1961年 【全学連運動史第6期その2】
マル学同系全学連の確立と新潮流形成期(第一次ブント運動の解体終焉過程)

 (最新見直し2007.2.17日)

 これより前は、「第6期その1」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この期の特徴は、三派(社学同・マル学同・民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブント−社学同指導部の多くがマル学同に移動したことから、全学連執行部はマル学同が掌握することになった。これに対し、民青同は全自連を通じて自前の全学連創出に向かう事になった。他方、ブント−社学同残留組と革共同関西派と新たに生まれた社青同派と構造改革派が新潮流を形成していくことになった。年末には社学同残留組と社青同派と構造改革派による三派連合が結成された。こうして「全学連三国志」の世界へと突き進んでいくことになる。

【1961年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1961年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.1日、革通派、解体。


【革共同全国委の呼号】

 1.10日、革共同全国委機関紙「前進」第20号に、「革命的マルクス主義者の原則的統一の為に」との見出しで次のように指針させていた。

 「安保闘争.三池闘争の総括として、既成左翼の完全な指導性喪失、革命的前衛党の欠如、他方でのブント系小ブル急進主義運動を敗北の原因とし、これら全ての党派を乗り越えて反帝.反スターリンの世界革命戦略の下に労働戦線の深部に革命的中核を組織するべきである」。

 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年冬のノート」に次のように記されている。

 「1.21日(中略)おそらく、俺の一生の中で、昨年8月以降、現在にいたる時期ほど、無内容で、空虚で、動揺的な時期はなかったろう。何一つ生み出すことをせず、その努力をせず、行動の基準はバラバラで、毎日毎日が動揺的な時期。今年に入ってからも、それは変わらない。そしてやがて30歳を迎えようとする。俺の一生がこれから始まるか否かの瀬戸際であるというのに!苦悩し、呻吟し、再生をはかるべきこの時期、俺は何をしたか、それは非難されても然るべきであろう」。

 「過去の歩みの検討から始めよう。それはやはり、昨年の闘いについての厳しい批判から始まるであろう。自己自身への検討は、内省的な、外界から切り離された『自己批判』ではなく、日本人民の歴史的闘いそのものを批判し、そこで決起した民衆の、そしてその先頭に立った組織の、そしてそれを指導した俺自身の闘いへの、仮借なき闘いでなければならない。この批判は、その対象を打倒するまで本質的なものでなければならない。もし、これ回避したり、中途半端に終わらせたとき、俺はやはり死なねばならないであろう。1年掛かっても、2年掛かってもやらねばならない。この批判こそ、現代社会への根本的批判として俺自身への弾劾になるのではないか。そう考えたとき、俺はやはりやるべきことをやっていないのだ。ブントの内部闘争、それはまだ始まりかけたばかりである。『批判』が矮小化されている。1960年のブントの分裂・停滞、それは重い重いものなのに」。

 2月、戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を立ち上げる。その後、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。


【「全自連」に構造改革派の影響が及ぶ】

 この頃、「全自連」指導部が構造改革派の影響を受け造反した。60年後半期から61年の3月にかけて、日共内の構造改革派の動きに連動した新グループが生み出されることになった。東京教育大学.早大.神戸大.大阪大などの指導的活動家が構造改革派へ誼を通じていくことになった。宮顕系党中央は、トロツキスト学生追いだしの後今度は構造改革派学生の反乱を受けることとなった。

 民青同系の指導幹部黒羽純久全自連議長・田村・等等力らが「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここでは、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を掲げていた。

 
この背景には、この間のブント的運動の評価に関する対立もあった。党中央は、「トロツキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党−共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロツキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」(日本共産党第7回党大会.14中総決議)と規定していた。

 が、黒羽らは、「トロツキストは、いわば共産党の『鬼子』」であり、「すなわち彼らの大部分は、共産党内部から共産党に愛想をつかし、あるいは『善意』と『革命的良心』をもって分かれていったのである」(現代学生運動研究会編「現代の学生運動」)として、むしろ共産党の指導の誤りこそトロツキストを生みだした根源であると云う立場をとった。つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価している点で、宮顕式党中央の見解と対立したということである。

 補足すれば、党中央は、「トロツキストを米日反動の手先として民主運動の戦列に送り込まれた分裂挑発分子」と規定しており、黒羽ら全自連指導部は、「民主運動、学生運動の見解を異にする一つの潮流」とみなし、学生戦線の統一回復の観点から話し合いが必要であるとの立場に立っていた。こうして、党から見れば、左派系トロツキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも党指導直下の学生運動指導部の造反であったことが注目される。
これにより、日共と民青同は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。


 2.15日、日共が学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出している。


 2.26日、共産主義者同盟全国労働者細胞代表者会議開催。


【戦旗派解体、革命的戦旗派へ。続いて革共同全国委と統一】
 3.7日、共産主義者同盟革命的戦旗派指導部名で、戦旗派の革共同全国委への合流が指針された(「第六回大会で同盟を革命的に解体し革命的マルクス主義者の原則的統一をかちとれ! 反帝反スターリニズム革命的プロレタリア党の創造とわれわれの現在的任務」)。解散決議を経て黒寛派の革共同全国委へ吸収されていった。

 次のように主張している。
 概要「ブントの分裂以後半年間が経過しており、ブントの再建目指して『統一協議会』」結成的な動きがあるが、そうした雑炊的集団、戦術左翼集団―同盟は醜悪腐敗の極であり、『われわれは、あらゆる形での旧同盟復活の試みに対しては、同盟の解体と止揚をめざす第六回大会をもって最後の答えとする』であろう。今やブントを革命的に解体し、戦旗派を中心とする革命的部分と革共同全国委との原則的統一を斗い取ることを、われわれの現在的任務であることを確認することを革命的戦旗派指導部の名において右宣言する」。

 この声明では、ブントの歴史的意義は完全否定され、「同盟はその出発点において破産していたのだ」と黒寛節一色に塗り込められ、次のように宣言している。
 「われわれの統一の対象は、明確に、革命的共産主義者同盟全国委員会以外にない。われわれは、革命的マルクス主義の立場に立ち、『反帝・反スターリニズム』を立脚点として一貫して革命的プロレタリア党のための斗争を斗って来た革共同全国委員会の基本的立場こそ、われわれが現在獲得すべく苦斗しているところの立場と原則的に一致することを確認する。このことは同時にブントを解体、止揚し、一点のあいまいさも残さず非妥協的に斗いぬくであろう」。

 黒寛節は続き、次のようにブント再建派の動きを罵倒している。
 概要「ブント再建派は、自己防衛を唯一の紐帯とする雑炊的雑居集団であり、醜悪な同盟分派斗争の腐敗と堕落のなれの果である」。
 「池田内閣打倒斗争に向かう者は卑小な政治運動屋であり、労働運動に向かった者は『労働者の中に転げ込んだ』だけであり、労働運動の中に没入し戦術左翼の職人根性と戦斗性を革命的プロレタリアートの歴史的自覚と思い違え、無自覚な即自的プロレタリアートの次元に居座り、プロレタリアートに戦斗的号令と教訓を垂れる組合運動屋は、疎外された労働の中で必然的に生み出されるプロレタリアの自己否定的直観を欠いた非プロレタリアでありプロレタリア的自覚の頑固な妨害者として、その役割はまさに反動的・反プロレタリア的である」。
 「自らの醜悪さを自覚しえず、自らの生み出した汚物を直視しえない者には、批判の解剖刀ではなくて、打倒のナタがふさわしいのだ。われわれは、われわれが今まさに自己否定的に止揚せんとしている旧同盟の全汚物と屍の再生を、革命的プロレタリアートの名において許すことはできない
 「かかる斗いを現実的に妨んでいる共産主義者同盟を一刻の猶余もおかず、革命的に解体し、止揚せねばならない。われわれは当面の緊急の任務、同盟の解体と止揚の、第六回大会をかちとるべく斗うであろう」。
(私論.私見)

 
今これを見るに典型的な黒寛理論であり、戦旗派が革共同全国委と緊密な呼吸を合わせていたことが知れることになる。

 全自連は、3.16−19日、「4全代」(第5回自治会代表者会議)を開き105自治会、350名を結集した。全学連の統一を決議した。既に全自連内部は東京中心に構造改革派が進出しており、そうした内部緊張を高めたまま新学期闘争の体制を固めた。


【全学連第27回中央委員会で、革共同=マル学同の指導権確立】
 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。唐牛委員長、北小路中執、清水丈夫、岸本健一らが合流していくことになった。

 こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至り、革共同全国委系がブント戦旗派を吸収した。こうしてマル学同全学連の誕生となった。

 
社学同委員長篠原は、当時の早稲田大学新聞紙上で次のように述べている。
 「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で 吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」。

 これを付言すれば、黒寛式革共同の「他党派解体路線」のしからしむるところとなったということであろう。ただし、マル学同下の全学連の動きは、ポスト安保であったことと、ブン ト全学連的華やかさがなかったせいによってか、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。

三分裂ブントの革共同系移行の様子

 三分裂したブントの一部が革共同系に流れていった。この様子を見ておくことにする。

 3月下旬、プロ通派が解散決議した。多くは戦旗派同様革共同全国委員会へ雪崩れていった。林グループは「プロ通左派=共産主義の旗派」を結成

 4.20日、戦旗派(中央書記局派)は組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。革通派は、 池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。

 プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。プロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏氏などがいた。次のように評されている。

 「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」。

 プロ通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成し、独自の動きを目指していくことになる。ブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局第一次ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまったことになる。


(私論.私見) れんだいこのブントの解体要因考

 ここで、ブントの解体の要因について考察しておきたいことがある。元々ブン トと革共同の間には、深遠なる融和しがたい相違があったものと思われるが、 史実は雪崩をうつかの如く革共同への移行がなされた。これは、結成間もなく 「60年安保闘争」に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブントの理論的未熟さにあったものと思われる。「60年安保闘争」の渦中でそれを島−生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。

 私見は、ブントと革共同の間には単に運動論・組織論・革命論を越えた世界観上の認識の相違があったように捉えている。言うなれば、「この世をカオス的に観るのか、ロゴス的に観るのか」という最も基本的なところの相容れざる相違であったのではなかろうか。 ブントはカオス派であり、革共同はロゴス派的であろうとしており、両派は一層競合的に組織形成しつつあったのではなかったのか。この両極の対立は、人類が頭脳を駆使し始めて以来発生しているものであり、私は解けないが故に気質として了解しようと している。

 実際、この両極の対立は、日常の生活に於いても、政治闘争も含めたあらゆる組織形成・運動展開においてもその底流に横たわっているものではなかろうか。ユダヤ−キリスト教的聖書にある「初めに言葉ありき」はロゴス派の宣言であり、日本の神道的「森羅万象における八百万的多神観」はカオス派のそれのように受けとめている。両者の認識はいわば極と極との関係にあり、ブントと革共同は、この相容れぬそれぞれの極を代表しており、相対立する世界観に支えられて極化した運動を目指していたのではなかったか、と思う。

 島氏によ り、この観点−ごった煮的カオス的な善し悪しさ−が、当時のブントに伝えられていなかったことを私は惜しむ。それは、「60年安保闘争」に挫折したにせよ、ブントのイデオロギーは護持されていくに値あるものと思うから。本来革共同に移行し難いそれとして併存して運動化し得るものであったと思うから。どちらが良いというのではない。そういう違いにあるブント思想の思想性が島氏周辺に共有できていなかったことが知らされるということである。

 ブントのこの己自身の思想的立場を知ろうとしない情緒的没理論性がこの後の四分五裂化につきまとうことになる。あるのは情況に対する自身の主体的な関わりであり、ヒロイズムへの純化である。このヒロイズムは、状況が劣化すればするほど先鋭的な方向へ突出していくことで自己存在を確認することになり、誇示し合うことになる。惜しむらくは…というのが私の感慨である。


【第一次ブント史概説】

 ここまでの全学連の動きが次のように簡略にまとめられている。

 「こうして、日本共産党を除名され、あるいは自ら離党した学生党員、全学連活動家は、昭和33年(1958年)12月、「共産同」を結成するに至る。中心人物は、島成郎らで、かつて日共「国際派」系の活動家であり、トロツキズムを部分的には評価しながらも、全体としては受け入れず、そのため「革共同」に参加することなく別個に独自の組織をつくった。

 昭和33年(1958年)6月以来、「全学連」の中央執行部は「革共同」に抑えられていたが、翌昭和34年(1959年)6月の全学連第14回大会で「共産同」が執行部を独占し、唐牛健太郎が委員長に就任した。

 こうして、「共産同」に牛耳られた「全学連」は、第一次安保闘争の中心勢力として、同年11月27日の安保阻止第6次統一行動における国会乱入、昭和35年(1960年)1月16日総理訪米阻止のための羽田事件、同年6月15日の国会乱入など、過激闘争の主役を演じた。

 ところが、「共産同」主導のこの過激闘争は、社会党、共産党の批判を受けるとともに、学生運動内部においても論議をよび、安保闘争の挫折が明らかになるに至って、組織内部に闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐって複雑な対立が生じた。

 そして、昭和35年(1960年)9月から10月にかけて「共産同」は、清水丈夫、姫岡玲司〔治〕ら全学連書記局を握る中間派的な「プロ通派」(プロレタリア通信派)、「政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」と批判する服部信司ら極左的な東大細胞を中心とした「革命の通達派」、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を主張する森
田実、田川和夫ら「労対グループ」を中心とする「戦旗派」に分裂した。

 更に、昭和36年(1961年)2月、「プロ通派」から林紘義グループが分れて「共産主義の旗派」を結成し、同年3月には、「戦旗派」が「革共同全国委」の理論に共鳴して組織を解散し、「革共同」に合流してしまうなどの経緯があって、同年4月の全学連第27回中央委員会で「共産同」の解体が確認され、「共産同」は結成後二年余で崩壊してしまうのである(第一次ブントの崩壊)。(「マル労同」(マルクス主義労働者同盟)は、「共産主義の旗派」の流れを汲むものであり、日本共産労働党―共産主義者同盟を経て全国社会科学研究会となり、これが昭和47年(1972年)7月、「真の前衛党づくりを目ざす」として改称したものである)

 「社学同」も亦、昭和33年(1958年)5月結成(第一次社学同)後、昭和34年(1959年)6月、「革共同」系を完全にシャットアウトした(第二次社学同)が、「共産同」の崩壊にともなって、昭和36年(1961年)4月の全学連第二七回中央委員会で、“マル学同=革共同全国委への結集”を宣言して解散してしまった」。

 このブントの崩壊に関する分かりやすく纏めた一文があるので紹介しておく。(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)
◎ブントの解体、その後の新左翼運動
 しかし、ブントのこの壮大な革命的夢想は安保闘争の終焉とともに挫折する運命にあった。安保闘争の直後、六〇年の夏から秋にかけて、ブントはこの闘争の総括をめぐり混乱と対立の坩堝と化し、四分五裂の状態に陥って、あっという間に組織的にも崩壊を遂げてしまった。

 安保闘争の渦中では隠されていたブントの小ブルジョア急進主義的な思想と運動の本質を闘争の終了は一挙にさらけだしたのであるが、どの分派もその限界をマルクス主義的に止揚し、新たな展望を切り開いていくことができなかったからである。

 実際、安保闘争の敗北は闘争の末期に国会突入などの激しい戦術を回避した指導部の日和見主義にあったとするウルトラ急進主義の「革命の通達」派や、革共同黒田派の観念的な「主体性」論に基づく小ブルジョア急進主義批判に屈服してブントの清算主義的な全否定に走った「戦旗」派はもとよりのこと、ブントの伝統を守るという立場から総括を呼びかけた「プロレタリア通信」派にしても何ら確固たる明確な方向を指し示すことはできなかったのである。

 誕生と同時に安保闘争に突入していくという当時の情勢の中で、それを要求することは物理的にいささか酷という側面はあるにしても、マルクス主義のしっかりした革命理論に立脚して組織と運動を作っていくという意識がブントには最初から希薄であり、それがブント主義の本質的な側面をなしていたことは、先に引用した結成宣言的な「全世界を獲得するために」の次の一節からも明らかである。

 「思想と、理論と綱領との単なる論争によってのみ、創造しようとする、ブルジョア的なおしゃべりグループが呟く組織の前に綱領を、行動の前に綱領を、という言葉に反対してわれわれは、日々生起する階級闘争の課題に応えつつ、その実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう。われわれは闘争の保障を『戦略規定』ではなく、諸階級の相互関係のうちに求める、と答える」

 なるほど、これは確かに黒田派や構革派などの痛いところを衝いてはいる。しかし、全体としては行き過ぎである。「実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう」というのも一般的には正しい。しかし、彼らの言う「実践」とは勤評や安保といった「日々生起する」民主主義的平和主義的な諸闘争に他ならず、広い意味でのプロレタリアートの歴史的革命的な実践ではないのである。これでは日常的な諸闘争を戦闘的に闘っていけば、革命的な綱領や立場が自然に獲得されるとする組合主義・経済主義の一種でしかないだろう。

 実際、彼らがマルクス主義的な革命理論をどんなに軽視していたかは、当時のブント書記長の島成郎が回想録で、当時はトロツキー主義はもとより実存主義であれ、プラグマティズムであれ、利用できるものは手当たり次第に取り入れていたという貴重な証言を残していることからも明らかである。そして、ブントの綱領的文書と言われた姫岡玲治の「国家独占資本主義」論にしてからが俗流経済学の典型である宇野派の「三段階」方法論に依拠したものでしかなかったことに、ブントの無理論主義あるいは思想的雑炊状態は象徴されていた。

 加えて、「学生運動」=労働者の階級闘争の「同盟軍」、「先駆性論」である。つまり学生による闘争の激発で「ショック」を与えることにより労働者階級を革命的な闘いに立ち上がらせるという、その後の新左翼運動も一貫して信奉してきた典型的な小ブルジョア急進主義の“理論”である。

 これでは安保闘争のさなかにあっては何とかやっては行けても、それが終わればその後どうやっていっていいのか展望を見失うことは初めから明らかだった。ブントの崩壊はこうした小ブルジョア急進主義の行き詰まりと破綻の必然的な帰結であった。

 そして、ブントの崩壊後、「戦旗」派は丸ごと、「プロ通」派はその一部が革共同に救いを求めて「乗り移り」、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも六三年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、「反帝・反スタ」のお題目の下に「革命的な自己変革」と「主体形成」に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、六〇年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、六六年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。


 このブントの崩壊に関する分かりやすく纏めた一文があるので紹介しておく。(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)

 ◎ブントの解体、その後の新左翼運動

 しかし、ブントのこの壮大な革命的夢想は安保闘争の終焉とともに挫折する運命にあった。安保闘争の直後、六〇年の夏から秋にかけて、ブントはこの闘争の総括をめぐり混乱と対立の坩堝と化し、四分五裂の状態に陥って、あっという間に組織的にも崩壊を遂げてしまった。

 安保闘争の渦中では隠されていたブントの小ブルジョア急進主義的な思想と運動の本質を闘争の終了は一挙にさらけだしたのであるが、どの分派もその限界をマルクス主義的に止揚し、新たな展望を切り開いていくことができなかったからである。

 実際、安保闘争の敗北は闘争の末期に国会突入などの激しい戦術を回避した指導部の日和見主義にあったとするウルトラ急進主義の「革命の通達」派や、革共同黒田派の観念的な「主体性」論に基づく小ブルジョア急進主義批判に屈服してブントの清算主義的な全否定に走った「戦旗」派はもとよりのこと、ブントの伝統を守るという立場から総括を呼びかけた「プロレタリア通信」派にしても何ら確固たる明確な方向を指し示すことはできなかったのである。

 誕生と同時に安保闘争に突入していくという当時の情勢の中で、それを要求することは物理的にいささか酷という側面はあるにしても、マルクス主義のしっかりした革命理論に立脚して組織と運動を作っていくという意識がブントには最初から希薄であり、それがブント主義の本質的な側面をなしていたことは、先に引用した結成宣言的な「全世界を獲得するために」の次の一節からも明らかである。

 「思想と、理論と綱領との単なる論争によってのみ、創造しようとする、ブルジョア的なおしゃべりグループが呟く組織の前に綱領を、行動の前に綱領を、という言葉に反対してわれわれは、日々生起する階級闘争の課題に応えつつ、その実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう。われわれは闘争の保障を『戦略規定』ではなく、諸階級の相互関係のうちに求める、と答える」

 なるほど、これは確かに黒田派や構革派などの痛いところを衝いてはいる。しかし、全体としては行き過ぎである。「実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう」というのも一般的には正しい。しかし、彼らの言う「実践」とは勤評や安保といった「日々生起する」民主主義的平和主義的な諸闘争に他ならず、広い意味でのプロレタリアートの歴史的革命的な実践ではないのである。これでは日常的な諸闘争を戦闘的に闘っていけば、革命的な綱領や立場が自然に獲得されるとする組合主義・経済主義の一種でしかないだろう。

 実際、彼らがマルクス主義的な革命理論をどんなに軽視していたかは、当時のブント書記長の島成郎が回想録で、当時はトロツキー主義はもとより実存主義であれ、プラグマティズムであれ、利用できるものは手当たり次第に取り入れていたという貴重な証言を残していることからも明らかである。そして、ブントの綱領的文書と言われた姫岡玲治の「国家独占資本主義」論にしてからが俗流経済学の典型である宇野派の「三段階」方法論に依拠したものでしかなかったことに、ブントの無理論主義あるいは思想的雑炊状態は象徴されていた。

 加えて、「学生運動」=労働者の階級闘争の「同盟軍」、「先駆性論」である。つまり学生による闘争の激発で「ショック」を与えることにより労働者階級を革命的な闘いに立ち上がらせるという、その後の新左翼運動も一貫して信奉してきた典型的な小ブルジョア急進主義の“理論”である。

 これでは安保闘争のさなかにあっては何とかやっては行けても、それが終わればその後どうやっていっていいのか展望を見失うことは初めから明らかだった。ブントの崩壊はこうした小ブルジョア急進主義の行き詰まりと破綻の必然的な帰結であった。

 そして、ブントの崩壊後、「戦旗」派は丸ごと、「プロ通」派はその一部が革共同に救いを求めて「乗り移り」、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも六三年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、「反帝・反スタ」のお題目の下に「革命的な自己変革」と「主体形成」に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、六〇年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、六六年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。


 5.17日、池田政府は、「政治暴力防止法案」(政暴法)を国会に上程した。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。全自連も、マル学同全学連も、安保闘争の延長戦として直ちに反対闘争に立ち上がった。しかし、学生戦線の分裂が尾を引き盛り上がりが弱かった。マル学同全学連は、ただちに非常事態宣言を発して、緊急デモを国会へ向けて組織し、「5.30日にゼネストを」アピールを打ち出している。5.30日に結集したのは約500名でしかなかった。 


 5.21日、全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日、統一行動を設定し、 「授業放棄」を訴え、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。約3000名結集。


 6.3日、法案の衆院通過日のこの日、労学による午前1時過ぎまで南通用門前に座り込み闘争が続けられた。結局、法案そのものが国会内の取引で「参議員では継続審議」と決まったこともあって、以降急速に動員力が落ちていった。


 6.6日、全学連3000名が政暴法(政治的暴力行為防止法案)粉砕の決起大会に結集。


【6.15樺美智子葬一周年集会】

 6.15日、樺美智子葬一周年のこの日、マル学同全学連は3000名を結集し、国会デモに向かった。機動隊とのもみ合いの後共立講堂で「樺美智子追悼集会」が為された。集会の主宰者には、全学連.社会党.総評.社青同.文化人らが名を連ねていた。


 遂に「政治暴力防止法案」は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。こうしてマル学同全学連も果敢に取り組んではいるが、昔日の面影を無くしていた。その他潮流はこの期間中も分派抗争の最中にあったようである。この政暴法闘争は、関西ブントに利をもたらし、マル学同全学連の進出を促すことになった。


 京大では、教養学部の自治委員長と同学会の代議員選挙で、旧主流派(関西ブント)が圧倒的に勝利し、民青系が孤立する結果を生んでいる。こうして、京都では、京大と同志社大を中心として京都府学連を1965年まで関西ブントが執行部を押さえていくことになった。後に三派系全学連創出の有力地盤となっていくことになる。早大一文.法大経済などもこの闘争の中で(二重執行部などの問題を含みながらではあるが)執行部を民青系から取り戻している。しかし、民青系全自連の進出を押し止めたこのことが、逆にマル学同と反マル学同との抗争を激化させていくことになった。


 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年夏のノート」に次のように記されている。

 「ともかく60年8月のブント大会から始まった日本の左翼の思想的再編は、今年の4月、プロ通派・革通派の解散、戦旗派の黒寛派への以降、黒寛派の全学連無血占領によって新しい段階に入った。日本左翼にとって、このブントの分解に見られる思想的混乱は、戦後最大のものである。因みに50〜51年の、56〜58年のそれと比較してもすぐ分かる」。
 「目標は反黒、反日共の革命的左翼のケルンの結集。その為に、ブントの中で最も優れた部分の結集、あるいは各方面での思想運動。第三にブントの全面的(思想的、政治的)批判。第四にマル共の分裂の促進(第8回大会を控えて)。第五に経済的基礎の確立。第六に学生運動史資料の整備。以上の目標を決めて始めた。そして2ヶ月たった」。

全学連第17回大会開催を前にしてのマル学同と反マル学同の異様対立
 全学連大会の時期を迎えていたが、各派が思惑を絡めていくことになった。この時の全学連各派は、1.中執を握るマル学同系、2.構造改革派系全自連、3.民青同系、4.社青同系、5.革共同関西派系、6.旧ブント再建社学同系、7.旧ブント関西社学同系となっていた。

 マル学同に移行しなかった旧ブント−社学同と革共同関西派と社青同は、マル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発しており、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と言う。

 各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。この当時一等秀でた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っている。

【マル学同対つるや連合の抗争で、学生運動史上初めて武器が登場】

 マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。

 こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲った。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと言われている。興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと言う。この感覚も一体何なんだろう。この時警官隊の規制が為されたとあることからすれば、おでまししていたようである。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことにな った。


【全学連第17回大会】
 7.8日、全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも言われている。他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさに私物化された大会となった。大会議案は、「帝国主義打倒・スターリン主義打倒の学生運動」観点を打ち出し、賛成248、反対10、保留1で中執提案を可決した。

 人事は、ブント出身の北小路敏(京大)を委員長、副委員長に根本仁(北海道学芸大)、小野田襄二(埼玉大)を選出し、以下マル学同のオール中執となった。全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。「仮借なき反帝闘争の中で全自連を粉砕し、学生運動における革命的左翼の力を拡大するために‐‐‐帝国主義ブルジョアジー.池田内閣の新政策と対決し、池田内閣打倒の闘いを進めよう」との行動方針案を提案し、賛成233、反対9、保留3で可決されている。
(私論.私見) マル学同の排他主義考

 この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。この当時一等秀でた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っている。

【反マル学同のその後の動き】

 つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で、「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。

 全自連は、7.10日、教育大で「7全代」を開催し、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、大会への参加条件について、1.平等無条件参加、2.権利停止処分撤回、3.大会の民主的運営の3項目を決議した。この時の全自連指導部は、第8回党大会前後の春日(庄)グループの脱党の影響を受けた構改派であり、全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為 し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らく、この時の全自連指導部は全学連の統一を切に願ってマル学同派との間に何らかの合意を成立させたものと考えられる。


【社学同の再建の動き】
 こうした新状況に遭遇して、旧ブント系活動家は、社学同の再建を目指して活動を始めることとなった。7.11日、社学同東京都委員会再建。8.11日、社学同機関紙「希望」が発行され、社学同再建のアピールを行い、マル学同を批判している。
 「従って、学生運動の自立性を否定し、学生運動を既成のイズムの工作の対象.客体としてのみみなすものは、学生運動にとって、絞殺者であり、敵である」。

 京都府学連=関西ブントがこの動きの主力となった。

 8月、東大.早大.明大.中央大の活動家が「社学同東京委員会」を再建した。

【日共党中央、民青同の組織理論にベルト論を持ち込む】
 宮顕系日共党中央は、第8回党大会開催後のこの頃、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。

 第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。
(私論.私見) 第8回党大会で採択決議された党綱領の「民族独立民主革命」戦略化について

 これは、党が民主主義的「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替え から発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことに より、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこと となった。宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろうとの疑問が涌くが、こういう観点を共有するものは少ない。
 8.30日、党は、主要都道府県学対部長会議を開いて、次のような指導をなしたようである。「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、 弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して次のように規定し直している。広谷俊二著「現代日本の学生運動」を参照する。
 マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロツキズム、現代修正主義のえせマルク ス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習。
 労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する。
 地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する。
 学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める。
 強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める。

(私論.私見) 宮顕の強権介入による「民青同の組織理論へのベルト論の持ち込み」について

 この指導を見ても同様に、宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろう、と疑問を沸かさずにはおれない。

 8月、早大の高野秀夫が離党している。この間一貫して宮顕指導に服してきた高野の離党の政治的意味は考察されるに値しよう。この事情も検証されねばならないが、今のところ為されているように見えない。


【ソ連が核実験を再開し、平和擁護運動が混乱に陥る】

 8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。平和擁護運動は混乱に陥った。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられることとなった。日本共産党はソ連核実験の支持声明を出した。革共同関西派は対応が割れた。

 革共同全国委=マル学同は、「反帝反スタ」の立場から精力的に抗議運動を展開していくこととなった。「日本の反スターリン主義運動」は次のように述べている。

 「1961年秋のソ連核実験再開に直面させられて完全に混乱の渦中にたたきこまれ、何らかの反対運動をも展開することができずに自己破産を義黒した原水協並びに社共両党の、この腐敗を公然と暴き出し弾劾し、のりこえつつ推進されたわが全学連の『米.ソ核実験反対』の反対闘争は、1962年の春のアメリカ太平洋実験に対する激烈な反対闘争として受け継がれ、そして日本原水協の完全な無活動的腐敗や第8回原水爆禁止大会における社共両党の衝突の茶番性を大衆行動をもって暴露したことなどを通じて、同時に国際的な反戦統一行動を生み出しながら、今や確固とした地歩を築き上げた。さらにそれは、闘う労働者自身による反戦闘争の行動化を促す触媒としても働きつつある」。

 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、ソ連核実験反対闘争の方針を決議した。

 9.8日、社会主義学生同盟(社学同)、政暴法、ソ・米核実験反対集会、デモ。100参加。

【「青学革新会議」結成される】

 9.29日、春日(庄)ら構造改革派の青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。「共産主義的青年学生同盟(共青同)の結成を目指して」という宣言を発表した。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・ 立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。

 その背景にあったものは、宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性が無 くなったという認識に基づいて、マルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設の課題を提起していた。

 「日本共産党は、宮本、袴田ら派閥官僚主義者によって党規約を蹂躙し、一方的に党大会を強行して、新綱領、政治報告、規約改正を強行した。その結果、共産党は新綱領を民青同盟に強制し、同盟の規約を無視してまで、党綱領に反対する同盟員を同盟組織から排除した。また青年が自主的に決定した民青の六大会.七大会の路線を、党綱領によって修正することを企図し、同盟の掲げた青年の要求の運動化、全国化の方針をぶちこわし、同盟を党の方針をシュプレヒコールする自動装置にかえてしまった。同盟は完全に党機関の従属物にかえられている」。

 青学革新会議の特徴は、この時期党が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、ねばり強く学生運動の統一を目指していたことにあった。但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなった。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。ソ連核実験再開への態度の違いも見られた。

 
なお、このグループもまたこの後春日らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂する。青学革新会議もこの動きに連動し、春日派は翌62.5月社会主義学生戦線(フロント/東大教養、 神戸大等)、内藤派の系統として63.8月、日本共産青年同盟(共青/教育大等)へと続く。


 10.7日、マル学同系、社学同系二つの都学連大会開催。


【マル学同全学連中執が派)がブント残党派絶縁宣言】
 10.15 −16日、全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、 これと絶縁することを確認した。

 この年の秋の自治会選挙では、マル学同系・三派連合・民青同で激しく争われたが、マル学同系・三派連合が勢力を一定伸張させた。

【島らがSect6立ち上げに動く】

 10.24日、「その数日前に共産主義者同盟書記局、島成郎他の連名で一通の召集状が届けられ、私達は九段にあね雄飛寮の集会室に集まった」(福地茂樹証言)。ブントの再結集を目指した秘密会議であった。島、常木、森田がおり、対馬(忠)と吉本が講演した、とある。席上、概要「島が(旧書記局の統一見解であるとして)ブントを再建すると言い出した」、「この1年半の分派活動の首謀者達は、みな小者ばかりでトレランスに欠ける。その理論に至ってはチマチマして中小企業のオヤジの床屋談義よりも程度が低いくらいだ、といった」とある。

 その数日後、島氏の声掛かりで福地氏はジャズ喫茶で落ち合い、バーに席を移した。「島は開口一番、お前の云うとおりブントの再建はあきらめた。森田と常木もこれに同意した、というのだった」(福地茂樹証言)とある。その後の話し合いで、社学同の再建を依頼され、それがSect6の立ち上げに繋がった、ともある。

 Sect6に参集したのは、福地、中村(光)、古賀(泉)、山崎(修)、河野(靖)、中村(佳)、佐藤(粂)らで、高井戸の都営住宅の島夫妻の居宅に集った、ともある。 


 10.26日、都学連(社学同)政暴法粉砕闘争。


 10.31日、社会主義学生同盟(社学同)、政暴法、ソ・米核実験反対集会、デモ。


 10月、「旭川学テ事件」発生。全国学力テストの実施を阻止しようとした教師ら4名が公務執行妨害で起訴される。


 11月、社学同事務局派、東京社学同大会開催。


 12.3日、宮顕書記長、綱領問題の報告をまとめた「日本革命の展望」を出版。


【社学同全国事務局派、機関誌「SECT No.6」創刊、アピール】
 12.5日、社学同再建準備会が全国結成大会を目前にして「SECT(セクト)bU」(社学同全国事務局)という名の機関紙でアピールを出した。これ以後「セクト」という言葉が使われだすことになったようである。全学連第17回大会に対して次のように批判した。
 「一党派の全きセクト的利益の貫徹の場に転化し、大会そのものは『反帝反スタ』前衛党創造の為にそのような党的(党派的!)立場に立って、学生運動を一切利用しつくせ、という公然たる赤色労働組合主義の一掃の徹底化に他ならなかった」。

 この時の「僕たちの宣言」を要約する。
 「安保闘争を経験した僕たちは、旧社学同・共産主義 者同盟の一切の残り滓に訣別する、これが教訓であったのだ。革命の旧意識よ!前衛主義よ!レーニン主義者 たちよさらば!」、「旧式用語と前時代的革命意識の日本共産党と、歌と踊りの民青派からかつて訣別した僕たちは、さらに明言 する。 春日のごとき構造改良・トリアッチ主義者の自己分解は現在急激にすすんでいる。諸君!さらに分解せよ。 全学連の名を標榜する戦前左翼の亡霊、旧社学同の誤りの縮小再生産者たち、マル同くたばれ!」。

【マル学同系全学連第18回大会】
 12月、マル学同指導部が全学連第18回大会を召集した。この大会で、唐牛.北小路ら安保闘争のリーダーが中執から引退し、委員長に根本仁(旧ブント系、その後革マル派の最高幹部になる。土門肇がペンネーム)、書記長に小野田襄二らが選出された。米ソ核実験反対の運動を徹底して進める方針を決めた。

【ブント再建派の大詰めの動き】
 12.15日、社学同全国事務局派、社会主義学生同盟は、社学同全国支部代表者会議を開催。来る3月下旬に結成大会を持つことを決定し、全国事務局がその任を負うことが決定された。「ロシア・アメリカ核実験反対!政暴法反対!日韓会談と海外派兵・徴兵制反対!憲法改悪反対!」などのスローガンで活動が開始された。しかし、「外部と僕た ち自身の間で緊密なコミュニケーションが未だ保てない状態」、「特に新聞・機関紙の発行、その他の事務を集中するための事務所の設立の計画に ついては、総額一五万円ほどの資金を必要としますのでその一部をその一部を負担していただきたく」とあるからその状態が推して知れる。

【三派連合(社学同残留派、社青同派、構造改革派)が形成される】
 12月、社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに反マル学同の三派連合を形成した。

 これより後は、「第6期その3」に記す。





(私論.私見)