465 「戦後日本の三悪人」を凝視せよ

 れんだいこの生理的嗅覚はたいしたことないが政治的嗅覚となると妙に達者なものがある、とそう自負している。そのれんだいこに戦後政治史上臭うものがある。はっきり云おう。中曽根とナベツネと宮顕のトライアングルが臭い。この連中が戦後の時代の良さを少しも理解することなく、その歯止めに命を賭して精を出してきた。戦前型の社会を郷愁しているがそれをアナクロニズムと思う神経が無い。もし意味を認めるとしたなら、反面教師としての役割ぐらいはあるだろうか。

 この三者の結合を史実として、それは偶然的結合かはたまた更に裏で糸を操る者が有るのか。これは戦後政治史上の最大の興味ある解析課題であるように思われる。だがしかし、この観点から論及するものにお目にかかっていない。恐らくジャーナリストの資質にあるまじき怯惰故であろう。もう一つ、知識ぶる割には総合的実践能力において、社会のリアリズム認識においてかなり劣っている面もあるように思われる。

 こたび覚束ないながられんだいこがこの難題に向かおうと思う。数多くの事例を見遣れば命と引き換えになると思うが、惜しむものは無いと言い聞かせているので大丈夫だ。そうなった時には手向けの線香一つでも上げてくれや。そうなることが分かっていても向かわねばならない闘いというものがある。歴史への寄与というものは多分にそういうものが無ければ詰まらないだろうし。

 2003.7.11日 れんだいこ拝


「戦後日本の三悪人」考その@ れんだいこ 2003/04/27
 畏敬する先輩木村愛二氏の「マスコミ大戦争 読売対TBS」(汐文社)を読み始めている。読みながら急遽次のサイトを立ち上げたくなった。
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sanakunin/top.htm

 「戦後日本の三悪人」というテーマを設定するとき、人は誰を想定しているだろうか。れんだいこは曖昧さを好まないので以下に明記する。ところで、その三名について異様なことがあり、この点を追及したいが故に本サイトを設けた。どういうことかというと、本来「戦後日本の三悪人」はバラバラで存在しても構わないところ、れんだいこには寄る年波ごとにこの三者の接点ばかりが目に付き始めてくるようになり、これが偶然か必然か目下詮索しているところである。

 ところで、この三名が何故に極悪なのかはっきりさせておかねばならない。れんだいこはこのように捉えている。この三名は、戦後社会の良質を気付かず、というか意図的にこれを否定し陰に陽に悪事ばかりを積み重ねてきた御仁であるということである。主として戦前張りの国家主義一辺倒の見地に立ち、旧式な「お上対下々の二項対立社会」へ振り子を戻そうと画策しているところに特質がある。それが証拠に彼らが手を染めるところ皆そのような組織になる。

 この三名の一人は、我が政界の与党政治における黒幕である。もう一人は野党政治における黒幕であった。もう一人はマスコミ界における黒幕である。この三派共闘により戦後日本社会の良質さが粉々にされてきた。もとよりそれだけの影響力を持つのは個人としては無理であるから、彼らをそれぞれの巨頭としてこれを支えてきた背後グループが存在することは論を待たない。

 今、我が日本が経済においても政治においても文化においても教育においても溶解しつつあることを思えば、この三悪巨頭を弾劾せずんばなるまい。世の中は変なもので、溶解させた当人がいけしゃぁしぁと政治、経済、文化の立て直しに口を挟みこもうとする特性がある。

 我々にとって問題は、この経過を通じてどのような新社会像を提起するのかということにこそある。しかしながら、その前に批判手続きを通じざる新社会像提起はまたそれ穏和な臭いものに蓋式のそれに堕落するであろうから、その前に三悪巨頭の弾劾をせねばならない、ということである。

 失ったものに対してこれを追慕するだけでは追慕になり得ない。失わせしめた要因を明確にさせ、二度と再来させない手立てを講ずることを通じて新しいものを創造していかねばならない。それが事の自然な流れというものだろう。

 さて、「戦後日本の三悪人」とは誰であろうか。彼らの戦後日本における異邦人性を語りたいと思う。

 2003.4.27日れんだいこ拝


「戦後日本の三悪人」考そのA
 




(私論.私見)