第3部−3 査問事件/宮顕の党中央潜入と「査問事件」に至る党史の流れ

 (最新見直し2006.5.19日)

 これより前は戦前日共史(七)不屈の再建史考


1933(昭和8)年の動き

【野呂−小畑執行部共産党時代】
 1933.5月、山本委員長が逮捕された。相次いで、中央委員の谷口直平、松尾茂樹、山下平治らも検挙された。その結果、党は、野呂氏を中央委員長に就かせることで党中央を維持していくことになった。野呂は「日本資本主義発達史講座」の主宰者として知られる学者党員であり、片足が不自由な病弱体質であることを考えると委員長は重責に過ぎた。しかし、他に適格な委員長がいないという人選により本人も引き受けることを決意した。この野呂委員長の下に中央委員として大泉兼蔵・小畑達夫・逸見重雄・宮本顕治が配置され、中央委員会は都合この5名で構成された。

 野呂は委員長を引き受けるに当たり逸見を直の片腕にして登用した形跡がある。逸見は京大経済学部卒のみるからにインテリ風な穏やかな人士であるが、27歳の経済学部3回生のおりいわゆる大正14年の京大学連事件に連座している。社会科学研究会の学生検挙は全国に及び、この時岩田義道(京大.経済学部3年、29歳)、野呂(慶大卒、26才)、秋笹(早高、24才)らも治安維持法違反で逮捕されている。そうした縁から顔見知りになり、野呂が委員長を引き受けるに当たって逸見を呼び寄せたものと思われる。大泉兼蔵・小畑達夫の登用も野呂の意向であり、目をかけられていた。
【宮顕が党中央委員として登壇する】

 この時の中央委員会の職務の内訳は、逸見・宮顕が政治局を、大泉と小畑が組織局を構成することとなった。書記局は、当初は野呂、逸見、宮顕だった。この野呂執行部時代に宮顕が中央委員として登場してきたことが注目される。この時宮顕は若干24才であり、異例の登竜であった。

 とはいえ、この当時の党中央は、党史上最も活動力が低下したとみなされている内向きの党活動に終始した時期であり、宮顕が戦後になって「戦前最後の党中央委員」という肩書きを触れ回り、戦後党運動の始発に当たって党書記長の座を徳球と争うのは僭越も甚だしい。

(私論.私見)宮顕の中央委員推薦者について

 ここで気になることが一つ残されている。この当時中央委員になるためには既中央委員の推挙が必要とされ、しかる後全中央委員の承認が必要であったはずであるが、果たして宮顕を中央委員に推薦したのが誰なのか記録がない。というか意図的に伏せられている。どなたか出典も明らかにした上で教えて頂けたら助かります。


【三船の除名声明】
 1933.6.15日、三船は党から除名される。1933(昭和8).6.21日付赤旗(第143号)は、「挑発者香川の除名に関する決定」を掲載している。その中で、香川=三船が山下平次、谷口直平、山本正美ら党中央幹部を売り渡したこと、又全協東京支部のメンバー、党地区メンバー、党東京市委員会メンバーが三船の手で特高当局に売り渡されたこと等々が述べられている。奇妙なことに、この時の記事では小林多喜二の売渡しにについては言及されていない。

 留意すべきは、宮顕一派と対立していた形跡がある模様である。赤旗(第143号)は、三船が、「党内のインテリがテロに動揺して労働者である自分を追い出そうとしている。我々は、党からインテリ出を追い出し、労働者で固めなくてはならぬ」と主張していたことを明らかにしている。「第5回宮顕公判陳述記録」に拠れば、宮顕は、「スパイ水原(三舵の別名)の活動と共に内外呼応して起こされたものに佐野、鍋山の転向事件があり云々」と述べており、三船のスパイ活動と佐野、鍋山の転向事件を関連付けている。牽強付会とはこのこと。

 奇妙なことに、この三舵と宮顕は次のように関わっている。1933年始め頃、三船は変名を用いて党中央部に入り込み、中央委員と東京市委員長の要職を兼務。東京市委員長の座は、河島治作から三船に。三船の除名後、宮顕がその後釜に座っている。この間、後に宮顕を売り渡すことになる萩野増治が東京市委員会の書記局員として名を連ねていた。

【「獄中転向声明」騒動】
 この頃6.9日、共産党の最高指導者であると目されていた旧党中央委員長・佐野学、鍋山貞親の共同署名による「獄中脱党(転向)声明」が発表され、全国の共産主義者に衝撃を与えた。声明書の題名は、「緊迫せ内外情勢と日本民族及びその労働者階級」、副題として「戦争及び内部改革の接近を前にしてコミンターン及び日本共産党を自己批判する」。

 佐野学・鍋山らは、三・一五事件、四・一六事件当時の日本共産党の最高幹部であり、獄中にあっても、獄中幹部としてかなりの影響力を保持していたこともあって、こたびの転向声明は、4年前の水野成夫、浅野晃らの転向騒動に続いてより本格的致命的な影響を与えた。

 同年「改造」7月号の「共同被告同志に告ぐる書」として発表された。(これにつき、「佐野、鍋山両名による共同被告同志に告ぐる書(通称、「転向声明」)」で考察した)

 司法省行刑局が、佐野・鍋山の転向声明を「思想教化の好材料」として全国の刑務所に謄写配布した結果、前年の10.30日の判決で、無期懲役を言い渡された4名のうち市川正一を残して全員が転向するという事態になった。続いて三田村四郎、高橋貞樹、中尾勝男、杉浦啓一らの元中央委員、その他首脳部の大量転向が為され党内に衝撃が走った。佐野・鍋山に続く共産党委員長であった田中清玄や風間丈吉も「転向」を表明した。佐野博も追随した。河上肇のような学者や文化人の「転向」も伝わって、一大転向ブームというべき状況になった。

 結局中央委員経験者でこの時期に「転向」を表明せず残ったのは、市川正一・国領伍一郎・徳田球一・志賀義雄・福本和夫・紺野与次郎ら数えるのみになってしまった。もちろん「転向」は幹部ばかりではなく、下部の党員たちも、続々と「転向」を表明し、「転向時代」が生じた。プロレタリア系文学者たちも次々に転向し、1934年にはいわゆる「転向文学」が登場してくる。

 「大量転向」がいかに大規模であったかについて見ておく。1933.7月の当局発表に拠れば、全国の思想犯中、未決党員1370名のうち転向者415名、既決党員392名のうち133名、とある。池田克・氏の「左翼犯罪の覚書」(中央公論社編「防犯科学全集第六巻思想犯篇」1936年所収)によれば、1936.5月末において、全受刑者438名中転向者324名実に74%だという。この数字は、厳密に共産党員のみを対象とした「転向」ではないが、「転向ブーム」の雪崩ぶりが知れよう。

【党中央の除名対応】
 党中央は、この問題対策に追われる一方で、中央委員内部の対立も深めていくことになった。この「転向声明」に対して、共産党は、宮顕の手になるものと思われる「佐野・鍋山除名声明」を発表し、除名処置をとると共に機関紙上で激しく非難した。しかし、それは具体的な論点に関する反論ではなく、単に裏切り者として罵倒するものであり、不思議なことであるが非転向が伝えられた市川正一などの幹部の反論は公表されていない。党中央のこうした変調さも加わり「転向の雪崩現象」をくい止めることができなかった要因ともなった。

 この頃の転向の流れと除名は次のとおりである。元党委員長山本正美、6.15日、三船留吉をスパイ容疑で除名、6.16日、元中央委員佐野除名、6.16日、元中央委員三田村除名、6.21日、元東京市委員会責任者・香川こと三船留吉除名、7.16日、元中央委員高橋.中尾除名、8.6日、元中央委員鍋山除名、8月、元中央委員風間丈吉除名、8月、元中央委員田中清玄除名。

 転向者の個々のニュアンスは千差万別で、コミュニズムを捨てるという者から書斎にこもる者、宗教へ向かう者、コミュニズムと闘うという者、コミンテルンの指令で動く党の方針に異議を出す者等々各人各様であった。

【党中央内に二派対立が発生】
 転向ブームの間も検挙は続き、中央委員も含めて続々と逮捕されていった。こうした追い込まれた状況の中で、次々と続く検挙の裏には共産党の中にスパイが潜んでいるからに違いない、という推測が生まれ、お互いがスパイではないかと疑うような風潮になった。党員がスパイだと疑われると、上部の指令で「査問」としてスパイかどうかの確認が行われるのだが、それらの多くは、スパイだと決めつけた上でその「自白」を求めるだけのことが多く、「自白」を引き出すためにリンチが用いられることが多かった。これらはスパイリンチ事件と呼ばれたが、スパイと目された党員の中にはスパイでない者否むしろ有能党員も多く含まれており、そういう将来の党幹部要員が狙い撃ちされている感があった。しかし、当時の平党員はこの構図が分からなかった。こうして、党員たちの動揺と疑心暗鬼を深める結果になった。

 この頃、大泉・小畑・逸見・宮顕の中央委員間の疎通が悪く、困った状況に陥っていたという事実がある。対スパイ対策のため相互に機密保持をなした結果、一層分裂的でさえあった。こうなると、党内にはお互いに信用しうる系列のみが形成され、疑心暗鬼が党内を支配し始めることになった。その系列とは、一方が「労働者」派大泉.小畑.松尾らであり、他方が「インテリ」派宮顕.秋笹らであった。野呂委員長はインテリであったが、むしろ「労働者」派の方に信を置いた。このことが案外と知られていない。


 
詳細は分からないが、この頃下部からの宮顕に対する反対が強く為されていたとある。亀山の「代々木は歴史を偽造する」には、大衆団体方面を受け持っていた松尾茂樹が、「宮本は文化運動出身者で、党や労働組合方面の実際の階級闘争、大衆闘争の経験が非常に少ない。東京市委員会にでも行って、多少直接闘争の経験をする必要がある」と強硬に申し入れ、結局、「労働者」派の方の意見のほうが強まり、6月中旬に野呂、大泉、小畑の政治局に編成替えされた。

 8.5日、松尾茂樹、森田二郎らが検挙されている。

【東京市委員会に宮顕−袴田分派誕生】
 こうした事情もあって宮顕は政治局を離れ、東京市委員会に転出した。旧東京市委員会責任者スパイ三船留吉の後任となった。後にリンチ事件に登場する袴田は、それより早く昭和8年2月上旬から東京市委員会委員であり、他に荻野・重松が委員であった。この間党中央部から必要に応じて指導がなされ大泉が寄越されていた。そこへ、 宮顕が転出してくることになり、以後袴田は宮顕管轄の部下という立場になったという関係になる。袴田は組織部会の部長であり、その部員に木島隆明がいた。

 袴田は、「党とともに歩んで」の中で、日時場所は不明だが宮顕との出会いについて次のように記している。「三船が逃亡したあとに中央から中央委員として東京市委員会の責任者として一人の同志が派遣されてきました。なかなか体格の良い男です。それが宮本顕治同志です。今ほどいい体格ではないが、とにかく若いときは柔道で身体を鍛えたようないい体格でしたね。そうして宮本同志を中心にして東京の再建活動を始めたわけです。私はそれまでの東京市委員会のいきさつ、東京市における党活動のいきさつについて話をしました。宮本同志は今もそうだけれども、非常にきちょうめんだし、厳格にすべきところはなかなか厳格だった。私は一緒に活動しながら、この同志は本当に信頼できる同志だという確信をもった訳です」。これをれんだいこ流に受け取れば、宮顕をボスとする党中央牛耳り作戦が発動したことに対する袴田の婉曲な言い回しだろうということになる。こうして、宮顕−袴田−木島は直系ラインが形成された。

 宮顕が東京市委員会の責任者となって以来会合が定期的に持たれるようになっている。それを宮顕の有能さとして評する向きもあるが、宮顕の行動に対しては常に後押しが為されており、当然のことながら特高の掣肘がなかったと解するのが至当であろう。参考までに記すと、宮顕と袴田の場合ウマがあい、三船と袴田は折り合いが良かったようであり、大泉と袴田の折り合いは互いに快く思わぬ程に悪かった風である。

 宮顕−袴田ラインが東京市委員会でその地歩を固めていたこのような時期、「党中央部の優秀分子が続々と検挙されましたので、これを補充して中央部の組織を強化することが党中央部においても企てられ、私たちも東京市及び各地方の優秀分子を集めて党中央部に送り、その諸機関に補充して中央部を強化すると云う意見を上申したのであります。中央部でも左様な意見を用いられて」(袴田第6回調書)、9月下旬頃東京市委員会から人員補充がなされていくことになった。

 こうして、この頃宮顕グループの党中央進出がなされることになった。この頃の東京市委員会系列の党組織は、最下部が党細胞でその上に地区委員会があり、その上に東京市委員会があり、更に最上位に中央委員会があるという形態になっていた。東京市委員会の党中央進出が為された結果、宮顕は東京市委員会責任者の地位を去り、後を萩野に譲り、党中央委員会専任で活動することになった。袴田と荻野が党中央組織部員に引き上げられていくことになった。ちなみに、宮顕は、後になって荻野を口汚くスパイとしてののしることになる。その後の展開から見て云えることは、東京市委員会を牛耳った宮顕になびいたのが袴田−木島ラインであり、荻野はこうした策動になじまず、むしろ小畑派に位置していたようである。


 続いて、「当時党中央組織部には労働者として働いた経歴を持つメンバーが少なかったので、私は労働者を指導する為党中央組織部に労働者出身の者を加えるべきだと云う事を強調しておりましたところ、これが容れられ、私と荻野とが組織部に入ることになり、 私は組織部の中にある大衆団体係りを命ぜられたのであります」という袴田の供述がある。ということは、かなり意識的な働きかけの結果、相次いで宮顕グループの党中央進出がなされたということになる。こうして袴田が中央委員会入りしたことにより、東京市委員会における袴田ポストは木島隆明に引き継がれている。

【三船の再査問の動きと検挙】
 1933.8.20日、袴田らが先の査問に納得せず、三船の再査問を執拗に大泉に迫る。東京市委員会にて再査問を廻って大泉、袴田、萩野、重松の4名が謀議。再査問が決定した。

 1933.8.21日、三船の再査問決定の翌日、三船は東京市各地区の責任者との会合中検挙される。「宮顕第4回公判陳述」に拠れば、三船は、拘留された警察署の中から「俺は監房の中で英雄的に働いている」というレポを党中央に届けている、と云う。

 「三舵は釈放された後も、党下部組織等への再度の侵入を試みていたといわれる。だが、スパイであることが発覚したことをその後に知り、組織への侵入を断念して、潜伏することになる」とのこと。

 1933.8.21日、赤旗第155号に「スパイ香川(本名三船)の判明せる素性」が発表される。何とも手回しの早いことである。

【袴田が中央委員候補に昇格】
 袴田は、続いて10月中旬の頃野呂委員長と会い、その場で中央委員会候補者に任命された。秋笹も中央部員として「赤旗」編集局で働いていたが、この頃中央委員会候補者に任命されている。こうして宮顕−袴田−秋笹という後にリンチ事件の主役として登場することになる面々が揃うことになる。ちなみに、袴田が小畑を知るようになったのは、こうして袴田が党中央部に来てからのこの頃のことであったということである。

 萩野が東京市委員長に就任。

 1933.9月、共青同盟委員長・塚田大願が検挙される。 


 9月、雑誌「文学界」が創刊される。宇野浩二、川端康成、小林秀雄、広津和郎、深田久弥、プロレタリア文学出身の武田麟太郎、林房雄が創立同人となった。


【野呂委員長検挙される】
 かかるうちの9、10、11月にかけて全協の山口近治、平井羊三、千葉成夫、古閑健介、吉成一郎らが次から次へと検挙された。11.11日赤旗編集長風早八十二が検挙され党中央に衝撃を与えた。

 1933.11.28日、野呂委員長も又検挙された。僅か半年余りの委員長であったことになる。(宮顕の野呂委員長逮捕直後の変調な動きが判明している。宮顕による史実偽造の箇所(野呂関係)参照の事) 翌年34.2.19日、死去(享年33歳)。

 1933.12.9日、共青再建中央部壊滅。


【後継委員長選出されずの「解体前夜」共産党時代】】
 野呂検挙後、中央委員会は、大泉.小畑.逸見.宮顕.袴田.秋笹.安井により中央委員会が構成されることになった。

 12.11日赤旗第165号が発刊されたが、この号をもって活版が途切れることになった。熱海事件以後も首都・関東における活版「赤旗」の非合法配布ルートを死守して活動していた地下配布部員の梅本竹馬太氏の著書「壊滅」(1974年・白石書店)によれば、最末期のこの当時でも「その頃『赤旗』は部数は少し減って、関東・東京合わせて5千部ぐらいになつていたが、タブロイド版4ページで16貫=60キロぐらいになる」と伝えている。

 12.12日片山潜労農葬に取り組んでいるが、この時期の活動としては既に見るべきものは無い。ところで、野呂委員長の検挙は尾を引き、当時野呂と連絡線を保っていたのは大泉であり且つ大泉と小畑は盟友関係にあったことから、野呂の検挙は大泉.小畑らのスパイによって為されたのではないかとの宮顕らの策動が強められていくことになった。但し、この動きは当人等には分からなかった。これが「大泉.小畑査問事件」の直前の流れであった。
【宮顕派による「スパイ摘発闘争」、野坂のコミンテルンの権威をもっての支持】
 12.12日この日モスクワでのコミンテルン第13回執行委員会総会で、片山潜が死去した後を受けて野坂参三が日本代表としてコミンテルン執行委員会幹部会員の地位に就いている。野坂は、以降モスクワからコミンテルンの権威をもって「党撹乱者を一掃せよ、党分裂者を一掃せよ」という日本語リーフレットを発行し、その他「国際通信」(34.9月〜38.1月まで)を創刊するなど日本共産党の指導に当たっている。

 この当時を語る宮内勇の貴重な証言があるので記す。「昭和8年の春から夏にかけて、我々の運動はますます孤立化し、だんだんと非合法に追い詰められていった。丁度そういう時、3月に権哲次、4月に松本三益が検挙された。その頃既に党内ではスパイ松村のことが周知の秘密としていろいろ噂され、誰かがやられるたびにまだ松村の残党が残っているのではないかという疑惑が、組織内部に低流となってひろがっていった。特高の検挙のやり方は、まことに巧妙を極めていた。目星を付けてもすぐには逮捕しない。暫く泳がせた上、いよいよ誰かをその連絡先で捕らえるという時にはその相手の人物をわざと逃がす。逃がすことによってその人物に疑惑をかけさせる、というやり方を用いたようだ。党内に疑心暗鬼を生ぜしめるのが狙いである。昭和8年には、そういう不審な検挙がボツボツと続き、それが余計に党内の空気を撹乱した」(「ある時代の手記」)。


【この時代の貴重な証言が為されている。梅本著「壊滅」より】
 古本屋で、「壊滅」(白石書店、1987.10.10日発行)なる題名を発見し購入した。読了して分かった事は、本書が、宮顕が党中央に登壇してくる前後の過程を期せずして末端党員として生き抜いた梅本竹馬太氏の貴重な証言録となっているということである。れんだいこが注目した個所を紹介しておく。

 ちなみに、本書は、1972年の春頃、赤旗の懸賞小説に「道暗けれど」の題名で応募し、その年は当選作無く選外佳作となったものの、これに相当な筆を加えて「壊滅」として出版されたという経緯を見せている。してみれば、梅本氏は、宮顕系日共運動に随伴していたことが分かる。しかし、何らかの違和感を覚えていたのであろう、本能的とも覚える衝動で歴史に止むにやまれぬ遺言を残したように思える。

 梅本氏は、当時の非合法下での赤旗地下配布委員であった。梅本氏の著書「壊滅」の稀有なところは、「1933年一杯、そして34年の初めまで娑婆に生き延びていたのは彼しかいないのですし、従って地下配布活動に関しての記録として貴重な資料」となっていることにある。その梅本氏が次のように述べている。

 「10.30熱海事件」後の傾向として、(れんだいこ注・つまり宮顕が次第に党中央に登壇してくる過程と一致しているが)、それまでの党組織の上下関係に信頼が無くなったという変化を証言している。「君の言った通りかも知れん。何か中央で、大変なことがあったらしいな。何が何だが分からんが、何しろ連絡はズタズタで、手も足も出ないよ」。

 この変化を感じ取った梅本氏は、本能的嗅覚で組織防衛に向かう。概要「上から連絡に来る奴が危ないというのは、どうやら現実の事態なのだ。スパイが潜入するとすれば、それは上の方であって、我々のレベルではない。どこから何が来ようと、我々には組織を守る義務があるのだ」。「キャップが臭いなどとは絶対に思わないけれど、とにかく天下りの人間には、一応警戒すべきだと思う。その点ではお互いに情報を交換した方がいいと思うな。今や、やられないで組織を防衛することが、最大の責務じゃないか。進むより守る時だろう」。

 以上の状況を踏まえる必要があるが、次のような貴重証言している。或る日、定期連絡していない上部組織のキャップから呼び出しが届き、出向くと絶対安全な秘密アジトを提供してくれという依頼が為された。何かよほどのことに違いないので、今回限りという注文をつけて快く引き受けることにした。「あくる日キャップに紹介されたのは、70キロもありそうな、ガッシリした体の、着流しの同志だった」。秘密アジトまで連れて行くと、「残念だけど、この家はまずい」と云う。私は呆気に取られて手を止めた。「同志は渋い顔で笑った。目尻の短い丸い眼の角張った顔に、伺えるものは何も無かった。向きを変えて立ち去ろうとするのに、私は追いすがった。何が気に入らないのだ。訳も言わずに断るとは、無礼なやつと云いたかった」、「私は黙って見送ったが、どうにも割り切れなかった。太く巻いた錦紗の帯と、素足に白い大きな下駄が眼に残った」。

 後に判明したことであるが、この時の人物が、「これが宮本同志だったと私は思っている。当時は顔は知らなかったのだが、年末の逮捕直後にみた不鮮明な新聞写真で、確かにそれと分かった」とある。この情報の貴重なところは、宮顕がかような変調な活動に精出している様子を証言しているところにある。絶対に割れていない秘密アジトを上申させ、確認すればもはや用済みとしてぶっきらぼうに踵(きびす)を返している。

 梅本氏が呆然とするのも無理はない。ところが、その梅本氏は、宮顕の変調行為に対して概要「アジトが、たまたま知り合い先であったことによる遠慮、用心に用心した故」なる善意の推測で済ませている。あるいはその推測はカムフラージュかも知れない。証言内容そのものに価値があることを思えば。

 ところで、本書を解説した広瀬東氏は、「梅本君と『壊滅』と―その頃のことなど―」で、「私の考えでは彼に関する限り壊滅は無かったはずだった、のです。しかし実際には彼ばかりでなく文字通り壊滅していった有様を、後になって栗田秀夫君(戸塚の印刷所担当者)に聞かされて呆然としたことを覚えています」と述べている。つまり、梅本氏の線は秘匿に秘匿されていた虎の子の党線であり、容易には摘発されない仕掛けであったのに、いとも簡単に壊滅させられたことを強く訝りながら明らかにしている。

 こうなると、れんだいこの推定は容易である。梅本氏は、異系統のキャップと会わされ、宮顕に会っている。この時から梅本氏は既に特高に事実上捕捉されており、適当に泳がされた挙句に逮捕されることになるであろう。事実、その通りになった。
(私論.私見) この頃の党組織の変質と宮顕の変調な動き考

 れんだいこは推測する。宮顕は、何の為に絶対に知られていない秘密アジトの提供を指示し、確認次第にもはや無用としたのだろう。折柄の「査問アジト」を物色していたも思えるが、むしろ特高が未だ掌握できていない秘密アジトを直接的に探索していたのでは無かろうか。以上、れんだいこは、党中央登壇前の宮顕の活動の一端が窺える貴重証言とみなす。

 宮顕の風体も非合法化のそれとしては異様であろう。野呂委員長逮捕直後のアジトへも同様の格好で出向いているが、この御仁は何と自由奔放であったことだろう。かの非合法時代を「着流しの下駄履き」で過ごしていたというのだ。


(私論.私見) この間の党活動総評考

 この間の党活動を総評して、高知聡氏は「日本共産党粛清史」で次のように云う。

 「戦前共産党は、自らの没主体性と、相次ぐ弾圧によって、十全な活動を展開したことはなかったが、日本マルクス主義は必ずしも貧困だったわけではない。昭和初年代の文壇を席捲したプロレタリア文学運動にしても、昭和13年まで続いた唯物論研究会やその業績にしても、むしろ他国に勝る量的業績を持つものと云って良い。そして、質的にはスターリン主義に固有の客観主義によってそれらが蝕まれてしまっていたのだとしても、この遺産は、戦時の辛酸を経て、反省に耐える何かを持っていたはずだ」。

 これより後は戦前日共史(九)「小畑中央委員査問リンチ致死事件概要」





(私論.私見