第10部−22 れんだいこの「転向に対する政治的総括」

 (最新見直し2007.1.8日)

 今日「転向論」は流行らない。何故かというと、これまで為されてきた論及の構図がまるきりひからびているからであろう。一つは、党と体制権力の絶対的対立を廻っての辛吟という構図が古過ぎる。今日、「コミンテルン支部式党」が信じられる時代は終わった。二つ目に、自らの思想の自由・自主・自律性を抑圧させ党の絶対性に帰依していたところに発生した「転向」を「非」として、それを「苦」として受け止めさせその責任を問うという構図が破綻している。

 この両面を保守的にいくらほじくってみてもまともな転向論が生まれる訳が無かろうに、こういう問いかけから考察する「転向論」を辛気臭く弁論してきた。しかし、これまでなされてきたような「転向論」はナンセンスの塊であろう。

 真に「転向論」を問うなら、自由・自主・自律的に結社され、機能していた党組織と党員が「転向」した時の理由を解析することであろう。しかし残念ながら、未だそのような組織にお目にかかっていない以上宙空のものを論じても仕方ない。どうしても論じるなら、いわゆる組織論一般でどういう条件で人は結集し離散するのか、その外的条件、内的条件を見出そうとした方が良い。

 真理論を被せて、絶対的帰依を強いて、それが外的条件からであれ党員が「転向」した非を突付くなぞ元来意味が無かろう。あるとすれば、そういう党の党中央の方から何ゆえに離脱が発生したのかを詮索することだろう。考えられることは、思想闘争、現状分析論、未来青写真論等々の理論闘争で取調べ当局側の論理に負けた、ということであろう。ならば、その理論闘争の様を吟味して行くのが筋であろうに。そこが出来てから、組織論、規約論へと向かうべきだろう。さて、そのようにして形成された党に「転向現象」が現れたら、そこで初めて何故にと問うべきだろう。今はまだこれを問う段階では無い。というか、まだお話にもならない。

 結論。現状の転向論の考察はさほど意味が無い。あるとすれば、宮顕―蔵原式非転向神話の偶像を疑惑し、そのエセ聖人像を剥落させ、よって連中の「非転向神話による転向者排除、屈服、恫喝の為の金棒」を取り上げる為に必要である、ということだろう。しかし、れんだいこ史観に拠れば、獄中獄外ともども当時何らかの転向無しには命の保障が覚束なかったと推測するから、端から連中の「排除の論理」を相手にしない。何ウソ云ってやがんでぇ、そったらことがあるものかは、と抵抗していくのみ。

 2003.10.5日 れんだいこ拝


 先に「文学者達による「内省的な転向分析」考」を見てきたが、聊か辟易させられている。当代の頭脳が寄って為していることだからしてそれに違和感を覚えるれんだいこの方が間違っているのだろうかと不安になることもある。だがしかし云わねばならない。そして、れんだいこの見解を打ち出さねばならない。中には膝を叩いてくれる者も居られるに違いないと信ずるから。友を求める気分で、以下、「れんだいこの転向に関する政治的総括論」をサイト化する。

 れんだいこに云わせれば、「転向問題」を論ずるのに何も難しく考える必要が無い。まず、時の権力が弾圧に取り掛かり、その程度が暴力にかけても「巧緻な罠」においても世界に冠たる治安維持法体制から為されたものであり、「命を惜しめば転向以外に生き延びる道が無かった。もし完黙を貫き、非転向を意思表明すれば、小林多喜二のような虐殺が待ち受けていたであろう」。その状況を精確に見据えれば良い。つまり、止むを得ない対応として転向があったことを確認すればよい。いわゆる「応法問題」として課題を設定すれば良い。仮に、同時期の中共が党組織としてあるいは個々の党員がこの問題にどう対応したのか、これを参考にすることも必要だろうに。

 唯一異例なことに、宮顕は、「こいにつには何を云っても無駄だ」と特高があきらめ拷問の手が緩められたことを誇っている。驚くことに、日共系の自称インテリ達はまんまとその口車に乗せられているその種のインテリでしかない。れんだいこが再度強調しておく。そういうことは有り得る筈が無い。この「唯我独尊論理」は、虐殺に倒れた同志に対する侮辱以外の何ものでも無かろうに。

 この構図を前提にして、左派急進的に闘った非転向派、右派急進的に転身した当局迎合派、そのどちらにも位置し得なかった中間的苦悩派の者が居た様子を史実的に確認し、今後同様の時局に見舞われたときに我々はどう対処かべきなのか、その手立てをどう生み出すべきなのか、これらを論ずるのが本来の転向論になるべきでは無かろうか。

 但し、特殊解析せねばならないことがある。それは1933(昭和8)年三・一五事件、四・一六事件当時の日本共産党の最高幹部にして獄中組の佐野学・鍋山貞親の共同署名による「獄中転向声明=共同被告同志に告ぐる書」が端緒になり発生した「大量転向現象」であるが、当時神聖不可侵であった党中央の率先投降の背景にあったものが徹底分析されていない。当時の野呂指導部は、特に宮顕を中心としてこれを政治主義的に「裏切り」とのみ捉え除名措置で済まして居るが、これでは単なる断罪に過ぎない。

 佐野学・鍋山貞親らは、転向理由として次の諸点を指摘していた。
@  概要「従来のコミンテルンの指令は日本の現状にそぐわない。また、コミンテルンはスターリン政権の確立と共に、ソ連本位の国策遂行機関化し、他国の共産党はソ連の利益のたるの手先となって働いている」。
A  概要「コミンテルンは日本の実状を無視し、デモクラシーを踏みにじって党員に批判の自由を与えず、独裁的な革命指導を行っている」。
B  概要「皇室に対する親愛感情を無視して、国体変革を強要したり、徒に敗戦主義を課すことには承服できない」。
C  概要「共産党は目的のためには手段を選ばない」。

 当時の左派戦線はこの「転向事由」の吟味をせぬままに遣り過ごしてしまった。ここに充満せる不満が内向し、却って転向を促進せしめた観がある。この現象は日本左派運動の理論レベルを証左しており、このことに対する痛苦さを確認するところから転向問題も論ぜられるべきである、という視点が欲しい。

 それを思えば、史上の転向論は何とちまちましたところで為されてきていることだろう。肝心のこれらを何ら立体的に明らかにしていない。

 以下取り上げるのは、あまたの転向論の中でも有益な指摘をしている人士のそれである。それでさえれんだいこを納得させない。石堂清倫氏は、1983年に次のように述べている。

 「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブがあったならば、あんなに大衆的な集団的転向は出なくて済んだかもしれない思います」。 

 れんだいこは思う。その通りなのだが、石堂氏は重要なことを指摘していない。事実は、当時の党中央は、「『転向』中央部の方針にたいする具体的なオルタナティブ」を為しえなかったのではないのか。ならば、為しえなかった事由の解明にまで向うのが筋ではなかろうか。(オルターナティブ、alternative、(1)二者択一。代替物。代案。(2)既存のものと取ってかわる新しいもの)

 本多秋五氏は、当時の転向の様子について1954年の「転向文学論」の中で次のように記している。

 「佐野、鍋山の転向や、獄中生活の苦痛や日本国家による圧迫なしに、不可避的に、声明書のような内容をもちえたかどうか疑問で、耳を覆って鈴をぬすむ背教者の仕業とみるのが、当時もいまも変らぬ健全な常識であろうと思う」。
 「最大の原因は、いうまでもなく外的強制にあった。外的強制というなかには、検挙・投獄・拷問だけでなく、最悪の場合には死刑をも覚悟せねばならなかった治安維持法改悪の恐怖もあった」。

 本多秋五のこの観点は、拷問及び恐怖政策で転向を余儀なくされた者に対しては「これが最も素直な観点」であろう。但し、日共党中央の相次ぐ転向現象を語るには物足りない。

 この傾向に対し唯一気を吐いたのは吉本氏の「転向論」であるように思われる。但し、れんだいこには、最良の出来映えと思われる吉本氏の「転向論」でさえ、正面から挑んでいないように見える。

 どこが不満かというと次のことにある。史上の転向論のいずれもが、宮顕や蔵原らの有り得なかった且つ史実も次第にそれを明らかにしつつある「非転向完黙唯一人士的聖像」の虚論にひれ伏し、当時の「忸怩たる過去」を合理化させたり客観化に向かおうとしている。吉本氏のように「非転向完黙唯一人士的聖像論」に反撃を加えた論理は珍しいが、それが「非転向完黙唯一人士的聖像」論を認めた上での批判だからややこしいこと限り無い。

 れんだいこが追跡してみて、史上の転向論のA派B派C派のどの論拠が正しいかなどをあげつらってもさほど意味が有るように思えない。その典型として、戦後直後の「戦争責任追求運動」なぞ検証すればするほど吐き気を覚える質のものでしかない。挑発的な物言いであるとは思うが、多くの者が取り組んだ割にはそのレベルのことしか為されていないというのは事実ではなかろうか。

 むしろ、左派運動の能力を問う観点から「正面からの転向論」を論ずること、このことが必要にして責務なのでは無かろうか。

 2002.11.11日 れんだいこ拝





(私論.私見)