第10部−24 転向、偽装転向、「大量転向」の背景と生態様子



「幹部率先転向声明、引き続く大量転向」の発生
 転向問題を論ずる際の予備知識として、次の事情を踏まえておく必要がある。当時の共産党員は、左派系労働組合運動、農民組合運動、党運動、学生運動、その他の大衆運動の俊英、精鋭、「百戦練磨の闘士」であった。当時の共産党員は弾圧下で入党しており、党員になろうとする者は誰しも「獄中を辞さず、虐殺を悔いず」を覚悟して、共産党の活動に参加していた。その共産党員が重刑の威嚇に怖気づいて転向したというのは説得力が弱い。即日拷問虐殺等予想以上の暴虐に怯んだというのは事実であろうが、本サイトで取り上げる「大量転向」現象を説明するには「そのようなきめつけかたが無理であることが常識でわかる」。

 にも拘わらず、1933(昭和8).6.8日、共産党再興幹部・佐野学(まなぶ)と鍋山貞親(さだちか)が、公判中の獄中から「転向声明」を発表した。この声明文は「共同被告同志に告ぐる書」として、1933.7月号の改造や文芸春秋に発表された。この衝撃は大きく深刻な動揺を生み出し、遂に雪崩れるかのように獄中党員の大量転向を生み出していった。 これを仮に「幹部率先転向声明、引き続く大量転向」と名づけ、この現象を解析することとする。

 
 「転向声明」は、前年に出された1932年の「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(いわるゆ「32年テーゼ」)を批判していた。「32年テーゼ」は、概要「革命の当面の段階に於ける主要任務として、『天皇制の転覆』と『大土地所有の廃止』を掲げ、日本に於ける当面の革命の性質については、『社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命』と規定していた」。佐野と鍋山の「転向声明はこの「32年テーゼ」を批判していた。この考察も重要である。

 注目すべきは、「従来の闘争方針の観念性を批判し、これからの運動は日本の歴史的現実のリアルな認識から再出発すべきだ、との提言」であり、この観点からいくつかの理論的諸問題に言及しているが、この提言は今日から見ても「
先見的な疑義」であったことが判明する。しかし、その後の党運動で理論的対応に向かうことはなかった。つまりは、未だに決着つけられていないことを意味している。


「転向声明書」が孕(はら)む諸問題
 次に、「転向声明書」が孕(はら)む次の諸問題も考察されねばならない。一つは、転向声明は当局の強制によってではなく、いわば自主的に表明されたものであること。二つ目に、マルクス主義及びその運動体であるコミンテルン運動に対する理論的疑問を提起していること。三つ目に、我が国における固有特殊性として天皇制擁護について特別の言及をしており、思想的敗北であったこと。四つ目に、満州事変以降の日帝史を聖戦イデオロギーで擁護していること。

 天皇制に関しては、「皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労者大衆の胸底にある」、「我々は大衆が本能的に示す民族意識に忠実であるを要する」と述べている。

 前年のいわゆる満州事変については、「支那国民党軍閥に対する戦争は客観的にはむしろ進歩的意義を持って居る。また現在の国際情勢の下において米国と戦ふ場合、それは相互の帝国主義戦争から日本側の国民的解放戦争に急速に転化し得る。更に太平洋における世界戦争は後進アジアの勤労人民を欧米資本の抑圧から解放する世界史的進歩戦争に転化し得る」と判断し、「日本が敗退すればアジアが数十年の後退をすることは目に見えて居る」とまで断言している。

 特に、第三点の天皇制問題に関しては、今日でも次のような見解に出くわしている。「この目標は、コミンテルンから与えられた方針の鵜呑みでした。ソ連はロシアのツアーを想像して、気軽に天皇制打倒のスローガンを押し付けたのですが、これは日本の実状に全く合わないものでした。 天皇は日本人に崇拝されていたもので、憎んだ日本人などいなかったのです。それをソ連の都合で、天皇制打倒を綱領としたのですが、民衆の支持の無いことを守り切ることは出来ないと感じて転向したのです。 ソ連は日本共産党をソ連の国益のために利用したに過ぎません。 また天皇制打倒は、スローガンだけがあって、その方法も、詳細計画も、打倒の理由も、まったく考えられていない、いい加減な目標で、ここ検事にをつかれて、守れる思想では無かったのです。(これは現在の天皇責任論者に似ています。それでは天皇の責任はどう取るべきか?天皇制はどうするのか?国民の圧倒的支持をどう考えるのか?をまったく考えないで、責任のことだけを論じているのは、コミンテルンの鵜呑みの続きにすぎません)」。

 してみればこの問題は、「戦前の党運動不首尾の原因を、ただ単に当局の暴虐やスパイによる党撹乱等あちら側に求めるのではなく、こちら側の問題として運動の内在性の中に見出す」ことにあるのではなかろうか。



転向幹部のその後、一部の極右化の動き考
 1933年の転向声明、大量転向現象後に、共産党のトップの指導者が、どうして極左から、極右に変わったのか?この問題に関して、概要「聖戦賛美に転じてより以来、天皇問題は否定から肯定へという戦術変更、頭のスイッチの切り替えに過ぎず、思想論理の組立法、体質などは何も変わらなかった」なる説がある。

亀井秀雄の発言日本の戦後文学






(私論.私見)


註12:正確に言えば、戦前日本共産党は、正式な綱領を持たなかった[石堂1991:148]。かつて「22年綱領」と呼ばれていたものも、正確には「テーゼ」だという[山辺編1964:資料解説24ページ]。だが、コミンテルン日本支部であった戦前日本共産党にとって、綱領でなくてもテーゼはそれだけで十分「組織目標」と言えるものであった。現に、22年テーゼ以降の諸テーゼも、教条的なまでに共産党の「組織目標」として機能することになった。


註14:『日本共産党史(戦前)』によれば、「一般に、『残務整理委員会』の時期を『ビューロー時代』と呼び、それが再建活動に転じて以後の時期を『コムミュニスト・グループ時代』とされている」[片岡政治編1962:82]。しかし、本論文では、それほど厳密には使い分けていない。


註15:石堂清倫によれば、「普選」における共産党公然化も、コミンテルンの指令だという。石堂が鍋山貞親から聞いた話では、党の公然化に対して多くの指導者は難色を示したが、「コミンテルンの要求とあれば、止むをえないから全滅覚悟で打って出ようと決意した」のだという。これを石堂は「コミンテルンの要求だからといって、玉砕を決意したといえば響きはいいが、実態としては冒険主義に外ならず、自殺的行動に走ったのである」と批判している[石堂1991:122-123]。


註16:全協の天皇制打倒スローガンについて、最終的にはどこからの方針なのかについては、意見がわかれているようだ。しかし、それが32年テーゼの影響であることは確実であるし、共産党の党としての政治判断が問題になることもほぼ明確だと思われる[坂田1983など]。





註21:本論文が使用した「共同被告同志に告ぐる書」は、『運動史研究17』運動史研究会編(三一書房・1986年)に収録されているものである。その説明には、「三田村四郎の獄中ノート類に含まれていた」「ワラ半紙にガリ刷りで『「転向」声明書綴』として一括され」ていたものだという。しかし、同じ文書のはずが、雑誌『改造』(1933年7月号)に掲載されたものは、冒頭の「内、空前の大変革に迫られて…」の「内、」の部分が落ちているなど、文面に若干の違いがある。また『佐野学著作集第一巻』(佐野学著作集刊行会・1957年)は、誤字と思われるものや漢字のひらきかたの違いなど、『運動史研究17』に収録されているものとも『改造』に収録されているものとも異なる(そもそもこの『佐野学著作集』は、個々の文章の底本を明記していないようだ)。大筋においては、どの文書を使用しても大差はないと思われるが、獄中にいた三田村が所有していたものが最も誤植の少ないオリジナルに近いものだと判断したため、『運動史研究17』に収められているものを使用することにした。


註22:福永操は、こうした佐野・鍋山の「党のいっさいの欠陥や誤謬の責任をこうしてもっぱら党内の『小ブル・インテリ』の責任にきせて非難攻撃」する論法を批判し、「…最終的にできあがった声明書に書かれている『小ブル要素の氾濫うんぬん』は、この声明に対する一般党員の反響を当てこんで考案された『転向理由』であって、佐野学の前年夏以来の『心境変化』の原因や真実の転向動機をあらわすものではないだろうと思う」と「声明」の内容に疑問を呈している[福永1978:30-33]。
 福永による佐野・鍋山を含めた共産党員の転向現象分析は、大変説得力に富むものであるが、ここでの断定はいささか性急すぎるように思われる。彼らの「真実の転向動機」が他にあるとしても(福永自身はこの「転向声明」に関しては佐野学の個人的動機を重視しているようだが)、このような「小ブル・インテリ」批判が言説として動員されうる状況であったことは確認し分析するに値する問題だと思われる。