宮顕-不破式議会主義に対するれんだいこの斬奸状

 (最新見直し2007.3.14日)

 マルクス主義は元々社会主義、共産主義革命を目指していた。ところが、実際には、それを直接目指したことはない。ロシア10月革命の影響を受けて、日本でも共産革命を遂行するための日共が結成されたが、「ロシア10月革命の日本版」を目指していたとはいえコミンテルンの指示に従うものであった。

 コミンテルンは、各国共産党に対し、一段階直接式社会主義革命論を目指すのではなく、「先ず民主主義革命、直ちに社会主義革命に強行転化させる二段階革命論」を指針させた。二段階革命論の本質は、「社会主義革命を目指さず、民主主義革命の枠内の革命」にあった。こうして、不思議なことにと云うべきか、有難い事にと云うべきか、世界のマルクス主義運動が一段階直接式社会主義革命論を打ち出したことは一度も無い。ロシア10月革命でさえ、ロマノフ王朝打倒と王党派体制の撲滅こそを目標としており、社会主義、共産主義革命を実践した訳ではない。

 日共は、戦前も戦後直後の徳球時代も、「先ず民主主義革命、直ちに社会主義革命に強行転化させる二段階革命論」を目指した。理論レベルで直接社会主義革命を呼号したグループがいない訳ではないが、党中央の責任ある理論及び実践としては、全てこの範疇のものである。

 「50年分裂」で、その徳球-伊藤律系指導部が解体され、1955年の六全協で代わりに党中央を奪権したのが野坂-宮顕派であった。野坂-宮顕派時代の革命論の特徴は、それまでの「先ず民主主義革命、直ちに社会主義革命に強行転化させる二段階革命論」に対して、「先ず民主主義革命、緩やかに社会主義革命に移行する二段階革命論」を指針させたことになる。これにより、社会主義革命はさらに遠い先のことになった。

 野坂-宮顕系指導部は、もう一つ奇妙な煙幕を廻らした。「日本は米帝国主義に半ば占領された植民地国にして高度に発達した資本主義国」なる珍論で、ブルジョア民主主義革命論に加えて独立革命論を唱え始めた。この理論は、社会主義革命への関心を独立革命にそらせる役割を担うことになる。これにより、社会主義を目指す云々が死語化させられた。日共は今日まで基本的にこの「半ば独立故に真の独立革命論」を唱えて今日に至っている。 

 こうして社会主義革命が遠景に退くと、代わりに目をつけたのが議会であり、街頭デモ、労組運動に対置される議会闘争が打ち出されることになった。不破の人民的議会主義論がこれを理論づけ、民主連合政府構想が打ち出された。日共は、この人民的議会主義論に基づき、議会専一活動により、多数者革命に向かうことになった。

 この多数者革命論に基づき、社共共闘による民主連合政府構想が打ち出された。ところが、日共党中央が目指したのは、民主連合政府でもなく社共共闘でもなく、社会党の切り崩しによる選挙票の奪いであった。危機感を深めた社会党は、こうした日共戦略を嫌悪し、より右化していくことになった。社会党の共産党コンプレックスが為した技であった。

 この時機、「70年代の遅くない時期までに民主連合政権の樹立」が打ち出され、日共は上げ潮に乗っていた。全国主要都市に革新知事が誕生し、地方が都市を包囲し始めた。ところが、「70年代の遅くない時期」にさしかかり始めるや、日共党中央は奇妙なことに、民主連合政権運動の一翼を担う青年学生運動に大鉄槌を食わせている。社共共闘の掛け声の裏で、労組運動の分裂に乗り出している。社会党系の部落解放同盟と徹底した抗争に向かっている。

 民主連合政権の樹立上、本来なら有り得ないこういう内部崩壊運動により、「70年代の遅くない時期までに民主連合政権の樹立」は流産した。次に持ち出されたのが、「今世紀の遅くない時期までに民主連合政権の樹立」であった。しかし、この時既に、余りにも馬鹿げた日共運動の本質が食傷され、上げ潮時代から後退局面へ入った。この流れが今日まで続いている。日共は、科学的社会主義を自認しているが、この後退現象に対して今に至るまで科学的社会主義的に総括したことはない。

 日共は、「今世紀の遅くない時期までに民主連合政権の樹立」の展望が見えないことが判明するや、又しても次のスローガンを打ち出した。何と、「21世紀の早い時期に民主連合政権の樹立」である。しかし、もう誰も踊らなくなった。

 この間、公明党が与党化して政権入りし、野党の大同団結として結成された民主党が自力を見せ始めた。この局面で持ち出されたのが「確かな野党論」である。色あせた民主連合政権論に代わって久々に打ち出された党中央のスローガンであるが、明らかに政権問題が抜け落ちている。つまり、ここまで卑俗化させられたことになる。


 



(私論.私見)