研究4 【事件その後の経過】

【3.3日事件その後の経過】

 3.3日この日早朝から日共の動員部隊が、日中友好協会事務所と会館の周囲に配置されていた。「彼らの手によって華僑と中国人学生が血を流された場所で、さらに多くの人たちの血と生命を奪うため、棍棒、ヘルメットなど、暴力団の姿をいっそう露骨にあらわし、いまかいまかと襲撃の時期をねらっている。しかも彼らの真の友人である警官隊は、公然と彼らの行動を容認し、これに抗議する日中友好を願う人々に耳をかさず、彼らの手助けをしている」とある。

 日共の動員部隊の行動を具体的にあげてみると、3.3日未明、会館ちかくの巣窟に陣どっていた、約100名が、解散するようにみせかけ、4人あるいは5人づつ組んで、国電飯田橋、水道橋、地下鉄後楽園の各駅を結ぶ円内をぐるぐるまわりはじめた。日共の動員により新たな党員、民青同員などが電車やタクシーでかけつけ、先の動員部隊よりさらに会館にちかいところをうろつきはじめた。

 午前7時半、日共の宣伝カーが数しれないほどのヘルメット、棍棒などを積載して会館正面に横づけしてきた。しかし正面玄関に勇然とたつ日中友好勢力の姿をみて、いったん宣伝カーはひきあげた。しかしその後十分もたたないうちに、こんどは“取材“すると称する赤旗記者が会館にはいりこみ、続いて精悍な十数人の集団がドヤドヤと入館し、日中友好協会事務所にはいった。

 彼らの異様な服装の下には、ヘルメット、武器がかくされていたが、警官隊は彼らの入館に目をつむり又もや“陰の結託”ぶりをくっきりとあらわした。こうして、日中友好協会事務所内に武装部隊200名前後が潜み、いまかいまかと襲撃の機を待ち受けることになった。

 これに対し中共系は、日中友好協会正統本部、中国人学生、日中友好貿易青年連絡会、華僑その他友好商社などが団結して闘う体制を構えた。隊伍を組み交互にピケをはり監視体制に入った。刻々と変化する事態を敏感に察知し、昨日結成された闘争委員会は中国人学生自治会と一体になり、文字どおり日中両国人民が一丸となって勝利をめざして奮闘している。会館外においても、日中友好を願う人びとの暴力団「日本共産党」の残虐な反中国テロ行為に対する怒りは燃えあがり、それぞれが決意をかためて日中友好を守る闘争に参加してきている。

 そして闘争委員会は、これまでの闘争のなかから、われわれの闘争を正しく伝え、反中国暴力団のみにくい姿を大衆的に暴露する活動がいかに重要であるかを指摘し、午後十二時、闘争宣伝部を設立、ただちに宣伝活動にとりかかった。

 3.3日東京華僑総会もまた宮顕の指導する日共のニセ友好運動を厳しく弾劾する声明「怒りを込めて抗議」を発表した。同時に各地僑会、僑団に連絡して直ちに留日華僑抗暴擁権闘争委員会を組織し、善隣学生会館内に現地闘争本部をおき闘争体制を確立した。

 同じく3.3日、日中友好協会正統本部は、「善隣学生会館における反中国暴力団の狂暴なテロ行為についての声明」を発表し、正統本部を中心に貿易界、文化界、青年・学生、婦人など各界各層、各地代表で構成する「善隣学生会館防衛闘争委員会」を結成し、正統本部常務会を中心に、@・政治法律対策部、A・宣伝部、B・財政部、C・現地指揮部(正統本部の三好一を責任者、坂田輝昭を副責任者)を設置した。

 同じく3.3日、日本の著名文化人三十五氏は「友好の願いを踏み躙る」という声明を発表し、日共を強く非難した。この中には水上勉、内田吐夢、瀧沢修、木村伊兵衛、千田是也、中川一政など各界の著名人が含まれていた。

 3.3日、日共系全学連中央執行委員会が、声明「日中友好協会を支援する。華僑学生らの許せない侮辱と挑戦」を発表。

 3.3日事務所の占有使用の妨害排除仮処分、学生へ送達

 一方、財団法人善隣学生会館(管理人、守島伍郎氏)は、午後十時から緊急理事会を招集したが、これに対して闘争委員会、中国人学生自治会は「理事会が反中国暴力団に加わり中国人および日中友好勢力に暴力をくわえるのか、真の日中友好をおしすすめるわれわれの立場にたって反中国暴力団と徹底的に闘かうのか、立場をあきらかにすること。理事会としてはかならずや反中国暴力団と闘うという方針をとッていただきたいという旨の要請書を提出した。また、昨日、暴力団にニセ「日中友好協会」事務所にひきづりこまれ瀕死の重傷をおわされ、生命をあやぶまれている任政光氏の同僚中華書店からもこの理事会に、事件の経過を説明し「この事実をよく認識し、われわれの闘争を支持するように」との申し入れをおこなった。

 これらの事態の進行のなかで、午後6時から、日中友好勢力は、闘争の勝利をかちとるという決意にみちた大衆集会が、地階集会場でひらかれた。華僑報1999.9.15日「戦後華僑・留学生運動史(150)」に拠れば、「東京における華僑と日本側の両闘争委員会発足と同時に、大阪、神戸、京都、山口、横浜、九州など各地でも闘争委員会が成立し、各地での宣伝活動が繰り広げられ、また多くの人たちが善隣学生会館に駆けつけて現地での闘争に加わった。両闘争委員会は共同して、日共武装暴徒による華僑青年学生、日本友人襲撃事件の写真新聞及び事件の真相を暴露したパンフレットを大量に印刷して関係方面へ発送するとともに、多数の宣伝対を編成、東京都内各地の家庭や通行人の多い地点に写真を張ったり、パンフを配布したりして事件の真相を訴え大いに日共暴力団の正体を暴露した。一般のマスコミ報道もあって、都内は勿論首都圏の広範囲に宣伝が行き届いた。また、全国各都市で報告会や抗議集会が開かれ、ここでも写真新聞及びパンフレットが大量に配布された。こうして日共の反中国策謀と善隣学生会館における武装暴徒の華僑青年学生襲撃事件に対する日本国民の批判と非難の声は日本全国に広がっていった」とある。

 「当時、地下に食堂があって寮生を含めて常時二百名あまりの人びとが防衛にあたっていたが、食料は僑胞が米、肉、野菜、調味料など毎日差し入れてくれたので食事の心配はほとんどなかった。青年たちを主とするこれらの人びとは、会館内で防衛に当る一方、両闘争本部の計画に従って早朝から夜遅くまで、日共の華僑学生襲撃の写真新聞と事件の真相をまとめたパンフを都内や近県へ配ったり、電柱や壁に張ったりする活動に取り組み、時には警官に追われたりもしたがこれに臆することもなく毎日宣伝活動を続けた」(華僑報1999年9月25日「戦後華僑・留学生運動史(151)」)とある。


 防衛部隊は三部隊から構成されていた。「一つは学生諸君、二つは友好商社の人びと、三つは日中友好協会(正統)本部の東京都内および近県の会員から成っている。このほかにこれらの人びとの食事をまかなう仕事がある。日共暴力団がニセ日中事務所に泊まりこんでいるほか、付近のビル(「新婦人」れいめいビルや東方学会ビルその他)に襲撃アジトをもって、虎視たんたんと狙っている以上、こちらも毎夜泊まりこんで防衛しなければならない。学生、友好商社の人と、正統会員はみな手弁当で交替でまい夜泊まりこんでおり、婦人部隊がまい日炊き出しに交替できている。華僑の人びとの負担や奮闘も大へんなもので、共同の敵にたいする日中両国人民の戦闘的友誼の空気が、現場にみちみちている。(日中友好協会正統本部事務局長・三好一「善隣学生会館防衛闘争について」)

 「一方、日共反中国集団は、東京各地からの毎日の動員に限界をきたすようになり、学習と称して日本全国に割当てて新しい人員に入れかえていたが、三月二日の“精鋭部隊”はいつの間にか必要人員のみを残し寄せ集め部隊に編成換えされ、双方が衝突するたびに弱体化していった」とある。



【新左翼が支援闘争】

 「予期せぬ出来事」として、反日共学生の闘争参加が為された。「一方、この闘争の中で予期しない大きな出来事が起こった。即ち、三月二日の事件が発生して間もなく、三日から四日にかけて反日共全学連の各派が善隣学生会館に駆けつけて来て“日共との闘争に参加させてくれ、われわれは人民の裏切者日共を徹底的に粉砕せねばならない。日共の華僑学生襲撃を断じて許さない”と主張して会館に泊り込んだ。当時、会館一階の東側は日中学院の教室であったが、四教室あるうちの大きい教室は華僑の闘争本部で、隣りの教室が日中諸団体の闘争本部にあてられていた。反日共の学生たちには一番奥の教室に泊ってもらうことにした」(華僑報1999年9月25日「戦後華僑・留学生運動史(151)」)とある。

 反日共系学生の支援は、「色々と複雑な問題」を起した。毛沢東主義による中共系僑青年学生と反日共系学生との間に、「日本帝国主義論や世界革命論」を廻って理論闘争を生み始め、祖国を熱愛し祖国を擁護して華僑の正当な権益を守り、愛国運動を推進しようとする華僑青年学生との間に対立を生じさせたということである。

 これをどのように解決したかというと、「闘争本部は成年学生たちと話し合い、今は日共反中国分子と断固闘い、“ニセ日中”を会館から追い出すことが最も主要な任務であり、また四月の新学期には学生はすべて学校に行くべきであるとの結論を相互に確認した。その間、華僑及び日中友好諸団体が交替で会館を守り、必要人員の宿泊条件も確保し、応援の日本学生及びその他の組織の人たちは会館を出て外から引きつづき応援することとなった。以後、会館は華僑闘争委員会が責任をもって防衛し、日中友好諸団体が全面的に華僑側に協力することで一本化され、六九年“ニセ日中”が会館から退去するまでこの態勢が続いた」(華僑報1999年9月25日「戦後華僑・留学生運動史(151)」)とある。



【3.4日以降の経過】
 3.4日安保破棄諸要求貫徹中央実行委員会の主催で、文京区礫川公園で日中友好協会支援全都集会が開かれ、「日中友好協会支援、日本の民主運動に対する暴力と不当干渉抗議、対外盲従分子粉砕全都集会」を開催し、3500人集まる。同集会で、「日本国民の皆さんに訴える」、「中国留日学生後楽寮自治会にたいする抗議文」などの決議が採択される。同集会で、全日自労など33団体が、「日中友好協会を暴力と不当干渉から守る共闘連絡会議(略称「日中支援共闘」)を結成。

 3.4日赤旗が、主張「暴力による攻撃にたいしては、毅然として正当防衛権を行使し、日本の民主運動を徹底的にまもろう」を発表。東京地裁が、善隣学生会館を使用している日中友好協会本部の占有使用を妨害してはならないという仮処分を決定。日本民主青年同盟中央常任委員会が、声明「在日華僑学生と対外盲従分子などの暴力行為を粉砕しよう」を発表。日本A・A連帯委員会第三回全国理事会が、「日中友好協会にたいする一部在日華僑学生と盲従主義者の暴力行為排除のたたかいを全面的に支持し、激励する」を決議。

 東京地方裁判所は「日中友好協会事務所の占有使用の妨害排除」の仮処分申請を認め、事務所や便所への通行を実力で妨害してはならないという決定を三日と四日に、学生側と会館理事会へそれぞれ送達しました、とある。
 3.5日華僑学生が、会館玄関にはり出した等身大の毛沢東肖像のそばで毛沢東語録を唱和し、事務局員の田中則雄氏に白ペンキをなげつけるなど挑発、とある(れんだいこ注真偽不明)。

 3.5日、日中友好協会が、声明「デマと中傷によって真実をおおいかくすことはできない」を発表。

 3.6日善隣学生会館内に事務所をもつ二十商社、壁新聞などの撤去を同会館理事会に要請。http://maoist.netfirms.com/jpn/ajcp003.htm

 3.6日東京都市センターホールで、善隣学生会館事件の真相報告会が行われた。会は、国際貿易促進協会、日中文化交流協会、日中友好協会(正統)本部の三団体の主催でおこなわれ、政界、文化界、スポーツ界、経済界、労働組合関係などの著名人二百五十人が出席した。会は前半を日中友好協会正統本部理事長宮崎世民氏、後半をアジア・アフリカ人民連帯日本委員会理事長坂本徳松氏の司会ですすめられ、まず最初に日中友好協会正統本部常任理事長谷川敏三氏、善隣学生会館後楽寮自治会石信明氏、華僑総会陳文貴氏が事件の経過を報告。つづいて各界の代表がこもごも立って日共反中国暴徒による暴行に激しく抗議し、「反中国暴行を糾弾する決議」を採択し闘う決意を表明した。

 この時の廖承志事務所首席代表孫平化氏の演説「日本友人の共闘に敬意は次の通り。「このたび日本のひとにぎりの修正主義分子が暴徒を指図して連日学生を襲撃したことにたいする英雄的な闘いのなかで、広はんな日本の友人は中国の青年学生とおなじ側に立ち、この闘いを自分たち自身の闘いと見なし、ともに敵がい心をいだき、ともに難にあたるという態度をしめして闘われましたが、このような崇高な国際主義の精神および敢然と闘い、敢然と勝利を闘いとる何をもおそれぬ英雄的な気持ちは、私たちの胸を強くうち、心から敬服いたしております。

 われわれの偉大な指導者毛主席が自ら発動し、指導して嵐のような勢いで発展している中国のプロレタリア文化大革命に全世界が揺り動かされている今日、ひとにぎりの日本修正主義分子は公然と暴徒をかきあつめて中国人の青年学生に迫害をくわえ、由々しい流血の事件をひきおこしました。これは帝国主義、現代修正主義、反動派が連合して反中国活動をおこなっているその一構成部分をなしております。日本のこれら一握りの修正主義はもはや完全に日本人民を裏切ってソ連現代修正主義の手先になり、国際共産主義運動の恥ずべき裏切り者になりさがっております。ひとにぎりの日本修正主義分子が一手にひきおこしたこのたびの華僑迫害のゆゆしい流血の事件は組織的であり、計画的なものであり、また、かねてから企まれていたものであることが大量に事実によって明らかにされています。

 しかも、いっそう破廉恥なことは、ひと握りの日本修正主義者はこともあろうにいわゆる「安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会」という組織による反中国集会をひらき、これまで安保反対を標榜してきた反中国の煽動に用いているということです。この事実は、日本修正主義者のみにくい正体をあますところなくさらけだしています。また、このことはかれらが口にしている「反米」はまったくのニセものであり、彼らはアメリカ帝国主義に反対しないばかりか、攻撃のほこ先を社会主義の中国にむけていることを、徹底的に暴露しています。このことは、帝国主義に反対するにはどうしても現代修正主義に反対しなければならないということをわたしたちにかさねて教えてくれます。

 われわれは暴虐に抗する華僑の青年学生の英雄的な闘いを断固指示し、在日中国人青年学生のかかげた一切の正当な要求を全面的に支持することを厳粛な態度をもってかさねて表明するものであります。すなわち日本政府はこの流血事件をひき起こした犯人をただちに懲罰し、華僑の一切の合法的権利と正当な権益を保護すべきであります」。

 京都大学教授・井上清氏はこの時の挨拶で、「怒りをもち日共に抗議」している。その内容は、「実情を知れば知るほど、今度の事件の醜くさというもの、これを組織し指導した者の醜くさ、卑劣さというものに対して怒りが燃えあがってくるのを押えることができない」、

 「それは、かの暴徒たちが「チャンコロ」と叫び、「ここは日本の領土だ、中国人は出ていけ」というようなことを叫んだということです。アジア通信の反中国分子が、労働争議と称してアジア通信社におしかける、彼らもしばしば「チャンコロ」ということを口にするということを聞いておりましたが、こういうようなことは、日本のかってのわれわれ帝国主義民族がどんなに深く情神的に腐敗、堕落しているかを示したものであり、その帝国主義民族としての、腐敗し堕落した根性を、なおかつ今日も清算しきれていないということのあらわれであると思います。私はそういう者が日本の一部分の中にまだ残存しておるということも、これはあるいはやむをえないこともあるかも知れないが、そういうような軍国主義的な帝国主義民族としての腐敗、堕落した思想を矯正し、あらためてゆくのが日中友好協会とか日中友好運動であり、あるいは日本共産党の責任でなければならないと考えております。その日本共産党なり、そして日中友好を掲げるものが先頭に立って中国に対して「チャンコロ」だとか何んだとかいうことは何ごとであるかと。これは明らかに、日本に今復活しつつあるところの軍国主義思想、排外主義の軍国主義思想を煽動し助長するものであって、この中国人の留学生に対して、日本の青年を襲いかかわせるということと全く同じというか、それと深く結びついたものといえます。彼らのいわは思想的な根底にはこういうような排外主義的な帝国主義民族思想があるということであります。これで一体軍国主義に反対するなどとか、帝国主義に反対するなどとよくいえたものだと私は思うのです。

 ここは日本の領土だから出てゆけ、というのは相手を間違っておるのじゃないか、アメリカ大使館へ行き米軍の基地へ行って、ここは日本の領土だ、お前たちは出て行け、というぺきであります。それを中国人に向っていうことは何ごとであるか、私はこういうことについて真剣に、まじめに反省し、国民に謝罪するということがなければ、あの徒輩を永久に信ずることはできません。また、これまで―生懸命支持してきましたけれども、この事件はついに私を教育してくれました。私がほんとうに支持すべきもの、ほんとうに手を結んで行くべきものは誰であるか、そして誰と闘わなければならないかということを私に教えてくれました」。


 3.7日中日友好協会が、声明「日共修正主義の反中国暴行のなかで負傷した日本の戦友の皆さんへ」を発表。

 3.7日400万枚のデマ新聞の折込み策動失敗、とある。日中友好協会パンフには次のように書かれている。「3.7日の夜9時すぎ、かれらが400万枚の新聞を作って各新聞への折込みをするという情報が入りました。その最初の部分はある折込広告者を通じて30万枚入れるということが分かり、協会役員は即座に行動を開始しました。その結果、都内に四〇〇万枚のデマ新聞を折込み配布するという計画が事実であるということがわかりましたが、各新聞社や折込広告社は一方に偏したチラシは規定に反するので折込みをしないということを自主的に決めました。

 この400万枚は印刷と折込料で2000万円ちかくかかり、しかもこれが第一回で今後も何回か出すというのです。その内容は日中友好協会のことにはほとんどふれず「日共修正主義集団のテロ行為……」という露骨な反共文書です。こういったものを東京都知事選と全国一斉地方選挙に向けて数千万枚ばらまこうというのです。その金額は億と名のつくものでしょう。いったいどこからそんな金が出てくるのでしょうか」。


 3.8日午後10時20分ごろ、協会本部から200メートルほど離れたところを歩いていた日共系会員の原田宏威と民青同盟員川原崎剛氏ら三人にたいして、十数人の覆面をした暴力団が襲撃、一人が二週間の傷を負い、一人が華僑学生や脱走分子の本拠になっている会館内の倉石中国語講習会の101番教室に連れ込まれ30分間にわたってなぐる蹴るの暴行を受けました、とある(れんだいこ注真偽不明)。日中友好協会パンフには、「このときも協会のほうからの強硬な要求にもかかわらず犯人をさがそうとはせず、二〇分もすぎてからやっと腰をあげ、さらに101番教室から暴行をうけた原田君が出てくると『犯人を目撃していないから現行犯で逮捕することはできない』といって逆に原田君を富坂署に連行して供述書をとろうとしました。警察が暴力で協会の事務所と財産を奪取しようとする強盗行為にたいして、しかるべき措置をとっていれば、今度の事件はずっと小さくてすんだのです」。

 3.8日北京放送が、「善隣学生会館事件についての論評」を放送。


 3.9日橋爪利次日中友好協会事務局長が、協会本部で記者会見をおこない、公然と暴力が加えられた経過と、在日華僑学生と対外盲従分子が本部を襲撃したさいに用いた凶器(五十六物件、百六十三点)をはじめて公開。



明渡訴訟とその経過】
 3.9―10日善隣学生会館の緊急理事会が開催され(財団法人であって、13名の理事によって運営されている)、この事態を解決する為に、一階に陣取り続ける日共系「日中友好協会」に対し、定かん等に照らし、契約を解除し、明け渡しを要求するとの決議を為した。理事長は口頭で、「日中友好運動を促進する日中友好協会に賃貸したのであって、反中国活動をし、中国人寮生を武力襲撃する、“ニセ日中”は速やかに会館から退去せよ」と度となく申し入れ及び内容証明付郵便でも同様の申入れを行なった。更に仮処分、明渡訴訟等の法的措置の準備に入った。

 この明渡訴訟等の法的措置について、猛獣文士氏は次のように纏めている。「中国研究所の中国研究月報1968年11月号によれば、この時点、つまり1968年11月の時点で、日中友好協会、後楽寮生及び財団法人善隣学生会館の間には、次のような裁判手続きが取られていたようです」として、
@ 1967年 3月 2日 日共「日中本部の占有妨害排除」の仮処分申請
A 3月13日 日共「二・三階の占有妨害排除」の仮処分申請
B 5月19日 日共「通行障害物撤去」の仮処分申請
C 5月30日 会館側、ニセ「日中」への「占有移転禁止」の仮処分申請
D 11月 2日 日共、寮生を「暴行罪」「家宅侵入罪」「脅迫罪」で告訴
E 11月11日 会館側、ニセ日中への「建物明渡し請求」提訴
F 12月 4日 日共「占有妨害禁止、障害物撤去」を本訴する
G 1968年 3月 3日 ニセ「日中」、任政光ら50数人を「傷害、暴力行為等処罰に関する法律違反、住居侵入未遂、窃盗、器物毀棄」等で東京地検に告訴
H 9月13日 ニセ「日中」、ニセ「日中」寮生らを東京地検に告訴
(注)この表では、資料としての中国研究月報の記述をそのまま転記しています。ニセ日中などという用語に含意はありません。

 これらの裁判上の事件は、民事事件と刑事事件に分かれます。上記の表で言えば、@〜CとE、Fは民事訴訟であり、D、G、Hは刑事訴訟ということになると思います。東京地方裁判所で、記録を閲覧する場合にも、民事訴訟と刑事訴訟では係が全く異なるために、同時に閲覧することはできません。また、仮処分というのは本訴で争い結論が得られるまでの間に、訴訟の一方の当事者が重大な不利益を被ることを避けるためになされる決定であり、本訴を前提にしたものです。上記の表で言えば、@、A、Bの仮処分はFの訴訟の準備をするためのもの、Cの仮処分はEの提訴を前提にしたものであり、双方とも本訴によって確定した判断が問題になると思います。

 今回、東京地方裁判所に出向いて、まず民事関係の裁判の記録を入手しようと閲覧を請求しました。しかし、34年も前の事件であり、東京地方裁判所でも入手は簡単ではありません。記録の閲覧請求には事件番号が必要ですが、これが分からない場合には、東京地裁で保管している事件簿を調べて、事件番号を検索することができます。それには、提訴の行われた正確な日付が必要です。上記の表では、Eの提訴は日付が正確で、事件簿から見つけることができました。この訴訟は、1970年(昭和45年)7月に和解が成立し、同年9月に日中友好協会は善隣学生会館に賃借していた(と主張する)事務所等の建物を明渡しています。以下に紹介するのは、この事件についての、和解調書です。

 Fの事件については、提訴の日付が正しくないのでしょうか、事件簿からは検索することができませんでした。また、今回は刑事事件については、調査できませんでした。今後も、時間を見て、裁判資料の入手をはかっていきたいと思います。


 この「建物明渡請求」裁判は、1977(昭和42).7.15日和解が成立した。和解調書 (ワ)12181号(裁判官・安井章、北山元章、裁判所書記官・粟野清、原告・財団法人善隣学生会館、被告・日本中国友好協会)がこの時の合意文書であり、概要次のような内容となっている。
解約終了の合意 被告は原告に対し、別紙物件目録記載の建物(以下本件建物という)に関する賃貸借契約が昭和45年7月15日限り、専ら原告の自己使用に基く解約により終了したことを認め、昭和45年9月末日限り、本件建物を明渡す。
原告は管理責任の落ち度を謝罪 原告は、原告管理下の、善隣学生会館内でおきた暴力事件について、管理者として遺憾の意を表する。
被告の滞納賃料免除 原告は被告に対し、昭和42年3月1日以降本日までの賃料等一切の金員の支払を免除する。
被告の明け渡しまでの安寧秩序の確保 原告は被告に対し、本日以降、昭和45年9月末日までの間、明渡猶予期間として、被告が本件建物を無料で使用占有することを認め、その間、被告が使用占有部分を平穏に使用できるよう、警備員を配置する等、会館内の平穏なる秩序維持に努める。
立退料及び示談金 原告は被告に対し、立退料及び示談金として、本日和解成立時に金110万円、及び前期第1項記載の明渡完了と同時に金100万円を各々支払うものとする。
その他

原告は、前記第一項の趣旨に慮み、被告明渡後、本件建物を原告自ら行う事業に専ら使用することを表明する。原告はその余の請求を放棄する。原告・被告は互いに本和解条項以外に何らの債権債務のないことを確認する。訴訟費用は各自弁。

 これを見れば、日本中国友好協会の退去明渡しを最優先させ、原告側が可能な限り譲歩したことが判明する。これにつき、被告側の正義が認められたと解するのは失当であろう。変則事態解決の為に現実的な方法で、被告側の退去の面子を立てながら対応したということであろう。被告が実際に退去したのは、1969年となる。

 1970.9.7日、日共系日本中国友好協会は、次のような「部事務所移転にあたっての声明」を出している(「日中友好新聞」1970.9.16)。これを見るに、1、新事務所を豊島区巣鴨に移転したこと、2、善隣学生会館に居る間、不当不法な暴力的襲撃が繰り返され、主な襲撃事件だけでも105回におよび、協会側の重軽傷者は280名に及んだこと、3、「建物明渡請求」訴訟では、道理を尽くした反論により、会館理事会側の主張は事実と真実のまえにくずれ去ったこと、4、2年余にわたる法廷闘争を通じ、会館理事会もついに会館内でおきた暴力事件について管理者として遺憾の意を表し、わが協会の正常な業務を保証しなかった管理上の非をみとめ不行き届きを陳謝することとなったこと、5、こうしてわが協会は、困難な法廷闘争においても会館理事会に不当な主張を撤回させるとともに、筋のとおった「和解条件」をかちとることが出来た、等々と述べている。



その後の経過】
 3.11日赤旗が、主張「在日華僑学生らの暴行は依然としてやまず、かれらはいっそう大がかりな襲撃の機会をねらっている」を発表。

 3.11日人民日報が、「日本共産党修正主義分子の反中国の暴行に厳重に抗議する」を発表。

 3.11日、日中学院(倉石武四郎院長)学生は三日間にわたる全学討議のうえ、11日文京区湯島聖堂で学生自治会緊急集会を開き、教室占拠をやめよという声明を発表。

 3.13日東京地裁は、財団法人善隣学生会館(守島伍郎理事長)と中国留日学生後楽寮自治会(邱獅君委員長)にたいし、同会館内の日中友好協会本部が賃貸契約を結んで使用している二階会議室、二階と地階の倉庫の占有使用をバリケードによって妨害してはならないという仮処分を出す。「紛争が起こって以来、協会は正規の家賃を払って借りているこれらの倉庫や会議室へも行けず、ただ一階の事務所と便所の間を通行しているだけでした」とある。

 3.13日「文化界35氏による善隣学生会館襲撃事件についての声明」「驚きと憤激にたえない、世論により裁け が発表された。その内容は次の通り、「財団法人善隣学生会館は、日中文化の交流を図るため、在日中国人学生に諸般の便宜を供与し、日中親善の増進に寄与することを目的とする施設であります。このような会館においてこのような暴行事件を起こしたことは、正常な日中友好を阻害するだけでなく、国際感覚を欠いた所業で、心ある日本人であれば、イデオロギーのいかんを問わず、だれでも、その非常識に驚き、憤激せざるをえないでしょう。

 しかも、日中友好、日中親善を口にしている団体と政党のひとびとによって、計画的とも疑わせる暴行がなされたのであります。さらにこれらのひとびとが、軍国主義時代に使われた中国人べっ視の侮辱的な言葉を吐くばかりか、何らの自衛手段をもたない素手の相手に、武装して集団襲撃をかけたことは、どのような理屈をつけようとも、ひとを納得させることはできますまい。暴力をもって相手を圧倒することは、日本人のあいだにおいても厳に戒めなければならないことです。

 相手は合法的に日本に在住する中国人の子弟である学生であります。安んじて学業に励むことができるように、あらゆる力を尽くしてこそ、日中友好の実をあげることができるはずでありましょう。私たちは、このような日本人の品格を傷つける事件を日本と日本人自身の問題として重大視し、こんどの襲撃事件が多くの日本国民の日中友好への願望をふみにじるものであることをはなはだ遺憾とするものです。わたくしたちは、ここに広く、良識ある方々に訴え、世論がこれを裁くことを願望します」。

 文化界35氏とは、安藤更正(早大教授)、一円一億(関西学院大教授)、伊藤武雄(中国研究所長)、井上清(京都大教授)、岩田直二(関西芸術座代表)、内田吐夢(映画監督)、大河内隆弘(宗教家)、大谷瑩潤(宗教家)、加藤土師萌(陶芸家・人間国宝)、金子二郎(大阪外大学長)、北川桃雄(美術評論家)、木村伊兵衛(写真家)、坂本徳松(愛知大教授)、白石凡(評論家)、杉村春子(俳優)、杉村勇造(考古学者)、杉本健吉(画家)、千田是也(俳優)、滝沢修(俳優)、拓殖秀臣(法政大教授)、武田泰淳(作家)、塚本善隆(京都国立博物館長)、中川一政(画家)、中島健蔵(評論家)、西川景文(宗教家)、花柳徳兵衛(日本舞踊家)、東山栄子(俳優)、船山信一(立命館大教授)、豊道春海(書道家・芸術院会員)、増田渉(大阪市立大教授)、松岡洋子(評論家)、水上勉(作家)、向井潤吉(画家)、依田義賢(脚本作家)、蝋山芳郎(評論家)の面々であった。


 ところが2日後の3.15日、赤旗に反論記事「三十五人の『「声明』に反論する」、「中島健蔵の転落について」が掲載された。その内容は次の通り。「三十五人の『「声明』に反論する」は吉原次郎署名で、要約概要「『文化界35氏による善隣学生会館襲撃事件についての声明』は悪質文書であり、意識的にねじまげられた『事実認識』を前提にしてくみたてられている。事実は、日本の民主団体の人びとは『犬の頭』、『修正主義者』、『反中国分子』などとののしられ、婦女子をふくめて、まる二日間も一室に監禁され、会館内には竹ヤリやこん棒をもった暴力分子がたけりくるっている、いつどうなるかわからない、このうえない危険な状況におかれていました。室内にとじこめられた人びとは、電源もきられてまっくらななかで、食事もとれず便所へも行けず、女子までバケツで用をたすという悲惨さでした。その主観的意図のいかんにかかわらず、日本人の良心をみずからはずかしめ、日本の民主運動をひぼうするおうなこんどのデマ『声明』に署名したことによって、三十五氏の『良識』の本質はいかんなく暴露されました。遠からず、かれらの期待するように人民の世論が正しくこれをさばくにちがいありません」。

 こうなると、完全に白黒逆に見立てていることが歴然とする。ところで、「室内にとじこめられた人びとは、電源もきられてまっくらななかで、食事もとれず便所へも行けず、女子までバケツで用をたすという悲惨さでした」とある天下の公党日共の機関紙赤旗の記事が捏造だとするとどうなるか。なお、「三十五氏の『良識』の本質はいかんなく暴露されました。遠からず、かれらの期待するように人民の世論が正しくこれをさばくにちがいありません」も、何やらぼかしているが恫喝であろう。これは宮顕特有の論理と手法であり、吉原次郎がこれに則り記事を書いているのが一目瞭然である。

 「中島健蔵の転落について」は、立木洋署名で、要約概要「日本中国文化交流協会の理事長中島健蔵は、今回の暴力事件を『まきおこした』のは、在日華僑学生やこれに加担した対外盲従分子、トロツキストらではなく、日中友好協会とこれを支援する側であると、恥知らずにも文字通りサギをカラス、白を黒といいくるめるペテンをあえてしている。在日華僑学生や対外盲従分子によって、1月なかばから、とくに露骨に日中友好協会本部事務所への襲撃が計画され、日中友好協会第十六回大会(2.25、26日)が歴史的成功を納めて閉会した直後の2.28日、かれらがいよいよこの計画を実行にうつして、日中友好協会本部事務所への直接の暴力的襲撃を開始したことは、すでに赤旗などで争う余地のない事実によって、あきらかにされている。

 2.28日から3.2日にいたるかれらの暴状も、すでに詳細に報道されているところであり、ここにくりかえすまでもない。とくに2.28日からまる二日間、日中友好協会本部事務局員は、事務所の中に監禁され、食事もとれず、便所へも行けず、電源をきられたまっくらな室のなかに、ストーブもたけないままとじこめられて、女子もバケツに用をたすという悲惨な状況におかれたのである。このような状況を放置しておけないことはいうまでもない。もはや正当防衛権を行使する以外に道はないということはなん人の目にもあきらかである。いうまでもなく正当防衛権行使のなかで、これにがん強にはむかってくる暴力分子が負傷したとしても、これにたいしては、土井大助氏も書いているように、日本語では『自業自得』ということばをあてはめるのである。

 中島健蔵の署名しているこの文書は、さきごろまで文学者、評論家として知られ、進歩的文化人、民主的人士として見られてきた中島が、いまや特定の外国の一部勢力に骨の髄から盲従し、その手先となって、日本共産党にたいする攻撃と日本の民主運動の分裂、破壊を『職業』とする日本人民の裏切りもの、一個のペテン師に転落したことをしめすものである。いまは、身も魂も特定の外国の一部勢力に売りわたし、理性も良識もかなぐりすて、みずからの頭脳をもって自主的に思考する力、いっさいの正常な批判能力を完全に喪失して、見ぐるしいほどの拝外思想にとりつかれた中島が、『進歩的文化人』、『民主運動の人士』などという過去の経歴からは、まったく無縁の存在になり下がったことはあきらかである。かれが過去の経歴を利用して、日本の民主運動のなかに席をもちつづけ、民主人士顔をしながら、日本の民主運動を分裂させ、日本の民主運動を外国に売りわたそうとしても、日本の民主勢力と人民は、かれのたくらみをいつまでもゆるしておくほど、けっして甘くはないであろう」。

 もはや繰り返すまでも無いが、ここでもまた宮顕特有の論理と恫喝のオンパレードであることに驚かされよう。しかし、れんだいこが思うに、吉原次郎にせよ立木洋にせよその他もろもろの宮顕追随者達は、活字として後世に残ることが自明なのを知りながら、為してかようなはしたない言辞を弄び得るのだろう。そのほうに関心が行かざるを得ない。


 日共系が次のように報じている。3.15日日中友好協会は、在日華僑学生らが公共の場所に挑発してかかげているポスター、カベ新聞、横幕などの撤去を、守島伍郎会館理事長に要求。「三十五人の声明」に名をつらねている東山千栄子さんは「私はこの『声明』なるものについては全然関知していません」と言明。

 3.15日赤旗が、無署名論文「在日華僑学生らの襲撃事件について、北京放送などのわが党と日中友好運動にたいする攻撃に反論する 」を発表。国家公務員労働組合共闘会議(略称国交(ママ)共闘)評議会が、「日中友好協会激励」を決議。

 3.18日午後10時、華僑学生らは会館を出ようとしていた日中本部の柳瀬宣久、西村郁子両氏を捕え約二時間監禁状態におき殴るけるの暴行。柳瀬氏は全治一週間、西村氏は手と足に軽傷、とある(れんだいこ注真偽不明)。

 3.18日写真撮影にいんねんをつけ協会員に傷害、とある(れんだいこ注真偽不明)。

 3.19日全学連第七回中央委員会が代表を派遣、協会への激励と、善隣学生会館理事会、中国留日学生後楽寮自治会とにたいする要請、抗議行動をおこす。

 3.19日華僑学生、支援の人たちに暴行、傷害、とある(れんだいこ注真偽不明)。

 3.19日赤旗が、無署名論文「『人民日報』その他のわが党にたいする不当な攻撃・干渉に反対する」を発表。


 3.19日、日中友好協会(正統)本部が、声明で共産党を「日中関係の断絶を企む」と批判。

 3.20
日、日中友好協会支援共闘会議が、25日に二回集会をひらくことを決め支援資金として300万円募金をよびかけることを決定。

 3.21日日本民主主義文学同盟が、第二回大会決議「日本の民主運動と文化運動の自主性を守ろう」を発表。

 3.22日午前零時30分ごろ華僑学生らは、本部事務局員大内田武志氏らを襲撃。大内田氏の後頭部をなぐり足をけとばすなどの暴行をはたらく。協会本部は警察官の眼の前で行われたこの行為にたいして、会館事務局と、警備にあたっている富坂署の現場責任者に厳重に抗議、とある(れんだいこ注真偽不明)。

 3.22日「日共暴徒がまたテロ東京華僑総会に侵入呉副会長に暴行」している。「日本と中国1967年3月27日第2面」によるとこう明らかにされている。「東京華僑総会は三月二十三日、東京・麹町のダイヤモンドホテルで記者会見をおこない、二十二日東京華僑総会一階事務所に日本共産党が侵入、呉普文副会長に暴行をはたらいた事件について真相を説明した。呉普文氏によって明らかにされた事件の真相はつぎのとおりである。

 3.22日、東京華僑総会の六階会議室で午後二時から五時まで理事会がひらかれていた。このため一階の総会事務所には三人の女子従業員だけしかいなかった。四時十五分、日本共産党と名乗る四人がどかどかと侵入「抗議にきた」と騒いだので、一人の女子従業員が六階にいた博仁組織部長に通告、同部長は会議中のため他には伝えず一人で階下におりた。

 「日共から抗議にきたのだ」という男たちに博仁氏は「君たちはテロ行為をやって多数の華僑青年に重傷を負わせ、その生命の危険もいまだ不明の状態の中にあるにもかかわらず何が抗議だ、出ていきたまえ」といいたが、かれらは出ていかないばかりか、ますます横暴になる一方、暴力もふるいかねない状態にあった。

 約十分後、呉普文氏が戻ってこない博仁氏を心配して階下に下りたときも四人の日共党員は大声をあげて騒ぎたてていた。呉氏が「不法侵入である。出て行かなければ一一〇番をよぶ」といって女子従業員に電話させたところ、四名のうち一番背の高い男が、いきなり呉氏の肩を後からつき、ふりかえろうとしたところ、その男は呉氏の顔面に強い一打をくわえ、唇に裂傷を負わせた。そのとき、所用でたまたま事務所にはいってきた総会の会員江明発氏にも襲いかかり一撃を加え、他の三人とともに逃げ去った。

 間もなくパトカーがやってきたが、四人および華僑総会の建物の外に待機していた六十数人の日共党員はいちはやく逃走していた。

 同夜、かれら一味は会館の婦人管理人に数回にわたり電話をかけ「学生の責任者の名前をいえ」「日共が抗議にいったところ華僑に殴られたから、皆にそう伝えておけ」「華僑の責任者の住所と電話番号をおしえよ」と脅迫した。

 なお、3.23日付「赤旗」によって、前日東京華僑総会に押しかけた四人の暴徒は森山一(日共中部地区委員会中央区委員長)ほか中部地区委員会の指揮下にあるものと判明した」。

 3.25日自由法曹団団長・岡崎一夫氏が、14名の団員を引きつれて現地調査で会館に出向いている。が、「日共暴力団の白色テロの写真を見せられてほうほうのていで立ち去った」とある(「日本共産党」暴力団の正体「華僑報1967.4.15日」3面)。3.26日付け赤旗は談話を発表し、「今までは自由法曹団員(弁護士)個々が泊り込みまでして日中友好協会を支援してきたが」云々と、自由法曹団系弁護士の事件への関与を暴露している。

 3.25日「外国の不当干渉と暴力から日中友好協会を守る全都集会」が開かれ、2200人集まる。

 3.25日「日共反中国暴力団の中国人学生襲撃事件を糾弾し、日中関係断絶の陰謀を粉砕する中央決起集会」が開かれ、三百数十名。


 3.25日日中友好協会のそれまで妨害されつづけてきた地下の倉庫に事務用品をとりにいこうとしたところ、華僑学生ら通行を暴力で阻止。二人負傷(れんだいこ注真偽不明)。

 3.28日午後十時、華僑学生ら七十余名が日中友好協会本部入口に押しかける(れんだいこ注真偽不明)。


 3.30日社団法人中国研究所は、「善隣会館問題にかんする声明」を発表した。要約概要「さ2.28日から激化した、いわゆる『善隣会館問題』について、私たちは戦後の日中関係におけるきわめて重大事として注目し、科学者として、できるだけ客観的に調査し、問題のあり方を追求してきました。その結果、現在、この問題について全然相反する二つの見解があるにもかかわらず、その本質は『日共による在日中国人学生にたいする集団暴行事件』であるという結論に到達しました。在日中国人学生の合法的権利―とくに生命の安全と思想の自由―を侵害するこのような排外主義的な行動にたいし、私たちは平和と日中友好をねがう圧倒的多数の日本国民とともに強く非難します」。

 「日本と中国1967年3月13日第2面」に、自民党議員宇都宮徳馬氏の「日本共産党の反中国は国際的陰謀」と題する次のような一文が掲載されている。「日共の暴力団が日本に住む中国人学生に暴行を加えたことはまことに遺憾にたえない。とくにその暴行が日共の指揮のもとに行われたとは、奇っ怪至極であるというほかない。日本のなかで、圧倒的な力の相違のもとにかれらが暴行を加えたのは卑きょうをきわめている。中国に対する国際的逆宣伝の高まりを背景にして日共がこのような暴挙に出たことはまったく悪質で卑劣きわまる。わたしは現在の反中国宣伝に怒りを覚えるものであるが、日共はこのような国際的逆宣伝の高まりがあってこそ、このたびの卑きょうな行動に出る勇気をもったのだと考えるものである。日本と中国の問題は理窟の問題でなく、魂の問題である。日共は日中両国の友情を魂のものとしてつかんでいないからこのような問題を犯したのである。わたくしは政府与党の代議士であるが、華僑の方にたいし、一部の日本人がこのような暴挙をおこなったことにたいし謝罪する。同時に政府を督励し、全力をあげて華僑の合法的権利をまもるようにさせるから安心していただきたい」。



【「社会党声明と日共の反論」考】

 5.180日社会党は中央執行委員会をひらき、「善隣学生会館事件」に関する社会党声明を出している。内容は次の通りであった。日本社会党中央本部通達『日中友好運動及び善隣学生会館事件にたいする党の態度について』」(書記長成田知己、日中国交回復特別委員長・黒田寿男、同事務局長・ 矢山有作、国民運動局長・山崎昇 )で、概要「日本社会党がこの事件を調査した結果、本件は日本共産党中中央指導部の直接指揮のもとで行なわれた後楽寮襲撃事件であると断定し、日中友好運動の破壊者とした日共が立ち現れていることを確認し、今後事件の真相を広く日本国民に訴え、真の日中友好推進へ向けて社会党の全組織をあげて展開する」、「以上の調査から、党は、一、イデオロギー論争には参加しないが、思想、信条をこえて中国と友好関係を結ぼうとする友好運動の本旨にかんがみ、この事件の真相を国民に訴え日中友好についてのあらゆる障害を排除し、その運動の前進を図るため積極的に努力する。二、今や「日中友好協会による日中友好運動の展開」は不可能だと判断され、党は全国的に日中友好協会正統本部の組織が整備されつつある現状を見極め、この大衆的友好運動を推進する。」としていた。これは、中央執行委員会で正式に為された党の決定であり、全国の下部組織へ通達が出された。

 「日本と中国1967年3月13日第2面」に、社会党議員野々山一三氏の次のようなコメントが紹介されている。「日共が中国人学生に対してこのような常軌を逸した行動にでて不祥事件をひきおこしたことは、日中関係に重大な影響をもたらすものである。日共が責任ある政党であるならば、自からひきおこした事件の結果について謝罪し、再びこのようなことが起らないよう保証すべきである。このような事件が起る根源は、日共が友好の原則を逸脱して中国との対立を拡大していることにあり、われわれはこのような態度を批判しなければならない

 総評副議長・兼田富太郎氏の「各単産に真相を訴える」が声明されている。「総評には六十四単産、四百六十万人の労働者が組織されている。これらの組合はぜんぶいままで日中友好の旗をかかげている。しかし日共代々木派は変色し、日中友好の旗をおろしてしまった。このたび一番おどろくのは「中国人出て行け」という反中国統一行動を安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会の名でおこなったことだ。われわれはいままで日共とも統一行動をくんで来た。しかし、反中国の旗のもとにかれらと統一行動をくんだことはかってないし今後もぜったいにくんでゆくことはできない。日中友好協会(正統)本部の出している“日本と中国”を単産に配布し、労働者が反中国と闘うことに力を注ぎたい」。

 日共は、社会党声明に不快感を表明し、5.24日の赤旗論文「日中友好協会本部襲撃事件にたいする日本社会党の『通達』について」で、概要「社会党の『態度決定と表明』はけしからん」との見解を発表した。野坂議長、宮顕書記長が血相をかえて社会党本部に乗り込み、談判に及び、佐々木委員長が「委員長として事実を調ぺてみる」ことを言明している。確認すべきは、宮顕が堂々と黒幕として名乗りをあげ、交渉に出向いている史実である。これにより、「善隣学生会館事件」は、一部始終の経過において宮顕の関与により為されたことが判明する。事件は重みを増してくる。

 6.15日付赤旗は、論文「社会党『通達』の『日本共産党の路線変更』論を反ばくする」で、再度社会党の態度を攻撃している。

 これに対し、6.26日社会党は、「五・一八付本部日中通達第一号『日中友好運動及び善隣学生会館事件にたいする党の態度について』の理解のために」と題する文書(以下文書「理解のために」と略称)を採択して、これを商業新聞などに公表し、共産党への回答とした。


 1967.7.11日付け赤旗に「日本社会党に質問する―日本社会党本部「通達」の日本共産党非難について―」なる長大論文が発表されており、これを検証する。  「わが党は、2.28日以来の日中友好協会本部襲撃事件について、それが『通達』のいうような『中国人学生等に対する襲撃傷害事件』ではなく、在日華僑学生や日中友好協会からの脱走分子らが、あらかじめ準備された計画にしたがって、日中友好協会本部にたいして組織的、暴カ的な襲撃をくわえてぎた事件であることを、具体的な資料と証拠にもとづいて詳細に説明してきた。しかも、日中友好協会とその会員にたいする暴カ的襲撃は、その後現在までしばしばくりかえされている。それにもかかわらず、日本社会党指導部は、依然として、この事件を、共産党や民青などによる中国人学生襲撃事件とする『通達』の見解を固執している」として、社会党を批判している。
 
 事件経過についても、「在日華僑学生らは、とくに、3.1日から翌2日にかけて、こん棒や鉄棒などの凶器をもって日中友好協会本部事務所を襲撃し、同協会本部事務所への乱入をくわだて、同協会事務局員に暴行をくわえ、バリケードをきずいて日中友好協会事務局員を同会事務室内に不法監禁し、便所への通行さえ不可能にした。さらに、この間善隣学生会館の玄関をバリケードその他をもって封鎖して、同協会事務局の救援のもとめに応じてかけつけた人びとの通行を暴力的にはばみ、暴行傷害をくわえた」として、写真入りで華僑学生等により襲撃事件が真相であるとしている。

 その他相当きつい詰問調で社会党批判をしている。これに対する社会党の反論につき資料が無いので不明である。しかし、社会党が、正面から日共見解に反論していかなかったとしたら、公党としてあるまじき弱腰と云わざるを得ない。日共の文革批判に反論する必要は無い。問題は、事件の経過が果たして日共の描く真相こそデマゴギーであるとする確乎とした再調査から入るべきであろう。が、社会党の宿あとしてこう云う点がからきし出来なかったのではなかろうか、と推理される。

 れんだいこ史観に拠れば、かくまで宮顕が出張ってきた以上、社会党は党の生命を賭けて闘うべきであった。しかし、宮顕の胡散臭さが確認されていない致命的欠陥により又しても恫喝に屈したのではなかろうかと拝察する。宮顕論の歴史的総括を急ぐ所以のものがここでも思い知らされる。



【その後の経過】

 1968.7月第17回全国大会が開催される。この時点で、会員約九干、府県本部四二、地区本部三一、支部二二〇)、活動も軌道に乗ってくる。そして活動の重点は、日共中央および日共系に対抗するためもあっていっそう政治闘争に置かれていった。第17回全国大会で決定した運動方針では、「当面の運動の重点」として「日米安保条約を粉砕し、日中両国人民の戦闘的友誼をつよめ、日中友好・日中国交回復を実現するために、豊富多彩な活動を積極的にくりひろげよう。反米愛国の統一戦線の発展をめざして奮闘しよう」とうたい、この方針に基づいて、米国のベトナム戦争拡大に反対する闘争、米国に協力する佐藤内閣に反対する闘争、あるいは米軍基地撤去闘争などへ積極的に参加していく。さらに、そのころからはじまった成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)へも参加するなど、体制に反対する政治団体的な性格、いいかえれば階級闘争を目的とする団体としての性格が、いちだんと強まっていく。当時の内外諸情勢のもとで、それが「広はんな国民各界各層の日中友好の願い」にこたえる友好運動と考えていたということである。

 日共と訣別したのちの友好協会のこの時期の活動について、1945年に出版した日中友好協会全国本部編の『日中友好運動史』では、執筆者が、協会の左傾化の原因について「『日本共産党』に絶望した少なからぬ青年たちが、わか協会に、階級政党がやるべき仕事の代行を求めることもしばしばであった」として、米原子カ空母入港反対デモ、王子野戦病院反対デモ、板付基地撤去闘争、三里塚闘争などへの参加をあげている。そして「デモの先頭に、協会旗がひるがえることを求める空気が強かった」と述べている。当時の戦闘的青年学生運動の潮流に気脈通じた運動を、理事会や常任理事会で方針を決定し、これに基づいて活動を推進したということになる。 



表面化した協会内部の対立・抗争
 日共系と訣別し、混乱した組織を立て直して再出発したのもつかの間、こんどは友好協会内部で対立が起き、協会を二分する深刻な事態に陥った。 そのきっかけは1969.3.15日、友好協会の本部での会議中に、協会員とこれに同調する「造反団」の約30人が乱入し、黒田会長と宮崎理事長ら協会役員を18時間にわたってつるしあげ、もみあう中で、何人かの役員が負傷する事件が発生した。

 友好協会内でいう「三・一五事件」であり、四月にも同様の事件が再発する。 「正統本部」の事務局員らが重軽傷を負い救急車で病院に運ばれ、警官隊が出動しておさめる大騒ぎになった。乱入理由は、協会本部のとっていた指導に対する批判と、それに関連して友好協会と友好商社の関係が不明確なので明確にせよ云々というものであった。「貿易であげた利益金の分け前を出せ」という内実であったともされている。

 こうした内部矛盾によって役員間で社会党系、山口左派系が対立し、黒田派、宮崎派に分裂し、それぞれ事務所も機関紙も別にして抗争状態にはいった。これを憂慮した中国側は黒田、宮崎の両トップを北京に別々に呼んで、周恩来がじきじき説得して和解の方向をしめし、両者もこれに従うことになった。

 ともあれ、両派の対立が1969.4月ごろから拡大していき、友好協会はこの年の後半から、まともに機能しなくなってしまった。宮崎派は第18回全国大会を開催して宮崎を会長に選出したが、黒田派は大会そのものを認めず、一時期、会長が二人存在する形になった。第18回全国大会で、来賓として東京華僑総会副会長の呉音文と隅岡隆春の二人を招いたが、隅岡の肩書は「日本共産党(左派)中央委員会代表」であって、機関紙では隅岡代表の祝辞を特段に大きく掲載していた。

 黒田派は大会と称する会議こそ開かなかったものの、黒田会長を支持する中央の役員や各地域協会代表の役員・会員らが集まって大会のような会議を開き、やがて機関紙『日中友好』を発行するなど、独白に活動を展開した。友好協会は完全に、分裂状態に陥った。
 とはいえ、ここで指摘しておかなければならないことは、こうした異常事態のもとでも、いくつかの地方の協会では、中央を中心とする誤った対立・抗争に巻き込まれることなく、地方の特性をいかした独自の活動と懸命に取り組んでいたことである。これら良識のある協会が、その後の協会の再建に、重要な役割を果たすことになる。

 1971(昭和46).2.19、この両派の仲直りの手打ち式とよばれた「団結勝利のための全国大会」が北京で開かれ、中国から王国権中日友好協会副会長が出席して「大連合して敵にあたろう」と訴えた。この大会には赤松社会党副委員長、浅井公明党副委員長、渡辺民社党執行委員らが来賓として出席した。いわゆる文革支持諸党の総結集となった。

 日中友好協会の指導者たちが、60年代の後半から70年代はじめにかけてとっていた行動を、どうみればよいのか。日共系と対決し、訣別したことは正しかった。日共が反中国に転じ、日中友好にばけしはじめた以上、友好協会としてその道をとるほかなかった。

 けれども、そのあとの友好協会の対立・抗争は、どう考えても理解できない。なぜならば、両派の運動方針も具体的な活動もほとんど同じであり、中国との友好を重視する点でも、文化大革命を支持する点でも、まったく同じであったからだ。あえて違いをあげれば、黒田派は会辰が社会党左派に属していたところから、有カ者には社会党左派系が多く、宮崎派の有カ者には旧日共系が多かった、ということくらいである。

 このことからも、問題の所在は明らかに、協会の指導権をめぐる党派(セクト)の争いにあった。両派ともいずれも、日中友好のために努カし、それだけに相譲れない主張があったようだ。だが、それはあくまでも主観であって、客観的にみて両派ともに決定的に欠落していたのは、団体としての日中友好に対する責任感であり、一般社会に対する責任感であり、そして一般の会員に対する責任感である。日中友好を掲げる団体が、内部抗争を繰り広げることにより、一般社会の日中友好と中国に対するイメージを損ね、協会に対する信頼と評価を、どれだけ失墜させたことか。のちに述べるように、誤りはそれだけではすまなかった。協会に党派の争いを持ち込んだ弊害は甚大であり、その弊害を完全に克服するのに二〇年近い歳月を要したといっても過言ではない。

 友好協会の対立・抗争にいちばん気をもんでいたのが中国だった。やがて明らかになるように、七〇年代に入り、日中関係をも含め中国をとりまく諸情勢が大きく変化しようとしていた。その重要な時期に、二〇年来一貫して日中友好運動を推進してきた日本の団体が、内部で対立・抗争を続けていることは、座視できない問題であった。とりわけ、日本の友好的な人たちや友好諸団体に、いつもきめ細かい心配りをしてきた周恩来が、このことを重視していた。そこで周恩釆は、七〇年一〇月の国慶節をとらえ、黒田と宮崎の二人に中国を訪問する機会を巧みに設け、自ら一夜、二人に対して対立を解消し、団結するよう説得したのである。一国の首相がじきじき、民間の団体の代表たちに、わざわざ仲直りの労をとるなどということは、まったく異例のことである。さすがに二人とも、この重大さを悟り、これをきっかけに団結に向けて努力することを決意した。


 「日中友好協会(正統)本部」は、1978年に正統の2文字を取り、ふたたび「日本中国友好協会全国本部(略称・日本中国友好協会)」を名乗るよぅになった。

 「日本中国友好協会全国本部(略称・日本中国友好協会)」は、1989年の民主化運動の弾圧(6.4天安門事件)の際も中国当局の立場を擁護した。





(私論.私見)