4489−113 ユダヤ人の選民思想について

 (最新見直し2006.3.14日)

 ユダヤ人にとっての絶対命題として、ユダヤ人のみが全知全能の神に愛され、選ばれた民であり、他の全ての民族はゴイム(豚=異民族)であり、家畜となるべく神によって定められている。


 古代ユダヤ人の選民思想。

 ユダヤ人の思想が、英国の宗教改に影響しており、フランスの政治思想、ドイツ左翼の政治文化、ソヴィエト・ロシアへと伝播している。「民族国家が国家形態の普遍的な規格に至るまでには、こうした模倣の連鎖があった」(民族とは何か 関曠野著)。

デーヴィッド・アイクの「シオン長老の議定書」解説本としての「ロボットの反乱」(一九九四年)  

投稿 平成16年06月02日22時45分
 「シオン長老の議定書(プロトコール)」、「イルミナティの議定書(プロトコール)」、として位置付ける。

  「ブラザフッドは、シュメール、エジプト以降六千年、その人数とその権力に於て、巨大なものに成長した。そして、今や、彼等は、世界征服計画の新しい段階に入った。」
  (前出、百三十八頁)、と、言われるところのもの(ブラザフッド)、とひとしい。

○「ブラザフッド」と言う言語は、日本語に直訳すれば、「兄弟団」、とでも成るか。「超限定された血縁関係のエリート集団」。六千年前に遡ることが出来る、と、本書「ロボットの反乱」では述べて居る。イルミナティ・ブラザフッドで あっていわゆる「ユダヤ(Jew)」ではない。

 ○しかし、いわゆる「シオン長老の議定書」には、ゴイム(goyim)と言う用語が著しく目立つ。
○英和辞書には、
 goy(複数形はgoyim)ユダヤ人から見て異邦人、異人種、異教徒、と出て居る。

○もちろん、この説明はおかしい。
 ゴイ(ゴイム)は、ユダヤ人にとっての非ユダヤ人、であると同時に、家畜、人間家畜、家畜人間の意味を有する。

NO.55 「選民思想?続編」2002/07/02

 キリスト教はユダヤ教の中で誕生した。イエス キリストもユダヤ人、その弟子たちもユダヤ人、イエスを裏切った弟子のユダもユダヤ人、そしてイエスを死に追いやった人たちも皆ユダヤ人・・・・・イエスは差別されていた人たちや外国人とも積極的に交流していたし弟子たちにもそのことの大切さを教えていたんだけれども、弟子たちはこのことを本当には理解していませんでした。
 やっぱり弟子たちでさえも「僕たちは選ばれた民、他民族と交流してはいけない」という意識を持っていたんです。ところがイエスの死後、多分こんな問題が起こってきたんだと思います・・・・・イエスの教えそして救いはユダヤ人だけのためなんだろうか、それとも世界中の人たちのためにもあるんだろうか・・・・・当時のパレスチナ地方にはユダヤ人以外の人たちも多く住んでいました・・・・・ローマの兵隊達や役人、今で言うビジネスマンやその家族・・・・・弟子たちはこういう人たちの存在も無視することは出来なかったんです・・・・・で、どうしたのか・・・・・

 使徒言行録、ちょっと前までは使徒行伝って呼ばれていた聖書の箇所の10章にこんな話しが書かれています・・・・・弟子のペトロが地中海に面したヤッファという町に滞在していた時にこんな夢というか幻を見たんです・・・・・聖書をそのまま読んでみますね・・・・・・天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
(10章11−16節)・・・・・・後になって、ペトロはこの夢のお告げをこう解釈しています・・・・・・これもそのまま読んでみましょう・・・・・・・「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました・・・・・・・・。」(同10章28節)・・・・・イエスの弟子たちはこのことをきっかけとして選民意識を乗り越えて行ったんです・・・・・そして外国人との交流、伝道が始まったんです・・・・・・。

 ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の対立。

マスター増田

使徒言行録25章1〜12節

裁判というものは長引くもののようです。事柄にもよるでしょうけれども、スパッと簡単に白黒がつかない。もちろん重大なことですから、慎重にも慎重を期す必要がありますし、調査には時間がかかるからでしょう。

けれども、そういった理由ではなくて長引く場合があります。パウロの裁判がそれです。なぜパウロの裁判は長引いたのでしょう。それは、裁判を司る総督たちが、ユダヤ人たちに「気に入られようと」したからです。


事の発端はパウロの逮捕に溯ります。パウロがエルサレム神殿の境内で捕らえられた話は21章に出てきます。理由は"神殿冒涜罪"とでも申しましょうか。ユダヤ人の選民思想というのはご存じかと思いますが、当時のユダヤ人も、自分たちは神に選ばれた祝福の民と自負していました。そしてその裏返しで、ユダヤ人以外の異邦人たちを軽蔑していました。その自負心と軽蔑とが、神殿のルールにも形となって現れておりました。つまり、神殿の境内に、異邦人はこれ以上入ってはならないという禁止区域があったのです。そこから先へ入って神様にいっそう近づくことができるのはユダヤ人だけと決まっていました。ところが、パウロは、そのルールを破って連れの異邦人を禁止区域にまで連れ込んだという理由でユダヤ人たちに捕らえられたのです。

実はパウロはそんなことはしていない、全くの誤解なのですけれども、それまでのパウロとユダヤ人の間の軋轢という経緯もあって、いきり立ったユダヤ人たちは、パウロを神殿から引きずり出してリンチにかけていたのです。

そこへ、エルサレムを守備するローマ帝国の千人隊長リシアが守備隊を連れて駆けつけ、騒乱の渦の中心になっているパウロを捕らえて監禁することになった。結果的には、パウロをユダヤ人たちの暴力から救い出すことになったのです。

当時、ユダヤ人は独立国家を持たず、ローマ帝国という大国によって支配されていました。だから、ユダヤの要所要所にはローマ帝国の守備隊が駐屯しており、またユダヤ人を治める総督が中央から派遣されていました。その時の総督はフェリクスと言い、24章に出てきます。

その24章でも、総督フェリクスの前でパウロの裁判が行われています。ユダヤ人の有力者たちは、それまでの経緯もあって(今日は時間的にお話しませんが)、何とかしてパウロを断罪し、処刑したいものと考えていました。けれども、今日の25章にもありますように、彼らはパウロの罪を立証できなかったようです。パウロの答弁の方が明らかに説得力があると思われます。しかし、フェリクスは、双方の告発と答弁を聞いた上で、その時の状況を知っている千人隊長リシアの証言を聞いてから判決を下すことにすると言って、裁判を延期しました。

けれども、フェリクスの総督在任期間中には、リシアを呼び寄せての2度目の裁判は行われませんでした。なぜでしょう。一つには、パウロから金をもらおうとする下心が彼にあったからです。24章26節にそう書かれています。その時のパウロは、エルサレム教会の困窮を助けるために海外の異邦人教会で寄付された多額の献金を、渡す暇もなく未だ所持していたのではないかと思われます。フェリクスはそれに目を付け、保釈金という形で暗に賄賂を要求していたのでしょう。

そして、2度目の裁判が行われなかったもう一つの理由は、27節にあります。それは、フェリクスが「ユダヤ人に気に入られようと」したからなのです。ユダヤ総督なのですから、ユダヤ人たち、特にその有力者たちに気に入られていなければ、政治がやりにくくなります。裁判はパウロに有利だったと想像されます。しかし、ここでパウロを無罪放免にしたのでは、ユダヤ人たちに恨まれて、後の政治がやりにくくなります。そのためにフェリクスは、その後2年もの間、パウロの裁判を開かず、監禁したままにしておいたのです。


その後、フェストゥスが後任として赴任してきました。着任早々、ユダヤ人の有力者たちがパウロの件を訴え出ます。そして2年ぶりにパウロ裁判が再開されました。けれども、その時も、彼らはパウロの罪状を立証することができませんでした。彼らの告発もパウロの答弁も25章では省略されていますが、その双方を聞いたフェストゥスも、これは立証不十分で不起訴だなと感じたようです。25章をもう少し読み進んでいくと、18節で、「告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした」とのフェストゥスの言葉があり、彼がユダヤ人たちの告発は立証不十分であると感じていたことが伺われます。

けれども、フェストゥスは、この件を不起訴にするのではなく、エルサレムで裁判を今一度受けないか、と持ちかけます。その理由は9節にあるとおり、彼もまた「ユダヤ人に気に入られようと」したからです。

エルサレムでの裁判はユダヤ人たちの望むところでした。なぜなら彼らは、護送の途中でパウロを殺そうと企んでいたからです。よしんばその陰謀が失敗したとしても、エルサレムでの裁判ならば、あの主イエスの裁判の時がそうであったように、総督に圧力をかけて、判決を自分たちに有利に導くことも可能です。そのようなユダヤ人たちの思惑に、フェストゥスはおもねったのでした。

気に入られようとする理由は、先ほどフェリクスの話の際にお話しました。なるほど政治家としては、自分の責任を事なく果たすために、統治下の人々に気に入られようとするのはもっともなことと思われます。それでなくても、自分たちは神に選ばれた民とのプライドを持っているユダヤ人は治めにくいのです。けれども、政治の柱の一つである司法は守られなければならず、裁判は法の正義をもってフェアに行われなければならないはずです。その二つを天秤にかけた時、フェリクスもフェストゥスも、政治家として法の正義を守ることではなく、ユダヤ人に気に入られることによって自分の政治に波風が立たないようにする事勿れを選びました。それはもちろん、自分の身の安泰のためです。

自分のなすべき第一義を脇に置いてでも、自分の身の安泰をはかる。それは、神様と向かい合って生きていないからです。もちろん、自分の身の安泰をはかりたい気持は私たちにもよく分かるでしょう。そういう気持の全くない人間は、たぶん一人もいません。けれども、私たちはキリスト者です。信仰をもって神様と向かい合って生きている者です。神様が"この私"の生き方を問われるからこそ、我が身の安泰ばかりを考えがちな、自己中心な自分を省みて、神の前に人として、なすべき正義を、なすべき愛を、果たしていこうと志しているのです。神に対して、神と向かい合って生きるということは、そういうことでありましょう。そういう神に対する誠実さがなくなると、"人に対して"ということだけが常に気になります。人に気に入られよう、人におもねろうという行動や態度も、そこから生まれてくるのです。


一昨日、朝日新聞の「声」の欄に投稿しました。その前日の1面の<天声人語>の中で、ブッシュ大統領の"第2の宗教"は彼自身の直感、そして"第1の宗教"はキリスト教と書かれていたからです。そこで、<ブッシュ大統領の信仰に物申す>と題して投稿しました。それは、日本の社会の人々に、ブッシュ大統領のような信仰がキリスト教信仰なのだと勘違いしてほしくなかったからです。彼の演説は非常に宗教色が濃く、彼自身、信仰に熱心ではあるかも知れません。けれども、その信仰は、謙虚に神に聞き従って自分を正していくものではなく、自分の直感による政治的判断を、神も正しいと認めているはずだと自分を正当化する道具になってしまっていると思うのです。その意味では、ブッシュ大統領が"第1"に優先するものはキリスト教でも神でもなく、自分の直感、自分の考えなのです。

今日の聖書の箇所を黙想しながら、ふと私は、ブッシュ大統領のことを思いまして、厳しい見方かも知れませんが、彼は信仰は持っていても、神に対して、神と向かい合って生きていないのではないか、人に気に入られようとしているのではないかと思いました。現在も、国際世論が憂慮する中で、遮二無二イラク攻撃を進めようとしている。それももしかしたら、アメリカ人の国民感情におもねっているのではないか、あるいはアメリカの政治・経済界の有力者たちに気に入られようとしているのではないかとさえ思われるのです。

もう一つ、今日の聖書の御言葉から思い起こすのは、<狭山事件>です。ご存じの方も多いと思いますが、1963年に狭山市の女子高校生が誘拐され、身代金請求がありました。警察は身代金を取りに来た犯人を包囲しながら取り逃がしてしまいます。

その4日後、女子高校生は帰らぬ姿となって見つかりました。そして、その後の捜査の結果、犯人として捕らえられたのが、非差別部落出身の石川一雄さんでした。石川さんも一度は警察に誘導されて自白をしますが、その後は一転して自分の無実を主張し続けて現在に至っています。しかも、その後の調査によって、石川さんが無実であることが段々と明らかになって来ました。そこで、石川さんと彼を支援する人々が再審請求を起しているのですが、なかなかそれが認められず、裁判が行われずにいるのです。それもまた、司法を司る立場の人々が、誰に気に入られようとしているのか、警察に気に入られようとしているのか、そのようにして自分の身の安泰をはかろうとしているのか、法の正義が守られずにある事件だと思うのです。神の前に、人としての第一義が守られずにある現実ではないかと思うのです。


我が身の安泰を図るために人に気に入られようとするのではなく、神に対して、人として自分のなすべき正義、なすべき愛を果たしていく。けれども、この問題は他人事ではない、まさに"私たち自身の"問題だと思うのです。私たちも、政治的にか、何的にか分かりませんが、我が身の保身、安泰を考えて、人に気に入られようと行動することがあるのではないでしょうか。大人も子供も、我が身かわいさから、強い者の側について、おもねり、言うべきことを言わず、行うべき正義を行わず、弱い立場の者に愛を注がない、ということが、自分の胸に手を当ててみて、ないでしょうか。

確かに、私たちは強くはないのです。なすべき正義と愛を果たすには弱いところがあるのです。しかし、その"弱い私"と、神が共にいてくださるのだと信じる時、私たちは強くなれるのではないでしょうか。

パウロは、裁判の席で、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」(8節)と弁明しました。けれども、そのように答弁したパウロには、実はもっと強く意識していたものがあったのではないかと思うのです。それは他でもない、"神に対して"ということです。神以外のものに対してなら、自分には罪がないと言える。けれども、神に対してはどうか。自分の内を深く、深く問われる神に対して、自分には罪がないとは言えなくなったパウロです。だからこそ、彼は、主イエス・キリストを信じる信仰に改宗したのです。自分の内側にある深い罪を赦されるキリストの恵み、キリストを通して表わされた神の愛を信じたのです。

そして、人に対してではなく、神に対して、神と向かい合って歩むようになったパウロです。もちろん、神様から自分の内を常に問われるのは厳しく、重いことです。けれども、自分の内にある思いを、我が身の安泰のために、時には正義も愛も捨てるような自分の思いに気づかされ、悔い改める時に、赦してくださる神の恵み、受け入れてくださる神の愛を知っているからこそ、パウロは神に対して歩むことができるのです。それがキリスト者の姿です。

私たちも、パウロの後に続き、神に対して歩む者でありましょう。


7900)ユダヤの選民思想はあやまり
徳田喜郎

 ひのもとさんへ

ユダヤ人は自分たちがエジプトから救われた神の民と
思っています。

「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、/
「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、
かの大川ユフラテまで。」
     創世記15章:18節

 この神の言葉を今も信じています。しかし、ユダヤ教は
間違っています。聖書は普遍的真理が書かれた書物であり
歴史に重きをおいていません。心のことがかかれたものです。
しかし、彼らは神の民と思っています。

 このユダヤ人に対して、イエスキリストは

「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。
おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、
アブラハムの子を起すことができるのだ。」
     マタイによる福音書3章:9節

アブラハムを石ころからでも作ることができると言っています。
それくらいお前らは石ころのような存在であり、
紙から選ばれた子孫でもなんでもないと言っています。

 イエスキリストの言葉が正しく、ユダヤ人は間違っているのですが
ユダヤ人はイエスキリストを殺し、現代までそのことを
信じています。ユダヤ人の選民思想とキリスト教信者の
ユダヤ人を愛する心は 符合しています。
キリスト教信者は子供のようにユダヤ人を守ります。
その心がパレスチナ排斥の一因です。
ユダヤ教、キリスト教がある限り、イスラム教のパレスチナには
不利な状況ができます。そうだからといって、テロ行為で
世界中を恐怖に落とすことは許されません。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の誤りをただし
元に戻すことが一番の治療法です。これを治さない限り
堂々巡りの繰り返しです。






(私論.私見)