研究6 【「華僑青年闘争委員会」と新左翼との蜜月及び決別経過】
 1967.3月の善隣学生会館闘争に新左翼系学生が支援に入ることにより、華僑学生との間に共闘関係が生まれた。この共闘は、「日中青年学生共闘会議」結成へと発展していった。同共闘会議の運動は、1967.10,11月の羽田闘争、翌1968年の全国的な大学闘争の一翼を担い、また、華僑青年達の一部は華僑青年闘争委員会を結成して、それらの闘いに連帯し、出入国管理法案、外国人学校法案反対闘争へと結実していった。1970.7.7日華僑青年闘争委員会は、新左翼党派に訣別宣言を提起し、日本の左翼的な人々に対して、差別や戦争責任の問題の重要性を再確認させた。ところが、華青闘は1972年頃に方向性を失い、善隣学生会館からも追われたような形になる。

 とあるが、詳細は分からない。1967.3月号の中国研究月報に、「善隣学館闘争と我々の今後の闘い」(日中青年学生共闘会議という宣言が掲載されているが、次の一文をここに書き残すことにする。

 我々はブロレタリア国際主義について理論上でいつも口にしていながら、これを実践的にとらえることに欠けていた。したがって国際主義を心からの実感としてとらえることも殆んどなかった。友好はあっても戦斗的友誼はほとんどなかった。善隣学館斗争は、そうした頭の中だけのプロレタリア国際主義を実践的に検証し把握する重要な契機であった。あれこれのプロレタリア国際主義を書斎の中で論じているか、それとも斗いの中で学ぼうとするのか、それをはっきりさせることができた。では,なぜ善隣学館斗争はプロレタリア国際主義の真の実践場になったのか? 理由は簡単である。中国の同志たちのここでの英雄的な斗いが、単なる中国人留学生の生活、利益の擁護とか、狭い愛国主義の斗いとして斗われたのではなく、日本での反修闘争という世界的な課題、真のプロレタリア国際主義という世界的課題として斗われたからである。だからこそ、我々日本の青年学生の斗いも、最初は支援という形をとりながらも,それは直ちに中国の同志たちとの連帯した闘い、共同の闘いへと発展した。それが我々にとって、真のプロレタリア国際主義を把握させ、,実感させたのである」。

 「この斗いに参加した多くの青年学生、とくに学生の多くは、インテリにありがちな傾向として毛沢東同志の言葉たとえば『老三篇』などを自明のこととして真に学び実践しようとしない者が殆んどだった。(『老三篇』とは『人民に奉仕する』、『「べチューンを記念する』、『愚公、山を移す』の三篇である) 解放軍報社説にもあるように「『老三篇』は読んでわかりやすいが、それをほんとうに実行するのは容易ではない」のである。この斗争に結集した日本の青年学生、中国の青年学生は、それぞれの立場から種々な問題を提起し実践する中で、深刻に自己批判をした。あらためて『老三篇』の内容の重要性を知り、自己改造の必要性と人民への服務の重要さを確認することができた。我々の多くは『語録読みの語録知らず』であり『毛思想を唱える非毛思想者』であったことに気づかなかった。それがこの斗いの中でわかり、克服の第一歩をふみ出すことができた。
このことは単に我々の前進のみでなく、毛沢東思想の日本にかける実践の全路線にとっても、前進の足がかりとなるだろうし、又そうさせねばならない」。






(私論.私見)