4412334 評者の諸見解





[JCP−Watch!]掲示板
[ トップへ / 直前の掲示板へ / 利用方法 / 一覧表示 / 最新記事 / 新規投稿 / 管理用 ]

新綱領案をどう見るか(1)
小田(03/6/25 08:12)

> 今回、発表された綱領改定案について議論してみたい。

まだザッと読んだくらいですが、いくつか気がついた点や感想などを少々・・・。
全体的には、まあ予想範囲内だな、と言うのがあります。最近の不破さんの講演論文等を読んで、おそらく基本的には「科学的社会主義の立場」は堅持し、「二つの敵論」的日本資本主義社会観も、表現は多少和らいでも、内容的には変わらない可能性が高いかと思っていました。また、この間の不破さんのマルクス研究、レーニン批判などや、在野のマルクス研究者たちの新たな「マルクスの理論」観を反映して、社会主義についての記述が変わる――おそらく働く人々のアソシエーションとしての社会主義論や市場経済を容認した議論――可能性はあるかと思っていました。新しい綱領案は、実際、これら不破流「科学的社会主義」理論がかなり色濃く展開された内容になっていると思います。私自身は、共産党の言う「資本主義の枠内での民主的改革」や「ルール化された資本主義への改革」を本格的に実行可能なプランとして追求するならば、従来の「科学的社会主義の立場」は棄却されざるを得ないであろうし、欧州社会民主主義の潮流とも相通じる綱領に大胆に変えていくべきだと考えています。実際、ノスタルジック左翼ではない立場で共産党に期待する声の中に、共産党に欧州社会民主主義のような政治的役割を果たしてくれる事を期待する向きがかなりあるように思います。残念ながら、これらの期待に明確に答えていると言えるほどの大胆な変更は見られませんが、これはまあ予想できました(笑)。

しかし、以前の共産党綱領などと比較してみると、「科学的社会主義の立場」の表看板は維持しつつ、その内容はかなり様変わりしており、いわゆる構造改革派的な議論が色濃くなっている様に思えます。例えば、87年綱領などと比較してみると、単なる用語の置き換えに表面上見えるその背景に、国家観、権力概念、革命論などの顕著な変化が見て取れるように思います。


1. 「二、現在の日本社会の特質」(新綱領案)における従来の綱領との変化

少し各章ごとに具体的に見てみましょう。「二、現在の日本社会の特質」を読むと、「高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている。」という現代日本資本主義の基本認識は変わらないものの、かつての「日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。」(87年綱領)という規定に見られるような、日本の国家権力を牛耳る「アメリカ帝国主義とその目下の同盟者である日本独占資本」という2つの敵という観念が影を潜めたように思います。かつては、この2つの敵が現在の日本の支配権力であり、労働者階級を中心とする統一戦線勢力がそれら2つの敵からその支配権力を奪取する事が、明確な革命の方針として挙げられていたと思います。これはレーニン流「国家=階級支配の道具」説を理論的背景にして演繹されてきた議論だったわけです。他方、新綱領案では、「この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革の道を進むという道すじが、制度面で準備されることになった。」という文言が新たに付け加わっています。戦後の民主化によって、議会制民主主義が制度化されたこと、その条件下で、議会制民主主義を通じて社会の制度を一歩一歩変えて行く長期的な道程としての社会変革、というヴィジョンを提示しています。この「国会を通じた変革」という議論は、従来の綱領には明記されていなかった事に注意してください。さりげなくではありますが、これまでの「敵の出方論」風の、必ずしも「平和革命」必然論に立たない見解から、離れたように思えます。それは、「革命=国家の暴力機構の掌握」というクーデター型政治革命ヴィジョンからの乖離であるように思えます。これは不破氏のレーニン「国家と革命」批判とも相通じる変化であり、国家の階級支配の機構、とりわけ暴力的機構をいかに労働者階級が握るかという、レーニン流国家観、革命観が実質的に放棄されていると見なせます。おそらく過去のネオ・マル批判との外見上の整合性を保つ為に、明確な理論的定義はなされないのでしょうが、内容的にはグラムシ主義的な構造改革論・「国家=力関係の凝縮」論から演繹されるべき議論により近づいていると言って良い様に思います。

しかしこれらの理論的背景が明確化されないために、「二、現在の日本社会の特質」の議論は、全体的に日本社会の幾つかの現象面の羅列に留まっており、現代日本資本主義社会論としては、理論的内容が薄められたという印象の方が強くなっています。かつては理論的背景に明確なマルクス・レーニン主義的国家論・革命論があり、レーニン「帝国主義論」とその発展としての国家独占資本主義理論というものがあり、それらの理論的背景を下にした「2つの敵」論という日本資本主義社会論が曲がりなりにも展開されていました。アメリカがいかに日本の軍事・政治・経済の重要面を握っているかの指摘なり、日本独占資本主義の発展、支配力の強化についての指摘等々、日本社会の幾つかの現象面の羅列も、一応一貫した理論的分析としての体裁を持っていたと思うのです。それ故に、日本革命の当面の課題は、これら「2つの敵」から権力を民族民主統一戦線が収奪する「独立・民主主義の革命」として論理的にもクリアに提示する事が出来ていました。

他方、新綱領案では、アメリカが依然として多くの軍事基地を日本に保有しているとか、大企業の横暴ぶり等々の日本社会の幾つかの現象面の羅列が、なぜ現代日本資本主義社会を特徴付ける本質的諸要因であるかについての理論的背景が見えなくなっている様に思えます。つまり、現代日本社会をどう理論的に分析しているのかが見えなくなっているわけです。その結果、4章で「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。」と革命の方針を語る際に、非常に唐突な印象を受けるのです。なぜ、「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」が必要なのか、そのためになぜ「社会主義革命」ではなく、「民主主義革命」でなければならないのか、それらが不明瞭になっています。そもそも、なぜ「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」が必要なのかについては、従来は古典的マルクス・レーニン主義の理論をベースにすれば、それら二つの敵が日本人民を支配し、搾取しているから、それらの支配からの解放が「真の自由」と社会進歩を意味する、と言うような明確な「善玉・悪玉」論で説明できました。しかし、現在では、「対米従属」なり「大企業・財界の横暴な支配」などが、全体としての日本社会の構造の中でどのように位置づけられ、その社会構造を特徴付けているのか、さらに、いかなる「構造的安定性」の再生産メカニズムが日本社会を特徴付けているかという議論抜きには、「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」が必要だという結論には説得力が全くありません。支配階級の人間をギロチン刑にかければ(政治的)革命が成功するという時代ではありませんし、「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」によって多くの国民の状態が改善されるだろう事のヴィジョンは全く明らかにされていないわけです(生活がある程度安定し、基本的人権も守られている社会であれば、政治・経済面である程度の「支配関係」なり「権威的関係」が存在していても、人々はよりましな「支配関係」として受け入れるかもしれない。単なるモノトリ主義的な議論で多くの人々の状態が改善されるとも、もはや受け止められていない)。当面の革命なり改革を語るにはまず、現代日本社会論や、現代日本の危機論などが語られなければならないはずで、その役割を担うべき「二、現在の日本社会の特質」は、それを十分に果たしているとは言えないと思うのです。


2. 「二、現在の日本社会の特質」において何がもっと論じられるべきか?――「現代日本社会の危機論」の必要性――

私自身の個人的意見としては、なぜ今、「日本社会危機論」を展開しないのか、と思っています。米軍基地が依然として多いとか自衛隊が米軍の補完部隊になっているという現象も問題でしょうが、明らかに制度疲労を起こしている従来の日本社会の諸制度をどうすべきか、何らかの経済構造の改革が不可欠に思われている状況をどう見なしどう対処すべきか、具体的には財政赤字の問題、行財政改革の問題、高齢化社会の到来を見据えて年金など社会保障制度をどうするか、経済活動の国際化の進展下での、明らかな国内での産業空洞化・労働力の質の衰退化・非熟練労働における不安定雇用形態の普遍化などの諸現象をどう見なしどう対処するか、ヒートアイランド現象が顕著となってきてより現実的な課題となった地球環境問題をどう見なしどう対処するか、将来起こりうるエネルギー危機や食糧危機の可能性への安全保障体制をどう考えるべきか、経済の国際化と知識集約的産業へのシフト化が一層展望される今後の日本社会において、人々の階層構造や労働市場のあり方をどう展望するか、その結果どのような教育制度が必要とされるか等々、一般庶民の便益に大きく影響するばかりでなく大企業・財界にとっても深刻な諸問題を現在の日本社会は抱え込んでいる様に思います。小泉内閣なり民主党や自由党はこれらの諸問題を、いわゆる新自由主義的な方向での日本の構造改革を展望する事によって、切り開いていこうと考えています。

共産党は、これら誰の目にも明らかな現代日本社会の諸問題を解決すべき課題と見据える点で、財界や自民党・自由党・民主党などと共通の議論の土俵に載るべきであり、その上で現代保守勢力が推進するより自由主義的な改革プランについて何が評価できて何が批判すべきかを明らかにし、それらとは異なった実行可能な代替案――それはある程度の自由主義的改革を含みつつも、より社会主義的価値を反映したプランであるべき――を提示する事が必要です。この種の現代日本社会論は新綱領案では展開されていません。「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」によって、現在日本が抱えている諸問題を解決できるのか、という疑問は出てくるわけで、それらに答えられるための理論的土台となるべき現代日本社会論がないわけです。逆に言えば、上記の日本社会の諸問題の根源に「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」の存在がある事を理論的に分析して見せれば、一つの意味のある現代日本社会論になるでしょう。尤も、私自身は、諸問題をすべて「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」の存在に還元するような議論では、説得的な現代日本社会論にはもはやならないと思っていますが――「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」が一つの重要な側面である事は確かでしょうが――。

今、上気したような諸問題は、その多くは他の先進諸国に共通する問題でもあって、欧州諸国はその諸問題の解決の為の改革を90年代から進めてきています。その中で、欧州社会民主主義が掲げたいわゆる「第三の道」とは、国民国家として対処すべき現代の経済や社会の諸問題や諸課題を踏まえた上での、新自由主義的諸改革に対する代替案としての位置づけを持っていると言えます。そして、日本の一連の「構造改革」の議論において必要なのは「第三の道」等、より現実的でかつ代替的なプランを提起しようとする欧州社会民主主義に相当するような役割を担える政治勢力の存在です。そしてそのような政治勢力への脱皮をこそ共産党は求められているのである、と思うのです。

PS: 欧州社会民主主義の「第三の道」については、例えば

http://member.nifty.ne.jp/~demsoc/socialism/meyer.html
http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/back/661/661_3.htm
http://www.fuji-ric.co.jp/choken/pdf/or9901.pdf

が参考になります。また、加藤哲郎氏のWebページ

http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml

の表紙の中の「What’s New 2003/6/15」の記事も参考になります。



[JCP−Watch!]掲示板
[ トップへ / 直前の掲示板へ / 利用方法 / 一覧表示 / 最新記事 / 新規投稿 / 管理用 ]

新綱領案をどう見るか(1)
小田(03/6/25 08:12)

> 今回、発表された綱領改定案について議論してみたい。

まだザッと読んだくらいですが、いくつか気がついた点や感想などを少々・・・。
全体的には、まあ予想範囲内だな、と言うのがあります。最近の不破さんの講演論文等を読んで、おそらく基本的には「科学的社会主義の立場」は堅持し、「二つの敵論」的日本資本主義社会観も、表現は多少和らいでも、内容的には変わらない可能性が高いかと思っていました。また、この間の不破さんのマルクス研究、レーニン批判などや、在野のマルクス研究者たちの新たな「マルクスの理論」観を反映して、社会主義についての記述が変わる――おそらく働く人々のアソシエーションとしての社会主義論や市場経済を容認した議論――可能性はあるかと思っていました。新しい綱領案は、実際、これら不破流「科学的社会主義」理論がかなり色濃く展開された内容になっていると思います。私自身は、共産党の言う「資本主義の枠内での民主的改革」や「ルール化された資本主義への改革」を本格的に実行可能なプランとして追求するならば、従来の「科学的社会主義の立場」は棄却されざるを得ないであろうし、欧州社会民主主義の潮流とも相通じる綱領に大胆に変えていくべきだと考えています。実際、ノスタルジック左翼ではない立場で共産党に期待する声の中に、共産党に欧州社会民主主義のような政治的役割を果たしてくれる事を期待する向きがかなりあるように思います。残念ながら、これらの期待に明確に答えていると言えるほどの大胆な変更は見られませんが、これはまあ予想できました(笑)。

しかし、以前の共産党綱領などと比較してみると、「科学的社会主義の立場」の表看板は維持しつつ、その内容はかなり様変わりしており、いわゆる構造改革派的な議論が色濃くなっている様に思えます。例えば、87年綱領などと比較してみると、単なる用語の置き換えに表面上見えるその背景に、国家観、権力概念、革命論などの顕著な変化が見て取れるように思います。


1. 「二、現在の日本社会の特質」(新綱領案)における従来の綱領との変化

少し各章ごとに具体的に見てみましょう。「二、現在の日本社会の特質」を読むと、「高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている。」という現代日本資本主義の基本認識は変わらないものの、かつての「日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。」(87年綱領)という規定に見られるような、日本の国家権力を牛耳る「アメリカ帝国主義とその目下の同盟者である日本独占資本」という2つの敵という観念が影を潜めたように思います。かつては、この2つの敵が現在の日本の支配権力であり、労働者階級を中心とする統一戦線勢力がそれら2つの敵からその支配権力を奪取する事が、明確な革命の方針として挙げられていたと思います。これはレーニン流「国家=階級支配の道具」説を理論的背景にして演繹されてきた議論だったわけです。他方、新綱領案では、「この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革の道を進むという道すじが、制度面で準備されることになった。」という文言が新たに付け加わっています。戦後の民主化によって、議会制民主主義が制度化されたこと、その条件下で、議会制民主主義を通じて社会の制度を一歩一歩変えて行く長期的な道程としての社会変革、というヴィジョンを提示しています。この「国会を通じた変革」という議論は、従来の綱領には明記されていなかった事に注意してください。さりげなくではありますが、これまでの「敵の出方論」風の、必ずしも「平和革命」必然論に立たない見解から、離れたように思えます。それは、「革命=国家の暴力機構の掌握」というクーデター型政治革命ヴィジョンからの乖離であるように思えます。これは不破氏のレーニン「国家と革命」批判とも相通じる変化であり、国家の階級支配の機構、とりわけ暴力的機構をいかに労働者階級が握るかという、レーニン流国家観、革命観が実質的に放棄されていると見なせます。おそらく過去のネオ・マル批判との外見上の整合性を保つ為に、明確な理論的定義はなされないのでしょうが、内容的にはグラムシ主義的な構造改革論・「国家=力関係の凝縮」論から演繹されるべき議論により近づいていると言って良い様に思います。

しかしこれらの理論的背景が明確化されないために、「二、現在の日本社会の特質」の議論は、全体的に日本社会の幾つかの現象面の羅列に留まっており、現代日本資本主義社会論としては、理論的内容が薄められたという印象の方が強くなっています。かつては理論的背景に明確なマルクス・レーニン主義的国家論・革命論があり、レーニン「帝国主義論」とその発展としての国家独占資本主義理論というものがあり、それらの理論的背景を下にした「2つの敵」論という日本資本主義社会論が曲がりなりにも展開されていました。アメリカがいかに日本の軍事・政治・経済の重要面を握っているかの指摘なり、日本独占資本主義の発展、支配力の強化についての指摘等々、日本社会の幾つかの現象面の羅列も、一応一貫した理論的分析としての体裁を持っていたと思うのです。それ故に、日本革命の当面の課題は、これら「2つの敵」から権力を民族民主統一戦線が収奪する「独立・民主主義の革命」として論理的にもクリアに提示する事が出来ていました。

他方、新綱領案では、アメリカが依然として多くの軍事基地を日本に保有しているとか、大企業の横暴ぶり等々の日本社会の幾つかの現象面の羅列が、なぜ現代日本資本主義社会を特徴付ける本質的諸要因であるかについての理論的背景が見えなくなっている様に思えます。つまり、現代日本社会をどう理論的に分析しているのかが見えなくなっているわけです。その結果、4章で「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。」と革命の方針を語る際に、非常に唐突な印象を受けるのです。なぜ、「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」が必要なのか、そのためになぜ「社会主義革命」ではなく、「民主主義革命」でなければならないのか、それらが不明瞭になっています。そもそも、なぜ「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」が必要なのかについては、従来は古典的マルクス・レーニン主義の理論をベースにすれば、それら二つの敵が日本人民を支配し、搾取しているから、それらの支配からの解放が「真の自由」と社会進歩を意味する、と言うような明確な「善玉・悪玉」論で説明できました。しかし、現在では、「対米従属」なり「大企業・財界の横暴な支配」などが、全体としての日本社会の構造の中でどのように位置づけられ、その社会構造を特徴付けているのか、さらに、いかなる「構造的安定性」の再生産メカニズムが日本社会を特徴付けているかという議論抜きには、「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」が必要だという結論には説得力が全くありません。支配階級の人間をギロチン刑にかければ(政治的)革命が成功するという時代ではありませんし、「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」によって多くの国民の状態が改善されるだろう事のヴィジョンは全く明らかにされていないわけです(生活がある程度安定し、基本的人権も守られている社会であれば、政治・経済面である程度の「支配関係」なり「権威的関係」が存在していても、人々はよりましな「支配関係」として受け入れるかもしれない。単なるモノトリ主義的な議論で多くの人々の状態が改善されるとも、もはや受け止められていない)。当面の革命なり改革を語るにはまず、現代日本社会論や、現代日本の危機論などが語られなければならないはずで、その役割を担うべき「二、現在の日本社会の特質」は、それを十分に果たしているとは言えないと思うのです。


2. 「二、現在の日本社会の特質」において何がもっと論じられるべきか?――「現代日本社会の危機論」の必要性――

私自身の個人的意見としては、なぜ今、「日本社会危機論」を展開しないのか、と思っています。米軍基地が依然として多いとか自衛隊が米軍の補完部隊になっているという現象も問題でしょうが、明らかに制度疲労を起こしている従来の日本社会の諸制度をどうすべきか、何らかの経済構造の改革が不可欠に思われている状況をどう見なしどう対処すべきか、具体的には財政赤字の問題、行財政改革の問題、高齢化社会の到来を見据えて年金など社会保障制度をどうするか、経済活動の国際化の進展下での、明らかな国内での産業空洞化・労働力の質の衰退化・非熟練労働における不安定雇用形態の普遍化などの諸現象をどう見なしどう対処するか、ヒートアイランド現象が顕著となってきてより現実的な課題となった地球環境問題をどう見なしどう対処するか、将来起こりうるエネルギー危機や食糧危機の可能性への安全保障体制をどう考えるべきか、経済の国際化と知識集約的産業へのシフト化が一層展望される今後の日本社会において、人々の階層構造や労働市場のあり方をどう展望するか、その結果どのような教育制度が必要とされるか等々、一般庶民の便益に大きく影響するばかりでなく大企業・財界にとっても深刻な諸問題を現在の日本社会は抱え込んでいる様に思います。小泉内閣なり民主党や自由党はこれらの諸問題を、いわゆる新自由主義的な方向での日本の構造改革を展望する事によって、切り開いていこうと考えています。

共産党は、これら誰の目にも明らかな現代日本社会の諸問題を解決すべき課題と見据える点で、財界や自民党・自由党・民主党などと共通の議論の土俵に載るべきであり、その上で現代保守勢力が推進するより自由主義的な改革プランについて何が評価できて何が批判すべきかを明らかにし、それらとは異なった実行可能な代替案――それはある程度の自由主義的改革を含みつつも、より社会主義的価値を反映したプランであるべき――を提示する事が必要です。この種の現代日本社会論は新綱領案では展開されていません。「対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」によって、現在日本が抱えている諸問題を解決できるのか、という疑問は出てくるわけで、それらに答えられるための理論的土台となるべき現代日本社会論がないわけです。逆に言えば、上記の日本社会の諸問題の根源に「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」の存在がある事を理論的に分析して見せれば、一つの意味のある現代日本社会論になるでしょう。尤も、私自身は、諸問題をすべて「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」の存在に還元するような議論では、説得的な現代日本社会論にはもはやならないと思っていますが――「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」が一つの重要な側面である事は確かでしょうが――。

今、上気したような諸問題は、その多くは他の先進諸国に共通する問題でもあって、欧州諸国はその諸問題の解決の為の改革を90年代から進めてきています。その中で、欧州社会民主主義が掲げたいわゆる「第三の道」とは、国民国家として対処すべき現代の経済や社会の諸問題や諸課題を踏まえた上での、新自由主義的諸改革に対する代替案としての位置づけを持っていると言えます。そして、日本の一連の「構造改革」の議論において必要なのは「第三の道」等、より現実的でかつ代替的なプランを提起しようとする欧州社会民主主義に相当するような役割を担える政治勢力の存在です。そしてそのような政治勢力への脱皮をこそ共産党は求められているのである、と思うのです。

PS: 欧州社会民主主義の「第三の道」については、例えば

http://member.nifty.ne.jp/~demsoc/socialism/meyer.html
http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/back/661/661_3.htm
http://www.fuji-ric.co.jp/choken/pdf/or9901.pdf

が参考になります。また、加藤哲郎氏のWebページ

http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml

の表紙の中の「What’s New 2003/6/15」の記事も参考になります。

[JCP−Watch!]掲示板
[ トップへ / 直前の掲示板へ / 利用方法 / 一覧表示 / 最新記事 / 新規投稿 / 管理用 ]

新綱領をどう見るか(3)
小田(03/6/25 17:04)

5. 民主連合政府による「革新三目標」と民主主義革命の事実上の同一化

私がその内容の顕著な変化に注目した一つが、「四、民主主義革命と民主連合政府」での議論です。94年綱領までは「反帝・反独占の新しい民主主義革命」が当面の目指すべき日本革命の課題とされており、それは日本を支配する2つの敵から支配権力を奪取する事によって成立する「革命の政府」によって遂行されるものとされていました。新綱領案では、それが「日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命」という記述となり、「資本主義の枠内で可能な民主的改革」が強調されています。「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」という事が謳われてもいるが、その実質的内容は日米安保の廃棄と非同盟・中立の路線を取る事、及び、大企業に対する民主的規制を通じた西欧風の「ルール化された資本主義」の実現です。しかしこれらの内容はかつては「反帝・反独占の新しい民主主義革命」の前段階の民主連合政府の達成目標(革新三目標)の内容であったと、私は記憶しています。

「反帝・反独占の新しい民主主義革命」においては、君主制の廃止、つまり人民による新しい共和国憲法への改定が課題とされ、新憲法下では人民による自衛軍の組織も考えられていたように記憶しています。対して、民主連合政府は、現憲法の枠内での政府とされ、従って現憲法第9条に従って自衛隊は解散、軍隊は存在しないという議論であったように思います。また、上記のように、「大企業に対する民主的規制」は民主連合政府の課題とされ、「反帝・反独占の新しい民主主義革命」の下での革命の政府においては、基幹産業における主要大企業の「民主的国営化」をも課題の対象に入っていなかったか、と記憶します。その「民主的国営化」の議論を見た時には、社会主義革命における国営化とどう違うのだという疑問を持ったように記憶しています。つまり「反帝・反独占の新しい民主主義革命」の課題は極めて社会主義色が強いものであり、実際、かつての党綱領も、

「独占資本主義の段階にあるわが国の当面の革命はそれ自体社会主義的変革への移行の基礎をきりひらく任務をもつものであり、それは、資本主義制度の全体的な廃止をめざす社会主義的変革に急速にひきつづき発展させなくてはならない。すなわちそれは、独立と民主主義の任務を中心とよる革命から連続的に社会主義革命に発展する必然性をもっている。」(85年綱領)

と、反帝・反独立民主主義革命から社会主義革命への連続的発展性を強調していました。他方、民主連合政府については、現94年綱領においても、

「党は、国民の多数を民族民主統一戦線に結集し、その基礎のうえに政府をつくるために奮闘する。この政府をつくる過程で、党は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役だつ政府の問題に十分な注意と努力をはらう。一定の条件があるならば、民主勢力がさしあたって一致できる目標の範囲で、統一戦線政府をつくるためにたたかう。」(94年綱領)

とあるように、「さしあたって一致できる範囲での統一戦線政府」として維持付けられていました。それは明らかに民主主義革命の政府、いわゆる「革命の政府」(94年現綱領)とは区別されていたわけです。その「一致できる範囲」として掲げられたのがいわゆる「革新三目標」であるが、その三目標とは、(1)日米安保を廃棄し非同盟・中立の日本、(2)大企業中心の政治の打破(事実上、大企業の民主的規制を目指すもの)、(3)議会の民主的運営と民主主義の確立、以上を目指すものでありました。これらは、明らかに新綱領案の「四、民主主義革命と民主連合政府」での議論である、「日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容」で展開された「国の独立・安全保障・外交の分野で」、「経済的民主主義の分野で」、「憲法と民主主義の分野で」の議論と内容的に照応していると言えます。つまり、新綱領案では、従来の革新三目標がいわゆる民主主義革命の課題と同一視されているわけです。つまり、「革新三目標」(現綱領)=「日本社会が必要とする民主的改革」(新綱領案)であり、この「日本社会が必要とする民主的改革」とは、いわゆる「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破による民主主義革命」(新綱領案)で実行される内容に他ならないと説明されています。注意すべきは一見、この「民主主義革命」(新綱領案)が従来の「反帝・反独立の新しい民主主義革命」(現綱領)と、同一のものであるかのように見える位置づけを与えられていることです。そして新綱領案では、民主連合政府が「日本社会が必要とする民主的改革」、すなわち「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破による民主主義革命」を遂行する政府として位置づけられています。つまりここでは、従来の「反帝・反独立の新しい民主主義革命」を遂行する「革命の政府」は姿を消しているのです。新綱領案はこの意味で、当面の日本革命の課題としての「反帝・反独立の新しい民主主義革命」プランを棄却し、当面の課題として民主連合政府による「日本社会が必要とする民主的改革」を位置づけし直したものだと言えます。

上記のように、94年綱領までは、「さしあたって一致できる範囲での統一戦線政府(=民主連合政府)」→「民族民主統一戦線政府」→「革命の政府」という段階的進展のシナリオを考えています。そこでは、まず第一に、革新三目標の実現は民主連合政府を通じてであるとされてます。第二に、「反帝・反独立の新しい民主主義革命」は、「民族民主統一戦線政府」がアメリカ帝国主義と日本独占資本を代表する反民族的・反人民的な支配勢力を敗北させ、国家権力を実質的に掌握して「革命の政府」に転化する事によって、実行に移されるとされています。この両政府の違いは階級的権力の掌握の度合いによって説明されていました。とりわけ、国家の暴力的支配装置(軍隊、警察機構等)を統一戦線の勢力が握っているかどうかがキー・ポイントであったと思います。そこには、「国家=階級的支配の暴力的装置」と「革命=国家権力(とりわけその暴力的支配機構)の奪取」というレーニン主義的国家観・革命観が色濃く投影されていたわけですね。

このような国家観・革命観を批判し棄却してきたが故に、新綱領案ではもはや「民主連合政府」と「革命の政府」の段階の違いを分離する必要がなくなったと言えます。もっとも、新綱領案でも「日本社会が必要とする民主的改革」の遂行に際しての、権力の問題について言及しています。但しそれは、

「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる」(新綱領案)

という柔らかい表現に留まっています。また、以下の

「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。」(新綱領案)

「民主連合政府の樹立は、国民多数の支持にもとづき、独占資本主義と対米従属の体制を代表する支配勢力の妨害や抵抗を打ち破るたたかいを通じて達成できる。対日支配の存続に固執するアメリカの支配勢力の妨害の動きも、もちろん、軽視することはできない。」(新綱領案)

「このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続くたたかいのなかでは、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。」(新綱領案)

を読んで解る事は、「日本社会が必要とする民主的改革」の担い手は一貫して、「民主連合政府」であり、その政府は国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占める事によって形成されるという点。さらに、「日本社会が必要とする民主的改革」の遂行は、民主連合政府の樹立で済む問題ではなく、この政府による行政諸機構へのヘゲモニーが確立し、その結果、行政機構が「民主的改革」の担い手として機能する様になる事が重要である事を指摘している様に思います。いずれも「階級的権力の奪取の過程」というよりも、新しい改革を遂行する際に一般に付きまとう旧勢力からの様々な妨害やサボタージュとの政治的闘争を超克し、新しい改革の為の着実なヘゲモニーを確立(同意の獲得)する過程の重要性一般を強調したものと受け止められる様に思います。これがおそらく、不破氏が最近「発見してきた」という、マルクスの「議会の多数をえての革命」としての新たな革命理論の反映なのではないかと思われます。それは、国家の暴力的支配装置の掌握という意味での国家権力の「2つの敵」からの収奪・統一戦線による掌握を、革命への決定的要素と見なしていたレーニン主義的現綱領からの大きな変化であると言えるでしょう。

また、「日本社会が必要とする民主的改革」においては、もはや「反帝・反独占の民主主義革命」において実行されるべき課題とされた人民共和国憲法への改定(つまり天皇制の廃止と人民による自衛軍の確立)も、基幹産業における主要大企業の民主的国営化も、課題となっていません。天皇制は民主連合政府として積極的に廃止の方向に持つ意思が無い事、また、自衛隊も当面の存続を容認しています。また、「民主的国営化」という議論はそもそも、経済学的に破綻が明らかとなっており、共産党も新綱領案では社会主義の段階でさえも国営化を主張しなくなっているほどです。こうして遂行政府という点でも遂行目標という点でも、従来の「反帝・反独占の新しい民主主義革命」論は、もはや存続の意義を失ってしまった。それが今回の新綱領案における、従来の「革新三目標」の、「日本社会が必要とする民主的改革」を内容とする「民主主義革命」への昇進であり、「さしあたって一致できる範囲での統一戦線政府」としての「民主連合政府」の、「日本社会が必要とする民主的改革」を内容とする「民主主義革命」の遂行政府としての「民主連合政府」への昇進をもたらしたのではないでしょうか?



新綱領案をどう見るか(3):補論:不破氏の記者会見に関して
小田(03/6/25 20:32)

先に論じた「新綱領案をどう見るか(3)」

http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs24.cgi?id=&md=viw&no=1155&tn=1106

に関連すると思われる議論を、不破議長の記者会見記事

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-06-24/02_02.html

で見つけたので、「新綱領案をどう見るか(3)」の補論として以下、いくつか述べてみます。


1. 不破議長の記者会見で、「『資本主義の枠内での民主的改革』といわれているが『革命』と『改革』の違いは?」との質問に対して、彼は「民主的改革というのは行われる中身の特徴づけで、その中身を実行するための権力の移行を革命と呼んでいる」と答えたらしい。つまり、ここいう革命とは政治権力の移行ないしは新しい勢力による政治権力の掌握である、つまり政治革命としての革命概念でしかない。しかしいわゆる社会体制の革命とは、従来は単なる政治革命のみならず、経済革命、文化革命をも含めた総体的な概念ではなかったか、と思います。しかし、上記のような不破氏の定義では、経済体制の革命も文化的革命も改革と呼ばれる事になるのであろうか?例えば、従来、社会主義革命とは、第一に、資本主義的私的所有制度の廃止、つまり生産手段の公的所有あるいは社会化、第二に、無政府的生産活動から計画経済活動への移行、さらに第三に、労働者階級の権力の掌握、つまりプロレタリアート独裁制の確立等が挙げられた。これらのうち、前2者は明らかに経済的革命であるが、不破氏の定義によると生産手段の社会化も計画経済の導入も改革であって革命とは呼ばれないのであろうか?

という風に見てみると、新綱領案でも確かに、社会主義への移行のところでは、「社会主義的変革」という表現はあるが、「社会主義革命」という表現はない。例えば、新綱領案の「五、社会主義・共産主義をめざして」を読むと、

「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。」

と規定しています。つまり、「生産手段の社会化」という経済的革命が中心であるとされています。つまり、権力の移行という政治革命はそこでは主要な問題ではないように見えます。そのせいでしょうか、社会主義のへの移行は社会主義革命とは言わず、社会主義的変革と一貫して言っている様です。


2. ところで、なぜ上述した様な従来の社会主義革命の三位一体論から、社会主義的変革=生産手段の社会化という議論に還元されたのであろうか?第一に、従来の社会主義的革命を構成した、「労働者階級の権力」つまり「プロレタリアート独裁の確立」は、ソ連・東欧型社会主義の一党独裁制の現実の前で、もはや論じる根拠を失ったと言えるし、レーニン型国家論・革命論を批判・棄却した下では「プロレタリアート独裁の確立」は社会主義の本質的構成要因と見なす必要はないわけです。ソ連・東欧の実験の失敗を踏まえた上での新しい社会主義論においては、政治的意思決定システムに関しては、プロレタリアート独裁制とは相容れない、政治的自由と民主主義の制度の下での政権交代制を保証した資本主義の遺産を継承発展すればいいという事になります。また、第二に、計画経済システムも、ソ連・東欧型社会主義の失敗の現実の前に、もはや論じる根拠を失ったといえます。今日の経済学の到達点を踏まえても、価格シグナルを通じた競争メカニズムなしに需要と供給をマッチさせる経済的資源配分の実現は極めて非効率で困難である事が、理論的に解明されています。その意味で、少なくとも当面は、社会主義が実行可能であるとすれば市場経済を通じてでしかあり得ないという認識が普遍化しつつあると言えます。共産党の新綱領案も「市場経済を通じた社会主義への進行」を明記するに到っており、であるとすれば「社会主義的変革の中心はもはや生産手段の社会化でしかない」という話になるでしょう。


3. 記者会見ではまた、「市場経済を肯定的に評価しているようだが、革命とどう結びつくのか」という質問に対して、不破議長は「市場経済には資本主義を発展させる機能と、社会主義を展開するのに役立つ機能とがある」と答えたようですが、こんな適当な事を言って大丈夫なのか、という気がします。私の知る限り、「市場経済には資本主義を発展させる機能と、社会主義を展開するのに役立つ機能とがある」などと論じた経済学者は存じ上げないし、自分で考えてみても、「市場経済には資本主義を発展させる機能と、社会主義を展開するのに役立つ機能とがある」というような、生産手段の所有制の相違に起因する市場の機能の違い等は思い浮かばない。不破氏の最近の講演論文でもそんな議論がなされた事は無いようであるし、彼が一体、どういう思考でそのような答弁をしたのかまったく検討がつかない。詳しくは「新綱領案をどう見る(4)」以降で改めて展開する積りですが、どうも不破さんはまだ市場経済についての認識のツメが甘いように思えてなりません。


4. さて、「『革命』と『改革』の違いは?」の問題に改めて戻るが、上記の不破氏の答弁を踏まえて、「日本社会が必要とする民主的改革」を内容とする「民主主義革命」における「権力の移行」とはそもそも一体なんであろうと、改めて考えてみました。「新綱領案をどう見る(3)」でも論じたように、「日本社会が必要とする民主的改革」を内容とする「民主主義革命」とは、現94年綱領のフレームワークの下では、実は現憲法下での政権交代を通じて成立する民主連合政府による革新三目標の実行に他ならないわけです。つまり元々は革命的な権力の掌握の問題抜きに、実行できると考えられた政策目標・改革目標なのであり、にも拘らず新綱領案の下では、この民主連合政府による革新三目標の実行プロセスにおいて「権力の移行」が問題になる――だからこそ民主主義「革命」と呼ぶのだろう――と言うのであれば、そこにおける「権力の移行」の意味は何であろうか、という事です。

まず、現憲法の法の下で、合法的に成立した政権であれば、民主連合政府であれ、その政権の担い手たちは法を遵守する条件の下、政治的権力を行使する立場にある事になります。そして正規の手続きを踏まえてなされる新たな立法措置もそれが立法機関を通じて合法的に成立した以上、いかなる行政機関もそれに従って行動する義務があります。自衛隊であれ、警察機構であれ、民主連合政府の指示の下で行動する義務を負います。つまり政権に就いている限り、合法的な手続きによって、民主連合政府勢力は軍隊や警察機構などの「国家の暴力的装置」を法理論的には掌握していることを意味します。おそらく官僚や警察機構による様々な妨害や抵抗、サボタージュも予想されるでしょうが、新しい改革を行おうとする政府である以上、多かれ少なかれこういった抵抗勢力の活動は伴うものであり、それとの闘いを超克する事が「権力の移行」を意味するようなものであるのか、という疑問です。

第一、新綱領案で明記された「日本社会が必要とする民主的改革」の具体的内容――「国の独立・安全保障・外交の分野で」、「経済的民主主義の分野で」、「憲法と民主主義の分野で」――のいずれも、その実行プロセスにおいて何らかの抵抗勢力とのかなりの政治的葛藤が付きまとうであろうにせよ、「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」から、「日本国民の利益を代表する勢力の手」への革命的な「権力の移行」というものが、必要になる程のラディカルな内容とも言い難い様に思います。であるが故に、94年綱領までは共産党もこれらの「民主的改革」の諸内容を、「権力の掌握」の問題抜きに実現可能な「革新三目標」として位置づけていたわけです。しかも現在では天皇制の存続も自衛隊の利用も容認する改革案になっているのです。つまり、本来ならば民主連合政府の指示の下で行動すべき軍隊や警察機構などが、超法規的にこの政府を転覆させるような行動に走る、という可能性を考慮しなければならない程のラディカルな変革を、この「民主的改革」は目指すものであるとも言い難いと思うわけです。

また、そもそも極端な話、民主連合政府の成立期間において、一旦、日米安保が廃棄され、新たな日米友好条約が取り結ばれる事が合法的に決まり、また、大企業の活動を民主的に規制する西欧資本主義諸国風の「ルール化された資本主義」を日本において制度化させるための一連の法制度が合法的に確立されるなどすれば、その後、選挙で政権が再び保守勢力に移ったとしても、その政権も民主連合政府による諸改革の成果――新しい条約なり法体系や確立した諸制度――を引き継がざるを得ない事になります。もちろん、例えば、返り咲いた保守政権によって「ルール化された資本主義」の諸制度を骨抜きにする「改悪」も行われる可能性はありますが、これらの諸制度が国民の多数の支持を得て定着している限り、保守政権といえども簡単に「改悪」など出来ないはずです。こういう事態は、「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」と「日本国民の利益を代表する勢力」との「力関係の変化の帰結」とは言っても、前者から後者への「権力の移行の帰結」とは言わないでしょう。

「民主的改革」の実行とその定着化の為には、共産党などの民主連合勢力が国政選挙等の政治的競争において多数派を獲得し続けるべく努力すべき事――それは政権に着いたときにきちんと行政機構をコントロールする能力を持つ等々、統治能力に関する国民からの信頼を獲得するという意味での「努力」をも含むでしょう――であるのは間違いないでしょう。しかし、それは「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」から、「日本国民の利益を代表する勢力の手」への「権力の移行」を意味するものではないでしょう。単なる「政治的競争における力関係」の変化・シフトを意味するものでしかない様に思えます。であるとすれば、「権力の移行」という用語が成立するとすれば、それは「政権の交代」の意味以上のものではもはや無い様に思います。そして、その範囲で十分に実現可能な「民主的改革」案であろうと思えるわけです。


新綱領案をどう見るか(4)
小田(03/6/26 07:07)

6. 「五、社会主義・共産主義の社会をめざして」について

いよいよ、色々と話題を呼んでいる新綱領案における社会主義論について検討して行きたい。


6.1 94年現綱領における社会主義論・共産主義論

まずは、94年現綱領における社会主義社会論及び共産主義社会論について要約してみましょう。第一に、社会主義の目標は資本主義的搾取・貧困からの解放と規定される。その目的の為の必要条件、つまり社会主義の必要条件として、(1)労働者階級の権力の確立(いわゆるプロレタリアート独裁制の確立)、(2)生産手段の社会化、(3)社会主義的計画経済が挙げられている。これは標準的なマルクス・レーニン主義的な社会主義体制の定義と言えます。そしてこれら3つの必要条件の確立を推進する際に、(I)農漁業・中小企業などの私的経営活動の尊重、(II)計画経済と市場経済の結合、(III)社会主義的民主主義、(IV)民族自決権の擁護等が重要であると位置づけられています。この社会主義建設推進の4つの重要項目のうち(II)〜(IV)は、94年綱領の段階で初めて付け加えられたものであり、ソ連・東欧型社会主義において見られた政治的民主主義の欠如や覇権主義というマイナス現象や、中央集権的計画経済の崩壊という現実に直面しての(場当たり的?)対応の反映のように見えます。

以上の定義の上で、社会主義社会と共産主義社会との関係を、マルクス「ゴーダ綱領批判」の議論に即して、整理しています。時系列的に言えば、社会主義社会は共産主義の初期段階であり、共産主義社会は初期段階以降の生産力の著しく高度な発展の後に到達される、国家権力が死滅した真に自由な社会として位置づけられる。さらに両体制の分配原理の特性として前者は「労働に応じた分配」と、後者は「必要に応じた分配」と規定されています。これらは、極めて標準的なマルクス・レーニン主義の解釈に基づく社会主義社会論、共産主義社会論と言えます。


6.2 新綱領案における「社会主義・共産主義」論

まず、ここでは山さんがすでに指摘しているように、新綱領案ではマルクス「ゴーダ綱領批判」に基づく、時系列的・生産力の発展段階的な社会主義社会と共産主義社会の区別の議論が一切無くなっている。さらに両体制の分配原理の相違に関する議論も姿を消しています。その初期段階から、国家権力の死滅した真に自由な社会という最終目標段階に到るまで「社会主義・共産主義」という言われ方で一貫しており、社会主義社会と共産主義社会との概念的区別を無くする理論的立場にあるように見えます。「国家権力の死滅した真に自由な社会」という最終目標への到達への条件として従来強調されていた「生産力の高度な発展」という議論も姿を消しています。全体として「生産力と生産関係」という史的唯物論の観点抜きに、社会主義論が展開されているような印象があります。

新綱領案における社会主義建設の必要条件に関しては、「社会主義的変革の中心は、・・・生産手段の社会化である」と、規定されるだけであり、プロレタリアート独裁制も社会主義的計画経済も、社会主義の必要条件としての位置を喪失しています。プロレタリアート独裁制に取って代わる、社会主義・共産主義における政治的意思決定制度は、「社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成」を通して形成される「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」の確立とされている。すなわち階級的支配の権力による社会主義の推進ではなく、社会主義の支持への合意の形成という民主主義的な政治的意思決定を通じた社会主義の推進として特徴づけられています。そこではプロレタリアートは社会主義建設において何ら特権的な指導的役割を果たすものとして位置づけられておらず、国民の多数派の同意形成という民主主義的意思決定のみが社会主義的変革を推し進めるものとされています。そして、その変革のプロセスは、長期にわたる「国民の合意の下、一歩一歩の段階な前進」のプロセスとなるであろう事が展望されています。

他方、社会主義的計画経済に取って代わる、社会主義における資源配分メカニズムとして新綱領案は、市場メカニズムを維持付けているように思います。つまり、

「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重などの努力と探究が重要である。」

という議論です。もっとも、他方で、生産手段の社会化の効果について論じた箇所で、

「生産手段の社会化は、・・・経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。」

とあるように、生産手段の社会化が計画経済を導くかのごとき解釈の余地を与えうる表現もあるが、ここでいう「経済の計画的な運営」とは社会主義的計画経済の事ではなく、市場経済への計画的介入による不況の緩和や、環境破壊や社会的格差是正のための、市場の無政府的作用に対する規制の仕組みの計画的設定という程度のものであるように思います。つまり不破中国講演論文「レーニンと市場経済」で論じられたような、

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-09-04/13_0401.htmlより引用
「市場経済の道が社会主義に到達する道として成功するためには、なにが必要か・・・。第三は、市場経済が生み出す否定的な諸現象から社会と経済を防衛するということです。市場経済は、もともと無政府性や弱肉強食的な競争性をもっています。そこから雇用不安、失業、社会的な経済格差などの問題が生み出されます。そういう矛盾を抑えていく力は、市場経済自体は持っていません。これを抑え制限するためには、社会保障制度をはじめとする、いろいろな社会的な規制が必要です。」

に相当する問題を「生産手段の社会化」の観点から論じたものと位置づけられるように思うわけです。

というわけで、新綱領案における社会主義論のキー・ポイントは、「生産手段の社会化」とは何であるかという問題です。新綱領案自体はこの問題に対しては、

「生産手段の社会化は、その所有と管理が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。」

と主張するのみです。この上の引用文において前半部分はいわゆる「社会主義の青写真」を描くべきでない、という主張に通ずる箇所であり、ポイントは「生産者が主役という社会主義の原則」という箇所でしょう。


6.3 新綱領案における「生産手段の社会化」とは何か?

この問題に関して、2002年の不破赤旗まつり講演論文「21世紀の資本主義と社会主義(下)」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-11-14/13_0401.html

での一節である「生産手段の社会化について」をフォローする事でその概念を明らかにする事を試みたい。この論文のこのセクションで、不破氏は、

「資本主義の経済では、・・・生産手段を実際には労働者が集団で動かし、社会全体、国民全体を相手にした社会的な生産をしています。・・・だが、それを所有しているのは、社会ではなく、個々の資本であるために、社会全体の利益ではなく、個々の資本の利潤追求が工場を動かし経済を動かす第一の動機になる。これが、私たちが利潤第一主義と呼んでいるもので、資本主義社会のさまざまな矛盾は、そこから生まれるのです。
この矛盾を解決するためには、労働者の集団が動かし、また社会的な規模での生産を現におこなっている工場や機械などの生産手段を、社会自身がにぎることが必要だ。こういう方向で社会の経済体制の合理的な発展をはかろうというのが、「生産手段の社会化」であり、そこに社会主義のいちばんの中身があるのです。」

と論じる。では生産手段を社会が握るとはどういう事かというと、

「資本主義のもとでも、機械制の大工業では、労働者は、個々ばらばらにではなく、集団として生産手段を動かす、と言いました。言い換えれば、「結合された生産者たち」が実際には工場を動かしているのです。この集団は、生産の主役なのに、経済の体制のなかでは、主役としての地位をあたえられていません。この体制を変えて、この集団――「結合された生産者たち」が、自分の手に生産手段をにぎり、本当の意味で生産の主役となる、マルクスは、こういう意味をこめて、社会主義を「生産手段の社会化」として特徴づけ、そこでは「結合された生産者たち」が主人公となることを強調したのでした。」

すなわち、

「どんな形をとろうと、それが社会主義の形態であるかどうかを見分ける最大の基準は、「結合された生産者たち」が主役・主人公になっているかどうかに、おかれるべきでしょう。」

「実際に生産手段を動かす「結合された生産者たち」が、個々の工場でも、また全国的な規模でも、主人公となって経済を動かす、これが、マルクスが明らかにした社会主義の大方向でした。」

と言うわけです。これらをもう少し発展させた議論を、不破氏は赤旗インタビュー記事「不破議長大いに語る――21世紀はどんな時代になるか(7)」

http://www.jcp.or.jp/activ/activ26_fuwa/0112-07-fuwa.html

において展開しています。この記事で、不破氏は、

「社会主義とは、生産手段を、利潤の追求を第一の行動原理にしている個々の資本の手から、社会――マルクス流にいうと「結合した生産者たち」の手に移すことなんですね。これが「生産手段の社会化」です。
この原理的な意義には、次の二つの柱がある、と思います。第一は、人間による人間の搾取をなくすこと。生産者が、雇われる立場の人間から、経済と生産の主人公に変わること。これがまず第一の柱です。第二の柱は、経済の体制を、個々の個人や企業の私的なもうけ(利潤)のための生産から、社会全体の利益のための生産に切り替える、そのために、生産を社会の管理下におく、ということです。この二つの柱が、社会主義の原点なのです。」

と述べています。すなわち、「結合された生産者たち」が生産活動の主人公になる事と、生産目的における「利潤第一主義の克服」が達成される事、これらが生産手段の社会化による社会主義システムが達成する原理的意義である、と言うわけです。

しかし以上の議論だけでは依然として、「結合された(associated)生産者たち」が主人公になるとはどういう状態か、それはいかなる特性を持った経済システムとして規定されるのか、さらに「結合された(associated)生産者たち」が主人公になる経済システムにおける生産活動では、なぜに「利潤第一主義」が克服されうるのか、等々の問題が不明瞭です。これに対しては、不破氏は、例の如く、

「では、「結合された生産者たち」が主人公になる経済とは、具体的には、どういう経済になるのか、また企業はどんな形態になるのか。これは、あらかじめ青写真を描いて、現実をそれにあわせるというわけにはゆかない性質の問題です。
マルクスは、「生産手段の社会化」という大方向は打ち出しました。また、そこで主役になるのは「結合された生産者たち」だという大方向も打ち出しました。しかし、それがどんな企業形態に具体化されるのか、全国的にはどんな経済形態になるのかについて、青写真を描くことは、きびしくいましめました。」

という青写真否定論に持ち込んで、肝心な点を明らかにしようとされません。結局、どんな経済形態になるかは理論的には不明のままではあるが、ともかく社会主義としての「生産手段の社会化」である以上は、「結合された(associated)生産者たち」が主人公となっている事が「原則」だ、彼らの生産活動は「利潤第一主義」を克服し、私的利益の追求ではなく、社会全体の利益の為の生産に切り替わる事が「原則」なのだ。その諸「原則」から逸脱する経済形態はもはや社会主義としての「生産手段の社会化」とは認められない、という論理構成になっているのです。このような「原則」論議では、「結合された(associated)生産者たち」が主人公であるような、そして「利潤第一主義」的な生産活動が克服され得るような「生産手段の社会化」の実現された「社会主義社会」というものが、そもそも原理的に実行可能な社会システムとして有り得るのか、「原則」云々をやかましく振り回したところでそれは実は単なる「絵に描いた餅」に過ぎないのではないか、という疑問に答える事が出来ません。

もちろん、将来の技術的生産様式や経営組織形態がどう変わるかは予想がつきませんから、既存の特定の技術的生産様式や経営組織形態等に依存したモデルで、社会主義の青写真を描く事は「将来を拘束する」事を意味するかもしれません。しかし、そういった要因に中立的な、そういった要因の影響を捨象した、もっと原理的なモデルを構成する事によっても尚、以下のような問いを立てることが可能となります:「『利潤第一主義』的でない生産活動」という条件と、「『結合された生産者』が生産活動のイニシアティブを握っている」という条件、この二つの条件を共に満たすような、生産手段が私的に所有されていない資源配分メカニズムというものがそもそも原理的に存在しえるのか?もしそのような資源配分メカニズムの存在の原理的不可能性が、理論的に証明されてしまったら、不破氏の社会主義社会論は「絵に描いた餅」に過ぎない事を意味するのです。逆にもし、その存在可能性を保証できるのであれば、一つでもいいから、上記2条件を満たす非私的所有下の資源配分メカニズムの理論モデルを、具体的に構成して見せる事が可能なはずです。そのようなモデルの提示こそ、意味のある「青写真」の提示であると言えるのです。このように、「青写真」の提示というのは、その提示によって将来社会を拘束する為のものではなく、構想されている社会システムの原理的存在不可能性を理論的に否定する為の戦略であると考えれば、何の問題もないはずです。


6.4 大藪龍介氏における社会主義社会=アソシエーション社会論

マルクスの「結合された(associated)生産者たち」に着目した不破氏の議論は実は、いわゆるアソシエーション論に大きく関わる様に思います。この点で、大藪龍介氏が「マルクスの未来社会=アソシエーション」論の立場から、「結合された(associated)生産者たち」が主人公である社会システムとはいかなるものかについて、もう少し明瞭な議論をしていますので、少し引用しておきます。

大藪龍介「マルクスは革命後の社会をどう組織しようと考えていたか」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~oyabu/ronbun_f.html
より以下、引用:

「資本主義社会から社会主義社会へ移行するには、強制労働や私的所有をなくし、階級的な支配=服従関係を一掃し、国家を消滅させる、等々の、人類史を劃する全面的で根底的な変革を世界的規模で遂行しなければならない。そこに、一連の大変革をなしとげてゆく「長い生みの苦しみ」の過程としての過渡期が必要不可欠なのである。
 では、革命後の、社会主義社会への構造的転形の只中にある過渡期の社会について、マルクスのヴィジョンは、どのようなものであったか。」

「マルクスの未来社会構想のキー・ワードは、「アソシエーション」であった。「アソシエーション」とは、協同組合に代表的なように、自由で独立した諸個人が平等な関係を取りむすんで連帯する協同組織── 今日的にいえば、NPO、NGOがそうだ──を、また諸々の協同組合のネットワークとしておりなされる協同社会を意味する。
 1848年の『共産党宣言』で、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような協同社会」として未来社会を特徴づけたマルクスは、1860年代に、生産協同組合に秘められている、資本主義的なそれに代わる新たな経済システムへの発展可能性を見出した。そして、「国際労働者協会創立宣言」や『フランスにおける内乱』では、協同社会を「協同組合的生産」「協同組合的所有」「協同組合的労働」などによって構成される「協同組合的社会」として描きだすにいたった。
 従って、革命後の過渡期の経済建設は、資本(家)と賃労働(者)が対立し、営利を至上目的とする企業を単位とした資本主義経済システムを、協同組合型社会を志向し、協同組合を単位として、労働者たち自らが経営を含めて生産を管理し、生産手段を所有し、協同労働に従事するシステムへと漸進的に改造してゆく過程である。」
(引用終わり)

ここで大藪氏が述べるところの「社会主義社会」とは、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような協同社会」、すなわちいわゆる高度な段階としての「共産主義社会」に相当する社会システムを意味しているが、そこでのキー・ワードこそが、「アソシエーション」であると言っています。大藪氏の言う「アソシエーション」は、不破氏の言うところの「結合された(associated)生産者たち」に相当する。不破氏の生産手段の社会化としての社会主義社会に相当するのが、大藪氏のアソシエーション社会であるが、そこでの議論は不破氏に比べてはるかに明示的です。「協同組合を単位として、労働者たち自らが経営を含めて生産を管理し、生産手段を所有し、協同労働に従事するシステム」としての「協同組合型社会」こそ、大藪氏の言うところの「アソシエーション」社会に他ならないわけです。



平成15(2003)年6月25日[水]

平成15(2003)年6月25日[水]

 日本共産党が四十二年ぶりに党綱領を大幅に改定するそうだ。いままで否定してきた自衛隊や天皇制を条件つきで容認するという。降ってわいたセクハラ問題もさることながら、黒を白にする路線転換がこの党の苦渋を如実に示している。

 ▼共産党をとりまく現実とは何か。旧ソ連の崩壊やベルリンの壁消滅が象徴するように、国際共産主義の理念はいまや脳死寸前の虫の息となった。共産主義社会の実現をめざしている日本共産党も、いうならば“喪家の犬”で、坂の上の輝く白い雲を見失ってしまった。

 ▼党勢の低迷も当然で、党機関紙「しんぶん赤旗」の購読者数は三百万人から百八十万人に激減しているそうだ。野党が画策する連合政権構想にもお呼びがかからない。カビの生えた綱領改定は苦肉の策だが、そうかといって体面もある。“条件つき”はその苦渋を示していた。

 ▼ところで共産主義はいまどんな国際的評価を受けているか。たとえばフランスのクルトワ、ヴェルト両氏の共著『共産主義黒書』(恵雅堂出版)などはこう見ている。二十世紀は戦争と革命の世紀だったが、ナチズムの犠牲は二千五百万人…。

 ▼それに対し共産主義の犠牲は全世界で一億人に達するという。内訳はソ連二千万人、中国六千五百万人、ベトナム一千万人、北朝鮮二百万人、カンボジア二百万人、東欧百万人、などなど。「その犯罪性はナチズムと酷似している」と著者らは断罪していた。

 ▼このような世界の厳しい認識を直視すれば、綱領の手直しぐらいではとても追いつかない。党名変更をはじめ古く閉鎖的な党体質の根本的な改革にも迫られているだろう。しかし気の毒なことに、そうなると共産党の存在理由そのものがなくなってしまうのである。



綱領改定前に61年綱領の世界認識を再確認
(03/6/18 19:56)

>> 無理ですって!
>> どんなにあがいても、ソ連・東欧の崩壊という歴史的事実は変えられない。
>> 逆にあの歴史的事実から10年経ってもまだ幻想を抱いている人たちの異様な保守性が浮かび上がってくるだけのこと!
> ソ連の崩壊と日本共産党の予見とどういう因果関係があるのか。
> 幻想である根拠を教えてよ。

綱領改定案が提示される前に現在の綱領の基本となっている61年綱領の世界認識を再確認しよう。

http://www.jcp-archives.net/main/kouryou/kouryou08.htm
より引用

「日本共産党綱領
(第8回党大会、1961年7月27日決定)
 
(中略)
第2次世界大戦後、国際情勢は根本的にかわった。社会主義が一国のわくをこえて、一つの世界体制となり、資本主義諸国の労働者運動はますます発展し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどで植民地体制の崩壊が急速に進行し、帝国主義の支配を足もとからゆるがしている。資本主義の全般的危機はふかまり、資本主義世界体制は衰退・腐朽の深刻な過程にある。社会主義の世界体制、国際労働者階級、帝国主義に反対する勢力、社会の社会主義的変革のためにたたかっている勢力は、今日の時代における世界史の発展のおもな内容、方向、特徴を決定する原動力となっている。社会主義世界体制は人類社会発展の決定的要因になりつつある。世界史の発展方向として帝国主義の滅亡と社会主義の勝利は不可避である。」





新綱領案をどう見るか(4)-a
小田(03/6/27 14:44)

6.5 新綱領案における社会主義構想の整理とその基本的問題

不破氏の講演論文を、大藪氏によって整理された「マルクスの未来社会構想=アソシエーション社会」の議論とともに参照しつつ、改めて新綱領案が構想する社会主義論を再構成してみましょう。私見に基づけば、新綱領案が構想する「生産手段の社会化によって規定される社会主義社会」とは、「結合された(associated)生産者たち」によって社会の主要な生産手段の所有・管理・運営がなされるものの、経済全体の資源配分は基本的に市場メカニズムを通じてなされる、そういう経済システムを想定しているのではないかと思われます。より具体的には、個々の生産活動の拠点としての「企業」が資本主義経済のような私的所有企業ではなく、「労働者たち自らが経営を含めて生産を管理し、生産手段を所有し、協同労働に従事する」ような協同組合型企業ないしは労働者管理型企業などとして存在しており、各企業間での経済取引は基本的に市場を通じてなされている、その意味で生産単位が協同組合企業であり、経済全体の資源配分は市場を通じて行われている、そういう経済システムの事です。もちろん、協同組合型企業ばかりでなく、中小規模の私的所有企業も存在して、市場を通じた経済活動に参加しているし、現代資本主義国が行うような、国民経済全体に関するマクロ的な将来投資の大まかな計画の設定、それに基づいた市場に介入する様々な経済政策や社会政策、並びに景気対策も引き続き存在する事でしょう。

このような経済システムがうまく効率的に機能する事と、不破氏が社会主義的な「生産手段の社会化」の原則として掲げた条件1.「結合された(associated)生産者たちが生産活動の主人公となる」と条件2.「利潤第一主義ではなく、社会全体の利益の為の生産活動」とが果たして両立するか、という問題が「社会主義の実行可能性」の観点から提起されるでしょう。条件1に関する疑問は、企業活動における「所有と経営の分離」が普遍化し、かつ職業の専門化が普遍化している現代経済の特性が今後も引き続く傾向にあると仮定した場合、「生産者たちが主人公である」とはいかなる意味かという事が依然として不明瞭であるという事です。また、条件2に関しては、「利潤第一主義の克服」の意味が、企業の利潤追求を目的とした生産活動の否定を意味するとしたならば、果たしてそれは市場を通じた資源配分メカニズムの効率的運営と両立するであろうか、という疑問です。市場が資源配分メカニズムとして効率的な性質を有するのは、価格シグナルによる需給の調整機構が存在する事と、競争メカニズムとして機能する事によって、適材適所的な物的資源・サービスや労働の社会的配分が可能となるが故であると、ミクロ経済学では理解されています。「利潤第一主義の克服」は市場が競争メカニズムとして機能する為の土台を掘り崩す事を意味しないか、という疑問があるわけです。


6.6 「生産者たちが主人公である」とはいかなる意味か?

では、最初に条件1の意味について解明してみましょう。生産活動というものが複数の人間たちの協同労働である以上、全体の指揮・監督の役割を果たす人間の存在が不可欠である事、そして他の人間たちは指揮・監督者の指示に従いつつ各々の担当する労働活動に従事する事の必要性は変わらないはずです。協業と分業は表裏一体のものでしょう。それは企業活動における「所有と経営の分離」が普遍化し、かつ職業の専門化が普遍化している現代経済の特性が今後も引き続く傾向にあると予想する限り、重要な点です。マルクスは資本論Iの協業論において、自由で独立な諸個人の結合した(associated)協同的労働と、「資本の生産力」として現れる資本の下での協同労働とを区別して論じ、後者において分業の発展に起因して、経営者や監督者による労働支配という問題やいわゆる「疎外された労働」という問題が生じる事を強調しました。しかし分業一般が、それら労働支配や労働疎外の原因であるとは考えておらず、逆に前者においては、やはり分業があるにも拘らず、経営労働者・監督労働者と現場労働者との関係は支配-従属関係ではなく、自立した諸個人の協同活動における役割分担による関係(指揮-従事の関係)として特徴付けられます。また、「疎外された労働」問題も、原理的に起きないものと展望されます。私がかつて聴講したマルクス経済学の原論の講義では、自由で独立な諸個人の結合した(associated)協同労働における指揮-従事の関係を、オーケストラにおける指揮者と演奏者達の関係に例えて説明していました。すなわち、そこではオーケストラという協同活動において、指揮者と各楽器の演奏者という分業が存在し、各メンバーはそれぞれの担当する役割に専門的に従事して活動しています。そして各演奏者は、オーケストラという協同活動全体の中での己の役割を認識しており、その役割を果たす為に自発的に指揮者の指揮に従いつつ、演奏活動を行っています。各演奏者にとって己の演奏活動を、オーケストラという協同活動全体に調和させる事も、指揮者の指揮に従う事も、彼にとって「強制」された事ではなく、従ってそのような活動は彼にとって「疎外された労働」として現れるようなものではない、と。成るほど、オーケストラのような活動は、「自由で独立な諸個人の協同労働」のイメージにぴったりのように思えましたし、そこでの人間関係も「支配-従属関係」とは言えないでしょう。「結合された(associated)生産者たちが生産活動の主人公となる」という事のイメージとして、オーケストラ活動はよく当てはまるような気もします。


6.6.1 私的所有制に根拠付けられた「支配」や「疎外」からの自由

しかし、生産者たちの協同労働が、「自由で独立な諸個人からなるアソシエーションの生産力」となる場合といわゆる「資本の生産力」に転化する場合とで、何がそのような違いを引き起こすのか、その違いの主要要因は何でしょうか?マルクスの議論を演繹すれば、生産者たちの協同労働がアソシエーションの生産力ではなく資本の生産力に転化するのは、生産手段が私的所有の下にあるからである、という答えになるでしょう。私的所有制経済の下では、生産者たちの協同労働とは、生産手段の私的所有者、すなわち資本家による、彼にとっての所有対象たる生産手段――物的資本財のみならず直接的生産者たちも可変資本という形態で含まれていることも留意――の「自由な処分」のプロセスに他なりません。そこでは生産者たちの協同労働は、資本所有者の「自由な処分」として利用される「対象」として存在させられ、「処分」の仕方に関してもその目的に関しても資本所有者の自由な意思決定に従属しますし、その成果も資本所有者が徴収する権原を持っています。かくして、そこでは生産者たちの協同労働活動において生産者たち自身の自由な意思・イニシアティブの介在する余地は原則として存在しない――なぜならば彼らは「利用される対象」に過ぎないから。よって生産者たちにとってはこの活動は、もっぱら「強制された、疎外された労働」として現れ、彼らの結合的に発揮する力も、彼らにとっては「外化された生産力」、すなわち「資本の生産力」として現れる事になる。そこでは当然ながら、生産者たちは生産活動の「主人公」には成り得ない。かなり哲学的な議論ですが、マルクス経済学での議論に基づけば、このように説明されるでしょう。そしてこの説明に従えば、生産手段の私的所有制度が廃棄され、「社会的所有」が確立した社会主義社会では、生産手段の所有者は生産者たち自身である事になるので、その「処分の仕方」、つまり生産活動の方針の決定に関しても、生産者たち自身の自由な意思の対象になりますし、その活動の成果も生産者たちが徴収する権原を持つ事になるでしょう。この「生産者たち自身による生産手段の自由な処分」という理念を体現する役割を果たすのが、アソシエーション論における協同組合型企業や労働者管理型企業であるという事になるのでしょう。


6.6.2. 市場の競争メカニズムに根拠付けられた「強制」からの自由

上記のマルクス経済学に基づく説明は、しかしながら、基本的には資本所有者=経営者と想定した下での説明です。所有と経営の分離した現代の資本主義経済では、資本所有者とは株式所有者であり、彼の主な関心は利潤配当の大きさであり、生産手段の処分の仕方、つまり企業の経営方針に関しては、それが収益性に見合うか以外には関心を持ちません。生産手段の処分の仕方に関する意思決定は経営者に委ねられています。では経営者は経営活動に関する「主人公」と言えるでしょうか?確かに経営活動の方針は経営者の自由な意思決定に基本的に委ねられているように見えますが、しかしそれはその方針が企業の収益性、利潤最大化という基準を満たす限りであるという制約の下にあります。この制約を満たさないような経営活動の遂行は、株式所有者たちの離反による企業の株価の下落、その結果としてのテイク・オーバーによって、経営者としてのポジション喪失という危機的状況を引き起こす危険があるわけで、経営者は生活していく為に、経営者の地位を解雇されたり自らの職業上の評判を落としたりするような行為を避けねばならないでしょう。のみならず、潜在的な経営者候補にその地位を取って代わられるリスクを避ける為にも、彼は「積極的に」企業の収益性を高めるべく行動せざるを得ないでしょう。つまり、市場経済の有する競争メカニズムが機能しているが故に、経営者は生活していく為にも、企業の市場における競争条件を悪化させるような行動は取れないわけです。経営者にとって、「競争原理」というものが彼の意思に対して、それに従わざるを得ない外的な力として立ち現れているわけです。

何が言いたいかというと、諸個人の生産的活動に対して、外的な強制として作用する力が現れるとき、その外的な力は私的所有制度に根拠付けられるものばかりではなく、市場の競争メカニズムに根拠付けられるものもあるという事です。経営者以外の直接的生産者たちに関しても同様です。つまり、彼らが自分たちの属する企業の方針決定に関しての自由な発言権を有するであろう協同組合型企業や労働者管理型企業においても、経済全体の資源配分が市場を通じて成される社会である限り、「競争原理」というものが彼らの意思に対して、それに従わざるを得ない外的な力として立ち現れるであろう事は原理的に変わらないはずです。「市場の無政府性」に熟知した読者の皆さんであれば、この市場の運動自体が各生産単位の生産者たちにとって外的な力として現れ、彼らを振り回すだろう事について、容易に理解できると思います。別に恐慌の勃発などを指摘するまでもなく、もっと原理的な以下の様な問題がある事に気付くはずです。すなわち、市場価格の動向は、総和された需要行動と総和された生産行動との間の調整過程という、いわば人々の社会的な活動の総合によって規定されるものです。しかしながら、生産者各々にとっては、彼らの結合された社会的な力の現れである市場価格の運動は、彼らにとっては外的な、彼らの行動を支配する「外化された力」として現れる事になるのです。例えば農業生産者たちは、新鮮で健康的なおいしい野菜を生産したい、そのための努力と工夫に自分たちの活動時間を費やしたいと心から願っていても、その野菜の見栄えが悪かったりすれば市場で評価されず、自分たちの生活が維持できない事が予想されれば、見栄えのいい野菜を作る事を優先せざるを得ないでしょう。そのとき、彼ら農業生産者たちにとって市場価格の動向は、彼らの「新鮮で健康的なおいしい野菜を生産したい」という自由な意思を踏みにじる、支配的な「外化された力」として受け止められるでしょう。

資源配分機能が基本的に市場に委ねられる経済システムである限り、この種の「強制」からの「自由」はありえません。つまり市場の競争原理によって生ずる「強制」的な「外化された力」から自由である、という意味での「生産活動の主人公」という状態は、原理的には有り得ないだろうという事です。たとえ生産手段が社会化され、各生産拠点が協同組合型企業として存在するような社会の場合であっても、資源配分機能が基本的に市場に委ねられる経済システムであり、かつ市場が競争メカニズムとしてきちんと機能している限り、各企業を所有・管理・運営する「結合された(associated)生産者たち」は、市場競争がもたらす「強制」的な「外化された力」から自由である、という意味での「生産活動の主人公」にはなりえない事に変わりはありません。


6.6.3. 私的所有と市場競争の双方がもたらす外的な力から解放された社会としてのマルクスの共産主義社会構想とその原理的実行不可能性

ちなみに、マルクスの元々の共産主義社会構想では、いわゆる過渡期段階を通過後のアソシエーション社会における経済的資源配分とは、市場メカニズムを通じたものではなく、「結合された(associated)生産者たち」の協議に基づいて行われる計画経済メカニズムを想定していた様ですから、彼の議論では、市場の競争がもたらす「強制」からの自由という問題も原理的には解消されている事を意味します。私は、マルクスの議論における「自由な諸個人」論においてより重要な問題は、私的所有制に起因する支配関係からの自由の問題よりも市場の競争がもたらす「強制」からの自由の問題の方であり、マルクス自身、後者の解決を人間の自由に関するより根源的な課題と考えていたのではないかと想像します。実際、マルクスが、市場経済が全面的に展開された社会を、「貨幣に媒介された人間関係」として特徴付けられる「物象化された社会システム」と位置づける事によって、その物象化された社会関係が解消された段階の社会システムを、「真に自由な諸個人からなる共同社会」として位置づけていた事を想起しても、市場がもたらす「外的な力」からの自由の問題をいかに重要視していたかが伺われると思うのです。

残念ながら、競争がもたらす「強制」からの自由の問題に関する真の解決は、市場経済に取って代わる資源配分メカニズムとして何らかの計画経済を想定する限り、不可能でしょう。生産者たちの経済活動が市場価格の動向に振り回され、その意味で「支配」されるという事は、裏返せば、各生産者たちは価格をシグナルとしてそれぞれ分権的に経済活動の調整を行う事ができる事を意味します。各経済主体が各々分権的に経済活動の意思決定を行うにも拘らず、それが市場価格をシグナルとして成される事によって、結果として社会全体の需給の調整が自動的になされ、需給の均衡において達成される資源配分がパレートの意味で最適となる事は、ミクロ経済学でよく知られた理論的帰結です。そして同じくパレートの意味で最適となる資源配分を、人々の協議によって形成・合意される経済計画に基づいて行う場合、社会に存在する諸個人各々の選好など、膨大な私的情報を集約して、さらに膨大な連立方程式を解くという経済計算を行う必要がある事、その意味で情報収集に関する非効率性問題や人々に正しい私的情報を表明させるという意味での誘因問題等の困難や、どんなに高度なコンピューターであろうとも社会全体の資源配分に関する経済計算は、連立させる方程式の数が多すぎる為に原理的に不可能であるという「限定合理性」の問題が絡んでくる事、以上の意味で計画経済システムは市場経済に比して非効率なシステムであると言わざるを得ない事が、現代のミクロ経済学の議論では解明されています。ここら辺の議論はすでに以前のJCPWでも市場社会主義の実行可能性問題を巡るスレッドで詳細に議論してきました。より詳細な議論については、以下の

http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs23.cgi?id=&md=viw&no=0010&tn=0010
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs22.cgi?id=&md=viw&no=2177&tn=2157
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs22.cgi?id=&md=viw&no=2183&tn=2157
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs22.cgi?id=&md=viw&no=2190&tn=2157
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs23.cgi?id=&md=viw&no=0032&tn=0010

を参照ください。

以上の議論より、市場の競争原理がもたらす「外的な力」からの自由という意味での、「結合された(associated)生産者たちが主人公」という条件の成立は、資源配分メカニズムの効率性という条件と、原理的にはトレード・オフの関係になる事が解ります。マルクスの「自由の王国」としての共産主義社会構想はある意味、この2つの条件を供に満たすような経済システムを想定するものですから、この事は、マルクスの共産主義社会構想の実行不可能性を意味します。もちろん、市場を媒介しない経済システムであって、市場以上に効率的な資源配分機能を有する経済システムが将来において仮に発見されるならば、話はまた変わってくるでしょう。しかし現在の経済理論の到達点で評価する限り、市場よりも効率的な資源配分メカニズムの存在は、発見されていないのです。


6.6.4 私的所有制の廃棄に基づく「生産者たちが主人公」という条件と企業の市場競争力の両立性問題

他方、私的所有制に起因する「支配」や「疎外」からの自由という意味での、「結合された(associated)生産者たちが主人公」という条件の成立は、生産手段の社会化された協同組合型企業・労働者管理型企業に帰属する生産者たちによる、生産手段の管理・運営への関与というものが、企業の収益性基準、つまり利潤最大化行動と両立するか否かがポイントになります。いわば直接的生産者たちによる、企業の経営意思決定への参加・関与が、企業の市場における競争条件の維持と両立するか否かという問題です。この問題は、「依頼人-代理人問題」をどう解決するかという企業組織論の課題に関連してきます。これに関しては、我々は一方で、ユーゴスラビア型社会主義経済の失敗という歴史的経験を持っています。ユーゴスラビア型社会主義経済は、市場価格に媒介された資源配分機能をもつ経済システムであり、かつ生産拠点は労働者管理型企業として特徴付けられていました。これが失敗した原因は、各労働者管理型企業が「依頼人-代理人問題」の解決に失敗しており、いわゆる「ソフトな予算制約」や「労働の過剰雇用」という現象が一般化しており、結局のところ、資源の適所適材的配分を可能にする市場の競争メカニズムが機能していなかった点が挙げられています。

我々は他方で、北欧諸国におけるコーポラティズム制度やドイツの株式会社における「共同決定法」のように、労働者・労働組合の経営参加・関与が一定認められている市場経済システムの存在のような成功例も経験しています。例えば、ドイツの株式会社における「共同決定法」に関しては、以下の論文

http://www1.doshisha.ac.jp/~mhayakaw/lec/paper/paper5.pdf

より引用すれば、

「ドイツの共同決定法では、ド イツでは株式会社の経営機構について二層制を採用している。株主総会は直接業務執行機関の構成員たる取締役の選任・解任権を持たず、業務執行を直接監督する監査役員の選任・解任権(株式法101 条1 項、103 条1 項)を行使することで監査役会をコントロールし、間接的に会社経営者に対する監督機能を果たすことになる。
しかし、ドイツでは共同決定法の適用のある会社(従業員数が2000 人以上の企業)では監査役員の半数は従業員・労働組合から選出されるので、株主総会のコントロールは残り半数の監査役員にしか及ばないことになる。
 だが、実情として監査役会会長は株主により選任された監査役員から選ばれ、株主により選任された監査役員の方が従業員・労働組合から選任された監査役員より優位にあるといえる。」

との事です。上記の論文を読む限り、ドイツの株式会社では、労働者の代表として監査委員になる個人も、企業の利潤最大化原則を遵守すべくかなり厳しい条件を課せられており、その意味で「企業の利潤最大化行動と両立する労働者による経営参加」の一例と言えるかもしれません。もちろん、資本主義経済の下にあるドイツの株式会社における様な「労働者の経営参加」をもって、果たして「結合された(associated)生産者たちが主人公」の条件をパスするものであると見なすかどうかが、次の論点になるでしょう。この問題については、我々はすでに例の市場社会主義の実現可能性問題を巡るスレッドでも、「企業における民主主義的意思決定」と「企業の利潤最大化基準」との両立可能性の問題という形式でですが、一定の議論を行ってきた経緯があります。詳しくは以下の論稿、

http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs23.cgi?id=&md=viw&no=0096&tn=0010
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs23.cgi?id=&md=viw&no=0099&tn=0010
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs23.cgi?id=&md=viw&no=0103&tn=0010
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs23.cgi?id=&md=viw&no=0112&tn=0010
http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs23.cgi?id=&md=viw&no=0149&tn=0010

等々をご参照ください。

しかしながらいずれにせよ、不破さんの構想する社会主義社会においては、結合された(associated)生産者たちの経営参加は、企業の利潤最大化基準と両立可能には成りません。この点は、次回の論稿で論じますが、ポイントは「利潤第一主義の克服」という条件と関わってきます。


 村岡到綱領のどこを改定すべきなのか
  ――日本共産党がぶつかっている壁     2003,5,27

 及び腰の綱領改定
 日本共産党は、5月24、25両日に開催した第6回中央委員会総会で党綱領の改定を次の党大会でおこなうことを正式に確認した。すでに3年前の第22回党大会の直前から不破哲三委員長(当時)は「朝日新聞」で「綱領見直しは党中枢の共通認識である」と語っていたが、党の正規の確認は為されていなかった。
 ところが、「赤旗」での6中総の発表を見ると、わざわざ綱領の改定に注意が向かないように気配りしているようである。
 25日の「朝日新聞」には「共産党綱領改定へ 11月の大会で」という見出しで報道された。そこには「6月の第7回中央委員会総会に改定案を示し」と書いてある。ところが、「赤旗」をひろげてみても、どこにも綱領の改定については書かれていない。「綱領」という文字がない。第23回党大会の開催を11月にすることは1面の報道に書かれてはいるが、「第6回中央委員会総会への幹部会報告の骨子」なるまとめを読んでも、11項目が中見出しふうに大きく表示されているなかで、「党大会にむけた政治日程の提案」の項目には本文がそこだけ空白になっている。
 翌26日の「赤旗」でも、1面の報道には綱領の改定についてはまったく触れていない。2面に書記局の「第6回中央委員会総会について」という定例のまとめが掲載され、そこでは「綱領改定案は6月の第7回中央委員会総会で……決定し」と書かれているが、他にはどこにも書いてない(参院選の候補者についてや不破議長の発言は大きな見出しで別記事でも扱っている)。党員は「朝日新聞」より1日遅れて知らされることになった(CS通信受信者は除く)。
 21世紀初めての綱領の改定であり、本来ならば、特筆大書してその意義と期待を明確に打ち出し宣伝すべき重大な事柄であるにもかかわらず、この控えめの、なるべく印象に残ってほしくないかの扱いは何を意味しているのか。このまったくの及び腰は、十分な自信をもって綱領の改定に取り組んでいないことの現れである。私たちはもう20年も前から共産党が理論的に枯渇しつつあることを指摘しつづけてきた(この数年間、目立った理論書は不破議長の著作などごく限られたものしか発行されていない)。
 この低調さは、後退した地方選挙の総括でも同じで、志位和夫委員長の、「赤旗」では5面にも及ぶ長大な「報告」と「結語」(「赤旗」5月27日)にたいして、ただ1度の笑いも拍手も起きなかったことにも示されている。発言で会議が盛り上がった箇所には(拍手)と挿入するのが習慣なのに、それがない。「赤旗」読者数について「大きな痛手だった」と強調せざるをえないほど大きく後退している現実(前大会で発表した197万人からどれだけ減ったのかは明示していない)に直面して、笑う余裕はないのであろう。
 ともかく綱領改定案は6月の7中総で発表されることになった。これまでは、私にしても共産党の文書が発表された後に論評してきたが、今回は先回りして、日本共産党の綱領のどこを改定すべきなのかについていくつかの論点を提起する。
 本論に入るまえにやはり確認しておこう。
 日本共産党を批判する場合、私たちは共産党が日本の社会と政治のなかで占めている位置について大きくは肯定的に評価することを出発点に据えている。いつも確認しているので、今回は簡略にするが、すでに解党してしまった社会党や衰退している新左翼諸党派と対比すれば、共産党が一進一退はあるものの基本的な骨格を保持して、憲法改悪や有事法制などの政治の反動化(社会の軍事化でもある)に反対して国会において自公政権と対決する野党として活動していることは評価に値する。4月の地方選挙においても共産党が立候補しなければ、無投票選挙になる選挙区も少なくない。農村部での党員首長の相次ぐ誕生や自治体議員の活躍と前進は、過疎化に悩む地方の再建と地方自治にとって展望を与えるものである。
 大衆的政治闘争の現状については別にきちんと総括しなければならないが、この2、3年の運動の特徴として、共産党系といわゆる市民派との共同行動が実現し積み重ねられてきたことは重要な成果である(私たちは1980年から「社共新左翼の共同行動」を提起してきた)。この点で、5月23日の有事法制反対集会・デモが、この間の大きな共同行動の主軸をなしている陸海空港湾20労組などが主催した明治公園3万人、と旧総評系の平和フォーラム主催の日比谷野音3000人という形で分裂し、共産党系が前者のブロックに合流したことは特筆すべきである。60年代の反戦運動では、逆に共産党系が少数でかつ市民運動とは離れていた(かつては独自でも数万のデモを実現した新左翼は今や独自では3桁しか集められず、「非暴力」を前提的に確認する共同集会に合流する以外に開かれた活動の場はない)。

 日本の政治体制は何か
 共産党が綱領において何よりも明確にすべきは、今日の日本の政治体制がいかなるものなのかについての基本認識である。周知のように綱領では「日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である」となっている。これが「二つの敵」論と呼び慣わされてきた共産党の基本認識である(1961年の綱領確定の時には「二つの敵」と明記してあった)。ところが、第22回党大会の「決議」の第1章で、突然「戦前の天皇主権の政治体制はあらためられ、国民主権の民主的な政治体制がつくられた」と言い出した。これは氷炭あい反する認識である。この問題については、私は直ちに着目して論評を加えたが、いずれを綱領上の認識にするのか、二つに一つの選択しかありえない。
 この認識と連動して当然ながら「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する新しい民主主義革命」を削除する必要が生じる。すでに「国民主権の民主的な政治体制」が実現したと認識するからである(私は「国民主権」より「主権在民」が適切だと注意したが、最近は後者になった)。先の「決議」ではいつになく「社会主義への展望」が明記されたのであるが、この方向と質をさらに明確にする必要がある。
 この基本認識の系として、綱領には登場しない「市民」を定位する必要が生じる。民主主義=民主政の主体は「市民」だからである。「市民」用語は「赤旗」ではすっかり定着しているが、綱領では「勤労市民」しか許容していない。同質の問題であるが、「生存権」も明記すべきである。「綱領」で使われている「生存の自由」などというセクト的な用語は「赤旗」でもすでに死語になっている。これは5年前から私が指摘してきたことである。

 日本資本主義の経済情勢について
 第二の問題は、日本資本主義の経済情勢についての分析である。この問題は、私自身にとっても弱点なので多くを論評することはできないが、6中総の報告でもいかにも手薄である。確かに、「経済と暮らし」の項目で「リストラ反対」などに言及してはいるが、世界経済のグローバリゼーションのなかで日本資本主義がいかなる問題に直面しているのか、ほとんど分析がない。「グローバリゼーション」の言葉さえ出てこない。
 労働法制の改悪をはじめとする労働者の雇用と労働条件の問題について、明確な認識を明らかにしなければならない。賃金闘争の新しい構築が課題である。資本制経済の持続的な成長を可能だと考え、願望する基本的立場の有効性が問われている。地球温暖化問題についてまったく言及できないのは、この根本的立場の誤りゆえなのである。ゼロ成長、マイナス成長でも、労働時間短縮とライフスタイルの根本的転換によって、より平等な社会の在り方を追求することが求められているのである。
 また、綱領では農業についての位置づけも不十分である。私は昨年ようやく農業の重要性に気づき、農業を<保護産業>として確立する必要があると提起した。
 なお、昨年から不破が使い出した「資本主義市場経済」なる用語はどうするのだろうか。この共産党にとっての新語は、「社会主義市場経済」を容認するための伏線なのであるが、迷路への糸口にしかならない。
 なお、本稿では「社会主義」の諸問題や国際情勢についても省略したが、6中総冒頭のイラク戦争についての分析と北コリアについての主張については、私は基本的に支持する。ただし、北コリアの独裁者に「理性的外交」を説得するためには、日本の革命運動の遅れによって南北朝鮮国民に助力できていないことへの、私たちの反省が不可欠の条件になるだろう。

 時代の変化に見合う柔軟な組織論を
 組織論について言えば、情報技術の発達と生活信条の在り方の変化――生涯を賭けて一途に一つの目標のために生きる生き方は、必要かつ尊いとはいえ今や狭い範囲でしか可能ではなく、かつ許容されないように、社会は多様性を拡大する方向へと変化した――に見合う柔軟な組織論が求められている。レーニン時代に有効であった、『何をなすべきか』に典型的な組織論が21世紀の先進国日本で通用するはずはない。ホームページが日常生活の一部になった今日では、党員である議員を硬い規約で縛ることは不適切であるばかりか、できる相談ではない。なお未発達であったとしても、ホームページへの質問にすぐ答えられなければ、信頼を失うことになる。
 したがって「民主集中制」が根本的に見直されるべきであるが、そこまで踏み込めないとしてもせめて「循環型民主集中制」――言語矛盾ではあるが、根本的転換の前にはこの種の工夫はまま生じる――までは進むことはできるであろう。事実、最近は中央委員会総会を党の事務所でCS通信によって聞いて、意見を上げ、それを翌日の総会での討論に活かしている。スターリン型の密室政治からは想像もつかない変化が、情報技術の発達を基礎に実現している(誤解はないだろうが、私は党のすべての会議を公開にすべきとは考えていない)。近年は、大会にむけての討論誌の発行も一程度は保障されるようになっている。活用する一般党員の質的・量的レベルアップこそが課題である。すでに党内から要求が発せられているように、やがては「赤旗」に討論欄が常設されるのが望ましい。
 ところで、志位は、「結語」の結びで「5中総決定を読んだ同志が3割程度」という中央委員の発言を引用している。「3割程度」という低さも大いに注意を引くが、そんなことよりもここで志位が「読了」なる独特の党内用語を使わなかったことのほうが意味がある。すでに志位は「報告」のなかでは「決定を読んだ」か否かはまったく問題にしていない。数年前なら、「読了」率を細かにあげて叱咤したものである。同日の「赤旗」には「読了」なる文字が見出しになっているが、正確に言うと「視聴・読了」となっている。今や、読むよりもビデオを聞く党員が少なくないようになってしまった。党員の質がすでにこのように変化している。だからいわゆる『80年党史』が発行されても、それを読む党員は極端に少ないのが現状である。
 いますぐ実現することではないが、やがては決定文書を熟読することを当然の生き方とする<党員>の組織と、「赤旗」を講読しその時どきに活動に参加するだけの人間によるゆるやかな組織とに分化する必要があるであろう。ついでながら、4月の地方選挙後に、また「脱政党」が歴史の傾向であると強調する論調が目立つようになっているが、日本の政治の混迷を打破するためには、まともな政党こそが必要であり、強く求められているのである。
 以上に大急ぎに論評したにすぎなないが、共産党の綱領改定を契機にして、日本における社会主義をめざす運動のなかで理論的関心が高まり、討論が活性化することを、私は希望する。その活性化のなかにこそ、社会主義への道が切り開かれてゆくからである。

村岡到「日本共産党はどこへ行くのか」『連帯社会主義への政治理論』参照。


村岡到:第23回党大会綱領改定案の案への批判
 2003.6.22 400字×14枚

 日本共産党は、6月21日から開催した第7回中央委員会総会で、綱領改定案を審議しはじめた。翌22日の「赤旗」には、不破哲三議長がおこなった幹部会からの提案を公表した。
 その「日本共産党綱領(案)」は分量のうえでも短くなり、中見出しを加えるなど内容的にも簡潔なものになっている。さらに、なお審議中にもかかわらず「提案」の段階から公表したことも例のないことであり、大きな前進を示している。そのおかげで、私が今日それへの批判を書けることになった。公開される部分が拡大することは大抵の場合、事態にとってプラスとなる。いやプラスに転化しなくてはならない。この基本姿勢に立って、気づいたことを整理しておきたい。決定後にはまた、改めて考えることにする。

 「綱領(案)」は、以下の5つの節から構成されている。
 1 戦前の日本社会と日本共産党
 2 現在の日本社会の特質
 3 世界情勢――20世紀から21世紀へ
 4 民主主義革命と民主連合政府
 5 社会主義・共産主義の社会をめざして
 (以下便宜的に〔1〕〔2〕とだけ表示することにする)。
 本稿では逐条的に検討するのではなく、いくつかの特徴点を明らかにするやり方で検討しよう。「綱領(案)」の特徴は以下の4点に整理される。
 @憲法の意義の明確化、Aアメリカ帝国主義批判・対米従属批判、B民主的改革の強調、C社会主義・共産主義の強調、である。
 本論に入る前に、〔4〕の初めで「異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存の関係の確立に力を尽くす」と確認している点も大きな前進であり、イスラムとの対話が可能なのであれば、すぐ隣に住んでいる私たちとの対話・交流も実現してもよい時期にきているのではないであろうか。

 @憲法の意義の明確化
 「綱領(案)」の最大の核心的論点は、憲法の意義の明確化である。〔2〕の冒頭は「第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった」と定言し、その「第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である」と明確にした。つづけて「この変化を代表〔別の言葉がよい〕したのは、1947年に制定された現行憲法である」とする。
 この点は、3年前の第22回党大会決議でこの認識を打ち出した瞬間に、私がその重要性に注意を喚起し、先日の「綱領のどこを改定すべきか」(「稲妻」第348号)でも第1の要点として指摘しておいた問題である。したがって当然にもこれまでの4回にわたる綱領改定でも手をつけることがなかった「日本を支配しているのは」という現綱領の核心をなすテーゼ(「二つの敵」論)を撤回することになった。同じことの別の表現でもあるが、「君主制」は削除され、したがって「君主制の廃止」もなくなった。
 そして、「この変化によって、……国会を通じて……変革の道を進む」ことが可能になったと連続して確認することになった。これは、私がこのかん強調してきた<則法革命>と同じ認識である。共産党が1970年の第11回党大会いらい探究してきた革命の形態の問題はある面では明らかに私たちよりも先行していたが、次の最後の一線で吹っ切れていなかったがゆえに、「人民的議会主義」なる今では死語になった言葉によって表現されてきた。「労働者階級の権力」なる(マルクスと)レーニンが押し出したスローガンが、その最後の一線であった。共産党は今日まで一貫して「労働者階級の権力」を中心的基軸として護持してきた。だが、そこにつまずきの石があった。共産党はようやくそのことに気づき、明示的にではないが改変することにしたのである。だから、「綱領(案)」では「労働者階級の権力」と言わずに、「日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移す」と熟さない表現になっている。これまでも「多数者革命」とは強調していたが、「国民の多数」と明確にすれば、それをわざわざ「労働者階級の権力」と置き換えるのは論理的には不必要かつ誤りだった。
 さらに、憲法認識を一新したことによって、国連と国連憲章についてもその意義を明確にして強調できることになった。現綱領は国連と国連憲章にはまったく言及していない。補足的にいえば、憲法については成立年を記しているのだから、ここでもそれらの成立年を明示したほうがよい。また、〔4〕で「非同盟諸国首脳会議に参加する」とはっきりさせた。ここでも「党や市民による自主的外交の積極的展開」に言及したほうがよい(この数年の共産党議員団による諸国への訪問などは目を見張るものがあるからである)。
 なお、この憲法認識からすれば当然にも、私がしつこく強調しているように「市民」を定立しなくてはならないはずであるが、なお「勤労市民」を3度も使っているのに、「市民」は登場しない。ただ「生存権」は書き込まなかったが「生存の自由」は姿を消した。この点では。私たちの批判は半分以上実現したと言える。

 Aアメリカ帝国主義批判・対米従属批判
 第二は、「アメリカ帝国主義批判・対米従属批判」である。この点は、1960年代から共産党がもっとも得意とする領域であり(その頂点は、60年代前半の「アメリカ帝国の各個撃破論」である)、一時は「帝国主義」用語を後ろに引っ込める傾向もあったが、2001年の9・11特攻テロ後の世界情勢の展開によって再びその意味を付け加えながら批判用語として復活されることになった。この点は、現下の資本制経済のグローバリゼーションをどのように解明するかという問題として、左翼に共通に問われている課題につながっている。この領域は私も不得手なので、誰かがもっとましな認識を示すであろう。

 B民主的改革の強調
 第三は、「民主的改革」の強調である。〔4〕は「民主主義革命」が見出しになっているが、不思議なことに本文ではこの言葉は1度つかわれているだけで、ほとんどの場合には「民主的改革」とか「民主主義的変革」が多用されている。これまでは「君主制」と認識していたからこそ「民主主義革命」が必要であったのであり、前者の認識を改変したのだから当然ながら、「民主主義革命」も不要になるはずなのである。そうなっていないのは、大きな変化が生じる場合の不徹底の見本にすぎない。
 この内実として、憲法の天皇条項について「民主主義および平等の原則と両立するものではな」いという認識を示している。ただこの一文が「……立場に立つ」と静態的に結ばれているのは誤解を招く一因となる。たとえ「前衛党」は返上したとしても、単に「……立場に立つ」だけでなく、その方向を目指して活動することが、革新政党には求められるはずである(天皇条項よりも「象徴天皇制」がよい)。
 また、自衛隊については、「軍縮の措置」と「憲法第9条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」としている。前記の天皇条項での「立場に立つ」よりも実践的である。この考え方は、1998年に始まり、前大会で方針にしていた「自衛隊の活用」論を取り下げたものであり、先に見たアメリカ帝国主義認識の前面化と対応している。
 本日の「朝日新聞」では「天皇制・自衛隊を当面容認」と大きな見出しで」報道しているが、ミスリードである。

 C社会主義・共産主義の強調
 第四は、「社会主義・共産主義」の強調である。この点は、前大会についての私の論評で「社会主義をいつになく明確に強調した」と注意を喚起し、そこに「<連帯社会主義>をめざす私たちとの共通の土俵、接点がある」と確認しておいた(『連帯社会主義への政治理論』248頁)。
 まず積極的な点は、「生産手段の社会化」に焦点を当てたのは大きな前進である。また「国定の哲学」の否定については、すでに1976年の『自由と民主主義の宣言』前後から明示・強調しているが、この認識は近年になって私が強調するようになったグスタフ・ラートブルフへの着目と共通するものである(「生産手段の社会化」も特定のイデオロギーの否定も、オーストリア社会主義論の特徴であったことを想起せよ)。
 他方、この問題では弱点が目につく。
 「社会主義・共産主義」と併記することになったが、その区別ははっきりしない。これまで踏襲してきた『ゴータ綱領批判』の例の「労働に応じた分配」論を取り下げたのは一歩前進であるが、それに代わる区別の指標はない(なお、私が「労働に応じた分配」論の問題点を批判的に明らかにしたのは1994年である)。
 共産党はかつては「社会主義生成期」説や「4つの基準」論を唱えていたが、それらはどこへ行ったのか、
 〔5〕の後半に突然「市場経済を通じて社会主義に進むことは……」と書き出されている部分がある。だが、それまで「市場経済」は一度も登場していないのだから、ここは「社会主義へは市場経済を通じて進む」と一度はっきり確認してからにすべきである。事実、その前の項の「生産手段の社会化」については、論理的手順を踏んだ叙述になっている。事は書き方の問題ではなく、書き方に現れた中身の問題なのである。「市場経済を通じて社会主義に進む」は、不破哲三議長が90年代後半から強調し、昨年は北京にまで出かけて講演している論点であるが、なお未確定の部分が残っている。だから94年の綱領改定では「計画経済と市場経済の結合」と新しく書くことになった点が、今度は「計画性と市場経済を結合させた」に変えられた。ここではまた、不破が強調しはじめた「資本主義市場経済」なる用語も使われてはいない。私は、この方向は迷路への第1歩だと批判的に評価しているが、さらなる相互の認識の深化が求められている。
 ソ連邦などについて認識については相も変わらず94年の綱領改定時の「覇権主義と官僚主義・専制主義」で済ませているが、この3つの言葉はいずれも対外政策と政治領域についての用語であって、経済システムが何かにはまったく答えてはいない。「いわゆる『統制経済』」なる言葉が一度でてくるが、ソ連邦経済を明示的に指しているわけではない。今春、私が「<社会>の規定と党主政」で提起したように、ソ連邦などについては、政治システムは何だったのか、経済システムは何だったのか、を明別して明らかにすべきなのである。
 また、同じように「社会主義をめざす国」という新しい言葉も消えて、今度は「資本主義から離脱した国」に変えられた。しかも、ここでは中国もキューバもベトナムも登場しない。ともかく模索中ということなのであろう。この不確定ゆえに、当然一言くらいは言及してよいはずのソ連邦や中国の政府・共産党による積年の日本共産党への度外れの干渉と、それをはねのけた系統的で毅然とした闘いの意義についてまで触れずに済ますことになったのであろう。
 なお依然として社会主義論については、不破だけでなく、共産党全体が、自分たちの認識が混迷状態であることにも気づいていない。

 「綱領(案)」についての党員による感想のなかには「目からうろこが落ちる」と月並みな賛辞が書かれている(「赤旗」)が、いまや忘却の淵に落ちた「社会主義生成期」説についてかつて上田耕一郎は同じ言葉で絶賛していたことを思い出すのは無駄ではないであろう。
 「綱領(案)」が7中総で確定したあとで、党内外で広く論争が起きることを切実に期待したい。その一助にと思い、急いで一筆した次第である。

    村岡到:日本共産党の綱領改定の課題は何か(1)2003.6.26

    
はじめに――不破哲三の課題
1 61年綱領の骨格
2 4回の部分改定の要点
3 この40年の内外の激変
4 03年綱領改定の4つの主要点  書き終える
5 憲法認識の前進と限界
6 社会主義論の不明確さ  書き終える
むすび――共通認識と論争点

 はじめに――不破哲三の課題

 日本共産党は、ようやく綱領改定に着手した。6月21日から23日に開催した第7回中央委員会総会で「日本共産党綱領(案)」を決定して公表した。
 周知のように現綱領は、1961年の第8回党大会で決定されたもので、その後4回にわたる部分的な改定はあったが、基本的骨格は最初のときから大きくは変わっていない。94年の第20回党大会の改定では、91年末に起きたソ連邦の崩壊を受けて、77年から唱えていた「社会主義生成期」説を放棄し、ソ連邦を「覇権主義と官僚主義・専制主義」なる正確さに欠けるレッテルを貼ることになった。
 今度の改定は、21世紀に入って初めてでもあり、戦後の共産党を隔絶したトップの座を占めて指導してきた宮本顕治が現役を引退して、代わりに不破哲三が議長となっていわば不破カラーを打ち出すという意味でも党内外から関心を引いている。
 この項未完成


 4 03年綱領改定の4つの主要点
 7中総で決定された改定案の主要な内容は何か。
 まず改定案は、以下の5つの節から構成されている。
 1 戦前の日本社会と日本共産党
 2 現在の日本社会の特質
 3 世界情勢――20世紀から21世紀へ
 4 民主主義革命と民主連合政府
 5 社会主義・共産主義の社会をめざして
 (以下便宜的に〔1〕〔2〕とだけ表示することにする)。
 ここでは逐条的に紹介するのではなく、いくつかの特徴点を明らかにする。簡単なコメントは加えるが、検討については節を改めておこなう。改定案の特徴は以下の4点に整理される。
 @憲法の意義の明確化、Aアメリカ帝国主義批判・対米従属批判、B民主的改革の強調、C社会主義・共産主義の強調、である。

 @憲法の意義の明確化
 改定案の最大の核心的論点は、憲法の意義の明確化である。〔2〕の冒頭は「第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった」と定言し、その「第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である」と明確にした。つづけて「この変化を代表〔別の言葉がよい〕したのは、1947年に制定された現行憲法である」とする。したがって当然にもこれまでの4回にわたる綱領改定でも手をつけることがなかった「日本を支配しているのは」という現綱領の核心をなすテーゼ(「二つの敵」論)を撤回することになった。同じことの別の表現でもあるが、「ブルジョア君主制」は削除され、したがって「君主制の廃止」もなくなった。
 そして、「この変化によって、……国会を通じて……変革の道を進む」ことが可能になったと連続して確認することになった。
 だから〔4〕では、「民主主義革命」について「日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移す」と説明されることになった。〔5〕では「社会主義をめざす権力」という言葉は残ったが、従来はこれを「労働者階級の権力」と表現していたのであり、その「労働者階級の権力」を削除した。
 また、憲法認識を一新したことによって、国連と国連憲章についてもその意義を明確にして強調できることになった。現綱領は国連と国連憲章にはまったく言及していない。補足的にいえば、憲法については成立年を記しているのだから、ここでもそれらの成立年を明示したほうがよい。また、〔4〕で「非同盟諸国首脳会議に参加する」とはっきりさせた。ここでも「党や市民による自主的外交の積極的展開」に言及したほうがよい(この数年の共産党議員団による諸国への訪問などは目を見張るものがあるからである)。
 Aアメリカ帝国主義批判・対米従属批判
 第二は、「アメリカ帝国主義批判・対米従属批判」である。この点は、1960年代から共産党がもっとも得意とする領域であり(その頂点は、60年代前半の「アメリカ帝国の各個撃破論」である)、一時は「帝国主義」用語を後ろに引っ込める傾向もあったが、2001年の9・11特攻テロ後の世界情勢の展開によって再びその意味を付け加えながら批判用語として復活されることになった。この点は、現下の資本制経済のグローバリゼーションをどのように解明するかという問題として、左翼に共通に問われている課題につながっている。また、なお「日本帝国主義」とは認めないで「対米従属的な国家独占資本主義」としているが、この点は上田耕一郎副委員長が使ったことがある「従属帝国主義」のほうがよい。この領域は私も不得手なので、誰かがもっとましな認識を示すであろう。

 B民主的改革の強調
 第三は、「民主的改革」の強調である。〔4〕は「民主主義革命」が見出しになっているが、不思議なことに本文ではこの言葉は1度つかわれているだけで、ほとんどの場合には「民主的改革」とか「民主主義的変革」が多用されている。22日の「赤旗」1面トップの見出しも「民主的改革」と大きく打ち出されている。これまでは「ブルジョア君主制」と認識していたからこそ「民主主義革命」が必要であったのであり、前者の認識を改変したのだから当然ながら、「民主主義革命」も不要になるはずなのである。そうなっていないのは、大きな変化が生じる場合の不徹底の見本にすぎない。
 この内実として、憲法の天皇条項について「民主主義および平等の原則と両立するものではな」いという認識を示している。ただこの一文が「……立場に立つ」と静態的に結ばれているのは誤解を招く一因となる。たとえ「前衛党」は返上したとしても、単に「……立場に立つ」だけでなく、その方向を目指して活動することが、革新政党には求められるはずである(「天皇条項」よりも「象徴天皇制」がよい)。
 また、自衛隊については、「軍縮の措置」と「憲法第9条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」としている。前記の天皇条項での「立場に立つ」よりも実践的である。この考え方は、1998年に始まり、前大会で方針にしていた「自衛隊の活用」論を取り下げたものであり、先に見たアメリカ帝国主義認識の前面化と対応している。
 本日(6月22日)の「朝日新聞」では「天皇制・自衛隊を当面容認」と大きな見出しで」報道しているが、ミスリードである。
 C「社会主義・共産主義」の強調
 第四は、「社会主義・共産主義」の強調である。改定案は、従来の「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である」を放棄し、この二つの区別を取り払ってまったく新しく「社会主義・共産主義」なる用語を発明した。
 まず積極的な点は、「生産手段の社会化」に焦点を当てたことであり、これは大きな前進である。だが、二つ目にあげている「市場経済」については、説明がまったく不十分である。
 また「国定の哲学」の否定については、すでに1976年の『自由と民主主義の宣言』前後から明示・強調しているが、この認識は近年になって私が強調するようになったグスタフ・ラートブルフの認識――「社会主義はある特定の世界観に結びつくものではない」への着目と共通するものである。
 また、ソ連邦などについて認識については相も変わらず94年の綱領改定時の「覇権主義と官僚主義・専制主義」で済ませている。
 この問題では弱点が目につくが、それは節を改めて検討することにしよう。

 簡略にしたので、折角、94年の部分的改定で視野に入ることになったアイヌ民族の問題が抜けたり、「地球環境問題」には重ねて言及しているのに、焦眉の課題である地球温暖化問題は依然として取り上げられていない。日本の官僚制度の構造的問題点や腐敗についても甘い。
 また〔3〕では、総じてロシア革命の位置を下げている。「社会主義をめざす国」という、94年に「社会主義生成期」のお蔵入りの代わりに新しく打ち出した言葉も消えて、今度は「資本主義から離脱した国」に変えられた。しかも、ここでは中国もキューバもベトナムも登場しない。

 5 憲法認識の前進と限界

 6 社会主義論の不明確さ

 すでに確認したように、綱領改定案の〔5〕は「社会主義・共産主義の社会をめざして」と立てられている。この部分は、共産党が独自色を打ち出すために強調することになったものであり、その意図については、私たちははっきりと支持する。そのことは、すでに3年前の第22回党大会についての論評でもはっきりさせておいた要点である。私は、前大会についての論評で「社会主義をいつになく明確に強調した」と注意を喚起し、そこに「<連帯社会主義>をめざす私たちとの共通の土俵、接点がある」と確認しておいた(『連帯社会主義への政治理論』248頁)。逆に、ここにまだ「社会主義・共産主義」と書いてあるから、共産党は変わらないとか、衣の鎧があるなどと反発するむきもあるようである(「読売新聞」や政治学者の五十嵐仁など)が、それらはいわば反共的雑音にすぎない。
 確かにその意図はよいのであるが、〔5〕は、その前の〔1〕から〔4〕が平易に書かれていて読みやすい――文章の成熟は認識の深化の現れであることが多い――ことに比べてきわめて難渋な内容となっている。恐らく、党員にとっても、彼が真面目な党員であればあるほど難解であろう。これまでの共産党の社会主義論と切断されているし、裏腹な関係ではその曖昧さが尾を引いているからである。
 共産党は、これまで「社会主義論」としては、1977年に提起した「社会主義生成期」説と、翌年に提起した「4つの基準」論を唱えていた。「社会主義生成期」説は、1991年末のソ連邦の崩壊の試練に耐えられずに、94年の第20回党大会でお蔵入りとなった。その時、新しく登場したのは、ソ連邦についての「覇権主義と官僚主義・専制主義」なる新しいレッテルであった。そして綱領を改定して最後の(7)での「社会主義」についての説明で、従来の「労働者階級の権力の獲得」「生産手段の社会化」「社会主義的計画経済」に新しく「計画経済と市場経済の結合」を加えてこの4つをキーワードにした。
 ところが、今度の綱領改定案では、「覇権主義と官僚主義・専制主義」は踏襲されているが、この二つの理論だけでなく、「社会主義」についての前記の4つのキーワードの内から、「生産手段の社会化」だけはそのまま踏襲したが、「労働者階級の権力の獲得」と「社会主義的計画経済」とは全く姿を消してしまい、「計画経済と市場経済の結合」は「計画性と市場経済との結合」に書き換えられてしまった(「労働者階級の権力」が誤りであったことを、私は今春あきらかにした論文で反省・明示した)。さらに61年綱領いらいの「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である」という定説も、「労働におうじてうけとる」という定説も消えた(後述)。
 したがって、これまで現綱領を正しいと信じていた党員は、それらのほとんどをチャラにしろと言われたことになる。それでも、「赤旗」はただ素晴らしいという党員の感想を集めているが、そういう党員はほとんど何も理解してはいないのであろう。
 そのうえで、「社会主義・共産主義」なる新しい用語を使い出すことになった。これはすぐには理解しにくいが、まったく新しい一つの言葉ということになっている。7中総コミュニケでは「社会主義・共産主義社会」なる新語も使われている。
 内容の検討に移るまえにいわば形式的にも問題がある。これまで「社会主義」と表現していた文脈では「社会主義・共産主義」なる用語で取り替えることになったのであるが、なお一貫性を欠いている。7中総の審議をとおして、原案では「社会主義の日本の経済生活」となっていた部分に「・共産主義」を追加したが、それでもまだ「社会主義」だけが残された部分が数カ所ある。
 〔3〕の結びには「帝国主義・資本主義を乗り越え、社会主義に前進することは」と書いてある(なお、ついでながら、この述語が「大局的には歴史の不可避的な発展方向である」となっていることも注意に値する。「歴史的必然性」と書いていないからである)。この部分は節が違うからという言い訳が可能なのかも知れないが、問題の〔5〕にも「社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する」と書いてある。これには、そこは共産党外の人びとについての話だという説明が成立するかも分からない。だが、その前には「社会主義をめざす権力がつくられる」と書いてあり、その後では「日本における社会主義への道は」が主語になっている。その少し先には「市場経済を通じて社会主義に進むことは」が主語になっている。さらにこの節では「社会主義的変革」が4回も出てくる(「社会主義的改革」が1回)が、なぜ「社会主義・共産主義的変革」ではないのか。
 これらの不統一・混乱は、一般的に4文字熟語で表記されている慣用の二つの言葉を中黒点で結んで一つの言葉だと造語することに無理があることを示している。「急行」と「特急」を合わせて「急行・特急」と言われても何のことか分からない。
 次に内容の検討に移ろう。
 〔5〕には直接は書かれていないが、不破は、これまで「社会主義」「共産主義」については、分配の仕方を基準に区別していたが、それを止めたと説明している。周知のように、これまでも「社会主義」と「共産主義」という二つの言葉をどのように関連づけて理解すべきなのかについては、多様な解釈を生み出していた(私は、未来社会については、当面は<社会主義社会>として明らかにすればよいと考えている。だから「共産主義」は否定はしないが、使用はしない)。マルクスの場合には関連して定かに論じることはなく、両方の言葉を時に応じて使っていた。関連づけて論じたのはレーニンである。レーニンは『国家と革命』で「共産主義の第一段階(普通にはこれが社会主義と呼ばれている)」と明らかにした。うまい具合にマルクスが『ゴータ綱領批判』で「労働に応じた分配」と「必要に応じた分配」とを対句として読みとることができるような一文を書いていたので、それを活用して、「社会主義:労働に応じた分配」、「共産主義:必要に応じた分配」と区別することが、それいこう通説となった。だから、この説明が現綱領にそのまま書かれていた。
 ところが、不破は「結語」において、この問題についてスターリンに責任を負わせて済ます。『ゴータ綱領批判』にも触れているが、レーニンには触らない。スターリンが『ゴータ綱領批判』を利用したのは実はレーニンが『国家と革命』で引用していたからなのである。博識この上ない不破がこんな初歩的事実を知らないはずはないが、不破は、スターリンから事が始まっていたのなら、それは誤りだと理解しやすいだろうと考えて、レーニンを忘れたふりをしているにすぎない。末梢的なことはさておいて、書いてあることについての検討に進もう。
 この新しい「社会主義・共産主義」は、「生産手段の社会化」と「市場経済」の二つの言葉を軸にして説明されている。
 「生産手段の社会化」については、まず最初に「社会主義的変革の中心は……生産手段の社会化である」と明確にしたうえで、「生産手段の社会化は」と4回も説明している。その内実として「協同組合」が一度も出てこないのは、これまでの共産党の「社会主義論」と比べても腑に落ちないし、さらにその内実を深めて解明しなくてはならないが、それはともかく、叙述の仕方も内容も同意できる。ただここで「計画経済」と書いていないことも注意を要する(「計画経済」ではなくて、「生産手段の社会化」をこそ明確にすべきだと、私たちはこの数年間いっかんして主張してきた)。

 ところが、「市場経済」のほうはどうか。「生産手段の社会化」についての叙述を踏襲すれば、「社会主義的変革のもう一つの中心は……市場経済である」とでもはっきりさせるべきである。ところが、そうではなくて、突然「市場経済を通じて社会主義に進むことは」と主語の一部になっている。しかも分量のうえでも8分の1ときわめて少なく、「市場経済は」とは一度も説明していない。「通じて」だけでは、「社会主義」になると「市場経済」はなくなると理解するほうが自然であろう(さなぎを通じて蝶になるが、蝶になるとさなぎは残らない)が、「計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営」と説明されているから、「市場経済」は「社会主義」でも生き残るらしい。なお、この部分は1994年の綱領改定によって「社会主義的計画経済が必要である」としたうえで「計画経済と市場経済の結合など弾力的で効率的な経済運営」と書き加えた部分に当たっている。ここでは「計画経済」の代わりに「計画性」と書き換えられてしまった。

 こうして「計画経済」は、共産党の新しい「社会主義・共産主義」の経済から放遂されてしまった(「計画経済」の不使用自体は、社会主義経済を<協議経済>として構想している私が6年前から主張していたことでもあり、一歩前進である)。そして、不整合に導入した「市場経済」については説明不足となっている。したがって、「生産手段の社会化」と「市場経済」との関係はどうなっているのか、当然にも何の説明もない。

 さらに一筆すれば、「市場経済を通じた社会主義」なるものを強調しはじめた不破は、同時に「資本主義市場経済」なる言葉も使い始めたのであるが、この「資本主義市場経済」用語は綱領改定案には登場しない。「社会主義市場経済」もない。おずおずと「市場経済を通じて社会主義に進む」と書くだけである。

 なぜ、このように混乱した説明に陥っているのか。その根本的理由は、ソ連邦の経済についての分析を欠落させているからである。先に「覇権主義と官僚主義・専制主義」なる長たらしいレッテルを紹介したが、ここにある3つの言葉はいずれも、外交関係か政治制度の領域での用語であって、経済システムは何かには答えていない(それまでは「計画経済」としていた)。だから、綱領改定案では「市場経済」についてのくだりに「『統制経済』は……否定される」と書き加えてあるが、なぜ「統制経済」にカッコが付いているのかも不明だし、それがソ連邦経済についての規定だと明示されているわけでもない。つまり、17年間でお蔵入りするほど賞味期限の短い「社会主義生成期」説を「目からうろこが落ちる」(上田耕一郎副委員長)と絶賛するほどだった、社会主義論をめぐる積年の弱点が何度目かは分からないが露呈してしまったのである。

 このように根本的な弱点に満ちているとはいえ、共産党が<社会主義>を主張することによって、21世紀を展望しようと努力していることは、大いに評価すべきであり、この共通の土俵のうえで、私たちは、<社会主義>への展望をさらに深化させなくてはならないのである。


27日 21:12





(私論.私見)