「不破に問われるべき歴史責任考」 |
【「不破に問われるべき歴史責任考」(一)序文】 |
このところの不破は、赤旗で見る限りであるが、さすがに老いの陰が深い。ソフトスマイルも色あせたが相変わらず脳天気な発言を繰り返している。れんだいこは、この御仁の不似合いな指導者ぶりに対してその政治責任を問わねばならない、と考えている。他に誰か同じように考える者は居るのだろうか。この問いかけの無さこそ日本左派運動の能力の貧相さを示していないだろうか。 この問いかけは、はるか昔より由来している。それを説明しておく。れんだいこは70年初頭の頃の数年間を日共系の学生運動に身をおいていた。あの頃次のように感じた。「日本左派運動の在り方が全体として間違っている。特に日共の宮顕−不破体制下のそれは明らかに間違っている。共産党という党名を使って、どうみても有害無益な党運動しか為していない。敢えて言えば、有り得てなら無い『左』からの体制翼賛運動でしかない。しかも、これを無能の故に為しているのではなく意識的に有害無益運動を画策し誘導している気配がある。確信犯的ミスリードであり、党員の脳内ピーマン化を促進している。我々は、それらの胡散臭さを告発せねばならない。それは批判で済ませられるものではない。よってくるところのものを解明せねばならない。そうして然る後に本来の左派運動を展望せねばならない」。 あの頃、れんだいこには、この「気づき」に確信が無かった。若さ故の特有の主観的性急な感じ方であるかも知れずという恐れがあったからである。以来、孤独な自問自答を繰り返していくことになった。というか実際には「政治」が嫌になり関わることを止めただけのことであるが。しかし、あれから三十年が経過した。れんだいいこもいつしか齢(よわい)50歳を過ぎた。この間、日共のジリ貧化を横目で眺めてきた。我が日本の政治状況はますます保守化を強めてきた。れんだいこはこの流れが強まるほどに次第に義憤を昂じさせ始めた。この経緯で、あの頃のれんだいこの気づきには十分根拠があったこと、むしろ正しいという事を確信する身となった。今や、それまでの社会生活の経験も踏まえて、公式化された左派観点とは何の接点も持たない自前の左派運動観を模索するようになった。 れんだいこは、数年前からインターネットサイト上で「左往来人生学院」を主宰し、れんだいこ史観を観点を日々の気づきを公開し世に問い続けている。今のところ反響は微々たるものである。注目する者も居れば黙殺する者も居る。いわゆる左翼圏からは、既成左翼からも新左翼からも煙たがられているように見える。なかなかリンクしようとしない。れんだいこはその不自然さを訝ることなくむしろ嘲笑している。そげえな狭量こそお似合いの目下の左派運動の姿態であることを承知しているから。 しかし、世は合縁奇縁である。いつしか、希少貴重なジャーナリスト・木村愛二氏との交流が始まっている。先日の3.20日イラク反戦デーには会い損ねたが、又の日を楽しみにしている。こたび「真相の深層」が発刊されることになり、れんだいこにもお呼びの声がかかった。気恥ずかしい面もあるが呼応し、こうして一文を捧げた。好評なら更に投稿させていただこうと思う。読者の皆様、乞う、れんだいこ観点及びその史観及び日々の気づき発信の論評を ! 本稿では、不破の「日共指導者としての政治責任」(以下、単に「指導者責任」又は「歴史責任」と表記することにする)を記してみようと思う。そもそも、組織論上、運動論上、「指導者責任」が問われない指導者なぞ組織なぞ有り得てならない、とれんだいこは心得る。好評価しようが反評価しようが常に決着つけられていかなければならない、と考えている。この作法が滅法弱いのが左派の宿アであり、「外へ向けての攻め一本で、それが身内に向かわない甘えの構造」体質を改めない限り裾野は広がらない、と考えている。この段階にとどまる日本左派運動の成熟度は未だ大人になっておらず、つまり子供期ではなかろうか、と考えている。 |
【「不破に問われるべき歴史責任考」(二)指導者責任論の意義について】 |
こういう観点から、70年初頭以来日共党中央に登壇し続けてきた不破の責任を問うべしと思っている。苛酷な評価を下すことになると思うが、これを為しておくことは日本左派運動の責務であると考えているので曖昧にする訳にはいかない。では、不破の「指導者責任」とはどういうものであるのか、以下確認しようと思う。 付言すれば、宮顕を論ずるのに「もう過去の人であり、既に党内に現実的影響力は無い。よって論ずるのは無意味」なる観点が云われることがある。れんだいこのサイトに記している「宮本顕治論」に対してそういう申し出が為される事がある。しかし、それは間違いだとしたい。その言で云えば、不破もそのうち「過去の人」になり論じてみても無意味ということになるだろうから、そういう観点では順繰りに全てが曖昧模糊にされてしまうではないか。それは脳内ピーマン化であり、マゾ気質の表明でしかなかろう。 そうではなく、歴史に「指導者責任」を負う身にあった者は、例えば一国の首相はその業績を在任中より終始論ぜられるべきであり、刻々判定され、然るべきときに総括されるべきである。その評価は、その後の「史実の証明」によって訂正されることは大いに有り得るにしても、ひとたびはその都度に歴史的位置付けが為されねばならない、と考える。既に述べたが、我が左派運動は、こういう「外へ向けての批判」には長けている。歴代の首相あるいは政権に対しての歴史的位置付けはそれなりに為されている。然るに、それが批判する側の党派の指導者あるいは党派の主体的責任に対して向かうことが無い。おかしいではないか。当然に同じメガネで査定されねばならないことは自明であろうに。 不破の場合、「科学的社会主義」を自認している(この用語の登場過程も一考に値するがここでは述べない)。この「科学的社会主義」は何ともご都合主義なものであり、唯我独尊的「外へ向けての道義的批判、内に向けての無責任」をもたらす代物でしかない。れんだいこが見るところあまりにも馬鹿げた「科学的社会主義屋」の有姿でしかないのであるが、日本左派運動の宿アでもあるのだが字句に騙され、「科学的社会主義」を冠詞されるだけで思考を止めてしまう。民主集中制なる文句も然りである。もっともらしい体裁の用語さえ持ち出されたら唯々諾々するしか能が無いという痴態を見せている。してみれば、「組織内部における喧々諤々討議の皆無性」が日本左派運動の悪癖となっている。ちなみに宮顕は「サロン談義を排する」という口上で党内議論を閉塞させたことで知られている。それを受け入れた方の痴性にも問題があろうが。れんだいこは思う。そういう詭弁、相互に気楽な稼業主義から足を洗わねばならないのではなかろうか。 左派運動は元々体制批判から自己形成を始める。その左派運動が、組織恭順性を説教されそれに額ずき始めたらそれは存在矛盾では無かろうか。世に云う「民主集中制及び分派禁止理論及び党内監視体制」がこうした事態を生み出しているのだが、その論理の封建的性格を見よ! 王朝性を見よ! れんだいこの眼には、近代ルネサンスの意義を踏まえない輩による共同的小児体制護持化のように見える。左派運動の何たるかを弁えない輩による自己否定でしかない代物のように見える。そういう意識レベルの者に説教されるほど愚劣な事はない、と考える。なぜなら我々大衆の方が意識が進んでいるのだから。 我々は、「党外に対して反体制、党内において恭順」なる詭弁作法を許してはならない。左派運動は、いつでもどこでも「自由、自主、自律」の結社でなければならない。「自由、自主、自律」的で有り得る為にまずは学ばねばならない。いつでもどこでも議論できるようにせねばならない。この作法の下に結集される主義者を核として生み出されるエネルギーこそ育まねばならない。これが歴史を変える真の力となるものであり、左派運動が欲するところのものであることを弁えねばならない。これをさせない装置を故意に作っておきながら、人民大衆の為に論を振りかざされたら、嫌悪する以外には無い。 ところで、「指導者責任」を問う作業にはかなりの能力が問われる。しかし、これを能く為した運動体は成長する。なぜなら、「総括なき運動は盲目」であり、その盲を拓いたところから始めて運動の継承が出来るから。それを思えば、喧々諤々の相互評価ないし総括は運動の接木上常に有益なのであり、その逆ではないということを意思一致すべきではなかろうか。この能力が滅法弱いのが日本左派運動であり故に斜陽にならざるを得ない。それは能力不足の証明でもある。 この能力不足をカムフラージュしようとしてしか考えられないが、日本左派運動はめたらやたらに小難しく語る癖がある。スコラ主義的に高踏ぶり、門戸を閉ざし、権威主義を振りかざし、あるいは饒舌し、さっぱり要点を示さない長文折衷的見解で誤魔化し、ご丁寧なことに著作権壁さえ廻らしている。これに反発するかのように一人合点的に孤高する者もいるが、いずれにせよ人民大衆の啓蒙に向かう姿勢は微塵も無い。本来、こういう作法は左派運動のものではないがいつの間にか浸透し、獅子身中の虫ならぬ大魚になっているや見受けられる。 付言すれば、中国が世界に漢文明を押し出していたとき、歴代の王朝の事歴を記す史書も又健在であった。当代の一流のインテリの中のインテリがその任に当たり、今日に伝えている。その史書は単に故事を列挙したものではない。翼賛的体裁を採りながらも、作者の確固とした史観に基づき精査した上で一つの叙事詩を作り上げている。れんだいこは、この種の営為を格別意義高く評価する。史書健在時代の中国は字の通りアジアの中心国でありえたことを思えば、この種の営為の重要性が分かろうというものである。 |
【「不破に問われるべき歴史責任考」(三)不破の左派運動史履歴について】 |
そういう訳で、以下、不破の「歴史責任」考に入る。取り敢えず不破の履歴を概略しておく。不破の左派運動史は、東大入学後の「武井系指導部下の全学連」活動家兼日共細胞として始発している。当時、「武井系指導部下の全学連」は、徳球系と宮顕系の対立激しい日共内で反主流派の宮顕系に位置していたので、不破もこの系列にあったことになる。その不破は、「50年分裂」時代にスパイ容疑で監禁査問されるという汚辱を受けている。この事件の概要は、「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」に記した。この時の不破のスパイ性容疑の真偽は未だ明らかにされていないが、この事件は不破の素性を知る上で重要と思われる。 不破は、1953年に東大理学部物理学科を卒業し、64.2月までの11年間を日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)の本部書記を勤めている。この間、1956.12月、大月書店から「戦後革命論争史上巻」、1957.1月「同下巻」を刊行している。兄の上田耕一郎と不破の共著体裁で出版しているが、同書は「上下巻とも、予想を上回る好評で、内容的にも高い評価を得」、「1964年7月25日7刷、下巻は1964年12月20日8刷で、なお売れていた。このジャンルの著書としては、驚異的な売れ行き」となった。 本来であれば慶事である本件においても不破のいかがわしい人物振りが露出している。れんだいこは、宮地氏の「『戦後革命論争史』の出版と反響」を参照しつつ、「『戦後革命論争史』編纂手柄横取り考」で考察した。それによると、同書は、石堂清倫、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦の5名と筆記役の上田の共同討議資料を編集したものであり、上田・不破が著作者と銘打って出版すべきものではない。この行為は、いわゆる「手柄の横取り」に当たる。印税に就いても分配せず、「兄弟だけで配分し、彼らに共著原稿料を払っていなかった」。 この事件にはもう一つ問題が内在している。上田・不破兄弟が宮顕に白羽の矢が立てられ党中央の出世階段を登る緒につく段階で、「戦後革命論争史」の廃刊を命ぜられ、上田・不破兄弟は上記5名の共同執筆者に何の相談も無くこれに応じているというお粗末振りが見られる。当時、上記5名の執筆者達は、1955年の六全協までは反徳球系宮顕派のイデオローグであったが、その後宮顕が党内独裁体制を敷き始めるやこれにも反旗を翻していた。宮顕は、上田・不破兄弟に党内出世と引き換えに上記5名との決別を迫った。その証が、「戦後革命論争史」の廃刊であった。絶版に応じた田・不破兄弟は、いわゆる「出世と引き換えに思想を売った」ことになる。 宮地氏の「『戦後革命論争史』の出版と反響」は次のように記している。「1963年末、党中央から、私たち兄弟にたいして、私を党中央理論幹部専従とし、兄を1964年の第9回大会で中央役員に抜擢するという打診があった。しかし、それには、『戦後革命論争史』を絶版にするという条件が付いていた」、「宮本氏から提示された取引きに応じるかどうかに思い悩み、2人で何度も討論した。結局、理論幹部専従活動の魅力を捨て難く、絶版の取引きを受け入れた。残された問題は、石堂清倫ら5人に絶版の了解を求めるかどうかだった。すでに、大月書店は、党中央から共産党大月書店経営者支部への指令によって、7刷・8刷と売れ行き好調著書の絶版命令に屈服していた。ただ、大月書店支部も抵抗して、1964年末までの増刷を要求していた」、「その結論として、私たち兄弟は、5人に、絶版の了解を、事前事後とも取らないことにした」とある。 宮顕体制は、1955年以来80年代半ばまでのほぼ三十年間党中央に君臨したが、不破にとって終始引立て役保護者となった。不破は、1964年、党中央理論幹部として参内している。不破はこの間宮顕体制下での最も有能なイデオローグであった。党内の論戦においても国際「共産主義」運動との確執においても、理論ぶるもののその実は結局のところ「党中央の言に従えば万事良し」という恭順論理を説き伏せるという効能しかもたらさない忍法煙巻き論法で全てを有耶無耶にしていった。不破は、そういう種類の才の持主である。それは、オウム真理教の「ああいえばこういう」上祐でさえ足元にも及ばない。党員は、飽くことなく繰り返される不破の長大饒舌、論旨不明、折衷論文に翻弄され、それを訝る知性を持たぬが故に手玉に取られてしまった。こうしてピーマン党員が生み出されている。 1966.10月の第10回大会で、不破は准中央委員を経ずにいきなり中央委員に選出されている。この大会で上田兄弟の中央委員が誕生した。上田39歳、不破36歳だった。しかも、上田は書記局員候補8人の一人に選ばれ、且つ理論誌「前衛」の編集責任者に大抜擢されている。不破もいきなり書記局員候補に選ばれている。 |
【「不破に問われるべき歴史責任考」(四)不破の公明党との因縁について】 | ||||||||||||
私事であるが、れんだいこが若かりし頃の70年代初頭、共産党と公明党は熾烈なシーソーゲームを演じていた。都議選、美濃部都政実現、全国での革新自治体の創出の頃のことを指しているが、両党は丁々発止の激戦を繰り広げていた。それは、次の時代のイニシアチブを廻る闘いであった。 あの頃の政界地図は次のように寸評できよう。政府与党は万年自民党に掌握されており、その自民党はいわゆる戦後主流派を形成した日本在地型プレ社会主義政党的ハト派と戦前主流派の生粋保守系タカ派(今日このタカ派はシオニストの手玉に取られている)が合従連衡していた。つまり戦後日本は、「日本の国家百年の大計」に向けて責任政党を目指す両党派による「二重構造的統治手法」で政局が運営されていたことになる。 日本左派運動には、自民党をこのように把握する視点が無いが、それはマルクス主義者としての能力不足のせいである。それはともかくこれが戦後日本の統治手法であり、ハト派が世界に稀に見る先進的党派であったが故にある種有能な統治形態になりえていた、ように思われる。れんだいこは、ハト派の形成過程と分解過程の研究こそ最も為すに値する戦後政治史となっているように思う。 民社党がこの自民党政治を金魚のフン的に補佐し、労働運動の体制内化による労資協調による共存共栄体制を目指していた。この功罪は、「戦後日本の二重構造的統治手法」を顧慮する時別の評価が生まれる可能性があるがここでは分析しない。 この自民党−民社党体制に「自ら望んで」万年野党的に抵抗し続けたのが社会党であった。この社会党も又左右両派の対立を抱え常に内紛を引き起こし続けた。解党に至る最後までギクシャクしていた経緯を見せたが、このことは、自民党的ハト派とタカ派の合従連衡による党運営が社会党には出来なかったことを意味している。ある種日本左派運動の能力を示しており、痛苦に受け止めるべきでは無かろうか。その社会党は、「表見的に抵抗、その実被懐柔」されるのを党的特徴としていた。この功罪も又民社党同様、「戦後日本の二重構造的統治手法」を顧慮する時別の評価が生まれる可能性があるがここでは分析しない。 こういう党派的特質を持つ自民党と民社党を挟んでの社会党との三党補完体制が戦後日本政治の特質となった。これをいわゆる「自社55年体制」と云う。この体制は、戦後日本の廃墟からの再建時代が終焉し、日本資本主義が自立的に歩み始めた時代の上部構造となり、***年の細川政権誕生まで続く事になる。この功罪の分析はここではしない。 この「自社55年体制」に風穴を開けようとして登場してきた政党が公明党と共産党である。この両党は、いわゆる「第三極」のイニシアチブを廻る闘争で熾烈な火花を飛ばしあって切磋琢磨し合った。これを促したのは、世界的風潮としての多党化現象でもあり、国内的には「自社55年体制」に対する鬱憤でもあった。この両党が食い物にしたのが弱い環であった民社党であり、老朽化する一方で革新化できない社会党であった。その流れにあって、れんだいこが関わっていた頃の70年代初頭においては、共産党のほうがやや優位でさえあった気がする。 この闘いが今現在どうなっているのか。今や誰の目にもはっきりしていることである。ここに不破の「指導者責任」がある、というのがれんだいこの指摘である。人は、かような問いかけをしないようであるが、この問いかけは自ずと指導者としての不破の無能ぶりを露にするが、それをしないということは不破の「指導者責任」を曖昧にさせることしかもたらさない。残念ながら日本左派運動は、この種の問いかけさえ為そうとしない。党内の者は、ひたすら党中央の説教に従順で、「民主集中制、分派の禁止」呪術の虜(とりこ)にされていることによってか為しえない。新左翼は、所詮端からスターリニズム政党として取り合わない。しかし、そういう忌避は誤りである、とれんだいこは云いたい。 この無批判性が組織の腐敗を生み出す温床である。しかも、野党において腐敗を発生させるのであるから始末に終えない。腐敗と云えば、そも共産党の党是的闘争というものは野党的地位における「清潔、正義、道理」を訴えるようなものではなかったにも拘らず、そういう運動を主張し続けた宮顕−不破の「指導者責任」は重い。ところがその日共は今や、「清潔、正義、道理」のそのどれにおいても主張し得ないほど腐敗を進行させている。もう何もかも無茶苦茶な収拾不能な段階にまで情況を悪化させているとみなすのが、れんだいこの評価である。 さて、共産党対公明党の現在比をしておく。実は、この比較は、不破を評価するに当たって重要な意味を持つ。なぜなら、不破が国会議員へ登壇してくる際の最初の闘争が「創価学会・公明党叩き」にあったが故である。丁度、69年末頃に創価学会会長・池田大作氏の言論出版妨害事件が発生し、この時不破はそれまで培った論戦を糧に華々しく切り結びデビュ−戦を飾っている。そういう意味で、不破と公明党の間には因縁じみたものがある。不破が通常の感性の持ち主ならば、その後の両党の確執と推移に責任を持つべきであり、公明党に遅れをとることは「指導者責任」上許されてはならないのである。しかし、この点で、不破は何と無責任なことだろう。党内は何と優しく穏和なことだろう。 それでは、共産党と公明党の党勢比較指標をしてみたい。衆議院議席数、参議院議席数、地方議会議員数、女性議員議員数等で見てみたい。(紙数の関係上略) 以上は、議会における議席数比である。これに他の指標を加えてみたい。党員数、機関紙数、選挙における投票獲得数を見てみることにする。(紙数の関係上略) 次に、政治の舞台における現実的影響力について比較してみたい。(紙数の関係上略) 今や、これだけの歴然とした差が生じている。これに付き、れんだいこならずとも不破の「指導者責任」を追及するのに何を躊躇することがあろう。 では、何故にこれだけの差が生じたのか原因解析に入りたい。この考察が大事なように思われる。れんだいこが思うに、次の諸点で不破には「歴史責任」がある。
こういうことを書き始めればきりが無く、その他いろんな要素が考えられるが、上記の六指標において、宮顕−不破体制はしてはならないことばかりをし続けてきた歴史が有ることが判明する。公明党に遅れを取ることは必定の指導ばかりしてきたことが分かる。 これら六指標はそのどれもが偶然の産物ではなく地下で繋がっている。これを訝る者が少ないが、それだけ日本左派運動に対する無責任性を証左しているように思われる。もうそろそろそれがどういう事情でもたらされたのかを詮索すべきではなかろうか。このあたりに無自覚な日本左派運動の未来は暗い、と考えるのが普通であろう。 |
しかし、今から思えば、共産党と公明党の不倶戴天の敵的関係での抗争も政治史的には本質的な意味を持たなかった。そう考えるのがれんだいこ史観である。その後の両党の歩みは次の通りである。 公明党は****。 共産党は***。 今気づくことがある。共産党、公明党両派の動きはどちらにしても、日本左派運動にとってどうでも良いセクト運動でしかなかった、のではなかろうか。日本人民大衆の階級的地位の向上には本質的なところで何の役にも立っておらず、むしろ欲求不満の捌け口として支配階級に上手に利用された面が有りはしないか。この両党の運動はまさに体制補完運動でしかなかったのではなかろうか。 |
この両党の将来の予見と危険性について言及しておこう。公明党は政権与党に食い入る事によりもはや排除されがたき堅塁を政権機構内に敷設した。それはそれで良いとしても、この権力がシオニズムと結合したときの危険性に考えを馳せてみたい。恐ろしいものがある、と考えるのがれんだいこ史観である。日共は、特に宮顕−不破体制のそれは相も変わらずシオニズム拝跪型のそれであり、こちらの方は早晩見捨てられるだろう。 |
「政治が死んだ」。正しくは、「政治の季節が死んだ」。代わって花盛りは、ボランティア平和活動。それは確実に人の助けになることだから良いとしても、少々物足りない。「政治がしっかりしないと、生きてて今ひとつ張り合いがない」。これがれんだいこの実感である。その要因はいくつか考えられる。その中のメジャーなものに、日共の変質があると考えるのがれんだいこ史観である。 |
(私論.私見)