「不破式人民的議会主義の憐れな末路」考

 (最新見直し2006.3.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 不破は、「人民的議会主義」を標榜して70年代から今日までの日共の議会闘争を指導してきたが、今日ではネット情報に関する限りでは有るが、地方議会選挙にいたっては結果報告はむろん論評さえしていない。恐らく、公表するには不都合な結果が頻出している為に隠そうとしているのであろうが、不破らしく姑息なことである。結局、公明党の「選挙結果情報」に頼らざるを得ない。オカシナことである。

 党員大衆は、党中央のこうした対応振りに抗議できないのか。結局、馬鹿にされているのは、手足の如く使われた挙句、まだまだ活動が弱いと叱咤されているお前達だぞ。手足が弱いのか党中央のオツムガ弱いのか、いずれにせよ結果は厳正に報告されねばならないだろうが。

 2005.6.20日 れんだいこ拝


【日共の議会専一的議会主義考】

Re:れんだいこのカンテラ時評その111 れんだいこ 2005/10/13
 【「日共の2005.9.11総選挙総括」考】

  2005.10.10日、日共は党本部で第4回中央委員会総会を開き、2005.9.11総選挙の総括を行った。志位委員長の幹部会報告(「第4回中央委員会総会 志位委員長の幹部会報告」)及び結語(志位委員長の結語)、日本共産党中央委員会書記局の第4回中央委員会総会についてが発表された。

 日共は、こたびの選挙戦で「改選前の9議席を確保し、比例代表選挙で、前回よりも得票率を若干減らしたものの得票を33万票のばし492万票を獲得した」。この結果は、ここのところの選挙のたびごとの後退により、捲土重来呼号を余儀なくされていた党中央にとって、こたびは現状維持故に安堵することが出来たということを物語っている。よって、「確かな野党」路線に手ごたえがあった、「善戦健闘」と評価した。

 これが、憲法改正をも可能にする「小泉与党の歴史的大勝利」を受けての日共党中央の選挙総括である。かような総括をして恥じない日共党中央を疑惑せよ。問題は次のことにある。れんだいこが3論文を読んで見て、何ら為すべき総括が為されていない。ダラダラと無内容な駄弁を弄しているだけに過ぎない。一体、この痴態をどう評すればよいのだろうか。

 れんだいこは、次のように断罪する。日共の議会闘争とは、自民党内のタカ派とハト派の混交に対し、この間一貫してハト派に厳しく、タカ派に是々非々路線を採っていることに特質が認められる。ロッキード事件を通してハト派が脳震盪を見舞われて以来のタカ派系政権の下での政局に対してその政権の長期安定政権化に手を貸し続けている。ここに、日共の議会闘争の特質がある。

 こたびの「確かな野党」路線による野党内分裂選挙方式もこの流れで見れば見えてくる。それは明らかにネオ・シオニズムに言いなりのバター犬小泉政権の長期安定政権化に手を貸している。公明党が露骨に表から、日共、社民が巧妙に裏から支えている。

 政権交代を唱える最大野党民主党がこれまた胡散臭い。選挙後の前原代表選出過程から分かることは、この党も明らかにネオ・シオニズムに篭絡されている。これが現下政界の実相である。この本質をはぐらかす為に、各党は手前都合の自己讃美を売り出している。日共の「本物の野党論」も一皮向けばこの手のものである。公明党との犬猿関係も実は意図的に作り出され操作されているものでしかない。根は深いところで繋がっている。

 こういう構図が分からないままに各党の「手前都合の自己讃美キャンペーン」に踊らされる者は政治おぼこである。何事も経験だから政治に関わること自体が悪いとは思わない。一定の冷静沈着さで政界に関わるのがよろしい、と老婆心で申し上げておく。 

 こういう状況を思えば、今喫急に要請されているのは、「大きな政府より小さな政府」と云うのなら、まずは議員定数を大幅に縮小して、我が身の手本から示せ。既に国費の冗費でしかない。然る後、高級官僚の高給天下りを規制し、公務員を削減せよ。れんだいこが見るところ、比例議員は半減されるべし。

 ついでに「日共党中央問題」に言及しておく。宮顕にせよ不破にせよ志位にせよ、日共党中央の駄弁に付き合うのはエエカゲンにしたいのだが、「戦前以来の不屈の伝統を持つ庶民の味方の正統政党」というコマーシャルに騙されている向きの者も多いので、そのウソを告発しておく。

 れんだいこが見るところ、「戦前以来の不屈の伝統を持つ庶民の味方の正統政党」なる言が通用するとするなら、それは戦後直後から5年間ほどの期間を指導した徳球ー伊藤律系党中央時代においてのみである。

 しかし、徳球ー伊藤律系党中央は、朝鮮動乱前夜レッド・パージより公職追放され、中共を頼って出向き北京機関を作ったものの、国際共産主義運動の要請であった武装闘争を余儀なくされた挙句ことごとく失墜し、その権威は地に落ちた。未だに旧左翼、新左翼の双方から悪し様に云われているが、功罪併せて見直されるべきであろう。

 その党中央の後釜として宮廷クーデター方式で党中央に登壇してきたのが現下の指導部であり、徳球ー伊藤律系党中央の党旗を正式に継承をしたものではない。そういう訳で、現下党中央は、そのエポックとなった1955年の六全協前後の経緯を未だに整合的に語れないという負の歴史を抱え込んでいる。党創立記念日の不破講話はいつもここで途切れ、はぐらかしている。

 それもその筈で、六全協で誕生した野坂ー宮顕系党中央とは稀代の戦前来のスパイグループであり、戦前も党中央を解体させた履歴を見せている。この連中が再び党中央権力を握ったのが、1955年の六全協である。以後の彼らの所業を見よ。戦闘的左翼の立ち上がりを挫き、何の役にも立たない人畜無害の党にさせる為にのみ没頭してきた。

 不破、志位は、この系譜から生まれているからして云うこと為すこと同様である。この連中に、日本左派運動の前進の為の何らかのものを期待すること自体が馬鹿げていよう。こたびの選挙総括もこの流れの中で行われている。連中が党中央の座椅子を占拠し続ける為の弁論であって、左派運動にとってどうあるべきか、何を為すべきかを問う意思なぞ端からない。

 彼らは、日本左派運動に対し愚民教育を強いている。故に、日本左派運動史は愚か手前たちの党史さえ学ばせない。ネット上のホームページを見よ、戦前来の党と云うならその歩みを概略しておくべきところ何も語っていない。手前味噌の党史論を作成しているが、まさに手前味噌であるがゆえに歪曲、改竄、すり替えのオンパレードであり、読むに堪えない代物でしかない。下手に学ぶとますますバカになること、れんだいこが請け負う。我々は、そういう実態を知っておくべきだろう。

 ケッタイなことにというべきか、この現象は何も日共だけのものでもない。社民党も同じである。党史で云えば何と、自民党が最も精緻に歴代の政権を跡付けてサイトアップしている。うそと思うなら確認して見よ。自民党はハト派とタカ派の混交政党であるがゆえに史観は一致していないが、書き付けているだけでも大したものである。それに比べれば、公明党の党史も物足りないがそこそこには記している。民主のそれは社民、共産のそれよりはマシだがお粗末極まりない。

 今我々はそういう肌寒い仕掛けの中に生きている。この状況を悪し様に云う時節はもう終わっている。我々は今何を生み出さねばならないのか、この段階に至っている。今日の国会質疑を少し窺った。れんだいこは、国会にもはや何も期待するものがない。しかと衝くべきところを衝かず、おべんちゃらと皮肉を云うぐらいのもので政治を漫談ものにし合っている。食傷とはこういうことを云うのだろう。

 2005.10.14日 れんだいこ拝

 「さざなみ通信の一般投稿欄」の薄幸ダイオード氏の2005.10.8日付投稿「擬似宗教団体かそれとも社民党か?」を転載する。

 9月6日の拙稿で指摘したとおり、日本共産党はマルクス、エンゲルス、レーニンを神様とし、その時々の東大出身の一握りの幹部を神様の教義の唯一の解釈者とする擬似宗教団体です。その実質は政党ではありません。共産党は政策の実現ではなく、教義への帰依と組織の維持存続のみを最大の目的としています。共産党の「政治」活動は、目標や政策の実現を目的としているのではなく、単に自分の組織と教義を維持存続することのみを目的としているので、厳密には政治活動ではありません。選挙も「勝つ」ことを目的としているのではなく、組織を維持存続することを目的として行っているので、選挙でいかに連戦連敗を重ねても、誰も責任を負わず、戦略を見直すこともないのです。共産党は、自分の教義や組織に対してリスクを冒してまで、憲法9条や国民の暮らしを守る気などはさらさらありません。この共産党の本質を、もっと多くの人々が気づくべきです。

 共産党が擬似宗教団体であると評される最大の理由は、実社会では「結果がすべて」とよく言われるように、「目標に対する結果の達成度」によって人も組織も評価されますが、共産党ではまったく異なり、結果の達成度は二の次、三の次で、「組織や教義への忠誠度」によって評価される、ということにあります。どんなに議席を減らしても、幹部がそれでも「わが党の路線は正しい」と平然と言うことは、実社会ではありえないことです。

 これまで党が党員に対して行ってきた査問、除名、除籍という処分のほとんどが、まるで教団の異端審問のように行われました。「党幹部が責任を取らなければならないのは、党の綱領を裏切ったときである」という共産党幹部の立場は、共産党はまさに「結果責任」・「責任倫理」ではなく、「思想責任」・「心情倫理」に基づく党であることを自ら宣言するものです。

 また共産党では党員にマルクスやレーニンの思想や党の歴史を熱心に教育したり、「赤旗祭り」を盛大に開催したりしますが、そのマイナスの効果として、目標の実現や未来への志向よりも、思想や組織への帰依意識や帰属意識を優越させる、いわば「仲間意識や愛党精神ばかりがやたらと強いムラ社会の一員的」党員を数多く生み出してしまっています。共産党の本質は、政党ではなく擬似宗教団体であると理解すれば、共産党のまったく特異な組織体質をすべてうまく説明することができます。

 共産党の擬似宗教団体への変質の原因は、組織が老朽化、肥大化したこと、そして民主集中制という異論を封殺する制度が長年、組織の新陳代謝や活性化を妨げたことにあることは疑いありません。現在の共産党は「変化を嫌う」という意味では自民党以上に保守的政党であり、とりわけ党の幹部になるほど斬新、独創的な発想や機動性、スピード感覚、多少のリスクを冒してでも何か新しいことに挑戦するチャレンジ精神や活力を完全に失い、世に言う「大企業病」に蝕まれています。共産党の場合、この病を治療するのはもはや不可能な段階に達していると悟るべきです。なぜなら、民主集中制を取る共産党には、この病を矯正する組織的メカニズムも人材ももはや存在しないからです。

 どんな組織であれ部下は上司の命令に逆らえませんので、組織の力量や質を決めるのは、とどのつまり組織のトップということになります。組織を生かすも殺すもトップ次第です。以下に立派な理念や政策を持っていても、トップが死ぬ気でそれを達成しようという決意・情熱・覚悟・気概がなければそれらはすべて宝の持ち腐れで、その実現は到底おぼつきません。現在の共産党幹部には、著述業にせっせとお励みになる方は多いのですが、残念ながら政策実現への決死の覚悟・気概・気迫は皆無で、彼らが考えているのはただ組織とわが身の保身のことだけです。 どうか一人でも多くの皆さんが、共産党が政党ではなく擬似宗教団体であるという本質に気づき、支持政党を考え直すようお勧めいたします。

 「社民党と共産党の政策はほとんど共通しており、どちらも支持できる」という見解を共有できる方々に申し上げたいことは、応援するなら共産党より社民党を応援するほうが、費やす応援のエネルギーの燃費、効率、コストパフォーマンスという点では共産党より社民党のほうがはるかに優れていると思われる、ということです。なぜなら、共産党は上記のとおり擬似宗教団体に変質していてすでにエネルギーの多大なロスが生じており、それを矯正するのも容易ではありませんから、そのコストとして莫大なエネルギーの損失を見込まなければなりません。一般庶民・貧乏人にとって、政治に投入できる時間やお金は極めて限られていますので、少ない資源の有効利用、すなわち「運動の効率性」という視点も欠かすことはできません。共産党はこの「運動の効率性」という視点が極めて乏しく、党員・支持者のエネルギーの無駄使いにはあきれるばかりです。自分の党勢を食いつぶしてまで立てた壮大な党本部の建物は、党員・支持者のエネルギーの無駄使いの象徴です。

 先月の総選挙では、社民党は議席数や得票率では共産党に及びませんでしたが、議員一人を当選させるのにどれだけの得票やコスト、労力を必要としたかという「運動の効率性」という観点から選挙結果や選挙戦を分析しますと、私見では社民党のほうが勝っています。共産党は、ガソリンはやたらと食う割にはほとんど前に進まない燃費のあまりに悪いオンボロ自動車です。政治闘争もスピード勝負です。悠長に時間をかけていては、負けてしまうのは当然です。日本には共産党がまとものなるのを待つだけの時間的余裕はもうないのです。

 どうか一人でも多くの皆さんが、もうあとがない緊急事態の日本の現情勢において、マルクス、エンゲルス、革命、天皇制がどうのこうのという共産党固有のドグマや議論は、情勢の本質、さらには唯物論からも外れたまったくの些事に過ぎないといことに気づいてほしいものです。以上

(私論.私見) 

 
薄幸ダイオード氏の観点も分かりやすくて面白い。願わくば、れんだいこ観点との摺り合わせが欲しい。れんだいこに云わせれば、客観描写するだけでなく、日共党中央が敢えてそうする訳の考察に踏み込んで欲しい。そういう不満が残るが、うまく衝いている。


Re:れんだいこのカンテラ時評その157 れんだいこ 2006/04/17
 【日共の泡沫候補立候補戦術考】

 2006.4.11日、千葉7区衆院補選が公示され、自公候補の斎藤健・元埼玉副知事と民主党候補の太田和美・元県議が激戦している。これにいつものように日共の徳増記代子・党県委員が棹差している。他に、小林崇徳・行政書士と宮岡進一郎・元高校教諭が参入している。

 もし民主党候補が勝てば、小ネズミ政権への打撃は大きく、来る政界変動を占う意味でもこの一戦は興味深い。この重要な選挙戦に日共はどんな役割を果たしているのだろうか。これを解析せねばならない。

 れんだいこは、不破式選挙戦術の愚劣さを見て取る。日共はさる日の六全協での宮顕の党中央占拠以来、様々な理由をつけては大衆闘争から召還し次第に議会専一主義に転換した。人民的議会主義路線の下で地方選挙、国政選挙のあらゆる機会に候補を立てるという戦略を打ち出した。

 その他の左派政党が議会進出に関心を見せない中、それなりに議員数を伸ばしてきた実績がある。れんだいこは、戦後の憲法秩序のプレ社会主義性を顧慮する時、議会闘争そのものは有意義だと考えている。故に、日共の地方議会に於ける立候補政策についてはとやかく云わない。むしろ、他の左派政党も含めて議員数を伸ばすべきだと思っている。

 問題は、首長選、国政選挙小選挙区に於ける泡沫立候補戦術にある。現下の日本政党史は、長期安定政権と化した自民党ー公明党連合政権に対する第一野党の民主党の闘いを基軸としている。かっての社共共闘は崩壊し、このような構図の下での選挙戦となっている。

 この状況下で、与党の自民党と公明党が協力し、第一野党の民主党が牙城に挑み、第二野党の共産党、第三野党の社民党が「我関せず」で泡沫候補を立て続け分裂していくことが下策であることは明らかである。

 日共は露骨に「確かな野党」売り込みで、野党間の分裂を仕掛けている。その分自民党ー公明党連合政権に有利に作用させているにも拘わらず、何食わぬ顔で相変わらず常用し続けている。

 れんだいこにはこの戦略を是と思う神経が分からない。子供が考えても分かりそうな話ではないか。日共の割り込みは、政治闘争上何の効用があるのだろうか。個別の闘争を積み上げてやがて大きなうねりを生み出す為の前哨戦的位置づけのものであるならまだしも、そうでないことは自明である。徒に、「自民党ー公明党連合政権対民主党の闘い」に茶々入れしているだけに過ぎない。しかしてそれは結果的に自公連合を利している。それは、左派政党の見識として犯罪的ではなかろうか。

 れんだいこが思うのに、不破式選挙戦略戦術は意図的故意の反革命政策の可能性がある。それは、野坂ー宮顕ー不破の胡散臭さに関係している。故に、彼等の諸政策は宿アのようなものであり、故にこれを逐次批判しても居直られれば水掛け論となり、それ以上のものにはならない。

 こうなると、問題は、それに従順する党員の見識に関わる。党員は少なくとも、左派的運動指導の限りに於いて党中央を信頼すべきであり、明らかに反革命政策の指導である限り従わない権利を確保すべきではないか。その意味で、現行規約は反動的な党中央盲従強制規約になっている。何としてでもこれを改めねばなるまい。

 それはともかく、以下、日共の泡沫候補政策が「共産主義者の宣言」の指針に従う限りいかに反動的であることを弁論してみたい。

 その前に一言しておけば、いわゆる共産主義運動にはネオ・シオニズムの手先的悪質な運動があり、これを仮にサヨ運動と命名して、れんだいこがこれから述べるところの真性左派運動と識別しておく。以下、分かり易くするためにサヨを悪質左派運動、真性のものを良質左派運動と称することにする。案外余りにもその違いが分かっていないように思われてならない。

 2006.4.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その158 れんだいこ 2006/04/17
 【「共産主義者の宣言」の指針する党運動の在り方考】

 「共産主義者の宣言」は、前書きで次のように述べている。
 「共産主義者は、政治的なその見解、その目的、見通しを全世界のまえに公表すべきである。そして、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時である」。

 これによると、良質左派運動は本来正々堂々としたものであるべきであろう。悪質左派運動のように姑息な猫なで運動でやるものではない、ましてや有名人著名人をダシにして誘引するような手法は邪道ということになろう。本来は、イデオロギッシュにして且つ理論的な運動を目指し、賛同者を地道に確実に増やしていくことが指針されていることになる。実際、主義者の運動というものは政治であれ宗教であれ思想であれかくあるべきではなかろうか。

 「プロレタリアと共産主義者」の項目で、共産主義者運動の在り方に触れて次のように述べている。
 「共産主義者は、どういう関係において全体としてプロレタリアの人々を支持するのか? 共産主義者は、他の労働者階級の諸党派に対立するような別個の党派を組織するものではない。共産主義者は、全体としてプロレタリアートの人々と分離したりその一部でしかないような諸利益を持たない。共産主義者は、どのようなものであれ特殊(セクト的)な諸原則を提起しない。セクト的な諸原則は、プロレタリア運動をその型にはめこもうとするものである」。
 
 これによると、セクト主義を厳に戒めていることになる。良質左派運動は本来セクト主義に陥ってはならない。悪質左派運動は、色々理屈をつけては唯我独尊のセクト主義を振りかざし、排他的運動を推し進めていく。それは似て非なる運動であろう。

 続いて、次のように述べている。
 「共産主義者が他の労働者階級の諸政党から区別されるのは、ただつぎの点だけである。すなわち、異なる国々でのプロレタリアの国内闘争において、共産主義者は、全プロレタリアートの共通の、一切の民族主義に左右されない利益を全面に押し出しつらぬく。労働者階級のブルジョアジーに対する闘争の様々な成長段階において、共産主義者は常に且つどこにおいても運動全体の利益を代表し体現する」。
 
 ここでも、「共産主義者は常に且つどこにおいても運動全体の利益を代表し体現する」と有り、セクト主義の戒め、「階級情勢の左傾化に尽力こそが使命」と指針させている。これが、良質左派運動の在り姿であり、悪質左派運動は逆に分裂を策動して恥じない。

 続いて、次のように述べている。
 「だから、共産主義者は、実践面では、あらゆる国の労働者階級の党のもっとも進んだ自覚的な部門であり、全ての他の者達の前衛として推進していく部門であり、理論面では、大多数のプロレタリアートよりも、プロレタリア運動の進むべき道筋や条件、究極の一般的成果をはっきりと理解している点で優れている者達である」。

 これによると、自由自主自律的な運動であることが肝腎要であり、且つ能力の高い共産主義者が前衛的に運動を牽引していくよう要請していることになる。これが、良質左派運動の在り姿であるのに、悪質左派運動は逆に統制的にして党中央拝跪型の組織を作っていく。その結果、唯々諾々するピーマン党員が輩出するという仕掛けになっている。

 続いて、次のように述べている。
 「労働者は国家(祖国)を持たない。持ってもいないものを、取り上げることなどできない」。

 これによると、共産主義者の運動は、祖国擁護運動を排しているように聞こえる。れんだいこが、これを仔細に検討すれば、他国他民族のそれと利害が対立するような排外主義的な祖国主義、民族主義を排せよ、と述べていることになる。そう受け取るべきであろう。これが、良質左派運動の在り姿であると思われる。悪質左派運動は逆に無国籍型国際主義に陥るか排外主義的な祖国主義、民族主義のいずれかに陥る。

 続いて、次のように述べている。
 「プロレタリアートは、なによりもまず、政治的支配権を獲得せねばならない。国家の支配階級にまで成り上がらねばならない。自らが国家として、更に云えば、言葉上ブルジョワ的な意味とは又違うそれ自身が国家的なものとして形成されねばならない」。
 
 これによると、政治権力の奪取に向う運動を組織することが要請されている。良質左派運動は権力奪取を重視する。悪質左派運動は、万年野党主義に陥る。「確かな野党」なる路線は云うだに噴飯ものであろう。

 続いて、次のように述べている。
 「労働者階級による革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級の地位へ持ち上げること、民主主義を廻る闘争で勝利を収めることである。プロレタリアートは、政治的支配権を使って、ブルジョアジーから全ての資本を次第にねじ伏せるようにして奪い取り、支配階級として組織されたプロレタリアートの権力を使って全ての生産用具を国家の手の上に集中せしめるよう、意欲的に使うべきだ。そして、全生産能力を可能な限り急速に増大させるようにし向けねばならない」。
 
 これによると、プロレタリアートを支配階級の地位へ持ち上げるよう運動を目指すべきであり、民主主義獲得、実質化闘争、労働者階級による生産管理闘争を重視していることがわかる。良質左派運動はこれら諸闘争を重視する。悪質左派運動は、口先だけの運動に終始し、大衆的運動の盛り上げに敵対する。

 続いて、次のように述べている。
 「諸階級と階級対立を持つ旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会(アソシエーション)がきっと現れるであろう」。
 
 これが共産主義者の目指すユートピアである。ユートピア思想が悪いということではない。ユートピア思想を掲げて、現実を近づけせしめることが必要という意味であろう。良質左派運動はこの理念の深化を目指す。悪質左派運動は、口先だけの飾りにして棚上げする。

 続いて、封建的社会主義運動、小ブルジョア社会主義運動、ドイツ社会主義または「真正」社会主義運動、保守的社会主義またはブルジョア社会主義運動、批判的=空想的社会主義および共産主義運動の特質と限界に触れた後、それら「種々の抵抗党に対する共産主義者の立場」の項を設け、次のように述べている。
 「共産主義者は、労働階級が直面している利害を擁護せんとして目下緊急の目的を達成するために闘う。しかし当面の運動の中にあっても、運動の未来を気にかけている」。

 この文言を深く味わうべきだろう。良質左派運動は運動の未来を気にかけ、悪質左派運動は気にかけぬばかりか台無しにする。

 続いて、共産主義者が、フランスでは社会民主主義者と同盟し、ポーランドでは農業革命派の運動を支持し、ドイツでは革命的ブルジョアジー派と共闘しというように様々な運動形態に触れながら、「批判の権利を担保させた上での共闘」を指針させている。これが、本来の左派運動であることが知られねばならない。

 続いて、次のように述べている。
 「手短に言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持する。こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てる。最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義諸政党との同盟と合意に向けて骨折り労を為す」。
 
 これを一言で言えば、左派運動は、独善を排し階級情勢の左傾化の為に尽力する運動を目指すべし、ということになろう。良質左派運動は共闘を好み、悪質左派運動は極力拒もうとする。仮に組んでも色々理屈をつけて共闘の発展を抑制する。

 結びはこうである。
 「共産主義者は、自分の見解や目的をかくすことを恥とする。共産主義者は、自分たちの目的が、現存する社会的諸条件を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義者革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアは鉄鎖のほかに失うものも何も無い。プロレタリアには、勝ち取るべき世界がある。万国の労働者よ、団結せよ!」。

 2006.4.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その159 れんだいこ 2006/04/17
 【左派運動は、「自民党ー公明党連合政権対民主党の闘い」にいかなる態度を採るべきか考】

 しからば、左派運動は、「自民党ー公明党連合政権対民主党の闘い」にいかなる態度を採るべきか。これを解析する。れんだいこは、「自民党ー公明党連合政権対民主党の闘い」に於いては、「よりまし」運動に徹するべきだと考えている。

 その1として、概ね民主党に利するよう動く。その2として、概ねハト派に利するよう動く。その3として、両者がタカ派の場合、泡沫になろうとも左派連合候補を立てて闘う。この3基準で事を運ぶべきではなかろうか。こう思慮することを戦略戦術と云うのではなかろうか。今は余りにもそれがなさ過ぎる。

 現下の日共の選挙政策は、概ね自公連合に利し、この間概ねハト派叩きに興じてタカ派を伸長させており、社共共同戦線は見る影もないほどに凋落させている。つまり、口先の批判とは別に内実は逆手逆手に動いていることが分かる。

 これが偶然なら許せようが、意図的故意の仕業(しわざ)だとしたらどうすべきか。多くの者はそんな馬鹿なことは無いと否定したがるだろう。れんだいこ解析に拠れば、あらゆる兆候が偶然ではないことをシグナルしている。

 何なら一つづつ検証しても良い。手短に判明させようとすれば、重要案件の際の日共党中央の幹部会議事録を過去に遡って公開させて見れば良かろう。一体、どいういう観点からどんな打ち合わせをしたのか、包み隠さず明らかにさせればよい。誰か、党中央に公開を迫ってみよ。どういう返答が為されるか、れんだいこには自明であるが。

 こたび筆坂が興味深そうな暴露本を出版したようである。宮顕がどう不破がどうというより、自身が参席した幹部会の会議の様子をこそ明らかにさせるべきであろう。左派運動の指導部としては凡そ不具合な陰険謀議にうつつを抜かしていただろうと思われる。

 (以下略)

 「不破式人民的議会主義の憐れな末路」考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron_hosoku17_jinmitekigikaironco.htm)

 2006.4.17日 れんだいこ拝

【日共の議会専一的議会主義考】
 2007.2.4日、愛知県知事選が行われ、自公の推す現職の神田真秋氏(55)が民主・社民の推す前同県犬山市長の石田芳弘氏(61)、協賛の推す元愛労連議長の阿部精六氏(67)を破り3選を果たした。最終得票数は次の通り。

神田真秋    

1,424,761

石田芳弘  

1,355,713

阿部精六    160,827

 これによれば、自公の票と民主の票差は約7万票で、共産党の票を合わせれば、10万票近く与党候補に勝っていたことになる。自公候補を当選させたのはまたしても共産党だった。

 政治評論家の森田実・氏は、次のようにコメントしている。
 「いつも言うことですが、共産党は勝てもしない候補者擁立はやめるべきです。相手の自公が一丸となって選挙をやっているのに、野党が候補者を乱立では愚の骨頂。票を分散させ、自公を助けるだけです。共産党だって、安倍政権の悪政ストップが目的でしょう。それなのに、ストップをかけるチャンスを自分たちで潰している。まったくバカらしいし、これじゃ、まじめな有権者に嫌われるだけです」。

 「強い方の与党の一本化、弱い方の野党の二本化構図」がこのところ続いている。これは何を物語るのだろうか。公明党の惜しみない協力による「与党の一本化」に比して、共産党の唯我独尊的な立候補戦術は奇異ではないだろうか。社民党の民主党共闘の方が賢明なのではなかろうか。それとも、民主党の方に共産党との提携を拒む姿勢が強く、民主党こそ責めを負うべきなのだろうか。

 これは、来る参院選問題にも直結している。このままの「強い方の与党の一本化、弱い方の野党の二本化構図」で臨めば、蓋を開けてみればいつものようにさほど変化が起こらないことが予想できる。これを踏まえて、民主党は全野党の提携を呼びかけているのではなかろうか。社民党がこれに一定応え、共産党が相変わらず全区立候補させようとしているのではなかろうか。それはなぜなのだ。

 多くの者は不自然と失望を覚えることしかできないだろうが、れんだいこは違う。現下日共党中央は明らかにネオ・シオニズムの手先であり、この連中に党中央が乗っ取られて久しい。日共党中央の戦略戦術はなべて現代世界を牛耳る国際金融資本「シオンの議定書」派の指図通りに御用聞きしている。この観点から解けば、日共党中央は、政府自民党内のネオ・シオニズム派つまり外治派を裏から助け、我が社会に残存する民族派即ち内治優先派を駆逐するのに牙を剥く。そういう役割を果たしているのが歴然である。ロッキード事件による執拗な角栄の政界追放はその典型であった。

 共産党の政治戦略戦術にはそういう裏があると見るべきである。よって、これは偶然ではない。このことを知るべきである。それを思えば、我々が選択すべき課題は次のことになる。1・日共党中央に巣くうユダを一刻も早く放逐せよ。2・もはや日共政変が不可なれば、新党を創出せよ。3・民主−社民−国民新党の護憲派を擁護せよ。同改憲派を自民党へ追いやれ。4・日本政治の原点を内治優先に戻せ。

 問題はかく設定されている。

 2007.2.8日 れんだいこ拝






(私論.私見)