第10部−282 戦前の女性解放運動との絡み

 幹部の一人であった福本和夫(ただし27年テーゼ以降は失脚して幹部ではなかった)も、三・一五事件後の中間検挙において検挙されるが、彼と「女子学連」との関係は格好のスキャンダルとなった。福本は、共産党の指導理論家だった時期以降、「女子学連」の女子大生を中心に10人近くと「恋愛関係」を結んだとされている[畠山1930]。

 この件を論じる山川菊栄は、共産党検挙の女性党員をめぐるスキャンダラスな報道を批判しつつ、福本和夫個人については「某氏の変態行為」と呼び、「性関係における趣味の如きも、個人的特異性に帰すべきで、一般的、階級的な特徴とすべきでなく、謂わんや階級理論をそれと結合して解釈すべきではない。……某氏個人の変態的な趣味は、党そのものゝ政策や行動とは峻別せられねばならぬ」と、個人に責任を帰して批判する。あくまで共産党自体の批判を避けていることが注目される[山川菊栄1930:194]。

 なるほど福本の件については、個人の「趣味」という側面が大きいだろう。だが、そうしたスキャンダルがいくつも生じるとしたら、「党そのもの」あるいは共産主義それ自体の問題から発した可能性はなかっただろうか。三年後山川は、先にも触れたが、「エロ班」などの報道に接して、今度はさすがに共産党それ自体を批判することになる。だがそのときも、「階級的立場から見て、まさしく極刑に価するものである」という形で共産党を批判するのだ[山川菊栄1933]。こうした山川の視点は、階級闘争と女性解放の一体性を前提としていると言えよう。

 だが、タテマエ上は一体ではあっても、当時の実際の「階級闘争」の実践においては女性解放は全くといってよいほど組み込まれていなかったのではないだろうか。単に個々の男性党員の女性蔑視だけではなく、当時支持されていた共産主義理論の中に、既に女性解放を妨げるものが刷り込まれていた可能性があったのではないか。

 このことをよく示しているのが、婦人労働組合に対する共産党の政策であろう。
 まず一つが、「評議会の婦人部問題」である。総同盟を割ってつくられた左翼労働組合の評議会は、創立直後には東京地方評議会と大阪地方評議会にそれぞれ婦人部をもっていた。しかし、総本部に婦人部を設置するか否か、という論争が1926年の評議会第二回大会で起こる。婦人部設置に賛成の側は、先ほど引用したばかりの山川菊栄を中心として、「女性の活動家たちはすべて」。それに対して反対派は、評議会の男性幹部の大部分である、すなわち「評議会の、ある意味では優れた男性活動家、幹部たち、この人たちは共産党の党員でもあり、コミュニスト・グループですが、殆ど反対の側にまわる」[鈴木裕子1989:120]。

 反対の理由はいくつかあったようだ。一つは「女性蔑視の気風」で、「男の幹部たちが婦人活動家を軽蔑する傾向がひど」く、「婦人部反対論者たちの態度には――口には出さなくても――組合の中に婦人部をつくると女どもが『なまいき』になって、邪魔になるだけだ、という態度」があったという[福永1982:141]。しかしより大きな原因は、賛成派の山川夫妻に対して、台頭しつつあった福本主義者が反対にまわったせいであったという。つまり山川イズムと福本イズムの代理戦争であったようだ。従って、この年の会議では婦人部問題は決着を見なかったが、党全部が福本主義に染まった翌年の大会では、たいした論議もなく婦人部設置は可決されてしまう。鈴木裕子によれば、こうした「女性問題」の扱い方それ自体が「女性に対する基本政策、ポリシーがない」ということを表している[鈴木裕子1989:121]。

 しかし、「女性に対する基本政策」が全くないのならまだよかったのかもしれない。逆にあったからこそ問題が起きたのは、関東婦人同盟の解散問題であった。関東婦人同盟は、1927年にできた無産婦人同盟で、「共産党系の運動に関係している」「アクティブな女性活動家が集まって」おり、「この時期一番活発に活動していた団体」であった[ibid:118]。だが、この関東婦人同盟に対して、共産党は、党中央委員長・渡辺政之輔と佐野学の「絶対命令」で突如解散を命令する。

 こうしたことが唐突に行われた理由は、持ち帰られたばかりの27年テーゼにあった。27年テーゼに基づく28年の「日本共産党の当面の政策」には「婦人対策」という一項があり、そこには「現在の婦人同盟は……当時指導方針に根本的誤謬があった為め、……全プロレタリア運動の発展にとって却って有害な作用をもたらそうとしてゐる」と結論づけている。その主な理由は「コミンテルンは婦人が男子と離れて婦人特有の政治団体又は労働組合を作ることを原則的に禁じてゐる」ことと「小ブルジョア婦人が指導権を握ってゐる」ことだ。そして、婦人だけの組織とならないように「改革せねばならぬ」[山辺編1964:120-121]。同じ趣旨の市川正一の論文を引用した後、福永操は「つまり、婦人が婦人だけの政治的大衆団体をつくったことが、日本共産党指導部をおこらせた根本理由であった。女どもは、あらゆる運動の戦線で、いつでも、男たちが指導し命令する組織の下部の侍婢として使われる立場にいなくてはならないのであった」と批判する[福永1982:226]。ここまでくれば、単に個々の指導者や党員の意識のみならず、当時の共産主義思想自体が、ある程度、女性差別と親和的であった、と言うことができるのではないだろうか。

 いずれにしても、急な解散命令に、関東婦人同盟では「党の直接指揮下にあった人々は誰も反対することができ」ず、「運わるく、そのときは三・一五大検挙のまっさいちゅうであったから、事情を説明したり討論するために婦人同盟員の大衆的な会議を持つことさえも不可能であ」り、「なみだを呑んで、その三月末に関東婦人同盟の『自発的解散』の声明を発表して姿を消した」[ibid:149]。さらに三・一五事件は評議会自体の解散も引き起こし、先ほどの評議会総本部の婦人部も消滅することとなった。こうして女性独自の労働運動は「第二次大戦後まで、もはや復活できなかった」[ibid]。

 関東婦人同盟の解散は、単に当時の共産党の公的な方針が含んでいた女性差別性を示しているだけではなかった。関東婦人同盟の解散はハウスキーパーに結びついている、と福永は言う。つまり関東婦人同盟のような活動場所が消滅した結果、共産党を目指す女子学生出身者は行き場を失った。当時は就職の年齢制限が厳しく、女子大を出た後だと労働者として職場に近づくのは困難であったという。そうした熱意はあるが行き場のない女性に対して「そのようなおんなたちに目をつけて、かたはしからひきぬき、あてがったのがハウスキーパーの仕事であった」[ibid:229]。






(私論.私見)