1962〜1964年 全学連運動史第6期その3
全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」

 (最新見直し2007.2.17日)

 これより前は、「第6期その2」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 これより62年から64年までの動きについては逐一見ていかず、流れの基本方向を追ってみることにする。却ってその方が判りやすいと思うから。原水禁運動、中ソ論争問題等について重要な問題が呈示されていると思うが長くなるので割愛し学生運動内の動きを追っていくことにした。
 
この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に 全自連→平民学連経由で全学連を再建させていくことになる。これに対して、社学同再建派・社青同・構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくことになるも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりであった。

 ところが、世の中まか不思議な事が起こる。マル学同に流れ込んだ旧ブント系の影響を受けたか革共同全国委内にbPの黒田氏とbQの本多氏の間に確執が発生し、いわゆる革マル派と中核派へ分裂することになる。マル学同から追い出された形になった中核派が三派連合に合流していく ことになり、この流れが民青同に続いて三番手の全学連を模索していくことになった。

 この過程であくまで全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、社学同再建派・社青同・中核派の新三派連合が誕生することになる。こうして、学生運動内部にはマル学同と民青同と新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系・「日本の声−民学同」派系・革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。この間旧ブント系の対立は治まらず合同−再分裂と目まぐるしく推移しつつ二度と求心力を持てなかった。

 
この間の主要な動きについて見ておくことにする。


1962年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1962年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1月、社学同事務局派が大正炭鉱労組大正行動隊の要請で60名で日銀デモ。


 3.3日、アメリカが4月に核実験再開を行う声明をした。


 3月、日韓外相会談。


 3月、東京原水協の大衆集会に、マル学同全学連の活動家がなだれ込んで、「米ソ核実験反対をしない原水協はナンセンス、解体せよ」と云いながら会場を占拠し、流会させた。なお、モスクワの赤の広場で米ソ核実験反対を呼号している。


 3月、共産同東大本郷細胞を解散し、社学同(少数派)機関紙「蜂起」創刊。ブント関西委員会と関西社学同が社学同再建大会を開催。


 3.30日、社学同第一回都大会、事務局派追放。書記局派、東京社学同再建。


 4月、社学同、社青同、構改派による都自代開催。


 4月、キューバ危機。


 4.12日、高野秀夫が神戸大学講演で、「『最近は構造改革の問題がはやりになって……すぐこざかしく評論家ぶって学生運動家らしからぬ形で、この問題に取り組む人達が多くなっていてることを、私はきわめて残念におもいます」と発言。


 4.27日、三派連合(社学同)、日米ソ核実験再開抗議集会。


 4.30―5.1日、「法大メーデー前事件」が発生している。メーデーを前にして、マル学同が、「全学連の下でメーデーを行うべきなのに、分裂工作をしている」として、構造改革派の法大法学部自治会幹部4名を拉致監禁し、一晩中自己批判を迫りつつ暴行した。


 5.1日、社学同・社青同の学生50名が憲法改悪反対・核武装反対をとなえて自民党本部に突入。


 5.2日、構造改革派系の社会主義学生戦線(フロント)が結成される。上部団体は統一社会主義同盟。共青同を凌ぐ勢いを見せていくことになる。


 5.10日、民青系が都立大に27大学34名の代表で、「安保反対・平和と民主主義を守る東京都学生共闘会議」を結成した。


 5.11日、ブント系社学同と社会党系社青同、構造改革派の反マル学同三派連合が改憲阻止闘争で自民党本部に突入。


【大管法闘争】
 5.25日、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。これが大管法闘争を引き起こした。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で、日共系が、6.1日、全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系急進主義者は闘争課題に設定していなかったようである。

 5.30日、三派連合が、反改憲、反日韓、反核実験闘争。


【樺美智子追悼二周年】

 6.15日、樺美智子追悼二周年が開かれた。最前列を占めたマル学同全学連700名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。

 これを「暴挙」とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要「マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない」とまで、厳しく弾劾している。社学同は、樺美智子追悼・大学管理制度反対の集会とデモに800名参加。


 7月、書記局派、社学同都学連大会開催


 7.1日、第6回参議院選挙に、革共同全国委が「革命的議会主義」を旗印に、「反帝国主義、反スターリン主義の反戦闘争」というスローガンをたてて、黒田寛一氏を全国区から出馬させていた。但し、得票数は2万3千票で、右翼の赤尾敏氏の12万2千票余にも及んでいない。


【マル学同全学連第19回大会】

 7月、マル学同全学連第19回大会が開催された。「大管法阻止全国学生共闘会議」結成を呼びかけ、共闘の方針として、「10月以降、ゼネストを含む闘いを展開する」と決定。この間、マル学同の他党派オルグが盛んであったが、「共闘では無く他党派解体による傘下吸収方式」であった為、却って反発を買っていた。その様について、立花隆・氏の「中核対革マル」は次のように記している。

 「他の党派が集会を開いていると、そこに押しかけて、マル学同との『統一行動』を主張して集会を妨害するという『押しかけ統一行動』が、『他党派の解体を促進するための統一行動』という名のもとに行われた」。

【反マル学同内で、ブントと構造改革派が対立。社学同が、全自代において社青同、構改派を暴力的に排除。一旦解体へ】
 7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。かれらは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針に食い違いが発生し、ブントは、「憲法公聴会阻止」闘争一本槍を 主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。その他の諸運動においても社学同再建派と構造改革派の間にことごとく意見の対立が起こり、最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出した。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。

(私論.私見)

 この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、「60年安保闘争」総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見・見解・指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、 意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、 残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったのは致しかたない。

 私見に拠れば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、既述したようにも思うが、右翼・宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられる事により、結果として左翼運動全体がが縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることになる。そういうことに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。

 これも既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころか、それらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより、圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのでは なかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。この経過もおいおいに見ていくつもりだ。

 7月、社学同都学連、京都府学連共催で都道府県学連協議会結成。


 第9回原水禁大会


【世界青年学生平和友好祭で、日共が「革新会議」を排除】
 この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、共産党の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議(革新会議)の参加を排除した。平和友好祭は元々、思想・信条・政党・党派のいかんにかかわりなく、平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。「革新会議はファシスト団体である」と言って参加を拒否したのである。昨日まで一緒に「平和と民主主義」 の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムという三段論法によりファシスト視したのである。
(私論.私観)

 これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、れんだいこには、宮顕の「芥川論」考察で明示したように、氏の典型的な近親憎悪的気質による「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿弊と私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮顕式統一戦線論に隠されている反動的本質がここでも見て取れるであろう。このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ、組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることが出来る。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮顕の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。 私には、どう見ても宮顕を左翼運動の指導者とは見なせない。マスとしての左翼運動の盛り上げは一切眼中に無く、「排除の強権論理」により戦う人士の圧迫にのみ力を入れる性癖ばかりが目に付いて仕方ない。

 8月、中ソ論争激化。8月国際学連大会に出席した根本委員長ほか3名が、モスクワの「赤の広場」で「ソビエトの核実験に抗議する」デモを行っている。


【革共同全国委の内部対立(bPの黒寛とbQの本多の対立)が表面化する】

 「革共同全国委の第3回総会」(「三全総」)が開かれたが、この時1・地区党の建設問題、2・労働運動戦術問題等々で、黒寛派と本多派にことごとく意見の対立が生じていることが露見した。黒寛派は、労働者の産別委員会を組織の中心に据えていくべきだと主張し、本多派は、党組織を地区委員会から党中央への順次積み上げ方式で再編成すべきだと主張した。労働運動の諸潮流への関与の仕方においても対立し、黒寛派は、「革共同以外の党派に指導されている労働運動は、いかに戦闘的であろうと批判を基本に据えるべし」と主張し、本多派は、「戦闘的労働運動がある場合には共闘し、実践の中で次第にヘゲモニーを獲得していくべきだ」と主張した。

 この対立は、政治局から末端の細胞にまで及んでいき、激烈な論争が巻き起こされていった。


【第三次社学同再建】

 9.16日、社学同全国大会が開催された。味岡修が委員長になった。全国25支部150名を結集。大会宣言の中で、概要「全学連の指導権を握ったマル学同は、運動の過程で問題を解決しようとせず、単なる『反帝反スタ綱領』の観念的思考に安住し、『既成左翼と変わらぬし思想的根拠を持つに至った』ので、全学連運動の沈滞をもたらした」と批判した。日本共産党については、「反米闘争を強調することによって事実上国家権力に対する有効な闘争を放棄している」と批判した。このたびの社学同はおってマル戦派と反マル戦派(ML派)へと分裂していくことになる。


【社青同全国学生班協議会が憲法公聴会阻止闘争を展開】

 こうした動きの中で社青同中央本部の学対中執佐々木慶明氏の指導する社青同全国学生班協議会(略して「学協」)が中心となり、仙台・名古屋等の憲法公聴会阻止闘争を展開した。実力闘争を全面的に否定し憲法の「完全実施」を求める改良闘争を個別的に積み上げていくことが、改憲に対する護憲の闘いであるとする中央本部との路線対立を次第に鮮明にしていった。この中央本部と全国学協の路線対立は次第に労働者同盟員にも波及していった。次のように記されている。

 とりわけ各地の憲法公聴会の集約をなす、62.9.27中央公聴会の阻止闘争をめぐって、地元であり全国最大の地本である社青同東京地本の内部の左・右の対立が一挙に表面化し激化した(当時の東京地本は山下委員長=国労、多鹿書記長の構改派が主流、反主流が立山学副委員長、山崎耕一郎組織部長=共に協会派)。「現地阻止闘争は極左冒険主義だ」と拡大東京地本委員会で叫ぶ高見圭司政治共闘中執にヤジと怒号が飛ぶ中、「慶明にもしゃべらせろ!」と文京支部の石黒忠君(忘れがたい絆と友情を以後の闘いの中でもつ)のドナリ声の提案の中で佐々木学対中執が見解を述べ拍手をうける(立山・山崎君が渋い顔をする)。

 このような中で、9.27に向けて地本内の左派を結集した闘争委員会を結成し、二千名に近い東京地本は「分裂」二重権力化し、九・二七闘争を迎えるに至った。東京地本の部隊500名は、社・共・総評はどこも闘争放棄する中で機動隊との激突を繰り返しながら闘争を貫徹した(この闘争のオルグ過程で東京地評のオルグ団からの「闘争参加はヤメロ、パクられても組合は面倒をみない」といった数々のドウカツをハネ返して、地本の左派の同盟員は闘争に参加したのであった)。

 この闘いの隊列の三分の一は三多摩分室(第四インターの主導)で、最大の勢力であり(三多摩分室は小島昌光君=六〇年安保全学連中執であり、学民協をめぐり、慶明氏が一杯クワされるなど、同時に仇敵のような間柄であった。しかし彼とは後に親密なる盟友となる)、その他は都内の活動家を中心とした左派連合であった。KTCおよび協会派も共に未だ組織力は脆弱であり、個々のメンバーによって左派連合に影響を及ぼしていたにすぎなかった。だが九・二七以後この左派連合に結集した各支部の中心活動家約二〇〇名位は結束を固め、互いに連絡と交流の輪を広め、六三年二月予定の東京地本執行部大会に向けて左派執行部の確立を目指して動き出す。その実践の中心を社会党地区オルグ団の中の社青同同盟員十数名が担っていくことになる。この流れが東京地本構改派執行部打倒・左派執行部確立に向けて、対抗する構改派・後押しする東京地評との間で各支部の激烈なオルグ合戦に突入していくのである。それは全国社青同の路線・組織をゆるがすものであり、新左翼諸派に衝撃を与えていくものとして発展していった。

 9月末、憲法調査会の中央公聴会へのデモが、マル学同全学連.社学同.社青同.構改派など各派学生の合流によって行われている。


 9月末、憲法調査会の中央公聴会へのデモが、マル学同全学連.社学同.社青同.構改派など各派学生の合流によって行われている。


 10.31日、マル学同全学連がゼネスト。


【日共系の「大管法闘争」】
 10月、中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。この時民青同系は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。

 11.13日、平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。そこで、民青同系105自治会。三派連合86 自治会、マル学同51自治会という勢力分布が発表された。自治会占有率40%ということになる。63年中の全学連再建方針を決議した。1ヶ月半後に再び代表 者会議が開かれ、民青同系175自治会、反民青同系120自治会と発表し た。占有率60%ということになる。この間の自治会選挙で民青同系の進出がなされたということになる。

 11.17日、民青同系が「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3000名、全国7地区で集会、抗議デモを展開し た。

【全学連各派による「大管法闘争」】
 大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。

 11.1日、社学同・社青同、構改派三派系が、大学管理制度改悪反対統一行動。2500名が抗議デモ。この時、江田五月(社青同)が委員長だった東大C自治会は各派の完全共闘によってストに入り、東京における2500名のデモの中心部隊を形成している。また社学同がリードする京都徒でも3000名のデモが行われている。双方とも動員数がかなり落ちていた。(10.30日に三派連合が、11.1日にマル学同ともある)。

 11.30日、マル学同も含めた四派連合が形成され、安保闘争以来の大集会となった東大銀杏並木前に約4000名の結集で「全都学生総決起集会」が持たれた(「東大銀杏並木6千名集会」)。

 
この四派連合に対して、川上徹・氏の「学生運動」は次のように揶揄している。
 「民主運動の前進しているところには、『なんでも』『どこでも』介入して行き、それまでの自分たちの『論理』も『道筋』も意に介しないトロッキスト各派の無節操ぶりを示してあまりあった」。

(私論.私見)

 大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には 、「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であるように思われる。にも関わらず、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。

【四派連合を廻って、マル学同内部に深刻な対立発生】
 革共同全国委内の黒寛派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及し、四派連合問題を発生させた。マル学同内は、三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争を激化させた。「東大銀杏並木6千名集会」は、ブント、社青同などのヘゲモニーで開かれ、マル学同はその呼びかけに応えるという形で参加したが、全学連委員長・根本仁は、四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義、ベッタリズム統一行動」と非難し、「反帝.反スターリニズム」の方針を貫徹し得なかったと総括した。後者は前者を「セクト主義」と非難し、引き続き四派連合の統一行動を続けるべきだとした。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくことになった。

 12月、社学同内の岩田弘の帝国主義論を信奉するマル戦派が理論機関紙「マルクス主義戦線」を創刊した。


 12.8日、国会の開会日に焦点を合わせた統一行動として、東京で800名、京都で6000名がデモを行い、未然に「大管法」上程阻止の闘いを見せた。


1963年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1963年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 「中ソ論争」の公然化。


 1.12日、マル学同全学連第33回中執委開催されるが、深刻な対立を引き起こした。「統一行動の中で、他の分派、例えば社学同などを充分に批判できなかった」といった意見が出されて、内部の分裂が公然化した。


 1.19日、都学連再建大会。社学同・社青同・構改派らの都内13大学自治会参加。


 1.25日、池田首相は大管法提出の見送りを決定した。


【「革共同の第三次分裂」発生】
 2.20日、革共同全国委政治局議長黒田寛一他3名の政治局員が、「最後の手紙」と呼ばれた党内闘争の宣言を発表し、事実上の組織分裂を引き起こした。黒寛派は、「日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派」(革マル派)を結成し、機関紙「解放」を創刊し、反黒寛派は、「日本マルクス主義学生同盟中核派」(中核派)を結成し、機関紙「前進」を継承した。こうして、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを革共同の第三次分裂と云う。 (これについて「革共同の第三次分裂考で更に検証する)

 この分裂の直接の契機は、前年の62.9月の「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点での革共同全国委の中心人物であった黒田氏と本多氏の間の抜き差しならない意見対立にあり、四派連合問題もまたこの延長線上で発生したものであった。つまり、革共同全国委内の黒田派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及していった結果として四派連合問題をも発生させ、これが導火線となって革共同の第三次分裂がもたらされたという経過になる。

 この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒寛派についたのは後にJR東労組運動の指導者として台頭していく倉川篤(松崎明)氏と森茂氏らの少数であった。こうして黒寛派は、革共同全国委から出ていくことになり、新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。

 マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立は当然の事ながらマル学同内部にも対立を波及させていくことになった。しかし、マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同ではむしろ圧倒的多数派であった。こうしてマル学同内部では革マル派が優勢を保ったため、本多派の方がマル学同全学連から追われ飛び出していくこととなった。「東京都内における学生活動家の数は、分裂当初、僅か18人になってしまった」と本多氏自身が語っている。本多派は以降新たにマル学同中核派を結成することになった。こうしてマル学同の学生組織も革マル派と中核派に分裂することとなった。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。これより以後は、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことに なる。

【「中核派と革マル派の対立の背景】
 この対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。古賀氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。
 概要「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのことである」。

 他にも、大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本多氏の気質として あったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せていた。黒寛の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」 であるとも看做していた。

 これに対し、革マル派は、中核派は黒寛理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、ズブズブ統一行動主義、過激主義」であると云う。例えば、こ の時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒寛理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと「我々は水ぶくれと寄せ集めによる『党建設』を絶対に拒否する」と理論化していた。

 運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わないことが革命的であるかの如くに云う日和見主義」といい、革マル派は、中核派に対して、「主観主義的情勢分析、分析ならぬ信念に基づく危機感のあおり立て」と云う。

 も う一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。

 この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方も ある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張 し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。

 党建設を廻っての意見の対立も深刻であった。立花隆・氏は、著書「中核対革マル」の中で次のように分析している。
 「革マル派は、『社会民主主義やスターリニズムかに真にイデオロギー的に組織的に脱却した革命的労働者のケルン(中核)作りが必要』と力説したのに対し、これに対し中核派は、『ケルン作りと云えば聞こえはいいが、要するに革マル派のやっていることは、サークル作り、喫茶店で革命をおしゃべりする人間を集めて、ネチャーエフ的陰謀主義的な組織を作れば革命が出来ると思っている』、『党が建設途上にあろうとも、その党が党として大衆の前で帝国主義に対して闘って行く必要性、党の為の闘いと同時に、党としての闘いを展開していくことを忘れている』と批判した」。
(私論.私見) 中核派と革マル派の分裂考

 中核派と革マル派の分裂について、この時点での対立については、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないか、と私には思える。革共同とブントとの違いのカオス・ロゴス識別に従えば、 中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から中核派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。 鎌田氏はこれを「再生ブントという性格的側面を色濃く持っていた」と指摘している。

 立花隆は、「中核対革マル」文中で、「どこまで行っても、水掛け論である。双方の悪口、なかなかよく相手の特徴をついている。どちらが論理的に正しいかなどということは、決められない。それれを決めるのは、歴史だけである。何年か何十年か後に、どちらかの党派が革命をやり遂げることが出来たら、そちらが正しかったということになるのだし、どちらも出来なかったら、どちらも正しくなかったということになるのだろう」と述べているのが参考になる。

 こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。

【「唐牛問題」発生】
 2月、「唐牛問題」が発生している。(これについては「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後」)考」で更に検証する)。

 TBSラジオが録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を放送し、安保闘争時の全学連委員長唐牛健太郎について、彼が田中清玄(戦前の武装共産党時代の委員長であったが、獄中で転向し、その後行動右翼と活躍していた人物)から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていることなどを、暴露した。これに共産党が飛びつき、「トロッキストの正体は右翼の手先」だと、大量に録音テープを配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。

 この資金カンパについて、島氏は次のように述べている。「安保では、月に1000万円の規模でカネが必要だった」、「全学連の加盟費なんかで足りるわけはない。文化人からも集め、街頭カンパもやった。条件のつかないカネなら、悪魔からだって借りたかった」、「(田中清玄が援助してくれるという話があったとき、)相手が田中だと知っていたのは、幹部と財政部員だけだが、条件なしなら貰っちまえという判断になった」、「全体からいえば、田中のカネなんか一部分で、大したものではない」。唐牛自身次のように述べている。「北小路が委員長になった36年の17回大会の経費も、田中とM氏のカンパで賄ったんじゃないかな。全学連にはカネが無かったですよ」。しかし、これが唐牛ひいてはブントの「いかがわしさ」を公認させ、葬り去られる契機となった。

 3月、「日韓会談反対」闘争を中軸として、金鐘泌訪日阻止闘争が羽田で行われた。


 3.17日、東京で平民学協全国学生集会が開かれた。130大学.1100名の結集。日韓会談反対、大学管理法粉砕、学生戦線統一を決議した。


【マル学同全学連が、革マル派全学連に純化する】

 4.1−2日、マル学同全学連第34回中執委が開かれ、統一行動を唱える6名の中執を罷免するという分裂劇が演じられた。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。(乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した)


 5.31日、全学連、社学同・構改派の四派、原潜寄港阻止・日韓会談粉砕の統一行動に1500名参加。


 6.30日、原潜寄港阻止・日韓会談粉砕の統一行動に1500名参加。


 5、6月、自治会選挙で、民青系が進出した。


【全学連20回大会】

 7.5日、全学連20回大会で革マル派が主導権確立、根本仁(北海道学芸大)を委員長に選出した。革マル派は中核派130名の入場を実力阻止し、6中執の罷免を承認した。この時代議員の定員が満たされておらず、全学連の実質を喪失した事になった。以降革マル派全学連としてセクト化することになった。 


【「平民学連」結成】

 7.16−18日、民青同系全学連の先駆的形態として、「安保反対.平和と民主主義を守る全国学生自治会連合」(平民学連)が結成され、第一回大会が開催された。この大会には、全学連規約に準じて代議員が各自治会から選出された。72大学、121自治会、230名の代議員参加、傍聴者3500名を越えた。

 平民学連が重視したのは、自治会に関する次のような規約遵守基準を明確にしていたことにある。

 自治会は学生のあらゆる民主的要求を汲み上げ実現すること、自治会はみんなのもの、みんなの利益を守るもの、という観点の明確化。
 民主勢力との統一強化。安保共闘会議に結集し、人民の利益の中でこそ学生の利益が守られることを明確にすること。
 国際学連と共に反帝平和の国際統一戦線としての一翼として、全世界学生との連帯強化。
 自治会の民主的運営を徹底的に保障すること。この立場を貫くためには、学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する 闘いが必要である。

(私論.私見) 平民学連規約考

 
れんだいこは、この主張における「自治会の民主的運営を徹底的に保障すること」を支持する。ただし、この項目が「学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である」と結びつけられることには同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、その意味ではこの文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられていることになる、と思われる。そういうセクト的対応ではなくて、「組織の民主的運営と執行部権限」理論の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左翼運動は一気に華開いてい くことが出来るかもしれないとも思う。


 8.5日、米英ソ三国、モスクワで部分的核実験停止条約調印。


 9-10月、三派、革マル派など日韓条約批准反対闘争展開。


【清水谷乱闘事件】

 9月、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)250人が集会しているところへ、革マル派150人が押しかけ、角材で渡り合う乱闘事態となった。

(私論.私見) 

 革マル派のその他党派への暴力的殴りこみはこれを嚆矢とするのではなかろうか。

【民青同系から民主主義学生同盟(民学同)が離脱】
 9月、民青同系から民主主義学生同盟(民学同)が離脱。1964.7月、民学同は「日本の声」派と合流する。その後、共産主義労働者系と「日本の声」派となに分岐し、10月「フロント」と共に全国自治会共闘を結成し、構造改革派系新左翼連合戦線を形成している。

 11.22日、ケネディー暗殺される。


 11.29日、マル学同中核派・社学同・社青同・構改派ら日韓会談粉砕・原潜寄港阻止統一行動に1200名参加。 


 12月、「プロ通派」から田川和夫らが分れて「共産主義の旗派」を結成していたが、この流れから日本共産労働党―共産主義者同盟を経て全国社会科学研究会が結成された。全国社会科学研究会は、1972.7月「真の前衛党づくりを目ざす」としてマル労同(マルクス主義労働者同盟となり、現在社労党へと至っている。


 この社労党から見たこの間のブントの流れは次のとおりである(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)。

 「そして、ブントの崩壊後、戦旗派は丸ごと、プロ通派はその一部が革共同に救いを求めて『乗り移り』、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも六三年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、『反帝・反スタ』のお題目の下に『革命的な自己変革』と『主体形成』に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、60年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、66年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。

 さて、こうして安保闘争の終焉とともにブントの英雄たちが無責任・無節操にも、あるいは新左翼運動に安易に鞍替えし、あるいは自己の階級的地位にしたがって大学やブルジョア社会に復帰していくなかで、ブントの理想を継承しつつ、その小ブルジョア急進主義を止揚し、マルクス主義に基礎をおく労働者政党の結成を追求する少数の人々があった。「プロ通」派―「共産主義の旗」派の流れを汲む林紘義らのグループである。

 彼らは新左翼流の皮相で空虚な大言壮語を退けて、『革命理論なくして革命運動なし』の立場に立って、六三年一二月には革命的サークル、全国社会科学研究会を組織、真にマルクス主義的な革命的理論に立脚した革命政党の創出をめざし、その理論的、組織的、実際的な準備を行うための地道な活動に乗り出した。

 全国社研は理論誌『科学的共産主義研究』によって理論的な成果を発表するとともに、66年にはレーニンの『イスクラ』に因んだ新聞『火花』を創刊、さらにビラやリーフレットの配布などによって先進的な労働者や労働者グループへの働きかけを追求していった。彼らはスターリニズムによって歪曲され、改竄され、投げ捨てられたマルクスやレーニンの革命理論を復元し、それに基づいて日本と世界の現実と階級闘争を分析し、日本における社会主義革命実現に向けての客観的、主体的な条件を明らかにしていった。

 この間の理論的成果としては、1848年の革命以来の国際的な社会主義運動・労働運動の歴史を総括して「二段階革命論」や「統一戦線戦術」の誤りを明らかにしたことなどもさることながら、何よりも特筆すべきは、一般に「社会主義」と呼ばれているソ連や中国の体制は何なのかという“20世紀最大の謎”を解明し、それが一種の資本主義=国家資本主義の体制に他ならないこと、そしてスターリニズムとはその上部構造に他ならないことを明らかにしたことである。これによって初めてわれわれは世界史の現段階と世界体制を正しく把握するカギを得たのである」。

1964年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1964年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

【東京社学同、マル戦派とML派に分裂】
 2.12日、東京社学同が、「岩田世界資本主義論」を掲げた岩田弘をイデオローグとするマルクス主義戦線派(マル線派)とマルクス・レーニン主義派(ML派)、独立派、関西派に分裂する。

 2.15日、社学同内ML派の理論機関紙「マルクス.レーニン主義」第2号で猪雪彦の「帝国主義列強の抗争の新局面−日韓闘争と革命闘争の勝利の為に」論文が掲載され、理論的基礎となる。


 2.25日、社学同・マル学同中核派、日韓会談粉砕の統一行動に350名参加。


 3月、平民学連主催の第1回全国学生文化会議開催。150大学、1810名が参加。


 3.20日、マル学同中核派・社学同、韓国特使金鐘泌の来日に反対、羽田で実力阻止闘争に350名警官と激突。


 3.21日、共産同マル戦派結成。


【「新三派(社学同、社青同、中核派)連合」結成】

 3.25日、社学同、社青同、中核派による新三派連合が結成された。


【「4.17ゼネストが日共の反動的立ち回りで分解する】
 この年総評・公労協は全年来からの長期的な計画と準備の下に大幅賃上げ要求を掲げ、4.17日全国半日ゼネストを計画していた。90万以上を結集する交通運輸共闘会議(国鉄労組を始めとする私鉄・都市交通・全自交など)を芯にして公労協・金属労協等公・民を網羅する600(250万とも)万人のゼネスト計画であった。その規模と影響力から見て47年の「2.1ゼネスト」計画に匹敵またはこれを上回る戦後空前のストとなる筈であった。4.2日、総評は、太田薫議長.岩井章事務局長の布陣の下で決起大会的な意味を持つ第25回臨時大会を開き、最大のヤマ場を目前にして闘争態勢を堅め直した。「太田ラッパ」が鳴響いた。

 この息詰まるようなせっぱ詰まった状況の中、日共は突如4.9日付アカハタ(「4.8声明」)で、責任主体を記さない単に「日本共産党」の名義のままの幹部会でも中央委員会名でもない声明文「全民主勢力と団結し、挑発を排して、頑強に、ねばり強く戦い抜こう−春闘を闘う全労働者に訴える」という論文を掲載し、4.17ゼネストに対する警戒を指示した。 声明文は、春闘を支持するといいつつ、「4.17半日ストの方針には『深い憂慮をしないわけにはゆきません』」、「総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と提議していた。 

 この声明は、ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった多くの組合幹部・活動家を憤激させた。総評事務局長岩井は、直ちに談話を発表し、「統一闘争の態勢を分裂させる者であり、階級政党として根本的に誤った態度である」と非難した。社会党の河上委員長は、4.17ストを断固支持するとし、共産党の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難した。

 にもかかわらず、日共は、次々と同様指示を飛ばし続け、次第にスト反対を打ち出していった。労働戦線は大いに混乱し、4.17ストは挫折させられることとなった。公労協を始めとする総評は、日共に対し「組合破壊分子」.「スト破り」という一斉攻撃を浴びせることになった。
(これについては「4.17スト問題について」で更に検証する)

 4.28日、マル学同中核派・社学同・社青同・構改派など日韓会談反対・新暴力法粉砕の統一行動に1000名がデモと坐り込み。


 5−6月、自治会選挙では、平民学連が全国規模で進出した。


 6月、全寮連が民青系執行部を選出した。


 6.13日、新三派連合により「統一都自代」が開かれ、ここで都学連再建が確認され、更に全学連の再建を目標とすることが協議された。


 6.19日、憲法改悪阻止・日韓会談粉砕全国統一行動。


【四派連合が早大革マル派へ殴りこみ「7.2事件」】
 7.2日、翌日に予定された憲法調査会の答申に対する反対デモの計画を練るため早大構内に集まっていた革マル派約80名に対して、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力約100名が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけた。3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。

 早稲田大学一文学部の自治会権力をめぐる争いが原因となっていた。奥浩平氏の「青春の墓標」で次のように明らかにされている。
 概要「これまで日本の戦闘的学生運動にしるした早大一文の意味は計り知れないほど大きかった。安保闘争をはじめ大管法闘争においても早大一文は一千単位の動員を勝ち取ってきた。だがY派(革マル派のこと)が自治会執行部を占拠するや、一文は一挙に凋落して今日の姿になった。クラス討論は行われず、他党派の看板はブチ壊され、ビラ入れは暴力的に妨害された」。

 そうした状況の中で、自治会自治委員選挙が行われ、「フロント(構造改革派)の諸君が、一文の学生委員を圧倒的に固めた」。フロント40〜50名、M戦(社学同)15名、Y派(革マル派)15〜25名という内訳となった。形成不利な革マル派は、委員総会を「正当な委員だけで開かねばならない」という口実で自派だけで開いて切り抜けようとしていた。フロントは各派に支援を要請し、中核派その他がこの要請に応じ、一文自治会再建目指してオルグ団を派遣した。しかし、革マル派はこれら活動家に対する公然テロを開始した。7.2日夜、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力が、「徹底的自己批判を迫る」ことを決意し乗り込んだ、という経過であった。

 7.10日、革マル派全学連第21回大会開催。


【「平民学連」が全学連再建アピール】
 7月、第2回平民学連学生集会が開催された。現在時点で、平民学連に結集ないし、民主化している自治会224・マル 学同27・社学同22・社青同21・構造改革派38という力関係になった。占有率67%ということになる。民青同系が急速に支持を増やしていることが知れる。この頃、共産党内で志賀グループが造反したが、学生党員の中に動揺はおこらなかった。京大と中央大の学生細胞の一部が呼応した。

 平民学連は、いよいよ全学連の再建が具体的日程に上ってきている段階と位置づけた。9月初め「全学連を再建しよう」という「全国学友への呼びかけ」 発表。

【中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成】
 9.7−8日、中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成した。だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マ ルクス主義戦線派=マル戦派.独立社学同)と、そうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。

 9.8日、米原潜寄港阻止、アメリカのインドシナ侵略抗議、安保共闘再開要求の総決起大会。1200名の隊列を組んで参加。


 10.3日、新三派連合は、「全学連再建準備全国学生集会」を開 いた。これに先立って中核派は、都学連再建を企図したが、革マル派の妨害で失敗した。


【民青系が全自代開催】
 10.17−18日、民青系が全自代開催。正式参加自治会150、オブザーバー自治会35、その他個人オブザ ーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。1・過去のいきさつに関わらず、2・無条件で、3・全ての学生自治会が参加でき、4・全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128・反対14・ 保留4で可決された。

 この時反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義者む(トロツキスト)を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。

【全学連再建の動き】
 10.19日、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んで、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派は一切の全学連再建は認めないという立場に固執し、新三派は自分たちだけでも即時全学連再建を主張した。構造改革派は、この時も諸潮流の統一を主張したようであるが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。

【党中央が、民主連合政府構想を発表】

 11月、日共第9回党大会が開催され、民主連合政府構想が発表された。この大会で党は、「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」と述べ、「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」と強調した。

 「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく 闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチ ァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロツキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。

 11.12日、新3派連合が原潜寄港阻止全国緊急行動。


 11.27日、平民学連と全学連再建委員会は共催で、原潜寄港反対、日韓条約反対と学生の諸要求を掲げて、東京で7000名の参加する集会とデモを行った。


【民青同系全学連の誕生】
 12.10−11日、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備 協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうし て、革マル派全学連に続いて二つの全学連が出現することとなった。71大学、129自治会から代議員276名、評議員182名。

 この全学連は順調に発展 し、66年7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68年2月には国際学連の代表権を回復させた。「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであ り、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」(川上徹「学生運動」)とある。その主張は、全学連の課題として、独立、平和、民主主義と生活向上の為に闘い、全学連が統一戦線の一翼となり、教職員と連帯して幅広い統一戦線を結成するという「社会党、共産党の団結を中心に、全ての民主団体、各層人民が統一することは私達学生にとっても切実な要求であり、このために闘わなければなりません」を指針させていた。

【都学連再建の動き】

 東京都学生自治会連合(都学連)は1949(昭和24).9月に結成され、学生運動を推進する上で大きな役割を果たしてきていたが、全学連の分裂と共に都学連も分裂していた。学生運動の主導権を握るために都学連の再建が課題となりつつあった。

 12.18−19日(20−21日ともある)、新三派連合による都学連再建準備大会が開催された。中核派が全学連即時再建を強く主張し、これに反対する革マル派が途中退場し、構造改革派は代表を送らなかった。65.7月をきして都学連再建大会を開くことを決定した。京都府学連がこれに提携し、全学連再建の動きが加速した。

 この時の再建派の心情が次のように語られている。

 「いわゆる『安保後』といわれた分裂と危機の時代から、統一と発展に抜け出る過程に我々は居る。その過程では、安保全学連を乗り越えるための闘いで、いくつかの異なった立脚点が提起されている。それが一つになり、全学連運動を支えるまでには、あと何年かの年月が必要であろう。

 だが、そのことは全学連も又その時まで再建しなくても良い、とか、出来ない、という考え方を何ら意味しないであろう。全学連は一つの溶鉱炉てせある。異なった見解も、全学連としての闘いをいかに押し進めていくのか、についての論理と、現実の闘いそのものを薦めていく中で、止揚しなければならないのだ。現実の階級闘争の要請に応えることなくして、いかなる論理も実りあるものとはいえない云々」。

 これより後は、「第7期その1」に記す。





(私論.私見)