研究1―1 日中共産党の歴史的決裂考

 1967.1.1日付け東京華僑総会の機関紙「華僑報」論文「中日友好の破壊者は誰か」で、日本共産党と中国関係組織の間の初期のトラブルが分かりやすく列記されているのでこれを参照する。

 興味深いことに毛沢東主席は、宮顕とのそもそもの出会いの初めから宮顕をニセの共産主義者として待遇している。毛沢東主席は常々「友人には本物と偽者があり、実践を通して誰が真の友であり、ニセの友であるかを見きわめることが出来る」と指摘しているが、まさに宮顕にピタリ当てはまる名言である。「ニセの友人達の仮面を次々と剥ぎとる」とも述べている。

 付言すれば、毛沢東主席と徳球の関係は宮顕と対照的で、麗しき同志愛で結ばれている。これについては別サイトで明らかにしようと思う。


【日中共産党決裂以前の歩み】

  1959.2月宮顕は訪中し、鄭州で毛沢東と会見している。概要「この時、毛沢東から思いもかけず、1950年の日本共産党の分裂時代にとった、中国共産党の態度が『誤っていた』という発言が為され、私は毛沢東は大きな人物だという感じをいだいていた。その中国革命についての理論と実践は画期的なものであると、長いあいだ評価していた」とある。

 1963.6月中国共産党指導部は、「国際共産主義運動の総路線についての提案」で、「社会主義陣営と国際プロレタリアートを中核とし、アメリカを先頭とする帝国主義と各国反動派に反対する広範な統一戦線をうちたてる」と、すぺての反帝民主勢力を結集する反帝国際統一戦線の路線を主張していた。
 
 当時、日共はソ共と公開論争を続けていた。これを日共側の言い分で見れば、「それは、ソ共指導部のわが党への公然とした一連の攻撃、志賀義雄一派と『日本のこえ』への公然たる支持、プラウダ、モスクワ放送などでのそれらの反復などに端を発したものである。フルシチョフらの一連の方針に顕著に現れていた、ケネディを頭とするアメリカ帝国主義の美化論とその押しつけにたいし、私たちは率直な反批判をおこなっていた」ということになる。

 中共とソ共のあいだでも、当時すでに数年に及ぶ論争がおこなわれていた。日中両共産党は、1960年頃より露になりつつあった中ソ論争の経過で反ソ同盟を形成し、親密度を増していた。このことを証明するかのように、宮顕書記長は訪中を繰り返している。いずれも病気治療を名目としていたが、1964.2.15―5.18日の長期滞在、同年秋宮顕は、杭州で毛沢東と二度目の会見をしている、とある。 続く1965年にも1.18〜3.7日まで逗留している。

 しかし、日共と中共の立場には、以前からかなりの相違があった。中共指導部の立場は、国際共産主義運動の分裂不可避論であり、事実、その立場からいわゆる「左派」の党を各国にどんどん組織していた。毛沢東は、広範な反米統一戦線の重要性について、1965.5月までは、日本人民、パナマ、コンゴ人民などの闘争についての声明、談話でたびたび強調していた。

 1965.1.18〜3.7日の中国訪問の時、宮顕一行は北京に立ち寄り、大衆集会の席で宮顕が講演を行っている。その時の話が次元が低いもので不評を買っている。宮顕は、野坂をはじめ日本の革命戦士がいかに中国人民の解放闘争を支援したかを自賛したが、中国人民が如何に日本人民を支援したかには触れず、また、日本共産党が自国政府の残虐な中国侵略を阻止できなかった責任と反省をも提起しなかった。この集会の写真が「人民日報」に載ったが、周恩来が腕を組み、顔面をこわばらせている異様な雰囲気となっている。

 この後、宮顕一行は病気療養のため広東省の温泉療養地に滞在したが、妻子同伴のみならず侍医、看護婦、家政婦、護衛、秘書など総勢10名近くの大名旅行であり、そのブルジョア的特権ぶりが顰蹙をかっている。

 こうしたことが伏線となって、中共の毛沢東―周恩来は、宮顕の胡散臭さを決定的なものとして確認した気配がある。れんだいこの推理に拠れば、1950年の党中央分裂時に同じく寄留した徳球―伊藤律ラインの活動と比較してあまりにも共産主義者に似つかわしくない動向が伝えられていったものと思われる。

 1965.11月頃路線転換が為され、『人民日報』、『紅旗』編集部論文で、ソ連共産党指導部をアメリカ帝国主義の同盟者と規定して、ソ連共産党指導部を組織的に排除した反米・反ソの国際統一戦線の主張がうちだされた(「ソ連共産党指導部のいわゆる『共同行動』を反ばくする」)。

 この頃、上海で姚文元の「『海瑞、官をやめる』を評す」が発表され、上海を中心に着々と文革の準備がすすめられていたが、この会談直後、毛主席や上海グループの動きがあわただしくなる。

 中共は路線変更を日共に対して受け入れるよう促し始め、大衆運動組織への理論的注入も行われ始めた。これらに対して、日共は次第に「大国主義的干渉」であるとして反発し始めた。

 1966.2.4日赤旗は、論文「アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために」を発表し、三カ国訪問前に日共の見解を発表した。「この1966年の中国訪問にあたっては、それまでに中国側が発表していた一連の論文などから見て、合意はきわめて容易でないにしても、このような毛沢東なのだから、彼と冷静に話し合えば一致点も生まれるだろうという期待をもって、私たちは中国を訪れたのだった」とある。


 1966.2.9−4.4日三年連続となる訪中が為されている。この時は病気療養ではなく、ソ連問題、ベトナム問題等の政治課題を廻って国際統一戦線を如何に形成していくかを廻って日中共産党の友党的な見解擦り合わせが目的とされていた。日共の代表団は、団長・宮顕書記長、副団長・岡正芳幹部会員、団員・蔵原、米原両幹部会員、上田耕一郎、不破哲三、工藤晃各中央委員候補とその随員達(小島優、立木洋)の大型代表団となった。北京に駐在していた砂間一良書記局員も中国到着後、団員にくわわった。

 日共は、中国.北ベトナム.北朝鮮の訪問を終えて帰国したが、中共との会談で歴史的な決裂を刻んでいる。この経過が毛沢東との最後の会談(1966年、上海での二日間 宮本顕治)」(週刊朝日・昭和52年6月24日号より)に詳述されており、以下これを下敷きにしながら見ていく。


 2.9日代表団は、福岡の若松港から、中国の貨物船「紅旗」号で上海にむかった。上海では、政治局員の彭真、同候補の康生、中央委員で当時の中国共産党国際連絡部長劉寧一らが参加した歓迎宴がおこなわれ、また、これらの人びととの会談をおこなった。この会談は、後に予定されていた北京での本格的会談への予備的なものに過ぎなかった。

 2.17日にハノイに入り、ホー・チ・ミン主席、レ・ズアン第一書記、チョン・チン政治局員らの歓迎宴、レ・ズアンを団長とする代表団との会談をおこない、十日間の滞在ののち、共同コミュニケに調印し、2.28日に北京に到着した。その日、人民大会堂でおこなわれた歓迎宴には、中国側から党副主席の劉少奇、周恩来、総書記ケ小平、政治局員李富春、李先念、同候補陸定一、康生、葉剣英、劉暁、劉寧一、蕭華、謝富治等々らが列席した。

 3.3日より日中両共産党の会談が始まった。中国側の顔ぶれは、劉少奇、ケ小平、彭真、康生、劉寧一、廖承志、呉冷西、張香山、趙安博であった。
北京には一週間余滞在し、4回にわたって会談した。会談では双方の主張に共通点もあったが、不一致点も大きかった。簡単にいえば、「アメリカのベトナム侵略に反対する国際統一戦線」か、「反米反ソの統一戦線」かの違いだった。双方が意見をつくしたが、どちらからも共同声明やコミュニケを出そうという発意はなされず、次の訪問地朝鮮へむかった。

 3.11日に平壌に着き、3.21日に共同声明を発表して平壌を発ち北京に戻った。日共代表団はそのまま帰国する予定であった。ところが北京空港で私たちを迎えた中国側から、日本共産党代表団歓迎の大集会を開きたい、共同コミュニケを発表したい、との申し出がなされた。「思いもかけないことだったが、協議のうえ、ことわる理由もないので応じることにした」とある。

 3.26日北京で開かれた代表団歓迎大集会には、周恩来、朱徳(副主席)、彭真、康生、廖承志、林楓、劉暁、劉寧一ら多数が出席し、私と彭真がそれぞれ党を代表して演説した。私の演説全文は「人民日報」でも報道された。

 「共同コミュニケについては、すでに双方の不一致点は明りょうだったし、中国側がそのうえであえてコミュニケを出そうと申し入れてきた以上、不一致点は保留し、一致点でまとめるという良識を前提にするだろうと、私たちは考えた」とある。このときには、朝鮮訪問前の北京での両党会談に参加した劉少奇はパキスタンに旅立っており、ケ小平は地方出張ということで、先方の会談の責任者は周恩来だった。

 共同コミュニケを起草する小委員会は、当方は岡、米原、不破、上田、先方は劉寧一、呉冷西、張香山、趙安博の双方4人ずつで設けられた。初めに日本側が草案を示し、それに中国側が対案を出した。

 中国側は、ソ連共産党を名指しで批判する案を出したが、ソ連共産党指導部に批判をもっている点では双方共通しているものの、ソ連の権力の性格の評価、国際共産主義運動と国際統一行動での位置づけなどでは、双方に見解の違いがあった。また、私たちは共同コミュニケで第三党を批判するというやり方はとらないという態度だった。小委員会は5日間6回の会議で討議をつくし、結局、一致点を書くということで、ソ連への名指しの批判はコミュニケには盛られなかった。出来上がった共同コミュニケは、アメリカのベトナム侵略を激しく糾弾し、それとたたかう国際統一戦線の呼びかけを重視し、アメリカ帝国主義を美化する現代修正主義とたたかう、といった点を中心にし、さらに国際民主運動の分野での活動の強化、アジア諸国の労働者階級と人民の連帯、日中両共産党の友好と連帯などをうたった約三千字のものとなった。

 周恩来を団長とする代表団との最終会談で共同コミュニケを確認し、翌日は上海にむかうという3.27日の夜、人民大会堂で私たちの歓送宴がひらかれた。周恩来、譚震林、康生、林楓、廖承志、劉寧一らが列席し、各界人士三百人ほどが参加した。北京在住の日本人も参加していた。この席で周恩来は「日中共同コミュニケの発表はアメリカ帝国主義と現代修正主義に大きな打撃を与えるだろう」といい、私も「このコミュニケは敵に対して打撃を与え、味方には勇気を与えるだろう」とのべ、ともにその成立を祝って乾杯した。



【ソ連路線めぐり続いた両党の論争】

 日共は、これで中国側との正式会談は全部終わったものと考え、あとは共同コミュニケをいつ発表するかを、中国側ととり決めるだけと考えていた。但し、中国側は、上海に居る毛沢東との会見を設営した。共同コミュニケの発表は、上海での毛沢東との会見のあとに発表することとなった。この時点で日共は、毛沢東との会見はいわば表敬訪問的なものであると考えていた。

 3.28日、日共代表団は朝7時40分北京発の特別機で上海に向かった。同行したのは康生、趙毅敏、趙安博だった。趙毅敏は中央委員候補、党国際連絡部副部長で、北京での両党会談には出席していない。上海の空港には午前9時半に着いた。康生、趙毅敏らがまず毛沢東のところへ行って、事前の報告や打ち合わせをするというので、空港で小一時間待機した。毛沢東邸へ行ったのは10時25分くらいだった。広大な邸宅で、門を入ってしばらく自動車で走ってから、やっと玄関に着いた。

 毛沢東との会見は、中共側の少人数に合わせる形で、幹部会員と書記局員が参加することとし、宮顕、岡、蔵原、米原、砂間の5名で会見の場に臨んだ。広い部屋で扇形に安楽椅子が並べてあり、一行はその一翼にすわった。
当初毛沢東は見えず、趙毅敏、趙安博、魏文伯らが居り、まず趙毅敏が口をきった。

 「コミュニケについて、毛主席に若干の意見がある。かなりよくできているが、これでは主題がはっきりしない。痛くもかゆくもないコミュニケだ。これではなんのために出すのかわからない」。そして彼は、毛沢東の修正点を口頭でのべた。毛沢東修正案は、実際にはコミュニケの基調を別のものに変える提案であり、また北京での会談では出なかった新しい問題も持ち込んでいた。

 「私はこれには驚いた。中国共産党の主席である毛沢東が、北京での両党会談で正式に確認されたコミュニケに、今になってこのような意見を出すのは一体どういうことか。毛沢東は、北京での両党会談に責任を持たないという立場なのか。中国共産党は一体どうなっているのか。私は、この唐突な思いもかけないできごとから、きわめて異常な、重大な事態を感じた」とある。 

 修正案は第一に、原文がアメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線であるのにたいし、「全世界の革命的人民との団結」という革命路線の統一戦線を強調し、第二に、原文の現代修正主義という言葉に「ソ連共産党指導グループを中心にした」という規定をくわえ、また第三は、両党内の教条主義とセクト主義反対、特に「現代修正主義の思潮に断固反対」という、党内闘争の課題を提起したものだった。

 第一、第二の問題は、結局「革命党」と認められるものの範囲内での共同闘争をして、ソ連を国際統一行動から名指しで排斥するという、北京の会談での中国側の主張の復活提案であった。第三の問題は、それぞれの党の党内闘争の性格まで規定するもので、北京の会談でも出なかった論点であった。

 日本共産党は、ソ連指導部の根強い大国主義的干渉と対米追随路線をきびしく批判しながらも、同党指導部が一定の時期から、正確には1965.3月以後、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する共同行動を呼びかけていることに、注目していた。そして、ソ連共産党がベトナム人民の闘争に、物質的にも具体的な援助をおこなっている以上、アメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線へのソ連の参加を拒むべきではないという立場だった。そして、その共同行動のなかで、正当なことは肯定し、正しくないことは肯定しないという明確な態度、いわゆる革命的ニ面政策をとることによって、事態は発展するというのが、日共の見地だった。

 これにたいして、北京階段で中国側が強調したのは、ソ連と統一行動をとれば、修正主義と革命的立場の境界線がわからなくなり、「左派」の党を混乱させる、ソ連は不介入の日和見主義政策から、アメリカに対する妥協的解決をベトナムに押しつけるための介入政策をとろうとしているに過ぎない、という主張だった。

 日共は、統一戦線問題の国際的経験について、レーニンの1921年の第二インターナショナル、第二半インターナショナルへの統一行動の呼びかけその他を、全面的に研究し、革命勢力でないから統一行動の相手にしないという立場はとるべきではないという結論に、しっかりと立っていた。三カ国訪問前に発表した論文「アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために」(「赤旗」1966.2.4日)はこの立場の詳細な展開であった。

 日共は、アメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線の強化の呼びかけを、反米反ソの統一戦線の呼びかけに変える、といった毛沢東提案を拒否しした。「私たちがいまさら同意する余地などまったくありえなかった」とある。宮顕は日共を代表し、趙毅敏にたいし「このコミュニケは、もともと両党が完全に合意に達したうえでつくられたものではなく、意見の不一致があるなかでつくられたものだ。作成にあたっては両党から小委員を出し、一致点にもとづいて書く、不一致点にはふれない、できるだけ簡略にする、という三つの点を互いに確認し合ってつくった」とコミュニケの正当性を主張した。

 このとき、毛沢東が康生とともに入ってきた。毛沢東は非常にきびしい表情で「孤立を恐れてはいけない。また戦争を恐れてはいけない。裏切者にたいしては融和的態度をとっては駄目だ。あなたたちは、志賀や右翼社会民主主義に対して融和的態度をとっているか」と切り出して、彼自身が過去に孤立した経験をのべ、レーニンも孤立を恐れなかったと力説した。そして「あなた方は孤立した経験があるか」と尋ねた。

 宮顕が「ある」と答えると、毛沢東はつづけて「アメリカはベトナム戦争を中国までエスカレートしようとしている。しかしわれわれは戦争を恐れない」、アメリカが中国を攻撃し、南から侵略を拡大したらソ連も北から攻め込んでくるだろうといい、莫大な犠牲も出るだろうが、犠牲を恐れてはならないとして、彼の長男は朝鮮戦争で戦死し、妻や弟、妹なども国民党に殺されたとの事例を挙げた。「しかし自分は生きている。22年間戦争をしてきたが、一発のたまもあたらなかった。これはマルクスに守られていたからだといえないだろうか」。

 毛沢東はさらに、アメリカの爆撃がベトナム人民を団結させ、日本の中国侵略が中国人民を団結させたということをのべて、戦争を恐れてはならないことをかさねて強調した。そして、「コミュニケにたいする私の修正案について意見はどうか」と聞いた。「私自身の考えは疑問の余地なくはっきりしていたが、団員間での意見はまだ交換する機会がなかったので、私は『あとで研究する』と答えた」とある。

 毛沢東は「私はあのコミュニケを読んでたいへん不愉快だった。これは主題がはっきりしない。現代修正主義とあるが、だれを批判しているのかわからない。中国共産党も日本共産党もソ連の修正主義を公然と批判しているのだから、はっきり名指しで書かなければ駄目だ。このコミュニケは妥協的だ。私はどうしてもいわなくてはならない。このコミュニケは勇気がなく、軟弱で、無力である」といった。

 宮顕が、「コミュニケは最初日本側で起草した」と発言し、康生が「われわれの提案もはいっている」とのべた。
毛沢東は「北京の連中もこれに同意したのだろう。軟弱だ。私の意見を押しつけるわけではないが、原文のままだと発表しないほうがよい」と緊張した表情で、ところどころ声を強めながらのべた。そして彼は「これで私の意見は終わる。今度はあなた方が私を攻撃する番だ」と話を結んだ。きわめて緊張した雰囲気が続いていた。

 昼の12時近くになっていた。宮顕は、「毛沢東同志も率直に意見をのべた。われわれも率直に意見を交換するために来たのだ」と前置きして、自分たちの経験としてさまざまな誤った傾向とたたかって綱領を採択した経過にふれた。また、党が分裂したとき、スターリンがつくった51年綱領のなかの極左冒険主義の方針で、党が大きな打撃をこうむった苦い経験から、自主独立の方針を確立して、今の綱領も自分たちの手で独自につくりあげたこと、この経験があったから1960年の81カ国共産党・労働者党代表者会議の予備会議でも、はじめは少数だったが恐れず、独自の修正案を出して主張することができたこと、これは中国を含めて、どの党の指示のもとでやったことでもないこと、などをのべた。

 また私は、ソ連共産党との論争の問題にふれて、公開論争が始まるまえに、原水禁大会で来日した趙安博が私に、「ソ連共産党との公開論争を早く始めないとバスに乗り遅れる」と「扇動」したが、わが党はこの「扇動」に乗らず、ソ連の党が公然とわが党を攻撃するまで、名指しの論争はやらなかったという点も指摘した。

 さらに私は、わが党の第7回党大会で1950年のわが党の分裂問題を総括するまえ、ソ連を訪問した志賀、蔵原にたいし、フルシチョフはこの総括をやめるようにいい、志賀、蔵原が帰途北京にたち寄ったさい、劉少奇もこの総括をやることに反対した。「当時ソ中は世界の二つの大きな党で相当権威をもっていた。しかしわれわれは孤立を恐れず、フルシチョフや劉少奇に追随した志賀の意見をしりぞけ、われわれの自主的な判断で50年問題の総括をおこなった」とのべた。

 毛沢東が口をはさんで、「これは初めて知った」と、この劉少奇の件をかたわらの康生に聞いたが、康生は首をふって、知らない旨を示した。

 私は話を続けた。「ブカレスト会議でも、ここにいる米原同志が出席したが、フルシチョフの中国攻撃に賛成しなかった。これはだれに相談したことでもない。ソ連の第23回大会への欠席の問題も、どの党とも相談しないで独自に決めたことだ。中国との会談でもこれは話題にならなかった。このようにわれわれは孤立を恐れず、正しいと思ったことは、自主的な判断で勇気をもってやってきた」。

 「われわれは、ソ連共産党にたいしてきわめて原則的な態度をとっている。ソ連大使館のレセプションや革命記念日などの集会にも、彼らが志賀一派を参加させる限り断固として参加していない。その点ではわれわれはきわめて頑固派である」。

 「そういう頑固派はよい」と毛沢東が口をはさんだ。ソ連にたいする日本共産党の態度のくだりになると、毛沢東は少し表情をやわらげ、私たちのいくつかの態度について「あなたたちの方が進歩している」といって笑った。

 私は、ベトナム問題の重要性を強調して、次のようにのべた。「ベトナムの同志たちはよくたたかっているが、これにたいする国際的支援は必ずしもうまくいっていない。八十一カ国声明では社会主義の優位性ということをいっているが、いまベトナム問題では、その力を十分出し切っていない」。

 「中国が最悪の事態にそなえることはよいことだが、悪い可能性に備えるだけでなく、よい可能性を実現するために全力をあげる必要がある。中国に戦争が拡大した場合に備えることはもとより大事だが、ベトナム問題をベトナムで解決し、中国に拡大しないように努力することが大切だ。毛沢東同志もいったように、政治的に敵を包囲し、孤立させなければならない」。

 毛沢東が口をはさんで「もちろん政治的にも備えなければならない」とのべた。「そのためにはアメリカに反対する一切の力を結集してゆく必要がある」と私は続けた。「あなた方は、ソ連の権力は資本主義になった、ファシストになったといっている。しかし、そういう規定をするには、いろいろ科学的な研究をする必要がある」。毛沢東も「研究する必要がある」といった。

 わたしはさらに、国際民主運動のなかでの活動の問題、当時のインドネシアの事態の見方などについてものべた。毛沢東は、コスイギンが中国に来て、公開論争をいつまで続けるのかと尋ねたのにたいし、一万年ぐらい続けるつもりだといったこと、かつて蔵原と会ったとき、共産主義は一国で可能かと聞かれ、できないと答えたこと、「資本主義の復活の問題は、たえずおきてくる問題で、たばこ二箱で買収されるものもある」こと、などを話した。

 このとき、昼食の用意ができたとの知らせがあった。毛沢東が「食事にしてからまたやることにしては」と提案し、私たちも同意して食堂に入った。江青の姿は見かけなかった。ときに、午後二時すぎだった。会食には私たち代表団は全員が出席した。会食時の毛沢東はかなりくつろいで、「中国の党は日本の党に干渉しすぎた」と、1950年当時のことを、自分から反省的にもち出した。

 私が「とても元気そうだ」というと、彼は「時どきせきがでてこまる」といい、話はたばこのことに移って、互いに冗談の応酬が続いた。たばこをやめると国家財政が破たんするといった冗談も出た。毛沢東が「孔子は七十三歳で死んだ。私はいま七十二歳だが、今年七十三歳になる。そろそろ今年の終わりごろに、マルクスに会いに行けることになるかもしれない」というので、私は「このまえ会ったとき毛同志が、私の五カ年計画はマルクスのところに行くことだといったので、私はその五ヵ年計画には反対だといった。私はいまもその意見をかえていない」といった。蔵原は「この点でもよい可能性の方を追求してください」といった。

 漢字制限の話も出て、毛沢東が「日本では漢字をどれぐらい使っているか」と問い、蔵原が「当用漢字で二千あまりある」と答えると、「まだそんなに使っているのか。漢字は早くやめて、ローマ字にしたほうがよい」といった。私は「それには反対だ。だが、この問題は研究課題として議題からはずそう」などといい、さらに話ははずんだ。

 会食の最後に、毛沢東は「会談をどうする。私はもういうことはない」といった。私は「私の方はまだ残っている。そんなに多くはない」といった。毛沢東は「ではあすつづけよう」と答えた。終わりに一同ならんで写真におさまった。

 私たちはその晩、代表団の会議をひらいて正式に毛沢東の修正提案について討議した。きわめて重大な原則的問題であるので、若干の字句の置きかえであいまいに処理することはできない問題であると、皆が発言した。会議の決裂による日中両党関係の将来は多難が予想されるが、私たちが原則的な態度をとらなければ、理論的にも重大な誤りをおかすことになるし、内外に重大な混迷を与えることになるという点で、皆の意見は詳しく論議するまでもなく一致していた。この点、代表団に「軟弱」なメンバーは一人もいなかった。

 翌朝、毛沢東邸に着くと、趙毅敏がまずコミュニケについての意見をきいたので、「もしまとめるなら不一致点は保留し、一致点を簡潔に書いた原文のようなものとしてしかまとまらない」といって、私は問題点についての私たちの見解を詳細に説明した。そして、むしろ今日の会議は「コミュニケをまとめる問題に限定せずに、重要問題について話し合う良い機会だと思っている。お互いに自己の見解をおしつけることはできないが、話し合うよい機会だ」といった。

 趙毅敏は、毛沢東に報告にいった。やがて毛沢東がはいってきた。そして、無表情に「まだ話すことがあるか」と聞いたので、私は「少しあるから話す」といって、前日の話の補足として語った。それは趙毅敏にもいったように、私たちの立場をいっそう明確にしておくことが、訪問の主旨にかなうからである。私はレーニンが第三インターナショナルをつくった時期と今日との比較、ハバナでおこなわれた第一回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯大会の評価などについてのべた。毛沢東は、私の話の半ばで「北京での会談の記録は見た」と、ポツリといった。おそらく昨晩見たのであろう。そして、もう私たちを修正案の線で同意させることは、まったくあきらめたように見えた。

 私は、話が終わるまえに、「この会談をつうじて、論文を読むだけではわからないお互いの立場、論点やその根拠を知ることができた。一致しない点については、お互いにさらに研究し、こんごの実践の検証をえよう」とのべた。そして最後に、アジアの四党――日本、中国、朝鮮、ベトナムの、それぞれアメリカに領土を侵略されている国の党が共同しあうことが必要であると強調した。

 「話すことは以上のとおりだ」と私は結んだ。毛沢東はいった。「私もこれ以上話すことはない。ただ一こと二ことある。あなた方の態度はソ連共産党指導部に歓迎されるだろう。これが一こと目。私たちは歓迎できない。これが二こと目。コミュニケは発表できない。あなたたちの方でコミュニケを出すことを要求しないのに、われわれが出そうといったのはまちがいだった」

 「われわれは出すことに固執していない。われわれは、われわれの立場が、アメリカにもソ連指導部にも歓迎されないことを確信している。この点は意見が違うということだ」と私はいった。

 毛沢東は「どちらの意見が正しいか、事実で証明しなければわからない。天は落ちてくることはない。今後機会があればひきつづき話し合える。これでうちきろう」とのべた。最後に先方は「この会談はなかったことにしよう」といった。そして、毛沢東は立ち上がって歩きながら「さあ、これで双方とも身が軽くなった。お互いに荷物をおろしたから」とつぶやいた。

 毛沢東は二日目の会談ではわずかしか話さず、ニコリともしなかったが、それでも私たちが毛沢東邸を出るときには、玄関まで来て、私たちが自動車に乗るのを見送った。

 私たちはその日、飛行機で広州に行った。広州の人たちは、私たちが毛沢東に会ったが共同コミュニケは出なかったということで、両党関係になにか起こっているということを感じて、ショックを受けたようだった。予定されていた大規模な宴会も、全部とりやめになった。


 この時の「毛沢東・宮顕会談」の一部が漏洩されているが、毛沢東の武装革命理論に宮顕が辟易させられ、青くなって逃げるように帰国したと伝えられている。日中共産党会談における深刻な亀裂を生じせしめたものは何であったか。一つは、北べトナムの抗米民族独立闘争に対する諸国共産党の支援の在り方についての反帝統一戦線問題で、日共がソ連も含めた反帝運動の必要を主張したのに対し、中共はソ連に対する不信感をつのらせており「反米.反ソ統一戦線」でなければならぬとしたことにあった。こうしてソ共を廻る国際共産主義運動路線の問題で深刻な対立を生じさせることになった。

 もう一つは、日共の国内での革命の進め方に対する中共側からの批判が為されたことにあった。中共は、議会制民主主義を評価し、合法的平和的闘争を志向する日共の党路線を修正主義だと断じて、批判した。

 この経過について、岡正芳の1966.5.4日付け「理論部門担当幹部党員会議」における報告があり、それによると意訳概要「今度の訪問で、朝鮮とベトナムの党と我が党とは意見が一致したが、中国とはかなり意見の相違が明らかとなった。それには毛沢東の意向が反映していた。毛沢東は、革命勢力の根拠地である中国に対して、ソ連も含むアメリカ軍の反革命的勢力が戦争を仕掛けつつあり(中米戦争必死論、ソ連軍浸入論)、これに対応するのに中国・ベトナム・朝鮮・日本の党と人民の支援と革命行動が必要である。『その時、君達は中国を援助し、また君達自身の革命のために蜂起する腹を決めているのか』と、武装闘争の決意と準備を迫った。この毛沢東の情勢分析と日共の『アメリカ帝国主義のベトナム侵略の凶暴化に対する、ソ連も含めた国際反帝統一戦線の結成』観は平行線を辿った。毛沢東は、『沖縄の党の勢力は幾らあるか、沖縄でゲリラ活動を起こすことを、日本の党は考えたことがあるか』と大まじめに問いかけ、日共側はめんくらわされた」とある。


 
日本に帰ってから私たちは、先方が「なかったことにしよう」といったことも考慮して、約束したわけではなかったが、この会談については沈黙を守っていた。しかしその後、北京の「紅衛兵」の新聞が会談内容をゆがめて攻撃し、さらに岩村三千夫などが趙安博から聞いた話として、大変ゆがめた内容を伝えたので、私たちはその範囲内で必要な反撃をくわえた。

 会談で毛沢東も、また機会があれば話し合えるといっていたように、両党間の意見の不一致は、両党関係断絶を少しも意味しなかった。しかし、その後遺憾ながら、日本共産党の中国駐在の中央委員や赤旗特派員らにくわえられた北京での集団暴行、日本共産党の路線への攻撃と干渉、中国追随の分派活動で党から除名された者への支持などが相つぎ、両党関係は断絶して久しい。

 十年に及ぶこの断絶の機関は、短くはないが、しかし両党が生まれてからの長い友好の歳月から見れば、一期間に過ぎない。共産主義運動、社会主義国の誕生以来の歳月も、人間の寿命にくらべれば短くはないが、長い人類の歴史から見れば一瞬である。それぞれの国の人びとが、最善と思う道を探求しているが、歴史の検証はゆっくり待とう、とある。



【日中共産党決裂以降の歩み】
 日中共産党会談の歴史的決裂後まもなく中国で文化大革命運動が勃発した。中共は、国内的には走資派との呵責無き闘争を掲げ、他方日共に対しても遠慮会釈のない修正主義派批判を開始した。

 このころ、毛沢東は、北京から遠ざけられて上海にいた、という説もあるが、宮顕との会談での「毛語録」は、劉少奇・ケ小平勢力の強い北京、毛沢東を中心とした上海――といった文革直前の中国の雰囲気を伝えている。宮顕らを前に演説した彭真は、その二ヵ月後に失脚した。

 その後判明したことだが、私たちの会談の第一日、三月二十八日という日は、毛沢東があの「文化大革命」の“引き金”となったあの有名な指示――「私は地方にむほんを呼びかけ、中央に進攻することを呼びかける。各地は多くの孫悟空を輩出させ、天宮に攻めいるべきだ」という指示を出した日となっている。毛沢東が修正案のなかに、党内闘争にかんする規定をもち出した歴史的背景は、明白となった。

 この頃の政治状況に付き、「[社]日中友好協会編「日中友好運動五十年」(2000年6月東方書店)」の「友好協会、日共系と決別、表面化した協会内部の対立・抗争」が次のように纏めている。「佐藤内閣が反中国政策をとりはじめたころ、すでに説明したように、べトナム問題をめぐりアジア情勢は極度に緊迫していた。北べトナムへの軍事攻撃を拡大させる米国に対し、中国は、べトナムへの侵略は中国への侵略に通じるとみなし、断固として米国と対決し、国をあげて北べトナムの抗米・民族独立闘争を支援する決意を固めた。一方、"中国脅威論"にとりつかれた米国は、いっそう中国封じ込め政策に方を入れ、そのいったんとして日韓両国政府に、国交正常化のための日韓交渉の早期妥結をうながす。そうすることにより、日・韓・台の連携を強化し、中国包囲網強化の要(かなめ)とすることができるからである。

 他方でまさにそのころ、中ソ対立が公然化し、両国共産党間の論争・対立から、国家間の対立へとエスカレートしつつあった。中国が「社会帝国主義」と非難するソ連の大国主義的干渉が、このような事態を招いたのである。このため中国は、米国とソ連の二超大国から挟み撃ちされかねない情勢に追い込まれ、この危機を乗り切るためにも文化大革命を発動、国内体制の再編・強化と取り組みはじめたのである」。

 これに対して、日共も、以後中共の文化大革命批判とその理論の教条主義性を批判し始め、自主独立路線への転換に乗り出すことになった。日共党内は宮顕派と中共派に分裂し、党中央を掌握する宮顕派は強力に党内工作を推進し、党内中共派のパージを開始した。赤旗は連日のように「国際友好運動における自主独立」路線についての大論文を発表し、赤旗紙上からは、北京放送の番組や中国の雑誌「北京周報」、「人民中国」、「中国画報」や「毛沢東選集」の広告が一斉に消えた。そればかりではない。赤旗の紙上から中国に関する報道は完全に姿を消し、最近の中国のプロレタリア文化大革命に関する記事は一行も出ないという徹底ぶりであった。日中青年友好大交流の記録映画「団結こそカ」の上映禁止措置も取られた。

 
赤旗論調は、毛沢東思想に反対し、中国のプロレタリア文化大革命に反対し、「毛沢東は脳軟化症になった」、「文化大革命は失敗する」、「いまに劉少寄、ケ小平の路線が復活するから、もうひと辛抱だ」とする反毛沢東主義による反中共思想教育を党内外に徹底的に開始した。

 1966.5毛沢東は半年ぶりに公式の場に姿を現し、上海でアルバニア党・政府代表団と会見。

 6.15日付け赤旗論文で、「中国共産党指導部が、反米統一戦線の路線から反米・反ソの国際統一戦線の路線への重大な『路線変更』をおこなったことを具体的に指摘した。

 他方、中共は、「アメリカ帝国主義.ソ連社会帝国主義.日本の反動勢力.宮本修正主義集団」を打倒せよという「四つの敵論」を唱え始め、両党は長年の友好関係から一気に不倶戴天の仇敵関係となった。

 7.16日毛沢東主席が五千人の人々の前で揚子江を泳いで見せた。「毛主席健在」をアピールした。

 



 中国共産党指導部はその後、一九七一年六月にルーマニア共産党と、七一年十一月、七三年六月にベトナム労働党と、最近では一九七五年四月に朝鮮労働党と、それぞれ会談したが、どの共同コミュニケのなかにも反米反ソの主張は書き込まれなかったことである。

 第二は、アメリカの侵略にたいするベトナム人民の解放闘争は、二年前にアメリカの全面撤退という完全な、世界史的な勝利をかちとったことである。私たちの重視した国際的な反帝統一戦線は、形の上では実現しなかったが、この間事実上世界の社会主義国、反帝勢力、すべての共産主義者の党が、それぞれベトナム人民を支援するという立場を表明した。そして、ベトナム人民の賢明で自主的な偉大なたたかいを土台に、アジアの歴史は大きく書きかえられた。






(私論.私見)