研究2 【「1967.3.2日善隣学生会館事件」の概要】

 (最新見直し2007.3.10日)

 これより前は、「事件へ至るまでの歩み

【「1967.3.2日善隣学生会館事件」直前の様子】

 1967年当時、善隣学生会館3、4階には在日中国人(華僑)学生の学生寮(後楽寮)となっており寮生が住んでいたことから、善隣学生会館内は相互にいがみ合う二勢力の同居事態が発生したことになる。

 騎虎の勢というべきか、これらの変則事態が事件の導火線となる。同会館を廻っては表面的には法的正当性論議で争われていくことになった。日共側は、善隣学生会館は日本の財団法人が大家で、日中友好協会は契約にもとづいて賃貸借契約をむすんでいるから、事務所を使用する権利があると主張した。が、中共側は、善隣学生会館は中国の財産であり、中国政府の意向に反することを堂々と主張し、会館内に居座るのは日中友好という目的に反する、早々に退去すべきであると主張した。その内実は、日中友好運動を進める為の拠点に、「反中共」運動を推し進める日共系日中友好協会の居座りを許すのか、退去させるべしを廻っての二派の抗争であった。

 これが火種となって事件が発生する。寮生は祖国中共の指示に従い、①.日共の変調、②.そういう日共の指導に従う日中友好協会の性格規定、③.日中友好協会が善隣学生会館の一室を事務所として使用し続ける態度に正当性がありや否や、という集団討議を経て、「日共系の日中友好協会は日中友好運動とは無縁のものであり、会館より退去していくのが筋である」との結論で意思統一し、批判を強めていった。

 会館への出入りは寮生と二階の商社の人たちが主で、これ以外外部からの出入りは殆んどない状態であった。日共反中国集団(大部分が民青)は、このことを利用し、昼間学生たちが学校へ行っている時間帯に反中国の大字報を寮生の通る会館正面の廊下の壁に張り出して寮生を挑発しはじめ、寮生がその大字報をはがすと、隠れて監視していた輩が寮生を包囲して罵声を浴びせ暴行を加えるという行為を繰り返した」(華僑報1999年9月5日「戦後華僑・留学生運動史(149)」)という会館秩序上由々しき事態となった。

 同会館3,4階の在日中国人学生は自治会(「中国留日学生後楽寮自治会」・邱獅君委員長)は、1966.11月頃より、当時の中国の紅衛兵の方法にならい、壁新聞(大字報)を会館に張り出して、「(日本共産党系の)日中友好協会は日中友好を推進せず、反中国活動を行っているのだから、日中友好を目的とするこの会館から出て行くべきである。本館(善隣学生会館)は中日友好と文化交流を目的にしており、中日友好を妨害するものが、この会館にいることはまったく道理に反している」という見解を主張し始めた。

 1967.1.16日、善隣学生会館内後楽寮に居住する華僑学生が、日共系の日中友好運動を「ニセ日中の反中国活動である」として批判する壁新聞を張り出している。その内容には、「ソ連現代修正主義のさまざまな追随者は、すでに人民に包囲されており、地球上に君たちが身を寄せる場所は残っていない」、「我々は団結して起ち上がり、すべてのニセの友好を掲げる反動派及びその走狗を追い出さなければならない」、「八億人民の敵は出て行け!」等々と書き連ねられていた。これを1.18日、日本の華僑組織が発行していた中国語新聞「大字報」が賛美した。

 
これを日共系から見れば次のような情況であった。1.16日、善隣学生会館の日中友好協会本部事務所内で「日中関係労働者のつどい」にたいして、協会入口の壁にも日中友好協会を誹謗する壁新聞が貼り出される。「つどい案内」の矢印を逆の方向へ向けるなどの妨害が為された、とある。

 1.18日、在日華僑発行の中国語新聞「大字報」が、善隣学生会館の後楽寮の華僑学生がはり出した壁新聞「(日中友好協会を)きっと会館内からたたき出さなければならない」を賞賛する記事を掲載。

 1月下旬、華僑学生の壁新聞が善隣学生会館内に大量に貼り出される。その一部、「妨害『日中友好』とっとと立ち去れ、反中国宮本集団の出先機関すぐ出ろ、三誌を読まない日中友好協会の者ども、友好の意味を知れ」、「字引で『友好』という意味を引いてみろ」、「反中国分子の犬の頭をたたき割れ!!」、「ニセ日中出ていけ」等々と書かれていた、とある。

 2.1日、「造反団ニュース」第一号発行。このなかで、華僑学生は善隣学生会館内の日中友好協会本部事務所"奪還"を掲げている。「君たち(正統本部)は何をしているのか。大胆に会員と人民大衆に訴え、奪還闘争の先頭になぜ立てないのか」と主張。

 華僑学生らが壁新聞とは別に「本会館を反中国の目的に使うな!」、「日中友好の旗を掲げて日中友好に反対する破壊分子は出て行け!」などのスローガンをはり出す。

 「われわれはこの会館内になんどとなく貼り出した大字報で、厳しく彼らの卑劣な行動を責め、このニセ日中友好協会を善隣学生会館から出て行くように要求しました。しかし彼らはわれわれの再三の正しい訴えにも耳をかさないばかりか、一度二度、二度三度とわれわれの大字報を破り」(日共修正主義と闘う華僑青年学生が手紙3.11日付け「毛主席へ報告」)とある。

 以上の流れすれば、日共系日中友好協会員と中国人寮生の関係は相当険悪な一触即発ムードであったことが判明する。


【2.28日の動き】

 こういう経過の中で、1967年の2月28日から3月2日にかけて事件(「善隣学生会館事件」)が勃発した。が、奇妙なことに今日においても「その事実経過については、双方の主張がかなり食い違っている」という特殊な事件となっている。れんだいこに云わせれば、あたかも「戦前日本共産党中央委員小畑氏のリンチ致死事件」を髣髴とさせ、真相が無理やり「藪の中」に落とし込められている観がある。

 「
善隣学生会館事件の真相を探る」サイトの管理人猛獣文士氏は、「このホームページの趣旨」の中でいみじくも次のように語っている。

 私は、この調査で得られる結果として、三通りのケースを予測しています。第一のケースは、私が信じていた方の見解が正しく、対立する当事者の見解が偽りである場合です。第二のケースは、その反対で、私の信じていた当事者の見解が偽りであり、対立する当事者の主張が正しい場合です。そして、第三のケースは、この事件のような単純な事実関係においても、両方の当事者の主張ごとに、複数の真実が存在することがありうる場合です。上記の三通りのケースのいずれかまたはそれ以外のケースのどのような結果が得られるにしろ、その探求は非常に面白いものであり、また得られた結果からは、さらに副次的な事実や真理が与えられるはずです。このホームページは、上記のような私の探求を皆様に公開し、その成果を共有しながら、善隣学生会館事件の意味、および小さな出来事に対する認識の社会的形成過程の観察、それに関わった人々の姿の多方面からの観察を獲得していこうとするものです」。

 そういう込み入った事件となっているということを踏まえて、双方の主張からごく大雑把に共通点を拾い出して事件を明確にさせ、慎重に考察してみることにする。


 概略次のような事件であったようだ。まず最初に、中国留日学生後楽寮自治会が張り出した壁新聞を、協会の会員が破ったかどうかでトラブルが発生した。

 2.28日の夜、「夜も遅くなって来た。東京文京区の小石川にある善隣学生会館内の日中友好協会本部では、女性をふくむ5人の事務局員が残業していた」。判明するところ、この5人とは、1.橋爪利次事務局長(著書「日中裏面史」などで、当日事務室にいたと書いている)、2.小山慎平事務局員(寮生の抗議に対して直接対応し、謝罪文を書いている)、3.西村郁子さん(「これが人間のすることか」という手記で、28日午後11ごろ、「玄関のところで小山さんが華僑の学生にとりかこまれて押し問答をしていましたが、役員の方がおられるので、とにかく事務所へはいりました」と書いている)、4.村上糾さん(壁新聞が破られていることについて寮生と言い合いになり、寮生の一人(彭忠道)の顔面を殴打して協会事務室に逃げ込んだとされているので、このときも室内にいたはず)、5.森下幸雄常任理事(3.2日に便所に行こうとして転んで目に怪我をしたとして名前が挙がる)ということになる。

 中共系によると、事件前夜の様子は次のようになる。

 夜11時頃、酒に酔っていた日中友好協会の職員が、同会館学生寮の壁新聞を破り、これに見つけた華僑学生6名が抗議を始めた。そのうちに、事務局員・村上糾が、中国人学生彭君を殴りつけ「日中友好協会」の事務所に逃げこむという事件が起った。現場にもう一人の職員が居り、寮生が強く抗議したところ、「日中友好協会の代表」であると名乗り、大字報を破り、華僑青年を殴打したことをしぶしぶながら認めた。

 深夜12時頃、6、70名の日共党員と民青の宣伝カーに乗って会館の玄関と窓から日中友好協会の事務所に入り、合流して廊下にとびだし、集団的に挑発をかけてきた。華僑青年はスクラムを組み、日中友好協会に対し、殴打した犯人を出せと要求した。

 また、華僑青年聯誼会主席林伯耀は、彼らに対し、代表を出して話し合うよう要求したが、彼らはとり合わないばかりか、すごいけん幕で「ここは日本だ、お前たちジャリは出て行け!」、「日本の民主運動を分裂させる考えはやめろ!」、「大国主義は出て行け!」などと罵倒した。

 1999.9.5日付け「戦後華僑・留学生運動史(149)」は、「特に1967.2.28日晩には、寮生を彼らの占拠している部屋に引摺り込んで暴行を加え七人の寮生が負傷した」と、暴行が日共側から為されたとしている。

 華僑青年は、「真の中日友好万歳!」、「反中国分子は会館から出て行け!」などのスローガンをさけんだ後、声高らかに「偉大な舵とり毛主席」や「決意を固め、犠牲を恐れず、万難を排して、勝利をかちとろう」の毛主席語録の歌をさらに声高らかに合唱し、毛主席語録を朗読して互いに励ましあった。

 寮生側の文書では、本部事務局員・小山慎平がこの事実を認め「私が事務局を代表して謝罪する」と謝罪文に署名した。一応の謝罪が為されたので寮生も引き上げ事態は収まるかに見えた、とある。

 この経過に付き、日共系の言い分は大いに異なる。日中友好協会事務局長・橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」では、「会館玄関から風が入って来る。風に吹かれて破れたのであろう」と記述しており、破れた事は認めているが、原因を風のせいにしている。

 善隣学生会館の見取り図は次の通りである。

 

 この経過を日共の側から見ると逆に、「壁新聞を破ったといいがかりをつけ、最初の襲撃はじまる」という風になる。暴力を振るったのは寮生側であり、襲撃、監禁があった。その補強資料として、1・1ヶ月前から計画されていた襲撃事件である。2・2.28日当日は、壁新聞を破ったといって複数の寮生が午後11時頃に事務所に押しかけてきた。当初は5名在室だったとされている。3・小山事務局員と言い争いになり押し問答している。赤旗では、メガネが壊されるなど暴行が為されたとしている。4・(トイレにいけなかった為)監禁であった

 日中友好協会編纂パンフは次のように記している。

 「まず2.28日夜11時ごろ、十数名の学生が協会事務所におしかけ、正面玄関にはってあるかれらの壁新聞が風に吹かれて破れていたのに、協会の事務局員が破ったと、街の暴力団そのままのいんねんをつけて、五人しかいない事務局員を脅迫しました」。

 橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」には、「修太郎はでていけ、と罵倒されました」とも書かれている。

 
が、日本共産党は、同夜おそく2.28日深夜に動員をかけた模様で、日共、民青同の自動車に分乗した7、80名が押しかけて来た。その後日共が動員した数十名が会館に押し入ろうとしたので、それを阻もうとしてもみ合いになり暴行事件が発生した。そのような事情があったために、寮生側も協会事務所を監視する徹夜の番を置いた。双方から善隣学生会館の包囲が続いたことになる。

 この間、日共系の数十名の人間が事務所に駆け込んでいる。事務室には当初5名しかいなかったことを考えると、窓より浸入し相当自由に出入りしていたことになる。裏口が開いていたかどうかは別としても窓からヘルメットや棍棒などを運び込んだりしている。

 橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」は、次のように記している。

 「午前一時、東京の華僑総会のメンバーが押し寄せて来た。協会員の通行はできない。彼らの通行妨害の写真をとろうとした協会員がつかまり、十数人に押さえ付けられなぐったりけったりの暴行をうけた。数十人が翌朝まで玄関口ビーにストーブ、椅子をもちだして協会員の出入りをさせないために固めた。 玄関近くにある便所に行けなくなった。バケツに用をたすようにした。一睡もできないまま夜が明けた」。

【3.1日の動き】

 3.1日日中友好協会が、声明「の友好を破壊する暴挙は断じて許せぬ」を発表

 日共系に拠れば、午前10時すぎ、華僑学生が、日中友好協会に「われわれはいのちをかけてたたかい、きみたちを会館からかならず追い出す」という脅迫電話を掛けてきた、とされている(れんだいこ注真偽不明)。

 急を聞きつけ、日本共産党の宣伝カーを中心に日共系数百名が会館を包囲した。その包囲網の中に、松本善明代議士、坂本修ほか1名の弁護士らの直接指導の下に日共本部の橋本広彦、中部地区委員会法規対策部長・綱島英高らが確認されている。日共幹部会員候補・内野竹千代、書記局員・高原晋一、同候補・金子満廣、中央委員で国会議員・岩間正男、日共都議会議員・梅津四郎、大沢三郎等日共幹部が続々つめかけて督戦している。

 午後3時頃、「日中友好協会」の5、6名が連れだって便所へ行くふりをして、様子を探りに出て来た。亜細亜通信社から解雇された反中国分子中村は玄関で警備していた華僑青年の顔写真をとり、挑発をかけた。

 中村と一緒に出てきた幾人かの反中国分子が、日中友好協会の事務所に向って、大声で「早く出てこい!!」とさけびかけるやいなや、5、6十人の暴徒が日中友好協会の室内から正面玄関におしかけ、華僑青年をとりかこんで、殴る、けるの暴行をはたらいた。その直後、富坂警察署から二十数人の警官が五台のパトカーで乗りつけてきたが、暴徒に対してはなんら処置を取らずに、十数分後にはひきあげた。

 午後6時頃より、中共系は寮生を中心として会館玄関ホールで抗議集会を開いた。この集会には、日中友好協会正統本部関係者、日中貿易関係者など約200人が参加していた。東京華僑総会、日中友好諸団体に会館の異様な実情が訴えられ、日共及び民青を中心とする反中国分子の挑発、暴力行為についての詳細な経緯の報告が為され、それへの糾弾と「中国に反対するニセ日中友好協会は、直ちに同会館から退去するよう」要求する決議が為された。

 各団体代表は一致して、「日中友好センターとしての善隣学生会館内において日中友好協会を詐称する反中国分子が日中友好協会の部屋を実力で占拠し、反中国活動の拠点とすることは断じて許せない。われわれは会館理事会に対し速やかに“ニセ日中”を会館から追い出すよう」に要求し、「華僑と友好団体が一層団結して“ニセ日中”を会館から追い出すまで断固闘うことを確認した」とある。

 日中友好協会正統本部代表・三好一事務局長と後楽寮自治会代表邱獅君が、抗議集会の決議文を携えて、日共系日中友好協会に要求書を手渡そうと出向く。ドアをノックしたところが、日中友好協会側は入口のドアに鍵をおろし、内側に本棚、机、ふとんなどをつみあげてバリケードをつくり(ガラス戸だから、内側のバリケードはよく見える)、ドアをあけようとしない。赤旗は、これを監禁されたとの記事を書くことになるが、「彼らが、自分で自分を“監禁”した」状況であり、笑止千万であろう。

 中共系はやむなく入口前で「ニセ日中友好協会は出ていけ」と力強いシュプレヒコールをおこなった後、日中友好協会正統中央本部・三好一事務局長と中国人学生自治会代表が抗議文を手渡すため中野区大和町に住む日中友好協会会長笠間千鶴宅を訪れ、厳重に抗議している。

 日共系は、この経過を次のように報じている。
 「午後6時すぎ、日中友好協会の脱走分子、華僑学生、華僑などおよそ百人が善隣学生会館玄関ホールで決起集会をひらき、再び日中友好協会を襲撃。暴徒となったかれらは事務室の電源を切り、丸太や鉄棒で事務所に長時間はげしい攻撃をかける。この間、都内の会員、労組員、学生、民青同盟員が数百人会館のまわりに支援につめかけた。警視庁の機動隊が出動したが会館内華僑学生の暴行を目の前に、支援隊を解散させるために実力を行使しようとした」。

 日共系は、更に次のように報じている。

 「この抗議集会の最中、中共系が「協会におしかけ、ドアのかぎをこわし、ドアの外にある電源スイッチを切ってまっくらにし、裏口のドアのガラスを破り、婦人も含む事務局員をまる一日、不法監禁して、食事もできず、便所にもいけない状態にし、脅迫をつづけたのです」。

 赤旗は、「二日間監禁され、女子はバケツで用を足した」と書いているが、悪質なフレームアップであり、実際には裏口から地下室の便所へ自由に通えた。

 集会開催中、日共中央幹部の指揮の下で多数の日共党員と民青が会館を包囲し、会館への侵入をはかろうとしていた。この間、日共側は、鉄カブトと兇器と、暴力人員を窓から、裏口からどんどん「ニセ日中」に運び込んでいた。この緊急事態に対し、集会参加の華僑、日本人友人は反中国分子の会館侵入を阻止すべく徹夜で警戒に当る一方、会館守衛に対し、厳重警戒を要請した。会館責任者も連絡を受けて直ちに会館にやって来て対策にあたった。
 
 午後8時、集会が閉会し、参加者が外に出ると、日共派の党員と民青同盟員約500名が3組に分かれて同会館を包囲し、口ぐちに「中国人は中国へ帰れ」、「人民の裏切者は毛沢東だ」と口ぎたなくののしり、宣伝カーをくりだしてわめきちらした。この集団脅迫は、松本善明代議士、党本部の橋本広蔵が直接指揮にあたっていた。松本善明は、「これは長期戦であり、いつでも闘う準備をしておかなければならない」と扇動した。

  小競り合いが発生したが、日中友好協会正統本部事務局長・三好一氏の「善隣学生会館防衛闘争について」に拠れば、「ニセ日中が素直に抗議文をうけとっており、日共が暴力団を動員しなかったならば何事もおこらなかったはずである」とある。

 邱獅・自治会委員長は、現場にきていた警官に対し、不法侵入して華僑青年学生を殴打した犯人を厳重に処罰し、会館を包囲して華僑青年学生の身の安全をおびやかすような状態を排除するよう要求した。警察当局は、華僑青年学生が1階から3、4階にもどるよう要請した。邱獅・自治会委員長は、道理に合わない要求を断固拒否した。双方は深夜まで対峙した。

 橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」に拠れば、この時華僑学生側からの次のような襲撃があったとされている。

 彼らの興奮した集会が終わると、私たちの協会事務所の正面に向かって、丸太や鉄棒を手に手に、どっと突撃してきた――襲撃だ。入り口で様子をみていた事務局員が、『きたぞー』と叫んだ。異様な声を張りあげて殺到して来た暴徒たちは、まず鉄棒を使って、ドアの取っ手を外しにかかった。

 事務局内の私たちは彼らの侵入阻止のため、必死に文化関係資材の重い木箱や、机などを、入り口の内側に運んで積み上げ、カまかせに体ごと押えた。なんとか侵入を防げたらいいが…、鉄棒や丸太で、鉄製ドアを叩く音がすさまじい。鉄工所のようだ。正面から声が入ってくる。

 『お前らはここにいる権利がないのだ…』 凄い換声だ。外から鍵をかけられたようだ。時を移さず裏側の入り口にも彼らの一隊が廻ってきた。紅衛兵だ。『ニセ日中出て行けっ』 裏口も昨夜から、外側より封鎖されている。私たちは出入りの自由を完全に、暴徒に奪われた。こうなると侵入を防ぐには内側からのバリケードを、強化する以外にない。法律にもとづいて貸借関係にある事務室を、無法な第三者に、暴力で奪取されるなどという馬鹿なことがあるか、中国で通用しても日本では通用しないぞ、しかし彼らは多数の日本人をまじえて、形相がかわっている。

 波状的な製準の先頭に「正統本部」の三好一らがいた。協会から会館玄関に通じる廊下は、完全に彼らの占拠下におかれている。正面だけではない。裏円に廻った彼らは丸太棒、鉄の棒などで、鉄線入りの頑丈な窓ガラスを、たたき割り侵入を図って来た。事務局員はさらに、卓球台や机、椅子を内側に積み重ねて、侵入を阻止する。協会内の人は、昨夜から一睡もせず、食事もろくにできない」。

 この部分の史実関係はどうなっているのだろう。中共系からは出てこない。これが史実なら史実として確認しあうべきだろうに。但し、捏造ということも考えられるが、そうとすれば由々しきことであろう。れんだいこには、真偽関係が今のところ分からない。

 橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」に拠れば続いてこう書かれている。

 「午後八時、取り囲んだ暴徒は、電灯線を切断した。室内は真っ暗だ、電話線が数本ズタズタにきられている。凶暴化がひどくなる。ストーブは使えない、正面入り口は完全に押えられ、裏口は朝まで棒で乱打される。

 事態を知った協会の会員、労組員、弁護士らが会館の周辺に続々と駆け付けて来て、協会へ入るために会館玄関に入ろぅとした。すると紅衛兵や彼らの動員部隊と、会館事務局が一体になって、玄関から人るのを暴力的に阻止して入れようとしない。

 私たちは、これを知って、私たちは昨夜から暴力によって危険にさらされ監禁状態だ、通行の自由を保障せよと会館事務局にたいし残された電話線を使って要求したが、事務局は取りあわない。このままでは生命が危ない。警察に110番した。『監禁なんか、されていない筈だ』 警察はそう言って、訴えを聞かない。なんと出動拒否だ。どこの指し圖だろうか警察は動かない。死人が出るとどうするのか。心配をして会館の外にいた弁護士と、協会役員が、所轄の富坂警察署にかけつけた。『なんとか警察の責任で、監禁状態を解除をしてほしい。命があぶないんだ』と息を切らしながら要請した。警察はなにをいっても、言を左右にして『うん』と言わなかったそうだ。

 午後十時ごろ、どうしたのか機動隊が現れた。ところが警官隊の隊長が、外にいた弁護士と協会役員に、こんな通告をした。『会館が言うには、華僑側は、協会員が中から出るのはかまわない、と言っている。だから監禁ではない。これは民事事件だから警察がタッチできない』」。

 これも際どい貴重証言である。例えば華僑学生側は「電話線を切ったのかどうか」見解を披瀝すべきだろう。史実は史実として確認されれば良い。問題は、日共側の悪質なフレームアップとしたらどういうことになるかただろう。

 午前零時ごろ、機動隊二個中隊が現場に出動していた。この警察機動隊の役割について、中共系と日共系双方が敵対側とグルになっていたと証言している。中共系は次のように云う。
 概要「機動隊はいっこうに日共系の包囲網を排除しようとせず、逆に日共系の『中国人学生によって日中友好協会本部事務局員が監禁されている』との口車に乗り、後楽寮自治会側に疑いをかける始末であった。『監禁しているかどうか現場をみてくれ』と、ニセ日中友好協会の入口をみせバリケードが内側からきづかれている事実を確認すると、こんどは『中国人学生は全員二階へ上がってくれ。そうすれば外の連中も解散するから』といいだした。後楽寮自治会は『自分の家にいて、一階にいようと二階にいようと勝手ではないか。それよりなぜ、真夜中に会館を取り囲んで大声をあげて、われわれの学業生活をおびやかし、睡眠をさまたげる連中を排除しないのか』と強く要求した。その後、約一時間ほどして、会館を包囲した反中国分子たちはようやく解散した」。

 日共系は次のように云う。
 「華僑学生たちの出している宣伝物は協会が警察とぐるになったといっています。よくもこんな嘘がつけるものです。3.1日の夜、協会本部の事務局員が監禁されていることを知って支援にかけつけた人々は、警視庁の第5機動隊によって会館に近よることを妨害され、せっかく持って来た食物を入れるのにも学生や脱走分子によって正面玄関で妨害され、30分近いおし問答の結果、やっと管理人を通じて入れるありさまでした。機動隊はこれを見ながら不法監禁を排除しようともせず、『会館内のことは民事に関することで、警察は関知しない』といい、逆に支援にあつまっている人びとに対して、『無届け集会』、『道路交通法違反』で解散を命じ、さらに逮捕すると宣言して数百名で包囲するという行動をとったのです。そのとき、機動隊のうしろにいた華僑学生は『フレー、フレー、機動隊』と叫んでいました。2日の午後には支援の人びとが会館のすばにスクラムを組んでいるのをゴボウ抜きして解散させました」(日中友好協会パンフ)。

 これも際どい貴重証言である。例えば華僑学生側は「フレー、フレー、機動隊」なる声援で、機動隊の排除活動を声援したのかどうか見解を披瀝すべきだろう。史実は史実として確認されれば良い。問題は、日共側の悪質なフレームアップとしたらどういうことになるかだろう。


【3.2日の動き、善隣学生会館事件発生】

 3.2日、事件発生前には日共系の数十名が事務室内に居た。早朝6時半ごろ突如、日共中央幹部松本善明らの指揮の下前記綱島を先頭とする動員部隊30数名がマイクロバスで乗り付け、ヘルメット、棍棒、鉄パイプ、角材等で武装して扉を開け、会館守衛の制止にもかかわらず会館内になだれこみ、玄関内で不寝番のあたっていた4人の寮生を袋だたきにし、急をきいてかけ下りこれを阻止しようとした寮生に暴力を加えた。このとき、華僑学生も少人数ながら水をかけて応戦したが、この過程で華僑学生側に重傷者7名を含む多数の負傷者が出た。重傷者の中には頭蓋骨陥没で一週間も意識が戻らない者も発生した。

 
約十分間後に日共系の数十名は「日中友好協会」本部事務所の中に入り、ふたたびドアを閉ざした。この過程で、森下幸雄(常任理事、長らく民青中央常任委員であったが、協会分裂により役員体制強化のために役員として迎え入れられていた)が負傷したが、中共系は「水にぬれた廊下でみずからすべってころんだにすぎない」としており、赤旗は「一人で便所に行こうとした協会の森下常任理事を玄関ホールで十数名がよってたかって暴行し、3週間の重傷を負わせました」と報じている。

 3.2日早朝から会館責任者の要請で警察が会館事務所に待機していたが、日共暴徒の華僑学生、日本友人への襲撃を阻止しようとしなかった(華僑報1999年9月5日「戦後華僑・留学生運動史(149)」)とある。


 善隣学生会館中国留日学生後楽寮自治会は直ちに抗議声明を発表した。

 概要「日共修正主義グループは善隣学生会館の一角をかすめとっているニセ『日中友好協会』を反中国の拠点にし、2月28日から3月2日にかけて連日、暴徒を指揮して、華僑青年学生に対し、また、暴虐に抗して闘っている華僑青年学生を支援するためにかけつけた日本の友人に対して気違いじみた迫害をくわえ、重傷7名を含む20数名の負傷者を出すというおどろくべき流血事件をひきおこしました」(「日共修正主義グループの華僑青年学生に対する襲撃事件の真相」)。

 この経過については寺尾五郎氏のレポートが詳しい。寺尾氏は云う。
 概要「3月2日だけで重軽傷20数名という犠牲者(午后4時の大襲撃の前後の小競り合いによるものを含む)が出たが、ことのなりゆきは、きわめて単純かつ明白です。それは、日本共産党中央さし廻しの暴徒が、計画的に、鉄兜をかぶり、乱闘服に身を固め、棍棒をふるって、素手の中国人学生に、襲いかかりなぐりつけ、これを半殺しにした、という事件です」。 

 ところが、日共系の説明による事件概要に拠れば、「朝7時ごろ、かれらは再び協会事務所に襲いかかり、防衛にあたっていた会員たちになぐる、ける、水をかけるの暴行をはたらく。7時20分ごろ便所に行こうとした森下常任理事に襲いかかり、全治三週間の重傷を負わせる。こうして協会事務局は完全に監禁状態になる」となり、華僑学生側の負傷の記述は無い。全く逆に描き出している。ここまで事件経過を精緻に書き綴ってきている橋爪利次著体験的[日中友好]裏面史」にも該当する記述が無い。これは存在しなかったという意味であろうか。

 この反中国暴力団の暴挙に激怒した会館管理者がただちに警察に連絡したところ、20分以上もたってからパトロールカーが1台来た。留学生側が暴力犯人の逮捕を要求すると、「現行犯でないから、口述をとってからでなければ」といって、逆に中国人留学側を調書をとるから警察に出頭せよという始末であった。留学生側の「それではまるでさかさまではないか。現実に犯人たちは室内にいるのだ。すぐに、被害者に首実検をさせて、犯人を逮捕してくれ」との強い要求に対し、警官は「とにかく調べてみる」といってニセ日中友好協会内に入ったものの、そのままいつまでたっても戻ってこない始末であった。 

 同日午前8時頃、青柳盛雄中央委員、坂本修(ともに弁護士)は護衛をしたがえて現場に現れ、先にきていた松本善明らと合流し直接指揮を取り始めた。青柳盛雄は、赤旗紙上で「過剰防衛は微罪だから安心して闘え」論文を発表しており、正当防衛権行使推進責任者となっていたことが判明する。他にも、日共幹部会員候補・内野竹千代、書記局員・高原晋一、同候補・金子満広、中央委員で国会議員の岩間正男、日共中央本部勤務員・橋本広彦、中部地区法規対策部長・綱島英高、日共都議会議員・梅津四郎、大沢三郎、日共国会議員団事務局長・五明英太郎等日共幹部も続々とつめかけ、督戦した。坂本修弁護士は、4.2日付けの赤旗で「3.2日の午前8時前に現場へ赴いたが、それは謀議したり、指揮したりするためではない。心配していったのだ」(「事実をつくり変えることはできないできない」)と強弁しつつ、現場に居たことを自ら明らかにしている。日共中央の指令で早朝から続々と会館を包囲していた日共暴徒の数は午前10時には数百名に達した。

 午前10時、中共系は、会館内でふたたび抗議集会を開き、日中友好協会(正統)本部役員、会員、日中友好関係者などがかけつけて、中国人学生たちの報告をきき、反中国暴力団の組織的犯行の連続に憤怒。警察の態度にも怒りをもやし、「この事件は、単に中国人学生に加えられたテロ行為だけではない。日中両国人民の団結と友情を破壊しようとする重大な犯罪行為であり、われわれ日本人の問題として全力をあげて、狂暴な日共反中国暴力団を粉砕しなければならない。日中友好協会(正統)本部がこの闘争の先頭にたって徹底的に闘いぬかなければならない。同時に、この真相を日中友好を望む広はんな人びとに伝え、反中国暴力団の本質をあきらかにし、世論を大きくもりあげる中で、かれらを粉砕しなければならないことを誓い、ただちに“防衛闘争委員会“を結成し、正統本部役員をはじめ各団体から委員をえらんだ。


【3.2日、続乱闘】

 午後1時頃再度暴行事件が発生している。これが二回目の襲撃事件となる。日共側は弁当のさし入れを要求、学生側は昨夜の約束とおり会館側をとおして入れるよう回答した。前夜はその方法で会館管理者が玄関でうけとり、中にきちんとわたしていた。ところが、連中はこれを拒否、直接さし入れることを要求した。学生側がこれを拒否したところ、ニセ「日中友好協会」内から数十人の武装部隊が出てきて、挑発をおこない、玄関ホールでこれを阻止しようとスクラムを組んだ中国人学生と正統本部会員、友好商社員などにたいして竹竿や棍棒、備え付けの消火器をつかってあばれだし、このさい華僑総会職員劉道昌さんは頭部と腹部を殴打され重態、他にも4人の中国人学生と正統本部会員が重傷をおい、二十数人の負傷者が続出した。

 この暴行にたいして中国人学生と正統本部会員などのスクラムは素手で断固として反撃し、暴力団を室内に押しかえし、「日中友好協会」入口のドアの前に机や椅子を積みかさねて、彼らのさらに攻撃にでてくるのを防いだ。同時に正面玄関にも机、箱などを重ねて外部からの襲撃にそなえた。

 日共系は、この経過を次のように報じている。

 「午後2時ごろ、弁当の差し入れを要求して事務所入口の廊下に集まった会員や支援労組員らに再び襲いかかり、ホースで水をかけ、棒で殴りかかり、ついには日中学院教室などからベンチ、ついたてなどを持ちだし、事務所入口前の廊下に長いバリケードをきずき、事務所はまったく封鎖される」。

 午後3時ごろ、3回目の襲撃事件が発生している。日共系のヘルメット武装部隊は入口の戸びらを竹竿や角材、パイプなどをつかってこわし、さらに積んである机や椅子をこわしはじめた。中国人学生と日中友好協会正統本部会員、友好商社員たちはこれを防ぐため、水をかけ、机や椅子を補強し、一時間近くにわたって奮戦した。

 午後4時ごろ、日共系の武装部隊は廊下にとびだし、角材、五寸くぎを打ちこんだ棍棒などでスクラムを組む中国人学生と正統本部会員たちをめったうちに襲撃。中国人学生簡仁君など数人が頭部や顔面をはげしくなぐられ重傷。重傷者は更に続出し、またしても善隣学生会館は染血にまみれた。

 任政光さん(中華書店工作員)は
午後4ごろの日共系の武装部隊の襲撃を受けたさい、これを阻止するため先頭にたち、暴力団によってニセ「日中友好協会」事務所内に引きづりこまれ、室内でめったうちにあったもようで、頭蓋骨陥没、頭部打撲など瀕死の状態で、救急車により午後四時半ごろ神保病院にかつぎこまれた。任さんは、犯人たちの手で窓からハシゴを渡して運び出されており、三日夜現在、血を吐きつづけ、血尿、意識不明をつづけており、生命があやぶまれている。頭部の症状は、激しく棒状のもので殴打され、脳が陥没しており、別記の近野さんと同じく最悪の状態にある、とある。

 日中友好協会(正統)本部会員の近野省三さんも午後4時ごろの乱闘で、棍棒による殴打をうけ、頭部陥没の重態。意識不明のまま慶応病院に入院。3時間半にわたり手術をうけたが、直径10センチの頭蓋骨陥没という重傷のため2日夜現在いぜん意識不明の危篤状態をつづけている、とある。

 このときまで傍観していた警察はようやく双方の間に入って、両者をへだてた。しかし、目前の武装暴力団を検挙しようとしなかった。中国人学生と日中友好協会正統本部会員、友好商社員たちは、対峙しながら固くスクラムを組み「日共暴力団でていけ」、「ニセ日中はでていけ」とシュプレヒコール。

 梅津四郎は会館玄関のそばで、商業新聞記者その他の人びとの前で公然と、警察の責任者に向って全く事実と反対に、華僑学生と日中友好協会(正統)の会員が善隣会館への人の出入を妨害していると称して「会館への出入は自由である。これを妨害するものは排除せよ」と要求した。ちょうどこのとき、廖承志弁時処駐東京連絡事務所の孫平化首席代表とその他の代表が負傷した華僑学生を見舞いに訪れたのをみて梅津は、「ここは日本の領土だ。廖事務所の誰がこようと遠慮することはない。排除せよ」と警察に要求した。

 こうした経過を経て、やがて警察の要求にしたがって、日共武装部隊は一応、会館の外にでた。 

 日共系は、この経過を次のように報じている。ここで初めて正当防衛権を行使したとして、「これに対して支援隊は、午後四時前、暴徒のきずいたバリケードを撤去し、協会から玄関、便所への通行を確保した」、「午後、バリケード排除に正当防衛の闘争」と発表している。

 日中友好協会パンフには、次のように書かれている。
 「2日の午後にはかれらは正面玄関のドアの内側と協会のドアの外側に厳重なバリケードをきずいて、一方では支援の人たちをさえぎりながら、協会事務局の不法監禁をますます強化したのです。かれらは玄関のバリケードに近づく人には水をあびせ、協会入口のバリケードからは棍棒、竹ヤリ、鉄棒などで協会員をなぐりつけ、椅子をぶつけ、ホースで水をあびせ、さらにバリケードを排除しようとする人びとに対して、長さ十メートル、切り口の直径ニ十数センチもある建築足場用の丸太を数人でかかえて突撃してきました。このような凶器じみた攻撃に対して、協会の人びとは自分たちの入口で断固として防衛し、正当防衛の権利にもとづいてかれらを撃退したのです」。

 「東京地裁は『日中友好協会の占有使用妨害排除』の仮処分を決定」。

 夜に入って、警察隊の人垣にかくれるようにして、暴力団は手勢をあらたにして「事務局員」といつわり、どんどん入室した。室内の「事務局員」は、はじめから数人にすぎず大部分は、党と民青から派遣された暴徒であった。

 中国人学生と正統本部会員、友好商社員たちは、夜を徹して対峙し、再度の襲撃にそなえた。

 3.2日、安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会は緊急幹事会をひらき、その晩には「緊急民主団体代表者会議」を開いて真相を聞く、とある。


 同夜、華僑青年の闘争の支援にかけつけた日本各界の友人が集会を開き、闘争委員会を設立したとき、反中国分子の全学連中央執行委員・東京都学連副委員長小向鉄郎がスパイするために潜入したが、日本の青年によって発見された。この事実によって日共修正主義グループの卑劣な行為があますことなく暴露された。


【3.3日以降の動き】

 3.3日午前、会館理事会は緊急会議を召集して、「中国人学生を世話する会館として、このような不祥事をおこしたことについては、責任を感じ、負傷した学生およびその父兄に陳謝し、医療費は会館で全額負担する。また、沖寮長の名義で日共修正主義暴力団の学生にたいする暴行傷害を検察庁に告発する一方、ニセ『日中友好協会』は会館の日中友好の原則に反するからあらゆる手段を講じてこれを排除する」ことを決定し、華僑総会の代表および寮の責任者をまねいてこの旨を正式に伝え、さらに華僑学生は被害者であることを認めた。

 同日、東京華僑総会は緊急理事会を召集して、日共修正主義グループのファッショ的暴行を激しく糾弾する声明を発表し、さらに官房長官、警視庁、富坂警察署、会館理事者に対して抗議することを決定した。

 同日午前10時、検察当局は、日共国会議員と弁護士の要求に基づいて、暴徒らの便所への出入りを「保証」するということを口実に、裁判所の仮処分をとり、警察の力をかりて華僑青年をむりやりに廊下の片すみにひきさがらせた。

 同日午後3時、日中友好協会正統本部は記者会見を行ない、日共修正主義グループの華僑青年学生に対する迫害事件の真相を報告し、あわせてこの事件についての声明を発表した。

 3.4日午前、孫平化氏は病院に赴いて、重傷の華僑青年任政光と、日本人青年近野省三を見舞い、慰問した。任政光は、吐血、血尿をつづけている。近野君は、すでの頭部の手術は終えたが、手術後視力が減退し、なお危険期を脱していない。

 午後2時、華僑総会と日中友好協会正統本部は、会館内で合同集会を行ない、華僑に対する日共修正主義グループの気狂いじみた迫害に抗議した。孫平化氏は大会に出席し、日共修正主義分子の暴虐行為をはげしく非難し、華僑の正統な権益を守る正義の闘いを支持する演説をおこなった。

 午後6時、日共修正主義グループは「安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会」の名で、千数百名の「日共党員」、「民青同盟員」、青年学生をかき集め、礫泉公園において、いわゆる「日中友好協会支援、日本の民主運動にたいする暴力と不当干渉抗議、対外盲従分子粉砕」という反中国大会を開き、閉会後、反中国「デモ行進」にうつり、善隣学生会館のそばだけでなく、故意に、廖承志事務所の代表と中国記者の宿舎から百メートルほど隔てた道路を選んで「行進」した。このデモコースは、日本政府当局が許可したものである。 


 この後は、「(れんだいこ私論.私観)「善隣学生会館事件」について





(私論.私見)