第10部−26 各人の転向論理

 こうした不可思議な思想統制は、既に「転向」済みとして釈放されていた人々を再び「犯罪者」として拘束することになる。それにつれて「転向」を宗教的な「内面」の問題としてとらえる主張が生まれてくる。その典型が林房雄の議論であろう。

 林は、1941年の「転向に就いて」[林房雄1941]で、冒頭に、「転向は単なる方向転換ではない。人間の更正である。……外形ではない。内心の問題だ」と断言する。林にとって「真の転向」とは、宗教的な「精進をつゞけるときに、始めて」生まれるものであり、「荊棘の道であり、血涙の道である」。

 こうした転向観においては、常に自己の内面をみつめ、共産主義の残滓が残っていないかと目を見張る必要がある。同時に他の転向者に対しても「同友」の名の下に同様の心構えを呼びかける。共産主義どころではない、林が要求するのは「単に前非を悔ゆるといふことだけではない。過去の主義を捨てるといふことだけではない。共産主義を捨てて全体主義に移るといふことでもない。――一切を捨てて我が国体への信仰と献身に到達すること」なのだ[ibid:255]。「一切を捨て」ること、すなわち共産主義どころか「過去の教養」である自由主義など全ての廃棄までも林は臆面もなく主張することになる。

 林の主張はかなり狂信的に映る。そして彼が共産党員からの転向の結果このような主張に至ったことを考えたとき、あたかも転向現象が内面的な重大問題であるかのように見えてしまうことは仕方ないことであっただろう。だが、このような主張は「転向」の結果自動的に出てきたのではなく、転向政策の歴史的展開の中で誘導されてきたものであることを見落とすわけにはいかない。そのように考えれば、組織から離脱した後にどのような方向へ導かれるかは、転向現象の外側の問題であると言うことができるだろう。


 林は、1943.7月、「勤皇の心」と題するエッセイの中で次のように記している。
 「私も左翼人の一人であった。我が罪の大きさにをののきつつ、今この文章を草しつつあるのであるが、我が心の歴史をふりかへって、我をして左翼に到らしめた原因はいづこにあるかと三思するとき、それは明治中期以後の文学であったと論結せざるを得ないのである。

 神の否定、人間獣化、合理主義、主我主義、個人主義の行き着く道は、当然、『神国日本』の否定である。日本の現代文学者は、半ばは意識しつつこの道を歩いた。かくして、青年を誤り、国を誤った。この罪は何によって贖うべきか。何によって償うことができるか。

 罪深き我等は死ぬより他に道はないかも知れぬ。だが、日本の神は国民にその罪の故に死ねとは仰せられぬ。罪と穢れの夜見の国に迷い入った国民に対しては、夜見よりかへれ、よみがへれ、而して国の伝統の清冽なる流の只中に禊せよと仰せられる。この有り難き御声に従い、神と天皇の前にひざまづき、我が罪業の深さを自覚するとき、我が胸、我が腹、我が四肢五体のすみずみより、ほのぼのと葦芽の如く芽生え出るものこれぞ、この心こそ、勤皇の心である。

 岩間に湧く清水の如く、清冽にして透明なる心、地底に燃ゆる火の如く、渾一にして激烈なる心、私無く人無く、ただ神と天皇のみ在はします大事実を知る心。 単なる愛国ではない。単なる憂国でもない。勤皇の心を知らざる愛国者と憂国家は、いつでもその逆のものに転ずることができる。我が罪業の深さを知り、個と私の一切を捨てて日本の神の前にひざまづいた境地に生まれた勤皇、その心のみが、まことに愛国者、まことの憂国家をつくるのである。

 文学のよみがえりも、またこの道より他に無い。単なる純粋、単なる孤高、単なる非妥協は文学を救う道ではない。文学を正しき姿にかえす道ではない。文学の俗流化に対して戦って来た日本の『純文学』が現在陥っている畸形極まる姿は、ただ勤皇の心の欠如ということによってのみ説明できる」。

 「一度共産主義から離脱した者は、多くはゆっくりと天皇制思想の内側にふきよせられていき、日本型ファシズムの積極的な担い手に転化するのであった」(鶴見俊輔「第二節 後期新人会員」)。





(私論.私見)



赤松克磨の変遷
 「西本願寺王国」の実力者赤松連城の孫。父照憧。1919年、東京帝大卒業後、雑誌「解放」の編集主任となり、暫く東洋経済新報社に勤務し、1921年、既に棚橋、麻生らが入っていた「労働総同盟」に入り、成治部長の養殖につき、1921年、山川均が主唱した「社会主義同盟」に麻生と共に総同盟を代表して発起人となり、1922年、第一次共産党の創立には、野坂、渡辺政之輔、鍋山貞親らと共に入党した。氏
三高→東大→新人会→共産主義→右翼社会民主主義→国家社会主義→日本主義→東洋主義


 「民主主義の獲得には我々も異存は無いが、その重要要素として『国体の変革』を主張せねばならぬ必然性はあるのか」。

1930年、社会民衆党書記長時代の赤松「かの皇室中心主義者と自称する徒輩が、自らの無知なる時代逆行の旧観念及び旧行動を隠蔽し且つ価値づけるために自分らが特に皇室尊厳の念に優れて居るかの如く誇示するのを我々はしばしば見受けるが、かくの如き反動主義者は、健全なる政治思想発達の上から、最も排撃に値する存在でなければならぬ。皇室はあくまで政争の外に立つ民族的代表者の地位にあることが最も妥当でなければならぬ」。「今日の有産階級と無産階級との闘争においても、やはり皇室を階級闘争の外に置くひとが、我が国の特殊なる民族性に立脚したる方針であると信ずる」(「第三インターの対日本政策を評す」)、1932年「我が民族的共同体は総合家族であり、天皇は総合家族の家長であり代表者である。この国体観念は建国以来久しき二わたる民族生活を通じて一貫して継承された民族精神の基礎である」(「新建国運動の基調」)。1953年「天皇を最高の権力者として見るよりは、民族的共同体の首長として敬愛するのが国民感情である。例え、ある時代においてある階級が天皇制を悪用した歴史的事実があっても、それは悪用する者が悪いのであって、天皇制が悪いのではない。これが素直な国民感情である」(「東洋への郷愁」)。

 1932.4月「新国民運動の基調」の中で、「プロレタリアートに祖国はある。祖国は我々が生活と文化と運命を共にする基本的共同体である。社会主義は先ず我々の祖国に実を結ばねばならない」。「社会主義的基礎に立たぬ愛国運動は、現状維持の反動運動に過ぎない」。「マルクスは人類の一切の歴史は階級闘争の歴史なりと言ったが、我々は、人類の一切の歴史は階級闘争並びに民族闘争の歴史なりと信ずるものである」、「国民的共同体が、祖国が、屹然として存在する以上、マルクス主義者の階級至上主義は、国民大衆の琴線に触れることが全く不可能である」。

 「宗教家と社会運動」、「社会主義を肯定する点に一致すれば良いのであって、各人の世界観や人生観までも統一する必要は無い。各人の世界観は各人の精神的私事である。社会主義者が一箇の世界観として『永遠の生命を思慕し絶対帰依の感情を抱く』宗教的心理を把握することも各人の精神的私事である」。


 1924.11月、雑誌「新人」に「科学的日本主義」なる論文で「資本主義より社会主義への進化の現実的過程は、各国の資本主義発達の相異に従ってそれぞれ経緯を異にするものでなければならぬ」。「我々は社会進化の普遍的法則と共に、日本国家を知らなければならぬ。日本における真の科学的無産階級指導方針が案出されねばならぬ」。

 「マルクスもレーニンも社会思想発達史の上における輝かしき功績者であるが、彼らの理論に絶対主義的価値を付与することは、厳正なる社会科学の立場を離れ、近代科学の批判的精神に背反するものでなければならぬ。全て絶対主義的思想なるものは御用思想である」。

 大正末年から敗戦に至る20数年間、次第に募るファシズムと戦争の嵐に対して、彼は一回も断固たるたプロテストの姿勢をとることはなかった。客観的には、支配体制側の巻き起こすファシズムの潮流に身を乗せ、その思想運動、政治運動を積極的に推進していく任務を嬉々として引き受ける以外の何ものでもなかった。

 大正中期に世に出た赤松は、日本知識階級のトップ・レベルにあるものの一人として、国家権力に抵抗するところの人民大衆の側に身を置くことを決意して出発しながら、遂にズルズルと天皇制国家権力の側に引き寄せられていった典型的人物であった。

 敗戦後、「東洋への郷愁」で、概要「太平洋戦争は、日米いずれも帝国主義戦争であり、日本にとっては生存、自衛の戦争でありろ日本側のみの侵略戦争ではない。従って、戦争犯罪は成立せず。東京裁判はナンセンス」。
 「卑しい人間の支配する国家主義が、貪欲な帝国主義に発展するのは当然である。そして帝国主義ほど人間の個性を歪曲し、且つ人間の生命を粗末にするものはない」。

 「彼ら(近代的知識人)は教養ある俗物である。彼らは時流に対してはすこぶる敏感な感覚を持っていて、巧みに時流に便乗することを心得ている。国家主義が優勢となれば、これに迎合し、共産主義が盛んになればまたこれに便乗して進歩的思想家をもって任ずる。そこには何らの主義も節操もない」。


 いわゆる転向者にはそれぞれの論理論法がある。これを一概に排除してはならない。むしろ中間地帯を形成せしめればよい。これが本来の態度とすべきところ、
闇雲な批判で敵側に追いやってしまった。左翼に対しては嫌悪を残した。それを推進した者が稀有な革命遂行者であったというのならまだしも、特高スパイ宮顕派によって為されたということに対して厳しくこれを凝視することこそ知性というものであろう。この認識に至らないあれこれのおしゃべりはつまらなく感じる。


 さて、明日からいよいよ、しまねきよし氏の「日本共産党労働者派−水野成夫」を読み進める。ここに至るまで赤松克麿、麻生久、林房雄、大宅壮一らの生き様を学んだ。知らぬよりは知ったほうが良い知識にありつけた。

 それはともかく、大宅壮一の次の軽妙洒脱な文意が面白いので書き付けておく。
>「今の日本では、新聞を読むということは、実は猟師が浜に出て空を見ると同じである。そこで雨蛙の声も馬鹿にならぬということになる訳だ。私が分泌業者として果たしてみたいと思うのは、この雨蛙の役割である」。

 (れんだいこボソボソ)
 この雨蛙理論も面白い。大宅の頃はそれも見識に裏付けられていたのだろう。今はダメだ。今時の雨蛙は天候を見ずに、ワシントン−イスラエルの思惑を伝えるだけだ。
 
>「今日はどっちの方向に吹いているか、明日はどうなるか、どこにどのような低気圧が現れて、どの方向に進行しているか、ということを人よりも早く、正確に知らなくちゃならない。本職に精を出すのもいいが、本職+天候観測者でなければ成功しないということを誰もが知って、それを実行している」。

 (れんだいこボソボソ)
 そうだよなぁ。当時のインテリの左派運動は要するに次の時代の支配階級になる為のバスに乗り遅れるな式の要領の


「私に云わせると、日本人というのは、天孫民族でなくて、天候観測民族である。というのは、大昔から日本人の生活は、主に農業と漁業に依存していた。どっちも天候に左右されやすい。おまけに日本は、地震国であり、台風圏内でもある。台風は毎年ほとんど定期便のようにやってくるが、地震はいつくるか分からない。近頃は気象学が発達して、台風の予報や進路、本島への上陸などもかなり正確に予報できるようになったが、明治の初めに気象台が創設された頃には、年取った漁師をつれてきて、その意見を聞いた上、その日の天候を予報したということが、笑い話のようになって残っている。恐らく我々の先祖は、毎朝目を覚ますと、まず空を仰いで、その日の天候をよく見極めてから、仕事にとりかかったことであろう」、「昔は主に大陸から朝鮮半島を通ってきた文化的な台風が、明治以降はたいていヨーロッパからきた。最近はアメリカやソ連や新しい中国からやってくる。その台風の性格、進路、強度を人よりも早く、正確に知るということが、大多数の日本人にとって、最大の関心事となっているのだ。そこで、毎朝毎夕、空を仰ぎ、小手をかざして天候をうかがう代わりに新聞に目を通し、ラジオに耳を傾けているのだともいえる」(1957年、西日本新聞連載「どうなる・どうする」第1回)。