521 宮本顕治論 第7部 査問事件/その後の袴田の動きと後半の様子

 (最新見直し2006.5.22日)

 これより前は、「戦前日共史(九)「小畑中央委員査問リンチ致死事件

投稿  題名
24  袴田執行部「党中央」の動きについて
25  袴田執行部による『経歴書提出、党員の再審査』問題について
26  袴田執行部による『全協解体策動』問題について
27  袴田執行部と多数派との抗争について
28  袴田逮捕、関係者の公判の様子について


 題名/ 袴田執行部のスパイ摘発闘争呼号について
 こうして我々は「査問事件」における小畑死亡を見てきた。宮顕の逮捕も見てきた。驚くことに、この後査問は中止されるどころか 一層拍車をかけて進められたという史実がある。つまり、小畑の死亡は「不幸な事件」であったのではなく、党内労働者派もしくは残存する戦闘的活動家駆逐の狼煙となったということが分かる。

 第10幕目のワンショット。既述したように12.24日の赤旗号外は、 「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下で、断固としたスパイ摘発の推進を指令していた。これを指導したのが袴田であり、実行したのが木島ラインであった。

 1934.1.10付けの赤旗は、 萩野がスパイ容疑で党から除名されたことを告げ、 国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで、次のような激越字句を以てさらなる党内スパイ摘発の続行を煽っている。
 「全党の全機関組織を挙げて決起せよ! 挑発者を執拗に追撃し奴らを全部的に清掃するために闘え! プロレタリアートの闘争を破壊せんとした裏切り者を組織の隅々から引きづり出して革命的裁判、大衆的断罪によって戦慄せしめよ!」(袴田第15回調書)。
 「さし当たり中央委員会としては、これら不純分子を一括して除名処分に附する旨を決定し、これを当時発行の『赤旗』紙上に発表した」(袴田第15回調書)。

 これ以降の赤旗は、こうした論調で全協批判と追及が全紙面の半分を埋めていった。

(私論.私見)

 この紙面から汲み取る教訓は、「決起せよ!」、「追撃し、清掃するために闘え!」、「戦慄せしめよ!」などと仰々しくも「戦闘的ポーズ」が云われても、言葉に踊らされてはならないということであろう。もう一つの教訓は、敵方内通派の特徴として、外向きは穏和路線を志向し、内向きには強面(こわもて)路線を敷くのを得意とするということである。この点はいわばいつの時代にも表れる特徴として認識し得るように思われる。

 もう一つの教訓は、この直ぐ後に野坂論文に触れるが、長文饒舌を得意として煙巻き話法を得意とするということもある。簡潔に要点を指示するのではなく、玉虫色に右から左の見解を散りばめ、読む者をして判断をしにくくし、結局「党中央の云うことはその通り」式に指導するという特徴もあるように思われる。


 題名/ 野坂のコミンテルンからの指示による袴田執行部支援について

 1.17日付けの赤旗は、モスクワ在住の岡野こと野坂参三の長大な「スパイ摘発支援論文」を掲載している。次のように系統的な摘発闘争の必要性を教示している。

 「挑発者とスパイとに対する闘争は、党全体ならびに労働者、農民の広汎な大衆の闘争である」。
、「日本の共産主義者は、労働者並びに全勤労者をあらゆる種類の裏切り者に対する侮蔑と憎悪との精神によって教育しなければならない」。
(私論.私見)

 今日野坂の胡散臭さは既に醜悪さが暴露され、白日の下に晒されているが、この時点ではコミンテルン指導部の権威を持つ最高指示者であった。この時の野坂の「スパイ摘発支援論文」は、「胡散臭い者は胡散臭い指導を常とする」好例であろう。ちなみに、この論文は、大泉が警察に駆け込んだのが1.15日、小畑の死体発見が大々的に報道されたのが1.16日、その翌日の掲載文ということになる。付言すれば、この野坂論文が、奇妙にほどにスパイ摘発に狂奔する宮顕路線と軌を一にしていることも知られるであろう。つまり、戦前も戦後も野坂―宮顕間には奥深いところで連携があったことが証左される。

 題名/ 袴田執行部のその後の「スパイ」摘発について

 現物を手にしていないので受け売りになるが、加周義也氏の「リンチ事件の研究」では、同じく1.17日付けの赤旗は、東京市委員会書記局の名で「中央委員会による片野・古川断罪への革命的挨拶」と題する33.12.27日付けの小文を載せているとある。その中の文句は次のように記されている。

 「スパイ片野(大泉)・古川(小畑)は我が党の破壊を企てたのみならず、コミンテルンにまで天皇制スパイの魔手を伸ばさんとした。俺たちは断の一字を以って要求する。革命的憤怒を以って要求する。『死刑』だ!」。

 1.24日付けの赤旗は、「激」文を掲載し、スパイに対する処分基準を決定している。簡略要約すると、スパイは党外に放逐され、大衆的断罪に附せられるべきである。追随者、不平分子、無責任者は除名ないし資格停止、譴責に附せられるであろう云々。

 こうして前年末の荻野査問未遂事件、翌34年(昭和9年)大沢武男査問事件(1.12〜2.17日)、波多然査問事件(1.17〜 2.17日)などが引き起こされることになった。これらの事件解明の意義は、当時の党内査問の続発の様子が知られることと査問時のテロの様子が判明することにある。査問時のテロの様子の判明は、自ずと小畑リンチ致死の疑いを濃くするという関係にある。

 「大沢テロ事件」発生。大沢氏は党中央財政部員であり、生前の財政部長・小畑から絶対の信服を受けていた有能党員であった。その大沢が査問されることになる。査問は1.12日より木島と富士谷真之介を中心として行なわれた。5日余り拷問にかけ厳しく査問したが、自白が得られなかった。根気負けした木島は、「俺たちは党の上部からの命令でやっているのだ。お前がスパイであることを自白したことにしなければ困る。君もその辺は理解して欲しい。上部にはお前が吐いたので顔に焼け火箸でスパイと書いて釈放したことにするから、そのつもりで謝罪文だけ書け」と云って、謝罪文を書かせて2.17日朝、釈放した。この時、冨士谷は財政部員大沢が持っていた現金300円を奪っている。

 「波多然テロ事件」発生。波多氏は、党東京市委員会江東地区委員であり、反帝同盟組織部長・久保健二の推薦で、その地位に就いていた。系列的には小畑派の有能党員であった。その久保が小畑派であったことから「推薦者が裏切り者なら、被推薦者も裏切り者である」との論法で、査問が決定されている。査問は木島と加藤亮、金季錫を中心として行なわれた。この頃波多が「小畑は殺られたんだろうか」と疑心を吐露していたのが原因となったとも云われている。

 1.17日、査問用アジトへ連行された波多は、手足を縛られたまま約一ヶ月にわたって査問を受けることになった。この時のことを波多氏は、「私は幸い死を免れたが、死ななかったのがむしろ不思議である」と述懐している。この時見せしめの為か額に焼け火箸でスパイの烙印が押された。戦後、波多氏は、そのままの額で党活動を続けることになったが、宮顕が党中央に決定的な支配権を確立した1963(昭和38)年頃痛烈な批判書を提出して離党している。

 大沢・波多事件の場合いずれも激しい暴力が行使されている。袴田は次のように証言している。

 概要「これら二つの査問は中央委員会に於いて承認し、木島をして指導統制に当たらしめ実行せしめたのであります」(袴田第15回調書)。
、「具体的に査問の状況の報告は無かったが、波多についても又大沢についても、彼らは自白こそしないが、スパイである事は客観的に認められたと言う趣旨の報告がありました」(袴田第3回公判調書)。

 この査問が如何にいい加減なものであったかにつき、袴田は次のように証言している。

 「しかし、波多、大沢の両名が警察と連絡のあるスパイであったか否かの点については大泉等ほど明瞭でなかったと思います」(袴田第15回調書)。

 ところで、ここでも加藤亮の暗躍が知れるが、この人物に対する詮議も為されねばならない気がする。どなたか教えていただけたら有難い。

 この後「全協」責任者小高保の査問が計画されていたが、その途中で木島が逮捕されたので中止のやむなきにいたった。全協フラク責任者の小高については、「査問は中止されたもののスパイ嫌疑濃厚だったので除名しました」(袴田第3回公判調書)とある。こうなると滅茶苦茶であるがこれが史実である。

 ここで、木島は「査問事件」に関わる貴重な陳述を している。

 「初め私は、査問という事はよく分からず、喫茶店で皆で聞くくらいに考えておりましたが、小畑及び大泉等に対する中央委員会の査問を親しく見聞きするに及んで、党の査問と云うものがどんなものであるかと云うことを知りました。小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまったのであります。しかも大泉に対する場合もあれ程のテロをやり、漸くスパイである事実を白状しました。

 従って、私もスパイに対してはあれぐらいのテロはやらなければなるまいと考え、波多の査問についても、右の如くテロをやる決心でありました。スパイは万死に値すると徹底的に憎んでいたので、テロの結果あるいは波多が死ぬかも判らない、しかし死んだって構わないという考えは胸中にありました」(木島予審調書)。

 つまり、木島は、「小畑・大泉の査問事件」を手本として大沢と波多然の査問をやった、その際「小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまった」やり方を真似たと言っていることになる。この文節から逆に、「(小畑が)あれ程のテロにより、殺されてしまった」ことが知れるであろう。

 ちなみに、党の査問テロの凄まじさについて当事者であった波多然は次の様に証言している。手記「リンチ共産党事件について」(経済往来昭和51年5月号)でリンチの様子を次のように明らかにしている。

 「査問は、実際は、嫌疑ではなく、スパイであることの自白の強要であり、数日間ではなく、数ヶ月間であり、…残忍なテロによる強迫であった云々」。

 「宮地氏HPでは、宮内勇著『1930年代日本共産党私史』(三一書房、P.183)に次のように書かれていますとして以下紹介している。

 「ところがこの波多然は、戦後無実を訴えて認められ、正式に名誉回復の措置を与えられている(昭和33年7月)。してみると、当時の波多に対する査問は単なる嫌疑によるものであったことが判る」。

 波多然自身「火花」という雑誌の昭和42年8月15日号に、当時を回想して次のようにのべている。

 「わたしは、リンチ事件の被害者の一人であり、戦後も生き残って活動して来た党員の一人である。袴田はその回想録でわたしの事件に対し、スパイ嫌疑による査問と書いている。だが実際は嫌疑ではなく、最初からスパイであることの告白の追及であり、短銃と短刀による脅迫、血の通わぬほどの手足の縛りと、息のつけぬほどの猿ぐつわ、合着で冬の寒さに数カ月(数日ではない)耐え忍んだリンチ事件である。殺して埋める計画さえもっていたのだ。査問の場所は夜中の野外の一カ所と、三軒の家に移り変ったが、そのうちの一軒は党のシンパで、戦後は入党して活動した人の家であった。戦後わたしはこの夫妻から直接このことを聞いている。

 わたしは幸い死を免がれたが、死ななかったのがむしろ不思議である。十日間以上も仮死状態に陥り、数カ所に取り返しのつかない傷害を受け、手足は当時から今日まで、家にいるときは一日も欠かさずマッサージをしている。査問から釈放された最後の日の監視者は若い朝鮮人の同志(金季錫)一人であった。かれは、後手にしばられ衰弱し切ったわたしを仰向けにして馬乗りになり、焼火箸を額に押しつけて、最後の拷問を加えた瞬間、皮膚の焼ける匂いをかぎながら、わたしはスパイでないことをいいつづけたのだ(160ページ)。額に焼け火箸を押しつけて烙印をつけるのは、将来再び組織内に潜入することを防止するためのマークであった」。

 宮地氏HPは更に続けて次のように述べている。

 「いずれにしても無実の嫌疑によって数カ月の長期にわたって、拷問されつづけたという波多の状況は、当時の陰惨なリンチ事件の様相をよく物語っている。大串雅美、大沢武男に対する拷問の状況とスパイ真偽の実相は、私には何ら語るべき材料がないが、多分に疑心暗鬼に取りつかれていた当時の党内の空気から推して、あるいは波多同様無実の嫌疑ではなかったかと思われる。いずれにせよ、『今日査問に当ったものが、翌日は査問を受けるかもしれない』というような極度の疑心暗鬼の横行は、追いつめられ崩壊寸前に立たされた地下組織にとって特有の断末魔の姿であるのかもしれない。そこでは個人としての人間の弱さ、醜さ、自己防衛欲などがムキ出しになって、それが組織の名において、同志殺戮の連鎖反応を生んで行く経路は、浅間事件の赤軍派と本質的には似ている。

 私なども、当時事件のごく間近に自分自身、身をおいていながら、幸いその渦中から逃げることができた一人であり、いま思い出しても慄然とするものがある。宮内勇氏は、党中央壊滅時点の『多数派問題』の中心の一人です。彼の活動と多数派運動の意義については、埴谷雄高氏が『1930年代のコミンテルンと日本支部』の(添付資料)で高く評価しています。なお査問日数について、37日間とする立花『年表』と『数カ月の長期』という波多氏との違いの理由はわかりません」。

 なお、当時の内務省警保局がまとめた「社会運動の状況(1934年度)」によれば、次のように記されている。

 「遂に両人に対する“リンチ”事件を惹起するに至りたるが、これが為一時、党内は極度に混乱に陥り、“リンチ”はさらに他の“リンチ”をも生むの状況にて、互いに他を疑いて戦々兢々内部の争闘に終始して、本来の運動を顧みるのいともなき状況にありたり」。

 冷静に分析されているのか、揶揄されているのか、勝利の凱歌であるのかまでは分からないが、この記述自体は正確であろうと思われる。してみれば、小畑・大泉の査問事件」は、こういう党史的背景において捉えられねばならないということになる。栗原幸夫氏は著書「戦前日本共産党の一帰結」の中で次のように指摘している。

 「政治というものが避けようもなくその底に秘めている暴力性に目を 閉ざして、うわべのきれいごとで身を装うことの欺瞞性を強く指摘したい」。

 栗原氏の指摘は史実を的確に踏まえた提言であると云えよう。


 題名/ 木島の離反について

 なお、この査問前後の頃からと思われるが、木島と袴田との折り合いが悪くなっているようである。袴田は次のように証言している。

 「木島は、大泉、小畑の査問の直後までは党中央部とも一致した意見を持って非常に良く働いていたのでしたが、その後同人は全協の再組織の件を理解せず党中央部に反対の意見を持つようになり云々」(袴田第3回公判調書)。

 つまり、これら一連の経過を見たとき、党内査問の黒幕に宮顕が位置し、袴田を矢表てに立て、木島を特攻隊隊長として利用していた様が見えてくる。既述したが、宮顕が中央委員に登場して以来「査問事件」が党内に発生してきており、「査問事件」以前以降に宮顕ラインの影が見えており、党内の戦闘的活動家に照準を合わして遂行された気配があるということも又見えてくる。なお、党内査問についてはもう一つのラインも見えているが本筋から外れるので割愛する。

 これが木島転向の伏線となる。私の推測であるが、「さすが労働者だ」とおだてられながら便利に使われてきた木島が、この時点に至ってようやく使い捨てのテロリストとして扱われている己の存在と、スパイとされている被査問者こそが戦闘的活動家であるのではないかと気づきはじめたということではなかったか。

 つまり、ここまで、宮顕−袴田による全て上の命令でテロル活動をやらされてきたが、スパイ容疑者として厳しく拷問するほどに、それら容疑者が有能且つ党に忠実なボルシェビキであるという落差にきづくことになった木島が、疑念を生じさせた結果が「党中央部に反対の意見を持つようになり云々」ということであったのではなかろうか。

 こうして、この時代、「党地下組織内の『極度の疑心暗鬼の横行』」(宮内勇「ある時代の手記・1930年代日本共産党私史」)となり、党内は大混乱に陥った。

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 題名/袴田執行部による『経歴書提出、党員の再審査』問題について
 次のショット。袴田の動きは意図的か結果的にかは別にして至る所変調にしてアヤシイ。袴田は次のように証言している。
 「この間両名とも週2回くらい各別にあるいは一緒に連絡を取り、 大泉・小畑両名に対する査問終了後の党当面の方針、党員再審査の件につき協議決定しておりました」(袴田15回調書)。

 党内の清掃事業としての査問事件と並行して彼が手がけたのは、「党員の再審査及び党員の細胞への再編成」(袴田15回調書)であった。袴田は次のように証言している。
 「しかし、爾後党中央部並びにその全組織に加えられた弾圧のため、この事業を完成することが出来なかったのははなはだ残念であります」(袴田15回調書)。
 「これらの任務を遂行する為の基礎工作として且つ党を真のボルシェビキー党足らしむる為その組織整理の必要と不純分子の排除掃討を行い、これによって党を防衛する為、昭和9年1.10日頃逸見、秋笹等と会合して、私の提案に基づき党員資格の再審査を実行することに協議決定しました」(袴田16回調書)。
 「優良分子のみを党員として再登録することにしましたのであります」(袴田16回調書)。
 「この整理事業が略完成したのは同年2.20日頃でした」(袴田16回調書)。

 党員の再審査、再登録とは、全党員に可及的急速に経歴書を再提出せしめるということであり、当時の情勢からしてこれが官憲に奪取される危険を思えば無神経極まりない提議であったことになる。袴田が「私の提案に基づき」と言いなしてはいるが、「党内査問の強化」とこの「経歴書提出」が宮顕の指示であったことは既述した通りである。

 ところで、この「経歴書提出」は、当時の状況からしてあまりにも無謀な方針であったにも関わらず強権的に発動され、袴田執行部に対する信任の踏み絵的に取り扱われたようでもある。これを裏付ける次の様な袴田陳述がなされている。
 「党員再審査に当たり、中央部では、一応彼(山本秋−反中央派であった)に会って意見を聞き警告を発した上、彼が中央部の方針を承服するなら再登録を許し、もし承服しなければ資格停止その他の処分をしようということになり云々」(袴田17回調書)。

 これが本人陳述の史実であることをしっかり銘記せねばならない。 つまり、袴田執行部は、一方で公然とスパイ清掃事業と称する「踏み絵運動」を遂行しつつ、他方で特高直通の機密漏洩になりかねない背信行為に血眼になっていたということになる。

 とはいえ、当時の党員がこれに無条件に従った訳ではない。小畑.大泉系の全会フラクは全員これに反対していた。これにどう対処しようとしていたか当時の貴重な記録がある。宮内勇・氏の「ある時代の手記・1930年代日本共産党私史」は次のように記している。
 「この党員再登録の要請に対しては、私は瞬間返事にとまどった。仮に党内にスパイの残党が残っているといっても、再登録というような形式的な調査報告で、果たして真相が発見できるであろうか。一片の紙片に記された党員の経歴その他を資料にして、再登録するというような発想は、全く形式主義で、お役所風の官僚主義以外の何物でもない。しかも、それは単に形式主義であるというより、むしろ極めて危険なことであった。極度に非合法化された地下組織において、殊に党内が極度に混乱している目下の状況において、党員個人の身分経歴を書き記して一箇所に集めるということは、非常に危険な作業と云わねばならない」
 「我々は中央委員会を信頼し、そのスパイ断罪闘争を全面的に支持してきたが、しかし党員再登録の要請に関する限り、いくら中央委員会といえども安易にこれに従うことはできなかった。それは、むしろ越権行為ともいうべき要請であり、組織上の規律違反さえあると判断された。否、さらにもっと突っ込んで考えれば、党員再登録の要請そのものが、あるいはスパイの計画的な謀略ではあるまいか。査問闘争を展開している中央委員会の内部に、まだスパイが残っていて、その挑発によって、再登録の決定がなされたのではあるまいか。そういう疑惑が瞬間私の脳裡をよこぎった」。
 「下部の党員のみに資格審査を要求して形式的な再登録を強要することは、軽挙というよりむしろ越権である。我々はかって一度も党中央委員会に対して疑惑や不服従の精神を抱いたことはなかった。しかし、今この危急に当面して、我々の信頼すべき中央委員会そのものが、重大な不信と疑惑の前に立たされるにいたったということは、我々にとってまことに不幸な事態と云わなければならなかった」。

 
こうして、「経歴書提出」はさすがに党内の抵抗があってうまく運ばなかったようである。後日押収を考えると危険極まりないこととされ、会議の席上逸見・ 袴田・秋笹3名立ち会いの上焼却廃棄処分として粉塵に帰した模様である。この間機密が漏洩されていた可能性は充分考えられる。

 神山茂夫は獄中手記の中で、賢くも次のように述べている。
 「我が国のように、極度に非合法的党では問題にさえし得ない『清党運動』をこんな時代に、かかる方法で行わねばならぬと云うことは党の小ブル化の証明になるが、党の労働者化と再建強化の賢明な況や本人の提出する一片の履歴書を党中央部が審査して『清党』を行わんとするに至っては言語道断である(リンチ事件は重大な政治的誤謬である。袴田の経歴書審査、再登録、清党運動は言語道断である)」(「リンチ事件論争史、諸論」参照)。

 神山についても胡散臭いところが多々あるが、「小畑リンチ致死事件」に付きまとう胡散臭さの指摘と経歴書提出問題の項に関する限り的を得ているように思われる。
 次のショット。1月上旬頃、袴田執行部と「全農」(又は「全会」とも表記する) との会合が持たれ、「査問事件」の経過について説明の会合が持たれた模様である。「全農」は小畑・大泉系の農民運動組織であったから無関心ではおれなかったということであろう。袴田と秋笹・逸見の3名は、党のフラクションであった「全農」の責任者宮内勇と日本消費者組合連盟の元書記長であった山本秋と会見している。この二人は、その場では納得したようであったが、後日分派的動きを始めることになる。つまり、実際には納得しなかったというのが実際であろう。

 袴田がここでも貴重な証言をしている。
 「(宮内は)爾後全会の指導を担当せる逸見と連絡を執り、なお赤旗編集への協力の為秋笹とも定期連絡を執ることに決定したのでありますが、その後逸見とは連絡を執りましたが、秋笹との連絡は逸見を通じて拒絶して来、逸見以外の者とは連絡することを欲せずと云う態度を表明しました」(袴田16回調書)。
 「その頃既に宮内が党中央部に対して何ら根拠のない不信を抱いて居ることが窺われたのであります」(袴田16回調書)。
 「彼は、それから逸見と連絡を執る度ごとに大泉・小畑に対しては党中央部から除名処分の外に死刑の判決が下ったのだろうと云う意味の質問を逸見にしていたとのことで、これに対し逸見も大いに憤慨し私たちも宮内のこの行動に対 しては甚だしく不満でありました」(袴田16回調書)。

 会談の結果、宮内・山本らが納得せず、大いに不満を覚え党中央と袂を分かつことになった、連絡線として唯一逸見のラインだけを残したと読みとれる。


 ちなみに、山本秋(1904〜89年)については次のように紹介されている一文があったので参考に引用しておく。協同社会研究会・樋口篤三労働運動と生協運動の再生と発展を参照する。
 「東大セツルメントから関東消費組合連盟、日本無産者消費組合書記長を経て、戦後の生活協同組合法案起草に参加し、川崎生協専務(理事長は社会党右派松岡駒吉直系の佐々木虎三郎で右派と日共のコンビだった)などを経験した人物だが、その大著『日本生活協同組合運動史』(746頁、1982年、日本評論社)で日本における生協の歴史、その中における労組との関係などを詳述している。

 
彼は日共幹部・袴田里見(1978年除名)に睨まれて、戦後三年も入党できず、復党後もまたもや意思に反して60年代はじめに脱党させられた。彼は自らの体験と理論から、党組織機構で生協関係は労働組合部の一翼たるべきだと一貫して主張したがずっと受け入れられず、『中小企業・市民対策部』つまり『プチブル対策』扱いが続いた。これは党指導部の生協に対する全くの無理解による」

 宮顕論の本筋からは外れるが、この年2月末、伊藤律が共青中央事務局長になっている。同時に正式に入党している。この伊藤律の入党は、宮顕による実質的な党中央解体以降の党運動上白眉な出来事であり、俊才としての予想通り宮顕−袴田系に簒奪された党中央の動きとは別個に党の再建に向かっていくことになる。がしかし、その動きも又当局に筒抜けであり、否応無く尾崎・ゾルゲ事件に巻き込まれていくことになる。その汚点を宮顕−袴田系が伊藤律落としに徹底利用していくことになる。この流れは別章で考察する予定である。

 
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 野呂栄太郎(1900〜1934)獄中死
 2月頃、昨年11月に逮捕されていた党中央委員長・野呂栄太郎(1900〜1934)が死亡。同氏は、当時の日本の資本主義分析に貢を為しており当代一流の経済学者であったが、1930年ころ入党、弾圧で破壊された党の再建に尽力した。

 題名/袴田執行部による「全協解体策動問題」について
 次のショット。2月頃宮顕のもう一つの指示であった「全協」解体が策動されている。この背景には、党中央と「全協」中央との激しい対立があった。2.17日赤旗は、「全協内における挑発者の存在を大胆に確認し、彼らに対する断固たる公然の闘争を開始せよ」と呼びかけている。

 3.8日、赤旗は、「全協フラク責任者オッチャン事小高保は全協内の挑発者の元凶で、小畑・大泉の告白によれば、全協関係一切の報告、公文書等を秘密警察に渡しているスパイ」だとして除名広告を出した。「全協と東京市部協議会とが対立しておりましたので、党中央部としては東京市部協議会を中心として全協を再建し関東地方協議会を結成し、更にこれを全国協議会に迄発展せしめんとする方針を決定したのです」(袴田3回公判調書)とあり、東京市委員会川内唯彦、 江東地区委員古川らにこれを命じたという。

 ことここに至って袴田ら党中央は、前述の如く第二全協をでっちあげ「再建」に乗りだそうとしたということである。当時の状況として全協が大衆団体としての最後の闘う砦であった。この全協に党中央が指揮して第二組合をつくろうとしたということであり、労働組合に対する党の介入というレベルを越した完全なる分裂策動であったことになる。

 小畑がこの「全協」出身であったことは既に見てきた通りである。ちなみに、ここで云われている小高保は、小畑が中央委員引き受けに当たって懇願して呼び寄せた信頼厚き同士であった。これに対して「全協」側は、「労新」で、党の方こそ「全協」分裂を策す挑発者だと反論している。以降互いを挑発者呼ばわりするキャンペーン合戦が続けられた。

 この袴田党中央の動きと連動して、他方で、この間「全協」に対する当局の弾圧が苛酷さを増して、1月から4月までの間に専門部員がほぼ全滅、5月には小高委員長を始め残りの中央委員が検挙されて、壊滅状態となった。内から外から「全協」つぶしがなされたことが歴然であろう。


 次のショット。木島(昭和9.2.17日)、逸見(同2.27日)、秋笹(4.2日)が検挙された。

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 題名/袴田執行部と多数派との抗争について
次のショット。秋笹が検挙される前後の頃、「宮内勇・山本秋らが中心となっていわゆる『日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会』なるものを結成して、党中央部に対立し分派活動に出ている」(袴田16回調書)。

 山本勝之助、有田満穂共著「日本共産主義運動史」には、次のように記されている。
 「昭和8年末より日本共産党中央部のスパイ粛清工作は終いに赤色リンチ事件にまで発展し、中央部は相互に疑心暗鬼を生んで、益々混乱を重ねた上、、中央部はほとんど検挙され、後に辛うじて残った中央委員袴田里美に対してもスパイ視する傾向強く、党の下部組織は中央部を次第に信用しなくなって来た。かくの如き傾向は全国の党組織を沈滞せしめ、党の社会的信用は正に地に落ちんとしていた。この情勢を見兼ねた当時の党農村部員、全会派のフラクキャップ、宮内勇と日本消費組合連盟の指導者党フラクキャップ、山本秋の両名は同志隅山四郎、湯浅猪平らと相寄り党勢挽回策について協議を重ねた結果、党中央部がかくなり果てた上はスパイの嫌疑無き新人の手に党中央部を奪還する以外に方法はないとの結論に達した」。

 3.20日、「最近における一連のテロルに関連し『党中央委員会』の指導に対する我々の態度に付き声明す」と題する印刷物を作成し、各方面に発送している。「党員諸君、全同志諸君」に訴える形式で、次のように声明している。
 「党中央部は今やスパイの巣窟と化した。我々細胞はもはやこのような中央部を信頼することは出来ない。我々は新人による中央部再建のため、全国代表者会議の開催を提唱する」。

 5.1日、「テロルの事実と『中央委員会』の正体をバクロし、進んで、党再建の組織的見透しにつき提唱す」を再発送している。当時の党員の多くがこれを支持し、5.20日に「日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会」が結成され、5.25日に発表されている。同準備会の連絡指導機関紙として「多数派」第一号を発刊し、全国各地の同志に呼びかけた。日本無産者消費組合連盟の党フラクション・山本秋、党江東地区細胞会議、党関西地方委員会(平葦信行、沢田平八郎)らが取りまとめ役となっていた。

 檄文は数次にわたって発行され、次第に組織化され始めることとなった。党員再登録問題、大泉逃亡問題、大会開催問題等について、党中央の指導上の責任と党の体質である「セクト的極左主義」、「官僚主義」を「党発展の最大の障害物」として批判し、全国大会開催によって党中央をスパイ袴田里見から奪還し、「党の性格転換」を遂げるべきであると訴えていた。機関紙「多数派(ボリシェヴィキ)」を創刊し、いわゆる多数派分派の結成に突き進んだ。

 この動きは、機関紙名から通称「多数派」と呼ばれている。ちなみに「多数派」と命名した根拠は、「たった一人の中央委員会に対し、我々は圧倒的に党内多数派を形成しておる事実」(宮内勇「ある時代の手記・1930年代日本共産党私史」)に基づいていた。この伝に拠れば、当時の党員のその多くが、宮顕-袴田ラインによる党中央簒奪に非難の声を挙げており、にも関わらず形式的手続きながら党中央に進出した袴田がその権威を利用して、下部党員と敵対していたという構図になる。但し、批判派も宮顕-袴田ラインの強固な絆、実質的な黒幕としての宮顕の采配までは的確に認識できず、その限りで弱点を持っていたということになろう。

 多数派の呼びかけに呼応し、党関西地方委員会が結成され、その後も茨城、仙台、青森等の全農全会派、東大の学生細胞等に支持者が生まれた。

 これを袴田から見れば次のようになる。4月以降の袴田執行部時代は、この新たに形成されつつあった潮流との戦いが専らとなり、次のように証言している。
 「私は、爾後闘争の重点を同派の徹底的粉砕に置き、これに対し検挙に至るまで断固として闘争して居りました」(袴田16回調書)。

 「党の鉄の規律蹂躙」、「挑発的分派的行動」、「党の機密事項を党外大衆に暴露」という非難を浴びせて封殺に血眼になり、「私の態度が正しいものであると信じて疑わない」(袴田17回調書)というのが袴田の癖でもあった。

 6.20日、赤旗は、一.全農全会中央フラクション全部を党籍より除名す、二.消費組合フラク責任者本名**を党籍より除名す、三.江東地区深川居住3名に関する江東地区委員の除名を確認す、と発表している。
(私論.私見)

 もはや、 ほとんど吐き気がするが、宮顕−袴田ラインはこうして残存していた党内の戦闘的活動家と団体に対して、次から次と内から仮借無き闘争をしかけていたということになる。宮顕−袴田ラインの党内的な内向きの戦いにのみえらく戦闘的になるという戦前戦後の一貫した特徴の現れがここでも見て取れるであろう。

 私には、この時の「日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会」の主張には数々の評価点が認められるように思われる。宮顕を黒幕とする視点は無かったが、その系譜にして宮顕逮捕後の党中央を取り仕切る袴田こそ、「最後に残った大物スパイ」とみなしていた視点が貴重であるように思われる。仮に「党中央奪還派」とするが、的確にも 「(査問事件とは、)大泉・小畑の査問当時から党中央部に巣くっていた挑発者一味が組織せるテロであるに違いない」(袴田17回調書)、「党中央部はプロパガートルによって占領せられ、それが為に不祥なる査問事件を惹起し、現在その中央委員として残留せる袴田もスパイである」(袴田18回調書)と指摘し、袴田党中央の要請する党員資格の再登録拒否と党のセクト性の改善を要求していたようである。
 この「党中央奪還派」の主張が次第に支持を増していき、この時期「通称多数派(以下、単に多数派と記す)」となった模様である。全農全会、日消連、江東地区、関協フラク、関西地方委、中国地方オルグなどの機関が呼応したようである。袴田は次のように証言している。
 概要「最初いわゆる多数派は、 宮内等数名よりなる党内の一派として結成されたのでありますが、我々との闘争の発展過程において非党員のみならず、党籍を剥奪された者を結合するに至り、最後には党と対立抗争する党外の者とも結託してしまっていました」(袴田17回調書)。

 つまり、「党中央奪還派」の方が次第に支持の環を拡げて行き、遂には 「多数派」になりつつあったということである。この当時の残存活動家の多くが 「党中央奪還派」の主張の方を支持していたという事実が饒舌家袴田自身の口から明かされていることになる。多数派は、「故に、我々多数派は現在党に中央部が存在するもこれを信頼することが出来ない」、概略「もし、仮に健全なる中央部が存在するとすれば、次の5項目に付き政治的回答を与えよ。…その2番目は『査問真相』の発表である云々」(袴田17回調書)と袴田執行部を詰問していくこととなった。

 ここは特に注意を要するところである。多数派の主張は、「小畑被リンチ死事件」を廻って、宮顕−袴田ラインが党内スパイを摘発したのではなく、党内スパイラ インによって小畑がテロられたのではないかとみなしていることが判る。そしてこの見方が支持を広げって言ったが故に次第に多数派になっていったということになる。このような声明は約4回にわたって発表されたということである。
(私論.私見)

 この経過は極めて重要な史実であるように思われるが、今日の宮顕系執行部は党史上この流れを一切抹殺しており、従って本稿の記述はかなり出色な部分として受け止めて欲しいところである。この部分は、戦後直後の党を指導した徳球時代にも解明されておらず、従って戦後党運動はこの流れを用心深く伏せたまま経過していることが知られねばならない。

 1955年の「六全協」で宮顕王朝が確立されて以来今日まで、「小畑査問致死事件」を廻って、小畑はスパイであったと「勝てば官軍」論理を聞かされているが、この当時においてさえ党員の多くがそういう弁明を認めず、労働者畑出身のエース小畑が「袴田−木島の党内スパイラインによってテロられた」と認識していたということになる。

 但し、多数派も見誤っていたことがあるように思われる。宮顕がいち早く逮捕されていたことにより、袴田−木島ラインの頭目に位置していた宮顕そのものを疑う視点を持ち得なかったという限界を持っていた。真実は既に何度も解明してきているように、黒幕宮顕の踊り子として袴田−木島ラインが突撃していたというのが実相ではなかったか。残念ながら、この後党は壊滅させられ、この時の史実を受け継ぐ者が誰もいなくなってしまって今日に至っている。

 こうしてこの時期の共産党内は、お互いが挑発者呼ばわりすることとなった。袴田は次のような妙な陳述をしている。
 「最初彼らは、宮本が検挙される前からの中央委員会の行動方針を挑発的なものとして非難したにも拘わらず、後にはその全責任を私にありとして、私をスパイあるいは挑発者として取り扱ったのであります」(袴田17回調書)。

 つまり、それを言うなら宮顕に言え、私だけを挑発者呼ばわりしないでくれと言っていることになるが、検討に値する。

 袴田はこうも言う。
 「仮に彼らの意見が全く正当なりとすれども、彼らの提起せる方法が 党規約を無視し、党破壊の方向へ進むものであったが故に云々」(袴田17回調書)。

 つまり、たとえ「意見が全く正当なりとすれども」、規約を守って手順を踏んで欲しいということのようである。
 「これが党中央部に対する上申書の形式で提出されたものならば解答もするが、右声明書と党員のみならず合法的ないし非合法な広範組織に対し配布された形式であるので、これに対しては党の権威・中央の信頼を傷つけるものであるので何ら解答をせず、なおその出所を調査したところ云々」(袴田3回公判調書)。

 つまり、そういう手順を踏まずに ビラを撒いた行為がいけない、そうした行為は「党の権威・中央の信頼を傷つけるものである」というのである。どこかで耳にたこができるほど今も聞かされているセリフの様な気がするではないか。


 この間、 3月に日本プロレタリア文化連盟(コップ)の大弾圧・検挙が為され、中野重治をはじめ、窪川鶴次郎、村山知義、壷井繁治、中条百合子、山田清三郎ら多くのプロ文学者が逮捕された。赤旗4.23日号は、杉浦啓一、田中清玄、佐野博、風間丈吉、岩尾家定、川崎堅雄、田井為七、児玉静子の除名を発表している。後は際限が無いので取りやめている。

 題名/野坂の引き続いてのコミンテルンからの指示による袴田執行部支援について
 次のショット。この時期この多数派の動きを止めようとするかの如くに、昭和9年7月頃、コミンテルンにいた野坂より、党の分裂状態に対する折衷案として、いかにも野坂らしいコメントが送られてきている。袴田が次のように証言している。
 「インプレコールに『党の分裂を防止せよ』と題する論文を発表しておりますが、彼は、この多数派の運動を党下部組織大衆の愛党的精神より出発する 一つの革新運動であると見、しかもその運動の手段手法は分派的形態を採るがゆえに誤っておるとしております。しかしてその解決方法として中央委員会と多数派とを融和させる為に双方から信頼され得る同士を以て委員会を構成し、それに総てを一任せよと提案しております」(袴田17回調書)。

 野坂は、日本のブル新の報道により材料を得たのであるがと前書きした上で、「かような事が分派的闘争であるならば誤りである。党に分派は許されぬ」(袴田3回公判調書)という立場から、コミンテルンの権威をもって「党中央奪還多数派」の動きの封殺に乗り出していることが知れる。
(私論.私見)

 今日、この時点で既に野坂がスパイであったことが明らかになっている。ということは、このような一見和睦的なのらくら仲裁案こそが、そうしたスパイ野坂にとって好ましい解決の仕方であったことが知れることになる。それにしても野坂は、肝心かなめな時に限って出張ってきて、阿漕(あこぎ)な役割を果たしていることが分かる。
 それはともかく、袴田は次のように証言している。
 「しかし、我々は、コミンテルンの決定ではなく、真の事情を知らぬ誤った前提に基づく野坂の誤った結論であるので之に承服せず、徹底的に多数派の粉砕に努力する事を決定したのであります」(袴田3回公判調書)。
 「その後コミンテルンが党中央部からのこの運動に関する資料を入手するに及び、コミンテルンは岡野の意見を訂正し、多数派を徹底的に否認するという方針にでるにいたったのであります」(袴田17回調書)。
(私論.私見)

 心しておかねばならない。このように最初は中立を装いながら介入し、時間を稼ぎながら反対派封殺を画策し、相手の動きを止めたところで 除名処分他の極統制的な動きでとどめを刺しにくるということだ。事実、野坂コメントは多数派と袴田系党中央を相打ちにさせ、この時期の党活動を却って壊滅に導いていく役割を果たした。

 後日談であるが、戦後の党運動再建に当たって、社会運動通信社を主催していた宮内は、この時の黒白の決着をつけるべく、「意見書」を当時の党本部であった自立会に持ち込んだようである。が、返事が為されずのままうやむやにされたとのことである。意見書の内容は、次のようなものであった。
 概要「徳田が立ち会って、当時の袴田党中央と多数派問題で、あらためて袴田と対決させてもらいたい。もし我々が間違っていたのならすすんで自己批判する。我々は共産党の内部から党の欠陥を改め、人民に自己批判を公表して党を再生しようとしたので、断じて分派活動ではない」。

 増山太助氏は、著書「戦後期左翼人士群像」の中で次のように述べている。
 概要「この意見書を持ち込んだのは京大系の『学生評論』創刊時のメンバーの一人であり、『世界文化』への弾圧時に連座させられた履歴を持つ姉歯仁郎(あねはじんろう)であった。姉歯は、戦後の新しい党は、戦前の活動の総括の上に立って下からつくられるべきで、いろいろな事件の真相や誤りも明確にしなければならないとしていた。姉歯の伝によれば、袴田に会ったが、彼は、宮内ごときが何を言うか。多数派が分派であるということは確定している事実だ。討論などする必要は無い。姉歯、君も分派かとわめきたてられ、相手にされなかったとのことである。「宮本リンチ事件の真相」、「宮本・袴田運動の正体」解明の好機であったにも関わらず、残念ながら掻き消されてしまった。


 話を戻して、多数派の命運は次のようになった。「昭和9年9月頃多数派に下った弾圧と共に多数派も全くその勢力を失墜し、その本体を関西地方に移すに至ったのであります」(袴田18回調書)とあるように、多数派による党中央奪還運動が全国的な広がりをみせつつ、宮内らが近く全国代表者会議を招集し、党中央部を旗揚げせんとしていた矢先の10.2日に山本が、10.3日に宮内が検挙された。続いて仙台、神奈川、青森、秋田、茨城等の組織も弾圧を受け殆ど壊滅させられることになった。こうして「党中央奪還多数派」もまた内から外から弾圧され、解体を余儀された。


 全協弾圧の動きもこれにほぼ連動している。昭和8年の9、10、11月にかけて全協中央常任委員の山口近治、平井羊三、千葉成夫、古閑健介、吉成一郎らが次から次へと検挙された。その為後再建目指して活動してきたのが小畑−小高保ラインであったが、リンチ事件で小畑が消され、小高も翌昭和10年3.8日除名公告が赤旗に掲載され、5月末検挙されている。これを契機に全協は一挙に崩壊していくことになった。

 その後の袴田は、妻と若い女性同士の3人で、世田谷区代田の借家で「赤貧洗うが如き」生活を送りながら、赤旗の発行配布を党活動の生命線として細々と維持していくことになった。このことは袴田の寂寥を物語るが、関東の党員がほぼ壊滅されてしまったことと、離反していたことを証左している。

 この一連の経過に対して、しまねきよし氏は次のように述べている(「日本共産党論序論-その一」1976・9「情況」9月号の「日本共産党批判」)。
 「この多数派運動の問題の究明なしには、あの時代の党史は決して明らかにされないであろうし、また、多数派運動の問題の究明は、必然的に、一連のスパイ査問事件の究明と結びつかざるを得ないはずである。そして、さらに、それらの究明は、査問のあり方に対する思想史的反省と不可分であるはずである。そのような一連の査問事件の一つとして、小畑・大泉査問事件も位置付けられ、小畑の死も究明されなければならないだろう」。

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 題名/多数派、全協のその後について
 話を戻して、多数派の命運は次のようになった。多数派による党中央奪還運動が全国的な広がりをみせつつ、宮内らが近く全国代表者会議を招集し、党中央部を旗揚げせんとしていた矢先の10.2日に山本が、10.3日に宮内が検挙された。続いて仙台、神奈川、青森、秋田、茨城等の組織も弾圧を受け殆ど壊滅させられることになった。こうして「党中央奪還多数派」もまた内から外から弾圧され、解体を余儀された。

 袴田が次のように証言している。
 「昭和9年9月頃、多数派に下った弾圧と共に多数派も全くその勢力を失墜し、その本体を関西地方に移すに至ったのであります」(袴田18回調書)。

 
全協弾圧の動きもこれにほぼ連動している。昭和8年の9、10、11月にかけて全協中央常任委員の山口近治、平井羊三、千葉成夫、古閑健介、吉成一郎らが次から次へと検挙された。その為後再建目指して活動してきたのが小畑−小高保ラインであったが、リンチ事件で小畑が消され、小高も翌昭和10年3.8日除名公告が赤旗に掲載され、5月末検挙されている。これを契機に全協は一挙に崩壊していくことになった。

 その後の袴田は、妻と若い女性同士の3人で、世田谷区代田の借家で「赤貧洗うが如き」生活を送りながら、赤旗の発行配布を党活動の生命線として細々と維持していくことになった。このことは袴田の寂寥を物語るが、関東の党員がほぼ壊滅されてしまったことと、離反していたことを証左している。

 この一連の経過に対して、しまねきよし氏は次のように述べている(「日本共産党論序論-その一」1976・9「情況」9月号の「日本共産党批判」)。
 「この多数派運動の問題の究明なしには、あの時代の党史は決して明らかにされないであろうし、また、多数派運動の問題の究明は、必然的に、一連のスパイ査問事件の究明と結びつかざるを得ないはずである。そして、さらに、それらの究明は、査問のあり方に対する思想史的反省と不可分であるはずである。そのような一連の査問事件の一つとして、小畑・大泉査問事件も位置付けられ、小畑の死も究明されなければならないだろう」。

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 題名/ 袴田逮捕時の様子について

 ここで、袴田の経歴を見ておくことにする。1904(明治5)年青森県上北郡の農家の次男として生まれ、高等小学校卒業後上京、次第に労働運動に取り組んでいくことになった。1924(大正13)年20歳のとき、当時非合法の共産党の指導者であった渡辺政之輔に認められ、東京合同労組のオルグになった。1925(大正14)年21歳のとき、渡辺の推薦でモスクワのクートベ(東京勤労者大学)に送られ、1928(昭和3)年24歳のときまで滞在、その間1927(昭和2)年23歳の時にソ連共産党に入党。日本共産党には帰国後に転籍入党となる。

 1928(昭和3)年3.15日、大弾圧の悲報が知らされるや、コミンテルンの指示により党再建を目指してこの年5.15日、帰国、渡辺政之輔、鍋山貞親(アジ・プロ部長)、三田村四朗(組織部長)らと鶴首会議するものの、何ら成果を見ないまま大阪で6.28日に早くも逮捕されている。この時、地下活動に成功していた福本和夫と活動の打ち合わせで出向いており両名とも逮捕されている。

 1932(昭和7)年10月まで堺の刑務所生活の身となった。大森ギャング事件の一週間後の1932.10.14日、出所し、直ちに上京し、党との連絡取りに成功している。翌1933(昭和8)年1月、山本正美らが党中央の再建に乗り出し、袴田も中央委員になるべく予定されていたが、3月頃中央委員会から外すという決定が為され、野呂が「君は刑務所を出てきて間もないし、中央で働くのはまだ無理ではないかという結論に達した。だから、東京市委員会で働いてくれ」と申し渡され、結局は東京市委員会で活動することとなった。

 1933(昭和8)年5月頃、宮顕が党中央から派遣され、この時二人は知り合っている。この年の暮れ、「党中央委員大泉・小畑リンチ査問事件」を起こし、以降党中央委員に抜擢され、宮顕逮捕によって事実上の責任者となった。中央幹部が次から次へと逮捕され、最後の中央委員として赤旗の発行を維持した。

 袴田は、1935年(昭和10)3.4日、逮捕された。赤旗は2.20日付けの第187号で停刊のやむなきに至った。袴田は駒込駅近くの路上で逮捕された後本富士署へ連行され、そこに30分いてすぐ中野警察署へ移された。以後、深川平野、渋谷、青山、赤坂署をそれぞれ二ヶ月ずつタライ廻しにされ、翌1936年1月、市ヶ谷刑務所、半年後の7月巣鴨刑務所に移動した。7.3日付け深川平野警察署での自供書(これは第7回から10回まである)が今日明らかにされているようであるが、これは拷問によってではない自供書であることが判明している。

 後を継ぐべき中央委員も決められていなかったので、袴田逮捕によって中央委員会は消滅した。この袴田の対応も奇妙であろう。「後を継ぐべき中央委員を決めておくこと」は、この時期の党中央の当然の責務であったであろうが、そういう手順をせぬまま逮捕されていることになる。

 袴田の逮捕時の優遇振りも明らかにしておかねばならない。中野警察署での遣り取りが「暗黒の代々木王国」(辻泰介)P169に次のように記されている。

 「私は本富士署から手錠をかけられ、太腿のところを捕縄で小またに少し歩ける程度に縛られて中野警察署に連行されました。そうしていきなり二階の大広間に連れて行かれ、広いところにチョコンと置いたイスに座らされた。そこに待機していた、いわゆる特高の拷問係り、私の正面には中川という警視庁の警視が座って、他に警部、警部補とか巡査部長ら5、6人で取り巻いて、『どうだ袴田、もうここにきたら観念しろ』というのです。(1時間ほどニラメッコをしたあと)彼らは、一人見張り番を残して別室で協議してきて、中川警視が『しょうがない、今日は引き上げる。しかし、このままじゃ通らないぞ』と云って帰った。そうして私は、豚箱に入れられた」。

 驚くことに、袴田は拷問の憂き目に遭っていない。このことを次のように証言している。

 「私の病気も相当ひどい状態だったし、そのまま暫く調べをやらなかったのです。ですから、私は拷問されないままです。他の同志達は、当時大概拷問されました」。

 袴田は、逮捕後二週間ほど、中野署の婦人用保護室で送り、その後一般用の留置場に入っているようである。婦人用保護室の意味するところは、そこだけは畳敷きであり、板敷きの豚箱とは、ドヤ街のベッドハウスと高級ホテルほどの違いがあるということである。「経験」のあるものには、切実な差異として理解できる違いである。こうした袴田の優遇されブリは何を語って居るのだろうか。

 ここで神山茂夫について触れておく。神山は全協系の労働組合の調査部に属しており、袴田逮捕の2ヵ月後の5月に逮捕されている。つまり、この間の党中央内の内訌と全協弾圧の経過を同時代的に同伴している貴重な人士であることになる。

 その神山は獄中下の中で次のように述べている。

 「1933年末、日本共産党は組織的に弱まり、大衆との結合も大衆への政治的思想的影響もまた失い始めてきた。大胆冷徹な自己批判によって党の政策、戦術、活動方法及び組織構成を全面的に転換し、以って党を強固化するばかりでなく、失われた大衆との結合を改善するほかには党の陥ったこの危機状態から脱出する道は無かった。当時の党中央部は、この危機及びそれを生じさせた客観的、主観的原因の究明を放棄し、問題を党内一、二の挑発的分子の策動に帰した。従って、彼らに対する組織的技術的対策の問題にすりかえてしまった。いわゆるリンチ事件はその結果である」。
 「全面的自己批判に基づく決定的転換が最も強く要求されていたこの時、かかる転換のほんの一部に過ぎぬ挑発者に対する闘争強化の問題を極端に一面化し、強調し、全党と全指導部を挙げて没頭せしめた如きは重大な政治的誤謬であった。かくてリンチ事件は党を敵の集中砲火の前に晒したうえ、全党的恐慌状態を呼び起こす直接の口火となった」。
(私論.私見)

 ここまで見て判ることは、何と袴田の動きが特高の意向通りに誘導されていたかと言うことである。詳細は別途の機会に譲るが、戦前の袴田の党活動の経過とは、共青、全農をつぶして、党中央をつぶして、全協、ナップをつぶして、多数派をつぶして後入獄していくこ とになった。

 してみれば袴田が検挙後拷問に会わなかった不自然さは不思議でも何でもなく、特高からの感謝状勲一等に値していたということになろう。こうして考えると、袴田の予審調書と公判調書での饒舌は、事件の真相を隠蔽し、袴田の語るが如き「宮顕−袴田的正義」のプロパガンダを党内に浸透させんがために、袴田と特高のあうんの呼吸で合作されたものではないのかという構図が見えてくることになる。手の込んだ罠と言える。

 ただし、袴田という人物をそういうセンテンスでばかり読みとることもないようにも思われる。期せずしてか袴田の陳述が「査問事件」ばかりか当時の党の動きを克明に語った第一級の歴史的文書となっているという点で重要な功績を果たしている。宮顕流の予審調書一つ取らせなかった式の対応ではこうした意義が生まれないことを考え合わせると、袴田がいればこそ今日私式のアプローチが可能となったということから見ても、袴田という人物の奇態な面白さがレリーフされてくることになる。

  ある意味で袴田を最大限善意に評価した場合、意図しての結果かどうかは別にして権力側の謀略に身を委ねることにより、そうした権力側のシナリオを後世に残すため党が放った逆諜報者と言えるかもしれない。それが証拠に宮顕の懐の中に入り込むことにより、時々の宮顕の生態を適宜に伝えている節がある。歴史の摩訶不思議なところと言えよう。

 題名/ 袴田の獄中闘争の様子について

 なお、袴田逮捕よりほぼ20日後、一通りの取調べが終わっていよいよ査問事件に対する袴田流饒舌が開陳されていくことになったこの時期の3.25日、熊沢光子が市ヶ谷刑務所の独房で、手記を残して首吊り自殺している。既に、小畑死亡後の監禁中にも大泉との抱き合わせの偽装心中が画策されていたことは見てきたところである。この度は単独自殺でとうとうその数奇な生を終えた。熊沢は、「党中央委員間の査問及び小畑致死事件」の貴重な生き証人であった。特に小畑急死時に、「騒ぎに驚いて押入れの中から飛び出し、その現場を目撃」している点で、事件の解明のためには欠かせない人物である。貴重なその彼女の訊問調書は今日なお明らかにされていない。当然のことながら自殺であったのか、強要された自殺であったのか、他殺であったのかの真偽も不明である。私は胡散臭いと見ている。

 袴田は、袴田調書の饒舌について、1976(昭和51)年6.10日赤旗紙上「スパイ挑発との闘争と私の態度」で次のように弁明している。

 概要「関係者の検挙から約一年後に検挙された袴田の場合には、既に事件のあらすじが判明させられており、事件の筋書きもできていた。これに従って進められる尋問内容を覆すことは不可能であった。そんな訳で、査問状況に関する袴田の陳述は、警察の取調べや予審という密室の審理のもとで生まれた」。

 まわりくどい言い方で、袴田の予審調書での饒舌事情を縷縷説明している。しかし、史実は違う。昭和10.7.9日付け深川平野警察署で特高の片岡刑事補に陳述した「袴田第10回聴取書」を見れば、「述べられません」を随時織り交ぜて、「認める点認めて詳細に陳述し、応えたくない点は明快に答弁を否定し、反論すべきは強硬に反論している」(松本明重「日共リンチ殺人事件」185P)様子をはっきり残している。「スパイ挑発との闘争と私の態度」での袴田の弁明は、恐らく宮顕に指示されソツのない論理でまぶしているが、事情を知る者には徒労でしかない。

 もう一つ、袴田の積極陳述にはある狙いがあった。「スパイ挑発との闘争と私の態度」で次のように明かされている。

 「転向者の陳述は、大泉や小畑へのスパイ容疑の根拠が薄弱だったかのように述べたり、宮本や袴田には殺意が有ったかもしれぬというようなまったく荒唐無稽のことを述べるなど、自分らは非転向の宮本同志や私の意見に追従しただけであるかのように印象づけようとする傾向を多分に持つものだった。こうした状況だったので、私は自己の主張を述べるべく、取調べに応じた」。

 この言い回しから我々は逆に次のことを理解することができる。転向者つまり逸見・秋笹・木島らは、「小畑のスパイ容疑の根拠が薄弱だった」、「宮本や袴田には殺意が有ったかもしれぬ」と述べていたということを知ることができる。

 ところが、戦後直後の徳球時代から宮顕時代に移行して以来影のように寄り添い、片腕として政敵追放に辣腕を振るった袴田も、不破時代の到来と共に遂に除名された。除名されるや袴田は、それまでの宮顕を庇う態度を豹変させ、貴重な「置き土産」を残した後まもなくこの世を去った。袴田は、事件後45年目に してその手記(「週刊新潮」78年2.2日号)の中で次のように明らかにした。

 「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた事実」として、「小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重を乗せた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて『ウォ−』という小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本の締め上げに息が詰まり、遂に耐え得なくなったのである。小畑はグッタリとしてしまった」。
 「私は今まで、特高警察に対しても、予審廷においても、あるいは公判廷でも、自分の書いたものの中でも、この真実から何とか宮本を救おうと、いろいろな言い方をしてきた。この問題で宮本を助けるのが、あたかも私の使命であるかのように私は真実を口にしなかった。その結果、私も宮本も殺人罪には問われずに済んだのだ」。
(私論.私見)

 
つまり、袴田は、この秘密を守る事により宮顕との一蓮托生となっていたこと、このことが党内における袴田の然るべき地位を確保させていたことを語っていることになる。ところが恐らく、この盟約の重みを知らなかった宮顕秘書軍団と不破らはあさはかにも袴田を用捨てにした。袴田は除名される憂き目に遭うや、それまでの宮顕を罪科から救うという観点をかなぐり捨て、事件の積極的陳述と弁明闘争を仕掛けていった。上述の下りは、豹変した袴田の真骨頂を見せている陳述箇所である。この袴田声明を真実と受け止めるか、虚偽と見なすか見解が分かれようが、これまでれんだいこが解析してきたようにズバリこれは本当のことであると受け取るのが相当であろう。

 題名/ 3.15事件、4.16事件組の公判と被告のその後について

 この頃、3.15事件、4.16事件の各被告の第二審公判が始まっている。このたびは、佐野・鍋山らの転向派と徳球・市川・国領・志賀らの非転向派とに分かれて裁判が開始された。10.17日、判決が下され、徳球は禁固10年、未決通算40日を宣告された。徳球・市川・国領は網走刑務所、志賀は函館刑務所へ服役させられている。徳球らは、運動時間などの少しの機会を捉えて身振り手振りで交信しあっていたことが伝えられている。

 5年後の1940(昭和15)年、徳球と市川は千葉刑務所へ移された。紀元2600年の恩赦で刑期が1年6ヶ月減刑になったことが関係したようである。この時志賀も函館から移送され、再会している。国領は暫く網走に留め置かれ、3年後に堺刑務所で獄死した。市川はその後宮城刑務所に移され、3月獄死した。徳球は千葉に1年あまりいて、1941(昭和16)年9月小菅刑務所入りしている。ここには転向派の鍋山らがいて、公判以来10年ぶりの再会となった。徳球は小菅に3ヶ月いて刑期が満了となった。ところが、ナチスの先例に倣って予防拘禁所が中野の豊多摩刑務所内に設けられ、そこに移送されている。ここに各地の刑務所から非転向組が集められた。いよいよ戦争末期の1945(昭和20)年6月予防拘禁所が府中刑務所内に移転され、徳球・志賀らはここで終戦を向かえることになった。


 題名/ リンチ事件組の公判と被告のその後について

 ところで、「査問事件」は党の信用あるいはまた、その権威を失墜させんがために大々的に喧伝されたこともあって、被告人たちのその後の動きも注目されることになった。すでに用済みとして闇に葬るわけにもいかなかったのであろう、延長戦として法廷の場での審判もまた世間に晒さねばならないこととなった。この経過を調査した資料が手元にないので伝聞調でお伝えさせていただくことにする(現在、宮本顕治著「公判記録」を入手したので、新たに第8章を設け検討している)。

 被告人達は1938年(昭和13年)10.10日、予審終結が決定されている。不自然ではあるが、宮顕はもっとも早く逮捕されてはいるが、病気で裁判を受けられない状態にあったとされていることもあって、同じくこの日に唯一人予審調書のないまま予審終結決定、公判に移ることとなったとされている。宮顕を除く他の被告達は、それぞれ予審終結を経て、一斉であったかどうか判明しないが、事件後の8年後辺りの1939年(昭和14年)7月より開始され、1940年(昭和15年)4月に一審判決が為されている。

 宮顕の公判は、この一審判決を見届けた後の他の被告人達の公判決着の一年遅れで、1940年(昭和15年)4月18日から7月20日までの6回開かれており、今日その「公判速記録」がある。この宮顕公判には、当初の頃には袴田、秋笹も併合で出席し、「転向」していた逸見、木島の出席問題について被告と裁判長とのやりとりなどが記録されている。いかにもヤラセで、宮顕・袴田・秋笹らが合同公判を望み、逸見、木島らがこれを忌避していると演出している。当の逸見、木島の生の陳述は伝えられておらず、体裁上そのように受け取られるよう誘導されている。

 実際に読まれれば分かるが、裁判長とのじゃれあった遣り取りが為されており、これのどこが「暗黒法廷」なのかとという気分にさせられよう。この公判を6回終えたところで宮顕の病状が悪化したとされており、公判は中断された。奇妙なことに、この時の宮顕の陳述は一向に実質審議をせぬまま周辺的な一般論を述べるに終始しており、いよいよ「リンチ事件」の実質審議に入らざるを得ないというところで中断している。

 そういう事情によってと思われるが結局併合審理は叶わず、分離公判となった模様である。かくて、1941(昭和16年)4月の第一審判決後上告となり、控訴審は被告の再鑑定要求を受け入れて当初の鑑定から8年余後の1942年(昭和17年)4月頃に古畑種基氏に再鑑定を命じている。古畑新鑑定人は、4.30日に着手して6.3日に新鑑定書を提出するところとなった。


 
こうした経過を経て、1942年(昭和17年)7月18日に東京控訴院第二刑事部で第二審判決がなされ、同年12月上告棄却で刑が確定しそのまま下獄したということである。 秋笹はこの公判途中で「転向」し、翌1943年(昭和18年)獄死したという。今この量刑を見るに、刑の軽きより木島が懲役2年(早期転向)、大泉が懲役5年.未決通算700日(スパイ)、逸見が懲役5年.未決通算900日(早期転向)、秋笹が懲役7年.未決通算900日(公判で転向)、袴田が懲役13年.未決通算900日(非転向)という順になっている。

 宮顕の公判再開は、偶然かどうか他の被告人達の確定判決を見届けるかの如く刑が確定した後の、また秋笹獄死後の1944年(昭和19年)6月13日から11月30日にかけて15回開かれた模様である。奇妙なことに、訊問調書一つ取らせなかった宮顕が、当事者全員の刑確定後で誰とも競合する事無く、15回にわたってとうとうと正義の単独弁明が許容されている。この時の弁明が「非転向タフガイ神話」の端緒となっているというしろものである。既に一部ではあるがこの時の弁明のいい加減さ、得手勝手、卑怯さをみてきたが、当人と法廷と背後に鎮座する当局との三位一体で演出された様子こそ見ておかねばならないであろう。この時の速記録はつくられたが、原本は空襲によって消失したとのことである。今日残されている公判記録は速記録を参考にしてつくられていたものということである。

 同年11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で第一審判決。無期懲役を宣告された。「宮本氏の場合は、裁判が遅れたことにより戦時特例法によって控訴権はうばわれており、大審院への上告のみで」(意味がよく分からないが−私の注)直ちに上告したが、翌45年(昭和20年)5.4日大審院で上告棄却、無期懲役刑が確定し、6.17日網走刑務所に服役したようである。党活動歴2年7ヶ月、獄中11年10ヶ月、麹町署、市ヶ谷刑務所を経て10年6ヶ月を巣鴨拘置所で未決囚として過ごし、最後の4ヶ月間を網走刑務所で過ごしたようである。宮顕の獄中の様子については次稿で見ておこうと思う。

 大泉は懲役5年.未決通算700日に処せられた。当局のスパイとして働いた者が処分されることは理屈に合わぬ奇異なことではあるが、事実本人のスパイ告知による無実の主張にも関わらず治安維持法違反で問われている。この辺りを考察すれば一稿出来るが割愛する。こうして大泉は、裁判を通じて本人が特高のスパイであったと頻りに告白したにも関わらず公式には認められず、治安維持法違反で5年の懲役刑に処せられることになった。控訴したが却下され、45年(昭和20年)8月まで入獄し、敗戦で釈放されるまで獄中に置かれた。

 しかし、そうはいっても大泉の主張は実質的に担保されていたようであり、実際には予審終結決定後ただちに保釈になっており、長期の保釈期間が与えられ、また確定判決後入獄してからも特別に待遇されていた。普通累進処遇が適用されるのは入所後はやくて6ヶ月以降であるのに、彼は入所後すぐ4級となり、それから3級を飛び越して2級、1級、補助看守となり、例外的な出世をして、その優遇ぶりは伊藤律と共に豊多摩刑務所の双璧だったと伝えられている。仮出獄したのも敗戦の年の8.24 日、伊藤律の出所の翌日だった。しかし、いずれにしても数奇な運命を歩んだと言える。

 木島のその後のことは分からない。大泉は戦後健在していた由である。秋笹は発狂し獄中死している。発狂の様子、獄中死がいつどこでのことであったか強く関心を持っているが私の手元にはその資料がない。どなたか詳しく教えて頂けたら助かります。逸見についても分からない。無事出所して既述したよ うに野呂全集の編集に参加していたことまでは分かるがその後が分からない。袴田・宮顕のその後についてはご存じの通りである。以上が「査問事件」の全貌である。

 宮地氏HP共産党問題、社会主義問題を考えるが逸見のその後について明らかにしている。これによれば、逸見はその後法政大学社会学部教授、社会学部長になっていたとのことである。その追悼集(1978年)によれば、「彼は戦後、共産党からのきびしい冷遇に堪え、世界革命の勝利を信じ、党を支持する態度を崩さず、若い後進の青年たちを指導し、育ててきた」ようである。その人となりを含め先輩格の山本正美元共産党委員長が次のように明かしている。

 「この事件の最大の被害者は、私は他ならぬ逸見君であると信じている。逸見君に身近かに接したことのある人なら誰でも知っているように逸見君は進んでそのようなことをする人柄では絶対にない。ただ彼の党に対する忠誠心が、ついに彼をこのような悲劇的事件に巻き込んだのである。この事件の当の責任者たちは現在ジャーナリズム紙上で互に醜いののしり合いをつづけ、責任のなすり合いをしているが、逸見君は出獄時からひとこともこの事件の秘密を洩らさず、心の中て苦悩しつづけてきたようだ。彼は出獄後も支配階級側からだけでなく、この事件の最高責任者たちからも陰に陽に迫害されつづけ、隠忍させられたのである。この逸見君の苦悩については彼がこの世を去る瞬間までつづいたときいている。こういうことはほんとうに誠実な人間でなければできないことである」。

 なお、逸見氏につき次のようにも語られている。

 概要「党中央リンチ事件に関して、終生その政治的影響を重視された氏は、終始沈黙を守り通された」。
 「先生はいかなる反駁も、釈明もなさいませんでした。国会における『春日質問』以後、マス・コミや反共主義者がさかんに『スパイ査問事件』を取りあげるようになってからも、先生は依然として沈黙をまもり続け、そして、そのまま(ということは真実を語る機会を得ることなく、ということになるわけですが)、おなくなりになりました。おなくなりになったことに関する記事は、『一般紙』には掲載されましたが、『機関紙』にはついに掲載されませんでした」。

 「しかし、その後のさまざまの事態の進行は、先生自身の言葉によっては語られる機会がなかった歴史の真実を、きわめて間接的なかたちにおいてではあるにせよ、すぐれて客観的に語りはじめているようにも思われます。それを聴く耳をもたない人には聞こえないとしても」。

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(私論.私見)

 お読み頂いた方には改めて御礼申し上げます。字句の訂正個所等々目に付いておりますが、いずれ訂正したいと思います。このドラマ構成の責任は当然私にありますが、見てきたような嘘と言われても困る面もあります。もし内容において記述間違いが指摘されれば検討にはやぶさかでありません。

 但し、基本的な構図としては、私の得手勝手な推断ではなく、見てきた通りほとんど全てを予審調書.公判調書に拠っていることをご理解賜りたいと存じます。調書の誰の言い分が絶対的に正しいとか間違いであると言い合うことは不毛であると思われます。それぞれ保身的な言い分も付加されていることも踏まえつつ真実により一層近づくこと、ここから貴重な教訓を引き出すことこそが、小畑氏の真の名誉回復になるのではないか、ひいては党の再生に向けてのベクトルを打っ立てられるのではないかと思うわけです。

 今思うに、宮顕は、事件の真実が、関係者らの予審調書、公判調書が開示されないことを前提とさせて、公判でも回想録においても言いたい放題述べていると云う感じがしています。ところが世の中好事魔多しそうはならなかった、ということだと思う。大泉・袴田予審調書の全文が竹村一氏に戦後の古本屋で入手され(真偽はどうでも良いと思うが−私の注)、長い間平野謙氏の手元に保管されていたということである。平野氏の「日本共産党リンチ事件の思い出」は、立花氏の「日本共産党の研究」で一級資料が漏洩されたことにより、もはや秘匿の意味が減じ正確を期すという観点から出版、公開されることになったようである。まだまだ解明したいことは山ほどありますが次稿でもって一応この辺りで締めくくりしておきます。

 最後に報告しておきたいことを以下記す。戦後の党の第5回大会(1946. 2.24−26日)において宮顕らの「査問事件」についての徳球の態度を伝える次のようなエピソードが残されている。この大会の頃、書記長・徳球と政治委員・宮顕との間で戦前の「査問事件」についての次のようなやりとりがなされていたと伝えられている。例によって袴田が明らかにしている。

 「徳田は、小畑達夫を死亡せしめた査問の仕方を激しく非難し、『不測の事態が起こり得るわけだから、あんな査問などやるべきでなかった。第一あの二人がスパイだったかどうかもわからんし、たとえスパイだったとしても、連絡を断てばそれですむことではないか』と。宮本と袴田は、このとき徳田に食い下がり、『連絡を断ったくらいですむことか』と激論となった」(袴田里見「私の戦後史」)

 ということがあったと伝えている。このような二人の対立が延々と「50年問題について」まで続いていったというのがもう一つの党史でもあったのではないでしょうか。

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 これより後は、戦前日共史(11)獄中共産党時代





(私論.私見)