第10部−241 解党運動史考

 れんだいこの「転向論」は思わぬ副産物を生んだ。「戦前日共運動における解党運動史」について考察しておこうという気持ちになった。今までこの観点から考察されていることがあるのかどうか分からないが、無ければ問題であろう。れんだいこがこれに着手する。

 当然の事ながら「戦前日共運動における解党運動史」は「戦前日共運動史」に随伴している。れんだいこは、第一次共産党の解党時の解党派の運動を「第一次解党運動」と名づけることにする。第二次共産党の解党時の水野ら解党派の運動を「第二次解党運動」と名づけることにする。「佐野・鍋山声明」によって引き起こされた解党派の運動を「第三次解党運動」と名づけることにする。宮顕派により引き起こされた党中央簒奪運動を「第四次解党運動」と名づけることにする。それぞれについて該当箇所で論述しているので、ここでは第一次から第四次に至る流れのアウトラインをスケッチしておくことにする。

 思うに、これだけ連綿と転向が続いてきた事情には、治安維持法下の圧制という外因的事由にのみ注目すべきだろうか。党の側にも転向を促す要因を胚胎させており、これに対する真摯な検討を為さずして経緯させたことに内因的な転向現象を常時随伴させた、と読み取るべきではなかろうか。そういう関心を念頭に置いて以下検証に入る。

 2004.11.28日 れんだいこ拝

 1922(大正11)年7.15日、第一次共産党が設立された。その時の主要メンバーは、堺利彦・山川均・近藤栄三、吉川守國、橋浦時雄、浦田武雄、渡辺満三、高瀬清。

 党創立時に綱領討議をしたが意見が纏まらず継続審議となり採択されなかった。何処が紛糾したのかというと、主として「君主制の廃止」スローガンを入れるべきか入れざるべきかを廻ってであった。これが問題になる背景に1910(明治43)年の「大逆事件」(幸徳秋水らが検挙され翌年刑死の憂き目に遭った)の影響があった。結局、当局の弾圧激化を徒に招くだけとの配慮からこのスローガンが採択されなかった。その他、党創立の時期尚早論、ブルジョア革命かプロレタリア革命かの戦略論、「アナ・ボル論争」総括論を廻っても意見が対立した。

 この時代の党運動は、「堺利彦・山川均・荒畑寒村」が指導した。興味深いことに、この三名は第一次共産党解体後、新党として労農党を立ち上げ、在地型且つ合法主義的左派運動を展開し、戦後も共産党に与せず、日本社会党左派を形成していくことになる。してみれば、社会党左派こそ日共の生みの親としての元祖系譜に列なっていると云えそうである。

 1922(大正11)年11.5日よりコミンテルン第4回大会がモスクワで開催され、この時の大会で日本共産党が正式に承認され、これによって日本共産党はコミンテルンの一支部としての公認資格を得ることになった。この時、活動方針として「日本共産党綱領草案」(「22年テーゼ」)が与えられた。この「22年テーゼ」が、日共運動の最初の党綱領となる。

 「22年テーゼ」は、1、日本資本主義の封建制度の威力認識。2、国家権力のブルジョアジと大地主とのブロック制。3、ブルジョア革命からプロレタリア革命への「順序式二段階革命論」。4、スローガンとしての君主制の廃止、土地国有制、ソビエトロシアの承認等々を掲げていた。度5、その他スローガン度次のように指針していた。

 1923.3月、臨時党大会が開かれ、「22年テーゼ」の採択を期したが又も「君主制の廃止」スローガンを廻って議論が紛糾、継続審議となった。結局、第一次共産党時代においては「君主制の廃止」スローガンは日の目を見ることなく潰(つい)えている。

 1923(大正12).6月、「6月事件」で、堺利彦ほか二十数名が検挙される。9.1日、関東大震災時の内務大臣・後藤新平−官房主事・正力の指揮下での社会主義者、アナーキスト、朝鮮人、中国人虐殺に震え上がり、党員の意気阻喪し、ほとんど壊滅状態に陥る。

 これにより、この当時の指導部が誰かは不明であるが、赤松、野坂が解党派として立ち働き、堺利彦、山川均、猪俣津南雄、田所輝明らがこれに同調した。これを「第一次解党運動」とする。これに反対したのは、荒畑寒村と高瀬であった。

 1924(大正13).2月、佐野文夫、市川正一、荒畑勝三、徳田球一、野坂参三の5名が会議し、党の解体を決定した。第一次共産党は1年8ヶ月の短命を終えた。以降1926年の再建までほぼ2年間、日本共産党は存在しなくなる。この間「ビューロー時代」となる。

 コミンテルンは、コミンテルン日本支部としての日本共産党の解党に激怒し、再建を企図する。これを指導したのが表の顔が佐野学、裏の顔が徳田球一であった。この頃、福本イズムが台頭しており、この理論武装の下で共産党の再建が進んでいく。

 1926(大正15).2月、コミンテルン執行委員会幹事会は、「日本問題の決議」(「26.2月指針」)を採択している。これが先駆となって「27年テーゼ」の作成に向かうことになる。「26.2月指針」は、1924年から25年の護憲三派内閣の成立に続いて憲政会単独内閣が成立したことを評価して、「世界戦争の間に日本の資本主義は急激な発展を遂げ、爾来地主のヘゲモニーのもとにあった資本家・地主のブロック政権は、今や完全にブルジョアジーがそのヘゲモニーを握るに至った」と規定し直していた。「27年テーゼ」は「26.2月指針」のこの点に関する規定を継承し、更にこれを明白にしていくことになる。
 1926.12.4日、第二次共産党を創出する。その時の主要メンバーは、中央委員長の佐野文夫、中央委員の福本和夫、渡辺政之輔、徳田球一、市川正一、鍋山貞親、中尾勝男、佐野文夫、河合悦三、高橋貞樹ら17名。この時の大会でも綱領の採択には至らなかった。福本イズムの観点の濃い大会宣言が採択されたが、コミンテルンの指導テーゼと食い違っていた。コミンテルンは、日共の再建を喜んだが、福本イズムを敵視した。

 1927(昭和2).1月、第二次共産党の指導幹部(市川正一らを残して大部分の幹部)はこぞってモスクワへ出向き、コミンテルンとの見解のすり合わせをせんとしたところ、コミンテルン議長の要職に就いていたブハーリンは頭ごなしに厳しく福本イズムを批判し、この時党幹部達は福本本人も含めて誰も反論することができなかった。結果、佐野・徳球・福本が中央委員から罷免され、山本懸蔵、国領伍一郎らが新中央委員を任命されるという事態になった。

 モスクワに行った日本の党の代表者同志はコミンテルンの指導のもとに新テーゼ作成に向かった。7月、渡辺政之輔らが中心となり、ブハーリン自身が手を加えた「日本問題に関する決議」(「27年テーゼ」)が作成され、その後の党活動の指針にされた。

 「27年テーゼ」は、「22テーゼ」を更に日本の現状に合った形で規定し直し、日本の共産党とコミンテルンの関係を明確にさせていた。「日本の国家権力の質の規定問題」を廻って、概要「日本資本主義の世界大戦中における発展の結果、日本の国家権力は資本家と地主との反動的ブロックの手にあって、従来はそのヘゲモニーが地主的勢力のもとにあったが、今や完全にブルジョアジーの手に移り、そのヘゲモニーのもとに反動的ブロック政権が運用されるに至ったことを強く示している」と規定しなおした。革命戦略論に於いても、「ブルジョア革命からプロレタリア革命への強行転化式二段階革命論」に規定しなおした。

 コミンテルンが濃厚に関与した「27年テーゼ」により、第二次共産党の路線が定式化された。 「27年テーゼ」は、山川イズムも福本イズムも批判していた。これにより山川均を主唱者とする山川イズムが共産党から離脱していくことになった。この流れがその後労農派となる点で見逃せない経過である。

 11月、日共から離党していた山川、堺、荒畑、猪俣津南雄、大森義太郎、向坂逸郎らが、雑誌「労農」を創刊、第二次共産党に対抗する社会主義者の団体としていわゆる労農グループを形成した。ここから日本マルクス主義運動に労農派という流れが生まれることになる。

 労農派の注目すべき点は、妙なことだが、日本の国家権力をブルジョアジー全権国家と規定し、故に「当面する革命の性格を社会主義革命」と規定していたことにある。いわゆる急進主義規定であるが、ならば革命的な闘いを組織するのかと云えばこれが逆となり合法主義的な穏和化運動を指針させることになる。要するに、「天皇制絶対主義を打倒するブルジョア民主主義革命を指針させる共産党の戦略規定を退ける」為に考案された急進主義規定でしかないところに変調さが認められる。

 ここに、日本左派運動馬鹿さ加減が知られる原型スタイルとしての「口と行いが相互に逆現象」が認められる。どういうことかというと、当時、左派に位置していた日共が革命戦略論として穏和化規定に引きこもり、その癖天皇制問題については特殊急進主義化する。これとは逆に、右派に位置していた労農派が革命戦略としては急進化規定を掲げ、その癖行動指針としては穏和化する。すっきりしないこと夥しいが、自称インテリがよってたかってこういうペテン運動に夢中になる。これらの精神にあるのは何なのだろうか。

 1928(昭和3年).3.15日、1道3府27県にまたがる検挙1600人余、起訴900人に上る大弾圧を受けた。「1928.3.15事件」は、治安維持法の大規模且つ全国的適用の最初の事例となった。共産党は、ほとんど態勢を立て直す間もなく、「中間検挙」を迎える。
 「3.15事件」直後、難を逃れた渡政、鍋山、市川、三田村の4名で常任委員会が作られた。これを福本、村山藤四郎が補佐した。「3.15から4.16までの間を指導したのが市川。28年夏のコミンテルン第6回大会の日本代表として参加し、帰国後先頭にたつ。反戦テーゼ」とある。こうして直ちに再建に着手している。この時期袴田らクートベ留学生が帰国して活動している。
 6.29日、緊急勅令で治安維持法が改訂され、それまでの最高刑が10年以下の懲役又は禁固とあったのが無期懲役、最高罰として死刑までと厳罰化させられている。なお、この法改悪により、党員でなくても自由に検挙し得る法的裏づけが為された。これに伴い特高警察が大拡充され、7.3日、国外の要所、国内の主要検事局にくまなく配置されていくことになった。

 警視庁特別高等警察部の初代特高課長は毛利基であり、部下に山県為三警部らが位置していた。これにより共産党に対する取り締まりが格段に強化されることになり、情報収集、スパイ(内偵)政策も本格化していくことになった。仕立て上げたスパイの党内地位を高めていくことで、より正確な情報が得られることになる。「筋の良いスパイを仕立て使うこと」が、目論まれていくことになった。

 7月から9月の初めにかけてコミンテルン第6回世界大会がモスクワで開催された。この大会は1924年の第5回大会以来の4年間における国際革命運動の経験を集積した上に開かれた大会であって、又最初のプロレタリア世界綱領たるコミンテルン綱領を討議決定すべき重大な大会であった。この重大なコミンテルン世界大会に日共は、3.15検挙という打撃にも拘わらず、数名の代議員の派遣を決行した。コミンテルン世界大会に日本国内から数名の代議員が出席したことは今までに無いことであって、コミンテルン大会の発展と日本共産党の発展を物語るものであった。

 この大会では、第一にコミンテルンの綱領、第二に国際情勢とコミンテルンの任務に関するテーゼ、第三に国際情勢の中心である帝国主義戦争の危機に関するテーゼ、第四に植民地革命運動に関するテーゼ、最後にソビエト連邦の情勢に関する決議が議題にのぼった。こういう重大な諸決議に対して、全世界の隅々から集まった代議員は長時間の熱烈な討議を行い、これら全ての画時代的意義のある綱領やテーゼが決定された。日本の代議員団はもとより全世界の同志達に伍して積極的にこの討議に参加して、これらの綱領ないしテーゼの作成に力を尽くしたのであった。

 大会は日本の革命運動の発展に対して注意を払い、その国際情勢に関するテーゼの中で「日本問題に関する決議」(「28年コミンテルン第6回世界大会指針」、以下、「28年指針」と云う)が為され、日本共産党の大衆化、労働組合・農民組合への指導強化指針を示していた。その他方で、合法的労農政党と共産党の峻別を為し、「労農党及びいわゆる左翼政党に対して、共産党はその根本的な大衆的性質を明らかにし、共産党のみがプロレタリアの党であり、労働者・農民の唯一の味方であることを強調しなければならぬ」と述べている。

 「28年指針」がこの年の秋から冬にかけて日本の党にもたらされ、日本共産党の新たな前進の一歩に拍車を加えることになった。4.16の大検挙までは短い間であるが、日本共産党の「偉大なる発展の時期」となり、重要な諸活動があった。新指針は、3.15以来の数次にわたる検挙によって打撃を蒙っていたにも拘わらず、全党員と革命的労働者を奮い立たせ自己犠牲的英雄的な活動を生んでいった。

 革命的大衆が生み出され、工場、農村においてグループが形成され党の予備軍的な革命的組織、労働者を創出していった。彼らは党のその後における、なかんずく4.16の大検挙以後における党の再組織の為の絶えざる新しき源となった。それまでの小ブルジョア的なインテリ集団から革命的労農党への転換が進行していった。


 1929.4.16日、漸く再建に取り掛かりつつあった最中またしても大弾圧を食らうことになった。再び全国的な一斉弾圧が見舞われ、800余名が検挙された(る「1929.4.16事件」)。鍋山、三田村、市川を除き、「3.15事件」の検挙から残った党幹部のほとんどが捕まり、党指導部は実質的に一旦壊滅する。「中央部がやられ、国際組織も壊されてしまった。労働組合の細胞も同様だった。労組、農民組合、みな組織して固まるからそこを根こそぎやられた」(田中清玄「田中清玄自伝」)とある。

 1928(昭和3)年の「3.15事件」、1929(昭和4)年の「4.16事件」によって第二次共産党が瓦解させられた。以降、共産党は獄中に存在するという「獄中共産党」の時代となり、この「獄中共産党」が転向派と非転向派に分岐していくことになる。

 1929(昭和4)年7月頃、「3.15事件」、「4.16事件」の両弾圧から免れることに成功していた東京の第3地区委員長・田中清玄(当時22才)がモスクワから帰った佐野博と共に、二人を中心とする指導部を構成し、党を再建した。田中清玄執行部は、党史上初めて武装ストライキや武装メーデーを指針させたことに特徴が認められ、今日「武装共産党」時代と言われている。

 この執行部時代はスローガンや戦術は先鋭化したが、特高の追撃も一層厳しさを加えることとなり、赴くところ大衆闘争との接点が失われていくことになった。この時以降の傾向として、党活動は、労組等の組織建設の替わりに街頭連絡を主とするようになった。党の活動が地下へ地下へと余儀なくされつつ追い込まれていくことになった。

 1930年(昭和5年). 5月、田中清玄は、日本共産党の代表として、日本共産党再建大会の報告書を届けるため、コミンテルン極東ビューローのあった上海に渡航している。当時、周恩来がコミンテルン極東部長、アジア局長がフィンランド共産党の創立者クーシネン、極東担当はヤンソンであった。

 1930(昭和5年).7.14日、武装共産党時代の委員長・田中清玄氏が検挙される。14日から17日にかけて武装共産党時代のメンバーの大半が検挙されるにおよび壊滅させられた

 1931(昭和6).1.8日、風間委員長らが党中央ビューローを再建させた。1931年の「満州事変」等、日本が「非常時」に入った時期の共産党であることから、通称「非常時」共産党と呼ばれる。
 この時、コミンテルンのサハロフ等のプロフィンテルン東洋部によって作成された「31年テーゼ草案」が発表され、後にも先にも党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階(直接)革命論によるプロレタリア社会主義革命を指針させている。「当面する革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広範囲で包容するプロレタリア革命でなければならぬ」としていた。「31年テーゼ草案」は、クートベ帰りの風間丈吉により持ち込まれた。

 1932(昭和7)年頃、「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロツキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。

 コミンテルン執行委員会常任委員会議で東洋部を主宰せるクーシネンが責任者となり、日本代表として片山潜、野坂参三、山本懸蔵、岡崎定洞、山本正美、源五郎丸芳晴らの参加の下に討議が進められた。こうして翌1932(昭和7).5.20日に「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(「32年テーゼ」)が発表された。この「32年テーゼ」が、昭和26年の「51年綱領」までの日本共産党の指導テーゼとなる。

 「32年テーゼ」の問題性は、内容以前の問題として、この当時の日共指導部の意識がコミンテルンの指導と権威によって自己の正しさを裏付けようとする「国際的権威主義」に対する拝跪主義にあった。しかもコミンテルン自体が変質し、革命の祖国防衛という美名の下に大ロシア主義に転化してもなお「国際的権威主義」に基づこうとしたことにあった。この権威主義は日共の悪しき特質として別途論ぜられねばならない。

 山本正美は、戦後の回想「激動の時代に生きて」で次のように述べている。「正式な党の代表といわれる人が一人も参加しないで作成され、コミンテルン執行委員会名でなく、コミンテルン日本支部の指導と、32年テーゼの作成に当っていた東洋部でもない、それこそ縁もゆかりもないといえばいい過ぎだろうが、コミンテルンの一部局である西欧ビューロー名で発表されるといった状態は、どう考えてみても『民主主義的』であったとはいえないだろう。たとえば当時モスクワには片山潜と山本懸蔵がいたが、片山は前にもふれたような事情で日本問題の審議には前々から関与させられていなかったし、山本はプロフィンテルンの代表ではあっても、コミンテルンの代表ではないとして、党の指導の問題には最初から除外されていた。のちに共青の代表として源五郎丸芳晴が、次いで野坂参三が来たが――野坂は党の正式代表として入ソしたものでないことは風間の書き残したものから明らかだが、その後日本共産党の上部機関であるコミンテルン執行委員会が彼を正式代表として指名したようである――そのときには32年テーゼの骨格はすでにできあがっており、彼はその最終段階で関与したにすぎなかった。このような状態で、日本人として32年テーゼの作成過程に最初――実質的には途中――から関係したのは、肩書きは単なるコミンテルン東洋部の一日本人職員にすぎなかった私だけであったというのが実情である」(112ー113頁)。

 「32年テーゼ」を共に作成したヤ・ヴォルク、マジャール、サファロフ、ミフらも、「テーゼ」に反対したロゾフスキー、ヤンソンらも、まともな裁判も受けられず、墓所も不明のままロシアの闇の中に葬り去られているとのことである。 

 「32年テーゼ」は理論的にも大きな問題性を抱えていた。革命戦略論において先の「31年テーゼ草案」を批判し、再び「27年テーゼ」の線に戻していたが、「31年テーゼ草案」が戦前日共党史上評価に耐え得る内容を秘めていたことを思えば惜しくも流産させたことになる。その一方で、天皇制打倒の強調においては生硬な理論付けをしているところに特質があった。帝国主義戦争の性格を分析し、日本の支配体制を「地主」及び「独占ブルジョアジー」そのブロックの上に相対的独自性を持つ「軍部およびこれと密接に関連し、部分的には金融資本から独立した天皇制」の役割を見据え、日本の国家権力を絶対主義の一種としての「絶対主義的天皇制」と規定した。この規定から、「日本においては独占資本の侵略性が絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている」云々と分析し、「君主制の打倒と地主的土地所有の廃止のための闘争」が優先的課題となると指針し、当面する日本革命の性質を「ブルジョワ民主主義革命」と規定した。但し、「社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと関連付けていた。これを「強行的転化式二段階革命論」と云う。

 明らかに、前年の「31年テーゼ草案」と比較してかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていたことになる。ただし、この新テーゼは、 他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという強硬方針を掲げていたことから、運動としては急進主義的な部分をも取り込んでいた。また、「日本における『革命的決戦』が切迫しているという主観主義的な情勢評価」や「『社会ファシズム』論をいっそうはっきり定式化」していた。

 このように性格の違うテーゼが相次いで出された結果、この間日本共産党執行部の方針も一向に定まらず獄中党員もまた大きく困惑せしめられることになった。先に、「31年テーゼ草案」が、それまでの「27年テーゼ」を「日本資本主義の現状に対する評価の誤謬」と明言したとき、獄中の佐野・鍋山・市川は、「かかる国際的最高機関に於て承認された決議を後になって誤謬であるとか変更を必要とすると云ふことはあり得ないから『1927年テーゼ』の誤謬と云ふ事は絶対に許すベからざることと思ふ」と意見を述べていた(「政治テーゼ草案に対する佐野・鍋山・市川等の意見」。

 しかし、「共産党は獄内・獄外を問わずこの31年テーゼ草案を一致して支持していた。3.15と4.16の合同公判における市川正一の代表陳述もこの思想につらぬかれている」(石堂清倫)とあるように「31年テーゼ草案」が新指針として受け入れられていったことも事実である。ところが、そうした状況の上に今又「31年テーゼ草案」が否定されて「27年テーゼ」の主張と同じ「32年テーゼ」になったのであるから、獄中闘士たちの内心の動揺は大きかった。これが転向への伏線となっていく。

 
日共公式党史『日本共産党の七十年』(1994年)は、次のように記述している。概要「32年テーゼは、1931年の政治テーゼ草案の誤りをただすとともに、27年テーゼをもさらに発展させたもので、わが国の革命運動のすすむべき道をしめす画期的な方針」、「日本帝国主義の前途を正確に見とおしたものであり、科学的社会主義の先見性をみごとに確証したもの」と高く評価している。その作成経過については、「コミンテルンでは、1931年から32年にかけて、片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して、日本問題の深い検討がおこなわれ」た結果だという。実質的な唯一の作成関与者山本正美の名前は、政治的理由で抹殺されている。
 「1928.3.15事件」から二年後、「第二次解党運動」が生まれている。その推進者は水野成夫らであった。それから4年後、「佐野・鍋山声明」によって引き起こされた解党派の運動を「第三次解党運動」が発生する。


 それでも辛うじて党線が維持されていた。その最後の党線の牙城に襲い掛かったのが、その頃党中央簒奪に成功した宮顕派であった。これを「第四次解党運動」とする。「第四次解党運動」は、党中央の座からこれを暴力的に推進しており、少し異質な解党運動ではある。




(私論.私見)