体的なとりくみを行なっていないことに、それぞれの立場から強い批判の声があがった。この討論の結果“ベトナム戦争に反対し、日韓条約批准を阻止するための青年委員会”(略称、反戦青年委員会)をあらゆる“民主的青年諸組織”に呼びかげてつくり、全国各地に組織することが確認された

 私は、社青同中央敗北いらい久方ぶりの大衆闘争に取り組むことができることに強い意慾を燃やした。ここで第一期反戦ははじまり八月三〇日に“全国反戦青年委員会”は結成された。その指導を担う事務局は総評の山下勝君、社青同の立山学君それに私の三人であった。この三事務局員は運動の飛躍的前進のなかで感動にふるえながらチームワーク良く活動した。全逓中央本部の結成当初からの下部青年労働者の弾圧、日共・民青の反トロキャンペーンなどは、一一月日韓闘争の全体的退潮とみじめったらしい敗北のなかで全国反戦に結集する青年労働者、学生の戦闘的エネルギーの日ごとの高揚の前に問題ではなかった」

 「国際革命文庫」「日本革命的共産主義同盟小史」は次のように記している。

 概要「日韓闘争を通じて、社青同内部の社会主義協会派と左派〔第四インター派と解放派の連合戦線)との対立が、東京を中心に激化し、一部では、暴力的な衝突さえも起きはじめた。社青同の分派闘争は一方的に進んでいった。都労連と結合した東京社青同のデモ隊列から、協会派は同盟員を召還し、東京の社青同部隊は、左派だけの構成になっていった。

 日韓闘争のなかで、全国反戦青年委が結成された。ここには、多くの新左翼セクトも席を与えられた。とりわけ東京反戦は、戦闘的な青年労働者と学生の共闘の場となった。協会派は、過激派に開かれたこの東京反戦にたいしても、労組機関を通じて統制をはかろうとした。社青同内部の分派闘争は、こうして、外にまで広がっていった。

 拡大し深化する社青同分派闘争の一方で、同盟の分裂が進行し、新中執は機能麻痺におちいりつつあった。加入活動の発展のなかでの同盟の危機、これが六五年を特徴づけたものであった」。

 川上徹・氏の「学生運動」は、この動きを次のように評している。

 「新左翼が反戦青年委員会を組織拡大の場として『わたりに舟』で食い入った」とか、「社会党が『ひさしを貸 して母屋を取られる』ことになった」とか、「『反戦青年委員会』の結成は、こう してトロッキストの息を吹き返させたという点でも、日本の青年学生運動、民主運動の統一の発展のためにとっても、重大な禍根を残すことになった」。
(私論.私観) 

 果たして川上氏のように受けとめるべきであろうか。こういう総括の仕方こそセクト的なそれであると思われる。むしろ、この当時盛り上がりつつあった青年運動に着目して学生のみならず青年労働者の社会的意識を培養する観点から、「公党としての歴史的責任」を社会党が果たしたのであり、むしろ日共及び民青同は、新しい時代の激動期を向かえつつあった際に何らの指導性を発揮しようとしなかったばかりか、社会党系が組織した反戦青年委員会運動にセクト的に敵対さえしていったというのが史実であり、このことこそ反省すべきでは無かろうか。

 なるほど反戦青年委員会はその後の運動の盛り上がりの中で各セクトのオルグや加入などで自立性を失い、新左翼系セクトごとの勢力に分裂し、「全国反戦」はセクトが指導する「地区反戦」へと変貌していくことになった。しかし、だから反戦青年委員会の結成を「重大な禍根を残すことになった」と総括するというのは反動的ではなかろうか。私には、 「愛される社会党」の真骨頂が垣間見えるように思われる。ここまで整理して分かることは、社会党は右派・左派ごった煮の中で意外と歴史的な役割を果たしてきているということが改めて知らされるということである。

 9.21日、高崎経済大学で学費値上げ反対闘争。9.22日、お茶の水女子大で新学生寮管理規定に反対のストライ キ突入等全国的に学園闘争が発生している。寮闘争−山形大.お茶の水大、学館闘争−同志社.長崎大.群馬大.徳島大.早大.中大、学費値上げ−慶応大学他私大、私学移行反対闘争−高崎経大、移転反対闘争−東北大、公金横領事件−法政大。


早大で「学館闘争」が燃化
 11月、この頃から早大で学生会館の管理権問題として学館闘争が燃化していくことになった。この頃早大では、3派鼎立時代を迎えていた。三派とは、革マル派と社青同解放派と民青同派であり、革マル派が一文.二文を、民青同系が教育.一法を、その他は社青同を中心とした三派系が自治会執行部を掌握していた。各自治会と文化団体連合会.サークル協議会.生協.早稲田祭実行委などによって「学館共闘」が結成された。議長には大口昭彦(第一政経.社青同解放派)が就任した。

 11.30日、本部前抗議集会がもたれ、ここから本格的な闘争が開始されていくことになった。これより先同志社大でも学館闘争が勃発していたが、大学当局の譲歩に拠り妥結していたが、早大大浜学長以下の理事会当局側は強圧的であり、学生側も急進主義的に対応してこじらせていくことになった。12月になると団交決裂→座り込み→機動隊導入へと発展していった。

 そうした事態の中、冬休みを前にした12.20日、学費の大幅値上げが決定され、大浜学長は、記者会見の席上「授業料の値上げは新入生からであり、諸君とは関係無い」、「学生諸君全員が反対しても、授業料は値上げする」と声明した。早大当局の発表した値上げ案は大幅なものであり、入学金、施設費、授業料等で平均50%を越えていた。翌66年早々から早大は紛争のるつぼになって行く。

 12月、民青系が名古屋で学生集会。180大学、350自治会から2500名が参加。


1965年の動き】(当時の関連資料) (政治闘争の流れ)

 2.1日、原水禁、結成.=あらゆる国の核実験反対。


 2.7日、米国がベトナム北爆開始。


 2.17日、都学連再建準備会を中心とする学生が椎名訪韓阻止羽田現地実力闘争に600名参加。


 4.7日、都学連再建準備会が、アメリカのベトナム侵略戦争に抗議し、米大使館へ400名がデモ。


 4月、アメリカで、ベトナムからの撤退を要求する反戦運動が盛んになっ。この日、ワシントンで1万人の反戦デモが行われ、「ベトナム即時停戦、米軍撤退」が叫ばれ、各地で反戦デモが拡大していった。


 4.22日、アメリカ政府のロストゥが来日し、民青同系全学連が3000名動員し「ロストゥ帰れ」デモ。


【「ベ平連」結成】

 4.24日、ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。 発起人は、小田実・開高健・掘田善衛・高橋和己・篠田正浩など。事務局長古川勇一氏。この頃から セクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。 

(私論.私観) べ平連運動の評価について

 このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信している ことが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。

 ただし、この時点では、セクトが漸くセクト化を獲得しつつ成長していくという「『正』成長」の時期であったのでさほど評価されることなくベ平連もまたセクト的に立ち上げられていくことになったが、セクト運動が「『負』の遺産」を引きずり始めた後退期頃よりはかなり合理的な存在力を示しえた筈の見識であったと思われる。

 とはいえ、ベトナム戦争が終結すると共にベ平連も終息していくことになったのが惜しいと思う。結局もう一つの側面であった先進国特有の「一般市民参加型」運動の限界ということになるのであろう。しかしそれならそれで今からでも改良の余地は大いにあると私は考えている。


 こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め、「60年安保闘争」以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系・民青同系・新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3000名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。


 5.20日、民青同がベトナム侵略反対の統一行動。この日東京では5000名が労.学集会、デモ。


 5.21日、各派が「ベトナム侵略阻止・日韓会談粉砕」の統一行動、5000名結集。


 6.9日、社会党系の「原潜阻止・全国実行委員会」と共産党系の「安保反対中央実行委員会」の一日共闘が成立し、約7万名が参加。民青同系全学連は1万名結集。新三派系昼夜で8000名が抗議デモ。


【全学連各派の日韓闘争】
 6.22日、日韓会談が妥結した。この日、民青同系全学連は6000名結集し、集会とデモを行なった。新三派系も昼夜8000名が抗議デモ、とある(革マル派系 も当然取り組んでいる筈であるが手元に資料が無いので割愛する)。

 10.5日、臨時国会開会冒頭、「日韓条約批准反対総決起集会」を開き民青同系1万人の学生が参加した。日韓条約反対闘争では、安保反対国民会議が再開されず、社共の共同闘争も成らず、全国的統一運動は組織されなかった。新三派系の労・学3000名が昼夜デモ。以降次第に数を増していき1〜2万名規模の闘争へと発展していく。この頃から機動隊のデモ規制が厳しくなり、デモ隊の両側をサンドイッチでジュラルミン盾を 手に並進していくことになった。


 10.15日、反戦青年委員会結成後初の全国青年総決起行動。新三派系2600名を始め、1万7700名が国会へジグザグデモ。


 10.29日、日韓条約批准粉砕全国統一行動。都学連7500名が国会へデモ。


 1 1.5日、韓条約批准阻止総決起大会。新三派系労・学1万7000名が国会包囲デモ。


 11.9日、日韓条約強行採決の暴挙に抗議して社共の一日共闘が実現し、全国329カ所で23万人を動員する。東京では1 8万人の大集会とデモ。民青同系1万5000名が結集した。新三派系も連日万余の数で国会デモ展開。


 12.17日、椎名訪韓実力阻止闘争。羽田空港付近で1000名が機動隊と衝突。


1966年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1966年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

(自治会執行部の争奪の動きとその関連)
 この頃の各派全学連と傘下自治会は次のようになっていた。早大闘争が始まり、東大闘争、横国大闘争その他諸闘争を点火していくことになった。

【早大で学費値上げ反対闘争始まる】

 1.18−20日、早大で、「学生会館の管理運営権獲得」に加えて学費値上げ反対闘争が始まった。これは、前年の12月に、早大理事会が教授会にも諮らず、学生が冬休みに入ってから大幅な学費値上げを発表したことに対する憤激から始まった。約5ヶ月に亘って続くことになった。

 
広谷俊二氏の「現代日本の学生運動」は次のように記している。

 「『庶民の大学』という伝統に強い愛着を感じている学生たちは、値上げによって授業料、入学金などが慶応大学以上に高くなることに憤激し、また、このような大幅な値上げが、学生はもちろん、教授会にすらはかられることなく強行されたことに憤激して、全学をあげて、ストライキに立ち上がった。三万を越える学生が団結して闘い、多くの学生は、これまでにかってない積極性、創意性を発揮して闘争に参加した」。

 民青同系全学連加盟自治会であった第一法学部と教育学部自治会が無期限ストライキ突入。この時、日共の指導の下で高野孟らが民青同系を指揮している。1.21日までに全学部がストライキに入り、以後150日間全学ストライキ闘争が戦い抜かれた。続いて三派系の全学共闘会議 (大口昭彦議長)も1.20日、一政.一商を無期限ストに導いた。革マル派系の一文、二文も同調。1.21日、理工学部もストに入った。中核派、社学同、ML派も存在したが、自治会執行部を掌握するまでには至っていない。早大闘争は、民青同系と全学共闘会議系が競うように運動を盛り上げていったことに特徴が見られる。しかし、闘争の後半になると、革マル派と社青同解放派が対立し始めている。

 学年末試験は1.24日からであったが、試験はボイコットされた。全学部で入り口にバリケードが為された。ここから連日約5000名の抗議集会が開かれた。

 2.4日、「総長説明会」が開かれたが、1万2000名の学生は強硬挑発的な大浜発言に一層怒りを高めた。この頃、民青同系は、「私学への国庫補助獲得運動」を指針させようとしていたが、2.10日、早大.全学共闘会議学生400名が大学本部占拠、籠城。国会稲門会の議員も仲介の労をとろうとしたが為す術もなかった。

 かくて2.21日、機動隊が導入されバリケードが解かれた。ところが、ガードマンが鉄条網を張り巡らし始めたことに反発し、本部前で約6000名の学生が「警察官導入抗議」集会が開かれ、再占拠となった。2.22日、二度目の機動隊導入となり、203名の逮捕者が出た。この日ロック・アウト。2.24日〜3.6日、私服警官護衛下で入試。この間大学側は、40数人の処分を強行した。3.25日、自主卒業式。新入生を迎えた4月再びストに突入。4.23日、大浜総長・全理事が辞意表明し、大浜総長は退陣に追い込まれた。新総長に阿部が就任した。6月、最後となった文学部のスト解除で決着を見たが、「早稲田を揺るがした150日(足掛け7ヶ月)」として刻印されている。


【早大闘争に対する各派の理論】
 この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して何ら有効な受け入れ対策をなしえず、私学へ追いやってきた。一方で、戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対する介入を強め、お得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆行コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→ 借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。 自民党政府によるこうした教育費の切りつめという反動的な大学政策の一方で、財政投融資、軍事費にはどんどんと国家予算を投入していた。これらの動きにどのように対応していくのかが早大闘争の課題であった。

 民青同系は、1.教育機会均等の破壊、2.大学運営の非民主的やり方、教授会及び学生自治会の自治権に対する侵害、3.一部理事による闘争弾圧の為の機動隊導入及び国家権力の介入等への批判を組織していくこ とを指針させた。併せて、4.ひものつかない国庫補助の大幅増額等を要求する学園民主化闘争を指針させていた。

 社青同解放派は、資本と労働の対立という観点からの大学=教育工場論に基づき、闘争を、教育工場を経営する個別権力資本=早大当局と個別労働=学生の闘いであり、教授一般は労働下士官と捉えたようである。こうした「個別資本からの解放」、「産学協同路線粉砕」という理論は、その後学園闘争に対するストライキ、バリケー ド、武装、コンミューンの樹立へと発展する理論的基礎となった。民青同は、 社青同解放派のこうした理論を先鋭理論と位置付け、自民党政府の反動的貧困な大学政策に対する闘いを放棄し、免罪していると批判した。

 革マル派は、国家政策としての大学管理化とこれに呼応する大学当局の産学協同政策に対する闘いとして位置付け、「学問を独占的な産業に従属させ、創造的で自由な、権力に抵抗するような学問を封じ込める結果になる」という立場から批判していた。

 この後明大闘争を担うことになったブントは、この時の早大闘争を次のように総括した。
 概要「各クラス における闘争組織という各自治会学年別連絡協議会方式が指揮系統を混乱させ、ひいては全学共闘の機能をマヒさせた。従って、まさしくあらゆる闘争において、まず第一に要求されるものは、(自治会ではなく)強固な中央集権的な組織の存在である」。

 この理論はやがて「ポツダム自治会破産論」 を導き出していくことになった。こうした諸理論の発展が、後の全共闘運動とその大学解体論の下地をつくっていくことになった。


【東大で、インターン制廃止闘争始まる】

 1.24日、東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコ ット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。「全共闘グラフティー」は次のように記している。

 「東大闘争は医学部における青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部における研究教育体制の合理化−帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する『国立大学協会自主規制路線』のもとに、この闘いを圧殺しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」。

 1月から3月にかけて横浜国大で学部の名称変更に反対する紛争が起こり、学生がキャンパスを占拠、教職員を排除して学生の自主管理を約1ヶ月余にわたって強行した。その自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した、自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的な事態が発生していた。3月には、民青系全学連、全寮連、大学生協連の共催で、大学自治と学生生活を守るゼミナールが開かれた。6.24日青医連・医学連、インターン制廃止統一行動。10月東大の大学院生を主とする「東大ベトナム反戦会議」が所美都子らの手で立ち上げられた。この動きが後の全共闘のさきがけとなって行く。


【横浜国大闘争】

 1月−3月にかけて横浜国大で、学部の学芸学部の学部名変更に反対する紛争がおこり、学生がキャンパスを封鎖、教職員を排除して、学生の自主管理を約1か月余にわたって強行した。この自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的なものとなった。


 その他、長崎大=学館問題、同志社大=学館・寮開放、山形大=自衛隊説明会中止・寮問題、東京農大=新寮建設問題、近畿大=総長選問題、群馬大=学館問題、東北大=移転反対問題、高崎経済大=不正入学・私学化反対、都留文科大=新校舎落成式反対などさまざまな問題をとらえて闘争が展開された。その数、実に全国で65校に及んだ。

 11月、明大にも学費闘争が発生した。11.18日、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。11.23日、約9000名の学生で和泉校舎封鎖、11.28日、5000名で生田校舎封鎖、1 1.30日、駿河台校舎を封鎖し、明大全学闘争委員会が学費値上げ阻止の大衆団交を開いている。4000名結集。この闘争は越年することになった。


 12.9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。その他にも関西学院大や西南学院大では学部新設反対の闘争が起こり、また各医大ではインターン制反対闘争が続いており、東京医歯大はストに突入といった状況を現出しつつあった。
(1965年、自治会執行部の争奪の動きとその関連)

【この頃の各派全学連と傘下自治会】
 この頃の各派全学連と傘下自治会は次のようになっていた。主要党派をゴシック文字で記す。
民青系  以下に記すその他の自治会。
革マル派全学連  早大(一文.二文.一商.二法).金澤大(教養).鹿児島大.宮崎大.奈良女子大.法政(二部).岐阜大.秋田大(学芸)等の自治会を傘下にしていた。
中核派  立命大(経).京大(医).三重大.法政大(文.経).山梨大.横浜国大(教養.経.教.工).広大(教養.工)等の自治会を傘下にしていた。
社学同  東京医歯大.京大(文.教育.農).京都府立医大.桃山学院大.専大.小樽商大.東大(医).中大.明大.同志社大(文.経.商工).滋賀大(経).和歌山大(経).大分大(経).徳島大.香川大(除教育).富山大(教養).法政大(法).お茶の水大等の自治会を傘下にしていた。
社青同解放派  早大(一政.二政).東女大.関大(法).関学大(法)等の自治会を傘下にしていた。
社青同協会派系  長崎大(経.医).佐賀大。
構造改革派.フロント系  立命館大(法.経営.理工.文).法大(社).新潟大。
構造改革派.共青系  神戸大全学部。
構造改革派.民学同系  阪大(除医).大阪市大全学部.岡山大(中執).関学(中執)。

 この春の京大同学会自治会選挙で民青同系が執行部を掌握した。 民青同系は、3月段階で82大学174自治会を押さえたと報告されている。


 3.28日、新三派(中核派・社学同統一派・ML派・社青同)が全学連結成に向けて全国自治会代表者会議開催。


 7.2日、全寮連の第8回大会が開かれた。この時民青系と反民青系との間に暴力事件が発生している。


 7.14日、革マル系全学連が第23回大会。68大学・121自治会。


 7.14日、民青系全学連が第17回大会を開いている。75大学・163自治会(189ともある)、オブザーバー自治会140、一般傍聴者を含めて千数百名が参加した。


【第二次ブント再建】
 9.1日、 既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派」の残存部分との合同がなって、ブントは「第6回共産同再建全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに、ブントは6年ぶりに組織統一をみるに至った。「社学同統一派」と呼ばれる。 これが、「第二次ブント再建」といわれるものである。

 この経過は次のように簡潔にまとめられている。
 「1962年ころから、共産同の残存者によって、まず社学同の再建が進められ、学生活動家を中心に「東京社学同」と「関西社学同」が結成されました。1963年には、「東京社学同」の一部に、“従来の共産同路線は政治闘争偏重主義であり、日共系学生運動に対抗するためにも、路線の見直しが必要である”と主張する「マルクス主義戦線派」(マル戦派)が台頭してきました。これに対抗して、「東京社学同」の多数派は「新しい前衛党の建設」を主張して、「マルクス・レーニン主義者同盟」(ML派)を結成しました。マル戦派も、ML派も、互いに自派が、共産同の正統派であると主張し、譲りませんでした。

 共産同の関西地方委員会を中心とする「関西グループ」は、このような中央の混乱の影響を受けることなく、結束して活動を続け、1962.4月、「関西共産主義者同盟」(関西派)を結成して「社学同派」の盟主となりました。1965.4月、関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して、「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成、更に、1966.9月には、「統一派」「マル戦派」の残存者をも結合して、「共産同第6回全国大会」(再建大会)を開催するに至りました。ここに、共産同は6年目にして、組織の統一を果たしました。これを『第二次ブント』と呼んでおります」。

 他方、「ML派」の一部は、こ のブントの統合に反対し、毛沢東の思想である「人民戦線路線」を取り入れ党の路線とし、「帝国主義を打倒するための人民革命」を目的として、68年「日本マルク ス・レーニン主義者同盟」(ML同盟.書記長鈴木*夫)、・学生部隊=学生解放戦線を結成し、 「第二次ブント」とは違った方向に進むことになる。

 9.3日、東京地本大会乱闘で、社青同解放派が組織敵に排除され、以降解放派は社会党とは別の組織となった。


 9.22日、新三派系全学連再建決議。


 10.20日、新三派系が全学連再建準備会を56自治会で開き、12月再建方針を確立。


 10.24日、全学連、東京・大阪・広島・札幌で紀元節復活公聴会阻止闘争。


 11.12日、「社革新」と「日本の声」 派が合同し、「共産主義労働者党(共労党)」結成。議長に内藤知周、書記長にいいだもも氏が選出される。 党内には、多様な考えが共存するユニークな「前衛党」であったが、構造改革路線を支持する者が多数であったため、外部からは「構造改革路線の党」と目されていた。 


【明大.中大闘争】

 11.18日、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。

 11.23日、約9000名の学生で和泉校舎封鎖、11.28日5000名で生田校舎封鎖、1 1.30日、駿河台校舎を封鎖し、明大全学闘争委員会が学費値上げ阻止の大衆団交を開いている。4000名結集。この闘争は越年することになった。

 12.9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。

 その他にも関西学院大や西南学院大では学部新設反対の闘争が起こり、また各医大ではインターン制反対闘争が続いており、東京医歯大はストに突入といった状況を現出しつつあった。


【全学連(三派)再建大会開催】

 12.17日、既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・ 社学同・中核派)は、明治大学で全学連再建大会を開き、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成 した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学.71自治会・178代議員他1800名。この時、党派はそれぞれの色のヘルメットを着用した。これが学生運動でヘルメットが着用された最初となった。

 この時点での各党派と掌握自治会数、活動家数、動員力は次の通り。

党派 掌握自治会 活動家数 動員力
中核派 36 2.000 6.500
革マル派 30 1.800 3.500
社学同 41 1.500 4.200
ML系 400 1.300
社青同解放派 19 900 2.800
第4インター系 300 800
フロント(構改派) 38 1.000 13.600

 この「全学連再建大会」は結成されたものの呉越同舟的な寄り合い所帯の諸問題をはらんでいた。まず、再建大会を第何回大会として位置付けるかをめぐって対立したことにより明示できなかった。何時の時点で破産したかの認識が異なっていたからであった。なお、60年安保闘争の総括が蒸し返され見解が一致しなかった。こうした対立を乗り越えて、総括を中核派の秋山勝行が、状勢分析を社青同の高橋幸吉が、行動方針を社学同の斎藤克彦という分担制で妥協しつつ何とか「三派系全学連」の結成に漕ぎ着けるという多難な出航となった。

 人事には各派のバランスが図られ、委員長にはブントの斉藤克彦氏、書記長には中核派の秋山勝行氏、副委員長社青同解放派の高橋、社学同の蒲池氏が選出された。中央執行委員数も各派それぞれ9名ずつのバランスを配慮していた。翌 67.2.19日、斉藤氏が失脚し以降中核派の秋山勝行氏が委員長に就任する。

 
この時の議案書は次のように宣言していた。

 「全学連とは、結成されてよ り今日まで、どのような紆余曲折があれ、それは日本の闘う学生・人民の砦であった。日本労働者階級、全ての人民の闘いに全学連の旗が立たなかったことはない」、「50年のレッド・パージ阻止闘争を見よ! 56年の砂川を! 60 年の安保を! 全学連の闘いは、常に、日本労働者階級と共にあり、その先頭に立った」、「我々再建全学連は、その輝かしい闘いの歴史に恥じず、今まで以上にその闘いの方向に向かって、怒濤の如く驀進して行くだろう」(新左翼20年史67P)。

 こうして、この時期全学連は、革マル派、民青同、新三派系の三つの全学連を誕生させることとなった。そのうち三派系全学連が最も行動的な全学連として台頭していくことになり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反戦闘争に向かうことになった。


1966年の動き】(当時の関連資料) (政治闘争の流れ)

 5.17日、反戦青年委員会、ベトナム侵略戦争反対中央総決起集会。労・学 4000名が国会デモ。


 5.30.31−6.1日、労・学1万5000名が次第に数を増しながら原潜寄港抗議行動。300名が機動隊・MPと衝突。


 7.1日、ハノイ 爆撃機抗議緊急集会。各派数千名。


【「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成される】
 7月、羽田に代わる新空港は当初1965.11月に富里に内定していたが地元住民の反対によってくずれ、「三里塚」が突然閣議決定された。三里塚の地元住民には事前に何ら打診もないままであり、閣議決定と同時に、地元の約千戸3千名の農民・住民によって、「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成された。これが後に成田闘争へと繋がることになる。

 9.7日、原潜横須賀寄港抗議闘争。ベトナム戦争反対・総評ゼネスト支持中央集会に3万名。新三派系1200名が基地ゲート前でジグザグデモ。この頃各地の大学で抗議闘争発生。


 10.2日、成田空港反対同盟−三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟結成後初の総決起集会。


 10.20日、全学連再建準備会、ベトナム戦争反対・総評ゼネスト支持中央集会3000名が参加。


 10.21日、ベ トナム戦争阻止・総評・中立労連第三次統一行動に全学連再建準備会1600名参加。


 これより後は、「第7期その2」に記す。





(私論.私見)