研究1―1 日中友好協会の歩み

 (日中友好協会編「文化大革命及び干渉問題と日中友好運動」参照)

 1949.10.1日中華人民共和国が成立した。これを受けて10.10日設立準備会が発足し、約1年間の準備活動ののち1950.10.10日に日本中国友好協会が結成された。協会の結成趣旨は次の通り。
(1) 日本国民の誤った中国観をふかく反省し、この是正に努力する。
(2) 日中両国民の相互理解と協力を打ち立てるため両国文化の交流に努カする。
(3) 日中両国の経済建設と人民生活の向上に資するため中日貿易の促進に努力する。
(4) 日中両国人民の友好提携により、相互の安全と平和を はかり、もって世界の平和に貢献する。

 さらに「活動方針」の原則では「我々の友好運動は国家や政府に依存しない自発的な国民運動としてすすめられている」そして「我々が友好の対象とする中国は、広範な中国人民大衆であって、特定の政党政派に限られるものではない」と明確にのべ、この基礎のうえに運動をすすめていくことが明記されていた、とある。  結成1ヵ月後の11月に中国の「人民日報」や資料などを大学や図書館に配布したが、これがアメリカの占領政策違反であるとして当時の協会役員が逮捕され軍事裁判で重労働5年の実刑をうけるなどの弾圧をうけている。

 日中友好協会は、戦争中に日本に強制連行された中国人の実態調査や犠牲者の慰霊、日本で亡くなった中国人の遺骨送還運動などに取り組んだ。また、当時中国に残っていた在華邦人(日本人)の早期帰国運動、歌舞伎の北京公演、中国京劇団の東京公演や中国映画を各地で上映するなどの各種の文化活動に取り組んだ。そのほか、中国民芸品の普及即売、貿易展覧会や訪中者の報告会、中国事情や日中問題の講演・講座の開催など多彩な文化宣伝活動を行ってきた。

 日中国交回復運動にも早くから取り組んだ。1964年、フランスが中国と国交回復したことをきっかけとして、日中国交回復運動はいちだんと高まり、同年2月には各界代表の25氏が「よびかけ人」となり、日中国交回復実現を政府に要求する3千万署名運動を大々的に提唱した。この「よびかけ」の内容は、(1)・中華人民共和国との国交を即時回復し、貿易、経済、文化の交流を拡大すること、(2・)日台条約を破棄し、台湾との不正常な関係を清算すること、(3)・中華人民共和国の国連における正常な地位の回復のために努カすること、を基本としていた。この「よびかけ」は多くの国民から支持され、協会は日本平和委員会、総評、社会党、共産党とともにこの署名運動の「推進団体」の一員となり、これを友好運動の中心の柱にして運動をすすめた。この署名運動は、一年後の1965.4月までに130万人に達した。

 国交のないなかで、日中経済交流についても努力しました。1964.4月から6月まで東京と大阪で開かれた中国経済貿易展覧会に協会も協カし、東京で81万人、大阪で152万人の参観者を集めた。こうした世論を背景にして友好貿易や長期の見通しをたてたLT貿易がおこなわれ、64年は日中双方とも貿易高を前年の1億3700万ドルの2倍にまで発展させる意気込みでとりくみ、民間貿易の発展に力をつくした。

 こうした多彩な活動のなかで協会組織体制の確立と会員拡大運動にも取り組み、1964年の大会で3万人の会員を5万人に増やすことを決め、1965年の大会では2万人以上の新しい会員を増やし、百をこえる新支部と全国36都道府県連合会、360支部、会員数は5万1500人となった。



 しかし、1966年日中共産党の歴史的決別が発生し、続く中国の「文革」発動によって日中友好協会も甚大な影響を受、分裂という事態となる。



 1985年第34回大会で、会長が二つの基準を明らかにした。その二つの基準とは、第1に中国当局の関係者が干渉の事実を認めること、第2は今後の友好関係を発展させるために自主・平等・内部問題不干渉の原則を順守することを認めるというもの。これは社会体制の異なる日本と中国との正しい友好関係を考えるうえで当然の原則であって特別に難しい問題をもちだしているわけではありません。



財団法人日中友好全館の設立経過】
 戦前、満州国留学生のための学生寮を運営していた財団法人満州国留日学生輔導協会が、終戦により事業遂行が不可能となって解散。

 昭和28年5月23日付をもって設立された財団法人善隣学生会館が、同協会の残余財産(当会館現所在地の土地2,080坪および鉄筋コンクリート造り5階建建物約2,000坪)と学生寮運営事業を引き継ぐ。

 昭和37年4月後楽寮開設、27名の第1期学生が入寮。

 その後、昭和39年には、中国語学習のための専修学校日中学院を併設し、事業内容を拡張した。4月節1期生25名が入学。

 昭和47.9月の日中国交正常化により、両国の交流は各分野で急速に深まり、昭和48年からは中国人留学生の派遣が開始され、受入施設の充実の必要性が高まってきた。昭和53年8月日中平和友好条約締結。

 昭和55.5月、大平・華国鋒会談。この時の両国首脳会談で日本側から新しい会館「日中会館」建設計画が示され、計画具体化の段階で財団法人善隣学生会館の土地が新会館候補地に選定され、財団法人善隣学生会館が新会館建設の事業主体に決まった。

 昭和56年3月財団法人善隣学生会館内に「建設推進事務局」が発足。

 昭和57年4月日中友好議員連盟に「日中友好会館建設推進委員会」設置される。昭和57年9月鈴木・趙紫陽会談で、両国政府の新会館建設支援が合意される。昭和57年10月中国政府は5億円の建設資金提供を決定、60年に払い込まれる。

 「日中会館」建設事業は両国政府合意の国家的事業として位置づけられ、両国政府はもとより、広く各界各層の全面的支援体制の確立が不可欠のため、昭和58年8月31日付をもって寄附行為および理事構成の変更(政・財界並びに中国民間代表の理事受入れ)による法人改組を行い、法人の名称を財団法人日中友好会館と変更した。

 昭和58年3月経済団体連合会、目標額30億円の財界募金を決定。昭和58年4月日中議連・経団連・会館の三者による「日中友好会館建設委員会」の初会議を開催。昭和58年8月「財団法人善隣学生会館」の名称を「財団法人日中友好会館」と改称。

 新会館の建設は、昭和59年から開始された。この間の昭和58年〜昭和61年にかけて日本政府から総額20億円の補助金が交付される。昭和59年5月第1期・別館の工事に着手。

 昭和60年3月、中国人留学生寮(後楽寮)および日中学院からなる別館が完成。昭和61年1月第2期・本館の工事に着手、昭和63年1月、当財団事務局・日中友好会館美術館・大ホール・ホテル(後楽賓館)・貸室などからなる本館が完成した。 昭和63年3月後楽賓館オープン、4月、全館オープン。

 日中両国政府ならびに国民各層の多大なご支援のもとに、4年有余の歳月をかけて完成した日中友好会舘は、両国民の交流の拠点としてその存在意義は極めて大きく、日中関係の一層の発展に寄与するものと確信する。今後、この拠点を有効に活用して、両国の交流を促進し、名実ともに日中友好を増進することが、当財団に課せられた使命である。

 昭和63年12月9月29日(日中共同声明の日)を「会館記念日」に制定。

 平成 7年12月会館隣接の日教販ビル内に「日中歴史研究センター」を開設。





(私論.私見)