補足(17)―4122 不破理論解析考(十一)歴史観

2002年10月29日(火)「しんぶん赤旗」北京の五日間(42)中央委員会議長 不破哲三 日中友好への共通の思い(二)

「歴史問題では、いつも日本がサーブ、中国がリターンという関係だ」

 趙啓正主任の言葉は続く。

 ――マスコミなどで、「中国は、いつも日本に文句を言っている、中国はたえず歴史問題で日本に謝罪を求めてくる」などと書かれるが、中国は、現世代の日本人にたいして、前の世代がやったことの謝罪を求めることはしない。

 ――ただ、一部の日本人にせよ、「過去の戦争が正しい」とか「南京大虐殺は認めない」などという認識や発言が出てくることは、これからにとって危険だ。あの戦争で、中国では多くの人が死に、中国の人たちは強い恐怖感をもっている。だから、そういう間違った認識がもちだされれば、反論せざるをえない。

 ――歴史問題というのは、テニスにたとえれば、日本がつねに「サーブ」(最初に攻撃)をして、中国が「リターン」(打ち返し)するという関係だ。靖国問題がなければ、「教科書」問題がなければ、私たちの側から何かをいうことはない。

大学で理論物理学というのは、お互いの共通点

 趙さんの提起に答えるためには、かなりまとまった時間が必要だろう。大事な会議の席を抜けてきた趙さんに、それだけの余裕があるだろうか。「時間はどれだけあるか」と尋ねると、「不破さんが決めてください」との返事。「では、空港へゆくのに間にあう範囲で話しましょう」というと、緊張して語り続けた趙さんの表情にも笑いがこぼれた。

 不破「あなたは、政府と党の両方にわたって対外関係を担当されている珍しい方だと聞いています。また、あなたと私は、十年ほどの時間差はありますが、共通点があるようです。大学で理論物理学を専攻したのは同じです。ただ、あなたは、この道で成功し核工業などの分野に進んだが、私は成功しないで政治の世界に入りました」(笑い)。

 趙「日本の物理学界には偉大な人がいます。湯川(秀樹)さんとか、坂田(昌一)さんとか」。

 不破「いまでも、そのあとを継ぐ人が多くいます」。

友好的な関係をきずくことは、共通の大問題だ

 こんな自己紹介をまじえた対話のあと、私は、「いま出された日中間の友好関係を発展させる問題は、共通の大問題だ」と言って、本題にはいった。

 ――日本と中国が、長い交流と友好の歴史をもっていることは、あなたの言われたとおりだ。共通の文化的基礎も強くある。世界でいま、漢字を常用しているのは、日本と中国だけだ。日本人が中国に旅行に来て、言葉を知らないでも、街で文字を見ればなんとなく分かる。こんな関係にあるのは、中国だけだ。最近は、たがいに違った略字を使って読みにくいということもあるが。日中の関係は、本来、広く温かく長い関係で、友好関係が発展する大きな可能性のある間柄だと思う。

 ――一九四九年、中国革命が成功したとき、同じく社会主義を名乗っていても、日本国民が中国を見る目とソ連を見る目はまったく違っていた。明らかに好意的だった。当時は、あの戦争を反省しない人たちがいても、そういう発言はあまりできなかった。しかし、いまの情勢は明らかに違ってきている。

「文革」のこと、天安門事件のこと

 私は、「こういう懇談の席だから率直にいうが、二つ原因があると思う」と述べ、まず、中国の側の問題について、考えていることを話した。

 ――「文化大革命」と天安門事件があった。「文革」の時には、攻撃された幹部が三角帽子をかぶせられ、手を後ろに押しあげられて引き回される状況が、マスメディアで毎日のように報道された。ただ、この時は、新聞の写真だったし、間もなく、日中の国交が回復した。そういうことはあっても、当時は、「文革」の中国を批判するものは、政党では私たち以外にはなかった。

 こういうと、趙さんは、ちょっと怪訝(けげん)な顔をした。あとで経歴を確かめたら、この時期は、趙さんにとっては、大学を出て核工業の分野で働いている最中になる。毛沢東派の干渉で、私たちと中国との関係がどうなっていたのか、実感的な知識はなかったのかもしれない。しかし、余分の説明はぬきにして、私は話を続けた。

 ――天安門事件は、さらに大きかった。毎日毎日、事件にかかわる映像がテレビに映しだされる。その影響には圧倒的なものがあった。この事件が、国交回復後の日中友好の発展の過程にありながら、中国にたいする日本国民の友好の気持ちを冷え込ませる役割をしたことは間違いない。

 私のこの指摘にも、趙さんは表情を動かさず、真剣に耳を傾けている。(つづく)

 


2002年10月30日(水)「しんぶん赤旗」北京の五日間(43)中央委員会議長 不破哲三 日中友好への共通の思い(三)

戦争を推進した潮流が、日本の政界では戦後も存続しつづけた

 私は、続けて、日本の政治状況に話をすすめた。

 ――国民の友好感情が冷え込んだこの状況を、過去の戦争を「正しい」と主張する人びとが利用して、わがもの顔にふるまいだした、というところに、最近の状況の一つの特徴がある。

 ――この勢力は、にわかに現れたものではない。根本は、戦後の日本の、ドイツやイタリアとは違った特異な政治状況にある。ドイツやイタリアでは、ヒトラーの戦争やムソリーニのやった戦争を「正しかった」と主張するものは、戦後の政界に存在する場所がなかった。過去に侵略戦争を推進した勢力と、戦後の政治の担い手のあいだには、明確な一線が引かれた。

 ――しかし、日本では、アメリカの占領政策の影響もあって、戦争を推進した政党の後継者が、国政の担い手となった。戦争中、政権党の地位にあった政友会や民政党が、戦後、自由党、進歩党などと名前だけ変えて発足した。アメリカは、そのうちの一部の指導者を政界から「追放」しただけで、政党としてはその存続を認めた。こうして、日本の政界では、戦時の戦争推進の流れを継いだ人びとが、政治を支配した。

 ――やがては「追放」された政治家たちも復活した。ついには、A級戦犯の容疑でいったんは逮捕された岸信介のような人物が、自民党の総裁になり、首相になるということまで起こった。そうである以上、この党のなかに、過去の戦争を「正しい」とする有力な流れが存在するのは、当たり前のことになる。

日本では、右翼勢力は政権党の内部にいる

 ――つまり、日本では、政権党の外にではなく、政権党そのもののなかに、そういうタカ派勢力、右翼勢力がある。

 歴史的な根源にさかのぼっての説明だったが、中国側の出席者が、非常な関心をもって、時には深くうなずきながら聞き入る様子が分かる。

 ――しかし、七〇年代ごろまでは、戦争を経験した世代が国民の多数だったし、中国にたいする国民感情もよかったから、タカ派勢力も、自分の主張をあまり公然とはいえなかった。しかし、さきほど述べたように、天安門事件で国民感情が冷え込み、戦争を経験しない世代が、国民の多数をしめるようになった状況を利用して、右翼勢力が、機会あるごとに、その主張をよりあからさまに持ち出すようになった。

 ――もう一つの要因に、日本の自衛隊を自分の戦争に引っ張りだしたい、というアメリカの思惑がある。この動きが進行するごとに、政治におけるタカ派の傾向が強まり、侵略戦争の歴史を正当化しようとする反動的な動きも強まってきた。

 私は、この動きにたいして、どういうたたかいが必要になっているかに、話をすすめた。

 ――ある時期までは、そういう発言が出たとき、「明白な侵略と戦争の事実を否定するのか」という議論だけで、ことが決着した時代もあった。しかし、いまでは、戦争の問題でも、事実と道理にもとづいて真実を明らかにしてゆく努力が、いままで以上に大切になってきた。

歴史問題でも「実事求是」の精神が必要になっている

 ――あの『歴史教科書』に見られるように、相手側は、あの戦争は、これこれの理由で正しい戦争だったという議論を、正面から仕掛けてきている。これを、事実と道理をしめして論証的に打ち砕くことが、私たちの仕事になっている。私自身も、政党として、彼らの戦争論を正面から論破する仕事に取り組んだ。そのなかでは、たとえば、「南京事件」の問題でも、事件に参加した将校自身の手記なども活用して、誰も否定できない事実をもって真相を明らかにすることにつとめた。

 ――中国国民のあいだでは、実際の経験に裏付けられた明白な事実であっても、日本では、あなたがたの言葉を借りれば「実事求是」(じつじきゅうぜ)の精神で、事実と道理をもって歴史の真実を証明してゆく苦労が大事だ。

 ――ただ、私たちは、このことをあなたがたにやってほしいとは言わない。これは、私たち自身の問題だ。前に中連部の戴秉国部長と話したとき、あなたがたへの「希望」を述べたが、それは、外交活動で、対政府外交だけでなく、対世論外交を重視してほしい、ということだった。もっと具体的にいうと、日中の政府間で批判や論争がある時でも、中国側は、どんな道理に立って行動しているのかが、日本の国民が理解できるような、事情説明の活動を重視してほしい、ということだ。

 これは、戦争の問題だけではない。別の例だが、瀋陽事件のときにも、そういう説明は、中国側からは聞かれなかった。

 (つづく)


2002年10月31日(木)「しんぶん赤旗」北京の五日間(44―最終回)中央委員会議長 不破哲三 日中友好への共通の思い(四)

瀋陽事件にもふれて

 私は、わかりやすい最近の実例として、瀋陽事件をとりあげた。

 ――あの事件でも、中国には中国の考え方、立場があったはずだ。領事館の警備は、こういう立場で、こういう合意のもとにやっている、などなども、その一つだ。しかし、中国側からは、そういう説明は一度も聞かれなかった、と思う。だから、私たちは、日本政府の発表、発言をよく研究し、その矛盾をつくことを通じて、真実にせまろうとした。この問題でも、立場の違いはあるだろうが、一般の人がわかる言葉での説明があればよかった、と思う。

 瀋陽事件の問題での例解でも、真剣に耳を傾ける中国側の態度は変わらなかった。

 ――中国の経済の発展とともに、その国際的立場は今後いよいよ大きくなるだろう。日本の財界筋も、中国が二十年後には、GDP(国内総生産)で日本を抜いて、世界第二位の経済力を持つことを予想している。

 ――それだけに二十一世紀には、政府間の外交と同時に、世界の諸国民、日本の国民に、中国がどんな立場で、なにを道理と考えて行動しているのか、そのことへの理解を広げる外交が、いよいよ重要になると思う。それは、「日本の国民のみなさん」といった呼びかけが必要だということではない。政府間交渉の根底にある中国側の考え方をわかりやすく説明する活動が必要だということだ。

 私は、「以上の話は、あなたがたのご参考になれば、という意味でです」と述べて、発言をしめくくった。

「今度は日本で、物理の話を」

 趙啓正主任は、すぐ発言した。

 ――議長のお話は、哲学的にも論理的にも理解しやすいものだった。もっと早くお会いしておきたかった、と思う。これまで日本共産党との交流は少なかった。

 趙さんはさらに、これまで自分が会ってきた「数多くの日本の政治家」の名前をあげながら、今日の話は「もっとも印象深いものだ」、「それは、マルクス主義の哲学的基礎がしっかりしているからではないかと思う」と続けた。私は、それらの言葉を聞いて、はじめての対面、はじめての対話ではあったが、自分の意のあるところを、趙主任に受け止めてもらった、こういう感触を強く持った。

 趙さんは、「これからも、気軽に足を運んでいただくよう、お願いしたい」、「今度中国に見えたときは、テレビで中国国民に向けて話してほしい」とも語った。国民に目線をむけて「対世論外交」が大事だとあれだけ力説してきた筋道からいって、「否」と言える話ではなかった。

 話のなかで、近く訪日の予定があると聞いたので、「懇談」は、席を立ちながらのこんな具合でしめくくられた。

 不破「日本においでになったとき、またお会いできるといいですね」。

 趙「物理の話もできますか。不破さんは、専攻は何だったのですか」。

 不破「好きなのは、素粒子論でした」。

 趙「いい選択ですね。次は物理の話をしましょう」。

 握手して別れたが、“心残りになっていたことを、その問題にふさわしい人と、核心にふれて話し合うことができた”という気持ちが、余韻として残った。

「話し合うべきことは話した」という感慨

 北京飯店での最後の昼食。滞在中、なにかとお世話になった「しんぶん赤旗」の北京支局の三人――田畑誠史支局長、小寺松雄記者、鎌塚由美記者――とは、三日目から、宿舎での食事はいつもいっしょにするようにしていたが、この三人ともお別れである。北京飯店一階のロビーで、それぞれ記念撮影。また、中連部の李軍さんと趙世通さん、若い林明星さん、王一迪さんとも、カメラに入ってもらった。

 空港では、王家瑞副部長の見送りを受け、昨日まで四日間の全行動を収録し、「中共中央対外連絡部」と金文字で刻んだ箱入りのぶあつい立派な写真帳『日本共産党中央主席 不破哲三一行訪華』を、記念として贈られた。「議長」という私の役職に当たる言葉が中国の党にはなく、「中央主席」と訳したらしい。到着から昨日の夜まで、四日間の全日程を大判の写真三十九枚にまとめた、たいへんうれしい記念品だった。たがいに、今回の訪中で、双方が充実した成果を得たことを喜びあい、東京であるいは北京での再会を約する。

 間もなく午後二時五十分、私たちの乗った飛行機は北京空港を離陸した。

 『平家物語』をしめくくる私の好きな言葉に、「見るべき程の事は見つ」という平知盛(たいらのとももり)の言葉がある。眼下に次第に遠ざかる北京の街並みを見ながら、なんとなく、その言葉が頭に浮かんだ。五日間の日程ではあったが、「話し合うべきことは話した」――この感慨を胸に、私は日本に向かった。(おわり)

 






(私論.私見)