4412341 「れんだいこの50年問題総括」


武装闘争路線の背景事情考





(私論.私見)


【宮本顕治的人間観の対極から(樋口篤)(寄稿・増山太助『戦後期左翼人士群像』によせて、かけはし2000.11.27号より)】


 武装闘争への責任逃れに終始

 そして日共による武装闘争の真相である。だが宮本党と党史の姿勢は一貫して、「党のやったことではない」ということにつきる。それは「ソ連、中国の指示のもとに、覇権主義的干渉の手先機関、分派『対外指導部』『北京機関』を結成」し(七〇年年表)、その徳田分派が勝手にやったことという立場と扱いである。『五〇年史』の見出しは「『五一年綱領』と極左冒険主義」、『六五年史』は「徳田派による極左冒険主義」に、野坂除名によってさらに改変された『七〇年史』では「徳田、野坂分派による武装闘争路線の破たん」と変わっていく。

 だがこの態度は、五〇年代当初の状況下を踏まえていえばまったくおかしい。いや間違っている。第一に、当初はスターリンは`絶対的無謬の指導者aでありその指導下のコミンフォルム(西欧共産党情報局)の指示は、絶対視された。だからこそ所感派=主流派対国際派の大分裂抗争に対して、五一年八月の「主流派は正しく、国際派は分派でありただちに解散せよ」の指示=命令に、国際派は無条件に従ったのであった。

 第二に、排除されていた宮本顕治らは「党復帰」にあたって、スターリン指導の「五一年綱領」と一対の軍事方針(国内指導部の椎野悦郎起草という)―「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」―をともに承認したのであった(増山著二二〇頁)。復帰した国際派幹部は、その部署につけられなかっただけなのである。ただし早大細胞の由井誓(二一七頁)のように復帰するや、懲罰として東京でも最も困難な奥多摩の小河内工作隊に派遣され、辛酸をなめさせられたのであった(「岩崎貞夫と由井誓」)。

 失敗は初めから決まっていた

 この軍事闘争方針は、中国革命の武装闘争を客観的経済的状態のまったく異なる日本に、機械的に適用したもので、はじめから失敗が決まっていた。当時でも「共産党の山村工作隊を拡大してゆくような辺境政府のまねごと」(『日本社会党(左)綱領』清水慎三私案、53年9月)と、批判されていた。が、猪突猛進して自滅し、国民からまったく浮き上がり孤立した。四九年総選挙では、二百九十八万票(九・八%)、三十五人当選が、五二年は八十九万票、五三年には六十五万票に激減したのである。

 だが宮本党史は(例えば『六五年史』)、党の分裂と宮本ら国際派の対応はたいへんくわしく十頁近くにわたっているのに軍事闘争についてはごく簡単に片づけ、ソ連や中国の党が日共の内部問題に干渉し「中国の『人民戦争』路線を日本にも適用することをおしつけた」という。よくもぬけぬけとこう言えるものだ、と感心してしまう。もしも「おしつけられ」ても、日本の党が受けいれれば、日本の党の責任なのである。中国革命へのスターリン・コミンテルンの指示を受け入れた陳独秀、李立三路線に対して、中国共産党はたとえソ連の指示であっても受け入れた以上中国人の責任としたのである。

 私は、三十年くらい前から椎野悦郎、西沢隆二ら関係者に軍事闘争の全体像を明らかにすべきだ、と直に言い、西沢は「やっていい」と言ったが、その直後死去してしまった。椎野は晩年、法大大原社会問題研究所で話したというが、聞いた人の話では、朝鮮労働党から関門海峡の海底に爆薬を仕掛けて米艦を沈めてくれ、と言ってきたが断わった、などと言う話だった。また、三里塚・戸村選挙後に神奈川の「連帯する会」でスパイ事件が起き査問(ごく平和的に夜を徹してやっと本人が自分がやったと自供し署名した)委員会がやられたが、その席上、椎野は「当時毎日のように朝鮮の党員が信任状と麻薬をもって党本部をたずねてきたのには困った」とスパイ氏の眼の前で語った。五〇年秋頃に、山本党九州地方委議長が、麻薬事件で逮捕され、新聞一面に大きくのったことがあったが、この時までそれはデマだ、と私は信じていた。だからそれが事実であったことに、驚きかつ憤慨したこともあった。  (つづく)