補足(17)―4127 不破理論解析考(十六)「50年分裂総括論」考

 日共史最大の分派闘争であった「50年分裂」に対して、不破が今日如何に総括しているのか。これを以下検証する。「50年分裂」の真相は、れんだいこの「戦後日共党史論」、宮地先輩の「共産党問題、社会主義問題を考える」で次第に明らかになりつつある。これまで日共党員は「50年分裂」に対して如何ほどのことも知らされていない。宮顕―不破系のプロパガンダの為すままに操られてきた。驚くことに、新左翼といえどもこのプロパガンダを疑うことなく鵜呑みにしてきた。れんだいこの眼には、であるが故の左派運動の貧困が敷き詰められたように映る。その意味で、今遅かりしとも「50年分裂」を再総括することが望まれている。

 かく構図を設定して、とりあえず不破がどのように説教しているのか見てみよう。逐次コメント付けながら追ってみようと思う。驚くことに、不破は今もなお、「宮顕式50年問題総括論」の誤りを是正する方向で辛吟するのではなく、むしろ一層詭弁を激しくしながら宮顕観点を更に強化しようとしている。それはもはや老人性痴呆的妄執の虜(とりこ)的痴態でしかない。

 2003.7.17日 れんだいこ拝


 不破(当時、幹部会委員長)は、2000年7月20日、日共創立78周年記念講話日本共産党の歴史と綱領を語る 戦後の党の歴史から―1950年代のソ連・中国の干渉と『軍事方針』」全文へ)で次のように述べている。

 「この問題の本質は、実は、ソ連、中国の干渉の問題でした。ソ連、中国が共同して日本共産党を自分たちの支配下において武装闘争の方針を持ち込もうとした、こういう干渉問題でした。それとのたたかいを通じて、今日の党があり、今日の党綱領がある。ここにこの問題のもっとも重要な点があります」。


 概要「五〇年一月、コミンフォルムによる日共批判が為され、アメリカの占領下で、平和革命を考えるのは間違っている指摘された。しかし、『批判』の本質は、実は別のところ、武装闘争の押しつけにあったのです。これは、ソ連、中国という二つの大国による“襲撃”ともいうべき干渉でした。当時まだソ連の実態はいまのように明らかになっていませんでしたし、中国はアジアで大きな革命を起こして成功したばかりで、両国とも、世界でも日本でも進歩派の信頼をかなり集めていました。そういうなかで、この二つの国の党が連合して、この干渉をやってきたということは、わが党にきわめて深刻な打撃を与えました。そのなかで党が分裂し、多くの党員は、分裂のどの側に属した人も、ことの真相がわからないまま、本当に痛苦の数年を過ごさざるをえなかったというのが実態でした」。

(私論.私見)「武装闘争はソ共、中共の押し付け」論のウソについて

 何でもかんでも外国の党の干渉によるという免責論は子供騙しの論に過ぎない。


 「中国共産党が革命に成功して、新しい中国を建国するのは一九四九年十月です。その三カ月前に、当時はまったく秘密にされていましたが、中国の党の代表である劉少奇がソ連を秘密裏に訪問して、スターリンと革命成功後のことについてかなり突っ込んだ相談をやっています(四九年七月)。その相談の席の一つで、スターリンから提案があり、“今後アジアの植民地・半植民地の運動にかんしては、中国が担当者になって中国の革命運動の経験を大いに広めてもらおうじゃないか”という打ち合わせがやられたということが、あとでわかりました。その年の十一月に北京で世界労連がアジア・大洋州の労働組合の会議を開くのですが、劉少奇がそこへ出ていって、“アジアの植民地・半植民地の運動は、中国と同じように人民解放軍による武装闘争をやらなければならない”という演説(いわゆる「劉少奇テーゼ」)をいきなりやって驚かせるわけですけれども、これも、スターリンとの相談にもとづくものでした。このときの演説では、植民地・半植民地のなかに、アメリカの占領下にあるということで、日本も数えられていたのです」。

(私論.私見)「武装闘争はソ共、中共の押し付け」論のウソについて

 それはそれで貴重な指摘では有るが、では、日共はロボットに過ぎなかったのか。事大主義的な面があったことは否定できまいが、どのように内部的に感応させたのかの面の解析こそ必要なのではないのか。云えば云うほど、天に唾した者はおのれに帰ってくるという構図となっている。
 
 「コミンフォルムの日本共産党『批判』というのは、この線にもとづくものでした。この『批判』の文面には武装闘争の『武』の字も書いていなかったが、実際には、それを目指しての干渉作戦の始まりでした。その作戦の最高の指揮者はスターリンでした」。

(私論.私見)「不破式コミンフォルム論評の勘ぐり」について

 これは、観点が既に反共売文屋のそれでしかない。水準もお粗末極まる。


 「当時、日本共産党の代表者は、徳田球一書記長でした。しかし、外国からのこの『批判』は、代表である書記長に向けられないで、政治局員だった野坂参三に名指しで集中しました(政治局とは、現在の常任幹部会にほぼ相当するもの)。これは当時なぞとされていたのですが、このなぞも四十三年後に、私たちが手に入れたモスクワの秘密文書によって解けました」。

(私論.私見)「コミンフォルム論評の野坂批判」について

 不破は、「コミンフォルム論評の野坂批判」について応答できない。なぜなら、不破理論は野坂理論の引き写しであるから。だから、この下りでは本来「コミンフォルム論評の野坂批判」の吟味をすべきなのに出来ない。


 「そういう『批判』があった三カ月後には徳田球一書記長と野坂参三らは、党の中央委員会や政治局のなかでも自分たちの仲間だけを秘密裏に固めて事実上の分派をつくる。そして、そこから北京に使者を送って特別な連絡体制をつくる、そういうことを始めます。非合法の体制づくりも始めます」。

(私論.私見)「徳球党中央への分派呼ばわり」について

 ここは、不破式詭弁の面目躍如なところである。ある。徳球党中央のその後の路線が仮に誤りだったとしても、それはまさに党中央の誤りであって分派のそれでは無かろう。ならば、この時、反党中央派の四分五裂した各派のどの派が正統足りえるのか、そしてその派の主張がどういうものであったのか、不破は述べねばなるまい。それを為さずに党中央派を分派呼ばわりするなぞ子供騙しが極まれる。


 「その中心になったのは、批判されたはずの野坂参三でした。そして、(一九五〇年)六月にアメリカ占領軍が、日本共産党の幹部全体の公職追放という弾圧をくわえてきたときに、その機会を利用して、党の中央委員会や政治局をいっさい無視して、自分たちだけで非合法体制にうつりました。そして、徳田と野坂は北京に亡命し、そこで『北京機関』という名前の、一種の指導機関を勝手につくります。そこから、ソ連・中国じこみの武装闘争方針を日本に持ち込んだのです」、「この『北京機関』というのは、文字通りソ連の出先機関でした。その後スターリンのもとで、モスクワで『北京機関』代表も加わって会議をやるとか、そこで『軍事方針』という名前の武装闘争方針の文書をつくるとか、そういうことをさんざんやったのです」。

(私論.私見)「北京機関への悪口雑言」について

 「その中心になったのは、批判されたはずの野坂参三でした」と平然と書いているが、六全協後、その野坂を抱え込んで晩年まで党中央を形成してきたのではなかったのか。その責任はどうなるのだ。

 「北京機関」形成過程は、レッドパージ以降の当時において必然の流れでもあった。それをかくも悪し様に罵って平然として居れるとは。不破は決して左翼の者では無かろう。


 「私たちは、党を分裂させたこの人びとをいま、『徳田・野坂分派』と呼んでいます。五〇年以後の時期の『軍事方針』というものは、この分派が党を分裂させ、党の決定にそむいて日本に持ち込んできたものであります。しかもこの方針は、スターリンの指揮のもと、ソ連・中国の干渉者たちがつくりあげて、『北京機関』を通じて持ち込んだものでした。ですから、日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係もありませんでした。日本共産党の正規の機関が武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは一度もないのであります」。

(私論.私見)「当時の軍事方針への悪口雑言」について

 日共党中央の当時の路線及び為した行為についてかように他所事のように批判して居直られる者は、その見識だけで党外の者である。


 「この時期に党の分裂に反対した人びとは、徳田・野坂らの分派的な行動に反対すると同時に、彼らが持ち込んだ武装闘争の方針に対しても真っ向から反対しました。その先頭に立ったのが、政治局員だった宮本顕治さんであります」。

(私論.私見)「宮顕への賛辞」について

 不破の詐術がかなり悪質であることが分かる。突如、この下りで宮顕を賛辞しているが、「50年分裂」時における国際派として立場と見解をどう正当化させるのか。ここまで散々批判しているソ共、中共の指導に服するのが各国共産党及び共産主義者の国際的責務であるなどと述べていたのではないのか。この立場はどうなるのだ。


 「結局、ソ連・中国の後押しにもかかわらず、この路線は完全な失敗に終わりました。ソ連・中国の干渉派も、その代弁者となった野坂らも、ことの収束を図らざるを得なくなりました。それが、一九五五年のいわゆる六全協だったわけであります。この会議は『五〇年問題』の異常な時期からの転換をおこなったものとして注目されましたが、実はその内容は、干渉派のなし崩しの方向転換にすぎず、決議の案文自体もモスクワで用意されたものでした」。

(私論.私見)「不破の六全協見解」について

 「六全協決議案文自体もモスクワで用意されたものでした」は、かなり最近の見解であろうが、六全協をもソ共の一方的お膳立て呼ばわりで乗り切ろうとするとは。馬鹿馬鹿しいほどの詭弁且つ詐術であり、真面目に云っているとしたら狂っているとしか思えない。


 「干渉による党の分裂という異常な事態に決着をつけ、そこから抜け出す本当の転換はその後に起こったのであります。一九五八年の第七回党大会に進む過程で、この時期の本当の問題点が明らかになりました。第一は、徳田・野坂らが日本共産党を分裂させたことの誤りであります。第二は、ソ連・中国などの干渉の誤りとそれに追随したことの誤りであります。第三は、そして、その線で武装闘争路線を日本に持ち込んだことの誤りであります。この三つの点の確認を大前提として、一九五八年には第七回党大会が開かれ、一九六一年には第八回党大会が開かれ、この二つの大会で今日の党の路線を確立したのであります。これが、ごくあらましでありますが、『五〇年問題』の歴史であります」。

(私論.私見)「不破式『50年問題総括論』」について

 漬ける薬が無い。


 「反共派が“火炎びん闘争”などといっていま問題にしているのは、この時期の徳田・野坂分派の行動であります。つまり、ソ連・中国のいいなりになって党を分裂させ、北京に拠点を構えた徳田・野坂分派が党大会の決定にそむいてやったことであります。今日の日本共産党がこの分派の後継ぎであるかのようにいいたてるのは、歴史を無視したまったくのいいがかりにすぎません。反対に、日本共産党の今日の路線は、この干渉を打ち破るたたかいの中で築かれたものであります(拍手)」。

(私論.私見)「不破式『50年問題総括論』」について

 もう批判する気力さえ失せた。漬ける薬が無い。



「不破の50年分裂総括論」

 日本共産党を「暴力革命の党」と中傷するため、1950年代のあれこれの事件をとりあげた攻撃もありました。しかし、日本共産党の正規の機関が「暴力革命」などの方針を決めたことは一度もありません。

 この問題の本質は、ソ連・中国からの干渉にありました。1950年に日本共産党を分裂させた「徳田・野坂分派」を使って、ソ連・中国流の武装闘争方針を持ち込もうとしたのです。それとのたたかいを通 じて、今日の党があり、綱領があるというのが、もっとも重要なことです。 

 日本共産党は、1946年の第五回党大会で「平和的かつ民主主義的方法」で社会の変革をめざすという方針を決めました。これにたいし、1950年、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から、「アメリカ占領下での『平和革命』論は間違っている」と突然の「批判」がありました。この「批判」は、当時の徳田球一書記長ではなく、政治局員だった野坂参三だけを名指しで問題にしたものでした。これは、ソ連の情報機関につながる秘密工作者となっていた野坂に、新方針を伝えるためのメッセージだったとみられます。そのいきさつについては、不破委員長の著作『干渉と内通 の記録』がソ連秘密文書をもとに明らかにしています。徳田、野坂は、党を破壊し、北京に亡命して勝手につくった「北京機関」を党の指導機関と称して、ソ連・中国じこみの方針を日本に持ち込んだのです。


(私論.私見)「不破式『50年問題総括論』」のウソについて

 もう批判する気力さえ失せた。漬ける薬が無い。




(私論.私見)