4481−2 パレスチナ問題を解くための歴史2、中世史篇

 (最新見直し2006.9.4日.)



【離散の民後のユダヤ人の生態】
 ローマ帝国の迫害によって離散の民となったユダヤ人は、ユダヤ教保守派(パリサイ派)の生き残りを中心に、ガリラヤやティベリアに「サンヘドリン(ユダヤ長老議会)」を設置した。サンヘドリンは総主教、教学院長、最高法廷議長の三頭制度で成り立っていた。こうして、新ユダヤ教を信仰する共同生活を送り始めた。ユダヤ人はパリサイ人とも呼ばれた。パリサイとはヘブライ語で「特別な者」という意味である。

 また、イエス生誕以前から自発的に諸外国で暮らしを始めていた離散ユダヤ人もいた。彼らはヘレニズム・ローマ時代に発展を遂げ、地中海やオリエントなどに広がっていた。その中心がバビロニアやエジプトのユダヤ人共同体である。

180  新約聖書成立する。聖書の中に、「父(神)」、「子(キリスト)」、「精霊」が併記された。

 ローマ帝国と並んでビザンチン帝国(30B.C〜A.D641)が支配する。

211  ユダヤ人は、ローマ帝国カラカラ帝(在位211〜217)の在世時代、課税の単純化を目的としたローマ市民権付与法によりローマ市民権保有者となった。
226  パルティア王国を征服したササン朝ペルシア帝国は、パルティアの手になる「エクシラルク制度」をユダヤ人の自治的な亡命政府として認める。ササン朝ペルシア帝国のユダヤ人学者は「アモライーム」と呼ばれ、「ゲマラ」の基礎をつくる。
230  カルタゴの教父テリトゥリアヌスが始めて「三位一体」という表現を用いる。
250  ローマ帝国デキウス帝がキリスト教を大迫害する。
293

 ローマ帝国が四分割される。

300  キリストは神か人かを廻って論争される(同質性論争)。
301  ディオクレティアヌス帝がキリスト教を迫害する。
 アルメニア王国がキリスト教を国教とする。当時のアルメニアは、ローマ帝国の属国だが、国家の国教としては世界初。
303  皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教禁圧令を出し迫害する。
306  この頃、コーモンのアントニウスがエジプトで隠修士を集め、キリスト教最初の修道院を始める。
311  キリスト教寛容令。
312  コンスタンティヌス1世、十字架を旗印にしてミルヴィウス橋の戦いに勝利する。
313.6月  ローマ帝国コンスタンチヌス大帝(在位306〜337)は「ミラノ勅令」(ミラノ寛容令)を発して、キリスト教を公認した。ローマ帝国は衰退しつつあったが、これ以後、キリスト教化は急速に進んでいくことになった。イエスのイコン(聖画)が地下のカタコンベから出ることになった。
 ビザンティン帝国(東ローマ帝国)がパレスチナを支配。
315  コンスタンティヌス大帝が、ユダヤ人の自治を制限する最初の勅令を出し、その中でユダヤ人を「あの恥ずべき一派」と表現した。
318  父と子の同一性を認めるアタナシウス派と、これを認めないアリウス派の間で論争が起る。
325  コンタンティヌス1世によって、第1回ニカイア公会議が開かれ、三位一体の基礎が確立される。父と子の同一性を確認し、アリウス派が異端とされる。
330  〜640まで、パレスチナがビザンチン(Byzantine)の支配下に入る。パレスチナは次第にキリスト教化された。
339  コンスタンティヌス大帝が、キリスト教徒とユダヤ人との婚姻ならびに、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷を所有することを禁止した。
350  この頃、エチオピアがキリスト教を国教とする(コプト教)。
361  ユリアヌス帝の背教。皇帝ユリアヌス(背教者ユリアヌス)がローマ古来の宗教の復活を企てる。
375  ゲルマン民族の大移動が開始される。
380  キリスト教がローマ帝国の国教となる。
381   第1回コンスタンティノープル公会議が開かれ、二カイア公会議を補則する。三位一体の教義が確定する。
383  ローマ帝国下で、ユダヤ教が法的に禁じられた。キリスト教の政治的勝利であったが、これによりユダヤ人は法的な差別や制限を受けざるを得なくなった。
386  アウグスティヌスマニ教からキリスト教に回心する。
388  キリスト教とユダヤ教の異宗婚が禁止される。
391  皇帝テオドシウスがキリスト教を国教に定める。
392  ローマ帝国テオドシウス大帝(在位379〜395)下で、キリスト教はローマ帝国唯一の合法宗教たる国教にまで高められ(「ローマ帝国でキリスト教が国教になる」)、異教禁止令が出され、すべてのローマ人はキリスト教信者の受容を強制されるようになった。
 「この時から、それまでキリスト教徒を迫害してきたユダヤ教徒が、逆に迫害され始めた。当時キリスト教の神学に、ユダヤ人はイエス・キリストを殺した民であって、その罪ゆえに彼らは離散の呪詛を永遠に背負わなければならないのである、との解釈が生じた」。
395  ローマ帝国が、東西ローマ帝国に分裂した。ビザンティン帝国が、パレスチナ全土を支配した(〜639年)。
 ヒッポ(北アフリカ)の司教アウグスティヌスが『告白』を書く。
397  カルタゴ会議で新約聖書正典を決定し、「聖書」がほぼ確定する。
409  サーサーン朝ペルシア帝国が、キリスト教寛容令を出す。
410  ヒエロニムスがエルサレムで聖書をラテン語に翻訳する。(ヴルガータ訳聖書)
411  ペラギウス論争起こる。
426  アウグスティヌス、「神の国」。
430  ヒエロ二ムスが聖書をラテン語訳。
431  エフェソス公会議ペラギウスネストリウス派を異端とする。
440  ローマ司教レオ1世が、ローマ司教の首位権(教皇権)を主張する。
451  カルケドン公会議が開かれ、キリストは唯一の位格である事が確定し、単性論の立場のコプト教会アルメニア教会などが離反する。「キリスト単性論」が追放され、三位一体が正当教理として確定する。
452  ローマ教皇レオ1世がフン族の長アッティラをローマから撤退させる。
476  ゲルマン人の度重なる侵攻に耐えてきた西ローマ帝国が、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって遂に滅ぼされる。
486  クローヴィスフランク王国を建設する。
496  フランク王クローヴィス、部下3千人と共に洗礼を受ける。
500年前後  ササン朝ペルシア帝国内でユダヤ人の内紛が起きる。

【2から5世紀、ユダヤ人がタルムード編纂に着手する】
 この間、ユダヤ人社会は、イスラエル10支族との完全離別、新バビロニア王国によるソロモン第一神殿の破壊やローマ軍との大戦争を経験し、マイノリティー化した彼らは、極度の民族的死活問題に直面していた。 そういう事情により、律法に加えて様々なユダヤ人の生活原理の規範ともいうべき民族内規を生み出していった。ユダヤ人たちは離散の地で、紀元2世紀にはミシュナを、紀元4世紀末にはミシュナとゲマラを融合してエルサレム・タルムードを、紀元5世紀末にはマル・ヨセがバビロニア・タルムードを編纂した。タルムードにはより現実的な利益を求める生活指向が盛り込められた。と同時に、非ユダヤ人のことを「ゴイム(家畜)」と表現し罵るなどの、故意に歪められた民族的排他性と独善的選民思想が付随し、他民族に反ユダヤ感情を植え付ける一因となった。

 旧約聖書を補完するものとしてのタルムードの発生史は、すなわちユダヤ教の発展史である。離散時代のユダヤ社会はかっての神殿祭祀ではなく、「シナゴーグ(ユダヤ教会堂)」のラビ(ユダヤ教指導者)による旧約聖書やタルムードの研究解釈に切り替わった。このシステムは、現在のユダヤ教にそっくりそのまま受け継がれている。タルムードを中核に据えた新ユダヤ教を信仰し始めたユダヤ人には、もはやかってのような預言者も神の声もなくなった。それが進歩か退歩かは軽断出来ない。

517  ブルグント王ジギスムント、アリウス派からカトリックに改宗。
520   ベネディクトゥスが修道院を開き、それがイタリア各地に伝わる。
527  ビザンツ帝国が「ローマ法大全」の編集開始。
529  ベネディクトゥスモンテ・カッシーノに西方教会で初めての修道院を開く。(ベネディクト会
553  ユスティニアヌス帝が、ユスティニアヌス法典をつくり、「反ユダヤ法」を発令。以後、ビザンティン帝国は全史を通じて、ユダヤ人が帝国の行政的な地位に就くことも、青少年を教育することも、勅令によって禁じられることになった。
 第2回コンスタンティノポリス公会議が開かれる。
589

 第3回トレド会議が開かれ、キリスト教によるユダヤ人差別が明文化されるようになった。ユダヤ人はキリスト教徒との結婚を禁じられ、公職にもつけなくなり、以降、ユダヤ人が糊口を凌ぐためには、金貸し業などキリスト教徒が蔑んだ仕事に就くほかなくなっていった。キリスト教徒からするユダヤ人迫害史が確定されたことになる。

590  グレゴリウス1世(大聖グレゴリオ)が教皇として即位し、ローマ法王権が確立する。(この頃より、ローマ教皇という言葉が使われる)
 アイルランドのコルンバヌス、ヨーロッパ大陸に伝道を開始する。
596  カンタベリーのアウグスティヌスアングロ・サクソン人に伝道を開始する。
622  新興宗教イスラム教誕生。イスラム教を開いたムハンマド(マホメット)がマディーナ(メディナ)に遷る。ヒジュラ暦元年。
638     ムハンマド(マホメット)の興したイスラム教が爆発的に拡がった。聖地エルサレムもイスラム教徒のイスラム帝国の支配下におかれた(〜1099年)(イスラム帝国・A.D641〜A.D1517)。イスラム教によって民族的に目覚めたアラブ人により、イスラム帝国は急激な成長を遂げ、西アジアから北アフリカ、そして南ヨーロッパ一帯にかけてを版図にし、キリスト教圏と対峙した。パレスチナは以降、十字軍時代の約百年を除き、1917年に英国が占領(後に委任統治)するまで、イスラム教徒サラセン軍が支配した。

 イスラム教徒は一部の例外もあるが、基本的にはユダヤ人を迫害し弾圧するということはなかった。なぜならば、アラブ人とユダヤ人はアブラハムの兄弟関係に当たるからという教義により、アラブ人はユダヤ人を被保護民族と位置づけ、特別な人頭税を課す代わりに、その宗教と生活を保護した。そのため、ユダヤ人は本部をバビロンに置いた。

 このように、イスラム圏内の大多数のユダヤ人は、身分差別をされながらも、その共同体を保ったまま、安定した生活を送ることができた。しかも、中世イスラム社会では、ユダヤ教学最高の学者マイモニデスを一大頂点とした学術活動がなされ、ユダヤの思想文化面に輝かしい展開もみられることになった。

(解説)

 
この頃の現在イスラエルのある地域一帯は、大シリアの南部、パレスチナ地方と呼ばれていた。と言っても、この地域に現在のような国境線が引かれるのは、第一次世界大戦以降のことである。中東やアフリカの国境線は、ほとんどがヨーロッパの大国の支配圏をはっきりするために引いたもので、そこに住んでいる人達が、自分の意志で引いたものではない。パレスチナ問題も、レバノンの混迷も、元を辿ればすべてこうした事情から生まれている。

 この地域の住民ないし地名は様々な変遷を見せている。まずエジプト、ヒッタイト、カナン、フェニキア、ペリシテ、ユダヤ、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、ローマ、イスラム、、トルコと移り変わっている。仮にパレスチナに定住民が居たとしてそういう人々の眼から歴史を見たら、、占領者が次々と入れ替わり、そのもとで改宗と混血を繰り返しながらも、住民が住み続けたということだろう。そして、その人々は、かつてカナン人と呼ばれ、現在パレスチナ人と呼ばれている。

 パレスチナという名は、モーセに率いられたイスラエルの民と同じ頃カナンの地に移住してきたペリシテ人に由来する。ダビデ以前のこの地の支配者は、ペリシテ人とフェニキア人だった。やがて、その人々は土地の人々と混血し、同化していく。そして「カナン」と呼ばれたその地は、やがてローマによって「パレスチナ」と呼ばれるようになる。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照) 

(解説)

 
ユダヤ亡国後、全世界のユダヤ人の精神的支柱となってユダヤの復興に努めたのは、バクダッドを中心とするメソポタミア各地のユダヤ人社会であった。彼らはイスラム教の太守から自治権を付与され、9〜10世紀にはバグダッドだけでも4万人のユダヤ人が暮らし、平和にイスラム教徒と共存していた。

 亡国の民となったユダヤ人の生計は、主として金銭に纏わる仕事によって支えられた。これは、当時のキリスト教義が清貧を重んじ金銭を取り扱うことを卑しいこととしていたことと関係していた。キリスト教義を信奉する国家の民は金銭の取り扱いを罪悪視し、そうした賤業にユダヤ人を就けることでいわば共存する仕組みを構築していた。
651  クルアーン(コーラン)が編纂される。
661  〜750 ムハンマドがダマスコスに代わってパレスチナを支配した。 Dynasty descended from Umayya of Meccan tribe of Quraysh. Construction of Dome of the Rock in Jerusalem by Caliph 'Abd al-Malik (685-705). Construction of al-Aqsa mosque in Jerusalem by Caliph al-Walid I (705-715).
680  第3回コンスタンティノポリス公会議単性論が断罪される。
700

 イスラム軍が北アフリカを制圧する。

711  イスラム軍がイベリア半島を制圧し、スペインがイスラム・アラブの支配下に入った。
720  イスラム軍がフランク王国に侵入。
726  ローマ皇帝レオ3世が偶像破壊令を出す。(ビザンチン皇帝)
 聖像論争。
732  フランク王国宮宰カール・マルテルトゥール・ポワティエの戦いでイスラム軍を撃退し、イスラム軍のヨーロッパの進軍が止む。

 ローマ帝国なき後のヨーロッパ秩序を回復したカール大帝(在位768〜814)の保護下で、ユダヤ人は商人として東西貿易に活躍した。カール大帝以後のカロリング諸王のもとでも、被保護者の立場にあった彼らは、国王の商人の名の下に、特別な保護を受けている者もいた。単に商人としてのみならず、国王や軍隊の水先案内人、物資の調達者として軍隊や軍需物資の輸送などに従事し、王に忠誠を誓い、見過ごしがたい重要な役割を果たした。

 そして、カロリング王朝下で、異教徒のキリスト教への強制改宗の試みはあったものの、ユダヤ人は聖書の民として特別な保護も受けていたし、中世初期から10世紀は概してユダヤ教徒とキリスト教徒間には共存できる寛容さも存続していた。

(解説)
 「暗黒の中世史」を通じ、ユダヤ商人は次第に富裕になり、王侯貴族や教会権力中枢に食い入っていくことになった。但し、不正の手段によってではなく商能力の高さによってそうした関係を創って行ったとみなすのが穏当であろう。この頃よりユダヤ人の能力の高さが認められ、諸分野に次第に社会進出し始めていくことになる。

【「ハザール汗国」のユダヤ教改宗】
740年頃

 カスピ海沿岸の「ハザール汗国」のオバデア王、国民もろともユダヤ教に改宗させ、国難を乗り切る(ユダヤ人以外のユダヤ帝国の誕生)。

7世紀頃  「ハザール王国の歴史」、「<ユダヤ問題特集第2章>世界史のタブーである東洋系ユダヤ人と白人系ユダヤ人のルーツ」を参照する(目下、ほぼ転載)。

 コーカサスからカスピ海北岸に、総人口が100万の「ハザール王国」という巨大王国が存在していた。住民はトルコ系白人(コーカソイド)で、商人・職人・武人として優れていたが、これといった宗教を持っていなかった。

 これに対して、ハザール王国をはさむ形で東ローマ帝国とイスラム帝国が存在していたが、東ローマ帝国はキリスト教を国教とし、イスラム帝国はイスラム教を国教としてそれぞれが国家的アイデンティティーを保持していた。ハザール王国は、次第に両国の「宗教的な干渉」を受けるようになり、どちらの宗教に改宗しても、国全体が戦火に巻き込まれるのは必至という状況に陥った。

 こういう状況によってか、ハザール王国の王オバデアは、国民まとめて「ユダヤ教に改宗」させる。彼らはユダヤ教に改宗しただけでなく、自分たちは「血統的にもアブラハムの子孫」であるとした。ハザール王国は、8世紀末から9世紀にかけて、全国民がユダヤ教に改宗してしまうという、世界史上例を見ないことを成し遂げた。

 国家的な「ユダヤ化政策(改宗政策)」を推し進めたハザール王オバデアから200年たったヨセフ王時代の書記は、以下のような記録を残し、ハザール人は全トルコ民族の先祖であるトガルマを通じ、ノアの長男セム(黄色人種)ではなく第3番目の息子ヤペテ(白人種)の直系子孫であることを断言している。
 「我々の父祖の系図から、トガルマには10人の息子があったことを知った。その子孫の名前はウィグル、デュルス、アヴァル、フン、バシリー、タルニアク、ハザール、ザゴラ、ブルガル、サビールである。我々は7番目の息子ハザールの子孫である」。

 このことに関し、イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエル共和国が建国される以前の1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
 「これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、およびハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。この定住地の子孫――その地にとどまった者、あるいはアメリカやその他に移住した者、イスラエルに行った者――が、現在の世界で“ユダヤ人”と言われる人々の大部分を占めているのだ」。

 アシュケナジー系ユダヤ人N・M・ポロックは、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていた学者であった。その彼が1966年8月、イスラエル政府に抗議したことがあった。彼はその当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にロシアのステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではないと言ったのである。イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にはその重要な証言をもみ消そうと画策。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。

 このように「アシュケナジー系ユダヤ人」は、『旧約聖書』に登場するユダヤ人(セム系民族)とは「血縁的に全く関係のない民族(ヤペテ系民族)」であり、国をあげてユダヤ教に大改宗して以来、現在に至るまで“ユダヤ人”になりきってしまっているのである。

 「アシュケナジー系ユダヤ人」が非セム系民族であるとすると、現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上が、本来のヘブライ人とは全く関係のない異民族ということになってしまうが、これは恐るべき事実である。この「ニセユダヤ人問題」(ちょっと言葉が悪いが)が世界史のタブーであることがうなずけよう。

 と同時に注意(考慮)するべき点は、「白人系ユダヤ人問題」というセンセーショナルな問題を扱う場合、幾ら「ニセユダヤ人」とはいえ、彼らは長い間“ユダヤ人”として生き、オリジナル・ユダヤ人と同じ「キリスト殺し」の汚名を背負い、悲惨な迫害を受け続けて来たわけであり、同情に値するという点であろう。


745  ケルンに大司教座が設置される。
750  ウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が始まる。〜1258、'Abbasid caliphs rule Palestine from Iraq. Dynasty, founded by Abu al-' Abbas al-Saffah, who is descended from' Abbas, uncle of the Prophet.
756  フランク王国宮宰小ピピンラヴェンナの土地を教皇に寄進し、教皇領が始まる。
780  養子論論争。
787  第2回ニカイア公会議聖像の使用が認可される。
793  イングランド北部、リンデスファーン修道院ノルマン人に襲われる(ヴァイキングの始まり)。
800  ローマ教皇によるカール大帝(シャルル・マーニュ、カール・マルテルの孫)が、ローマで教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠する。西ローマ帝国。
829

 伝道師アンスカルらスウェーデンに布教。

844  聖餐論争。
846  イスラム軍が東ローマ帝国を攻撃する。
848  二重予定説論争。
860  ノルマン人ロシアを支配する。
865  聖書がロシア語に翻訳される。
867  東のローマと西のコンスタンティノープルの教会が一時的に分裂する。
869  第4回コンスタンティノポリス公会議開かれる。
878  イスラム軍がシチリア島を占領。
900年前後

 ユダヤ教におけるキリスト教以来最大の異端派である「カライ派」が、ユダヤ教の高位の聖職者を分裂させる。「イスラム東方世界」の分裂によって、東洋系ユダヤ人は北アフリカを経由して「イスラム西方世界(イベリア半島など)」に追われる。

950

 デンマーク王ハーラル1世がキリスト教を公認。

954

 コルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人ハスダイと、ハザール王ヨセフとの間にハザール書簡がかわされる。

957  キエフ公妃オリガがコンスタンティノポリスで受洗。
962  東フランク王国(ドイツ)国王オットー1世が神聖ローマ帝国皇帝となる。
965  キエフのスビャトスラフ、ハザール汗国へ遠征し、首都イティルを破壊。
969  Fatimid dynasty, claiming descent from the Prophet's daughter Fatima and her cousin 'Ali, rule Palestine from Egypt. They proclaim themselves caliphs in rivalry to the' Abbasids.
988  キエフ大公ウラジーミル1世が受洗し、司教座が設置される。
989  キエフ大公ウラジーミル1世が東ローマ皇帝の妹と結婚し、東方正教がロシアの国教になる。
995  ノルウェーオーラフ1世がキリスト教を導入。
1000頃  キリスト教に改宗したレイフ・エリクソン、北アメリカを「発見」。布教、領有化は成されなかった。
 スウェーデン王オーロフ・シェットコンヌングがイングランド人宣教師によって受洗。
10〜14世紀
 スペイン・ユダヤ人社会の黄金時代。11世紀以降、キリスト教徒によるスペイン奪還運動「レコンキスタ」が始まった。13世紀半ばまでには、グラナダを除くスペインの大部分がキリスト教徒の支配下に入った。14世紀半ば過ぎまでは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は比較的平穏な関係で共存していた。ユダヤ人たちはキリスト教に改宗するように迫られたが、暴力的なものではなかった。この間、ユダヤ人はその能力に応じて登用されていた。
11世紀

 「イスラム東方世界」が分裂。それまでユダヤ人に対して穏健であったイスラム政権は、ユダヤ首長を追放。これによりバビロンのサンヘドリン本部は陥落。そのため、彼らは本部をヴェニスに移動した。ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、地中海貿易最大の港町へと発展していった。

1014

 デンマーク王クヌーズ2世がキリスト教を国教とする。

1016  ビザンティン―ロシア連合軍、ハザール汗国と会戦。
1020  クリュニー修道院の改革が、教会改革へと波及する。
1041  「神の休戦」が制定される。
1049  教皇レオ9世が即位し、教皇権の腐敗時代が終わる。
1054  ギリシャ正教とローマ・カトリック教会が相互破門し、キリスト教がローマ・カトリック教会とギリシャ正教会に分裂する。(東西教会の分裂大シスマ
1060  聖職者の階級制度確立。
1071  Saljuqs, originally from Isfahan, capture Jerusalem and parts of Palestine, which remains officially within the 'Abbasid Empire.
1073  教皇グレゴリウス7世が教会改革を断行する。
1074  聖職者の独身制が決定され、妻帯していた司祭などが失職する。
1075  聖職者の平服が禁止される。俗人による聖職叙任が禁止される。
1077  ローマ法王・グレゴリウス7世が、神聖ローマ皇帝・ハインリッヒ4世を破門、ハインリヒ4世が赦しを請うカノッサの屈辱事件(カノッサの屈辱)に至る。
1078

 ローマ教皇グレゴリウス7世が、ユダヤ人に対しキリスト教国での「公職追放令」を発令。ユダヤ人は全ての職業組合から締め出される事態となった。

 中世イスラム社会とは対照的に、中世ヨーロッパ社会すなわちキリスト教社会では、古くからユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着していた。 キリスト教は、他人にカネを貸して利息を取ることは罪悪であると考えていた。ところが、ユダヤ教は『タルムード』の中で異邦人から利子を取ることを許していたので、ユダヤ人は古くから自由に高利貸業を営むことができた。そのため公職追放令が発令されると、ユダヤ人はキリスト教徒には禁止されていた金融業に喜々として手を染めていくことになった。「カネに汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着したのはこの頃からだと言われている。


【「十字軍遠征」】
1095
 当時の法王ウルバヌス二世がキリスト教徒に対して「、異教徒イスラム勢力討伐、聖地の奪還」を訴えかけた(クレルモン会議で十字軍を宣布)。こうして十字軍遠征がが始まることになる。
1096  ローマ教会の提唱で第1回十字軍が派遣される。パレスチナとシリアの一部を占領する。
1099  第1回十字軍がエルサレムを占領し、エルサレム王国を樹立する(〜1291年)。アンティオキア公国などの十字軍国家も並立。十字軍遠征は1291年まで続き、西欧社会に大きな社会的経済的変化をもたらすことになる。 この時、パレスチナにいたユダヤ人たちは、乗り込んできたキリスト教徒によって真っ先に虐殺されている。

(解説)

 十字軍によるキリストの聖地を取り戻そう運動は、異教徒に対する戦いと言う異常な宗教的情熱意識を生み、その最初の犠牲者となったのがライン川沿いの古都に居住していたユダヤ人だった。ユダヤ人は「キリスト殺しのユダ公」として憎しみの対象でしかなかった。あるいは、ユダヤ人は悪魔がキリスト教国とその信徒を抹殺するために送り込まれた“悪魔の集団”とみなされていたことによった。

 十字軍以来、「改宗しようとしないユダヤ人の根絶(アウスロツトウング)」と言う思想が初めて現れた。これ以後、西欧ユダヤ人の迫害史が正式に開始されることになる。ユダヤ人を社会からすべて隔離し、絶交しようとする動きが見られていくことになった。

 十字軍によるユダヤ教徒迫害は次第に激化して行き、ゲットー成立の重要な背景になって行った。キリスト教の理論化が浸透するに従い、「キリストを殺した者達=ユダヤ人」という感情が醸成されるようになった。中世から近世にかけて「聖体冒とく」(キリストの聖体、ホステイアを盗んで冒とくすること)と「儀式殺人」(ユダヤ教徒が儀式のために、キリスト教徒の幼児をさらって生き血を吸う)のデマがまともに受け入れられるようになってゆくのも、十字軍のまっただ中である12世紀中頃からである。その背景には、単にキリスト教徒の宗教的偏見という理由のみならず、ユダヤ人の富裕に対する「嫉妬」もあった。

12世紀前後

 ハザール王国は、東ローマ帝国と新たに台頭してきたモンゴル帝国の攻撃を受け滅亡する。この時に発生した大量の難民(改宗ユダヤ教徒ハザール人)は、西へ西へと移住し、東欧に住み着いた。この東欧に住み着いた難民たちこそが「アシュケナジー系ユダヤ人」と呼ばれるようになった人々である。祖国を失ったハザール人は、この時から“ユダヤ人”として生きることとなった。

1113  聖ヨハネ騎士団が認可される。
1115  クレルヴォー修道院が創設される。
1117  ヴェネツィアの聖マルコ聖堂が完成。
1122  ヴォルムス協約が締結される。
1123  第1回ラテラン公会議開かれる。
1128  テンプル騎士団が結成される。
1139  第2回ラテラン公会議開かれる。
1140  南フランスでカタリ派が広がる。
1146  フランスの修道士ルドルフが十字軍を呼びかけるとともに、ユダヤ人撲滅を呼びかけた。
1147  第2回十字軍
1155  スウェーデンエリク9世フィンランドへ布教(北方十字軍)。
1160  ランス大聖堂の建設開始。
1163  ノートルダム大聖堂 (パリ)の建設開始。
1170  オックスフォード大学が創設される。
1177  南フランスでワルドー派が広がる。
1179  第3回ラテラン公会議開かれる。
1185  カトリック教会で一種陪餐とロザリオの使用が習慣化する。
1187  Kurdish general Saladin (Salah al-Din who was born in Takrit northern Iraq, the birth place of Saddam Hussein too), son of Ayyub, the sultan of Mosul, defeats Crusaders at Hittin in northern Palestine and recaptures Jerusalem. The Ayyubid dynasty rules Palestine from Cairo.
1189  第3回十字軍。
1198  法王イノケンチウス3世が即位する。この頃、法王の絶頂期を迎える。
1199  ドイツ騎士団が認可される。
 イングランドのリチャード獅子王の戴冠式にあたり、突如ユダヤ人の迫害が起きた。大半のユダヤ人の家は焼かれ、多くのユダヤ人が殺された。ユダヤ人の財産は王のものとされた。王の代理人のみが8万マルクを費やして、ユダヤ人を救った。
1200年前後  「イスラム東方世界」から逃れてきた東洋系ユダヤ人が、スペインに知的な黄金時代を開花させる。ユダヤ史で、預言者の時代以来の最も知られている時代となる。アルファシがタルムードを法令化。ユダヤ学者マイモニデスが第二トーラーを著す。詩人ユダ・ハレヴィが、「ユダヤ精神」をロマンティックな詩に緕いあげる。
1202  第4回十字軍。コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を樹立する。
1209  アルビジョア十字軍カタリ派征伐の名目で南フランスへ派遣される。  
 アッシジのフランチェスコによりイタリアフランシスコ会が創立される。
1212  少年十字軍が派遣され、その大多数が人身売買で奴隷にされる。
1215  ローマ教皇が、第4回ラテラン公会議を開き、ヨーロッパ諸国に於けるユダヤ人の侵略ぶりについて対応策を協議した。十字軍の継続を支持すると同時に、ユダヤ商法を批判し、ユダヤ人にバッチを付けることを義務づけ、近い将来ユダヤ人が居住区域を限定される等々布告した。その他聖職者の行動指針を示した。
1216  ドミニコが創立したドミニコ会が認可される。
1217  ハンガリー王の十字軍がエジプトを攻撃する。
1218  第5回十字軍。外交によって聖地を回復したが、永続せず。
1223  フランシスコ会が認可される。
1228  第6回十字軍
1233  ケンブリッジ大学が創設される。
1236  モンゴル軍のロシア侵入、いわゆる「タタールのくびき」が始まる。
1239  信徒の聖書朗読が禁止される。
1243  キプチャク汗国成立。ハザール汗国はバトゥ・ハーンの権力下に吸収され、ハザール汗国滅亡。改宗ユダヤ教徒ハザール人たちはロシア・東欧に大量移住し、後のいわゆるアシュケナジー系ユダヤ人の中核を形成する。
1245  第1回リヨン公会議開催、フリードリヒ2世の皇帝位を剥奪。
1248  第7回十字軍。ムスリムの拠点である北アフリカを攻める。
1255  パリ大学アリストテレス哲学の講義を開始する。
1260  Mamluks succeed Ayyubids, ruling Palestine from Cairo; defeat Mongols at Battle of 'Ayn Jalut near Nazareth.
1264  ポーランドでユダヤ人保護政策が採られる。
1270  第8回十字軍
 結局、十字軍遠征活動は聖地エルサレムを奪回するという第一目標を果たせなかったのみならず、ヴェニスの商人の策略によってキリスト教徒同士(カソリック&東方正教会)が討ち合うという有名な悲劇的大事件(コンスタンチノープル攻略事件)を招き、キリスト教史に非常に深い傷跡を残してしまった。

 十字軍遠征活動に代表されるように、キリスト教の修道士や騎士階級が異教徒征伐政策を正当化するにつれて、ユダヤ人に対する迫害は露骨になっていった。13世紀にローマ教会が「異端審問制度」を確立すると、ローマ教会の横暴さは頂点に達した。

1273  パリ大学教授でドミニコ会のトマス・アクィナスが『神学大全』を完成する。
1274  第2回リヨン公会議が教皇選挙の方式を改正。
1275  ヘンリー3世没後、英国王に就任したエドワード1世が、ユダヤ人指導者の高利貸し業を禁止する「ユダヤ人法令」を議会に可決させた。
1289  フランシスコ会のモンテ・コルヴィノ大都に派遣される。

【「西欧各国でユダヤ人追放の嵐」】
1290  イングランドのエドワード1世が、ユダヤ人をイギリス国内から追放。
1291  マムルーク(エジプトの王朝)がパレスチナを支配(〜1516年)。Mamluks capture final Crusader strongholds of Acre and Caesarea.
1298  神聖ローマ帝国でユダヤ人迫害。貴族のカルブフライシュは全ユダヤ人を壊滅させるように神の命令を受けたと主張した。

 黒死病、宗教的異端説、経済的緒光がヨーロッパ社会を粉砕し始め、ユダヤ人の共同体生活をも揺るがす。「マハリル」が「タルムード学者」に代わって権力を振るい始め、「ユダヤ人の知的生活を損なう」。

13世紀頃

 中世ドイツにおけるユダヤ人の処遇は興味深い。ドイツ国王は、「キリスト殺し」のレッテルを貼られたユダヤ人に対して、特別に保護している。ユダヤ人は、その代償として種々の納税義務を果たした。それは、しばしば迫害に遭う弱い立場のユダヤ人とドイツ国王との取引でもあったように見受けられる。分裂した領封体制下でのドイツの国王にとって、全ヨーロッパに四散していたユダヤ人の国際通商能力、経済力は重要な収入源となったし、ドイツ全体のユダヤ人を自らの直接の保護下におくということは、国王の権威を全ドイツに知らしめる上でかっこうの論拠となり、更に実益にもなった。

 13世紀にはいると、国王の意に反してユダヤ人はドイツを去ることが出来なくなっていった。ハプスブルク王家出身のルドルフ1世(在位1273〜91)は自分の許可なくして聖地パレスチナへ移住しようとしたユダヤ人を重罪に処し、彼らの財産もすべて没収している。その論拠は、すべてのそして個々のユダヤ人は王庫の”下僕”として、その人物、財産ともにすべて国王一人に属するというものであった。

 こうしたドイツ国王のユダヤ人に対する特別保護、徴税権は皇帝特権の一つとなった。そればかりか、財政難に陥った国王はユダヤ人に対する徴税権を抵当に入れ、借金をすることも常のようであった。そして、もともと国王の特権であるユダヤ人保護、徴税権は、王権の動揺や財政窮乏下で次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった。

 その後のユダヤ人に対するキリスト教徒の差別は過酷で、服装を「とんがり帽子やマント、頭巾」を義務づけされたのも、その当時であるし、ユダヤ人が公職に就くことを禁止したのもその当時である。そして、ユダヤ人を決定的な孤立へと陥れるもう一つの取り決めがあった。

 それは、キリスト教徒間での利息を伴う金の貸し借りを破門を持って厳格に禁止したことである。しかし、教会法の対象外となるユダヤ人は、堂々と利息を取って金を貸すことができた。すでに職人組合ギルドから締め出され、店舗を構えて商売もできなくなり、国際商取引も大幅に制限されたユダヤ人は、教会法に拘束されなかった金貸し業や両替商に活路を見いださざるを得なかったのだ。そして、キリスト教で言う”隣人愛”に反する金貸し業を営むユダヤ人はますます孤立に追い込まれるに必然であった。それ故、15世紀後半にゲットーに閉じこめられるのを待つまでもなくユダヤ人の隔離は現実化していった。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照)

1303  北京に大司教座が設置される。
1306  フランスのフィリップ王が、ユダヤ人を国内から追放。
1309  教皇クレメンス5世のアビニョン捕囚(法王庁が南フランスのアビニョンに移転する。1377年まで続く)。(アヴィニョン捕囚) 
1311  ヴィエンヌ公会議開かれる。
1312  テンプル騎士団が弾圧される。
1321  フランスのギエンヌ州で、井戸に毒を投げ込んだと拷問を受けたユダヤ人が告白したため、5000人のユダヤ人が火刑となった。
1322  ユダヤ人のフランス追放。
1329  マイスター・エックハルトが異端審問にかけられる。
1348  サクソニー(ザクセン)が、ユダヤ人追放。
1348  〜50年まで、全ヨーロッパでペスト(黒死病)が大流行した。これによつてヨーロッパ人口の3分の1、地域によっては3分の2が消滅したと云われている。

 この時、ユダヤ人がペストをばらまく犯人だとされ、ヨーロッパ各地でユダヤ人の虐殺が発生している。
 「理由の分からない災厄がヨーロッパに起こると、いつもスケープゴート(犠牲)にされるのはユダヤ人であった。スイスではあるユダヤ人が拷問に耐えかねて、井戸に毒を投げ入れたと自白を強要された。この噂はただちにヨーロッパ中に広がり、様々な地域で何千人というユダヤ人が虐殺された。例えばフランスのストラスブールでは約2000人のユダヤ人が生きたまま焼き殺された。ドイツのマインツでは6000人が殺されたが、ヨーロッパ全体で何人くらいになるのかは分からない」。
1354  ポーランドでユダヤ人保護政策が採られる。これによりユダヤ人の入植が進み、50万人を数えるようになった。
1360  ハンガリーが、ユダヤ人追放。
1370  ベルギーが、ユダヤ人追放。
1377  教皇のアヴィニョン捕囚が終わる。
1378  教会大分裂。ローマとアビニョンに別の教皇が立つ。「教会大分裂」が始まる。
1380   スロバキアが、ユダヤ人追放。
1384  ウィクリフが英語聖書を翻訳。
 14世紀後半、高位にあったドミニコ会の修道士・マルティネス(Ferrant Martinez)が、精力的かつ組織的にキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する地獄の業火を説いた。あまりにも過激なマルティネスを、国王はたしなめたが、当時の国王の権力は教会には及ばなかった。
1391  スペインで、ユダヤ人大虐殺。1391.3月、セビリアでの祝祭日、マルティネスに扇動されたキリスト教徒たちが、ユダヤ人を襲い、略奪や暴行を行った。3ヶ月後の6.6日、マルティネス自身が指揮する暴徒がセビリアのユダヤ人を襲った。この日、4千人ものユダヤ人が虐殺された。その他のユダヤ人は、洗礼を受けることによって辛うじて命を取り止めた。ユダヤ教の宗教指導者は、命の危険がある場合、見せかけの改宗をすることを許した。8.5日、スペインで最大の人口1万人を誇るトレドのユダヤ人が襲われ、3千人が殺された。以来、約4ヶ月間、スペイン全土でユダヤ人襲撃が続いた。全部で3万人のユダヤ人が命を落とした。その背景に、国王の徴税請負人のほとんどがユダヤ人で大衆の恨みを買っていたこと。また一部のユダヤ人が資産家だったためである、とされている。この時、かなりの数のユダヤ人がキリスト教徒になった。その数ははっきりしていないが、殺された数3万人よりは多かったと考えられる。残りの一部は北アフリカへ逃げた。
1394  フランスで第2回ユダヤ人追放。
1414  公会議主義者の主導によってコンスタンツ公会議が開かれ、ローマ教皇を政党と認めて「教会大分裂」を収拾する。
1415  ヤン・フスを喚問、異端として火刑に処す。
1419  ボヘミアフス戦争が始まる。
1421  オーストリアが、ユダヤ人追放。
1429  フランスでジャンヌ・ダルクが火あぶりとなる。
1431  公会議主義者主導によるバーゼル公会議が始まる。
1438  教皇派が公会議をフェラーラ・フィレンツェに移転し、コンスタンチノープル総主教が出席して、東西教会合同の教令を採択する。
1444  オランダが、ユダヤ人追放。
1449  ポルトガルのリスボンで、ユダヤ人大虐殺。
1453  オスマン帝国によりコンスタンティノポリスが陥落し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅ぼされる。オスマン・トルコ帝国は、ユダヤ商人・職人を厚遇する。
 そのうちで、表面上はキリスト教徒として振るまいながら、秘かにユダヤ教を守り続けた者たちは、マラノ(スペイン語読みでは「マラノス、Marannos」)と呼ばれた。コンベルソとマラノの区別ははっきりしないが、コンベルソは単にキリスト教への改宗者、マラノは隠れユダヤ教徒と識別できる。マラノは本来のキリスト教徒以上にキリスト教的に偽装した表向き改宗したかくれユダヤ人であった。コロンブスもその一人。、スピノザ、マルクス、フロイトはマラノスだった。表向きは改宗したが、むしろそれゆえにユダヤ信仰を深めた者たちの ... 。表向きにはキリスト教に改宗して、秘密でそれまでの自分の宗教を続けていた。

 コンベルソの中から、ローマ教会のヒエラルキ−(階層社会)の中でスピ−ド出世した者も出た。教皇に次ぐ地位、枢機卿になった者も出た。コンベルソが、キリスト教会のヒエラルキ−(階級社会)を急速に登っていくにつれて、旧キリスト教徒たちの妬みをかった。当然ながら旧キリスト教徒たちにとって許せなかったのはマラノである。
1469  カスティリアの王女イザベルとアラゴンの王子フェルディナンドが結婚した。二人は間もなく女王と王になった。スペインが事実上統一されたことになった。残る問題は、ただ一つ残っていたイスラム・アラブの拠点、グラナダ王国だった。イザベルとフェルディナンドは、グラナダ王国を断固滅ぼす決意をした。そのためには、臣下の宗教的情熱をかき立てる必要に迫られた。二人はマラノ問題に決着をつけることにした。手段としては異端審問所しかない。異端審問所は、すでに13世紀初期、ロ−マ教会によってつくられていた。
1478  イザベルとフェルディナンドは、ロ−マ教会と交渉し、スペインだけの王権の管轄下にある審問所をつくる許可を得た。以来、スペインでユダヤ人に対する異端審問が始まり、1479年から1481年までの3年間に、カスティリア南部のアンダルシアだけで2万人の人々が生きながら火あぶりになったという。

 以下、「ユダヤ人問題」を参照する。
 711年から約500年間に亘ってスペインはイスラム教徒の支配下にあった。この時代にバビロニアにいたユダヤ人の多くがスペインに移住してきた。ここで彼らは比較的平和で自由な生活を享受することができた。イスラム教徒にとっては、ユダヤ人がキリストを殺したことは何の意味も持たなかったので、ユダヤ人に対して寛容だったのである。ユダヤ人達はグラナダ、コルドバに地下政府を作り上げていた。

 しかし、イスラム教徒の支配が終わり、キリスト教徒の支配が始まるとスペインにおいても迫害が始まった。カトリック王は、ユダヤ人たちに対して、このままユダヤ教を維持したいならばスペインから去るように、改宗してカトリックになるならスペインに残ることが出来るとして、キリスト教への改宗を迫った。

 この命令に従って改宗したユダヤ人は「マラノ」(スペイン語読みでは「マラノス、Marannos」)と呼ばれたが、これはスペイン語で「ブタ」あるいは「汚れた人間」を意味する。その後の歴史は、この「マラノ」がキリスト教をユダヤ教式に読み直していくことになる。「キリスト教の外見にアレンジされたユダヤ教」(宇野正美「戦後50年、日本の死角」の10章「新たなる歴史と民族の発見」)を広めていくことになる。マラノ達はカトリックの中枢に入り込み、カトリックそのものを始動するようになる。
1479  イベリア半島カスティーリャアラゴンが合同してスペイン王国が成立する。
1480  スペインで異端審問始まる。

 紀元1世紀前後に、古代ローマ帝国に迫害されたオリジナル・ユダヤ人(東洋系ユダヤ人)の多くはスペインに移住していたが、このイスラム勢力下にあったスペインが、15世紀にキリスト教勢力に支配されると、スペインの地にいたユダヤ人は全て国外追放されてしまった(1492年の有名なユダヤ追放事件)。この事件以前にも、ユダヤ人はイギリスやフランスから追放されたことはあったが、スペインのそれは徹底的なものであった。

 この時、スペインから追放された大量の東洋系ユダヤ人たちは「スファラディ系ユダヤ人」と呼ばれ、東欧圏で生活していた白人系ユダヤ人とは区別されている。

1483  改宗ユダヤ人コンベルソの。トマス・トルケマダ(Tomas de Torquemada)が、審問所の長官に任命された。キリスト教徒達による異教徒の追放がアンダルシアで始まった。トルケマダの下、彼らが本当に改宗したかどうかを確かめるための審問はいっそう厳格化された。トルケマダがその職にあった18年間で、10万人のユダヤ人を投獄拷問し、2千人のコンベルソが生きながら火刑に処せられ、3千人が死後死体か身代わり人形が焼かれた。そして3万7千人がキリスト教徒になることを受け入れたという。
1492  1月、最後のイスラム・アラブ王国グラナダが滅び、レコンキスタが完成すると、4.29日、スペインに住むすべてのユダヤ教徒を追放する布告が出された。猶予期間はたった3ヶ月だった。その間に、ユダヤ人は不動産や動産を処分し、携帯することが許された。しかし貴金属だけは、国外へ持ち出すことが認められなかった。こうして、ユダヤ人のスペイン追放が始まった。(キリスト教への改宗強制) 8.2日、最後のユダヤ人がスペインから去った。ポルトガル、オランダ、イタリア、フランス、北アフリカ、オスマントルコ(含むバルカン半島)、北方のナバル王国へ向かったと云われる。

 彼らが追放されたのはスペインからだけではなく、イギリス、フランス、ドイツなどでも同様であった。それで16世紀には多くのユダヤ人がコンスタンチノープルやポーランド、そしてアムステルダムに移住した。コンスタンチノープルに移ったのはその宗教がイスラム教だったからである。ポーランドに移った理由は、時のポーランド王が、モンゴル軍の侵攻によって荒廃した国土を復興するため、ユダヤ人(特にスファルディ)の高い文化・知識を必要として、ユダヤ人を保護・優遇したからである。またアムステルダムに移住した理由は、そこの宗教がプロテスタントであったため、カトリックほど反感が強くなかったこと、さらに国際都市であったため、人々がコスモポリタンとして寛容であったからである。

 一般論としては、カトリックがユダヤ人に対して一番過酷で、イスラム教とプロテスタントはより寛容であった。さらに寛容ないし友好的であったのは、啓蒙主義と自由主義であった。18世紀にボルテールとルソーの影響のもとに、ユダヤ人の解放運動が起こった。これとフランス革命のお陰で、西ヨーロッパのユダヤ人たちは国籍を取得することさえできるようになったのである。
1492

 15世紀末、ユダヤ人は西欧を追われ、新たな離散(ディアスポラ)の波を受けるようになった。コロンブスアメリカ大陸に到達する。(西欧人のアメリカ大陸発見)コロンブスの世界航海は、表向きのカトリックの布教という理由の他に、その実はユダヤ人の安住の地を求めようとする秘められた動機があったのではないかとする説がある。

 以降、ユダヤ人は三方向に向うことになった。一つは、東欧へ流れる系譜、一つは、大西洋を越えてアメリカへと向う系譜、一つは、1948年のイスラエル建国へ向けてカナンの地へ向う系譜。

1495  リトアニアが、ユダヤ人追放。
1497  シシリー、サルジニア、ポルトガルからユダヤ人追放。ポルトガルで、国王の勅令により、ユダヤ人にキリスト教への改宗を命ぜられる。改宗しない者は、異端審問所で裁判に付されるか、国外追放された。
 「宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)」
1498  ポルトガルが、ユダヤ人追放。
1504  ハイチに大司教座が設置される。
1516  オスマントルコ帝国がパレスチナを占領。以降、1917年までの400年間オスマン帝国(首都イスタンブール)が支配することになる。
1517  オスマントルコ帝国のパレスチナ支配が開始される(〜1917年)。他の中近東諸国と同じくイスラエルの地は16世紀以降オスマン・トルコの支配下に入った。その後、1520年頃からエルサレム周辺に城壁と門を建設し、この城壁内においてイスラム教徒に交じって、キリスト教徒、ユダヤ教徒の居住が許可された。この区域が、現在「旧市街」と呼ばれている地域となる。アラブ人、カナン人、ペリシテ人、ユダヤ人などがその後20世紀まで揉め事を起こしつつも大過に至らず平和共存して来た。宗教的寛容というイスラム教の伝統によるものと思われる。

 マルティン・ルターによる宗教改革が開始される。


1517  ルター95か条の意見書を発表―宗教改革を始める。
1521  ルターが「キリスト者の自由」を刊行。新約聖書をドイツ語訳する。
1522  オスマン帝国がハンガリーを攻撃。
1524  ドイツ農民戦争が始まる。
1525  ティンダルが聖書を英語に翻訳する。
1529  ルター派が第2回シュバイヤー会議で信教の自由を取り消され、抗議文を提出。プロテスタントの始まり。
 オスマン帝国による第一次ウィーン包囲
1531  リスボンで大地震が発生し、ユダヤ人大虐殺が行われる。
1532  神聖ローマ皇帝カール5世プロテスタントを容認する。
1534  イングランド王ヘンリー8世が、国王至上法を発布してイングランド国教会を創設し、カトリック教会から分裂する。英国王カトリック教会の勢力挽回に貢献。ヨーロッパ各地で宗教戦争起こる。
1535  カトリックとルター派の同盟軍が、再洗礼派を制圧。
1536  ヘンリー8世がイギリス国内の修道院を解散させる。
1540  イタリアが、ユダヤ人追放。
1540  ローマ法王がイエズス会を公認する。イエズス会は修道会として認可される。
1541  カルビンが宗教改革を始める。
1543  ポーランド人のコペルニクスが「天球の回転について」出版。
1544  宗教改革者マルチン・ルター、ユダヤ人を攻撃。
 トリエント公会議により、プロテスタント運動に対抗したカトリック教会内部の自己改革が頂点に達する。(対抗改革
1546  −1601年、J.ケプラーの師デンマーク人のティコ・ブラーエが最初の天文台(カッセル)を建設。
 プロテスタント、シュマルカルデン同盟を結び、カトリックと対決(シュマルカルデン戦争)。
1547  イヴァン4世がロシア皇帝(ツァーリ)に即位。

1549  [日本]イエズス会宣教師ザビエルが来日、鹿児島に来て日本にキリスト教を広め始める。

1551  バヴァリアが、ユダヤ人追放。
1554  ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制。「ユダヤ人集団隔離居住区(ゲットー)」がヴェネチアに初めて設置される。これにより、ヨーロッパに散ったユダヤ人は「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人集落を各地に作っていた。ヴェネチアに初めて設置された(異説もある)。
 
 ジョセフ・カロが著書『整えられた食卓』で、『タルムード』を「スファラディ系律法」に法令化すると、これに対抗する形で、ヤコブ・イセルレスが著書『テーブルクロス』で、『タルムード』を「アシュケナジー系律法」に法令化した。

 ユダヤ人の知的生活は衰退し始め、「サバタイ運動」「フランクの説」「ハシディズム」という3つの異端神学が、ユダヤ教の聖職者を苦しめ始める。一部のユダヤ人はゲットーを逃れて、「宮廷のユダヤ人(ホフ・ユーゲン)」「サロンのユダヤ人」「保護されたユダヤ人」と呼ばれるグループを形成する。

(解説)
 
 ゲットーはまたたくまに世界各地へ広まった。ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と宗教文化が保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は完全に制度化してしまった。

 「ゲットー」は、フランクフルト、オックスフォード、ウィーン、ブタペスト、マドリード、ローマ、ナポリその他26地域に散在していた。フランクフルトのでゲットーは、15世紀頃に成立した。キリスト教絶対社会にあっては、ユダヤ教徒たるユダヤ人は社会の表舞台に登場することが出来なかった。許されたのは金融業その他科学ないしは芸術家的な専門分野であり、シェークスピアの「ベニスの商人」はその辺りの様子を活写している。「ベニスの商人」では、ユダヤ商人シャイロックが「強欲な金権万能主義者」として描かれているが、これが一般的に定着しているユダヤ人像である。

 ユダヤ人の置かれたこの状況が、産業革命の進行と共に変化を蒙ることになる。フランクフルトゲットー内での住人3000名の内4家族のうち1家族が富裕ユダヤ人となっていった。そうした富裕家族の中で、ロスチャイルド家をはじめとする54世帯は、一万グルデン以上(3000グルデンでおよそ、1億数千万と思われる)の財産を持つ大金持ちとなっていった。つまり、ゲットーの11%に近い住人が、大金持ちに属していたことになる。当時のフランクフルト市の人口3万7000〜3万8000人における市民の富裕階級と貧しい庶民の数を、ゲットーのそれと比較して考えると、いかにゲットーに富裕階級が多かったかが明らかとなる。

 ユダヤ人社会に胎動したこの活力がやがて社会改革に向かわせることになった。フランス革命前の啓蒙思想や解放運動の主体としてユダヤ人が頭角を現していくことになった。迫害とそれに抗する能力の高さ−これが当時のユダヤ人の特質となった。


 しかし、全てのユダヤ人がゲットー生活を強いられていたわけではなかった。完全に自由な特権を享受していたユダヤ人が存在していたのである! 彼らはドイツ諸侯の高級官僚や宮廷出入りの御用商人となっていたため「ホフ・ユーデン(宮廷ユダヤ人)」と呼ばれていた。彼らは天性の商才によって、莫大な富を蓄積していった。現在、世界最大最強の財閥として地上に君臨しているロスチャイルド財閥も、もともとはホフ・ユーデンの出であることで知られている。

1554  ユダヤ人のイギリス追放。 
1555  アウグスブルクの宗教和議で、ルター派が公認される(帝国内でのルーテル派を合法化する)
1559  イギリス、統一法で英国国教会が成立。
1558  アンリー4世がナントの勅令で、新教徒に信仰の自由を認める。
1560  ヨーロッパで宗教改革の波。カルバン派が長老会議を取り入れる。
1562  フランスの宗教内乱(ユグノー戦争、〜1598)。
1563  イングランド国教会が39ケ条を制定。
1569  [日本]織田信長が宣教師フロイスを謁見。
1569  ローマ教皇が、教皇領からユダヤ人を追放。
1571  キリスト教会による異端裁判が廃止される。
1572  フランスで聖バルトロマイの祝日に、プロテスタントが虐殺される(サン・バルテルミの虐殺)。
1582  [日本]天正遣欧使節の派遣(〜1590)。
 ローマ教皇グレゴリウス13世グレゴリオ暦を公布する。
1587  [日本]豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出す。
1593  オスマン帝国がオーストリアを攻撃し、首都のウィーンを包囲する。
1596  [日本]長崎において26聖人殉教。
1597  長崎・西坂で豊臣秀吉の命によりキリスト教徒二十六名が処刑される。(日本二十六聖人
1598  フランスでナントの勅令により、プロテスタントが容認される。
1600  イングランドが東インド会社設立。
 スウェーデンリンチェピングの血浴を行ない、ルター派国教に定める。
1604  アルミニウス論争。
1611  イギリスで、欽定訳聖書が完成する。
1612  [日本]江戸幕府が直轄地のキリスト教を禁止、翌年全国におよぶ。
1613  宗教画家エル・グレコ没する。
1614  ブランデンブルク選帝侯がカルヴァン派に改宗。
1614  [日本]高山右近らのキリシタンを国外追放。
1616  騎士物語作家セルバンテス没する。
1618  −1648年、ドイツで三十年戦争(スウェーデン戦争)起こる。
1620  イングランドを脱出した清教徒がアメリカのマサチューセッツ州プリマスに上陸。ヴァージニア州で黒人奴隷の使用を開始する。
1622  [日本]キリシタン55人を長崎西坂で処刑する。(元和の大殉教
1624
 イタリアでゲットーの設置。
1626  イドラ・偏見の研究で知られる哲学者F.ベーコン没する。
1629  長崎でキリシタン弾圧のために、踏絵がはじめて行われる。
1630  [惑星運動の法則の]物理学者[ドイツ人 J・]ケプラー没する。
1630  [日本]キリスト教関係の書物の輸入を禁止する。
1632  リュッツェンの戦いで、スウェーデン王グスタフ・アドルフは陣没するが軍は勝利する。
1633  ハイルブロン同盟〈ドイツ等族の自由とスウェーデンへの補償〉スウェーデンは北部ドイツの新教を旧教の皇帝軍から救う。
 ガリレオ・ガリレイが地動説により宗教裁判を受ける。
1634  ネルトリンゲンの戦いでスウェーデンは南ドイツを失う。
1637  [日本]島原・天草の農民がキリシタンと結合した大一揆おこる(島原の乱)。
1640  ヤンセニスム論争。
1642  物理学者G、ガリレイ没する。
1643  ウェストミンスター信仰告白。
 ニューイングランド植民地連合が結成される。
1644  イングランド国王軍が議会軍に敗退する。
1648  ヴェストファーレン条約で三十年戦争終決。カルヴァン派を容認。ヴィッテルスバッハ家バイエルン王家ケルン大司教職保持。
 清教徒革命により、イングランドの王制が廃止され、共和国となる。
1648  ポーランドでユダヤ人10万人が虐殺される(〜1656年)。
1648  『アウグスブルク宗教和議』の再確認(カルヴァン派も含めて)1624年を基準年とする。
1648  スイスとオランダの独立の承認。
1649  メリーランド州で信教自由法が施行される。
1650  哲学者デカルト没する。
1653  理神論が盛んになる。
1654  パスカルが『流体平衡論』を書き終える。
1654  [日本]徳川幕府がキリシタン禁制の高札を立てる。―明治維新後の1873(明治6)年に撤廃されるまで続くことになる。
1655  ポール・ロワヤル派(パスカル)とイエズス会との対立が深まっていく。
1656  1.14日、パリ大学神学部(ソルボンヌ)事実問題(「五箇条命題」)についてアルノーを譴責(けんせき)する。このころ、パスカル、ポール・ロワヤルにこもる。 1.23日、パスカルはアルノー弁護のため、『プロヴァンシアル第一の手紙』を書く。
1657  パスカルの『パンセ』の断章の大部分が書かれた。
1660  宮廷画家ベラスケス没する。
 イングランドで王政復古する。
1670  シュペーナーにより、ドイツ敬虔主義が始まる。
1673  イングランドで、カトリック教徒の公職就任を禁止する審査律が施行される。
1678  ナイメーヘン和約。エスパニアはフランシュ・コンテ(高地ブルグント北西)を失い、その地はルイ14世のフランス領となる。
1681  フランス王ルイ14世の入城によるストラスブール(ストラスブルク)合併。オスマントルコ軍がフランスと戦うドイツの背後から襲う。皇帝軍とレーゲンスブルク休戦。
1683  オスマン帝国の第二次ウィーン包囲失敗。キリスト教各国、神聖同盟を結び、イスラム教に反撃。
1685  フランスでナントの勅令廃止される。
1688  イングランドで名誉革命により、議会が王権に対して決定的に優位に立つ。
1689  イングランドで信教自由令が施行される。

【カトリックの異端審問被害者】
ケプラー  ドイツ−カトリック科学者・数学者・母が無神論で迷信的農民集会で魔女狩りに遭う。
コペルニクス  ポーランド−カトリック聖職者・天文学者・数学者・ポーランドの迷信政府が敵。
パスカル  フランス−カトリック化学者・数学者・ギリシア文学科・イエズス会の人間主義が敵。
ラボアジェ  フランス−カトリック化学者・フランス革命の階級の敵としてギロチンで亡くなる。
キューリー夫人  ポーランド−カトリック科学者・カトリック・ロシア正義支配の抑圧に抵抗。





(私論.私見)