第二次解党派の転向、水野成夫の転向論理考

 「佐野、鍋山両名による共同被告同志に告ぐる書」による大量転向の先駆けに水野成夫らによる第二次解党派の転向があったことが案外知られていない。れんだいこが知らなかったということは、他の人も多分に然りであろう。れんだいこは、先輩からその指摘を受けて知らされ、ここにサイトを設けた。まだまだ要領を得ないが、第二次解党派の党史的地位を確認しておくことが必要であるように思う。

 2004.11.27日 れんだいこ拝


【福本イズムの後継候補・水野成夫の転向動機考】
 田中清玄らにより武装共産党時代が展開されている最中の1929年から30年にかけて、3.15事件で検挙されていた河合悦三、水野成夫(関東地方委員、市ヶ谷刑務所に収容されていた)を中心とする中堅幹部らによる「転向現象」が発生している。これを仮に「第二次解党派の第一次大量転向」と名づけることにする。

 「第二次解党派の第一次大量転向」は、理論的にも実践的にも4年後の「佐野・鍋山共同声明による第二次雪崩転向」の先駆けとなっており、注目に値する。まず河合が解党上申書を提出、水野が追随した。他に、村山藤四郎、是枝恭二、浅野晃、門屋博、福本和夫、佐野文夫、稲村隆一らが同調した。

 この転向現象を読み解くには、当時の複雑な党内事情を踏まえねばならない。この流れをリードしたのは水野であったが、水野は熱心な福本イストとして頭角を現してきた経緯を持っている。もっとも、福本は次のように述べている。
 概要「労働派のリーダーとして知られる水野成夫君は、あたかも私が入党せしめたかの如く徳田君や志賀君らは誤解して、あるいは、しいて曲解して、私を非難していたものだが、何ぞはからん、私がまだ山口にいて、上京もせず、従って、グループに関係していない以前に於いて、産業労働所長・野坂参三君の推薦によって、既にグループに加盟していたのが、事の真相である。それ故、ここで問われるべきは、私の責任よりは、むしろ第一に野坂君の責任ではなかったか」。

 水野は、本郷の菊富士ホテルにいる福本のところへ日参して薫陶を受け、福本の推薦で中央委員になり、福本失脚後も中央事務局長のポストにあった。その水野の転向はある意味で、福本イスト後継者の地位にあった者の党からの決別であったようにも思われる。つまり、水野の転向には、福本イズムの盛衰が影を落としていることになる。

 
そういう関係にあるので、福本イズムの盛衰を確認しておく。戦前日本共産党史考福本イズムの席捲、第二次共産党再建されるに記しているが要約すると次のようになる。

 1921年、第一次共産党が解党され、党中央は、合法主義化に向った山川派と非合法主義を貫こうとした原理派に分岐した。この時、彗星の如く現われ、第一次共産党の限界を見据えて新たな可能性を提起したのが福本和夫であった。「分離結合論」を振りかざす福本イズムは、諸潮流を向うところ敵無く論破し続け、党の再建を指導していき始めた。

 1926(大正15).12.4日、福本イズムの強い影響下で第二次日本共産党が再建された。この時採択された大会宣言は、「理論闘争の展開は真のマルクス主義意識を獲得せる革命的インテリゲンチャの結成をもたらし、労働者運動と結合するに至って今や我々は自らの間に存する折衷主義を克服しつつある」とあり、福本イズムが凱歌されていた。

 ところが、コミンテルンは、福本イズムに理論偏重と反コミンテルン的在地運動型の「セクト主義的偏向」を嗅ぎ取り、その台頭を危険視した。コミンテルン日本駐在員ヤンソンは、日本のソ連大使館内に福本イズムに染まった佐野と渡政を呼びつけ指導しようとしたところ論争となり、絶交に及ぶほど深刻な対立を生み出していた。

 翌1927年、この問題を解決する為、第二次日共の指導部は連れ立ってモスクワに赴いた。コミンテルンに着くとすぐさま見解の摺り合わせが行われたが、スターリン・ブハーリン派は厳しく福本イズムを批判した。福本たちは自分たちの福本イズムに絶対の自信をもっていたが、コミンテルンに明確に否定されると、その権威を恐れてか、福本本人も含めて誰も反論することができなかった。コミンテルン指導部の意向を嗅ぎ取った日共指導部は忽ち腰砕けになり、競うかの如くに福本批判を口にし始める始末であった。こうして、福本派の佐野・徳球・福本が中央委員から罷免され、山本懸蔵、国領伍一郎らが新中央委員に任命された。

 この経緯つまりコミンテルンにおける福本イズムの権威主義的否定が水野の転向を準備させることになる。福本イストとして有能な理論家として台頭しつつあった水野の胸中推して知るべしであろう。

 水野は更に次の体験をした。水野は、1952.3月号の中央公論で手記「苦境の味」を発表し、次のように伝えている。
 「中国に渡り、武漢政府の頃、共産党のファー・イースタン・ビュロー(極東事務局)の日本代表として、その時に初めて外国の十何カ国かの代表と一緒に一年近く暮らした。それはソ連の連中が中心で、現在の極東コミンフォルムみたいなものだったが、その時に行ってみて、自分の抱いているヒューマニズムとコミュニズムとが相容れないという考えを持つに至った。ある一つの国なり党派の目的達成の為には手段を選ばないということは、人類愛から出たヒューマニズムとは相容れぬということと、支那革命の現実を見、またコミンターンの指図や方針を眼の当たりに見て強く感じたので、帰国後当時の日本共産党中央執行委員長だった渡辺政之輔君にそのことを素直に云ったところ、『君なんかインテリだからそういう馬鹿げたことを云うのだ』と云って叱られたことがある。しかし僕は屈しなかった」。

 こうした心境にある水野は、三・一五事件で検挙された後、獄中で煩悶し続けた。恐らく、平田勲主席検事らとの思想闘争が展開されたものと思われるが、ここの件は詳らかにされていない。「苦境の味」には、「僕はその後間もなく投獄され獄中で二年余り熟慮の末、自分の信念に従って転向した。共産党員としての転向声明は僕が最初で、その為『水野を殺せ-』といって獄の内外からしきりに脅迫されたが、僕は屈しなかった」とのみ綴っている。

【水野の転向理論考】
 かくて、水野は転向した。その際の水野の転向理論を検証してみる。

 水野は、日共の創設から弾圧による解体、再建から更なる弾圧による解体という数次の経過から次のように判断した。
 意訳概要「党中央再建派が国家権力の弾圧にひるまずひたすら再建を目指して断固たる闘争を展開しているが、その前に日共運動の政治的敗北を認めるリアリズムを持たねばならない。党再建派にはこの政治的リアリズムが欠如している。政治的リアリズムに立脚しない限り、党は何度も挫折を繰り返すことになるであろう」。

 水野は、日共の敗北要因を探った。一つに、「党中央指導幹部の腐敗堕落の伝統」が認められるとしてこれを批判した。「党中央指導幹部の腐敗堕落の伝統」とは、党中央の待合遊興趣味体質であり、それらに起因する人間的不信であった。水野は後に日共党労働者派を結成するが、そのアジビラの中で次のように記して批判している。
 「革命の前衛隊たる日本共産党は、4.16までに闘い取った工場的基礎をすら殆ど失いつくして、腐ったインテリ、ヘナヘナ文士、マルクス・ガール、スパイ等々が党内を横行し、純真なプロレタリア分子は、革命的飛躍を前にしながら足踏みを余儀なくされている」(日共党労働者派中央執行委員会「政治テーゼの発表に当り全日本の革命的労働者諸君に檄す」)。

 次に、日共理論そのものについても疑問を覚え、これを次のように批判し提言した。
 意訳概要「これまでのコミンテルン拝跪型の党運動には次のような点に間違いが認められる。1・日本の状勢に適応せざる戦術の採用。2・それを促すコミンテルン盲従主義。3・それによる党の大衆よりの孤立。4・君主制廃止スローガンの急進主義。5・天皇地主寺院等の土地の無償没収スローガンの原理主義。6・植民地問題における英米仏と日本の質の混同。以上の点に付き、それを誤りとして、解党の上で出直すべしである。

 君主制に対する対応に意見有り。君主制廃止のスローガンは日本の国情に適しないから直ちに撤回すべきである。日本国家の特殊性に鑑み、日本の歴史的事情実情を踏まえた合法党活動に邁進すべしではないか。間違った方針に基づく党運動は犠牲の御多くして実らない。大衆からも見放され、その挙句自滅せざるを得ないであろう」。

 水野は概要以上のように主張し始め、それを獄中手記に認(したた)め、これを獄中同志の回覧に附した。水野の手記は反響を呼び共鳴者が続出した。結果的に、水野の手記は、「獄中下の解党運動」となった。

 党中央は、水野らの第二次解党派を除名した。次のように批判している。
 「党の敗北を宣言し、コミンテルンとの分離と党の解散を唱え、又7月テーゼの中心たる君主制の廃止、地主社寺政府の土地没収のスローガンを放棄するのは、右コミンタンの決定を根本的に覆し、党及び同盟を小ブルジョア的改良主義の泥沼に陥れる裏切者にして、労農一派と何ら選ぶ所なく、党の在来の革命的伝統を無視し党を全く武装解除せしめんとするものなり」。

【水野らによる日本共産党労働者派の結成及びその後考】
 1930.4月、水野が保釈出獄する。獄中の共鳴者も相次いで保釈出所されたことにより、6月上旬、水野らは、「日本共産党労働者派」を結成し活動を開始する。「日本共産党の一揆主義、小ブルジョア革命主義的インテリ分子の排除が絶対に必要であり、日本の左翼運動を真に大衆的基盤の上に建設し、その発展のためには労働分子の奮起が絶対に必要である云々」なる声明書を発表し、各自が地下運動を開始した。

 そのメンバーは次の通り。水野成夫、門屋博、浅野晃、豊田直、南喜一、村尾薩男、河合悦三、中村義明、島上善五郎、五十嵐信雄、喜入虎太郎、山添直、上野邦雄、管稔、唐沢清八、田中稔男、宮原省久、大山岩男、関根悦郎、菊田善五郎、湊七郎、曽田英宗、藤井米三、村山藤四郎、是枝恭二、福本和夫、佐野文夫、稲村隆一、冬野猛郎、杉本文雄、藤沼栄四郎、春日庄次郎ら。


 翌年3月、中央委員会を組織して「政治テーゼ草案」を発表、機関紙「赤旗」を発行、約二年間共産党と対立する共産主義グループとして活動を続けることになる。しかし、党中央再建派の反発も激しく、唐沢清八、沼田、河合、春日、冬野らが分派活動の誤りを自己批判し党に復帰した。「日本共産党労働者派」は資金も欠乏し、1932.7月、山添直を除き全員が自首したことにより消滅した。

 獄内の佐野学は、この解党派に対し、1931.2.23日付で概要「解党派の上申書を読んで、思わずも昨日の党の同志は今日は党仇の敵と感じた。階級的裏切り行為であり敗北的社会民主主義者へと転落している」との上申書を出し、徹底的批判を加えた上で公判闘争に臨んだ。しかし、その佐野が暫く後に同じ道を歩むようになる。


 「日本共産党労働者派」の運動には、後の絡みで見逃せない「天皇制下のマルクス主義模索」という特質が認められる。これを確認しておく。水野らは、日本の天皇制の特殊性に注目し、君主制廃止の一般理論で天皇制批判に向う非を衝いた。曰く、概要「我が国の天皇制は、二千五百年に亘る皇統連綿性を特徴としており、それは、ロシアのツアーリズム等諸外国の君主制と決定的に異なっており、民族的信仰の中心として広く大衆に支持され、敬愛されている。君主制廃止、皇室の土地没収政策は賢明でなく、党のスローガンから撤回せねばならない。これらのスローガンが民衆と党とを分離し党が自らを敗北に追い込む最大の誤謬である」。この観点は後に更に深められ、「皇室中心主義的体制下での変革運動、主として君側の奸の排除運動」にまで辿りつくことになる。

 この時の水野らの労働者派の運動が、後の佐野・鍋山の転向を用意することになる。

 
水野は転向後、南喜一と共に事業家へと転身し、国策パルプを興す。戦後は、文化放送の社長、産経新聞の経営者となり財界活動の一翼を担うことになる。概要は「産経新聞社考」に記した。たちまちは以上を記しておく。


 2004.11.24日 れんだいこ拝




(私論.私見)