補足(17)―41252 不破理論解析考(十四−A)姑息な文献改竄、盗用癖考

 不破の「ソフトスマイル」に騙されてか、不破を「穏和系左派運動の代表的有能指導者」としてみなす風が定着している。しかし、れんだいこはそうはみなさない。今流行の言葉で言えば一種のサイコパス人間とみなしている。サイコパスの定義は定まっていないが、れんだいこは、「人類史上形成されてきた本能上、知的内部規律上してはならない第一線基準を踏み越して何事かを企てており、それを隠しながら裏表の芸をする異常人格者」と理解しており、その意味では不破は立派な「政治的サイコパス人間」であることになる。

 世の識者は己の知性の弁えによってか、不破のサイコパス性を発見しても抑制的に批判を加えるのを嗜みとしているように見える。れんだいこは、歯に衣を着せるそういう批判を好まない。スッキリ「駄目なものはダメ」、如何にヒドイかを云いきりたい。

 既に、「『戦後革命論争史』編纂手柄横取り考」「姑息な党史改竄癖考」で、不破のサイコパス手法を見てきた。本稿では、不破の「文献改竄、盗用癖」に批判を加える。

 2004.1021日 れんだいこ拝


【日共指導部の理論レベルのエエ加減さを暴くその1、「榊」編】
 「藤井一行研究室へようこそ!」「翻訳出版の責任を問うートロツキー翻訳受難物語」「共産党高級幹部の奇怪な出典操作」を咀嚼する。他にもいろいろ見受けられようが、ここでも「不破の姑息な性癖」が馬脚を露呈している。
 その前にまず日共のかっての理論委員長・「赤旗」編集局長・榊利夫を槍玉に挙げる。反日共系の全共闘運動が燃え盛る1968年、榊は、彼らの理論に対抗せんとして現代トロツキズム批判(新日本出版社)を出版している。日共は、同書を鳴り物入りで喧伝し続け、何度も版を重ねている。そういう重要文献となっている。
 藤井氏は、同書第1章の「トロツキーとその理論」の中の「『永続革命論』の哲学的基礎」という一節を取り上げ、概要次のように批判している。

 榊は、「トロツキーは、初期の論文『結果と展望』(一九〇六年出版)において、つぎのようにのべていた」として、次の一節を紹介している。
 「プロレタリアートは、資本主義の成長とともに成長し、力を増大する。この観点からすれば、資本主義の発展は、執権をめざすブロレタリアートの発展といえる。しかしながら、政治権力が労働者階扱の手に移るべき日時は、生産によって達せられた水準に直接に依存するのでなくて階級闘争の諸関係によって、国際情勢にょって、終局的には、伝統、イニシャティブ、闘争準備などの主体的要素によって決定されるのである」。(下線部分はもとは傍点)

 榊は、この一節を根拠にして次のような判定をくだしている。「50−51P」で、「右のわかり切ったことを根拠にして、だから発達した資本主義国においてはプロレタリア社会主義革命の『社会的条件は成熟』していると結論づけ、さらに『終局的』な問題はひとえに『主体的要索によって決定される』と断じていくのは、まことにひどい主観主義的な飛躍である」。その上で、「55P」で、「トロツキーにおける『主体的要素』の『終局的決定』要因論として定式化」し、批判の俎上に乗せている。

 藤井氏は、榊の上記の引用先が不明記なことを訝る。その上で、トロツキーの「結果と展望」の一節が正しく紹介されているか、もしかして歪められてはいないか吟味する必要を感じ、次のように検証している。

 榊は何故、引用先の出所を明示しなかったのか。物書きの作法に反する。日共が何度も重刷した重要文書であることを考えると軽率では済まされない。吟味の結果、藤井氏は、まことにケシカラン結果を判明させた。

 榊の引用文は、「トロツキーのロシア語原文からの直接の翻訳」のように見せかけて、その実違う。1966年に初版されていた対馬忠行・榊原彰治訳の「結果と展望」(現代思潮社)の訳文とも、姫岡玲治訳「トロツキー選集5」の訳文とも違う。ならばどこから引用したのかということになる。

 藤井氏は、姫岡玲治訳の「永続革命論」に酷似していることを確認する。「永続革命論」姫岡玲治訳には、「トロツキー選集5」に収録されているものと、のちに「トロツキー文庫」に収録されたものと2種類あり、両者では訳文が大幅に異なっている。榊氏の引用文が酷似している訳文は、後者の「トロツキー文庫姫岡訳」のほうである、と云う。

 そこで、「トロツキー文庫姫岡訳の当該部分との比較を試みている。それによると次のように訳文されている。
 プロレタリアートは、資本主義の成長とともに成長し、力を増大する。この観点からすれば、資本主義の発展は、独裁をめざすプロレタリアートの発展といえる。しかしながら、政治権力が労働階級の手に渡るべき日時は生産力により達せられた水準に直接に依存するのでなくて階級闘争の諸関係によって、国際情勢によって、終局的には、伝統イニシァチーヴ闘争準備などの多くの主体的(訳注)要素によって決定されるのである」(訳注の部分は割愛ーー引用者)。(私自身は、現代思潮社が1981年に「決定版第2刷」として再刊したものから引用している;157ページ」)

 判明することは、「朱色部分は榊氏の引用と100%同じ文言。あとの部分は榊氏が他の同義語に加工したと見られる語句」ということになる。これだけ訳語の文調が一致すれば、同書からの引用と見ざるをえない。違いは、「独裁」が「執権」、「労働階級」が「労働者階級」、「渡る」が「移る」、「生産力により」が「生産によって」、「多くの」という語の削除の箇所だけである。榊は、姫岡訳を「改竄的引用」していることが歴然である。

  出典元不明記がうっかりミスなら許されようが、榊の場合、姫岡訳からの引用であることを意図的に隠し、その上で「改竄的引用」している気配が濃厚ということになる。榊は、「トロツキーは、初期の論文『結果と展望』(1906年出版)において、つぎのようにのべていた」と云いつつ、トロツキーの「結果と展望」原文を翻訳引用しているのでなく、俗に「まごびき」で「トロツキー文庫姫岡訳」からの「改竄的引用」をおこなっていることになる。

 しかしこれはケッタイナことになる。榊は、日共の理論委員長としての職責において「現代トロツキズム批判」を書き上げた。その際に、トロツキーの言説を引用するに当たって、原文からの訳出を装って実はまさに批判しようとしている現代トロツキズム派の、この場合第一次ブントのイデオローグ姫岡氏の訳文を孫引きし、それを更に改悪改竄して批判にうつつを抜かしている。相手の土俵に乗ってそうするのならまだしも、姑息にも姫岡訳からの「まごびき」であることを隠している。この痴態を何と評すべきだろうか。

 事はこれだけでは済まない。以上は形式的なものであるが、藤井氏は、内容的にも重過失が見られると云う。
藤井氏は、ロシア語原文と自身の手による訳文を提示している。


【「ロシア語版の原著『永続革命論』」
(В той же статье (1905-6 г. г.) говорится:)】
 "Пролетариат растет и крепнет вместе с ростом капитализма. В этом смысле развитие капитализма есть развитие пролетариата к диктатуре. Но день и час, когда власть перейдет в руки рабочего класса, зависит непосредственно не от уровня производительных сил, а от отношений классовой борьбы, от международной ситуации, конец, от ряда субъективных моментов: традиции, инициативы, боевой готовности...
【藤井訳】
 「プロレタリアートは、資本主義の成長とともに成長し、強まる。その意味で資本主義の発展は、独裁に向かってのプロレタリアートの発展である。しかし、権力が労働者階級の手に移行する日と時間は、直接的には 生産力の水準ではなく、階級闘争の諸関係、国際情勢、さらには、伝統、イニシアチヴ、闘争覚悟など一連の主体的要因によって左右される……」

 その上で、姫岡訳、榊訳に対し次のように疑問を提起している。
 原文では単に「権力」とのみあるのに、姫岡訳、榊訳では「政治権力」と書き換えられている。
 原文では「移行する」と書かれておりそう訳せば良いところわざわざ、姫岡訳では「渡る」、榊訳では「移る」と訳している。
 原文では「生産力の水準」と書かれておりそう訳せば良いところわざわざ、姫岡訳では「生産力により達せられた水準」、榊訳では「生産によって達せられた水準」とややこしく訳している。
 原文では「さらには」とか「最後に」という意味で書かれているところ、姫岡訳、榊訳とも「終局的には」と訳している。藤井氏は、この訳が曲者であると云う。これについて後で検討している。
 原文では左右される」(訳語は「依存する」でも「かかっている」でも「決定される」でもいい)という一語句であるのに、姫岡訳、榊訳とも「……水準に直接に依存するのでなくて……によって決定される」と、「依存する」と「決定される」という二つの異なる動詞が使われている。藤井氏は、一種の誤訳である、と云う。
 原文では「ряда(「多くの」)」という語句があるが、藤井は「一連の」と訳し、姫岡訳は「多くの」と訳しているが、榊訳では削除している。藤井氏は、榊訳の脱落ぶりはこれも又「一種の誤訳」である、と云う。

 藤井訳からはっきりすることは、榊氏の引用文はロシア語原文からの訳出ではなく、「トロツキー文庫姫岡訳」の孫引きであり、しかもそれを部分的二改悪訳している。その改訳ぶりを見れば、「改竄方向がオール改悪」であり、榊のロシア語学力の乏しさをさらけだしている。「独裁」を勝手に「執権」と手直しする意図も姑息である、ということになる。

 藤井氏は、榊の論旨の致命的なミスを指摘している。榊が、「トロツキーが『主体的要素』の『終局的決定』要因論として定式化し云々」として批判している箇所の「終局的」訳は「そして最後に」と訳すべきところであり、それを「終局的」にと訳すことは「重大な誤訳」であると云う。ということは、れんだいこが整理すれば、榊は、この誤訳の上に立って「現代トロツキズム批判」を展開しているという滑稽な図になる。藤井氏はこのことを指摘していることになる。

 1980年版の対馬忠行・榊原彰治訳の『結果と展望』」の「61P」では次のように記されている。「……権力が労働者階級の手に移行する日時は、生産力の到達している水準に直接に依存しているのではなく、階級闘争における諸関係や国際的状況、若干の主体的な要因、つまり伝統や労働者の闘争に対するイニシアチーブ及び準備等にかかつている」。

 藤井氏は、「問題の部分の訳出では、こちらの訳文はロシア語原文に照らしても、ほぼ正確である」と云う。更に、「実は姫岡氏の『永続革命論』の旧訳にも問題の『終局的には』という語句はなかったのであり、なぜ氏が新版の発行にあたってあえてこんなまぎらわしい語句を加えたのか不思議なのである」と云う。

 つまり、榊は、姫岡氏が不自然にも誤訳した「トロツキー文庫姫岡訳」を下敷きにして、「トロツキーが、『終局的』な問題はひとえに『主体的要素によって決定される』と断じている」という結論を導き出し、これを批判して得意がっているという失態を演じていることになる。

 藤井氏は次のように嘲笑している。「人の褌で相撲をとる」ということわざがあるが、共産党の理論委員長はさしずめそれと知らずに穴のあいた人の褌を失敬して相撲をとり、恥をさらしたというわけである」。概要「図らずも姫岡氏の誤訳が、日共理論委員長の理論レベルを露呈させた」ことになる。
 藤井氏は、「現代トロツキズム批判」の「事実上の社会主義到達不可能論」という一節を取り上げ、「このたぐいの誤訳の悪用はほかにも見られる。これも中野氏がすでに指摘しているところである。それを紹介するとこうである」と述べ、次のように批判している。

 榊は、「
46〜47P」で、「……トロツキーの『永続革命論』は、とどのつまり無限の社会主義革命論であり、事実上の社会主義到達不可能論であった。この点については、トロツキー自身が明白につぎのようにのべている」として、「永続革命論」の「序論」から次のような一節をとりだしている。
 「永続革命論の第二の側面は、社会主義革命をも永続的なものとして特徴づける。無限の長期間にわたって、また不断の内部闘争において、すべての社会主義的諸関係は変革される」。

 しかし、やはり、出所は示されていない。そこで検証すると、「やはりさきにあげた姫岡氏の『永続革命論』訳書(新版)にほとんど同じような一節がある」。姫岡訳はこうである。


 「『永続』論の第二の側面は、社会主義革命をも永続的なものとして特徴づける。無限の長期間にわたって、また不断の内部闘争において、すべての社会的諸関係は変革される」(121P)

 「『永続』論」が「永続革命論」に、「社会的諸関係」が「社会主義的諸関係」に書き換えられただけのほぼ同文であることが判明する。ちなみに、榊訳の「社会的諸関係」の「社会主義的諸関係」への「改竄」がこれ又「悪訳」となっている。ここでもロクな改訳をしていないことになる。

 藤井氏は、ここでも「重大な誤訳」を指摘している。トロツキーの「永続革命論」を定式化させる核心的部分となる姫岡訳、榊訳の「無限の長期間」という引用語句が何とまたしても誤訳なのである、と云う。

 これを、トロツキーの「永続革命論」の原書(ベルリン/グラニート版のロシア語原著)で確認している。次の一節が該当する。
 Второй аспект "перманентной" теории характеризует уже социалистическую революцию, как таковую. В течение неопределенно долгого времени и в постоянной внутренней борьбе перестраиваются все социальные отношения. Общество непрерывно линяет. Один этап преобразования непосредственно вытекает из другого. Процесс этот сохраняет по необходимости политический характер, т. е. развертывается через столкновения разных групп перестраивающегося общества. Взрывы гражданской войны и внешних войн чередуются с периодами "мирных" реформ. Революции хозяйства, техники, знания, семьи, быта, нравов, развертываются в сложном взаимодействии друг с другом, не давая обществу достигнуть равновесия. В этом перманентный характер социалистической революции, как таковой.

 藤井氏は次のように云う。ロシア語原文の「В течение неопределенно долгого времени」という部分は、中野氏が正当にも指摘しているように、「その期間を確定できないある長い時間にわたって」、つまり「いつまでと長さを明確にしえない期間」という意味なのである。これを、姫岡訳、榊訳のように「無限の長期間」と訳したとするなら、それはロシア語学力の欠如を示すことになるであろう。滑稽なことに、「又しても姫岡訳の誤訳が榊の『理論活動』に寄与」していることになる。

 以上、日共の理論委員長榊の理論レベルというか人物のお粗末さをも浮き彫りにしている。

【日共指導部の理論レベルのエエ加減さを暴くその2、「不破」編】
 榊のお粗末さは見てきた通りであるが、日共最高部・不破哲三のそれがまたヒドイことを例証している。不破スターリンと大国主義」新日本出版社、1982年)をサンプルにしている。藤井氏は、「不破哲三氏の<方法>への疑問」(「労働運動研究誌寄稿文」、1988年)で逸早く指摘している。

 「@、問題点の第一」。

 不破は、同書で、1968年刊行のロイ・メドヴェージェフ著「スターリン主義の起源と帰結」の観点に依拠してスターリンの民族理論にたいする批判を為している。「出所を示していることは評価していい」。しかし、疑問が発生する。不破は、ロイ・メドヴェージェフ著「スターリン主義の起源と帰結」をいったいどこから入手したのでか。不破は、同書の版元、引用ぺージを記していない。従って、邦訳書なのか、ロシア語の原書なのか、それとも他の外国語訳かが分からない。

 藤井氏は云う。「私の知るかぎり、メドヴェージェフの先の書物に相当する邦訳書は『共産主義とは何か』しかない。訳者は石堂清倫氏、出版社は三一書房」。しかし、石堂訳の刊行年は、上巻が1973年、下巻が19744年である。しかし、不破は、1968年刊行のロイ・メドヴェージェフ著「スターリン主義の起源と帰結」に依拠していると述べている。ならば、不破は、ロシア語版に依拠したのか、ということになる。

 しかし、著者メドヴェージェフのcがついている原典は、表題が К суду истории(『歴史の法廷へ』)となっている (ただし副題は Генезис и  Последствия Сталинизма「スターリン主義の起源と帰結」)。c
は1971年、はじめはカナダで刊行され、ついで1974年に改訂版がニューヨークで出ている。つまり、これまた表題も刊行年もちがう。
 
 これにつき、藤井氏は次のように謎解きしている。「不破氏は、石堂氏の先の邦訳に依拠しているのである。だが、石堂氏の訳書に依拠したという事実を隠すために、副題を書名にすることで、出典を捏造したのである。カムフラージュである」。ということは、「1968年刊行の」とあるのは、出典捏造である。「まことに不可解な出典操作である」。その面での謎解きは末尾で、とある。
 「A、問題点の第二」。

 不破は、「82〜83P」で、スターリンによる粛清に関連して、スターリンの1937.3月のソ連共産党中央委員会総会での演説で為された
「悪名高い階級闘争激化論」を長々と引用し批判を加えている。「しかし、問題のスターリンの演説は、大月書店版の『スターリン全集』には収録されていない。その底本であるロシア語版にも。不破氏はいったいどこから引用したのか」。

 藤井氏は、不破の引用文が
ある既存の邦訳にすこぶる酷似している、と云う。その邦訳とは、1962年のスターリン主義とアルバニア問題」(合同出版社)に収録されている「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」という「資料」のことである。「資料」の文章と不破の文章とを比べて見れば歴然とするように、両者の類似度はかなり高い。以下参照する。
■ 不破引用文(<……>内の部分)
 「階級闘争激化のテーゼ」

 スターリンは、一九三七年三月の中央委員会総会で、キーロフ事件以後の教訓をつぎのように定式化した。

 <「
わが国の階級闘争が、われわれが前進してゆくにつれてますます消滅にむかい、階級敵はわれわれが成功をおさめるとともにますますおとなしくなるという腐った理論を打ちくだき、投げすてることが必要である」「それは腐った理論であるだけでなく、危険な理論であるなぜならこの理論はわれわれの仲間を眠りこませ、おとし穴に落ちこませ、他方ではソビエト権力反対の闘争に力を結集する可能性を階級敵にあたえるからである」「反対に、われわれが前進すればするほど、われわれが成功をかちとればとるほど、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり、彼らはますますはげしい闘争形態にうつりソビエト国家にたいしてますます低劣な行動をとり、命運つきた者の最後の手段として死物狂いの闘争手段ますますかじりつくであろう」>

 三十年後に、毛沢東が、中国における「文化大革命」の"指導"理論にしたのも、スターリンのこの理論の一変種だった。」(82-83ページ画像)

 
藤井氏は次のように指摘している。
 (引用始め)不破の引用文の実に90%近くが「資料」のそれとまったく同じ文言
(朱色部分)である。あとの10%も、語句が変わっていたり、漢字が仮名になったりといったたぐいの違いで、同義の別の語句に変わっているだけのもの (たとえば、「というのは」が「なぜなら」に、「ソヴェト」が「ソビエト」に、「下劣な行為」が「低劣な行動」に、といったたぐいの言いかえ)である。はたして、不破はロシア語原文から訳しているのか? 訳業の偶然の一致なのか?

 しかし訳文が90%近くもまったく同じで、あとの10%もかなり酷似しているというような翻訳が偶然にできるということはまず考えられない。たとえば、原文が「わが国の階級闘争」というような語句なら、だれが訳しても100%同じになるであろう。訳語のほかの選択肢はほとんどないからだ。しかし、そのほかの語句では偶然に訳語が完全に一致するなど考えにくい。まして誤訳まで偶然に一致するなど。(引用終わり)

 れんだいこは思う。 榊と云い不破と云い、かなり悪質な引用元不明記をする要領が似ている。引用文を実にくだらない方向に改悪訳する癖も似ている。これを故意にやっている。何がそうさせるのだろう。(ちなみに、れんだいこが引用元不明記でお叱り受ける場合があるが、それは失念の場合であって、故意にしたことはない)
  
 藤井氏は、「資料」、それに依拠したと思われる不破引用文には訳し方にいくつか問題がある、と云う。「私が所蔵するスターリン著作集の当該ロシア語原文とつきあわせてみる」としてつぎの文章を引用している。

  Необходимо разбить и отбросить прочь гнилую теорию о том, что с каждым нашим продвижением вперед классовая борьба у нас должна ?будто бы все более и более затухать, что ?по мере наших успехов классовый враг становится ?будто бы все более и более? ручным.
   Это ? не только гнилая теория, но и опасная теория, ибо она усыпляет  наших людей, заводит их в  ?капкан , а классовому врагу дает возможность ?оправиться для борьбы с советской властью.
   Наоборот, чем больше будем продвигаться вперед, чем больше будем иметь успехов, тем больше будут озлобляться остатки разбитых эксплоататорских классов, те ?скорее будут они итти на более острые формы борьбы, тем больше они будут ?пакостить советскому государству, тем больше они будут ?хвататься за самые отчаянные средства борьбы, как последние средства обреченных.

 ( И.В.Сталин. Сочинения, Т. 1[]W]、1934-1940. Stanford University,1967 ,
pp.213-214)

 朱色の部分に関して不破引用文での訳語に注目する。
 будто бы は「想定」であることを示す語句。それはどちらの邦文でも生かされていない。「……という」という普通の接続詞でごまかされている。本来なら「……とかいうような」のように想定であることを示す訳語にする工夫が必要なところ。
 по мере 不破引用文では「……とともに」だが、正確には「……に応じて」。両者は決して同義語ではない。
 ручным どちらも「おとなしくなる」だが、もともとは「飼い慣らされる」なので、訳語が一致する必然性はない。
 капкан 「罠」の意。「陥穽」を「おとし穴」などとせずとも、「罠」ですむはず。
 оправиться 「(痛手などから)……立ち直る」という意味。「勢力を集結する」という訳はだいぶ違う。不破引用文のように、それをさらにいじくって「力を結集」などと言いかえるのは、かなり滑稽。
 скорее  「それだけ速く」がどちらにも落ちている。
 пакостить「いやがらせをする」の意。なぜ「低劣な行動」などと「低劣な」言いかえをするか?
 хвататься за самые отчаянные  どちらの訳文でも最上級の形容詞 самые が訳されていない。また хвататься за は「とびつく」の意。「かじりつく」は変。原意がつたわらない。

 藤井氏曰く、「以上の検討からわかるように、不破引用文はロシア語原文から訳出されたとは考えにくい」。
 以上から、藤井氏は概要次のように結論する。れんだいこが意訳する。
 
 不破はなぜ堂々と引用元の実際を明記しないのか。なぜ「改竄的盗訳」にあえてかじりつくのか。それは、不破が引用した文献の訳者が不破にとって好ましくない反党分子だったということであろう。「なんらかの都合でそれを利用せざるをえないというようなとき、既存の邦訳に頼るしかないのだが、反党分子の訳書に頼ることは党の沽券や規律に触れる。そこで、それに頼っていないようにカムフラージュし、自主的な出典操作を装うわけである。いろんな手品を弄して。これが「科学的」社会主義を標榜する公党の最高幹部の理論活動だとは! しかもそれは著作権法に触れる行為ではないのか? 『改竄的盗訳』は、一種の『盗作』である」。

(私論.私見) 「日共党中央不破、榊のサイコパス度考」

 以上見てきたように、藤井氏は淡々と「日共党中央不破、榊のサイコパス度」を検証している。我々が確認すべきは、かような愚劣な人物が、人に道理や人倫を説いて永年党中央の座椅子に温もっているということであろう。信じられない現象が発生していることになる。

 宮顕、野坂の胡散臭さを見てきたれんだいこには何ら不思議でもないのだが、改めて日共党中央の腐敗を確認したことになる。




(私論.私見)