441332 | 「61年宮顕綱領」考 |
【「61年宮顕綱領」決議過程の暴力性考】 |
「61年綱領」の胡散臭さが追求され始めている。宮地氏の「共産党、社会主義問題」で、著・小山弘健(宮地編集)「61年綱領採択めぐる宮本顕治の策謀」、「第8回大会・61年綱領の虚像と実像」により「61年綱領」の策定過程が集中的に取り扱われている。それを読めば、信じられないほどの暴力的な編成過程を通じて決議されたのが「61年綱領」誕生秘話であることが知られよう。党員ないし左派関係者は驚愕するだろうか、あるいは何も知らされていなかった無知を恥じることになるだろうか。 これにより、従来不破が党大会記念講話で自画自賛していた「61年綱領」過程の変調さとこれをまことに饒舌していた詭弁ぶりが白日の下に晒されることになった。れんだいこに云わせれば、不破の正体を知る機会でもある。問題は、その詭弁ぶりの故意的な悪質さに有る。自己批判すれば済むようなものではなく、叩き出す以外に無い、それが出来るか出来ないかが左派的能力を証することになるだろう。不破のソフトスマイルは一見好紳士的である。しかし、スマイルの奥に潜んでいるのはとてつもない革命事業絞殺のサディズムである。今後は不破のジキルとハイド的関係のヌエ性が分析されていかねばならぬだろう。 情報元となった「革命運動の虚像と実像」の著者小山弘健氏は神山派のイデオローグである。神山派は日共党内における右派系の一分派であるからして、「革命運動の虚像と実像」にはそうした立場上による観点の曖昧さが投影しており、その分析はまだまだぬるい。但し、克明に史実を遺してくれたことに感謝する。そこで、この情報を下敷きにしながら日本左派運動の再生という観点から必要な個所にコメントしておくことにする。 2003.6.22日 れんだいこ拝 |
【「61年宮顕綱領」の欺瞞性考】 |
【「61年綱領」(第8回党大会、1961年7月27日決定の日本共産党綱領)】(![]() |
|
|
【日本共産党綱領(1994年7月23日 一部改定)([English])】 |
目次 (※見出しは、読みやすくするために編集者がつけたものです) 第二章 戦後、日本はどう変わったか――アメリカの世界支配の拠点に |
第一章 日本共産党の創立と戦前のたたかい
|
不滅の意義をもった平和、民主主義のたたかい 帝国主義戦争と天皇制権力の暴圧によって、国民は苦難を強いられ、無数の国民の血が流され、国土は焦土となった。侵略戦争は、2,000万人をこえるアジア諸国民の生命をうばった。 |
第二章 戦後、日本はどう変わったか
|
一連の「民主化」措置とアメリカの占領支配 わが国を占領した連合軍の主力が、原爆を武器として対ソ戦争の計画をもち新しい世界支配をねらうアメリカであったことは、日本国民の運命を、外国帝国主義への従属という歴史上かつてない状態にみちびく第一歩となった。世界の民主勢力と日本人民の圧力のもとに一連の「民主化」措置がとられたが、アメリカは、これをかれらの対日支配に必要な範囲にかぎり、民主主義革命を流産させようとした。現行憲法は、このような状況のもとでつくられたものであり、主権在民の立場にたった民主的平和的な条項をもつと同時に、天皇条項などの反動的なものを残している。天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた。 |
サンフランシスコ体制の成立 中国革命の勝利など、世界とアジアの情勢の変化に直面して、アメリカ帝国主義は、その目的を達するために、新しい手段をとった。1951年、ソ連と中華人民共和国をのぞいてサンフランシスコ平和条約がむすばれ、同時に日米安全保障条約が締結された。これらの条約は、形式的には日本の独立を認めることで日本国民の民族独立のたたかいをおさえながら、一方では、ポツダム宣言の拘束をまったくすてさり、実際には、日本をアメリカの世界支配の重要拠点としてかため、日本の支配勢力をアメリカ帝国主義により積極的に同調させ、日本の軍国主義を復活・強化することを目的としたものであった。 |
第三章 現在の日本の情勢の特徴 現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカ帝国主義ににぎられた事実上の従属国となっている。 数多くの米軍基地、ふみにじられる領空、領海 わが国には、数多くのアメリカ軍事基地があり、沖縄はアジア最大の軍事基地とされている。アメリカ帝国主義は、わが領空、領海をほしいままにふみにじっており、広島、長崎、ビキニと、国民が三たび核兵器の犠牲とされた日本に、核兵器さえもちこんできた。 困難で不安定になる働く人びとの生活 日本の反動的な支配体制の中心である日本独占資本主義は、アメリカが支配する新しい条件のもとで再編・強化され、対米従属的な国家独占資本主義としての特徴をそなえつつ、日本の労働者階級と勤労人民にたいする搾取、収奪を最大の基盤にして、今日では、世界第二の経済力をもつにいたった。経済上の対米従属・依存は、工業にたいする農業のいちじるしいたちおくれ、おびただしい中小企業と大企業との矛盾などとむすびついて、日本独占資本主義の諸矛盾をいちだんと複雑でするどいものにしており、人口の圧倒的多数をしめる労働者、農民、勤労市民をはじめ、人民各階層の生活は、ますます困難で不安定なものにされている。 軍国主義、帝国主義の復活・強化の道すすむ日本独占資本 これにたいして、ひとにぎりの大企業は、ますますどん欲に富を蓄積し、巨大化し、多国籍企業化している。その利潤優先の開発政策は、自然と生活環境の破壊を全国的な規模でひきおこしている。また最大の利潤をあげるために国家機構を使って広範な国民各層を略奪し、反動政治家・上層官僚との腐敗した結合をつよめ、汚職、買収、腐敗をはびこらせ、日本独占資本主義の腐朽をふかめている。その支配はますます民族の利益とあいいれないものとなっている。 |
第四章 20世紀の大きな流れと今日の世界
世界平和と民族自決、社会進歩の事業の前進 世界の資本主義は、20世紀とともに、独占資本主義、帝国主義の段階にはいった。それ以来約一世紀のあいだに、世界の平和と民族自決、社会進歩の事業は、多くの激動と曲折をへながらも確実に前進してきた。 戦後のアメリカ帝国主義の世界支配の野望 帝国主義陣営の内部では、情勢の変化に対応するために、アメリカを中心とする軍事ブロック化がすすんだ。アメリカ帝国主義は、軍事ブロックを手段として、発達した資本主義国をふくむ多くの国ぐにの主権を侵害し、また各国の独占ブルジョアジーは、その支配を維持するなどの目的で、アメリカ帝国主義の力をかりるために、自国の主権を犠牲にしてきた。資本主義の不均等発展により、帝国主義陣営の内部の矛盾はつよまっているが、帝国主義と反動の国際勢力は、平和、民族独立、社会進歩の運動を抑圧し、世界諸国民への支配をつづけるため、アメリカ帝国主義を盟主とする軍事的・政治的同盟にひきつづき結集している。この軍事ブロック政策は、アメリカの経済的な覇権や権益を追求する経済的な覇権主義と不可分にむすびついている。 ソ連・東ヨーロッパでは、なにが「崩壊」したのか 社会主義をめざす国ぐには、第二次世界大戦後、世界の広大な地域にひろがった。しかし、最初に社会主義をめざす道にふみだしたソ連では、レーニンの死後、スターリンを中心とした指導部が、科学的社会主義の原則を投げすてて、対外的には覇権主義、国内的には官僚主義・専制主義の誤った道をすすみ、その誤りはその後の歴代指導部にもひきつがれ、ときにはいっそう重大化した。覇権主義とは、もともと帝国主義の対外政策である覇権、侵略の政策のことであり、社会主義を名乗る国がこれをおこなうことは、社会帝国主義への堕落にほかならなかった。覇権主義の誤りは、社会主義をめざす他の一部の国ぐににもあらわれた。これらの逸脱から生まれた否定的現実は、歴史の発展にそむくものであり、世界の心ある人びとを悲しませた。とくにソ連などの覇権主義が、他国の党への干渉、さらには1968年のチェコスロバキア侵略、1979年のアフガニスタン侵略など、他国にたいする軍事侵略としてあらわれたことは、重大だった。これらの干渉と侵略の行為は、それ自体が国際緊張の一定の要因となるとともに、ほんらい対外干渉や侵略とは無縁である科学的社会主義の理念を傷つけ、民族独立、平和、社会進歩のための連帯と闘争に困難と障害をつくりだした。こういう情勢のもとで、資本主義諸国の革命運動では、運動の自主的発展への原則的努力がいちだんと重要になった。日本共産党は、各国の革命運動、民主運動の自主性と科学的社会主義の原則的な立場を擁護し、日本の運動にたいするいかなる覇権主義の干渉にたいしても断固としてたたかってきた。国際的にも、アメリカ帝国主義の侵略についても、ソ連などの干渉についても、覇権主義を世界史の発展をさまたげる巨悪と位置づけ、そのすみやかな克服のために一貫した努力をそそいできた。 資本主義の矛盾と歴史の方向 ソ連などの解体は、資本主義の優位性をしめすものではない。巨大に発達した生産力を制御できないという資本主義の矛盾は、現在、世界でも日本でも、広範な人民諸階層の状態の悪化、くりかえす不況と失業の増大、環境条件の破壊など、かつてない大きな規模と鋭さをもってあらわれている。核戦争の危険もひきつづき地球と人類をおびやかしている。アメリカを先頭とする帝国主義陣営の世界支配をめざす政策と行動は、世界の広範な地域で、国の政治的、経済的な独立のためのたたかいを諸国人民の切実な課題とし、帝国主義の支配を不安定にしている。軍事ブロック体制の強化と新旧植民地主義に反対する非同盟諸国の運動は、世界政治で重要な役割をはたしている。発達した資本主義諸国では、ソ連覇権主義への追随が多くの政治的道義的退廃を人民運動の一部に生みだし、それがおよぼした否定的影響には重大なものがあるが、そのなかでも、労働者階級のたたかいをはじめ、生活と権利、平和、民主主義をもとめるさまざまの運動が発展している。 核兵器廃絶は共産主義者の第一義的な任務 40年にわたる軍拡競争のなかで蓄積された巨大な核兵器は、現在でも、数万発という規模で存在し、ひきつづき人類をおびやかす重大な脅威となっている。この脅威を一掃するために不屈にたたかうことは、共産主義者の第一義的な任務である。核戦争の脅威を根絶するには、核兵器の廃絶にかわる対案はない。アメリカなどが主張している核不拡散条約の体制の永続化とは、現在の核保有国による核兵器の独占を体制化することであり、核兵器を武器としたアメリカ帝国主義の覇権主義を世界におしつけようとするたくらみである。世界平和のためには、核兵器に固執する勢力のこういうたくらみをこそ、打ち破らなければならない。 |
第五章 国民大多数の利益をまもる新しい日本へ
|
第六章 独立、民主、平和日本の実現めざして民族民主統一戦線と党の役割 日本共産党は、以上の要求の実現をめざし、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のためにたたかうなかで、労働組合、農民組合をはじめとする人民各階層、各分野の大衆的組織を確立し、ひろげ、つよめるとともに、反動的党派とたたかいながら民主党派、民主的な人びととの共同と団結をかため、民族民主統一戦線をつくりあげる。この民族民主統一戦線は、労働者、農漁民、勤労市民、知識人、女性、青年、学生、中小企業家など、平和と祖国を愛し民主主義をまもるすべての人びとを結集するものである。 統一戦線政府から革命の政府へ 民族民主統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の機関から人民に奉仕する機関にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる。 |
第七章 真に平等で自由な人間社会へ
|
(私論.私見)
不破(当時、幹部会委員長)は、2000年7月20日、日共創立78周年記念講話「日本共産党の歴史と綱領を語る 戦後の党の歴史から―1950年代のソ連・中国の干渉と『軍事方針』」(![]() では次に、この二つの党大会でわが党がどのような路線を確立したのか、どのような方針を確立したのか、その問題に進みたいと思います。 自主独立の立場とは――外国の干渉を許さない、どんな外国の経験もモデルにしない一つの大事な点は、自主独立という立場であります。 「五〇年問題」という本当に手痛い経験を通じて、そこからわが党はこの立場――自主独立の立場を確立しました。 それは、 これは、当時の世界の共産党の中では、もっとも先進的な立場でした。そして、それが、口先だけのもの、言葉の上だけのものではなく、本物であったということは、その後のソ連の干渉との闘争、中国の干渉との闘争、こういうたたかいで十二分に試されたと思います。この自主独立というのが第一の点であります。 党綱領のいくつかの特徴点次は、第八回党大会で採択した綱領の内容であります。ここでは、そのいくつかの特徴点だけをお話しします。 第一の点は、日本の社会と政治のどんな変革も議会の安定多数を得て実現することをめざす、つまり平和的、合法的な方法によって政府をつくることをめざす、このことであります。これは、干渉者が過去に押しつけてきたような武装闘争方針や暴力革命の路線をしりぞけるということを、党の綱領の上できっぱりと表明したものでありました。 国民の多数、選挙で多数の支持を得て前進する――われわれはこの方針を「多数者革命」とよんでいますけれども、国民主権の旗を貫いてきた日本共産党としては、まさに当然の立場でした。 第二の点は、当面の変革の内容について、民主主義革命論の立場をとったことであります。日本は高度に発達した資本主義国でありますが、資本主義から社会主義に進むということは今の課題ではない、「資本主義の枠内での民主的改革」が日本社会の当面の中心課題だということを見定めた方針でありました。 とくにその内容として、日米軍事同盟を中心にしたアメリカへの従属関係をなくすこと、大企業の横暴な支配を打ち破ること、この二つの内容を大事な要(かなめ)として規定しました。日本の政治を変え、社会を変えるというとき、日米安保条約にもとづくアメリカへの追随・従属の問題、それから大企業の横暴な支配の問題、ここに最大の焦点があるということは、この綱領決定以来約四十年間にわたるわれわれの活動のなかで、またその間の日本の情勢の進展のなかで、十分に証明されたことであります。 実は当時、世界の多くの国々、特に日本と同じような進んだ資本主義の段階にあった国々の共産党は、圧倒的多数が社会主義革命論をとっていました。そのなかで、日本共産党が社会主義革命論をしりぞけて、民主主義革命論――資本主義の枠内での改革・変革という方針を決めたことは、こういう問題でも、日本共産党の独自の立場を示したものとして、注目されました。 第三の点は、この綱領が、社会は段階的に発展するものだという立場を貫いていることであります。共産党でありながら、社会主義革命をすぐの問題にしないで、まず「資本主義の枠内での民主的改革」をめざすということ自体が、段階的発展の考え方を示していますが、私たちは、綱領のなかで、さらに民主主義の問題にも、いろいろな段階があるという立場を明らかにしました。 たとえば、綱領には政府の問題についての規定があります。民主的な改革を全面的に本格的にやりとげる政府が目標だが、それにいたる過程にもいろいろな段階の政府がありうるということが、綱領のことばでのべられています。これは、一口に民主主義革命といっても、その民主主義そのもののなかに、国民の間で問題が成熟する度合いに応じて、いろいろな時期、いろいろな問題提起がありうるということを示したものであります。 改革の内容についても、たとえば綱領では、日本の民主主義を徹底する立場から、将来、君主制を廃止するという問題を、大きな目標にしています。しかし、当面の改革の内容を定めた行動綱領では、この問題をとりあげていません。同じ民主主義の問題でも、君主制の廃止が問題になるのは、もっと進んだ時期の問題。国民世論の間でこの問題が成熟するといいますか、これを解決することがそういう意味で日程にのぼってきた時に問題になるという位置付けで、当面の行動綱領からは省いているわけです。 そういう点で、民主主義の問題でも、あるいは民主主義と社会主義との関係の問題でも、社会は国民多数の世論の成熟に伴って段階的に発展するという考え方を貫いていることは、この綱領の特徴です。 第四の点としてあげておきたいのは、綱領が社会発展の全過程で、統一戦線と連合政権ということを、一貫した方針にしているという点です。いまの民主主義の段階では、もちろん統一戦線の方針を明記しています。しかし、将来、社会主義の改革が問題になるときにも、綱領では目標が一致するすべての党派、勢力と共同するという立場を明記しています。つまり、その時々、当面する改革の中身で一致する政党、団体、個人が共闘すること、そしてその共闘が国民多数の支持を得た場合には、そういう勢力による連合政権をめざすこと、これは日本の政治を変え、社会を変える大方針として、綱領が一貫した特徴としているところであります。 当時は、革新政党といわれた社会党などは、綱領の文献で「社会党単独政権をめざす」ということを明記していました。しかし、私たちは、最初から、単独政権ということは問題にしませんでした。社会というのは、いろいろな考えの人々から成り立っているのですから、社会のさまざまな流れを代表するいろいろな政党がありうる。それぞれの時期に、改革の中身では一致しても、いろいろな政党がありうる。そういう政党・団体の協力・共同で、一歩一歩前進していく。これがわれわれの基本的立場であります。 こういう内容の綱領路線を確立したからこそ、さまざまな時期に、状況にあった弾力的な対応ができる、そういう力を私たちの党の活動に、また政策に与えている。そこに綱領の大事な点があることをくみとっていただきたいと思います。 二つの大国の干渉との闘争この綱領を決め、自主独立の態度を決めたあと、日本共産党は六〇年代に新たな試練に見舞われました。それは、形は変わりましたが、再びソ連、中国という二つの大国の干渉にぶつかったということであります。 六一年の党大会で新しい路線を決めたときには、党はまだ小さいものでした。党の内部の討論で、「五〇年問題」の過去の誤りを克服したといっても、いったん断ち切られた国民と党との間のつながりは、なかなか回復しませんでした。 五九年に参議院選挙がありましたが、そのときの得票は全国区で五十五万票、一・九%でした。それから六〇年十一月、安保闘争のあとに総選挙がありましたが、そのときの得票は百十六万票、二・九%でした。議席でいうと、党の綱領を決めた第八回大会の時点では、衆議院三議席、参議院三議席、合計六議席というのが、われわれの議会勢力でした。 そのまだ小さな力だった日本共産党に、六〇年代に再度の干渉が加えられてきたのです。 二つの大国の党が両側から同時攻撃――世界に他に例がなかった今度は五〇年代の干渉とは違って、ソ連、中国がお互い論争の関係にありましたから、それぞれ別個に干渉をくわだててきたわけであります。干渉の攻撃がはじまったのは、ソ連は一九六四年から、中国は一九六六年からでした。そのやり方は共通のものでした。 党内にソ連派を組織する、中国派を組織する。そして内部から主導権を奪って、日本共産党を自分たちの支配下に置こうというやり方でした。そしてまた、日本共産党を日本の政界で孤立化させるために、他の政党との関係を利用する、こういう攻撃の手口もソ連、中国共通してとられました。 こういう形で二つの大国の党から同時に干渉の攻撃を受けた党は、世界にはほかにはありませんでした。これは、日本共産党が自主独立の党であることの証明でもありましたが、証明だといって喜んではいられない、なかなか大変苛烈(かれつ)な事態でした。 しかし、私たちはこれを完全に打ち破りました。二つの大国主義にたいする闘争とこの勝利は、私は、二十世紀の歴史に書き込まれるにふさわしいものだと思っています。(拍手) 攻撃の旗印――ソ連は「応援団」化の要求、中国は暴力革命論のおしつけだった攻撃の旗印はそれぞれ違っていました。ソ連共産党の攻撃は、ソ連の対外政策を無条件に支持せよ、その応援団になれというものでした。そして、わが党を攻撃しただけではなく、原水禁運動など日本の平和運動をソ連の応援団に変えようとして、あらゆる策謀をめぐらせました。私たちは平和諸団体とも協力して、この干渉策動を完全に打ち破りました。 中国共産党は、毛沢東たちが国内で「文化大革命」を起こしているのと並行して、日本への干渉攻撃をおこないました。内容はいろいろありましたが、その中心になったのは、再び暴力革命路線の押しつけでした。「鉄砲から政権が生まれる」――ここに中国革命の世界的な教訓があるとして、レーニンの『国家と革命』などをふりかざしての攻撃がおこなわれました。 私たちは、これにたいして、レーニンを不変の真理、いつでもどこでも通用する絶対の真理扱いすることに反対し、マルクス以来の科学的社会主義の理論と運動のなかには、民主的議会制度をかちとる闘争、そしてまたそのもとで「議会の多数をえて革命にすすむ」という方針が一貫して流れていることを明らかにし、この無法な攻撃を理論的にも打ち破りました。 最近、私が発表しているレーニンの研究は、それから三十数年たった段階で、当時の研究をより発展的に展開したものだと思って読んでいただければありがたいと思います。 そして、いまあらためて痛感するのですが、中国からの当時の干渉は、ただ日本共産党への攻撃にとどまるものではありませんでした。いわゆる「過激派」を礼賛し、彼らが暴力行動をやると、新聞や北京放送でこれを賛美、激励する。さらに具体的に「すべての過激派大同団結せよ」というよびかけを発する。そこまでやったわけで、日本の内政にたいする外国からの目に余る干渉でした。 しかし当時、日本共産党以外に、これを批判した政党は一つもありませんでした。反対に、「文化大革命」を礼賛し、だれが中国との関係の窓口になるかを争い合うというのが、社会党から自民党、公明党まで含めた日本の政界の圧倒的な流れになっていました。わが党に、いま根拠もなしに、「暴力革命論」をなすりつけようとしている反共派は、えりを正してこの歴史を振り返るべきではありませんか。(拍手) 干渉問題の政治的決着はついたこの二つの大国主義の干渉との闘争は、政治的にも明確な決着がつきました。 ソ連とは、干渉の開始以来十五年たった一九七九年にソ連側が誤りを認めたので、それを基本として関係を正常化しました。ソ連はいろいろな国に干渉をやりましたが、干渉の誤りを公式に認めて関係を正常化したというのは、資本主義国の共産党との間では、これが最初にして最後のことでした。 しかし、ソ連の大国主義、覇権主義とのたたかいは、アフガニスタン問題など、その後も続き、九一年のソ連共産党とソ連の崩壊に至りました。私たちはソ連共産党解体の時に、「歴史の進歩を妨げてきた巨悪が崩壊したものとして、これを歓迎する」という声明を発表しました(拍手)。これは、私たちの多年にわたるソ連大国主義との闘争の文字通りの実感を示したものでした。 中国共産党とは、干渉が始まってから三十二年後の一九九八年に、中国の現在の指導部と関係を正常化しました。それに臨んだ中国側の態度には、私は、かつてのソ連に見られない誠実さがあったということを、ここで指摘しておきたいと思います。 いまの中国の指導部は、大多数が「文化大革命」の時代に迫害されていた人たちであります。ですから、日本への干渉には直接の責任はありません。そしてまた、干渉の事実も具体的にはあまりよく知っていません。しかし、中国側は、私たちの指摘に応じて過去の歴史もよく調べ、毛沢東時代に明確な干渉の誤りがあったことを率直に認め、それを総括して是正することを明らかにし、しかも、われわれと合意したその内容を、テレビ、新聞などを通じて天下に公表し、今後の活動の教訓にするという態度まで示しました。 一九七九年のソ連との関係正常化は、これとはまったく様子がちがっていました。誤りを認めたものの、認めたことをソ連の国民にはできるだけ知らせたくない、という調子が一貫していました。そして日本共産党には誤りを認めたが、その口の下で、もうすぐアフガニスタンへの侵略戦争を起こすという態度でしたから、本当にソ連の大国主義の病は救いがたいということを、われわれは関係正常化の後も痛感したものでありました。 しかし、中国共産党との間では、それとはちがう誠実さを、私は感じました。 中国共産党との関係正常化についての合意のその部分を紹介しておきます。 「中国側は、六〇年代の国際環境と中国の『文化大革命』などの影響を受け、両党関係において、党間関係の四原則、とくに内部問題相互不干渉の原則にあいいれないやり方をとった(「内部問題相互不干渉の原則にあいいれないやり方」というのは、「干渉の誤りを犯した」ということです)ことについて真剣な総括(経験を総括して反省すること)と是正(誤りをただすこと)をおこなった。日本側は中国側の誠意ある態度を肯定的に評価した」 この合意が日本共産党と中国共産党の、その後の二年間にわたる友好・交流の関係の固い基礎となっているわけであります。 いま見てきたこの闘争というのは、自主独立の立場の点でも、議会の多数をえて政治の変革をすすめるという大方針の点でも、日本共産党の路線が、口先だけのものではない本物であることを、いわば党の生死をかけた闘争で実証した歴史となりました。 日本共産党をヨーロッパから見るととくに自主独立の立場についていいますと、ソ連共産党の崩壊の前後に、ヨーロッパの共産党の幹部が、私たちにいろいろな感想を寄せてくれました。 たとえば、スイスのある党の幹部は“日本共産党にたいするソ連の干渉をはねのけて、相手に誤りを認めさせて公正な決着をつけたあなた方の党のたたかいは、われわれにとってほんとうに驚きだった。いちおう党間の関係の基準はうたわれているのだが、実際にはソ連が絶対的で、ソ連指導部の意向には逆らえないというのが不文律だった。これが現状だった。フランス共産党はいうまでもないが、イタリア共産党も、ソ連と意見の違いがあっても、折り合い方をきちんと心得ていた”と語りました。つまり、自主独立という言葉はヨーロッパにもあったが、ヨーロッパのそれと、日本共産党のそれはまったく違っていた、という感想です。 ベルギーの党の幹部はこういっていました。“われわれはソ連が誤りを犯した時には、慎重にそれを指摘してものはいった。しかし、当時は妥当だと思えたことも、いまからみると、非常にみみっちいことでしかなかった。率直にいって、当時は、あなた方の党を大胆不敵な党、「アンファン・テリブル」(異端児)とみていた。ヨーロッパ流の物差しをいくら引き伸ばしても、あなた方のようなソ連との対決の仕方はでてこなかった。しかし、その大胆不敵さが歴史の進歩に合致していたことが証明された”。 こういう党だからこそ、私たちは、ソ連共産党の解体に際して、先のような歓迎の声明を発表することができたのであります。そしてまた、世界的には共産党の運動が困難な時期を迎えたとされる九〇年代に、党の歴史の上でも特筆すべき大きな前進を、全体として記録することができたのであります。(拍手) |