第10部−27 転向を促した左派の組織的運動的土壌の検証

(学習中)

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1998年度卒業論文 転向論の再構築〜戦前日本共産党における組織と個人〜

 本研究は「体制変革を目標とする全面的関与型組織において、非民主的組織風土は転向を生み出しやすい」という仮説を論証するものである。
 しかしそのためには、いささか複雑な二段階の手続きを必要とする。一つは、転向を組織のあり方の問題として扱うことの妥当性をめぐる、転向論の枠組みの整理・再構築である。もう一つは実際の転向現象と組織のあり方が結びついているかどうかの検証である。しかし、この二段階の手続きは互いに補完しあうものである。転向を組織のあり方の問題として立てることができなければ、論証は意味を失うし、組織のあり方の問題として構成できても、現実に証明できなければ説得力を失う。従って、複雑ではあるが、両者をこの一つの論文の中で扱わなければならない。


 平野謙においては、「マルクス主義文学運動の功罪、それが転向を結果せざるを得なかった道ゆき、それらの複雑な内外の事情を一つの必然的偏向として運動の内部から剔抉することが大切だと信ずる。」[平野1946:119]など、転向と運動組織の問題を関連づける視点も見られる。平野のこの視点は後にみるハウスキーパー問題においても、重要な役割を果たすことになる。



【隷従型組織論】
 当時の共産党では自発性を抑圧するような構造がつくられてしまっていた。栗原氏(1977年)は次のように述べている。銀行ギャング事件を直接実行した党員・中村経一の事例があげ、中村が銀行ギャングのような仕事を急に割り振られたことに抗議し、命令に服従できない旨を告げたこと。しかし、結局、共産党の命令だということで押し切られ、最後には「どうせやるなら男らしくやろうと決心」した過程を検証し、「ここには大局を見渡して政治的な判断をするという姿勢はまったくなく、そのかわりに、宮内が指摘した『任務への献身』という心情と『あまりに技術的』な行動様式とが、いかに若い党員をとらえていたかが示されている。中村はこの時、入党してわずか二ヶ月余りの二十二歳の青年であったが、彼の上部にいた大塚有章や久喜勝一などベテラン党員の場合も同様であった」。

 こうした党員たちの自主的な判断を放棄した「献身」は、「入口」の問題が大きく影響していることは言うまでもない。松沢弘陽(1960年)は、入党時の契約的な双務性のなさと、入党後の「絶対的服従」、共産党という「絶対的な価値の体現者に対する自己否定的な献身」を指摘している。こうした傾向は共産党に集まる個々人の「被組織待望の心理」(松沢弘陽)にその原因を求められるかもしれないが、それを否定しないどころか助長し最大限に利用することが、当時の「運動」であったところに、大きな問題がある。


【「ブルジョア民主主義」への軽蔑】

 党員たちの自発性・主体性を抑圧する構造を生んだ大きな要因として、戦前日本共産党に民主主義への蔑視が巣くっていたという点が指摘できる。伊藤晃の『天皇制と社会主義』(1988年)は、民主主義への軽蔑が、福本イズムのみならずその前の山川イズムの時点から続く戦前日本共産党の「伝統」であったことを鋭く分析している。

 山川イズムの民主主義観は次のようなものであった。概要「デモクラシー思想、いわゆる民本主義にたいして、山川は、よく知られているように厳しい批判者の立場をとった。彼の批判の武器は、自分の主張を押し出すというより、民本主義の首尾一貫しない点や自己矛盾を突くことなのであった。ここでは山川は、デモクラシー運動にたいする外からの批評者なのである」。

 伊藤晃の『天皇制と社会主義』(1988年)はこうも云う。概要「もっとも、山川の「ブルジョア・デモクラシー」批判は必ずしも「ブルジョア・デモクラシー」を全否定するものではなかった。彼はプロレタリアートが正面から天皇制と闘うことは無理だと判断して、その代わりに「ブルジョア・デモクラシー」を向かわせようとしたのではないか。「つまり山川は、天皇制の敵対者であるはずの民本主義をうしろから追い立てて、権力の正面に向かわせようとしたのである。民本主義批判は、山川にとっては、間接的・迂回的な反天皇制闘争だったことになる」。

 そしてこう云う。概要「こうした発想は、民主主義を軽視するセクト主義を生む元凶となった。だが、山川の本心がどうであろうと、ここで一番大事な問題は、彼の発言に影響された社会主義者たちが、天皇制との闘争を無視するのみならず、その具体的内容をなすべき大衆的な民主主義運動の一つ一つを、プロレタリアートにとって歴史的に一段階前の軽蔑すべきものとみなす空気を作りだしたことである。けれどもよく見れば、その急進主義が天皇制による閉塞を実際になくしていったわけではない。それは、観念の中でデモクラシーを歴史的後方に追いやる急進的外見をもちながら、本質はたんなる日和見主義である」。

 では福本和夫においては民主主義はどう扱われたのだろうか。概要「福本もまた、プロレタリアートはプロレタリアートであるがゆえにすでに民主主義的な階級である、という考えを疑っていなかったように見える。こういう立場からは、プロレタリアート自身が首尾一貫した民主主義的党派でなければならず、民主主義を自分たちに固有の価値体系また組織形態として建設しなければならない、という考えは生れない。のちに福本は、彼がもっぱら民主主義革命を提唱したのだという『誤解』を振り払うことに非常に執心している。それは彼自身が社会主義の立場からする民主主義への軽蔑を、活動家たち、さらには山川均をはじめ古い指導者たちと共有していたからにほかならない」。

 こうした傾向は必ずしも日本独自のものではなかったかもしれない。当時のコミンテルンの「ブルジョア民主主」批判のレベルもそうであった。

 そのコミンテルンの指導により作成された22年テーゼも「ブルジョア民主主義」を軽蔑し、「日本共産党はブルジョア民主主義の敵手ではあるけれども」とか「民主主義的なスローガンは現存天皇制政府に対する闘争において、日本共産党がもつ一時的武器にすぎないものであって、党の当面の直接的任務が完成されるや否や、直ちに放棄さるべきものである」と書かれていた(山辺編1964年)。

 27年テーゼにおいても同様に、「労働者階級にとってはブルジョア民主々義××[革命]は××××[社会主義]への過程に於ける一段階に過ぎない。ブルジョア民主々義××[革命]を指導する事によってプロレタリアートは決してその階級的展望を見失ふものでない。反対に正しくこれを××××[社会主義]に転化させるといふ展望こそが闘争のあらゆる段階に於てプロレタリアートにとって決定的意味を有するのである」と書かれていた。

 伊藤氏は(1988年)指摘している。概要「そして実際、山川イズムも福本イズムも批判された27年テーゼ後の共産党の側からなされた反天皇制闘争の理論づけ」について整理したときにおいても、第一に目につくのは、民主主義への軽視あるいは敵意が少しも衰えていないことである」。32年テーゼにおいてもこうしたブルジョア民主主義の位置づけは基本的には変化しない。こうした理論的傾向が党内にはどのような形で現れたか。

 福永操(1978年)は指摘している。「戦前には、われわれは『民主主義』という語をただそのままで使ったことがなかった。いつのばあいにもかならず『ブルジョア民主主義』と書いていた。……われわれは、民主主義思想は本来的にブルジョア階級が生んだブルジョア思想であって、したがって労働者にとっては根本的に敵対的性格の思想であるということを誇示する意味をふくめて、わざわざ、かならず『ブルジョア民主主義』と書いたのであった」。

 こうして、戦前日本共産党の中には民主主義を実現しようという意欲も育たなければ、民主主義について真剣に考える契機もなくなってしまった。
 秋沢弘子は戦前の共産党についてこう述べている。「私がデモクラシーという言葉をはじめてきいたのは小学校四年のときなのよ。……それから私が大人になって革命とかなんとか思うようになるまでに十年以上あるでしょ。だから私は、勉強している指導的な人は、民主主義は一応こなして、その後に来るものとして社会主義なり共産主義というのがあって、そこで革命運動をやっているんだと思っていたのね。ところが、民主主義はまったく抜きだったのね。民主主義と個人主義抜きの上に成り立った運動だったといま思うのね」(秋沢+市村+古藤+近藤+水沢1984年)。

 山辺健太郎(1976年)もこう証言している。「日本の共産主義者が民主主義的な権利の侵害に対してほとんど闘争しなかったということ、要するに民主主義革命とかいいながら、民主主義がわかっていなかったことは否定できません。権利の侵害も、あたりまえのように考えているんです」。

 もちろん組織体制として、「民主主義的集権主義」(通称「民主集中制」)と呼ばれるものは目指された。その原則は「大衆の中にあり、そして党の組織員たる一般党員の意見と欲求は、正しく党の機関に反映され、中央に集中される。統一された中央部の意向は党の末端まで徹底され、党員を通じて大衆の間に伝播される」。しかし、それを具体的に実現するためには、「一、党の根本方針及党の一切の生活は、党員全体の意志、即ち党員総会又は大会に於て決定される/二、党の生活に必要なる一切の機関は党員の意志に基づき選挙によって作られる/三、……」などといったことが必要であった[山辺編1964:109]。しかし、これらは弾圧その他の事情から決して実現されることはなかった。

 この点に関して当時の山川菊栄の批判は的確である。「非常時」共産党の壊滅過程で、女性を「利用」した政策がスキャンダルとして報道されたのに対して、それらの原因を共産党の「変質化」に求める。「運動の秘密化は、×××[松井註:共産党]の二大鉄則である規律と服従の点だけを強要して、他の同じように重要である大衆討議を完全に犠牲にしてしまった。一切の重要な政策は、まづ第一に党大衆徹底的な討議に附せらるべきであるにかゝはらず、秘密厳守の必要上、少数幹部の外、関知することを許されず、従って幹部の独断擅行と共に、党大衆の機械的な盲従が行はれることゝなる。」[山川菊栄1933:85]

 つまり、ハウスキーパーを生んだ条件である共産党の深まる地下活動化は、今度はハウスキーパーを存続させる条件である「民主主義蔑視」へと連続していたことがわかる。



「プチブル的」という非難

 先ほど引用した論文の中で山川は、共産党「エロ班」と呼ばれる部署が美人局などの活動を行ったという報道について、「仮にこの報道が事実だとすれば」と前置きして、「党の名を汚す最も重大な裏切的行為」「売淫は階級的裏切りとして厳罰に価する」と批判する。そしてそれらの実行者について、こう書く。「いかに幹部の命令とはいへ、これほど××[松井註:共産]主義の目的と相反する行為を引うけるような女は、どうせ人間としての屑である。××主義の×の字一つ知らずとも、卑しくも人間としての自覚の片はしでもある女なら、かゝる恥知らずの理不尽な命令には、断固として反対したに違いない。」[ibid:87]

 もちろんこのように「断固として反対した」女性は存在したかもしれない。しかし、ハウスキーパーに関していえば、少なくない女性党員がそれを受け入れたであろうことも事実なのだ。前章で紹介した「美人局」をさせられそうになり逃げ出した場合も「逃げ出したことなど報告すれば、どんなに批判されるかわからないから、このことは上部には報告しないでおきました」と証言している[牧瀬1976:91]。彼女たちは、文句を言えば批判されるだけだと諦め始めから声をあげることを断念させられたのだ。こうした組織の中の民主主義蔑視を党員個人に内面化する「呪文」として「プチブル的(小ブルジョア的)」という単語が多用されたのである。

 宮内勇によれば、階級闘争(具体的には共産党活動)以外のことに少しでも関心を向けることは当時「プチブル的」と呼ばれた。「無条件に第一義の道に献身することを要請される階級陣営において、時折しみじみと空の美しさを眺めたり、女と二人だけの時間を持つということは、それだけ没落に身を近づけることになる。こういう傾向は、そのころわれわれの間で『プチブル的』と批判され、プロレタリア道徳にとって最大の敵とされていた。」[宮内1976:31]

 もちろん、「プチブル的」という非難はその内容が曖昧であり、後に触れる佐野・鍋山転向声明書においては、今度が当時の共産党自体の傾向を批判する単語して多用される[福永1978:30]。しかし語の内容が曖昧であるが故に、共産党の命令に対する疑問を、それがたとえわずかなものであっても、抑圧するのに非常に効果を発揮した。

 林登代は、当時委員長であった田中清玄と目的のわからないまま面接させられた。その時にはそれが田中であるかどうかも知らされないわけでが、あとからそれがハウスキーパーの「面接試験」であり、自分がそれに落とされたことを知った。その時こう思ったという。「この世界も容姿端麗がものをいうのかなという思いが頭をかすめた。しかしすぐ、そんなことを考えるのは美人でないもののヒガミで、党の尊厳をきずつけるものであり、それこそ私のプチ・ブル根性として批判されるものではないかと、あわてて反省したことを思い出す。」[林登代1981:73]

 そして、党員を使用する側も、この「プチブル的」という非難を積極的に利用したと思われる。通称「女子学連」といわれる共産党に近かった女子大生グループは、学生運動としては発展せず、むしろハウスキーパーの「養成所」になっていった。その原因の一つとして、福永操は「学生運動の最高の指導権をにぎっていた共産党が、『二七年テーゼ』以後は学生を『小ブル』と蔑視的に規定して、非合法共産党のために資金を集めて奉納したり、末端の技術要因(非合法印刷や配布など)を提供する以外に意義をもたない存在であるかのように軽蔑していた」と述べ、ハウスキーパーが「新聞の三面記事の好題目にされ」たときには「共産党の男幹部の大部分は、そのような女たちに同情をよせるどころか、それが『小ブル女ども』にたいする分相応の待遇であるかのような軽蔑の態度で、ふりむきもしなかった」と批判している[福永1982:221-222]。

 「プチブル的」という概念は、先に確認した「命令と服従」の構造を、維持・強化させるのに大きな役割を果たしたのである。



【女性蔑視】

 しかし、仮に地下活動化という前提があり、民主主義蔑視などの条件がそろったからといって、ハウスキーパーという制度が必然的に実行に移されるわけではないだろう。福永操も指摘するように、「非合法活動であっても、本当にどの程度の必要性があったのか」、ということが考えられる必要がある。ところが戦前だけでなく戦後においても、ハウスキーパー制度の必要性について議論したものは出ていないようだ。だとすれば、それは「必要」だったからというよりもある程度「自然」に出てきたのではないか。ならば、ここで当時の共産党を支配していたその「自然」について考える必要があるだろう。その「自然」とはすなわち女性蔑視である。

 たとえば前に引用した山下平次上申書であるが、引用部分の女性の訴えは、党の指導部によってどのように処理されたのか。山下平次上申書を続けてみよう。「其れから数日毎に益々深刻なものが続け様に上申されて来たが、鳥羽が余り斯る事に対して道義的な方でなかったので笑ひながら打ち捨てゝおいた所……」[司法省刑事局思想部編1934:54-55]

 要するに「鳥羽」こと岩田義道は、この必死の訴えを全く無視したのである。それは単に下部党員の意見だったからだろうか。そうではなくて、女性のこのような訴えは「笑ひながら打ち捨てゝお」くような性質のものだと思ったからではないだろうか。

 当時の共産党員たちにしみついた女性蔑視は、他にも多く発見できる。近藤悠子と秋沢弘子は男性社会主義者たちの玉の井(東京都墨田区にあった私娼街)通いを指摘する。「近藤 戦前の社会主義者の男の人たちが、よく玉の井へ行くとかどっかの遊郭へいくとかしているけれど、私は“女を買う”というようなことに平気な男たちは信用できないのよ。……/秋沢 うちのオヤジなんかが運動していた時分、最先端の運動をして捕まっていた人たちが、五十銭玉をつかんで玉の井へ行く――そういう風があったというんです。私その意味がよくわからなかったんだけど、わかったとたん、腰が抜けたようになって、もうほんとに身の毛がよだったのよね。」[秋沢+市村+古藤+近藤+水沢1984:23]

 また、第二次共産党初期の幹部たちが、アジトや会合などの場所として「待合」を頻繁に利用していたことはよく知られている。「待合」とは、客が芸者を呼び入れて遊興にふける場所であった。渡辺政之輔や三田村四郎、鍋山貞親などは、この「待合」を、党の金を使って、頻繁に利用したという[立花1978→1983a:289-292]。事実、鍋山と三田村は四・一六後直後に「待合」にいるところを検挙されている。

 ただし、この「待合」の件は、さすがに一般的とは言い難く、直後に生じた「解党派」において、水野成夫はこの事件を憤り、解党理由の一つにしている[福永1978:26]。また、この件を持ち出して批判する福永操に対して、河合勇吉は、「いま福永さんはしきりに三・一五事件以前の党幹部の連中を非難されましたが、当時でも若いとくにインテリゲンチャの連中は割合清廉潔白だったですよ」と弁解している[石堂+原+福永+宮内1979:100]。あてにはならないかもしれないが、司法省の調査も付け加えておこう。そこでは、治安維持法起訴者中の花柳病率をの低さをもって「共産主義者の圧倒的多数が独身の青年なるのみならず労働者、農民の多数を占めて居るに拘らず花柳病患者の少きは彼らが純真にして厳格なる私生活を為し居るものといひ得るであらう」と結論づけている[長谷川1934:52]。従って、女性蔑視の顕著な例は、三・一五以前の党幹部について顕著にあてはまるのだといえる。






(私論.私見)


 転向論の再構築は云う。「転向とは、社会運動論的な現象として観察すべきものである」、「転向を、社会運動からの離脱として定義すれば、転向を倫理的問題に回収してしまう態度はいささか滑稽に見える。たとえば、『共産党からの転向』を扱うとしても、もし現在の日本共産党から一人の党員が党を離脱したからといって、当事者にとっては大きな問題かもしれないが、それ以外の人が大問題だと感じることはまずないであろう」という問題意識から、「戦前共産党員の『大量転向』現象」に着目している。

 その上で、概要「なぜ、この『大量転向』分析が、思想的・倫理的な議論にばかり偏り、不毛な袋小路に足を踏み入れるようなことになってしまったのだろうか」と問い、「転向論が倫理的な意味で大問題となってきた背景には、転向現象のプロトタイプとしての戦前共産党員の『大量転向』現象が持つ、特殊な性格が影響していると考えられる。その特殊な性格とは、まず転向現象が短期間のうちに大量に起きたせいで組織それ自体が崩壊してしまったこと、二つ目に、組織から転向した個々人が、多数今までの主義主張とは正反対の立場にたったように見えたこと、そしてこの転向が日本の『ファシズム』勢力の勝利を確定したように見えたこと、この三点であろうと思われる。さらに注釈を加えれば、崩壊した組織とは、単なる一集団ではなく、当時の反体制・反戦運動の要であると思われた組織であり、『正反対の立場』とは、今までとは逆に国家に忠誠を尽くし戦争を煽ることをいう。こうした諸条件が、大問題としての『転向』を構築したといえるだろう」と云う。

 以下、「戦前共産党員の『大量転向』現象」を説明するために、「当時の日本共産党への過大な期待」の描写をしている。それによると、概要「当時の日本共産党が反天皇制を正面からスローガンとして掲げていたという意味で、突出した反体制集団であったことは否定できない。しかし、それが実際に中心的存在として運動を組めていたかどうかは別問題である」とし、西川洋の分析(1981年)を援用している。

 それによると、「治安維持法違反起訴者などの資料から当時の共産党員の総数を推定しているが、それによると、党員数は1930年〜34年までで延べ約1500名、瞬間的には最大でも約500名くらいの党員しかいなかった」、且つ「共産党傘下と見られた大衆団体も、1930年代にはほとんど半非合法状態におかれ、決して巨大な影響力を持てたわけではなかった。つまり共産党は、実力以上の評価を受けていた、といえる」としている。つまり、概要「こうした過大評価は、戦後だけの錯覚ではなかった」と云う。

 これについて、松田道雄氏も「戦前日本共産党には栄光の面と悲惨の面の両方がある」と指摘し、自らの当時の共産党観をこう振り返る。「戦前の日本共産党が暗黒時代の灯台であったということ、それは1930年代初頭の私にとって実感であった……1930年代前半の私は党のシンパサイザーであったわけで、党を美しいものに思いすぎていたということがあります」(1979年)と証言している。

 これを踏まえて次のように云う。「こうした実際以上の共産党への期待は、いわば虚像というべきであろう。そしてその虚像は、共産党以外は反動であり敵であるという論理を許し、またその論理がこの虚像を拡大した。そもそも戦前日本共産党は大正デモクラシーの『ブルジョア民主主義』を罵倒し、アナーキズムを批判し、社会民主主義を『社会ファシズム』として攻撃するというセクト性を強くもっていた。当時共産主義は、最高の真にして善の思想体系だと(一定の人々に)考えられていた。そしてそれを体現するのは共産党だけであり、党を離れた共産主義者は存在しえないと考えられた(松沢1960年)。だから多くの人たちが共産党に参加しようとしたし、共産党から批判された人々も共産党に対して何らかの引け目なり敬意を感じていたようだ。たとえば共産党の方針に逆らって新労農党を再建した大山郁夫は、共産党から『裏切り者』として激しい批判を浴びるが、それでも『日本共産党に対する大衆の信頼を傷つけたくなかった』ために、共産党に対する批判を口にすることはなかった(田部井1956年)」。

 「こうした雰囲気の中では、日本共産党に対するオルタナティヴは育ちにくかった。実際にはそこまでの力量をもてなかったにも関わらず、共産党は『唯一の前衛』として振る舞い、周囲もそれを期待する。その結果、少しでも共産党と違う立場の違う集団は、ブルジョアの手先として排撃対象になるだけなのであった」。

 史実は、そういう立場の頂点に居た党中央の幹部級が雪崩を打つように転向に走ることになった。これに対し、石堂清倫氏は、「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブがあったならば、あんなに大衆的な集団的転向は出なくて済んだかもしれない思います」(1983年)と述べている。

 これに対し、「転向論の再構築」氏は云う。「もちろん石堂の主張は、獄内転向幹部に対して、獄外の党中央が具体的で説得力のある反論を提示できればよかった、ということであるが、この石堂の問題提起を共産党外に広げてみても同じことが言えるのではないだろうか。もし共産党のみが唯一の正義だという風潮が支配的ではなく、共産党と同等かそれ以上に魅力あるオルタナティヴが存在しえたならば、仮に共産党からの転向者(共産党から離脱する人々)の絶対量は同じでも、あんなに一度に大量に転向するような現象は起こらなかったのではないだろうか。たとえば労農派が、場合によっては「解党派」(「労働者派」)が、当時の人々にとって、共産党との絶対的な敵対関係ではなく可能な選択肢として存在できていれば、共産党を離れた途端に全ての運動に関わらなくなったり、国家の片棒を担ぐ活動へと急激に立場を変える必要はなかったと思われる。『輝ける共産党指導者』が道を踏み外しただけで、人々がすがるものを全くなくしてしまったということ、この構造それ自体に大きな問題があったといえるだろう。そしてこの構造は、前章までで述べてきたように、転向する以外に共産党中央の政策を批判することが難しかったという共産党の組織風土の問題と密接に関連しているのである」。

 更に云う。「こうしたオルタナティヴのなさは、戦後の共産党観にも大きな影響を与えていると思われる。社会全体が翼賛体制に流され、反ファシズム勢力が完敗したのは、『大量転向』現象で共産党が完全に壊滅したからである、という議論がある。これは、『大量転向』のみに壊滅の原因を帰すのでなければ当たっている面も大きいだろう。しかし、こうした議論には解放の担い手としての共産党にのみ期待する、という側面が含まれているのではないだろうか。

 戦後、日本共産党は、『獄中非転向』」の幹部を中心に再建された。そのため共産党の非転向神話が生まれた。非転向神話は『非転向者』たちに対する必要以上の尊敬を生むと同時に、その裏返しとして転向者たちを必要以上に貶める結果となった。そして、『完敗』の責任も、転向という『裏切り』の責任にさせられてしまうのである。

 1章で確認したとおり、近代文学派も、吉本隆明も、思想の科学研究会も、どのような批判の仕方をしようとも、共産党自身の転向論(「非転向神話」)を議論の相手とみたてて転向論を展開したと言える。その結果、これらの転向論は、最初に共産党が設定した転向論の枠組みを否定し切れていない印象がある。つまり、『大量転向』を主因とした共産党の壊滅が、日本のファシズムを許したのだという議論の前提である。そこではやはり共産党の像は巨大であり、他の組織は見えなくなっていると言わざるをえない。

 伊藤晃はこう指摘する。
「日本の人民戦線運動なるものが展開されたときにはすでに共産党がなかった。だからこの運動においても古い党の無能を人びとが知る機会は与えられなかった。そこですでに存在しない共産党がやはり権威として人びとの心に残ったのである。」(伊藤1995)。

 歴史的事実からいえば、「完敗」状態から「解放」されるには、日本国の連合国に対する敗戦を待たねばならなかった。もし、戦争中、共産党壊滅後にも、日本の中に反体制勢力が存在し、「パルチザン」や「レジスタンス」のように「解放」の一助となっていたら、戦後はその勢力に信頼が集まり、共産党の存在自体が相対化され、「大量転向」の負のインパクトも小さく感じられたことであろう。だが、現実にはそのようなことは起こらなかった。こうした「完敗」の歴史的事実は、共産党員の転向の責任を大きく見せたと思われる。