「ユダヤ教サバタイ派」考

 (最新見直し2007.8.16日)

【「ユダヤ教サバタイ派」考】
 「」その他を参照する。

 ユダヤ教サバタイ派について、れんだいこは知らない。「にせ救世主サバタイ・ツヴィ」、「ユダヤ教徒の「カバラ」と「メシア運動」の歴史」その他を参照する。

 サバタイ派の創始者・サバタイ・ツヴィ・ベン・モルデカイは、1626年、トルコのスミルナのゲットーに生まれた。1676年、死す。テッサロニキ出身の「サバタイ」もアシュケナジー系ユダヤ人です。

 当時スミルナは、スペインを追放されたユダヤ人達が、各地を転々としながら移住を続けたどり着いた場所で、相当数の人口を抱えていたようである。サバタイ・ツヴィの父親は、貿易業で財を築いた富裕層の人であり、息子をラビにするべく、ユダヤ学院で学ばせる。しかし、彼は正統的なユダヤ神学には関心が持てず、ルーリア派のカバラ思想に興味を示す。そこで、彼は厳しい禁欲と苦行、瞑想を通じて天使や神との接触を望んだ。真冬の海で沐浴をしたり、長期間に渡る断食なども敢行した。

 1648年頃、彼が、自分を救世主だと信じ込むようになった。もともと、ユダヤ教にはメシア待望論がある。一部のカバリスト達が「ゾハール」を解釈し、1648年に救世主が現れると予言していた。


 さらに、ウクライナで大規模なユダヤ人の大虐殺が起こり、終末論的な雰囲気がユダヤ社会を覆っていた。そんな中、サバタイ・ツヴィは、聖四文字の名を叫びながら、神の啓示に触れたと称し、「我こそメシア」といった内容の説教を始めた。一部に同調者が出たものの、殆どの人々は彼を狂人とみなした。評価は殆ど得られず、彼は生まれ故郷のスミルナから追放されてしまう。

 彼は、その後、各地のゲットーを旅して回る。正式なラビの資格を持たないのに、宗教儀式を行うなどして、ほうぼうでトラブルを引き起こした。しかしながら、その学識は本物で、多くの友人を作り、尊敬も集めていたのも事実であった。

 1660年、彼はカイロに辿り付く。そこで彼はユダヤ人有力者でカバラ主義者のラフィエル・ヨゼフ・ハラビの支持を得る。続いて彼は、聖都エルサレムへと向かう。しばらく彼は、目立った行動は行わず、祈りと修行に明け暮れる生活を送る。

 しかし、ここで大きな転機が訪れる。トルコ政府がエルサレムのユダヤ人達に無理難題を吹っかけて来たのだ。多額の税金の支払いを命じ、「支払いができないのなら、街から追放する」という命令である。この時、ツヴィは、この危機を救う。密使としてカイロに戻り、大富豪のハラビに助けを求めたのだ。ユダヤ人の富豪は、同胞の救出のためなら、喜んで財を投げ出す。ハラビは、エルサレムのユダヤ人達に代って、税金を立て替えてくれた。これにより、ツヴィは、大きな支持を集めた。
 
 妻のサラと出会ったのもこの頃だ。彼女は、生まれはポーランドのユダヤ人で、両親をポグロムによって殺されたユダヤ人大虐殺の生存者で、強引に入れられたキリスト教の修道院から脱出して、ポーランドからカイロまで逃げてきたという凄い経歴の持ち主。さらに、彼女もまたカバラの信望者で、自分は将来、メシアの妻になると固く信じ込んでいた。彼女もアムスで「メシア=サバタイの妻になれ」とのお告げを受け、エジプトへ向かう。ツヴィは、サラと結婚する。彼女も、一種のカリスマを持っており、支持者を集める大きな力となった。
メシアと娼婦の結婚」は、イスラム教圏とキリスト教圏とにまたがった国際的スキャンダルとなった。

 さらに、彼のパプテスマのヨハネの役をすることになるカバリストの学者ナタン・ガザッティとも出会う。ガザッテイもまた、近いうちメシアが現れると予言しており、ツヴィこそ、その人だと固く信じ込み、サバタイを「メシアだ」と宣言した。信用あるナタンの宣言により、人々はサバタイをメシアとして受け入れた。これで、役者は揃ったことになる。

 エルサレムのラビ達は、彼を危険視し始める。するとツヴィは、自分達の本拠地をガザへと移す。そして、彼は自分こそユダヤの救世主である、と正式に宣言した。それと平行して、ヨーロッパ各地のゲットーに、支持を呼びかける回覧文書を送った。信じがたいことだが、凄まじい数のユダヤ人達が、これに同調した。もちろん、ラビ達は、これをインチキであると糾弾し、ツヴィの信望者を破門にするような強硬手段も取ったが、さして効果は無かった。さらに、ラビ達の中からも、ツヴィに同調する者が、少なからず出始めた。その中には、ユダヤ教会の有力者も居た。

 ツヴィは、続いて本拠地を、ガザから生まれ故郷のスミルナに移した。住民達は、彼を大きな熱狂で迎え、彼はスミルナの実権を掌握する。彼の噂は遠くイギリスにまで伝わり、多くのユダヤ人達が、彼を本物の救世主と信じたという。

 166年、熱狂する信者の間で、サバタイは預言する。「1666年に世界が終わる。最後の審判がくだり、ユダヤ人は救われるのだ」。かくてサバタイとサラと信者団は、「世界の終わり」を迎えるために、エルサレム(トルコ領)入りする。スミルナからコンスタンチノープルへと移動する。

 、ものすごい騒ぎになり、正統ユダヤ教側は彼らを破門、トルコ当局は暴動を恐れて扱いに苦慮しました。とうとうトルコのサルタンはたまりかねて、サバタイに宣告します。「死刑か、イスラム改宗か、二つに一つを選択せよ」。
 すると…何と呆れたことに、サバタイもサラも、ころっとイスラム改宗しちゃったのです。ユダヤ人たちはショックのあまり茫然自失。「世界の終わり」は幻滅のカラ騒ぎで終わりました。サバタイの最期は、囚われて獄死とも、人に見捨てられて窮死ともいわれています。それでも幾らか信者が残って、今もトルコに教団があるそうです…。

 そこで彼は、彼を危険視するトルコ政府によって逮捕され、城に幽閉される。しかし、丁重な扱いを受け、贅沢な部屋を用意され、まるで王侯貴族のような生活を送った。

 同年、「サバタイ=ツェヴィ事件



 しかし、その数ヵ月後、彼はトルコ皇帝(スルタン)のモハメッド4世に呼び出された。スルタンは、彼に「イスラムに改宗するか、死刑になるか?」の二者択一を強いる。ここで、彼はあっさりとイスラム教に改宗してしまうのである。

 彼のイスラム改宗のニュースは、あっという間に世界じゅうのユダヤ人達の間に広まり、このサバタイ・ツヴィ運動は、始まった時と同じように、あっという間に萎んでしまった。そして、彼に同調した高名なラビが10人ほど処刑される。ツヴィは、その後、ユダヤ教の祈りを行っているところを目撃され、トルコより追放された。

 1676年、彼は、アルバニアの小さな町で死亡した。

 ここで驚くべきことだが、ツヴィがイスラム教に改宗した後も、彼を救世主とする運動は消滅はしなかったということだ。イスラム教徒の支持者すら居た。彼らは、ツヴィのこの改宗は、一種の「秘儀」であり、イニシエーションのようなものと考えた。こうしたサバタイ主義は、実に18世紀まで生き延びたのである。

 しばしば、ユダヤ教カバラ衰退の責任の一端は、このサバタイ・ツヴィにあるとされる。と言うのも、サバタイ主義の思想は、キリスト教に類似した所があり、多くのラビ達によって、異端とみなされた。彼はゾハールにある「父、母、子」の三原理を、キリスト教の三位一体に酷似した思想に置き換えた考え方を持っていたのである。事実、サバタイ主義者には、キリスト教に魅力を感じ、改宗する者も多かったという。さらに、サバタイ主義者にはカバリストが多かった。正統派のラビ達は、サバタイ運動を批判するのに熱心な余り、カバラまでもを異端視しはじめるのである。

 もちろん、全てのユダヤ人カバリストが、サバタイ運動に参加したわけではない。ツヴィを激しく批判したカバリストも少なくなかったし、中にはポーランドの高名なカバリスト、ネヘミヤ・コーエンのように、ツヴィを批判したばっかりに、彼の信者に命を狙われた者すら居たのである。それはともかく、ユダヤ社会では、このサバタイ・ツヴィの名は、「にせ救世主」として忌まわしいものになってしまった。

 このサバタイ・ツヴィの再評価が始まったのは、20世紀に入ってからである。そう、あのG・ショーレムによって成された。ショーレムは、決してサバタイ運動のグノーシスもどきの思想が混入したカバラを、全面評価しているわけではない。彼は、こんな感じのことを言う。
 「凄まじい迫害、虐殺、追放を受けた来たユダヤ人の中に、激しい緊張感が生じ、それがメシア待望論を生み出すのは当然の結果ではないか? ある日、それが突然爆発する。サバタイ運動とは、そういうものではないのか?」。

 熱烈なシオニストたる彼は、自分の内にツヴィのそれと似たものを見たのであろう。

 「カバラ」 箱崎総一 青土社
 「ユダヤ教神秘主義」 G・ショーレム 法政大学出版局
 正統教学の律法書『タルムード』は、膨大な対論と思考実験を含んでおり、その信徒らに知的訓練を強いた。秘教〈カバラ〉も高度に抽象的であり、後のフロイト心理学など、この〈カバラ〉を近代ふうに応用したものだ−ともいわれている。


 サバタイ派に続いてフランキスト派が出現した。フランキスト派の始祖ヤコブ・フランク(1726−1791)は、ポーランド出身のサバタイのような“自称メシア”で、ユダヤ教の救世主思想を「この世の悪や不幸を人為的に頂点にまで満たして、この世を破壊し尽し、メシアを到来させる」という危険な思想に転換させた。ヤコブ・フランクとその信者(=フランキスト)たちは、正統派ユダヤ教のラビから破門されたが、フランキストたちは「改革派ユダヤ教」と名称を変え、ユダヤ教の中で一大勢力となっている。そして、このフランキストがサバタイ派と結びつき、キリスト教徒・イスラム教徒・仏教徒たちの中に紛れ込んで、危険な終末思想を実現しようとしている。

 この問題が重要視されるのは、現代世界を支配するユダヤ王ロスチャイルドが、ただの大富豪ではなく、タルムードを信奉していて、しかもサバタイ派=フランキストに属していることにある。
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi

サバタイ派ユダヤのメシアとしてのロスチャイルド。
そしてこのメシアはユダヤの王であり、従ってエルサレムに君臨する世界の王である、と。



更新 平成19年08月06日00時21分

平成十九年(二〇〇七年)八月五日(日)
(第二千百三十六日回)

○「ロスチャイルドとロックフェラーが対立して居る」と。

○このデマ宣伝は、イルミナティサタニスト世界権力によって
 意図的に流布されて居る、ロスチャイルドの真相を隠蔽する
 ための、ニセ情報の一種である。

○従って、このデマ宣伝に同調し、それを増幅させるものは
 意識的であれ、無意識的であれ、

○イルミナティサタニスト世界権力のれっきとした、走狗、
 その手先、その囮、そのエージェント以外の何者でもない。

○クリストファー・ジョン・ビェルクネスの「アルメニア人キリ
 スト教徒に対するユダヤ人によるジェノサイド(皆殺し的大量
 虐殺)」(二〇〇六、二〇〇七年)

○この大著(英文)の日本語での紹介は、

○「ロスチャイルドとロックフェラーの対立」と云々するデマ
 宣伝を一掃して、ロスチャイルドの実相を白日の下にさらけ
 出すであろう。

○ロスチャイルドの真相解明のためには、

○サロニカ(テッサロニキ)を知ることが必須である。

○サロニカ(テッサロニキ)は、現在はギリシャ領であり、
 ギリシャ第二の都市であると言う。

○ギリシャ領であるけれども、それは、マケドニアの都市である。

○オスマン・トルコ帝国時代には、サロニカ(テッサロニキ)
 は、トルコ領であり、

○イスラム世界の都市である。

○しかし、二十世紀初頭、
 サロニカ(テッサロニキ)の人口十四万人。
 そのうち、ユダヤ人が八万人。
      サバタイ派の隠れユダヤが二万人。

○つまり十四万人中、十万人!!
 は公然たるユダヤと、隠れユダヤ!!

○このサロニカ(テッサロニキ)を基地として、オスマン・トル
 コ帝国の転覆を目的とする青年トルコ党の運動が組織された。
 そしてその青年トルコ党の正体は、サバタイ派隠れユダヤであっ
 たと。

○ロスチャイルドは、サバタイ派である。

○否、単にサバタイ派ユダヤ人であるのみでない。

○ロスチャイルドはサバタイ派の教義にある、ユダヤの「メシア」
 である、と自任した。

サバタイ・ツヴィと、サバタイ派については、

○「ユダヤ教史」と言う、きわめて僅かな人々のみが関心を抱く
 専門領域ではユダヤ教のメシア(又はニセメシア)の一人、
 としてサバタイ・ツヴィの名前は知られる。

○しかし、その専門家以外、日本人はサバタイ・ツヴィについては
 何も知らない。

○筆者(太田)の一連の著作(とりわけ『ロスチャイルドの密謀』)
 の熱心な読者を唯一の例外として。

○C・J・ビェルクネスの「アルメニア人キリスト教徒に対する
 ユダヤ人による皆殺し的大量虐殺」は、

○このサバタイ派隠れユダヤ教と
 そのメシアとしてのロスチャイルドの問題を真正面から取り上げる。

○我々は、このことで、著者ビェルクネスに感謝しなければならない。

○今や、サバタイ派=ロスチャイルド問題について、必読の二冊の
 大著が登場した。即ち、

 (1)ラビ、M・S・アンテルマン著
    「阿片を根絶せよ」(上下二巻、一九七四年、二〇〇二年)

 (2)クリストファー・ジョン・ビェルクネス著
    「アルメニア人キリスト教徒に対するユダヤ人による皆殺し
    的大虐殺」(二〇〇六、二〇〇七年)

 (了) 




(私論.私見)