第10部−4 補足・戦前党綱領の変遷考
(「22年テーゼ」、「26.2月コミンテルン執行委員会幹事会指針」、「27年テーゼ」、「28年コミンテルン第6回世界大会指針」「31年テーゼ草案」、「32年テーゼ」考)

 以下、党綱領の変遷の概要を見ていくが、我々はここから何を学ぶべきだろうか。本来ここが一番肝心なところだが、ケッタイナ事にこういうところに研究が向かった例を知らない。もっとも、知らないのはれんだいこだけということもあるので、ご承知の方は教えてほしい。

 この考察が何ゆえ大事か。それは、一つに、党綱領は自前で作り上げねばならないということ。二つに、別組織を作ってでも、それを為すに足りる理論的能力の向上に営為努力せねばならないということ。三つ目に、新たな問題が発生すれば、共同テーブルで話し合わねばならないということ。これらはいずれも作風問題に収斂するが、恐ろしいことにというか馬鹿げていることに、日本左派運動はあまたの頭脳を抱えながらこの肝心要のところであまりに幼稚じみている経緯を見せてきている。ここのところの反省が為されない限り、日本左派運動は決して歴史の主人公にならないだろう、と思う。

 という観点かられんだいこの「戦前党綱領の変遷論評」に向かうことにする。もう一つその意義をを付言すれば、徳球系の跡目を簒奪した宮顕系党中央のあまりに馬鹿げた現党綱領の諸規定、例えば、従属規定論、無限後退式の二段階革命論、敵の出方論、議会万能主義論等々に的確な批判を為す為にも必要な観点となるだろう。


 
「戦前党綱領の変遷考」は、1・党創立時の綱領討議の状況、2・「22年テーゼ」、3・「26.2月指針」、4・「27年テーゼ」、5・「28年無指針」、6・「31年テーゼ草案」、7・「32年テーゼ」につきそれぞれの特徴と、重要な認識、方針部分の変遷個所を確認しつつその検討をしてみたいと思う。更に、それらのテーゼの起草者の主体を明確にさせ、コミンテルンの一方的な押し付けであったのか日ソ両共産党の共同起草であったのかの見極めもして見たいと思う。この辺りの考察は自ずと「テーゼに纏わる日本左派運動の限界性」を浮き彫りにするであろう。

 付言すれば、日本左派運動の自前の党綱領作成は、戦後になっての徳球系党中央の「51年綱領」まで待つことになる。徳球系運動批判の大合唱の中でこの意義が確認されていない。この「51年綱領」の意義まで考察を及ぼして見たいと思う。

 もうひとつ付言する。今日においても、戦前党綱領(テーゼを含む)の原文が開示されていない。よって、評者の評を評すことによってしか整理できない。しかしながら、「評者の評」ほど当てにならないものは無い。原文開示さえあれば、れんだいこ流の解析が出来るが、無いので、当てにならない「評者の評」より汲み上げるしかない。残念なことである。

 2003.5.17日、2004.12.21日再編集 れんだいこ拝


【田川和夫氏の「日本共産党史」より】
 田川和夫氏の「日本共産党史」に次のような一節がある。
 「十月革命後の世界資本主義の危機は日本資本主義をも襲った。最大の革命的危機は富山県から全国に波及した米騒動となって爆発し、労働運動もようやく本格的に組織化が進み始めた。そして『前衛党』が成立するべき客観的条件が成熟していたとはいえ、しかしながら、必ずしも日本共産党の結党は、腐敗し、堕落した社会民主主義=日和見主義とのたえざる思想的・政治的・組織的闘争、従来の一切の思想と実践に対する批判を通じて自己を確立していったのではなかった。

 むしろコミンテルンの指導を直線的媒介としてのみ結成されていった日本共産党、それは自己の胎内に国際的権威を神聖化する俗物的思想を始めから宿していたのであり、コミンテルンの変質は、そのまま日本共産党の中にも最も鋭い形をとって現われてくることになるのである。そして38年間の党史を通じてかかる俗物思想は常に拡大再生産され、38年間の歴史の中で、戦前・戦後を通じていくたびか党内の矛盾を爆発させながらも、ソビエト共産党の存在に支えられてのみ、自己を維持してくることができたのであった」。
 「『27年テーゼ』が出されるに及び、これらの論争は簡単に決着がついてしまったばかりでなく、労農派の猪俣津南雄などにしても、『27年テーゼ』を自己に有利な方向に解釈することによって反対派との闘争をはかるというコミンテルンに対する屈服は27年以降は特に救いようの無い事態にまで発展していった。すなわち、党それ自体を自己目的化するスターリン主義的党組織論はそのまま日本の土壌の上に移植され、コミンテルンに対する批判は反マルクス主義であるかのような風潮を生ぜしめ、それを次第に色濃くしていったのであった」。

 「従ってその機械的な反発として『労農派』という独自のマルクス主義潮流を一方に形成していったがそれとても世界革命の展望のもとに前衛党を建設する主体を欠いたものである以上、グループの範囲から抜け出ることはできなかった。そして27年以降は、コミンテルンの神格化がますます横行し、権威に寄りかかってのみ自己を立証せんとする党機構は抜き難いまでに成長し、しかも獄中に長い間隔離され、一種の精神主義がはびこったために、徳田・志賀らがますます権威主義として自己を確立していったのは必然的なことであった」。

(私論.私見) 田川和夫氏の「日本共産党史」的観点について

 総評としては田川氏の位置付けで問題ないと思うが、末尾の「しかも獄中に長い間隔離され、一種の精神主義がはびこったために、徳田・志賀らがますます権威主義として自己を確立していったのは必然的なことであった」的批評には釈然としないものがある。れんだいこは、「徳球の家父長制権威主義」を宮顕らが批判したような角度で捉えるのには反対である。本稿のテーマとはかけ離れるが、少し言及しておきたい。

 徳球が駆け抜けた45.10.10日の獄中解放より50.8月までの北京渡航までの約5年間の軌跡は、戦後のどの時期よりも激動の時代であり、強いリーダーシップ無しには運動が展開出来なかった。そういう事情で発揮されたリーダーシップ性を「精神主義一般論」あるいは「権威主義一般論」で批判していくのはナンセンスであろう。あくまで徳球の「特殊な精神主義性」、「特殊な権威主義性」を摘出して、これを批判すべきだろう。

 れんだいこから見て、「徳球の家父長制権威主義」にはそれほど批判されるものは見当たらない。むしろ、そのように徳球を批判して史実から痕跡さえ消そうと無駄な努力をしてきた宮顕−不破系の50年の歩みの方が文字通りの「家父長制権威主義+私物化主義」であろう。ところが、こちらは批判されない。おかしなことだと思う。



関連サイト 戦前日本共産党史考 戦後政治史検証
マルクス主義再考

目次

コード 中項目
22年テーゼ
福本テーゼ
27年テーゼ
31年テーゼ草案
32年テーゼ
インターネットサイト




(私論.私見)