521 宮本顕治論 第7部−2 査問事件/宮顕の獄中闘争と法廷論理

 (最新見直し2006.5.22日)

投稿 題名
26 宮顕の獄中闘争について
補足 宮顕の獄中闘争の誤解について
補足 宮顕、袴田、秋笹らの公判、判決日程表


【題名/宮顕の留置場廻りの経緯】
 宮顕の獄中移動の様子と獄中の様子、調書・裁判経過についていずれも明確にされていない。事実関係を明らかにすれば良いだけなのに不自然なことである。徳球、志賀、田中清玄らが自ら「獄中記」で明らかにしているのに比して不自然なことである。まず獄中移動から見てみることにする。宮顕著「公判記録」の「解題と若干の説明」(319P)をベースに参照する。各書記述が一定せず、私が精査した限り次のようになるようである。

 
まず、33年(昭和8年)12.26日に検挙された。検挙された後、1・麹町署にて約一ヶ月間留置された。次に2・警視庁にまわされた。

(私論.私見)

 この警視庁に廻されていたとはどういうことなんだろう、誰も問題にしていないようであるが、私は非常に疑惑している。警視庁送りは事実であったと思われるが、拷問の目にあわされていたとの記録もない。党中央簒奪完了後の事後対策を「当局奥の院」で鶴首会議で練っていた、とさえ考えることができるのではなかろうか。

 その後しょう紅熱にかかって、3・市ヶ谷刑務所の病監に入れられ、34年(昭和9年)12月までの約一年間、4・品川警察署、5・警視庁、6・府中警察署の各留置場をたらい回しにされた。

 宮顕は、品川署獄中時代の「革命的抵抗の様子」を次のように自弁している。

 「品川署にいたとき、洗濯物を干しに留置場のわきに出たときに、壁を飛び越えようとして、後ろから看守に抱きつかれて失敗した。そこで府中では、『こいつは足癖が悪い』というので足錠をかけたまま独房に二ヶ月置かれた。私は、錠のまま房内で体操をやった。何の読み物も無く、入浴も無い原始的な拘禁生活の一年が立った」。
 
 つまり、逃亡行為を敢行したこと、それが失敗したこと、以降足錠をかけたまま独房に二ヶ月置かれたと記している。宮顕論法に懐柔される者は、この下りで宮顕の「革命的抵抗の様子」を窺うのだろうが、れんだいこは逆に観る。これは、拷問が無かったことの言い訳としてかような子供騙しの「革命的抵抗の様子」を脚色しているに過ぎないと。

 府中警察署から7・市ヶ谷刑務所へ移動したようで、「この検挙から約一年後の12.1日、市ヶ谷刑務所未決監へ移された。接見、通信禁止の措置がとられた。同日から予審が始まった」とある。

 市ヶ谷刑務所入りについては、次の裏づけがある。

 「昭和9年の12月初めに、夕刊で顕治が市ヶ谷刑務所に送られたことを知った時は嬉しかった。いそいそと綿入れを縫って面会に行った。それからは一週間に一回ずつ面会差し入れに行って、まずは(百合子の)憂悶の心も落ち着いた」(平林たい子「宮本百合子」233P)とある。

 百合子は、この年の12月、宮顕の面倒を見る必要から宮本家に入籍したようである。この「獄中結婚」 は商業新聞にも取り上げられ話題を呼んだ。この語りによると、割合早い時期から百合子の面会がなされていたことになるが、流布されている「それから5年間、原則的に接見、通信禁止の状態に置かれたまま、予審でさらに黙秘の戦いを進めた」説と整合しない。百合子との往復書簡から推測すると、「面会が許されるようになったのは34(昭和9)年末」の方が正確なように思われる。従って、現行党史の「5年間接見不許可」記述は、「非転向タフガイ神話」の異常な脚色部分とみなせる。

 宮顕は、この間の「革命的不転向の様子」を次のように自弁している。

 「調書を一切つくらせず、検事局での人定尋問にも黙秘だった。当時、黙秘権というものは法律で保障されていなかったが、拷問に抗し、警察、予審では一切白紙で通すというのが、私の覚悟だった。私は25才だった」(「私の五十年史」)。
(私論.私見)

 こうして本人の弁により、世にも稀な「拷問に屈せず、完全黙秘でとおし」神話が出来上がっている。繰り返すが、宮顕論法に懐柔される者は、この下りで宮顕の「革命的不転向の様子」を窺うのだろうが、れんだいこは逆に観る。これは、当時の情勢において「調書を一切つくらせず、検事局での人定尋問にも黙秘」し続けられたということ自体が胡散臭いのではないかと。誰しもそう願ったが特高の容赦ないテロルの前に屈せざるを得なかった。何故なら調書に応ずるまで拷問し続けられたのだから。「拷問」の無かった宮顕の「調書を一切つくらせず、検事局での人定尋問にも黙秘」行為を評価するには及ばない、むしろ疑惑すべきであると。

【題名/宮顕の病状と予審調書拒否の様子】
 この間34年(昭和9年)9.10日付けで警視庁特高課の中川成夫警部は、同課長の毛利基警視あてに、「聴取書作成不能」の報告書を出している。34年(昭和9年)9.25日、警視庁は事件を検事局に送り、黙秘のまま、11.30日、「治安維持法違反、殺人、同未遂、死体遺棄、不法監禁、銃砲火薬類取締施行規則違反」の罪名で起訴されている。

 予審尋問は、「34.12.1日、36.5.1日、37.8.30日、38.3.18日、38.7.14日の5回だけだった」とある。宮顕は、予審の聴取に対しても、「暗黒の審理を拒否し、予審判事の尋問に一切答えず、調書への署名捺印を拒否した」とのことである。こうして警察聴取も予審尋問も拒否したまま潜り抜けおおせたようである。

 市ヶ谷刑務所在監当時、「発熱が大分続いて、やっとレントゲンで肺にカゲがあるということで病監に移された」とある。おかしなことだが、病監がどのようなところやら、そのときの様子、病状の診断書について本人も触れもせず詮索されてもいない。宮顕は、この後37年6.11日に市ヶ谷から8・巣鴨拘置所に移され、ここで未決囚として「11年6ヶ月」(正確には10年6ヶ月になると思われる)を過ごすことになった。「同年7月、予審が終わると共に接見、通信禁止措置が解除された」とある。これは不正確で、宮顕の場合、「接見、通信禁止措置が解除された」というレベルではなく、市ヶ谷刑務所入獄の時点以来かなり自由が利いていた、と見なすべきであろう。

 
宮顕は逮捕された直後猩紅熱、その後脚気、36年(昭和11年)には肺病を発病、長い病舎入りがあったとも、37年(昭和12年)夏には腸結核にかかり危篤に陥ったものの奇跡的に生還したとも言われている。「私も時間の問題と見られていたことは周囲の反応で分かった。看守が覗き窓から覗いて、『まだ生きている』とつぶやいたのも聞いた」(「私の五十年史」)とある。看守が本当につぶやいたのか、そのつぶやきが聞こえるとはえらい地獄耳らしい。

 鈴木卓郎氏の「共産党取材30年」文中に、「百合子追想」の中で宮顕が次のように語っているとして獄中闘争時の一コマが記されている。
 概要「宮本は獄中でチフス、腸結核、しょう紅熱といった大病でいくたびか死線をさまよったが、もう死が近いという時期を感じ取った予審判事が困った挙句に『調書だけでも病院で取らせれば、獄外で人並みの死≠ェできるかも知れない』と示唆したことがある。これに対して、やせ衰えきった宮本は『官憲に屈服して人並みの死≠選ぶよりは、弾圧に妥協せず錠のかかった病監でたった一人で臨終を迎えた方が、ましである』と官憲の誘いに屈せず、死が目前に迫りながらも転向を拒否したと『百合子追想』の中で語っている。また宮本は『私は監獄へ入った時から一番考えたのは、死ななきゃならん時にはジタバタしないで死のうということです。だから昔の人、特に殺された人の伝記を読みましたね。吉田松陰とか大石内蔵助とか読みましたよ』とも、死を見つめた獄中を追想している」。

 鈴木氏は宮顕のこの饒舌を全文受け入れているが、れんだいこは到底認めない。これを論ずれば長くなるので控えるが、「調書と引き換えに獄外での死」などという取引の申し出が為されること事態変調であるし(他の戦闘的幹部には有り得なかった取引だろう)、死を迎えるのにわざわざ吉田松陰とか大石内蔵助を読むという心理こそ臭過ぎる、ということを指摘しておけば足りるだろう。

 この間、宮顕は獄中党活動をしていた稀有な人士であることが判明している。別サイト「杉本.岡田の樺太越境事変への無責任教唆の闇検証」で考察しているが、杉本良吉は、1937.12月の越境直前に獄中の宮顕に面会に行ったと述べている(「心に残る人びと」)。岡田嘉子の回想によると、宮顕は、戦後モスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート(指令書)に代る紙片でも渡せたら」と述べた(「心に残る人びと」)とあるので、宮顕自身がこれを認めていることになる。

 この史実は重大なことを示唆している。「獄中非転向、警察聴取も予審尋問も拒否、聴取書作成不能」の宮顕が、獄中から「杉本.岡田の樺太越境事変」を指示し得ていたということになる。いわば、宮顕は、変態的党活動をしていたことになる。こうなると、宮顕の武勇伝のエピソードとして窺うべきだろうか。否、この史実は、宮顕の獄中活動の実態が再精査されねばならないことを発信しているのではなかろうか。

 それはともかく、38年(昭和13年)10.10日、予審終結決定。他の被告も同じ日に予審終結決定が為されている。宮顕の場合、何の陳述も得られないまま予審終結決定書が出され、公判に移ることとなった、とされている。訊問調書につきこれを一切取らせなかったのか、「口を割らず、空白が多かった」のかさえはっきりしない。

 母親の面会時期についても記述が一定しない。「39年(昭和14年)5月、母上京し、巣鴨拘置所に宮本を訪ねた」と言われているが、もっと早く百合子の最初の面会時に母を連れ立って行った様子も明らかにされている。宮顕に限りどうしてこんなにチグハグするだろう。

 党史(「日本共産党の65年」74P)では次のように記述されている。

 「その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせ無いという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。その頃、面会に来た母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問で腫れ上がって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」。

 この記述からすれば、もっと早くの宮顕検挙直後の麹町署での面会が為されていたことになる。それならそれで史実を明らかにすることに何の躊躇がいるのだろう、不自然極まりないと思う。

 それはともかく、38年(昭和13年)10.10日、予審終結決定。他の被告も同じ日に予審終結決定が為されている。宮顕の場合、何の陳述も得られないまま予審終結決定書が出され、公判に移ることとなった、とされている。訊問調書につきこれを一切取らせなかったのか、「口を割らず、空白が多かった」のかさえはっきりしない。

 母親の面会時期についても記述が一定しない。「39年(昭和14年)5月、母上京し、巣鴨拘置所に宮本を訪ねた」と言われているが、もっと早く百合子の最初の面会時に母を連れ立って行った様子も明らかにされている。宮顕に限りどうしてこんなにチグハグするだろう。

 党史(「日本共産党の65年」74P)では次のように記述されている。

 「その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせ無いという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。その頃、面会に来た母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問で腫れ上がって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」。

 この記述からすれば、もっと早くの宮顕検挙直後の麹町署での面会が為されていたことになる。それならそれで史実を明らかにすることに何の躊躇がいるのだろう、不自然極まりないと思う。


【題名/宮顕の奇怪な獄中下党活動の様子】
 この間、宮顕は獄中党活動をしていた稀有な人士であることが判明している。別サイト「杉本.岡田の樺太越境事変への無責任教唆の闇検証」で考察しているが、杉本良吉は、1937.12月の越境直前に獄中の宮顕に面会に行ったと述べている(「心に残る人びと」)。岡田嘉子の回想によると、宮顕は、戦後モスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート(指令書)に代る紙片でも渡せたら」と述べた(「心に残る人びと」)とあるので、宮顕自身がこれを認めていることになる。

(私論.私見)

 
この史実は重大なことを示唆している。「獄中非転向、警察聴取も予審尋問も拒否、聴取書作成不能」の宮顕が、獄中から「杉本.岡田の樺太越境事変」を指示し得ていたということになる。いわば、宮顕は、変態的党活動をしていたことになる。こうなると、宮顕の武勇伝のエピソードとして窺うべきだろうか。否、この史実は、宮顕の獄中活動の実態が再精査されねばならないことを発信しているのではなかろうか。

【題名/宮顕の獄中下往復書簡集「12年の手紙」について】
 この間の獄中の様子として、宮顕自身の手になるものとして宮顕と中条百合子の間で交わされた往復書簡集「12年の手紙.上下2巻」が出版されており、宮顕が検挙されてほぼ1年を経過した時点の34年(昭和9年)の末から、 敗戦により宮顕が出獄するまでのおおよその様子が伝えられている。この書簡集で気づいたことをまず書かしていただく。

 二人はナップで知り合い、二人と も他のプロレタリア文学及び文芸評論で、諸作家のプチブル性またはプロレタ リア的視点の半端性等々に対して公式論的立場から厳しい批評をなしたという共通項が見いだされる。この性癖の共通性が宮顕と百合子の絆であった。そのような二人の往復書簡であるから戦闘的左翼の見本になるような通信がなされているものと期待されるが、実際には、そのような二人の書簡集にしては奇異なほどに封建的ないしブルジョアなとも言える精神を横溢させて通信しあってる様がうかがえることはどうしたことだろう。

 獄中党員は、転向者も非転向者もそれぞれに獄中にあってもコミンテルンの発する新テーゼ、党及び党員の現況と動き、社会情勢の推移について並々ならぬ関心を寄せて探り合っていたのが通例である。例えば、1944年(昭和19年)の頃の巣鴨の東京拘置所のことのようであるが、「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282P)によると、伊藤律とゾルゲ事件の当事者尾崎秀実は、概要「定時の屋外運動の僅かな隙を窺って、伊藤と尾崎は小声で話する機会が二度会ったが)私はできるだけ外の情勢、ことに誰が捕まり、だれが無事だとか、家族のことも伝えた。尾崎はあまり話さなかった」という会話をなしていたことを伝えている。袴田の「獄中日記1945年」にも、囚人と云えど、独房.雑居房に関わらず運動、作業、入浴等が規則化されていたことが明かされている。こうした折のわずかな隙を狙って市川.春日(庄)らとの情報交換が為されていたことが伝えられている。

 が、宮顕にはこの種の逸話が皆無であることも解せない。百合子との間のやり取りにもかような部分が皆無であることに気づかされる。検閲がそうさせたというのであろうが、文芸作家ともなればいかようにも工夫はなしえたのでなかろうか、と思うけど。二人が語り合うのは、専ら宮顕の歴史法則的世界観における確固不動の信念の披瀝と相互の古今東西の文芸論の知識のひけらかしばかりである。残りの部分は、 それぞれの家族の現況と専ら宮顕からする山口の実家に対して百合子が嫁としての孝行を尽くすようにという下りである。

 
なお、この往復書簡集につき、それ以前の問題としてこのような書簡やり取りが他の政治犯に許容されていたかどうかの疑問もある。袴田「獄中日記1945年.232Pほか」によると、市川.袴田らの「ノートを使わせない、ペンを持たせない」ことに対する獄中闘争の様子が明かされている。あるいはそういう人権無視が常態ではなかったか、にも関わらず宮顕夫婦合作の書簡集とは一体どういう規制の下で往復を為しえたのであろうか、という疑問を禁じ得ない。

 これについて、除名後の袴田は、「昨日の友宮本顕治へ」の中で次のように云っている。
 「私も獄中生活中、百合子から四季の草花を3回、寺田寅彦の本と法医学の書物を差し入れてもらっているので、その好意については多とする。しかし私の場合、妻はもとより、友人知人も二度差し入れにくると、必ず警察に引っ張られた。私の体験からすれば、百合子がどうやって宮本にあれほどの差し入れをすることができたのか、その謎はいまもって解けない」。

 もう一つ気になることがある。 「査問事件」の真相をめぐって二人の間には箝口令が敷かれていたのかと思うほど触れられていない。二人とも時事社会問題に関心の強い文芸作家である。当然の事ながら宮顕が関与した事件の真相をお互いに伝え合うことに何のためらいがいるであろうか。なぜ百合子は尋ねていないのだろう。百合子は法廷にも出ているわけだから確かめることは多々あったと思われるのに。これも検閲のなせる制限であったというのだろうか。

 宮顕と百合子が唯一衝突した場面が記されている。宮顕は、百合子38才記念の贈り物として、第一の贈り物は堅固な耐久力ある万年筆、第二の贈り物はマルクス・エンゲルス二巻全集、獄中の身でこれらをどうやって送り得たのかは判らない!が贈呈している。この時併せて中条の名前で小説を発表するのを止め、今後は宮本姓にしてはどうかと最大のプレゼントをしたようである。

 宮顕の大変な自信家というかいやはや何とも言えないものがあるが、この時初めて百合子は抵抗を見せている。百合子は「中条百合子」に愛着を示したのである。「名のこと、私は昨夜もいろいろ考えたけど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか?---そのことでは率直に言って大変悔しかった。そして何だか腹立たしかった。私の生活の土台!」、 「あなたはご自分の姓名を愛し、誇りを持っていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ言えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自確固としていてこそはじめて比類無き妻であり得ると信じます」と反発したのである。

 結局、宮顕は、百合子の反対の前にこの提案を取り下げた。が、8ヶ月後に百合子は自分から宮本姓を名乗ることを公にした。既述したように戸籍上だけの姓の変更はすでになしていたが、この度ペンネームもまた中条から宮本へと改めることにしたということである。百合子の無期囚の夫に対する思いやりであった。10.17日、始めて宮本百合子名で作品発表する。

 以降彼女の身辺も忙しく、検挙・拘留を繰り返す。最終的に保護観察処分に附されるが、担当主事は特高課長毛利基であったようである。偶然かも知れぬが、こうして宮顕も百合子も毛利氏の掌中に入れられることになった。ここでも不思議なことが明らかにされている。前掲の平林たい子「宮本百合子236P」によれば、宮顕は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮顕は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。


 
なお、百合子に関しての疑惑もここに書いておくことにする。女流作家平林たい子も検挙されたあと病床にあったが、その病床を見舞った知人が、百合子が満州国大使館の招待した婦人作家の集まりに出席していたことを知らせている。「私には信じられなかった。が、その人は自分の目で見たことを力説した」とある(平林たいこ「宮本百合子」238P)。これが事実とすると、百合子も転向していたことになる。確かに、著作「風知草」には、文学報告会の作品集に小説を出そうとしたことについて、ひろ子(百合子)と重吉(顕治)との会話が綴られている。「いわゆる『時局に目覚めた』転向はごく彼女の身辺近くまで及んでいたのである」と平林は控えめに書いている。

 この間百合子は可能な限り面会に出向きまたは手紙を書き上げており、宮顕の健康を案じて言われるまでもなく差し入れ弁当を業者手配で届けており、冬着・夏着・布団と時期に応じて届けている様もうかがえる。言われるままに幾百冊の本と薬と栄養剤を届けてもいる。家計の心配をほとんどすることなく、 百合子に注文することができたということであったように思われる。

 宮顕の読書量については、自身が次のように述べている。「(刑務所生活では、)基礎的勉強に眼目を置き、自分で読書部門を六部門(一)現代についての具体的知識、(二)社会経済史、(三)マルクス主義の三つの源泉と云われる近代部門、(四)文学.芸術、(五)語学、(六)軍事科学等に分けて始めたコースで、初年度は約170冊読んだ」(「私の読書遍歴」)。その具体的著作は「十二年の手紙(1934.12.13日、市ヶ谷刑務所)」に記されている。

 この宮顕の読書の認可について疑問がある。他の共産党員被告の場合、「囚人に許される読書は、その種類も冊数も、極めて限られたものであった。その頃の規定では、一ヶ月に雑居房では3冊、独居房では4冊しか読むことが出来なかったし、内容も、政治経済や時事問題にわたるものは禁じられていた。結局、許されるものは、古典や宗教書や、独にも薬にもならない修養書や、自然科学書などに過ぎなかった」(杉森久英「徳田球一」)のが通り相場なのではなかったか。こう云う面から宮顕についてはおかしなところがあり過ぎる。


 実家の面倒を見ろ云々も半端なものではない。病める体を無理して顕治の要求するままに顕治の実家へ何度も出向かせ、親孝行させるのみならず親戚中にも金払いを良くさせてもいる。こうした百合子が宮顕の実家で見せる心配りは封建的賢婦の鏡を彷彿とさせるものがある。書籍に対してあれを探せ、これを送れも次から次ぎの注文であり「甘え」というレベルのものではない。実際に確かめられたら良いかと思う。

 どうやら百合子の父の財源が頼りにされていた節がある。時に躊躇を見せた百合子に送った手紙の文面は、「金の具合はどうなのか。ユリのゼスチュアはいつもピーピーらしいから−今月はないとか、不定期にしたり、少なくしたり−無理は頼みたくないから本当のところを知らして欲しい云々」というものであった。嫌らしい婉曲話法で百合子の躊躇を叱咤しているように窺うのは穿ちすぎだろうか。

【宮顕の獄中生活時の様子についての自己記述考】
 宮顕は、獄中生活時の様子について、「宮本顕治文芸評論選集 第一巻 あとがき」で次のように記している(「すべての宮本顕治論のために 」)。
 「私は、はじめにのべたように環境の貧しさの体験の中で青年時代に社会の矛盾の根源の解決の道を科学的社会主義、共産主義に発見し、文芸評論もその立場から書こうとした。そして、理論と実践の統一という真理に忠実であろうとして、日本共産党に入党した。いわゆる『政治家』になる意識はいっさいなかった。……自分で希望したのではないが、運命のめぐりごとによって、私自身はまだ満25歳ぐらいではからずも歴史の重責を負わされ、悪戦苦闘したというのが、いつわらざる心境であった。しかし、それでも日本共産党員の道を選んだ大義を、どんな迫害の中でも貫こうという原点を、獄中でも保ちつづけることができた」。
 「『敗北』の文学」の結びの言葉――「『敗北』の文学を――その階級的土壌を我々は踏み越えて往かねばならない」という言葉を、自分は実践することができたと、獄中のある日、心の中でつぶやいたことを、今も記憶している」。

【題名/「宮顕の獄中生活の豪奢な様子証言」考】
 こうした獄中生活は、他の同志のそれと比較してみた場合いかほど奇異な 豪奢な生活であったか、と私は思う。他の共産主義者たちは検挙されたその日から我が身に仮借無い拷問が浴びせられ、残った家族の生活を苦慮していたのではないのか。面会人が訪れることもなくあったとしても世間体を憚りながらの僅かにあるかなしかの身の者が通常であったことを思えば、宮顕はいかほど幸せ者であったことであろうか。

 ちなみに、宮顕は百合子の差し入れる弁当により、同じ獄中にある共産主義者もうらやむ上等な食事をとることができたとも、「他方で、宮本は、11年間過ごした巣鴨について、そこでは収容者を殴ることを日課のようにしていた看守たちから、彼自身は殴られたことはなかったと書いている。宮本が巣鴨刑務所に服役中、隣の房に入れられていた運動家が証言しているところによると、宮本はいつも上等の差し入れ弁当を食っていた、という。官給のモッソオメシと云われた臭い飯しか食ったことのない者からすれば羨ましい限りであったとも云われている」(中村勝範「宮本顕治論」217P)とも書かれている。

 この宮顕に関する飯談議では次のような話もある。
 「寺尾と何処で結びついたか確かな記憶はないが、彼(寺尾五郎のこと−れんだいこ注)は戦争中、神山茂夫の獄中闘争を間近に見て痛く敬意の念を持ち深く傾倒していた。そんなことが底流にあって、少年の頃から神山に指導され戦後も身近にいた私と党本部で出会って直ぐに心置きなく話し合える仲になったのだと思う。当時、彼は宮本顕治の秘書のようなことをしていた。私は党の都委員会のオルグで城南地区の主に国鉄を担当していた。当時は戦後の食糧難で外食などする所は無く、党本部で働く人達は皆貧しい弁当を持ってきた。弁当を持ってこない者もいて、その連中が昼になると『昼めしにしよう』と呼びかけて他人の弁当箱の蓋を持ち上げて少しずつ分けてもらって食べていた。まさに共産党らしい頬笑ましい雰囲気であった。そんな時、私が幹部室に入っていくと、真白いご飯が目一杯つまったアルミの弁当を周囲に関係なく悠々と食べている男がいた。宮本顕治だった。そのことを寺尾に尋ねると、『いやーあ、あの弁当を毎日持たせるのに苦労しているのだ』と言っていた。宮本と同じ刑務所に入っていた労働者出身の活動家が、戦後『宮本の方には絶えず差し入れがあるのに自分の方は女房が生活に困るから離婚してくれと面会にきている。同じ運動に参加しているのにこれ程の差があるのか』という話をきいていたので、周囲におかまいなく一人弁当を食べている宮本の姿を複雑な思いで眺めたものだ」(新井吉生「若き日の寺尾五郎」1999.9.19)。

 ここに貴重な証言がある。前掲の「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282 P)が次のように記している。
 「尾崎と4、5房先に神山茂夫がいた。この二人は顔が利くので、めったに買えない獄内売りのあめだまを手に入れられた。神山は時折房を出て勝手に廊下をよぎり、私の房の扉を開け、『おい、伊藤律がんばれ』とあめだまをくれたりした。その丁度真上に当たる二階の独房に宮本顕治がいた。三度とも差し入れの弁当を食べ、牛乳を飲み、尾崎の薄着とは違いラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていた」とある。

 屋外運動の時には党員同志顔をあわすこともあったものと思われるが、この辺りの回想も伝えられていない。奇妙なことである。なお、この当時の神山の奇妙な言い回しが伝えられている。参考までに以下記す。「拘置所の幹部に、ここに宮本とおれが居るかぎり絶対に空襲は受けないよ、といってあったので、焼け残った後、獄中におけるぼくの威信はますます上がった」(「現代の理論」71.6月号、「一共産主義者の半世紀」)。

 この神山の物言いに対して、高知聡氏は著者「日本共産党粛清史」の中で、「夜郎自大な狂気の言」と嘲笑している。が、私はそうは受け取らない。不思議なことに当時の獄中下党員で宮顕と神山は別好待遇を受けている形跡がある。神山のこの言い回しには何らかの背景が有るのではないかと私は見なしている。ついでに記しておけば西沢隆二も何か変な気がしている。

【題名/宮顕の統一公判忌避の様子】

 以降の流れについて、本人陳述で次のように述べている。

 「自分は昭和8年末検挙され、その後一年ばかり警察に拘置され、不法な取り扱いを受けた。その間健康を害し予審に廻され約4年かかった。警察で健康を害した為拘置所で昭和11年結核を発病し、昭和12年には重症であった。従って、昭和14年秋第一回の公判期日が指定された当時は病舎に居たのであったが、他の被告の利益を考慮し押して出廷したが無理に行った為遂に喀血した。それで昭和14年秋結局分離して審理されることになった。自分としては併合審理を希望し、これが実現を期したのであるが達せられなかった。そしてその後は専ら静養に努めたが、その間チフス等に罹り、結局本年6月以来の公判開廷となった次第である」(再開公判第10回公判陳述)。

 この陳述には種々おかしなところがある。まず、「39年(昭和14年)秋第一回の公判期日」とあるが、「昭和14年秋」の真偽が不明である。この年7月上旬から、関係被告の公判が始まっている。宮顕の逮捕がいち早かったにも関わらず、他の被告の公判が先行して始まったということになる。この時宮顕は、「結核の病躯をおして公判の準備をしたが、その過労でこの頃小喀血」との理由で、合同裁判出廷を見合わせている。ところが、「他の被告の利益を考慮し押して出廷したが無理に行った為遂に喀血した」との本人の弁があり、これを事実とするならば、「出廷した」ことになるが、この辺りも不正確極まりない陳述を意図的に為していることが分かる。

 記録に拠れば、宮顕の初公判は、翌年の昭和15年4.18日午前10時、於東京地方裁判所刑事第5号法廷で開かれている。それより以前にかような動きがあったのかどうか判明しない。第一回公判では、とても病躯とは思えぬほどとうとうと長時間の弁論を為している。「警察でも予審でも調書を作らせなかったので、公判ではじめて陳述することなり、公開の法廷で詳細な陳述を行うことを裁判所も認めざるをえなかった」、「自分としては併合審理を希望し、これが実現を期したのであるが達せられなかった」とあるが、胡散臭い。

 事実としては、宮顕の公判だけが非常に遅れており、「査問事件」を巡って被告間に陳述の齟齬が生じており、宮顕の陳述が期待されていたにも関わらず、病状が重いとされ、先行して他の被告の審理が進められていくことになった。ここは、再開公判第10回公判陳述での「自分としては併合審理を希望し、これが実現を期したのであるが達せられなかった」弁明が嘘っぱちで、宮顕が「出たがらなかった」、「小畑死亡経過の様子を明らかにしたがらなかった」と解する方が辻褄が合う。


 
奇妙なことに、病気の時期は他の被告との合同公判が要請されていた時期と符合している。ここで不思議なことがある。それまで百合子は何度と無く面会をしているが、この時期に限って百合子の面会が拒絶されており、宮顕の病状を現認した者がいない。従って実際の様子が分からない。面会許可時期、病気の様子、病舎入りとは何ぞや、その際の診断書等々について各書において記述がまちまちであり一定していない。病舎入りの様子と診断書についてはどの書についても記述が無い。これを具体的に明らかにした著作がないのでその真偽が分からない。私はむしろ、決まって合同裁判の時期に合わせて発病が繰り返されていることからして、口ぶりとは裏腹に合同公判を拒否して逃げ回っていた形跡とみなす方が自然ではなかろうか、と考えている。百合子さえうまくあしらわれている気がする。

 この間の法廷は、宮顕、袴田、秋笹が合同公判しており、逸見、木島が外されている。逸見、木島の出廷拒否は当人の意思であったとされているが、これに関する当人の弁明は確認されていない。他の被告の公判の帰趨を見計らうようにして、宮顕の公判は、昭和15年4.18日の第1回に続いて同年の7.20日までの間第6回まで続いている。


 
奇妙なことは、この6回を通じてこのたびの公判で見せた宮顕陳述は一向に査問事件の核心に迫らず、周辺の一般的見解(内外情勢、日本共産党の活動、歴史観、スパイの歴史、対スパイ闘争の意義等々)にしかならない党是論とスパイ摘発闘争の必要論に終始した。さて、いつまでものらりくらりの陳述を続けるわけにも行かず、いよいよこれから査問事件について話さねばならないというところで、「少しグロッキーになってきましたので」ということになり、7月の第6回公判を最後に中断することとなった。

 こうして、何ら事件の実質審議に入る事無いままに中断した。ありていにいえば卑怯ということになる。つまり、この時の公判は宮顕のプロパガンダだけをお膳立てした結果になっている。そして、この時の「正義の大陳述」を、「非転向タフガイ人士宮顕」を証するものとして後生大事にしている党員が今日でもいる。こういうことを書くと熱心な「タフガイ宮顕神話」の崇拝者の憤慨を招きそうであるが、であるとすれば逆に私の観点に対する反証を為すべきであろう。封印はよろしくない。


 
こうして、宮顕は云いたい放題の観の有る正義論を述べた後重態に陥ったとされており、止む無く袴田、秋笹らも分離公判となった。査問事件に関わる公判陳述で、秋笹と宮顕・袴田は重要な点で齟齬を示しており、宮顕の陳述が切に必要な時期であったが、やむを得ず41年(昭和16年)4月上旬に一審判決、42年(昭和17年)7.18日に控訴審判決があり、同年12月に大審院への上告も棄却されて、それぞれの判決が確定されている。

 翌1943(昭和18年).7月、秋笹は獄死している。偶然かどうか闇ではあるが、既に他の被告は結審し、秋笹が獄死した後に宮顕の公判が再開されている。秋笹の獄死を待って宮顕の公判が再開されたとも推理が可能であろう。


【題名/宮顕の単独公判の怪】

 こういう経過を辿って、再開公判は44年(昭和19年)6.13日から11.30日まで15回行なわれた。ここの部分も一定しておらず、平林たい子著「宮本百合子」239Pによれば、「顕治の公判は昭和18年に始まったが、裁判所側の官吏と看守の他は弁護士と傍聴者と して百合子が一人という裁判がずっと続いた」とあることからすれば、43年(昭和18年)頃に法廷で、またもや「正義の単独陳述」が滔々と為されていたことになる。ここでも公判開始をめぐって昭和18年と19年の一年のずれがある。あるいは平林氏の間違いかも知しれないがこれが正しいかも知れない。これほどに宮顕の獄中闘争の経過は何から何までちぐはぐしており、いずれにしても正確にしておくべきであろう。

 
宮顕の再開公判は、平林たい子著「宮本百合子」の指摘する通り、「官吏と看守の他は弁護士と傍聴者と して百合子」のみという奇妙な法廷開陳であったようである。弁護士(栗林敏男と森長英三郎)のこの時の回想録的なものがあれば一級の資料になると思われる。亀山幸三の「代々木は歴史を偽造する」によれば、亀山が栗林氏宅を訪ね、「これは一個人のことではない。勝れて公明な、且つ我が国の革命運動史にとって極めて大切な公的性質を持つ問題だから」と縷縷述べて宮顕の公判調書の閲覧を依頼したところ、「栗林はそれを絶対に見せない。これは宮本との約束である」として、どうしても協力してくれなかったことを明らかにしている。「私はそれが腑に落ちない」とある。宮顕はなぜそのような約束を弁護士にまで強いる必要があるのだろうか。「リンチ事件冤罪説」を主張する者は、この点どうお考えになられるのであろうか。

 
宮顕の強い要請で速記禄がつくられているようである。「宮本顕治公判記録・解題と若干の説明」で、「公判のためにもできるだけ正確な記録をつくることが必要であり、宮本同志は、裁判所と交渉して、速記録を作成することを承認させた」とある。つまり、驚くことに、宮顕が用意周到に出獄後を遠謀していたことが知られる。事実、宮顕は、「スパイ挑発との闘争」で、「私は、公判において十数回にわたる陳述の数百枚に及ぶ速記録を作成し、この事件の真相を他日社会に公表する資料とした」と述べている。が、大審院の延焼の際当局が持ち出し品に加えなかった為に原本は失われてしまったとのことである。宮顕の手元に複写が為されていたことにより、今日公判調書が残されているとのことである。

 
しかし、これも胡散臭いところである。獄中の身で複写本を手元に置いていたという話になるが、話が出来すぎであろう。なお奇妙なことに、宮顕は、自らの公判陳述が文書化された公判調書に目を通すことが可能であったようで、裁判長らの合意を得て訂正、補正を為しえている。一般にかようなことが許容されていたのだろうか。こうした経過を見ると、宮顕に限り戦前の司法は「暗黒」であったとは到底思えない。

 
ところで、宮顕が予審調書一切を否認したまま公判ではとうとうと語ったことについての整合的な説明が必要になったようである。76.1.1日赤旗「宮本の新春インタビュー」で、宮顕自身の口から「原則的にたたかうということ自体が、あとの共産主義運動にひとつの励ましを与えるんだと考えました。まぁ悟りを開いたわけですね」といい為している。

 76.2.5日赤旗は、この宮顕発言を受けて次のように見解を述べている。

 概要「エンゲルスは、90年も前に、被告は予審では一切の陳述を拒否することの重要性を書いていますが、宮本委員長はこの原則とおりたたかったわけです。この警察−予審段階で一言もしゃべらなかったために、いかに暗黒裁判でも、裁判官は公判邸では被告に何かをしゃべらさなければ裁判にならない破目に追い込まれました。宮本委員長はこの条件を活用して、20回にわたる公判で数十時間に及ぶ陳述ができたのです」。

 ここでもかくして宮顕神話が生まれるよう細工が為されていることがわかる。


【題名/宮顕の法廷闘争の論理論法、判決】
 しかし、共産党内ではこのような子供騙し論が受け入れられるからサブい。宮顕公判の茶番性はあまりにも露骨で、馬鹿馬鹿しいほどである。裁判長は、宮顕に対し、人定質問などおざなりな数回の質問をしただけであった。検事側もほとんど質問も反論していない。共に宮顕が長弁舌をふるうに任せ、ずっと聞き役に終始している。宮顕に限り、官民上げての神話作りにいそしんでいることが知られる。

 ところで既述したところであるが、宮顕はこの時、小畑の死亡に付き「異常体質性ショック死」という死人に口無し説を主張する他方で、リンチ査問事件そのものを正当防衛処置であったとする「正当防衛論」と、党内問題であるので階級裁判には馴染まないとする「党内問題論」で免責を争ったようである。この弁論こそ宮顕という人間性のイカガワシサを語ってあまりあるであろう。

 「異常体質性ショック死」というのであれば、事件の経過と小畑死亡の経緯を他の被告ともどもで詳細に語っていけば良かろう。事件の経過と小畑死亡の経緯を明るみに出すことに最も頑強に背を向け続け、何一つ調書を取らせなかったなどということを自慢しているのが宮顕論法である。それは子供だましの論であろう。

 1944年(昭和19年).11.25日、結審。12.5日、東京刑事地方裁判所第6部で判決。求刑通りの無期懲役刑が宣告された。この時の「宮本公判判決文」(昭和19年12.5日)を見ると次のように書かれている。

 「正当防衛説」に対しては次のように却下されている。
 概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑は従前より著しく党内を攪乱し、道徳的堕落を招来せしめつつありたる為、同人等のかかる急迫不正なる侵害に対しこれを防止せんとして、その自由を拘束したるものなるをもって右行為は正当防衛に該当し、不法監禁にあらざる旨主張すれども、これをもって被告人等の法律上保護せられたる法益を侵害する急迫不正の侵害行為なりと云うことを得ざると共に、被告人等の為したる監禁行為がやむを得ざる行為なりとは認め得ざるをもって、これを正当防衛なりと云うことを得ざるところなれば、右主張はこれを排斥す」。

 「党内問題説」に対しても次のように却下されている。
 概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑の両名は党員にして党の規約決定に服従すべきことを承認しつつ『スパイ』活動を為さば、党規約により監禁査問を受くべきことは予め承諾しおりたるものと認むべきのみならず、本件査問開始に当たりても同人等は承諾したるものなれば、なんら右監禁行為は不法のものにあらず旨主張すれども、被告人の主張の如くたとえ大泉、小畑の両名が入党の際に党の規約決定に対する無条件服従を応諾したる事実有りとするも、これをもって違法性阻却原由となすを得ざるをもって被告人の右主張もまた採用するを得ず」

 宮顕は直ちに上告したが、翌1945年(昭和20年).5.4日、大審院で上告棄却、刑が確定した。この法廷闘争時期を主として巣鴨拘置所で過ごしたことになる。

 宮顕の獄中の様子については、この間十数年未決囚であったためか弁当から書籍の差し入れまで割合と自由であったとも言われている。ここが他の共産党員の獄中生活と大きく様相を異にしていることを踏まえねばならない。

【題名/宮顕の網走刑務所入獄】
 網走刑務所に送られたのは空襲下のあわただしい時期の45年(昭和20年)6月16日、三人の看守に連れられて巣鴨の東京拘置所から網走へ向かった。6.17日網走刑務所に入獄している。宮顕は、網走に出発する前、面会の百合子に、「まぁ半年か十ヶ月の疎開だね」と言いなしたとある。戦局の帰趨を的確に掴んでいたことになる。10.9日敗戦により、「GHQ」の政治犯釈放指令がなされるまでの4ヶ月間をここで服し、この間も完全黙秘、非転向を貫いたとされている。都合獄中11年10ヶ月となる。

 この経緯に対して、党史(「日本共産党の65年」85P)は次のように記述している。
 「宮本顕治は、警察から予審を経て公判開始までの7年近くを完全黙秘で戦い抜き、公判でも原則的に闘った」。
 「宮本は、1940年4月から公判廷にたったが獄中で発病し、公判が中断していたが、その後、単独で、戦時下の法廷闘争を続けた。宮本は、あらゆる困難に屈せず、事実に基づいて天皇制警察の卑劣な謀略を暴露し、党のスパイ・挑発者との闘争の正当性を立証しただけでなく、日本共産党の存在とその活動が、日本国民の利益と社会、人類の進歩にたった正義の事業であることを、全面的に解明した」。

 まさに歯の浮くような、完璧な獄中闘争ぶりが賞賛されている。既に述べたように、吐かない限り拷問の憂き目にさらされていた他の獄中党員に較べて宮顕のそれは不自然であり、どこが「完璧な獄中闘争」でありえようか!

 宮顕は、次のように自賛している。概要「戦前の暗黒裁判においても、結局、宮本を殺人罪にも殺人未遂罪にもひっかけることができなかったという事実」を見よ、と云う。概要「黙秘権などの認められていなかった戦前において、宮顕が警察でも予審廷でも一言も口をきいていない完璧な獄中闘争」を見よ、と云う。これらを踏まえて、「事件に対する私の陳述は公判廷以外では一切していず、警察調書も予審調書もなかったので、公判陳述が最初で、最後の陳述となった」と記述している。

 ここの記述部分「公判陳述が最初で、最後の陳述となった」とはどういう意味だろう。公判陳述は、初めの公判6回と再開公判15回の都合21回為されている筈であるが、「最初で最後」と云われれば誰しも一回こっきりの陳述と誤解しやすいであろう。これも「非転向タフガイ神話」の知らないものを平気でたぶらかす脚色記述と思われる。宮顕の深紅の獄中闘争が事実であるとすれば、世界の獄中闘争史に燦然と輝く道しるべになるはずであるから積極的にこれを明らかにして欲しい。

 文芸評論家平野氏は、こうした宮顕の不退転の獄中闘争に「心から頭をさげる」、「恐らく自己の姓名さえ承認しなかっただろう。宮本顕治の驚嘆すべき不退転の態度」と感心しており、かなりな提灯持ちであることを自弁している。こうして、この間の宮顕の獄中闘争は、「非転向党員のうち、最も頑強だったのは宮本顕治」であるという箔をつけ、「唯一非転向タフガイ神話」が作りだされることになった。

【題名/「宮顕の網走監獄時代の様子」考】

 いわゆる宮顕の「網走ご苦労説」も正確に理解する必要があろう。宮顕が網走刑務所に服役したのは、6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間である。この頃の様子については、宮顕自身が、「宮本顕治対談集」の中で次のように語っている。

 「網走はそう長くないんです。戦争が終わる年の6月に行って、10月に出ましたから、一番気候がいい時期にいた訳です」(116P))。
 「(網走には春、夏、秋と一番いい気候のときにおった)網走というのは農園刑務所と云いましてね。農作物を作る刑務所なんですよ。ここでジャガイモがうんととれる。東京の刑務所ではおみおつけの実が何もない、薄いおつゆでしたが、網走ではジャガイモがゴ ロゴロしていて、ジャガイモの上に汁をかけるようで、食料条件がよかった訳です。(中略)それで体重が60キロぐらいになったんですよ。60キロというのが 私の若い頃の標準でね。(中略)そういう訳でむしろ健康を回復したんですね」 (376P)

 なお、宮顕は次のようにも述べている。

 概要「網走の方が巣鴨よりまだはるかに衛生的だった。第一、入浴はまだ週2回あったし、しらみや南京虫も衣類や房にいなかった。こちらは、食事がほぼ定量つめられていて、ひどい空腹感はなかった。」(「網走の覚書」)。

 宮顕は、「網走の覚書」で「獄中闘争」の様子を次のように自弁している。

 「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」と次のように記されている。「“捜検”といって、毎日、監房の検査を係りの看守がやって回るが、何か部屋の整頓が悪いとか掃除が不十分ということでも気まぐれにパンパンという高い音のする殴打を加えた。私が入って間もなく、私の房の番号を呼んでこの“捜検”の看守が扉を開けた。私は返事して立ち上がって房外に出たが、いきなりピシャリと平手が飛んできた。『殴るとは何だ---』と私が詰問すると、『その返事は何か』とどなりつけてきた。房から出る時私が『ハイ』とはっきり答えず、オイという風に聞こえたのがけしからぬというのである。そして私の名札を見てそれ以上は言わず行ってしまった。私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問したが、『それは悪かった。よく注意しておく』という回答だった」。

 当人はかくも威風堂々さ、看守のみならずその長まで詫びさせる獄中闘争の様子を得々と語っているつもりのようである。わたしは、公判陳述の大嘘からしてこのあたりのそれも信用しない。信用したとしても、この程度のことに対して「看守のテロ」とは何と大袈裟なことかと思う。それと、「私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問した」もおかしな記述である。宮顕の抗議を看守が聞き分け、看守長に伝わり、面会が出来て、暴行を詰問し得たということになるが、何と聞き分けの良い網走刑務所であることよ。時期は異なるが、徳球、市川正一元委員長らも厳寒の網走刑務所に居た筈であるが、その時の様子といずれ比較させて見たい。

 
私は、宮顕に対する「看守のテロ」は当初よりなかったとみなしている。その裏づけは、宮顕自身が次のように記していることで判明する。

 「(1933.12月の検挙間もなく)麹町の留置場でも看守から真冬に寝具もくれず、手枷足枷をかけて持久戦的拷問をやられた。しかし拷問の効き目がないと考えたのか、その後は警察の一年間、そうした肉体的拷問は受けなかった。市ヶ谷.巣鴨の11年間でも、収容者をなぐる蹴ることを何とも思っていず、日課のように繰り返している看守たちからは、直接なぐられたことはなかった」(「網走の覚書」)。

 これは貴重な告白である。当人はこの後に続けて獄内待遇改善闘争の「札付き」になっていたが、「それらの闘争の中でも、正規懲罰を加える口実と隙はつかまれなかった」(「網走の覚書」)からであるとしているが、うそ臭い。どういう理由付けしようとも、殴られることが無かったことは確かなようである。とすれば、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」も、宮顕自身に対しては嘘になるし、真実とすれば逆に巣鴨生活がいかに大甘なものであったかを逆証左することになろう。


【題名/「宮顕の網走刑務所出所経緯」考】

 1945年(昭和20年).10.9日午後4時、網走刑務所を出所した。宮顕37才、百合子46才の時であった。ところで、この9日出所も謎である。政治犯の一斉釈放は10.10日であり、宮顕の場合は袴田同様に「治安維持法は撤廃されたけども、一般刑事犯罪との併合で起訴されているので、その取り扱いが微妙であった時期」の一足早い出所ということになる。この一日早い出所というのも問題にされていないが、考えてみれば不自然ではある。

 これについては、袴田の貴重な証言が為されている。

 「朝早くに所長がきて、『僕の責任で出すから出ていってくれ、『司法省に使いを出したけれども、その返事は待っておられない、君はハンストなんか宣言して、その体でどうするのだ。その責任まで負わされたらたまらない』と云って、これは彼の英断だったかも知れませんけどもね。宮本顕治同志が既に網走の刑務所から出所していたので、僕はそのことも云ったのです。『同じ罪名で無期懲役の宮本君が出ているのに、なぜ僕がここに閉じこめられていなければならないのか、君たち所長の責任だ』というものですから、彼は板挟みになって、『確かに治安維持法は撤廃されたけれども、その他の罪名は取り消しになっていない。従って併合罪があるので出せない』という通達が司法省からきているわけです。それで残していたんですね」。

 暫し黙して考えてみるに値するであろう。

 百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。この十日間の宮顕の消息も闇に包まれている。同時期にあちこちの刑務所から開放された徳球、志賀ら指導者の面々は例外なく幾度にもわたって「GHQ」の調査を受けているが、宮顕にはその痕跡さえ明かされていない。これも不思議なことである。宮顕については「潔癖神話」ができるようにできるように作為されていると思う私は穿ち過ぎだろうか。

 こうして宮顕は百合子の元へ帰ってきた。国分寺の自立会を訪れたのは10.21日と言われている。すでに全国から党員が参集し始めており、再刊赤旗の一号を背負って全国に飛び立っていたあわただしい頃であった。百合子はこの頃、宮顕に「後家の頑張りみたいなところができているんじゃないか」と言われたようである。これが百合子の12年にわたる心労に報いた宮顕の言葉であったらしい。

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【題名/宮本の獄中闘争の流布されている誤解について】
 上記で考察したように、宮顕の獄中闘争はあらゆる角度から見て胡散臭い。他の党員の場合のように死の拷問攻めによるまさに虐殺、転向、あるいはごく少数の非転向、獄死に比べて、優遇され配慮されすぎたおかしさばかりが見えてくる。にもかかわらず、一般に流布されている宮顕の獄中闘争の武勇伝は次の通りである。

 戸川猪佐武の「小説自民党対共産党」の一節を検証する。


 「彼の耳の底では、北の海の音が鳴っていた。網走刑務所で送った12年の間、くる日もくる日も、耳にしていた波の音である」。「それでもなお、彼は不屈だった。−耐え抜いてみせる。その頃、左翼の多くの人々が、獄中で転向を遂げていた。‐‐‐宮本は、転向を強いられながらも、それには応じなかった。警察、検察側の取調べに対しても、宮本は決して、調書をつくらせるようなことは、一切しゃべらなかった」。

 臼井吉見氏も中野重治との対談「人間・政治・文学」(「展望」1976.9月号)の中で次のように述べている。
 「宮本氏のように、網走の牢獄で十何年も頑張るというような特別の人もあるんだけれども云々」。

 久保田政男氏の「フリーメーソン」でも次のように記している。
 「徳田球一、志賀義雄、宮本顕治ら戦前の日本共産党の指導者は獄中で十数年頑張った歴史を持っているが、このような共産主義者は欧米には例が無い」。

 久保田政男氏には、こういう雑な書き出し箇所がまま見える。徳田球一、志賀義雄は良いとしても、宮本顕治も同じように評してはいけない。通常流布されている「宮顕網走獄中闘争記」を真に受けたらそうなるけれども、見てきたように、宮顕が網走に居たのは終戦間際の僅か数ヶ月のことである。しかも春から夏にかけての過ごしやすい時期である。決して、網走に12年居たのではない。この明白な事実が誤解されたまま「真の非転向タフガイ人士宮顕」像が勝手に一人歩きしている。

 付言すれば、宮顕の場合、拷問が為されたかどうかさえ疑わしい。「調書をつくらせるようなことは、一切しゃべらなかった」のも、真実しゃべっていない裏づけは何も無く隠されている可能性がある。逆に、真実存在しなかったとすれば、調書作りそのものが不要とされていたからではなかろうか。代わりに宮顕がなし得た事は、単独法廷でのとうとうたる「正義の陳述」である。しかも、反対尋問が殆ど為されていないというおまけつきでの。

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宮本、袴田、秋笹らの逮捕、公判、判決経過表
経過項目 宮本 大泉 加藤亮 木島 逸見 富士谷 秋笹 袴田
検挙 8.12.26 9.2.9 9.2.17 9.2.27 9.3.6 9.4.2 10.3.4
自首 9.1.15
予審終結 13.10.10 13.10.10 13.10.10
一審公判初公判 15.4.18 14.7.25
一審公判2回目公判 14.7.27
一審公判3回目公判 14.7.19
一審判決 16.4.6 16.4.5
控訴審始まる
古畑再鑑定 17.6.3
二審判決 17.7.18 17.7.18
大審院判決 17.12 17.12
下獄
獄死 18.7
一審公判再開公判 19.6.13
一審判決 19.12.5
大審院判決 20.5




(私論.私見)