第10部−21 文学者達による「内省的な転向分析」考
 「転向をどのように位置づけ、そこからどのような経験知を得るかは、現在のわれわれに課せられた思想的政治的問題である」。鶴見のこの言葉は、われわれ自身が考えるひとつの手がかりを与えるであろう。「転向前と転向後の思想のつながりを自分で確認することを、最初の関門としておく、そしてこの関門を一度通ったらそれで終わったと見なさないようでありたい」(【書評】 『転向再論』鶴見俊輔・鈴木正・いいだもも)。

 2003.5.12日 れんだいこ拝

(ここは不得手な領域であるのでまだ纏めきれない、悪しからず。れんだいこなりの文章が出来るまで暫く転向論の再構築よりを参照する。但し、読み直してみて、何処までが転載、引用で、どこがれんだいこの地文か分からなくなった。許せ、いずれ書き改めるその日まで。2004.11.26日 れんだいこ拝)



日本共産党の転向論変遷考

 戦後日本共産党史は、「非転向」派の徳球、志賀らの府中刑務所からの出獄から始まる。戦前多くの党員・シンパが転向を余儀なくされた故に、非転向出獄組は大きな信望を得た。「転向者」に対する「非転向者」の精神的優位がその後の党活動に刻印されていった。しかし、徳球、志賀らの活動は、「転向問題」を殊更に取り上げなかったのでさほどの問題とはならなかった。

 これが問題となるのは、もう一方の「非転向」派の宮顕、袴田、蔵原らによる「非転向神話」からの転向者への弾劾によってである。この時初めて「転向者は裏切り者」という形での非難が放たれることになった。正確にいえば、徳球が「転向問題」を取り上げなかった訳ではない。が、主として社民系に対する罵倒という線で用いられていた。徳球は、党員の転向に対しては眼差しが穏和であった。宮顕時代になるや、これが党内に露骨に持ち込まれることになった。ここに「転向問題」が総括されねばならない一級課題となった。だがしかし、正面から転向の研究が為された気配は無い。

 宮顕時代において、転向者はどのように罵倒されるようになったか。1960年の時点で宍戸恭一氏は、宮顕系党中央の転向観を、日本共産党の転向観一般として次のように整理し批判している。概要「前出『おぼえがき』に、『裏切り者の性格とその行動』という一節がある。これが転向問題にたいする共産党の公式の見解である。右の党の見解を要約すると、次の三点になる。第一は、転向を個人的現象に還元し、かつ、階級的宿命観につらぬかれていること。第二は、転向者が発生した原因を、天皇制権力の弾圧(懐柔を含んだ)政策という外的条件に求めていること。第三は、党を破壊したのは転向者(裏切り者)であるとして、これと獄中闘争で党をまもった非転向者とを機械的に対置していること、などである。転向にたいするこのような党の見解の奥底をつらぬいているものは、革命運動における組織自体の責任の欠如であり、これこそ日本共産党のなかに戦前・戦後を通じて根強く脈打つ特有の史観なのである」。

 前出「おぼえがき」とは、宣伝指針特集「日本共産党の発展についてのおぼえがき」という1947年の文書と思われる。現在の日本共産党中央委員会編「日本共産党の七十年」においても同じ図式である。同じというよりは深化させている、と言えるかもしれない。というのは、田中真人氏もも指摘しているとおり(田中、1994)、「日本共産党の七十年」においては、「転向」という用語が避けられ、代わりに「変節」という語が使われ、「転向者」は「変節者」と称されている。「変節」と称することは、益々「転向」を「個人的現象に還元」し、その裏返しとして「非転向者」を「変節」しなかった立派な人間という形で「機械的に対置」することになる。



【戦後初期の転向論スケッチ−文芸作家、社会評論家達による転向論諸論、主として中野重治評】
 敗戦直後、戦前の戦争責任論と並んで転向論が問われ始めた。主として、プロレタリア文学運動の流れを引く近代文学派及び新日本文学派の内部で様々に転向論が問われた。重要と思われるコメントについてこれを列挙しておく。

 この期の転向論の特徴として、日本の革命運動史上ともすれば「裏切り」の意識から後ろめたいものとして語られることが多く、個人の倫理の問題として片付けられがちであった。これを仮に「裏切り転向論」としておく。

 高野庸一は、中野重治を評して次のように云う。「結局妥協したにもかかわらず、美しい後退戦だけを戦果のように誇って、戦後に民主主義官僚になり、解放の明るい光の下で紙の上に革命地図を書いているにすぎない中野重治」。「中野の戦争責任論」は次のように評されている。「自らの青春を戦争に奪われたという妄想の恨みによって敗戦後の視点からしか戦争を捉えることができない『近代文学』派の『戦争責任論争』の空虚な饒舌」。

 平野謙は1946年に、「マルクス主義文学運動の功罪、それが転向を結果せざるを得なかった道ゆき、それらの複雑な内外の事情を一つの必然的偏向として運動の内部から剔抉することが大切だと信ずる」と述べている。「転向を当時の運動内部の問題と関連づけようとしている論」であり正論であろうが、評論的に過ぎよう。

 こうして、近代文学派の中から諸説が生み出されることになった。それらを類型化すれば、イエスマン派と戦争責任論派と中間的評論派と批判派と奇説派という風に分類できるだろうか。


吉本隆明の転向論考】
 「裏切り転向論」に食傷する形で、「荒地」派の詩人たちが、新日本文学派と近代文学派の間の対立それ自体を告発するという新視角を提起していた。れんだいこはその論が分からない。「古い世代そのものに対する、まさしく戦後的な感受性の痛憤の告発(裏返された戦争責任論)であった」と評されている(松本編、1980)ようである。

 続いて、奇説派の代表的論者として吉本隆明が登場してくることになる。では、「吉本隆明の転向論」とはどういうものであろうか。

 吉本も「荒地」同人の一人であった。「文学者の戦争責任論」に参戦し、高野によれば、「十年後、この問題を正面にすえて鋭く論難したのは吉本隆明である。彼は『荒地』派の詩人たちが提出したものの上に立って、それを論理化した。それはすでに戦争に対する責任追及の次元が戦時下にどのように関わってきたかということよりも、戦後の関わりにおいて戦争体験は何であったかということに比重を置くことによって、復帰した民主主義詩人の戦後の欺瞞性をえぐり出しているところに特色がある」、「つまり、共産党系の戦争責任論とともに近代文学派の議論も否定する、というスタイルに吉本の議論の意味があった。それは彼の転向論の大きな主題となっている」と評されている。

 1958年、吉本は「転向論」を世に問うた。この時の転向問題に対するユニークな定義が評判を呼び、新しい展開を与えることになった。吉本にとって転向とは、概要「移入されたマルクス主義も又欧化的な近代主義の一つであり、いずれどう土着化するのかが問われていた。転向とは、日本的近代主義が大衆から孤立し、土着の思想と対決して来なかった欠点、あるいは日本社会の構造を総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換である。その視点から見れば、戦争中の獄中非転向もまた近代主義の一形態だったことになる」と論じた。

 この転向論は戦前共産党の「大量転向」現象の引き金の一つとなった佐野・鍋山の転向声明を材料として、彼らの転向を「大衆からの孤立に耐えなかったという側面」から考察し、重要なのは、そうした現象が彼らに特別のことではなく、彼らの転向を「日本的モデルニスムス」の典型的な構造として考察しているところにあった。

 なぜこの指摘が重要かと言えば、佐野らの転向が「大衆的な動向への全面的な追従」だとしたら、宮本顕治らの自尊する「獄中非転向」もまた「日本的モデルニスムス」に縛られていただけのことではないのか、という観点に道を拓くことになるからであった。故に、吉本によれば、いわゆる「非転向」は、概要「現実的動向や大衆的動向とは無接触にイデオロギーの論理的なサイクルをまわしたにすぎなかった。時代の状況との接触を失うということでともに不毛な思想である」とされ、「わたしの考えでは、『非転向』的な転向も、『無関心』的な転向もありうるのだ」とされる。結局、いわゆる転向も非転向も両方とも近代日本のインテリゲンチャの思想として「いわばそれは、同じ株が二つにわかれたものにすぎなかった」と結論づけられることになった。

 こうして、むしろ、中野重治の「村の家」(1935年)に、日本の封建的優性との対決に立ちあがっていく革命家の姿勢を見た。逆に、野間宏の「暗い絵」の学生運動家たちはいずれも大衆から孤立していたこと、主人公の自己完成というテーマもその裏側に大衆嫌悪・大衆蔑視を潜めた、孤立した自我の願望にすぎなかった、ことになった。

 「吉本隆明の転向論」は、非転向神話の破壊であった。同時に近代文学派のような近代的個人の確立による転向の克服といった議論をも批判するものとなった。それはつまり、近代日本における思想と社会の関係についての新視角であった。その意味で、政治的にはもちろんであるが、転向論の議論自体においても、吉本の転向論は転向研究に大きな展開をもたらしたと言える。

 しかし吉本の議論はいくつかの問題をはらんでいた。次のように云われている。たとえば佐野学とともに労働者出身の鍋山貞親をインテリゲンチャと規定して議論するような「歴史的実証を無視した強引な図式による裁断」あるいは「『転向』を独自に概念規定しながら、自分がそれに従わないといった論理的混乱」(天野1989年)、あるいは概要「転向自体を思想自身の問題としてのみ抽出するという手続きをとったために『思想をつき動かす権力という問題』が抜け落ち、一方で『認識能力の問題に全部を解消してしまっているから、頭のいい人は転向しないとなっちゃう感じ』であり、知識人の知的パワーの問題としてのしか転向論を立てない」(天野+池田+伊藤+柏木1989)といった問題点が指摘されている。

 吉本の転向論の特徴は、「非転向」も転向の一つ、といった議論に見られるような、転向の脱倫理化である。後年(1993年)、吉本は、転向論について「極端に言えば転向という概念を壊したいというんでしょうか、壊したいというモチーフを資質的に持っているし、実際、経験としてそういうふうに考えていると思うんですよ」と発言している。こうした発想が彼の転向論の脱倫理化の方向性を裏打ちしていると言える。


【思想の科学研究会による『共同研究・転向』考】 

 吉本的な転向論の脱倫理化の議論を押し進め、「研究」として成立させたのが、鶴見俊輔らを中心とする思想の科学研究会の「共同研究・転向」であった。

 「共同研究・転向」は、1959年から1962年にかけて精力的に取り組まれ、1978年に総決算の形で世に出された。戦前・戦中・戦後の転向現象の代表的人物を一人一人が個別に検討したものを三巻にまとめた労作であった。それは転向現象を社会科学的な研究対象にすえるという意味で画期的な仕事であった。また、それが共同研究として行われたという方法論的な魅力を持っていた。これが「転向研究の一つの到達点」となった。

 しかし、転向研究において避けて通れない重要な書物となった一方、いくつかの欠陥を持っていた。中でも、転向の定義など重要な概念において「全く自分たちの共同研究の前提にしている概念規定通り言葉を使っていない」という批判が為されている。 

 「共同研究・転向」において、1959年、鶴見は、「転向はつねに、実行可能な非転向との対比において記述される必要がある」との視点を提起して、それまでの「転向=悪、非転向=善論」を単純化であるとして批判した。鶴見は吉本と同じく非転向神話の不毛性を避けるために「転向というのは必ずしもそのままでは悪いことではない」とした上で、「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と定義した。この定義は転向論の脱倫理化を押し進め、その結果転向の研究対象としての可能性を大きく切り開いたものであったが、この独自の定義は「共同研究・転向」に参画した論者に共有された訳ではなかった。

 「共同研究・転向」にも欠点が認められる。共同研究の中で生かされていないのは定義だけではない。鶴見のこの論文は、示唆に富むものであるが、そこでの問題提起が共同研究中、鶴見自身も含めてほとんど生かされていないのである。鶴見は先述した戦前の転向研究を利用しながら、転向の類型を列挙する。たとえば、転向の「回数」、「角度(鋭角・鈍角など)」、「速度」、「過程(直線型・ジグザグ線型など)」、あるいは転向の主体の分類(年齢・性別・家族・気質・学歴・職業)など。その他にも様々な要素についてあげているが、各人の分析においてはこれらのうちいくつかが思い出したように使われるに過ぎない。

 また、後に展開する本論文の立場からすれば、鶴見が「私たちのこの共同研究には、女性はほとんど登場することがなく、このことは一つの欠点である」と自己批判している点が注目される。

 結局この共同研究は、代表的人物の転向現象を分析するという方法論上、転向の要因を個人的な問題へと回収している傾向がある。そこには転向を様々な要因同士の関係性の複合現象としてみる視点は弱い。

 そして先ほど述べた転向の定義にも、それが全ての論者に用いられていない、という点の他に、それ自体として問題があるだろう。鶴見の定義は転向論の脱倫理化を押し進めたことは先ほど述べた。そうして幅広い視野から転向を扱おうとしたために、逆に焦点がぼやける結果となっている。後に触れるとおり、鶴見の定義では、「権力」も「強制」も、この定義のすぐ後ろで意味を限定しようと試みているとはいえ、あまりにも曖昧すぎる。仮にそれぞれの単語を限定できたとしても、そもそもこれでは、「権力」と個人との対立だけしか見ないことになり、鶴見自身があげている様々な要素からみても、転向の原理として一面過ぎる。そして結果としての「思想の変化」に重点を置くあまり、「転向能力」という用語に見られるように、転向問題にとっての倫理的「意味」を全て捨て去る傾向が見られた。これではそもそも何のための転向研究かわからなくなるのであり、そこに転向概念の拡散も生まれることになるのである。



【諸賢による転向論考】

 伊藤は、「転向論の混迷」と題して、「転向現象の完全な没倫理的論述とそれが引き起こす転向概念の拡散に対しては、当然多くの反発がある。それらの多くは、国家権力との対立関係の中における転向の問題を、倫理的にとらえなおそうとする動機からの批判である。中でも戦後の高度成長の中でのいわゆる『左翼運動』における転向現象(と思われるもの)を、批判しようとする動きと関連している。しかしそれらの批判が適切な転向論足り得ているとは必ずしも言えない」と云う。

 加藤一夫は、1989年「新左翼運動と転向の現在」と副題のついた文章の中で、「『転向』概念の多義性」を指摘し、「私自身、この間、いく人かの論者の見解を調べてみたのだが、各人の視点の置き方から捉え方の角度、範囲のとり方、世代感覚の相違などから『転向』概念が拡散して、どうしても現在の状況に焦点を合わせることができなかった」と転向論の混迷ぶりを述べている。

 天野恵一も、[天野+池田+伊藤+柏木1989]の中で、「相撲からプロレスに転向した」などというような転向概念の拡散を指摘している。彼はこうした転向観を批判し、一方で、転向をめぐる倫理的問題を復権しようとする。

 しかし、こうした議論も必ずしも転向論の混迷状況を解決したとはいえない。転向の脱「脱倫理化」を図るに際しては、何から(あるいは何への)変換を転向と呼ぶのか、ということが重要である。その点で天野の議論も、不十分である。その理由は、詳しくは後述するが、彼が転向を主に思想の問題として取り扱おうとしているからである。

 伊藤は、こうした転向論の混迷・拡散に対して運動史研究から取り組み直し、運動史の立場から改めて転向論を再構成せんとした。既に宍戸恭一や渡部徹氏らの研究[渡部編1981]もそのような視点から重要な議論を提出しているが、彼は『天皇制と社会主義』[伊藤1988]の中で、日本における社会主義の中心テーマを天皇制権力との対決に求め、転向を概要「戦前日本共産主義運動の壊滅による共産党の敗北」、すなわち、彼らの天皇制権力への「降伏」と見る。つまり、転向を思想や意識の問題においてではなく党運動の挫折が生み出したものと見詰め、「運動史としての転向問題」として捉え直そうとする。

 こうした見方は、以下のような伊藤の問題関心から導かれている。
「日本の共産党も一般とことなる信念をもつ少数の英雄の運動ではなかった。平均的な人びとがその意力と知力をふりしぼって作っている集団運動でもあった」[ibid:10]。実は今までの転向論は、『共同研究・転向』のような総合的な研究も含めて、組織の指導者やイデオローグ、あるいは知識人にのみ焦点をあてていた。伊藤のこの指摘は、既存の転向論の弱点を示唆している。そして「転向を国民史一般ではなく、特殊に運動史の帰結として、運動史の厳密な研究の上ではじめて理解しうると思う。転向を生み出したのはどんな社会主義運動だったのか」[ibid:381]と述べるとき、「運動史としての転向」という新たな枠組みが構築されている。

 そして続く『転向と天皇制』[伊藤1995]においては、「大量転向」現象が中心テーマにおかれる。ここでは、以下の点で、既存の転向研究の弱点がさらに補強されている。

 まず、上述したような、エリートのみを対象にした思想的側面ばかりに回収するような転向論から、「平均的な活動家の内面に起こっていたことが転向研究の重要テーマにならなければならない」[ibid:9]とする転換。なぜなら転向とは運動の問題であり、実際「大量転向過程が実はある時期の社会主義運動そのもの」であったのだから[ibid:10]。

 そして、特に大量転向現象に関して言えば、「一個の集団イデオロギー過程と考えるべき」である。なぜなら転向が共産主義運動の問題である以上、「共産主義運動が思想的に一枚岩ではけっしてなかったのと同様、ひとくちに転向といってもかなり広い幅があるはず」であり、「一人の人をとってさえ、いろいろな思想要素が変化しながら混在しているであろう」[ibid:2]からだ。このことが意味するのは、伊藤が転向現象を唯一の決定的原因から起こる、とはみなしていない、ということである。こうした複合現象としての転向という発想も既存の転向論には弱かった見方であった。

 さらに「集団イデオロギー過程」としてみなすということは以下のことにつながる。「全体としての転向を、丸ごと後退した共産主義運動の、かつての幅、規模、厚みにおいて研究すべきだと思う。転向者集団は、共産主義運動が転化してこの時期にとった形態なのである」[ibid:2]。このことは、転向「後」の転向者のあり方の問題へとつながる。つまり転向させる側、すなわち当時の国家権力の転向政策の問題である。この本では、一旦転向を表明した転向者たちが、国家権力の政策によってどのような立場に誘導されていったかということが丹念に調べられている。今までの転向論では、権力の弾圧に負けた、ということは強調されても、その「弾圧」の実態と転向のプロセスとを具体的に関連づけた研究は少なかった。

 以上見てきたとおり、この伊藤の転向論は重要な指摘を多く含んだ、貴重な研究である。これから展開される本論文は、伊藤の転向論を踏まえ、それを発展させることを目指す。



【石堂氏の転向論考】アサート 287号(2001年10月20日)書評】 『転向再論』鶴見俊輔・鈴木正・いいだもも (平凡社、2001.4.5.発行、2,000円)
 石堂氏は中野の転向問題を取り上げ、その中で、当時の日本共産党の転向概念の誤りとその基礎として存在したコミンテルンの時代認識と指導理論が間違っていたことを指摘している(鈴木論文「転向異説」)。その例証として、石堂氏は、「1930年代から陸軍が全国各地で組織的にくりひろげた農民に対する悪質なデマゴギーとその宣伝効果を見過ごしたこと」を悔やむ。「この動きを軽視したのはなぜか」と問い、「最も強い反戦勢力であった日共が創立以来、コミンテルンのほうばかりに顔を向け、ソ連防衛の任務に忠実のあまり、日本の現実を自分の目でみて、その経験から反戦のための、より緩かな連帯行動を可能にするような共同の知恵を探ろうとしなかったからである」と指摘する。

 「1930年頃の帝国主義戦争反対の運動は、<大衆の中へ>と<共同戦線>に背を向けた極左的攻撃理論と自殺戦術であり、この中で何らかの迂回もしくは緊急避難の戦術は採用されなかったのである。これは、権力・軍部の側からの『母乳とともに飲みこんだ愛国心』という日本人の泣きどころを突いた転向政策と裏腹の関係をなしていた」と云う。

 鈴木論文「転向異説」は、日共の転向無策に対比させ、中共が「抗日戦における偽装転向による獄中からの同志の放免政策」を紹介する。そこでは、革命運動における節義(正義と有効性)の問題は、この政策では「個人の道徳(私徳)の位相でなく、抵抗する集団の公徳にかんする問題としてとらえられている」ことを評価する。

 そして、「もし同様のことが日本の反戦と革命をめざした運動において時機を失することなく、提起され実行されていたら、石堂さんの尊敬する中野重治が、文学の場で果たそうとしていた『革命運動の伝統の革命的批判』を政治の場で遂行できたであろうに。そして転向と偽装転向の問題はもっと生産的になり、戦後の『転向』論の趣は変わったのではなかろうか」と述べる。この問題意識から鈴木は、「事例研究」として、古在由重、戸坂潤、吉野源三郎、中井正一の四人を取りあげてそのそれぞれの転向の本質を探ろうとする。

 また鶴見俊輔の論文「国民というかたまりに埋めこまれて」も、石堂を評価して、次のように述べる。「石堂の記述は、転向からほとんど七十年のあいだの、当人による絶えざる照合の積み重ねである。その過程で、日本共産党の転向の裁定のかたくなさと勇み足への批判、そのもととなったソヴィエト・ロシア共産党の同時代観の根拠のなさへの論証が行われる。さらに、敗戦後の満州でおこった転向・偽装転向・再転向、それらについての根拠のない流言と、流言による粛清についての記述があり、そこには敗戦後から現在にいたる知識人の右往左往への予知がこもっている」。

 この視点から、「国家の圧力に屈した個人の決断」を「その一回かぎりの形を見つけるごとに記述する」という転向研究のもつ有効性を、「その特定の状況をこえて、ちがう状況の中で、その転向がもち得る意味を考えさせる。日付の特定がかえって、別の日付のちがう状況の中で、その転向の形がどのようにくりかえされるか、受けつがれるかを考える可能性をひらく」点にあるとする。

 そして石堂が認識し、鈴木が指摘した点にこそ、現在の「戦後のすでに五十五年におよぶ、国家の強制を感じさせない形ですすむ転向を見すえる」枠組みを可能にするものがあるのではないかとする。

 転向を近代国家としての日本の進歩に並行する事実としてとらえることで、日本文化の強さにつきまとう弱さを認識し、「非転向への不毛な固執を避け、しかもまともな人間として現代に生きてゆこうとする考え方」があらわれることを鶴見は提唱する。

 以上の二論文の問いかけに対して、本書の約7割の分量を占める、いいだももの論文「八・一五相移転における『転向』の両義性」は、その冗長な博識の割には、内容が乏しい。ここでは、いいだの主張で注目に値すると思われる二点をあげるにとどめよう。

 その一。いいだが、伊藤晃の『転向と天皇制』から次の文章を引用して、これを重要な提起としていることである。 <『満州事変』で共産党が戦わずして敗れたことこそ、二年後の起きた大量転向の潜在的な一理由だった、と考えなければならない。『満州事変』は無産階級全体に予防反革命として働いた。『指導者の転向の足下には国民大衆の転向があったのである』(本多秋五)。・・・社会対立のエネルギーが戦争のエネルギーとして吸収されていった、『満州事変』に至る歴史過程は、大衆のあいだで支配階級と共産主義運動とが思想的に競合するべき期間ではなかったか。その実戦で共産党は敗れたのではないか>。

 これはまさしく石堂と軌を一にする問題のとらえ方であろう。

 その二。「天皇制打倒」のスローガンをかかげた日本共産党の運動は、「スターリン専制指導部の圧倒的影響下に置かれ続けたまま、佐野・鍋山の『転向声明』以来、天皇制への帰順、中国戦争参加等への流行的氾濫は見られたものの、共産主義的異端派としてのトロッキズム運動の“洗礼”はよくもあしくもほとんど見られなかった」ことの指摘である。いいだは、ここに「コミンテルン日本支部として出発した日本共産党の理論と運動の『輸入』体質・『事大主義』根性もふくめて、そのようにも根深いスターリン主義的体質」を見、現状においてもスターリン主義批判は依然として皆無であるとする。

 この点については、日本共産党のみならず、他の緒潮流においてもなお批判的検討が必要なところであろう。




(私論.私見)



武井昭夫「芸術運動家としての花田清輝 」
 対立物を対立したまま統一する花田弁証法の実践

 あの「論争」は吉本さんが当時の時代のエモーショナルな反共的思潮に乗っかって自分の正当性をやみくもに暴力的に主張した、というだけのことでした。それがつまるところ、吉本氏の花田攻撃、こともあろうに”転向ファシスト〃よばわりさえしたがどんなに事実とかけはなれた暴論だったかを証明するでしょう。

 (年譜1)(年譜2

 「非転向」と「転向」??花田溝輝の見方

 花田さんの考えの中にはこういうものがあります。たとえば転向の問題について言いますと、徳永直は共同印刷の争議を大衆性をもった長編に書き上げた『太陽のない街』によって小林多喜二らと並んで戦前のナップ系のプロレタリア文学運動を代表する作家となるのですが、のちに転向し、やがて『太陽のない街』も含めた旧作の絶版声明をし、戦争への協力誓約をしていく。天皇制権力に屈伏したわけです。

 その転向は、無名の人がした転向とはわけが違う。この声明は大きな衝撃を与えただろうと思います。それは大きなマイナスなのですが、花田さんは、だからといって徳永直は全部だめだとは考えない。一度は無残に屈伏した作家でもまた立ち直ってきていい仕事をすれば、それはそれとして評価する。花田さんにとって徳永の『日本の活字』という作品はそうしたものだった。徳永は共同印刷の植字工だったので、その職業を通してもう一度日本の文化と活字の関係をきちんと追求する労作を書いたわけです。それによって、技術とか文化というものが人間の努力の積み重ねを通して伝えられることの意味を表現した。花田さんが、この作品を評価していったことの中には、いい作品はいいというだけのものではなくて、かれの転向についての考え方、さらに人や仕事についての評価の基準というものがあるわけです。のちに花田さんが「モラリスト批判」で展開する考え方がそれです。ある人を転向したからだめだと道徳的に裁断して、そのすべてを否定するのではなくて、たとえ転向しても、どうして転向したのか、転向してからその人は何をやったのか、ということを視野に入れて、実際その人が何をやったのか、その全体をきちんと科学的・実証的にみて、それで評価をしなければならない、というのが花田さんの考えだったのでしょう。そういう点で、花田さんの日本のプロレタリア文学運動への評価のしかた、日本の政治運動への評価のしかたも、どんな仕事をしたか、いかに変革を実践したか、を実際に即してみることでした。非転向はいいに決まっている、ただ、非転向だということでえばっても意味がない、転向しないで何を為したか成し遂げたかです。

 リベラリストの日本政治思想史家丸山真男さんが、日本共産党は非転向といっても結局は敗北して幹部が獄中にいただけだ、こんな乱暴な言い方はしてはいませんが、戦争を止められなかった点で戦争責任はある、と言って、日本共産党の宮本顕治らをカンカンに怒らせましたが、この論議では、丸山さんには一理あるぐらいで、共産党のほうに二理あった、とわたしは思う。丸山さんの一理とは、共産党は革命によって帝国主義を打倒して戦争をくいとめなければならないのだが、その任務を果たせなかったということの指摘です。たしかに共産主義者には運動敗北責任はあるのであって、それは自己批判しなければならない。しかし、共産党に戦争責任があるというのはおかしい。戦争責任は日本帝国主義にある。天皇と軍閥、ブルジョワジーと地主階級、これらの支配階級にこそ戦争責任がある。これはあたりまえのことです。ところで花田さんは、非転向は正しい、しかし非転向でも敗北したことについては革命政党としての自己批判が必要だ、と同時に、そして花田さんは、非転向派の人々にたいして、転向した人もどういう事情で転向したのか、しかし転向したけれどもその後どうしたかということをよく見て、転向したからこいつはもうだめな奴だと切り捨てるようなことをやってはいけない、と言いたいのです。そういう考えが花田さんの中にはあって、戦争中に転向派でも再転向させて抵抗する。あるいは抵抗を組織するなかで再転向させようと考え、それを実践したのではないか、とわたしは思うのです。

 いっぼう、転向した人たちが戦争中をくぐってきて、戦後起ち上がってきた。文学では『近代文学』第一次同人たち、荒正人、平野謙、本多秋五、埴谷雄高といった人たちです。このうち埴谷さんは他の人たちと少し違っていて、アナーキストだったのが、レーニンの『国家と革命』を読んでアナーキズムの国家論を打ち破られてマルクス主義に転換し、共産党に入って活動した経歴をもつ。党では非合法の農民部の活動をやっていて逮捕され、転向して、極端な個人主義とアナーキズムへもどっていった。この埴谷さんも含めて『近代文学』の人たちは、転向後、抵抗らしい抵抗はしていない。そして戦後を迎えると、現実に背を向けていた自分のことは語らずに、もっぱら過去の運動の中にあったいろいろな欠点をいかにこれがだめであるかをあげつらう。そこからは、転向の自己合理化ぐらいしかでてこないし、結局、運動全体を傷付け否定するようなことを展開していくことになる。

 花田さんは、こうした転向派の考え方と、さきにみた非転向派の考え方と、両方に対してかれらのように問題を道徳的に裁断していくだけではコミュニストとしての問題の積極的解決には役立たない、転向・非転向の両者を含めて、その後、どういうことをしたのか、転向に見えても抵抗闘争をやった人たちもおり、ほんとうに転向して運動を破壊していった人もいます。そういうものは実際に即して検討されて評価・裁断されるべきなんだ、というのが花田さんの考えだった、とわたしは思います。戦後、後期の仕事でも、花田さんはいろいろな事象に即して、この問題をくりかえし考察していますが、その検討は別の横会にゆずるとして、ここではこの位にとどめておきます。

 花田さんはこうした観点から、徳永が転向はしたけれどもとにかく『日本の活字』を書いたということについて、これを評価したわけです。花田さんの考えが文章としてあの当時出されているわけではないけれども、もしそうした考えが伝えられていけば、困難な中にあってもできる範囲で闘おう、地を這いずってでもやれることはやっていこうという人たちをどれだけ励ましたかしれない、とわたしは思うのです。花田さんの考え方はそういう点で、たえず困難に直面して飢えに苦しんだり、追い詰められ万事窮したりしている、そういう人たちの立場に立っている。

 戦時下の抵抗??屈折した闘いから戦後へ 

 旧ナップの文学者で中野重治。花田さんは戦争中の中野重治さんに対しては一定の批判ももっていたようですが、いっぼうではなおかつこの人と、「もし戦後を迎えられればいっしょに運動をやりたい」という気持ちをもっていたと言っています。戦後のあるアンケートで花田さんは好きな作家に中野さんを挙げて、嫌いな作家に宮本百合子さんを挙げています。宮本百合子さんについてわたしは違う考えをもっていますが、花田さんが挙げた理由はある程度わかる気がします。それは戦争中百合子さんは中野さんといっしょに二人だけ特別の執筆禁止処分をくらい、一切のジャーナリズムから締め出され、書く場を失うのですが、百合子さんはその前までは「冬を越す蕾」を期し、さらには「明日への精神」を揚げて頑張る。書けなくなればその姿勢を貫き徹した。あの人自身が光だったと思うのです。百合子さんの掲げる光によってやっとこさ戦争をくぐり抜けた人たちがいる。花田さんはそれを認めないのではない。しかし、花田さんはいっぼうでは、転向しながらもまた立ち上がって闘いに加わってくるような人へのあたたかい見方というものがあった。同志としてもどちらかというとちょっと弱くて負けたような人たちで、しかし粘り強くがんばろうという人たちの立場により多く立ったということがあるでしょう。花田さん自身は芯は強い人で、「ぐにゃぐにゃした抵抗」というもので弱い人たちとも連帯しょう、それを支えていこうとしていた??その意志があの「好き」「嫌い」に反映していたとわたしは思います。中野さんの戦中の抵抗の姿勢により多くの親近感をもっていた、ということでしょう。

 もう一つ、花田さんの百合子さんの文学への不満があった。のちの「時代区分」の考え方に関係があります。つまり花田さんは歴史の見方は徹底的に革命を基軸に見るべきだ、だから何を時代の区切りにするかというと、二〇世紀について言えば一九一七年のロシア社会主義革命をもって画期とし、もう一つは一九四九年の中国革命の勝利をもって画期とするということをくりかえし主張していた。第一次世界大戦の勃発と終結をもって画期とし、第二次世界大戦の勃発と終結をもって画期とするのではない。戦争中心の歴史観ではなくて、革命中心の世界史観を持たなければいけない。これが花田史観で、宮本百合子さんの最後の代表的著作『道標』??中断はしましたが立派な仕事です??が戦争を中心のものの見方にとらわれている、といって批判をしたことがある。むろん、花田さんもことわっていますが、どうしようもない小説だとかだめな作家だとか考えているわけではない、ただそういう問題があるよと言っているわけです。史観問題については花田さんの考えに賛成です。もう一つの戦争への対処については、わたしは宮本百合子さんは文学者としての身の処し方は第一級であり、比類ない作家だったと思うし花田さんのような若くて無名であったけれどもたくましく過ごした方もまたみごとだと思います。いっぽうをとっていっぽうを否定する考えにはわたしはなりません。

戦後への出発??綜合的芸術運動の構想

 花田さんはみずから綜合文化協会を作った。新日本文学会の発足、それにも参加していく。と同時に、『近代文学』にも積極的に協力し、その第一次同人拡大時にそれに参加していく。それから野間宏、椎名燐三、埴谷雄高、梅崎春生、小野十三郎、中野秀人、のちに佐々木基一、関根弘、安部公戻らが参加した「夜の会」というものがあって、日本の戦後のアヴァンギャルド芸術のひとつのゆりかごのようなものになったのですが、そこにも参加して岡本太郎さんといっしょに中心になっていった。自分が中心になるからみんな集まれというのではなくて、そういう可能性のある運動には積極的に参加して、そこでできるだけ多くの可能性ある人々とともに仕事をしていこうと考え、そしてそういう運動を推進していった、というのが一九五〇年代までの花田さんでした。

 一九六〇年代あたりに前面に押し出されてくる、ジャンルを越えた総合的芸術運動という観点です。視聴覚文化、映画あるいは演劇さらにはミュージカルという分野との積極的な交流が主張され、実践される。批評もジャンルを越えて行なう。作家がシナリオや台本も書く、他分野の人たちに文学についての発言をしてもらう。そのように、あくまでも総合的な視野に立とうとした。文学は活字文化の中に閉じこもっていれば、衰弱していく以外にない。文学が一九世紀から二〇世紀へ諸芸術の中軸を担いつつ培ってきたクリティシズムがほんとうに生きていくためには、ジャンルの枠を打ち破って総合的な芸術創造の場に生き返らなければならない。日本の文学はすでに明治末期に近代化のなかで衰弱し自然主義文学を経て、私小説におちこんできた。プロレタリア文学がそれを打破しょうとして中断された。時代が転挨した新しい文学運動は芸術総合化、あるいは綜合的芸術の視野をもって、もう一度変革されていかなければならない。文学は一度死んで、いろんな大衆的諸文化との交流の中で、その批評性を再組織し生き返るべきだ。文学が培ってきた批評精神は総合的芸術運動、芸術総合化のなかで生かされなければいけない、という考えです。

 大西巨人さんの文学。『神聖喜劇』。あの大長編は、文学が他のジャンルで実験したさまざまの形式をもう一度文学に集大成してきたような趣さえあるのです。たとえば映画のシナリオのいちばん新しい成果を取り入れている。戯曲形式も入っている。短歌、俳句、詩もどんどん取り込まれる。それから、小説の中に独立した話を放り込んで、小説の広がりをもたせている。視点も多様になり、当然さまざまな語り口が競演することになる。とりわけ、古今東西の文書からの引用で構築される表現等々??こうした作業は古典文学の中にもいろいろに試みられていて、だからアヴァンギャルドは突然二〇世紀になって出てきたわけではなくて、時代時代に、前衝的な作家が努力してやってきてもいる。大西さんは文学の権化のように見えてますが、衰弱しゆく近代文学を超克しようという作家ですから、総合芸術家的な視野を、『神聖喜劇』一作の展開の中に示されているわけです。花田さんはそれを集団化してやろうとした、ともいえます。

 それから、花田さんがつねづね口にしていたことは、運動はクリエイティプでなければならない、作品を創っていくことをめざす。批評は、そういう方向性を持つべきだ。そういう意味で、運動にはクリティークが必要だということです。つまり解説文がいくらあってもだめで、ほんとうの批評がなければならない。作品も同じで、そこに内在的に批評精神が貫かれているべきだ。??そういう点でクリエイティプなものはクリティークに満ちあふれているものである、そういうものを作らなければいけない。??小説であれ、映画であれ、演劇であれ、運動をとおしてどれだけのものを作るか、それがどういうふうに現実の中に生きていくか、それをはげましあい協力しあって集団でやろう??それがわたしの理解している花田さんの主張でした。

 そういう意味で花田さんは「共同制作」ということを言った。それは、みんなで集まって分担しあえばなにかができるといったようなものではない。一人一人が全体を表現する。その競作を一つのものとして創る。そういうものが一〇本、二〇本と集まれば、追究すべき世界の全体が描き出される。花田さんの「共同制作」というのは、補い合って一人前になりましょうというのではない。みんなである対象について、あるいはあるテーマについて、それぞれが全力で競う。それを五人なり一〇人なりがやったのを重ね合わせて、より強力なもの、より全体性のあるものを創り出していく??そういう仕事をやらなければいけない。そのためにはまずディスカッションをして共通の課題をはっきりさせて、どういうふうにやろうかというベクトルを確認したら、それぞれが「おれが全体をやるんだ」というつもりで取り組む。だれかががんばってくれるだろう、おれはこの部分だけやりますよ、というようなのをいくら集めてもだめだ、そんなのは共同制作ではない??そういう考えが花田さんの運動論の基底にはあって、芸術創造は集団でなければならない、運動としてやらなければならない、ということを繰り返し言い、そして実践していった。

 だから、横への広がりを花田さんはいつももっている。同時にそのつながりを通して、あとの時代へとつながっていく。それがどれだけ広がるか広がらないか、つながるかつながらないかは運動を構成する者のにもよるけれども、時には時代によってその運動の火が消されてしまうこともある。しかし、できるかぎり、火種は伝承され、次代の誰かが運動をやろうとするときにそれが一気に生き返っていく。そういう仕事をやろうと花田さんは呼び掛けた。たえず運動腐の中でそれを呼び掛けてきたし、それをやろうとしてきた。

 そういう意味で花田さんは戦後の四五年から五〇年代半ばのプロセスを見ますと、可能性のあるところにはいずれへでも行って、そこで一員として、また必要と要望とがあれば中心になって活動を展開した。

 花田溝輝の運動論??「楕円」と「群論」の思想

 そういう中で『復興期の精神』の「楕円幻想」で描いた運動論における楕円の思粕、すなわち、一つの中心だけで円を完結させるのではなく、二つの焦点を置いて思い切って楕円の世界を描けという考えを実行していく。それを広げていきますと、「群論」に示された、あのガロアの群論の世界を運動の組織論として推進します。それは共通項を持つ人々を群としてとらえ、運動としてまとめていく。運動家は運動の科学というものをきちんとふまえて、自分の役割に応じて自分の身の処し方も考えていかなければならない。そういう考えに立って花田さんは、運動の組織運営にあたって、形式で言えば、独裁ではなくて民主主義的なものを非常に大事にされた。モノローグでなくダイアローグで。一人が命令してやるのではなくて、対話、それから座談が大切だ、討論が大切だ、という主張で、それが協働の基礎に置かれた。

 それからもうひとつ、非常におもしろいことは、花田弁証法の特異さです。「対立物を対立したまま統一する」としちゃうと言うんですね。テーゼ、アンチ・アーゼ、ジン・テーゼの定式では対立はアウフ・ヘーペン(止揚)されて統合になるのですが、花田弁証法では対立の内包するダィナミズムをそのまま生かしてクリエイティプな力にしていくという考えです。花田さんはわたしに対して、若くて無知で鼻柱だけは強いわけのわからない奴だけれども、いつも対等に扱い、「とにかく対立しろ、君はもっと僕に対立しなければだめなんだ」と言って、自分の意見に対立して討論を仕掛けることをすすめ、それをおもしろがった。それで花田さんも多少は自分が新しい視野やアイデアを得ていたようにも思います。「対立物を対立したまま統一」するという考え方は、花田さん独特のもののようにわたしは思うのですが、これは大変民主的な運動論です。運動民主主義の生み出すこのダイナミズムを大切にした。これは民主主義の精神がなければできないことです。

 のちの花田―吉本論争ですが、花田さんははじめ吉本さんを挑発するポーズをとるんです。それは何も敵対しょうというのではなくて、対立する要素があるのをちゃんと見ていて、だからその対立点を明瞭にして討論をし、それを通して将来の協働の場を作ろうという意識があったと思います。

 それに対して吉本さんは敵対的・暴力的に攻撃に転じていった。とにかく、吉本さんは、「おれが死んだら世界は和解してくれ」(「異数の世界におりていく」より)という人ですから、「おれが生きているかぎりは世界を和解させないぞ」とばかりに論争した。つまり、新しい真理に到達するために異なった意見をダイアローグでつきあわせてたたかわせる、そのたたかいじしんをクリエイティプなものとしていこうというのではなかったわけです。政治的姿勢に置き扱えていえば、これはわたしなどにはのちに「ああそうだったのか」と解ってきたのですが、吉本さんは支配体制との対決を基本軸としているのではなく、日本のマルクス主義的左翼への怨念にみちた敵対心が存在していたわけです。むろん、それは「論争」の過程でいっそう増殖されていったのですが……。こんにち、久保覚さんの労苦で掘り起こされた諸資料、湯地朝雄さんの読み込みなどで明らかな真実に照らせれば戦中の花田さんに対する「転向ファシスト」といったレッテルばりなど、ルールもなにもあったものではない、やくざの振うめったうちの暴力のようなものだ、と言うべきでしょう。吉本さんの「論争」は、茂吉の短歌論争、宣長の国学論争のように、自分の派や閥をひろげようという闘いに類似しています。

 花田さんの討論はちがう。それは、花田さんの文章をよく読めばわかります。自分の文章の中に生き生きとした対話がある。自分の前段の主張を後段でひっくり返してみせたりする。読者に考えさせるのです。プレヒトの劇作法に通じるものがある。集団・運動といっても、参加者を部品化して身動きできなくするのではなく、組織には組織の科学があることをわきまえ、その方法をそれぞれが自覚して身につけて、それに習熟していく。その中でそれぞれが個性を発揮してクリエイティブな仕事をするという理想の追求です。その方法をやれば、対立者も協働者にとりこめるのです。

 花田さんは戦後初期、福田恆存ともいっしょに仕事をしました。そのうち福田はイデオロギッシュになって政治的反動の方向にいってしまう。そうなってからも、わたしが花田さんといっしょに芝居を見に行ったりすると、たまたま福田恆存に会う。会うと二人はうれしそうに話をしていました。もちろんそれでどうなるというわけでもないけれども、才能があって可能性がある人に対して、とうていこれはぼくにはできないことですが、ていねいに親しく対していた。花田さんはそういうことができる人だった。それはこういう方法論が身についていて、困難の状況下で運動をすすめてきて、そういう苦労をする中で、できてきたものではないか、とわたしは思います。

 〈質疑応答の中から〉花田溝輝と『近代文学』同人たち

 花田さんは『近代文学』の第一次同人の仕事を全部否定しているわけではありません。たとえば、『近代文学』派に共通する、半封建的なものに対しての近代的なものの追求と実現に一定の意義を認めています。しかし、花田さんは近代資本制社会を止揚しようとしているのですから、近代の行き詰まりのなかから生まれて、近代の批判者でもあるアヴァンギャルド芸術を媒介として、リアリズムの革新、社会主義的なリアリズムを追求しようとしていたわけです。いつまでも個人の主体性の確立にこだわり、そこに止まり、近代的エゴの確立が大事なんだというような、花田さんに言わせれば半世紀も逆戻りしたようなところに足ぶみしているかれらに対しては批判的にならざるをえないわけです。しかもそういうモラリズムの観点を一歩も出ないようなところから、それより遙かに先を進もうと苦闘するものをあげつらう「保守」性には、辛辣な批判を浴びせたのです。

 しかし花田さんは、日本の近代文学の中で、有島武郎の『或る女』を最高傑作として評価しています。明治社会で自立していこうとした女性が日本の「近代」とぶつかってゆく悲劇的姿をあれだけ措いた作品は比肩するものがない。小説としての方法も、衰弱して私小説へ後退していくものを見事に超えています。わたしの知る限りでは、大西巨人さんも第一等の作品は『或る女』だとしていたと思います。

 日本に近代的な骨格をもつた文学を確立していくことに花田さんはむろん反対ではなかった。ただし、それをさらに乗り越えていこうとしたのが花田さんです。世界文学のレベルから近代文学のゆきづまりを見ていて、それを越えようとする文学としてプロレタリア文学とアヴァンギャルド芸術をみ、その両者を統合し、両者緊張関係のなかに創造力の生成を見ようとしたのです。そうした試みは、たとえ一時挫折したといえ、すでに戦前からなされているのに、戦後になって、ただ「近代文学の確立」と主張していてはダメだ、日本の遅れた文学に対する批判としての積極性を容認しつつも、そんなところにとどまっていてはならないんだという批判があったわけです。ですから、第一次同人拡大のときにさそわれて『近代文学』の同人になった。花田さんは中に入っていって、討論しながら変えていこうとしたのでしょうが、意図と見取図は正しくとも、その通りいくかというとは、話はまた別問題です。なかなか成功しないばかりか、非常な困難につきあたっていくわけです。しかしそこに立ち入りますと長くなりますから……。

 「政治と文学」論争、日本共産党五〇年分裂と文学運動内の抗争を経て

 花田さんは、敗戦の翌年十月に新日本文学会に入会しています。戦争中から機会が来たら中野(重治)さんとは一緒に運動をやりたいと思っていた、とのちに語っているように、花田さんはやはりプロレタリア文学運動の伝統を引き継ぎ 但し唯引き継ぐのではなく批判的に発展させることを望んでいた、と思われます。しかし、中軸で活動をするようになるのは、だいぶ後になります。敗戦後の数年は、花田さんは、みずからつくつた綜合芸術協会(機関紙『綜合文化』)の活動(一九四七年)、『近代文学』同人への参加(一九四七年)。「夜の会」の結成(一九四八年)が中心になります。

 この間に、新日本文学会は、戦前のプロレタリア文学運動の全盛期の中軸だったナップ系の文学者を中心に運動の態勢を整えていく。その中で、プロレタリア文学運動の評価、とりわけ小林多喜二の「党生活者」の評価などをめぐって、第一次のいわゆる「政治と文学」論争が『近代文学』派の荒正人、平野謙らと旧ナップ系で新日本文学会の中軸となった中野重治・蔵原惟人らとの間でくりひろげられた(この論争は別名「主体性」論争ともよばれ、ジャンルを超えて哲学や政治・経済学の分野の人々の間にも広がっていった)。

 論争の間、花田さんは直接にこれに触れた発言はしていないように、わたしは思います。ただし、後に花田さんが『近代文学』派の山室静や荒、平野、それに埴谷雄高らとくりかえした第二次「政治と文学」論争などからみて『近代文学』派に批判的だったろうと想定されます。しかし、問題の見方は旧ナップ系の人々とは異なり、かれらへの批判も含むものだったと思われます。一口で言って、花田さんはインターナショナルな世界文学の観点から問題をみていたわけです。

 花田さんが日本共産党に入党するのは一九四九年で、入党推薦者が当時の党本部文化部の青山敏夫という人です。新日本文学会の主流となったのが旧ナップ系の文学者で政治的には宮本顕治に親しい人々ですが、この青山敏夫氏は牧頼恒二、増山太助といった人たちとともに徳田球一を家長とする主流派閥の文化オルグ・グループを形成していました。日本文化人達盟の機関紙『文化タイムス』などを中心に活動が行なわれていたようで、旧ナップ系に比して一世代若い人々が担っていました。

 のちの日本共産党「五〇年分裂」にいたる要因の文化運動面におけるあらわれは、早いものではもう四七年くらいから出てきていた。逆にいえば、共産党内部の路線上の対立が文化運動の世界に反映してきたとも言えます。それがまた文学運動に持ち込まれたのが『新日本文学』に対抗する『人民文学』の発行です。こうした形で四九年にははっきり分裂状態として現われてくる。党の分裂は五〇年春からですが、文化運動の中にはすでにいろんな軋みが出ていた。そういうものはこの年表には出てきません。ここでのちのわたしと針生一郎さんとの論争の中で問題になる「政治のアヴァンギャルドと芸術のアヴァンギャルド」の関係をどう見るかという問題につながっていく。

 花田さんと青山氏の関係についてわたしは詳しくは知りませんが、花田さんの影響かどうか、「夜の会」その他で勉強していた安部公房さんらに代表される若手のアヴァンギャルド芸術派はこの線で共産党と結びつき入党する。そして、この人たちがのちの『人民文学』に組織化され、政治的にはいわゆる極左冒険主義の方向へ進みます。朝鮮戦争前夜、反動化が進む中で気分的に急進化していくわけです。京浜工業地帯の労働者党員たちと交流して観念的に昂揚し、やがて火炎瓶闘争などを讃美するルポや詩を書くようになる。芸術のアヴァンギャルドという、内部世界の前衛的な探究者が、外部世界へ対応するときは、政治と芸術との違いをあくまでも科学的に測定してその法則性をつかみながらやらなければならない。芸術のアヴァンギャルドが政治のアヴァンギャルドになるといっても、芸術には芸術の論理があるように政治には政治の論理があるわけで、政治と芸術を同一視してしまって、政治の論理だけで芸術を見ようとするのも間違いで、同様に芸術を作っているものの論理と方法論をそのまま政治にもっていくのも間違いです。政治と芸術には対応関係はあるけれども、組織一つとっても、運動論を考えても、違いがあり、それをきちんととらえて対応していかなければならない、という問題が十分に理解されていなかった。その結果、共産党内の対立が、主として徳田派閥によって文学運動に持ち込まれて、分裂を含む対立・抗争がおこり、大きな混乱がおこって、それが数年続いた。

 一九五二年、花田さんは新日本文学会第六回大会のあと編集長に選任される。新日本文学会は前述の対立抗争で力を消耗します。それを克服していく方向を、中野さんを中心にいろいろに考え、花田編集長の登場となったわけです。

 これはのちに実際経験してわかった面もありますが、このときの会の改善は、歓迎すべきもので、新しい編集委員会も作って、運動自体を全体として再編成する。会議の構成からやりかたまで再編成した。そういう新しい流れがやっと出てきた。これを推進したのが、リーダーとしては中野さんであり、それによって中心に押し出されてきたのが花田さんです。ここから花田編集長時代がはじまるのです。

 大西・花田両氏との出会い

 『近代文学』同人でもあった大西巨人さんが新日本文学会の第六回大会後に上京されて、九月に同会の中央常任委員会の常任書記となって組織部を担当された。一と月後に、当時浪人していたわたしがたまたま花田さんに誘われ、大西さんにもすすめられて編集部に入りました。

 脇道にそれるかも知れませんが、わたしが花田さんのもとで仕事をすることになるいきさつを話します。花田さんを語ることになると思うからです。わたしは新日本文学会の会員になったのは早く、一九四七年でしたが、文学などやっている暇もなく学生運動と政治運動に明け暮れていたのですが、五二年春には国際派がつぶれ全学連も徳田派にのっとられて、やることがなくなった。高校時代、平田次三郎さんに頼まれて『思潮』という雑誌の編集部にいて九州在の大西さんに原稿依頼していたりしたので、上京して神田に住んだ大西さんを訪ねていろいろ話をうかがったりしていた。たまたまわたしの友人の『新日本文学』編集部員が大西さんに執筆を頼もうとしたら、編集長の花田さんが納得できない理由でダメだと言ったというのを聞いて、一定の仕事をしてきている会員に理由もなしに書かせないというのは何事かと、文句を言いに書記長の中野さんのところに行ったら、ここは新日本文学会のいいところで「よし、意見があるなら言いなさい」と言われて、指定された日に出掛けていった。常任中央委員がずらりと並んで待っていた。あのころはわたしは花田弁証法などまるっきりわかっていなかった??いまでもたぶんにそうですが??当時の文学ニュースの中にチェコスロバキアで『シラノ・ド・ベルジュラック』が上演か出版かを禁止されたという記事があって、花田さんはある雑誌であの闊達な詩人の芝居が発禁になったことは悲しいことだと書き、ある雑誌では、ああいう頑固なナショナリスト、ファシストまがいのやつは弾圧したほうがいい、というようなことを書いていた。単細胞のわたしは、たまたま両方読んでいて、あっちでは弾圧されて悲しいと書き、こっちでは弾圧してしまえとはいったい何だ、と単純に腹をたてていた。つまり花田さんの弁証法の論理??楕円の思想などまったくわかっていなかった。ことを両側面から見て全体を捉える、そしてそれぞれの側面をときには強調して相手の意見(ここでは読者の反応)を触発する、というのをわかっていないし、花田氏なにするものぞと意気込んで出かけたけれども、ことはあっけなく解決した。つまり、わたしたちの一般的主張は認められ、具体的な件はわれわれの情報収集が不十分で、花田さんの実際やろうとしていたこととわたしたちの理解とは違っていたことを認めざるをえなかった。それでわたしは帰りぎわに花田さんに、間違った情報、不十分な理解で抗議をした面があったことをあやまりました。しばらくしたらきみ編集部にこないか、と花田さんに誘われたわけです。そういうところが花田さんにはあるんです。そういうとおかしいかもしれませんが、花田さんは対立者を同志として協力しながら変えていく??そういうことをやった。以後、わたしは花田さんの運動の参加者として??ときに不実、反発もしましたが??こんにちにいたっているわけです。

 花田編集長時代の『新日本文学』

 中村光夫と広津和郎の『異邦人』論争がありまして、それをめぐっていろいろその場でも論議がでたとき、花田さんが射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ、その立場から論じた人が一人でもあるか、と言うと、一瞬、会場がシーンとなった。そういうようなかたちで花田さんは新日本文学会に登場してきました。いい気になっている者には、強い意見をぴしっと言う、同時に、間違っても、それを認めるやつは仲間に入れてやっていこうという、若い者には親切??これも花田さんのひとつの運動論の実践だと言えます。むろん、実践的には、そういうものが裏目にでることもあれば、うまくいくこともある。それは方法論そのものが悪いのではなくて、方法論と状況との関係での測定の多少の誤りであって、状況の悪さのほうに主として問題があったように、わたしは思います。

 花田編集長時代は一九五二年七月号より五四年九月号まででわずか二年間です。しかし、表紙をはじめずいぶん変わりました。作家では大西巨人さんの登場。島尾敏雄、竹田敏行、富士正晴、まだ学生だった小沢信夫、それにたくさんの労働者の作家が書いています。一番目立つのが若手の文学者たちの執筆です。目次の一覧を見てもらうとわかるように、毎号のように徐々に新しい人が入っているわけです。当時の若手の批評家が網羅されているおもむきがあります。今ではみんな「大家」になってしまっていますが。浜田新一はいまは日高晋という本名で宇野経済学の学者になってしまいましたが、あのころは文芸評論をやっていました。大野正男もいまは最高裁判事ですがこのころは文芸評論家です。清岡卓行さんは詩人にして映画評論家、いまは小説を書いています。村松剛はこの頃『世代』の最左翼といわれたが、その後右翼になって死んでしまった。奥野健男はいまも文芸評論家です。ほかに吉本隆明、日野啓三、さらに江藤淳まで書いています。当時、二〇代後半から三〇になるかならないかくらいで、みな新進の文学者たちでした。それだけではなくて、さっき言いましたような大井広介や梅崎春生や大岡昇平らたくさんの人たちが座談会などに出席してくるようになってきた。そういうかたちで広がってさた。

 総目次をあらためてながめると、たとえば「療養者と文学」という特集もあります。まだあのころは結核も多くてたいへんだったんですが、療養者が短歌・俳句の人口の主流を占めていた。そういう人たちを対象にして、少しでも読者を広げていこうとした特集です。おもしろいのは文学者が政治を論ずるのではなく、共産党と社会党と労農党の政治家たちにきてもらって文学の話をする。花田さんが司会している。いろんなテーマを考えてゲストをよんで自分が司会をやって、その人たちからおもしろい問題を引き出していく、というような編集プランもありました。部数は、花田さんの前までは三〇〇〇部刷って一〇〇〇部売れるかどうかいう状態になっていましたが、拡大のための増ページ、増部数といって、一万部刷ったのです。ページ数も倍ぐらいに増ページをし、広告も出して宣伝もした。金もかかった。それをやっても、そうは売れませんでしたけれども、それでも部数は三倍、つまり三〇〇〇部くらいになりました。中野書記長、花田編集長、大西常任書記、秋山清財政部長以下、事務局のメンバーなど中心の人たちはみな頑張ってよくやった。活気は出たが、非常な赤字が出ました。どうしたかというと、基金組合というのを会員で作って金を集めて赤字を埋めたりしました。中野さんはその資金づくりや赤字処理のときに二〇〇万円を出しました。当時の二〇〇万円ですから大変です。そんなお金があったわけではないから、中野さんの将来の原稿料を担保ということで筑摩書房から借りた。ですから、その後どのくらいか中野さんは原稿料や印税なしで『展望』に書き、筑摩書房から本を出していた。そうやってお金を出す人がいて、そうやってお金をどんどん使う人がいて、その相互信頼の上に運動というのは成り立ってきたのです。わたしは金を出した中野さん、金食い虫みたいな花田さん、財政部、事業部を担当した大西さん、秋山さんの奮闘を忘れることはできません。何の苦労もなくのほほんと運動なんかはできない。

 そういう悪戦苦闘しているときに、宮本顕治が??会員ではあっても何もしない、ビタ一文カンパしたこともない会員が??文学会の運動や活動に口出しをしてきた。六全協の直前で分裂していた共産党の指導部間で統一が決まりかけていて、共産党主流の徳田派の極左冒険主義が行詰まってきて、国際派の宮本氏が力を獲得してきていた。そして文学運動上は何の解決もついていないのに、『人民文学』の人たちを新日本文学会にそのままもどせ、そのためにいままで頑張ってきたうるさい連中は邪魔だ、ぐずぐず言ったら、追い出そうというわけです。それでまず、大西さんの批評活動にたいして、セクト主義だといって、攻撃してきた。大西さんの野間宏『真空地帯』への批判などがそれだというわけです。中野??窪川(鶴次郎)はこれに屈したが、他の人々は屈しなかった。そこで宮本が直接乗り出してきてこんどは会運営について、実状無視のムチヤクチヤな文句をつけた論文を書いてきてきた。その論争が組織部責任者の大西さんと宮本顕治との間で行なわれた。宮本の反論はどんどん長くなってくる。それを長すぎるから少し短くしろと編集部が言ってもきかない。それを載せるか載せないか採決しろということで結局常任委員会で??だったとわたしは思いますが??採決して、一口で言えば共産党員が載せる、共産党にもどっていない共産主義者とリベラリストの委員が載せないという意見で五対五になった。そのとき議長役をしていた書記長の中野さんが載せることにし、同時に花田さんを編集長から罷免することも決定した。花田さんはそのときにはそのことが議題になることは知っていて出席しなかった。もし花田さんが出席していれば決定はかわったでしょう。しかし、こんな事態を出来させる状況はなくなるわけではない、たぶんそういう考えて花田さんは出なかったのです。

 花田編集長を罷免したあと、中野さんが編集長をかって出たのですが、花田さんに「文芸時評」を依頼し、花田さんは引き受けて罷免された翌月から文芸時評を三回書きました。最初の題が「シラミつぶし」でした。終回の十二月号の題が「別れの曲」です。

 これも知られた話ですが、花田さんは編集長時代文芸時評をやらなかった。主として映画・美術・演劇などのジャンルの批評をやっていた。というのは、自分の厳しい批評が、『新日本文学』の筆者を狭めたりしてはいけないということで、『新日本文学』だけでなく、他の、『群像』などにも時評風の文学評論は書かなかった。そういうふうに禁欲的に、集中してやっていた。「シラミつぶし」は戯文調だが内容は非常に厳しく、文壇文学の作品をかたっぱしからやっつけた。あまりそれがすごかったので、高見順が「作家がいっしょうけんめい書いた小説を、“シラミ”とはなんだ、けしからん。花田はゴロツキだ」とやった。それで有名な「ゴロツキ」論争になった。その中身と経緯は、お配りしたわたしの文章〔「社会評論」一九七六年一月号のコピー〕に書かれています。

 花田氏の論争を貫く「モラリスト批判」の意味

 高見順も戦前の運動の参加者で、戦前に転向をし、戦後は文壇の中心にあって「最後の文士」をきどっていた。そういう人の文学観・文学運動観と、花田さんの文学観・文学運動観との正面からの激突であって、それは結局、日本文壇文学の価値判断と、新しい価値判断を打ち立てようという花田さんとの対立でした。それは芸術論をめぐる論争となって行きました。二〇世紀的アヴァンギャルド芸術の方法をどうみるか、です。花田さんは日本のプロレタリア文学に欠けている

ものとして、インターナショナルな、世界文学のレベルとの比較における視野狭窄を変革したいと考えていた。とくにアヴァンギャルド芸術が切り拓いたものをどう摂取して社会主義的なリアリズムを新しいものにしていくかを追求した。それは革命ロシアの文学でも充分ではなく、これを本当に起こしていくにはどうすればよいかを問い、それによって戦前のプロレタリア文学を新しく現代的なものとして生き返らせていきたいと、考えていた。花田さんの考えを充分ではないにしてもある程度わかってその意図の実行を新日本文学の創造運動に取り入れようとしてきたのは、旧作家同盟の中では中野さんだったようにわたしは思います。しかし、その中野さんが自分の考えを厳しく貫けなかった??宮本におさえられたのだ、とわたしは思います。

 この「モラリスト」論争は、先行する『近代文学』の主体性理論に基礎をおくモラリズムと、文壇文学の中にあるモラリズムの考え方とが、同根であることを明らかにしました。花田さんはこれこそ、日本文学が克服していかなければならないものとして、『近代文学』派と文壇の代表としての高見順らとの両者を論敵としての数年にわたって断続しつつ論争を展開していさます。

 この間にわたしは吉本さんと仕事をしていく??すなわち「文学者の戦争責任」の問題の追求がそれで、二人の協働作業がなされるのですが、やがて問題のとらえ方が、わたしと吉本さんとには相当の違いがあることが相互にわかってきます。それがのちにわたしと吉本さんとの論争につながっていくわけです。しかし、その前に、吉本・花田論争がくりひろげられることになります。

 このときの花田さんの論もすでに「モラリスト批判」の中で展開されてきていたものです。花田さんの問題提起は、日本近代文学に根幹からの変革を突きつけるものとして、少なくとも「芸術の革命」をめざす者は受け止めるべきだったのです。

 花田?吉本論争を想うと、このときの『近代文学』派、とりわけ埴谷さんの誤りが大きかった、とわたしは思います。花田さんとの論争では『近代文学』派の人たちは、つまりは山室静流の反共主義にゆきつくほかはなく、そうなりたくなければくぐもらざるをえない??本来なら、『近代文学』同人は花田さんの問題提起を正しく受け止めて、文壇文学的伝統との対決に進むべきだったのに、そうした最後のチャンスを見送ったばかりか、やがて始まる吉本さんの暴力的な攻撃に代弁者を見出したように喜び、これに追随し、これを称揚するというようなことをやった。埴谷さんは、のちの吉本さんとの論争でいくらか自分の誤りに気づいたのではないかとも思われますが、もう遅かったでしょう。??結局その結果、あの人たちがやろうとしたことは宙に浮いたままの状況を生み出して、かれらの仕事はいますべて終わろうとしています。

 思い返してみますと、戦争中、花田さんが「文化再出発の会」をつくって『復興期の精神』を書きはじめたとき、コミュミズムの立場からもう一度抵抗を組織しようとしたのでした。一方、そのとき埴谷さんは、『構想』という同人誌をつくってそこで『不合理ゆえにわれ信ず』を発表していった。超個人主義、非合理主義の追求です。対照的な二つの道の岐れめは、すでに戦争中に根ざしていた。一九三九年に二つの道が同時に出発していくわけです。戦後、両方ともその方向を一貫して、死ぬまで歩みつつ、闘っていたわけです。花田?埴谷の対立は表面、花田?吉本論争のようにはならなかったけれど、にもかかわらず、埴谷さんは吉本さんに自分の代弁者、後援者、後盾をみていた。その誤りからどんな教訓を引き出すか??それは今後のわたしたちに遺された課題でしょう。

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