第10部−213 「戦争責任」考

【新日本文学界】

 12.30日、「新日本文学界」が結成された。秋多雨雀(うじゃく)、江口換、蔵原惟人(これひと)、窪川鶴次郎、壷井繁治(しげじ)、徳永直(すなお)、中野重治、藤森成吉、宮本百合子ら9名の発起人による。いずれも戦前のプロレタリア文学運動の中心的なメンバーであったことが分かる。

 この時の目的として「日本における民主主義的文学の創造とその普及、人民大衆の創造的・文学的エネルギーの昂揚とその結集」(設立大会の「宣言」)を呼びかけていた。


 翌46.3月に「新日本文学」が創刊され、徳永の「妻よねむれ」、宮本の「播州平野」の連載が始まる。この時「文学者の戦争責任追及」が提案され、採決されている。これを受け中央委員に選ばれた小田切秀雄が「新日本文学」6月号で、25名を、戦争責任を負う文学者として指名している。

 「戦犯文学者」の認定基準は、「特に文学及び文学者の反動的組織化に直接の責任を有する者、また組織上そうでなくとも従来のその人物の文壇的地位の重さの故にその人物が侵略賛美のメガフォンと化して恥じなかったことが広範な文学者及び人民に深刻にして強力な影響を及ぼした者」とされていた。該当者の中に河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、佐藤春夫、武者小路実篤、尾崎士郎らが挙げられていた。

 とはいえ、「戦犯文学者」の追求は功を挙げ得なかった。その理由として、この時の追求側も多かれ少なかれ戦時中転向しており、発起人に名を連ねていた徳永直や壷井繁治、窪川鶴次郎らもまた戦争協力・戦争賛美の作品を書いていた。そうした過去を振り返ることなく、追及側に立つことには忸怩たるものがあった故と思われる。「彼等の責任は問わないで、新日本文学会に属さない文学者の責任追及を行おうとした。仲間をかばい合う、そのような一種の身内意識を、彼等は、旧作家同盟家族主義
(ドメスチシズム)ではないか」。

 こういう生産的な問いかけに対していつも決まって為されるのが、党中央の権威を借りた恫喝である。この時も、戦前同様の流れで蔵原―宮顕ラインの強権論理が登場している。「新日本文学会」の創刊号に載った蔵原惟人の「新日本文学の社会的基礎」は、内部批判に向おうとする論調に対し、「戦後の反動勢力に流し目を送るような、人間的に卑しい行為だ」という非難を浴びせている。が、それはあまりにも「硬直的物差しによる政治主義的恫喝」でしかなかった。「旧態依然たる公式論」と曖昧表現で批判されているが、「硬直的物差しによる政治主義的恫喝」と明確に云うべきであろう。

 この経過が影響してかどうか、むしろ転向論へと関心が向い、その後間もなく、荒正人.平野謙と中野重治との間で「政治と文学」論争が始まる。「戦争責任の追及は、同時に、転向した事実への反省、転向を引き起こしてしまったプロレタリア文学運動の創作理論や組織体質への根本的な批判」(「亀井秀雄の発言日本の戦後文学」)へと向かっていった。


【吉本隆明と武井昭夫の共著「文学者の戦争責任」の波紋】

 1956年、吉本隆明と武井昭夫の共著「文学者の戦争責任」によって、もう一度「戦争責任の問題」が問われ、「戦後の戦争責任」という形で提起された。なぜ、「戦後の」という言葉がつけられたのかと云うと、「敗戦直後における戦争責任の追及が曖昧に終わってしまったことに対する責任追及を含む、戦争責任論」であったことによる。戦後直後の戦争責任論の際に有耶無耶にされた内部批判をもう一度俎上に乗せようとしていた。

 曰く、概要「旧作家同盟のメンバーで、新日本文学会の発起人になった文学者のなかにも戦争協力・戦争賛美の作品を書いた徳永直や壷井繁治、窪川鶴次郎がいる。それにもかかわらず、彼等の責任は問わないで、新日本文学会に属さない文学者の責任追及を行おうとした。仲間をかばい合う、そのような一種の身内意識は、旧作家同盟家族主義(ドメスチシズム)ではないのか」と批判した。つまり、旧作家同盟の体質を批判の対象と据えたことになる。


【吉本隆明と武井昭夫の共著「文学者の戦争責任」の波紋】
 2004.2.8日付け日経新聞の「美の美」欄に「彫刻家高村光太郎、下」が掲載されていた。これを貴重情報とみなし、要旨書き付けておく。概要以下のような記事が載っていた。

 高村光太郎は終戦後、岩手の山小屋に立てこもり、自らの戦争責任を問い直し続けた。戦後、ほとんどの知識人が戦時中の言動に対し口をぬぐう中で、光太郎は違っていた。山小屋にこもり、自らの人生を振り返り、自らの戦争責任を追及し、己の暗愚を見つめる「暗愚小伝」を書いた。この姿勢に対して、吉本隆明氏は次のように述べている。「戦争期に、年少の私が、多くの影響を受けた文学者のうち、横光利一は、敗戦の打撃から立ち上がれないままに、病没した。太宰治は、敗戦の痛手の対症療法として自ら課したデカダンスを突き詰めて自殺した。保田与重郎は沈黙し、戦後挑発的にかかれたその批評は卒読にたえぬくらい無惨のていをなしている。小林秀雄のまた然り。ひとり、高村光太郎のみは、悪びれず戦争責任に服し、改訂すべき思考を改訂し、改訂すべきではないと信じたものを主張したまま、文学的活動を続け、その強靭さは、別格をなした」(「高村光太郎」)。

 高村は、青年時代に西欧留学し、ロダンやロマン・ロランから強い影響を受け、西欧の近代精神やヒューマニズムを身につけた。しかし、軍国主義が強まるにつれ、少しずつ国粋主義者となっていく。戦争前に「知恵故抄」で名声を得た高村は、戦争中日本文学報告会の詩部会会長に推され、戦意高揚の戦争詩を新聞に発表していく。国際主義から愛国主義への「転向」は、当時のや多くの知識人の共通現象でもあった。


 2004.2.10日 れんだいこ拝

【れんだいこの「戦争責任論」】
 れんだいこなら、「戦争責任論」の面貌を一新させる。一体、「戦争責任論」を云うなら、戦争一般に対する関与責任を云うのか、先の大東亜戦争への関与責任論を云うのか、まずこれを識別せねばならない。後者にするのなら、大東亜戦争の歴史的性格を定め、その反動性を明確にせねばなるまい。その上で、そのような反動戦争に対して無批判に追従したないしは扇動したことに対する責任追求というのが本来の「戦争責任論」であろう。この作業を経由しない「戦争責任論」は容易に、「勝てば官軍」式の勝者側から「戦争責任論」に堕してしまうだろう。実にそのようになったのではなかろうか。

 2004年現在、「戦争責任論」は、本質的なところで何も実を結んでいないことが判明する。第一、「大東亜戦争の歴史的性格」が定まらない。よって、「その反動性」も曖昧なままである。よって、「大東亜戦争に無批判に追従したないしは扇動したことに対する責任追求」も、どこまで為しえるべきものなのかはっきりしない。

 むしろ、最近の米英ユ同盟による大イスラエル主義政策を見れば、大東亜戦争は、日帝のそれ自身攻撃的な面もあるであろうが、されながら太平洋圏の覇権を廻る米英ユ同盟との聖戦であったのではないか、とさえ思われてくる。ならば、我々が本来為すべき「戦争責任論」は、決して米英ユ同盟の「勝者による戦争責任論」と同衾させてはならないだろう。

 あぁだがしかし、そのようなものとしての「勝者による戦争責任論」以外の「戦争責任論」を創出し得たのであろうか。れんだいこは、眼を洗うほどのそれには接していない。なるほど、反戦平和運動に関わる見地からの戦前軍部の凶暴性を証する事件の発掘は為されている。しかし、それ以上の積極性で論を構築し得ているのであろうか。

 2004.11.27日 れんだいこ拝




(私論.私見)