521 宮本顕治論 第2部 「敗北の文学」の論評

 (最新更新日2005.6.30日)

投稿 題名
「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(前半)
「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(後半)
れんだいじさんの「敗北の文学」論への異論 吉野傍  


 題名/「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(前半)  
 「敗北の文学」は、その自殺が大きく騒がれた当代の大御所的文芸作家・芥川龍之介の作品及び作家論であると同時に宮顕の入党決意宣言ともいう意味が添えられていた。1929(昭和4).4月の頃、宮顕20歳の春の力作であった。これが当時「中央公論」と並んで最も権威ある総合雑誌と目されていた「改造」の懸賞論文で一等当選となるという栄誉を受けることになり注目を浴びた。

 この時の次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であったというのは有名な話である。同誌8月号に発表された。宮顕はこの名声をもって当時のプロレタリア文学運動の隊列に加わっていくことになり、「戦旗」に働き場所を見つけた。1931(昭和6).5月、入党。相前後してプロレタリア作家同盟に加入した。1932年の春より地下活動に入った。

 私が「敗北の文学」に注目する理由は、あまり指摘されていないが、このような経歴を見せていく宮顕の面目と宮顕式原型が良きにせよ悪しきにせよここに躍如としていることにあり、「敗北の文学」で見せた氏の文芸理論ないしはマルクス主義に対する思想的態度がはるか今日の宮顕式党路線に従う日本共産党の現況に色濃く投影されているように思うからである。ここでは、芥川文学に対する宮顕の作品論は省き、その作家論について検討することにする。ただし、作家論に限ってみた場合でさえこれを順序立てて書いていくと相当長くなるので結論的な要約のみメッセージすることにする。

 その前に芥川氏の人物像をごく簡単にスケッチしておくと次のようにいえると思う。芥川氏は、早くより文筆で身を立てることを志し、一高−東大という当時のエリートコース中のそのまたエリート的な文系俊才として既にこの頃から頭角を現していくことになった。24才の時に著した大正5年の初期作品「鼻」が夏目漱石氏に激賞を受け、その文才が高く評価されることになった。次作「芋粥」もまた名を高からしめた。以後数々の短編・中編作品を著していくことになり、気がつけばいつしか文壇第一人者の地位に辿り着いていた。

 氏はこうして順風満帆の作家活動に分け入っていくことになったが、文芸上の立場は孤高であった。当時の主流であった自然主義文学でもなく、私小説風でもなく、かといって白樺派的ヒューマニズムとも一線を画していた。よく古典を題材にしな がら当世の痛烈な社会時評を得意にして、一種奇才を放っていた。表現は的確かつ清新な比喩と機知に富んだ警句をスパイスとし、かつ洗練された文章かつ繊細かつ凝った文体で他を圧倒した。

 まず、宮顕のヨイショから入ることにする。以上のような特徴を持つ芥川文学は今日のプロ作家間においても玄人受けする日本文学史上孤高の地位を占めているが、この文学を宮顕もまた高く評価したことは氏の炯眼であると素直に評価したい。文学潮流の背景に社会的情勢の意識への反映を見ようとするマルクス主義的分析からすれば、やや教条的になるが当時の文壇史を次のようにレリーフすることが可能である。
(1) 意識的かどうかは別にして支配イデオロギーに照応する国粋主義・浪漫主義的傾向。
(2) これに一定の距離を保とうとした自然主義.私小説・憂鬱主義・懐疑主義的傾向。
(3) これに無縁であろうとした文人主義・嘲笑主義的傾向。
(4) 若干抵抗しようとした人道主義・ニ ヒリズム的傾向。
(5) 最後に支配イデオロギーと闘おうとしたプロレタリア文学運動。

 大雑把に見てこのように文壇潮流を分けることができる。この場合、芥川氏はどこに位置していたのであろうか。通常芥川文学は 「芸術至上主義文学」とか云われ、どちらかといえば(3)のジャンルで括られることが多い。これに対して、宮顕は、とりわけ後期の芥川氏に(5)的傾向を見ようとした。もっともプレ・プロレタリア文学的においてではあるが。

 実はこの着想が的確であり、私も同感である。ところが、当時の芥川氏を囲む知人・友人たちでさえそのような芥川観を持つ人はいなかった。芥川氏の自殺に接してさえ当時の文芸家はどう解いたかというと、創作の行き詰まり説、健康不安神経症説、女難説、人生倦怠説、世事の多事多端に伴う厭世説等々の理由により真因が定まらなかった。

 ところが、宮顕は、「敗北の文学」において、社会主義者になろうとしてなりきれなかった氏のプチブル半端性の苦悶に着目し、これを見事に切開して見せた。私は、「敗北の文学」が雑誌「改造」懸賞論文で一等当選の栄誉を得た背景には、 宮顕のこの観点の意外性と説得性が認められたことにあったと思っている。 芥川氏をプレと形容しようとも、社会主義思想の持主としてみなすことには異論が多いかもしれない。それはそういう風に見ない芥川論ばかしが流布されているからである。

 芥川文学の場合前期と後期において大きく作風が異なるので、どの時期の芥川を観るかにより見解が異なるのも致し方ない面はある。作品的には初期の頃から文壇の第一人者への地歩を固めていった中期のものに前途洋々・意欲満々の傑作品があるのは確かである。しかし、芥川文学はある種テーマ性・思想性の高い文学であり、その内在的発展という弁証法的行程から観る場合、前期の芥川文学に散りばめられていた諸々の淵源が集結していったのが後期の芥川文学であり、むしろこの後期の芥川文学の方にこそいっそう真価が滲んでいると考える方が自然であろう。かく後期の芥川文学を評価する必要があると思われる。

 そういう眼で見れば後期の芥川氏は限りなく社会主義者たらんと努力した形跡があり着目されるに値する、と言えば 驚かれるであろうか。このように彼が評価されることが少ないが、そのことの方が問題である。今日にもつながる当時の作家及び批評家が凡俗であったことを証左しているように思われる。

 これを長たらしく証明しても仕方ないので端的に彼にまつわるエピソードで例証する。寄せ集めれば様々なデータが揃うと思うが一端を述べてみる。芥川氏は社会科学について相当勉強した風がある。今東光が或る本屋で芥川とばったり会ったとき、小脇にマルクスの英訳書か何かを何冊も抱えていたと伝えられている。芥川が一高仲間の無二の親友恒藤恭(すでにこの頃京大教授であったと思われる)と旧交を温めようとして京都へ行ったときも、祇園の茶屋でエンゲルスのことを話題にし合ったと伝えられている。

 中野重治が書いた感想などでも、晩年の芥川龍之介がプロレタリア芸術への好意的理解を持とうと していたことが伝えられている。芥川は通常理解されている以上に勃興しつつあったプロレタリア文学に理解を寄せており、その延長上で当時の党員活動家にせがまれる都度財政支援していたことも伝えられている。ハウスキーパー ならぬ財務キーパー(これをスポンサーというのではなくてどういうのだったかな。思い出せない)の有力な人士であった。

 では、芥川氏のプレ社会主義者としての移行過程はどのようなものであったのであろうか。このことについて少し触れたい。一高時代早くも、「人生は、一行のボオドレエルにも如かない」とうそぶいた芥川氏の精神風景には、すでにこの頃より鋭い社会批判の視点が内在していた。当時の社会風潮とは、日本帝国主義が西欧列強の仲間入りを遂げその傾向をますます雄雄しくしようとしていた時代であり、軍人がしだいに社会の前面に台頭し始めた頃であった。 社会全般が天皇制イデオロギーで染め上げられつつ、軍部勢力と独占資本が結託し、国内外に渡っての強権的支配をほしいままにしようとする気運が押し寄せていた時代であった。

 芥川氏が文芸を志した背景には、こうした時代環境にあって、「中流下層階級の貧困」を認識しつつ、時代の流れに棹さそうとする反骨精神があった。体制内エリートとして同化していくことを良しとせざる自負に立脚しようとする精神があった。このセンテンスでこそ氏の諧謔的・警句的なスタンスがより見えてくる。当時の社会風潮に対する文芸的な抗議が込め られていたからこそ構図が大事にされ、一字一句が痛烈であった。

 初期の芥川文学は、金欲・権勢欲・名誉欲に執着しようとしている世上のブルジョア精神と、他方プロレタリアの「生きるために生きる人間のあさましさ」、あるいはまた「公衆は醜聞を愛するものである」という大衆心理に対する侮蔑精神を持ち、そのどちらの精神をも俗物根性と否定した。そして文芸的な高踏的な文人墨客趣味生活こそ価値あるとする人生観を確立しようとした。こうして芥川文学の初期のこの頃はとりわけ痛烈な社会批判精神を内在化しつつ、人の心の中にあるヒューマニズム的なるものとエゴ的なるものという背反的なものを相克的に露見させることを楽しんだ。ただし、芥川氏の非凡さは、これを単にニヒリズムに解消させたようとしていたのではなく、主に体制イデオロギーの中にある虚構を暴露しようとしていたことにあった。

 こうして文壇の奇才としての評価を増しつつ作家活動にいそしんだ芥川氏は、気がつけば当代の第一人者としての地位へ登り詰めていた。ところが、皮肉というべきか、功なり名を遂げた芥川氏が絶頂期に達した頃は、わが国にプロレタリア文学が勃興しつつ押し寄せてきた時代であった。

 この時氏がどう対応したのかが興味深い。彼を取り囲む文壇仲間のほとんどの者がこうした時代の流れと没交渉で創作にいそしんでいた中で、氏は、プロレタリア文学について少々異なる姿勢を、結論から言えば「理解」しようとしたのである。ここが氏の凡百の作家とは違うところであった。芥川氏の眼から見て当時のプロレタリア文学は文章表現的には稚拙であったであろうが、柔らかなまなざしを持ったのである。

 ただし、彼はプロレタリア文学に出会うことにより苦悩を深めることになった。 後期の芥川文学はここから始まる。芥川氏のこれまでの半生は権力的であることを忌避しつつ世の風潮に半身に構えて対峙してきた。その氏からみて、庶民大衆の生き様の中にある助け合い志向の共働性の意義を見いだそうとするプロレタリア文学はまばゆいものでしかなかった。かって自身が俗物としてあるいはまた下賤として退けてきた世界であり、そうした庶民の心根の中に光を見いだしこれを受け入れるとなれば、営々と築き上げてきた自身の思想的スタンスを大変換せねばならないこととなったのである。「否定の否定」をせねばならぬ勇気を鼓舞せねばならないことになったということである。

 その経過は苦しい行程となった。芥川氏はこれに挑んだ。しかし挫折した。というより作風的に大衆の息づかいを書くことができなかったのである。その理由として、作風の転換をなすには彼の名声を高めているところの繊細かつ凝縮された技巧派的文体がかえって邪魔になったということが考えられる。あるいはもっと凡俗に彼があまりにも大御所になりすぎていたからであったかもしれない。この頃から 「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」と書きつづるようになった。それは芥川氏のプロレタリア文学家に転身できないジレンマの表現であったように思われる。

 こうして初期の作品から負わされた名声の十字架を背負いながら彼の後半生の作品は綴られていくことになる。自分の人生は「書物からの人生」でしかなかったという意識のとらわれとの自己格闘が作品化されていくことになっ た。時にキリスト的な殉教精神を、時に社会主義的な思想を賛美しつつ多少の距離を持つ自身をさらけ出していくことになった。この苦悶・苦闘のウェイトがどれだけ占めていたのかははっきりしないが、やがて彼は精神的な美意識に拘りつつ命を絶っていくことになった。1927(昭和2).7.24日、芥川は自殺した。享年36才であった。惜しまれる死であった。

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 題名/ 「敗北の文学」に現れた特殊感性について(後半)
 このような経過を持つ芥川文学及び氏の生涯を宮顕がどう評価したか。ここが本稿のテーマである。本投稿を理解していただくために芥川氏について前投稿で簡略に記した。以下、宮顕の芥川論を解析していくこととする。主たるテキストは、75年初版の新日本文庫の「『敗北』の文学」に拠った。宮顕は、言い足らなかったのか、続いて「過渡時代の道標−片上伸論−」で、片上氏を論じつつ、一方で芥川論を補足したので、この時点の観点も併用した。 「敗北の文学を書いた頃」と同書末尾の水野明善氏の解説も参考にした。

 最初に。芥川氏の文学的軌跡を「敗北」とみなす宮顕の感性について、少々疑問を挟まざるをえない。タイトルにはネーミング者の最関心事が滲むものであることを思えば、あらゆるものの基準に「敗北」とか「勝利」をもって総括しようとしている宮顕の感性が見えてくることになる。宮顕にとって、「敗北」とか「勝利」とかこそが最重要な基準になっており、プロセスはその下僕でしかないということになっているのではないだろうか。しかし、芥川を論ずるのに、この視点ほど似合わないものは無いという変調さがここにある。


 
宮顕は「私の五十年史」の中で、執筆動機を次のように述べている。
 概要「『白亜紀』の終刊号に短いエッセイでも述べており、それを本格的にまとめようと思ったのが『敗北の文学』執筆の動機となった。もう一つの動機は、一ヶ月三、四十円時代にあって魅力的な三百円の賞金にあった」。

 この記述に疑義を述べてみる。興味深いことであるが、宮顕が「敗北の文学」で記した芥川論の観点が宮顕のオリジナルなものであったのか疑わしいとする説があるようである。宮顕は、「『白亜紀』の終刊号に短いエッセイでも述べており」と漠然と記しているが、松山高校時代の文学サークル誌「白亜紀」に既に他の同人による同様の観点のものが見受けられる、との指摘が為されている。つまり、「敗北の文学」の観点が宮顕オリジナルのものであるのか、「白亜紀」同人による芥川論の剽窃が為されたのかどうかを廻って議論の余地が残されている。

 こうなると、「白亜紀終刊号」を確認せねばなるまい。れんだいこには確かめようが無いのでこれ以上のことは分からない。この方面の考察は本筋から離れるので割愛することにするが、宮顕の芥川論に伏線となる基礎資料があり、観点の盗作であったということは十分に考えられる。但し奇怪なことに今日、「白亜紀」が僅かに保存されている図書館で、該当個所のページが切り取られているとの伝であり確認が難しくされている。これが事実とすると、誰が何のためにこれを為すのか、闇がある。宮顕にはこういう闇が至る所で纏わりついている。

 もとい。宮顕の「敗北の文学」の秀逸なるところは、芥川氏の「ぼんやりとした 不安」の内容実体について立ち入り、「当時インテリゲンチアの悩み、自殺に行き着いた芥川の文学的内面を批判」し、芥川氏の創作精神に脈打つプレ社会主義思想とでもいえる批評眼が介在していることを指摘し、かつこれをよくなしえたことにあった。芥川氏の辛辣な表現の中に、プロレタリア文学的な階級的視点を持つ前の「前駆的な汎ヒューマニズム思想」が色濃くあることを踏まえたのである。

 この視点は、当代の文芸評論家の誰もが見抜けぬ芥川論であった。ここに宮顕の一流な批評眼があったといえる。芥川氏の自殺直後に数多く発表された皮相な死の解釈を退けて、氏の内面心理における思想の揺らぎに着目し、「鋭い分析と明快な判断に基づく力強い説得力で、『階級的思想的矛盾の洞察』を為した」(水野明善氏の解説要約)のである。

 宮顕の芥川論の観点は次のようなものであった。「敗北の文学を書いた頃」で次のように説明されている。
 「当時の既成文壇にもこれらの芸術的・社会的動きに対して、頑固な反対と無関心の古い人々があったとともに、好意的理解者であろうとする一群の人々も生まれた。新しい歴史的方向への芥川の理解の程度は、その文章に現れたところではまだ漠然としていた。しかし、その関心は小市民インテリゲチアとしての自分の位置に安住できないほどに切実なものであった」
 「晩年の芥川龍之介の語りかけた社会的生活的陰影の中には、中流下層市民層に育ったインテリゲンチアに共通の敏感な苦悩が感じられた。彼は、文学的なレトリックをある抑制をもって語っている。しかし、その本質は、自分たち若者たちの当面している問題とつながっていることを感じないわけにはゆかなかった。ただ芥川は、肉体的にも精神的にも、その苦悩を生き抜くことで克服することができなかった」。
 「 私は、この過渡的な苦悩に敗北しないで、理性の示す方向へ歩み抜く決意を根本的にゆるがせることはできなかった。私にとって芥川龍之介論は、その決意の文学的自己宣言でもあった。同時に、社会的鈍感さに安住して、芥川の知己をもって任じているそれまでのいろんな芥川観への批判でもあろうとした」。

 問題意識として以上のように捉えた宮顕の感性に対して何も云うことはない。いよいよ核心に入る。以上のように芥川氏を理解した宮顕が、ではどのように氏を批評したのか。「時代的であり得た芥川」を認めつつ次のように論断した。
 「芥川の場合、歴史的必然性――新しい時代への理知的理解がもっと明確であり、進歩的インテリゲンチアの存在も時代的な空気としてももっとはっきりしていたら、生きようとする方向がよりつよく支えられただろうと言いえないか」。
 「氏の文学はこの自己否定の漸次的上昇を具体的に表現しているものだ。虚無的精神も階級社会の発展期においては、ある程度の進歩的意義を持つものであるが、今の我々はそうした役割を氏の文学に尋ねることは出来ない。そう云う意味で、 我々は氏の文学に捺された階級的烙印を明確に認識しなければならぬ」。
 「ブルジョワ芸術家の多くが無為で怠惰な一切のものへの無関心主義の泥沼に沈んでいる時、とまれ芥川氏は自己の苦悶をギリギリに噛みしめた」。
 「あらゆる文学的潮流の必然的転換期に、保守的な迷妄と、世紀末的な頽廃に抗して、真に新しきものを見失うことなく、文学の正統的河床を掘り続けてきた氏の姿は、日本近代文学史のユニークな存在である」。
 概要「(とはいえ)プロレタリアートの陣列に加わろうとした諸家に比べての芥川の対応には都会的なプチブル的なひ弱さが克服し得ていない云々」。

 宮顕はかく喝破した。ここまでは宮顕一流の批評眼であり、異論はない。

 そして、起承転結の結の部分として次のように総括した。
 「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」。
 「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間(←日)にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」。

 
話はそれるが、れんだいこは、ここのところの表現が原文通りかどうか少し気になっている。最近手に入れた新日本文庫ではこう記されているが、昔学生時代に読んだ時とちょっと文章が違うような気がしている。その時の本はもうないので確かめようがない。どなたかお手数ですが「改造」誌上掲載文と照らし合わせていただければ助かります。私には時間がない。もっとも気のせいかもしれない。なお、「いつの日にか」は「いつの間にか」の転写間違いであったので、2002.11.7日訂正した。「パルナッス」とは、ギリシャの聖なる山の意とのことである。

 話を戻す。この結の部分にこそ宮顕独特の感性があると私は睨んでいる。私は異論を挟まざるを得ない。末尾の「ツルハシをうち下ろさねばならない」を修辞上の表現として見逃すこともできようが、宮顕の場合、どうも修辞上でない傾向にあるというのが私の見方である。

 以下、れんだいこの感想に入る。私がほとほと感心するのは宮顕の力強い断定調である。問答無用式に「バールを打ち下ろせ」(昔読んだ本は確かこんな表現ではなかったかと思う。ハードとソフトの違いで意味は変わらないけれど)という宮顕を支える信念とは何なのか。

 述べてきたように、芥川氏の良心と誠実さは万人の胸を打つものではないか。仮に我が身に引き替えて見た場合、彼のような誠実な行程を進みうるか自信がない。芥川氏の自殺の直後、確か谷崎潤一郎だったと思うが、芥川ほどの業績があればもう何もしなくても飯が食えるのになぜ自殺なぞしたのかと哀悼したが、実際の大方の思いであろう。

 人は誰しも完成された艶福な者ではない。至らぬ者が至ろうとする軌跡こそ我らが人生であり、何よりも尊く美しく評価されねばならないのではないのか。芥川氏の頭上にバールがうち下ろされねばならない必然性がどこにあるのか。 そういう正邪の分別なぞ無用なものではないのか。批評に温かさが無さ過ぎるではないか。芥川氏に宮顕が指摘するような半端性があったとしてもそれがどうしたというのか。云っている本人も含めて人は皆「ボチボチでんな」ではないのか。

 仮に、このような論法を許してしまえば、特権者は自在に、半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパの頭上に半端なるがゆえにバールをいつでも打ち込むことが出来る。他方で、党運動に無縁な者または体制側信奉者は無傷ですむことになる。そういう感性がオカシクはないか。近親憎悪的な論理であり、近しい人ほどチクチクいたぶられることになる。

 これが芥川龍之介論の世界でおさまっていれば敢えて私は問題にしなかった、と思う。そういう宮顕流の感性が今日の党活動の背景論理としてこびりついているように思うし、それは良くないと思うから本投稿で闘おうとしている。過去、宮顕式理論に首肯しない異端者の排斥過程もまたこのセンテンスで行なわれてきたのではないのか、ということが言いたいわけである。

 自然、宮顕をして余人をかくも断罪せしめる根拠は何なのかについて考究していかなければならないことになろう。彼は神か、そんなことはない。宮顕はそのような物言いをするだけであり、以下浮き彫りにするが、彼からは「安心立命」的信仰を常人より強く持つ粗野な感性しか見えてこない。どうやら宮顕の強さを支える信念は、単に当時公式的であったスターリン流のマルクス主義的理解でしかなかった、と思わざるをえない。マルクス主義の理解の仕方がスターリンのそれと非常に似通っていたそれであった、と言い換えることもできる。

 そこに在るものは、一つは、哲学的な意味での自己流唯物弁証法的観点の導入による、事象認識のリアルな脳髄への反映を疑わない統一且つ絶対真理型認識観であり、一つは、史的唯物論に基づく社会の合法則的発展を盲信する社会主義−共産主義社会の必然的到来性信仰である。「新しい歴史的方向」 とか「歴史的必然性」に対する絶対依拠の精神である。宮顕は当時の時代感覚としての非常にオポチュニティーなこのようなマルクス主義の哲学と史的必然論を誰よりも生硬に主張していただけではないのか、としか思えない。

 この二つの観点は、当時にあってさえマルキストたらんとする者なべてが七転八倒しつつ学びとろうとしているところのものであった。そういう謙虚さが平均値としてあった。それに引き替え宮顕は、その苦闘からいち早く脱し、むしろこの二つの観点を如意棒として手に持ち、自身こそその高みにあるとする自惚れから、対象とするものを容赦なく演繹的に断罪して憚らない君臨者の座にありついた。自己流のマルクス主義的認識であれ、「真理」を手にした者から観れば、過程のすべてが 「いらだたしさを覚える。経過した後から過程を見れば退屈に近い」不十分なものでしかないことになる。

 このような如意棒を手にした者が権力とジョイントしたらどうなるか。何とかに刃物とならざるをえない。その果てにあるものが今日の日本共産党中央委員会の有り姿ではないのか。権力者は「無謬の帝王、真理の体現者」として立ち現れ、至らない者をいかようにも断定し、采配を振るうことができることになる。宮顕の強靱さとは、この二つの如意棒を振り回しながら、ためらいなく党内整列を優先させることのできる癖の強さにあった。

 そう、こちらの方の優先こそが宮顕の特徴であり、私が疑惑する所以となっている。彼が権力と果敢に闘ったという例を寡聞にして聞かない。この強さが余人の追随を許さない異質的な優れものであったというだけのことではないのか。私の辟易させられるところであり、同時に当時の反対派の連中にはこの点が欠けていたところのものであった。当時の反対派の面々を見れば、攻めには強いが守りにはからっきし弱いお人好しという共通項がある。

 とはいえ、そういう如意棒を唯々諾々として受け入れる素地も党内に幅広く あったようにも思われる。コミンテルンに対する絶対拝跪精神がそのまま党内権力者に対するそれに横滑りしており、こうして組織的従順さが当時にあっては党及び党員共通の意識の中に埋め込まれていたように思われる。良く言えば革命の大義の為に殉じようとする精神である。肯かなかったり理解できない者は勉強不足でしかないということにされたし、なった。

 とはいえ、時代の経過が宮顕式論理の正否をはっきりさせてしまった。今や 二つの如意棒の観点はどちらも総崩れしつつある。つまり、今日的な状況からすれば、大いに問題ありの観点と言えることが露見されつつある。これに同意できない者はオポチォニスト的な幸せ者である。そういう者も次の指摘には肯いて欲しい。

 宮顕の論法を評論すれば、没弁証法的思考であり、善悪二元論的な発想であり、権力的論理に染まっているということに特徴があるということ。マルクス主義の最重要部分は弁証法的認識論であると言うのに。マルクス主義者における殉教精神は、宗教的なそれとは区別されるべき常に批判精神を自由闊達に自他内外に持ち合わせねばならないものであり、これが命綱なのではなかろうか。でないと我らの運動もまた絶対的教義に拘束される宗教的団体と何ら変わりはしないことになる。党内に社会観の自由な摺り合わせがあればこそ、労働者はこの隊列に参陣して一種解放感に浸ることができたのではなかったか。あるいはそうあるべきではないのか。

 最後に。宮顕の言いまわしに耳を傾けてみよう。「過渡時代の道標」で次のように補説している。
 概要「ブルジョア・リアリズムとしての自然主義文学よりプロレタリア.リアリズムの勝利へ――この道程は、近代文学の必然的方向であり、より重大なことは、彼らの属した非プロレタリア階級の認識そのものが、既に主観客観の同一性を持ち得なかったのである」。
 概要「主観的認識が、同時に客観的認識足り得る歴史的必然に立ち得る文学的見地、自己の階級的主観が同時に世界の客観的認識としての妥当性を持つ者は、プロレタリア階級のみである」。
 概要「現代文学の先端が、プロレタリア文学の旗によって守られているということを認定することが肝要である」。
 「芸術が形象的思想である以上、プロレタリア芸術家は、何よりも骨の髄まで、細胞の中まで、プロレタリア的な感情によって貫かれていなければならないのである」。

 宮顕は、プロレタリア文学の意義を上述のように述べた後、次のように芥川を斬って捨てている。
 「芥川氏の場合、究極、労働階級を知らず、観念論の無力を自覚し得なかった」。
 「『社会主義の武器を持ってブルジョアジーへの挑戦を試みなかった彼の限界性。根本的批判』がなさればならない、という『批評の党派性』を身につけねばならない」。
 「芥川文学に『一つの彷徨時代。社会的進歩性』を認めることができても、ブルジョワ文学が、他の何物にも煩わされることなく、ひたすらに芸術的完成を辿った過程は、芥川竜之介の自殺を一転機とするブルジョワ文学の敗惨の頁によっ て、終結を告げたと見ていい」。

 うーーんご立派デスとしか言いようがない。ハイ。

 
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 れんだいじの「敗北の文学論」に対して、吉野氏より次の反論が為された。

 題名/ れんだいじさんの「敗北の文学」論への異論   吉野傍
 れんだいじさんの「敗北の文学」論はなかなかと読ませる力作だと思います。相当長いのに読むものを飽きさせることない筆力に敬服します。しかしながら、その結論には疑問なしとはしません。れんだいじさんは、若き宮本顕治(わずか20歳!)が芥川を野蛮な情熱で批判しきらなければならないと論じたことをとらえて、「批評に温かさがなさ過ぎる」と述べた上で、次のように批判しています。 「仮に、このような論法を許してしまえば、半端ながら党運動を 理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパの頭上 に半端なるがゆえにバールが打ち込まれ、無縁な者または体制側信奉者は無傷ですむことになる。そういう感性がオカシク はないか。近親憎悪的な論理であり、近しい人ほどチクチクいたぶられることになる」。

 しかし、これは的外れな批判ではないでしょうか。若き宮本(歴史的人物とみなして敬省略します)が芥川を徹底して批判しきらなければならないとみなしたのは、まさに芥川が一つの巨大な山脈であり、歴史的人物だからです。 いかに芥川が誠実で良心的であるとしても、その山にピッケルを打ち下ろして登りきらないかぎり、その先に進めないし、山の向こうにどのような光景が広がるのかがわからないからです。宮本があえて「野蛮な情熱」と言っているのは、そういう意味です。

 単なる客観的な人物評価なら、れんだいじさんがおっしゃるようなもので十分でしょう。しかし、革命的情熱を燃やし、新しい歴史を開かんと欲していた宮本にとって、そのような客観的評価が問題なのではなく、 すぐれて問題は実践的であり、まさにその実践的課題に照らして、「野蛮な情熱を持って批判しきる」ことが必要だったわけです。そしてそれは単に宮本個人にとってだけでなく、時代的要請としてもそうだったわけです。

 それに対して、「半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近 してきたシンパ」の場合は、そのような乗り越えの対象ではなく、むしろ、ともに助け合って、山を登る仲間です。山登りに不案内で、まだ未熟な仲間を連れ て山に登ろうとするときには、当然、同志的配慮が必要であり、間違っても頭の上にバールが打ち下ろされることはありません(一部の内ゲバセクトは別に して)。

 しかも、ハタチの宮本が若い情熱にまかせて書いた文章のうちに、れんだい じさんは、その後の独裁者宮本の片鱗を見ようとしています。それはあまりにも不公平な話ではないでしょうか? われわれ自身が若いときに情熱にまかせて書いた左翼文章を思い出してごらんなさい。今から見れば明らかに行きすぎた表現や、打撃的すぎる批判、あまりにも楽観的な未来像、あまりにも単純な確信が見出せることでしょう。そのような個々の表現をとりあげて、あたかも、その人の将来の軌跡がそのような若い時の文章のうちにすべて萌芽として含まれているかのように言いなすのは、生産的とは思えません。

 未来の独裁者スターリンの片鱗を青年だったときのスターリンの文章に見出そうとする試みが、歴史学者や思想家によって今日でもしばしば行なわれていますが、それは、歴史的環境やその後の本人の大きな内的変化を無視した、まったく一面的な方法論です。しかも、20歳の時の宮本の文章(改めて読んでみて、宮本のすぐれた文学的力量に大きな感銘を受けた)と比べるなら、われわれが20歳のときに書いた左翼アジビラ文章など、およそ比較にならないぐらい機械的で、紋切り調で、浅薄なのではないですか? むろん、若い時の文章が、将来のその人の行動とまったく無関係と言いたいわけではありません。たしかに、若き宮本の文章には、彼の終生の特徴となっているいくつかの要素が見られます。それは、過度の歴史法則主義であり、 過度な理知主義的傾向です。しかし、その程度の機械的な歴史認識は、当時にあってはごく普通であり、特殊宮本的とまで言えるかどうか疑問であり、またそのような認識を持っているから、後に独裁者的にふるまったということにもなりません。

 むしろ宮本の問題は、初期のころに芥川に対して示した柔軟な理解(単純な断罪ではなく、その歴史的意義を十分に認めた上で、その限界を指摘するという論理立て)に代わって、いつしか、より機械的で単純化された階級的基準を振り下ろす傾向がしだいに強くなったとみるべきだと思います。なお、当時の宮本のマルクス主義理解を、「当時公式的であったスターリン流のマルクス主義的理解でしかなかった」と断定するのも、不正確です。1929〜31年ごろの宮本、すなわちまだ入党していないころの宮本はけっしてスタ ーリン主義者ではありませんでした。もちろん、そのころすでに隆盛を極めてい たスターリン主義的な機械的唯物論把握の影響が皆無とは言いませんが、 「でしかなかった」というのは、まったく不正確です。

 実際、1931年3月に書かれた「同伴者作家」という批評では、トロツキーが高く評価されています。1931年といえば、すでにトロツキー=反革命という公式が成立し、トロツキーも国外追放され、およそスターリン主義者でトロツキーに肯定的に言及することなど絶対にありえなかった時代です。にもかかわらず、若き宮本は、トロツキーの同伴者作家論を肯定的に紹介し、「同伴者の特徴に対する彼の分析の基本的妥当性」(『宮本顕治文芸評論選集』第1巻、128頁)とまで評価しています。このような肯定的なトロツキー評価ができたのは、おそらく、宮本の先生にあたる片上伸の影響でしょう(宮本は同じころ「過渡時代の道標――片上伸論」 を書いている)。片上はトロツキーを非常に高く評価し、そのプロレタリア文学否定論には批判的であったものの、トロツキーの柔軟で感性豊かな文芸批評の方法を高く評価していました。スターリン主義者にはけっして見られないこのような資質を、宮本は先生から確実に受け継いでいます。

 しかし、このようなトロツキー評価は、入党後にはまったく見られなくなります。そして、文芸評論においても非常に機械的で、断罪主義的な傾向に陥るのも、入党後です。実際、宮本自身が「あとがき」の中で、「『唯物弁証法的創 作方法』論以後の作品論などは、機械論が目立って、自分で読んでも苦痛である」(同前、577頁)と言っています。むしろ、私は、れんだいじさんの断定口調の宮本評価にこそ、入党後の宮本の文芸批評に見られるような「機械論」と「リゴリズム」を感じます。おそらく宮本顕治に対する一種の憎悪(こう言えば、れんだいじさんは言下に否定するかもしれませんが)によって目が曇らされ、宮本顕治という偉大な歴史的人物 (あえてそう言いましょう)に対する評価が過度に否定的なものになっているのではないかと思いました。私は少なくとも、田中角栄よりは宮本顕治の方を偉大とみなします。

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 れんだいじは、吉野氏の反論に対して次のようなレスを返した。

 題名/ 吉野さんへ、取り急ぎご返信

 吉野さん、早速ご返信ありがとうございます。その主張要旨も明解に伝わっております。一緒にしないでよと言われるかとも思いますが、私のずっと以前の宮顕に対する評価は吉野さんの意識と同じようなものであったように思います。私の場合、ただ「バール」のところの言いまわしが妙に気になっていました。あれから党周辺を離れてほぼ30年近く経過させてみて、あらためて当時の意識との対話をしているというのが実際です。

 あの頃覚えた疑問が回りまわって現在の宮顕論の立場になっています。すべての間違いは宮顕の党中央簒奪から始まっているという視点です。もっとも、他の誰が良かったのかというと特別にそう思える人もおりませんので、宮顕を最大に善意に解釈した場合、こういう党運動の難しさをこそ知るべきかということになるかとも思われますが。


 ところで、「過渡時代の道標」の中で評論された片上伸氏は宮顕に書簡を送り、その中で宮顕の才能に対して次のような暗喩をしているようです。親しいがゆえに忌憚のない意見であったと思われます。

 「それは余りに君の自尊心がナーバスになり過ぎているといってもいい」。
 「こっちの方が本気で鎧を脱ぐのにせせら笑うようなら相手は友人でも何でもない」。
 「一度も汚れ傷つけられざるプライドより、汚れ、傷ついてもなおかつめげないプライドの方を取る」。
 「君の手紙を見る度に、君がいつでも全力的に羽ばたつ姿を想像する。それが君を、君の仲間から引き離してさびしくもしていると同時に、君を強くしている。最初から僕の君に感じたのは、このTragicalなはだざわりだ」。(「鎧」と「プライド」のところは、本人の自戒なのか宮顕のことを云ってるのかどうかははっきりしませんが、私には宮顕も含めた言いまわしのように思える)。

 なかなか宮顕に対する洞察が言い得て妙な的確さではないかと思ったりしています。

 ところで、ついでに小林秀雄の「様々な意匠」を読みました。今まで高校の教科書での一節でしか知らなかったのですが、このたび何となく読んでみて驚いた。何と当時のプロレタリア文学運動内部の文芸論だったのですね。知りませんでした。僕は、こちらの方も優れた出来映えのように思っていますが、それより何よりちょうど宮顕との対極に位置した文芸論になっており、そうした関係に立つ二つの論文が「改造」で一等、二等を分け合ったというのは歴史の皮肉ですねぇ。参考までに次のような一節があります。

 「私には文芸評論家が様々な思想の制度をもって武装している ことをとやかくいう権利はない。ただ鎧というものは安全では有ろうが、随分重たいものだろうと思うばかりだ」
 「マルクス主義 文学、――恐らく今日の批評壇に最も活躍するこの意匠の構造は、それが政策論的意匠であるが為に、他の様々な芸術論的意匠に較べて、一番単純なものに見える」
 「私は、ブルジョ ワ文学理論のいかなるものかも、又プロレタリア文学理論のいかなるものかも知らない。かような怪物の面貌を明らかにする様な能力は人間に欠けていても一向差し支えないものと信じている」
 「私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」

 むしろ、私は、こっちの方の洞察こそ保守的時代迎合的な臭いさえ消せば、 文芸論的には鋭いように思えたりしています。

 最後に。訂正です。先の投稿で「あらゆる文学的潮流の必然的転換期に、 保守的な迷妄と、世紀末的な頽廃に抗して、真に新しきものを見失うことなく、 文学の正統的河床を掘り続けてきた氏の姿は、日本近代文学史のユニークな存在である」(過渡時代の道標)という批評は、宮顕の片上伸氏に対してなされたものでした。宮顕の芥川論はここまでは認めていません。まなざしが温か過ぎると思っていました。自分で書いておいてそう感じるのも変ですが。 失礼いたしました。取り急ぎレスさせていただきました。

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 上記の遣り取りに対して、2002.10.24日梁山泊掲示板でハンドルネーム・大阪の人より次のような揶揄が為された。

 「野蛮」の読みそこないに関して 投稿者:大阪の人  投稿日:10月24日
 そういえば、れんだいこ氏が「『敗北』の文学」に関して、似た言及をされていました。。。れんだいこ氏のHPの「宮本顕治論」にある「『敗北』の文学」論の項でこの氏の論に読者から反論が来ています。

1)芥川 2)宮本 3)れんだいこ 4)読者 で、4)の人が主張するのですが、2)は1)を山岳のように例えて、その山の高さに怯まないで登るという意味だ、と主張されています。

3)はこの「野蛮」を、トロツキーを殺害した刺客がピッケルか何かを用いた事になぞらえて1)を2)が物理的に殺傷する、あるいはそのような文学全体を爆破、全否定するような主張であるとし、この事をもって2)を人格的に否定するような書き振りであったのでした。

 れんだいこは、大阪の人に対して、次のようなレスをつけておこうと思う。「善隣学生会館事件」掲示板に投稿した。

 果たして「野蛮」の読みそこないか
 大阪の人さんちわぁ。こちらの掲示板での発言を知り、一言ご討議したくなり参上致しました。管理人さん失礼します。宜しければ今後ともお付き合いの程をお願い申し上げます。と書いてみましたが、「在日コリアン科学的社会主義者ネットワーク 」とあるところの「科学的社会主義者」の「科学的」という表現が不破理論的で嫌ですね、これは感想ですけど。

 さて、れんだいこの「敗北の文学論」に対する吉野さんの反論に対して、れんだいこは再反論まではしませんでした。なぜなら先を急いでいたのと、吉野さんの従前の投稿活動に好意的でありましたので、まともに論争する気になれなかったからです。しかし、れんだいこ(当時れんだいじ)と吉野さんの遣り取りが大阪さん風に「れんだいこの『野蛮』の読み損ない」と受け止められ、これが一般化するのでは困りますので、ここで正式に反論させていただきます。

 その前に経過を記しておきます。本筋は次のことになります。れんだいこは、「宮顕の『敗北の文学』論評」で、宮顕が芥川文学の総括において、「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの日にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」と書き記していることについて、「この結の部分にこそ宮顕独特の感性があると私は睨んでいる。私は異論を挟まざるを得ない。末尾の『ツルハシをうち下ろさねばならない』を修辞上の表現として見逃すこともできようが、宮顕の場合、どうも修辞上でない傾向にあるというのが私の見方である」と批評しました。

 これに対して、吉野氏は、「若き宮本(歴史的人物とみなして敬省略します)が芥川を徹底して批判しきらなければならないとみなしたのは、まさに芥川が一つの巨大な山脈であり、歴史的人物だからです。 いかに芥川が誠実で良心的であるとしても、その山にピッケルを打ち下ろして登りきらないかぎり、その先に進めないし、山の向こうにどのような光景が広がるのかがわからないからです。宮本があえて『野蛮な情熱』と言っているのは、そういう意味です」と批判して参りました。これによると、「『野蛮』の読み損ない」ではないかと指摘していることになるでせう。

 これに対して、れんだいこは、「一緒にしないでよと言われるかとも思いますが、私のずっと以前の宮顕に対する評価は吉野さんの意識と同じようなものであったように思います。私の場合、ただ『バール』のところの言いまわしが妙に気になっていました。あれから党周辺を離れてほぼ30年近く経過させてみて、あらためて当時の意識との対話をしているというのが実際です」と、答えになっているのかいないのか分からない内容のレスをつけそのままにして居ります。その理由は冒頭に述べた通りです。

 このたび、大阪の人さんが吉野見解を受けて、「『野蛮』の読み損ない」とのタイトルで論点を整理してくださりました。果たして「野蛮」の読みそこないかどうか、以下れんだいこ見解を披瀝させていただきます。

 そも宮顕が芥川を評して、それの乗り越えを意思したとして、「氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」と表現する必要があるのか、ここを議論せねばならないと思います。もう一つ、「氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」表現が、吉野見解のように「山にピッケルを打ち下ろして登りきる」意味であろうか。

 それはあまりに穏和な理解の仕方でせう。意味通りに読めば、芥川文学を面前に据えて、その脳天めがけてツルハシを打ち降ろすことを意味しているのではないでせうか。「日本のパルナッスの山頂で」は、その意に読み取るのが自然でせう。

 れんだいこは、単に修辞ではなく、宮顕の真骨頂な一刀両断的作法がズバリ吐露されていると読み取るべきだと主張しております。ここの理解の仕方が問題になっております。吉野見解は、れんだいこ要約概要「あえて『野蛮な情熱』から『ツルハシ表現』が為されているのであり、それは修辞的表現である。山登り用のピッケルの意であり、断頭的表現であるかのように曲解させてはならない」との理解を示しているように思います。

 れんだいこは、「いやそうではない、宮顕の『ツルハシ表現』は断頭を意味しており、しかしてこの作法こそが宮顕の『三つ子の魂』であり、その後の宮顕活動の全軌跡を表象しているのではないのか」ということが云いたいわけです。そう思うのだけれども、一歩控えて議論になるよう次のように問題を設定してみます。

 吉野見解の方がいわば普通の読み取りかも知れない。それに比すれば、れんだいこ見解は意図的にもう一歩踏み出しているというか直訳している訳です。しかし、このれんだいこ見解を批判するのに、任意な穏和見解を対置しても議論にならないでせう。こう云う場合には、「れんだいこの踏み出し」の間違いあるいは危さを指摘する必要があります。

 では、どう為されるべきか。れんだいこが「三つ子の魂」的な位置付けで「ツルハシ」表現を受け止めていることを批判的に論証されるのが議論の筋だろうと思います。文意の解釈は堂堂巡りになりますので止します。れんだいこは、『ツルハシ表現』が宮顕の活動記録を表象していると明確に述べて居ります。それを否定するためには、宮顕のその後の活動軌跡が、@・芥川の限界を衝くのに相応しい真紅の革命精神に裏打ちされたものであったこと、A・同志及びシンパ層に対する弁証法的同志愛に満ちたものであったこと、B・宮顕活動が左派運動に真に貢献的であり、今日に至る隆盛の源となっていること、これらを論証されるのが生産的な議論になるだろうと思います。

 さて、大阪の人さんが、この議論に正面から加わっていただけますことをご期待申し上げます。


 それはそうと、大阪の人さんの投稿文で、【3)はこの「野蛮」を、トロツキーを殺害した刺客がピッケルか何かを用いた事になぞらえて1)を2)が物理的に殺傷する、あるいはそのような文学全体を爆破、全否定するような主張であるとし、この事をもって2)を人格的に否定するような書き振りであったのでした】の整理はご都合主義な遣りかたですね。そも読解力がその程度なら致し方有りませんが、典型的な「前提を歪曲し、批判しやすいようにして批判する」悪論法ですね。

 れんだいこの意図は、「トロツキーを殺害した刺客がピッケルか何かを用いた事になぞらえて」はおりませんし、「そのような文学全体を爆破、全否定するような主張である」とも読み取っておりません。そうではなくて、宮顕の「ツルハシ表現」には氏のその後の全活動に纏わる「排除の論理」と「手前味噌論」が濃厚に刻印されているのではなかろうか、と氏の感性的な面を問題提起しているのです。これがザッツ・オールです。

 付言。宮顕が「芥川文学全体を爆破、全否定するような主張」をしているとは思っておりません。そも評価するから題材に取り上げたのであり、その限界を乗り越えるべく宮顕的な感性で左派観点から批評したと思っております。れんだいこが問題にしているのは、芥川文学ほどの良心的な内面的苦闘の軌跡を踏まえてなおツルハシを降ろさねば為らないとする氏の感性的な構図であり、あまりにも宮顕的であることよ、お前は何様なのだ、と一瞥している訳です。この理解おかしいですか。


 2002.10.28日 れんだいこ


 れんだいこの上記レスに答えることなく、大阪の人さんは再び次のような投稿を「梁山泊掲示板」に書き付けた。そこで、れんだいこは、「善隣学生会館事件」掲示板に次のような投稿をした。

大阪の人はんの中傷に駁す。(2003.2.21日)
 猛獣文士さんちわぁ。梁山泊掲示板で大阪の人はんが姑息な言いがかりをつけております。こちらの掲示板の方が相応しいかと思い投稿します。

 大坂の人はんの 2.15日(土)01時41分55秒の一文ですが、 次のように書いております。
 猛獣さんは私に彼のHPに戻ってきて、彼のヨタ話に付きあえと口説いているようです。何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさんに調子を合わせて「私もそう読む」とか猛獣さんが書いていたのをBBSで読んで、暗澹としまして、もう猛獣さんやれんだいこさんのHPから得るものは何もないな、と思ったので、おいとま致しました。

 れんだいこの誤読説をこうもあからさまに公言されると、れんだいこも一言したくなりますね。ところで、大阪の人はんは宮顕のくだんの『「敗北」の文学』を読んでいないままに誤読説を述べている風がありますので、まともに論じ合えない。その点が残念です。信頼に足る誰かがそう批判してた。私もそう思う。よって、そう思わない猛獣さんやれんだいこに暗澹とした、もうここの掲示板には近寄らない、という構図なんですね。

 この御仁の性癖ですが、まず頼りになる権威が居て、その人又は機関に依拠しながら尻馬的議論を繰り広げるという特徴があるようです。自分のオツムで考える容量はごく少ない。だから論旨が一貫しない。云えば云うほど保守的というか権力機関的な発想が出てくる。そういう御仁にれんだいこが反論してみてもカエルの面にションベンなのですが、そうはいっても気持ち悪いので再確認しときませう。

 原文はこうです。
 「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」。 「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」。

 さて、これをどう読めば、山登り途中のピッケル打ちになるというのだろう。「山頂で」、「ツルハシをうち下ろさねばならない」とあれば、芥川文学の解体止揚を決意せしめた文学表現であることは明らかでせう。大阪の人はんよ、「山登りのピッケル打ち説」がお気に入りのようだが、なしてそう読めるのか説明してみよ。

 大阪の人はんの悪質さは文意をご都合主義風に変えるところにもあり、この場合も「殺人を扇動したと誤読したれんだいこ」という風に改竄表現をしております。れんだいこは、宮顕が「殺人を扇動した」などとは述べておりません。芥川文学を遇するのにピッケル打ち降ろし表現がなんとも宮顕的だと指摘しているわけです。それ以下でも以上でもありません。恐らく、れんだいこの関連文を読んでいないままに、批判しやすいように勝手に改造してそれを批判して自己悦楽するという幼稚な手法を使っているのでせう。

 この手法が更に悪質なのは、人はそういう幼稚な手法によってでも騙されるもんだという風に人をこ馬鹿にした認識のうえで為していることにあります。なぁに情況さえ知らさなければどうにでもいい繕える、それが文章技術というもんだよという宮顕―不破系日共党中央流の薫陶宜しくこれを真似ていることにあります。

 一般に人とか説を批判することは良い。むしろ弁証法的発展には必須かも知れない。しかし、前提を改竄しての批判はそも値打ちが無い。そういうところで繰り広げる議論は百万言費やしても実りが無い。大阪の人はんの今後の自省を求む。嫌味を蛇足しとこ。大阪の人はんは現下日共党中央とほぼ万事見解が合致しているが、現下日共党中央がこういう御仁とハーモニーしているということは、鏡で写したらこういう御仁になるということであろう。その先は言うまい。

 れんだいこの上記レスに答えることなく、大阪の人さんはカエルの面にションベンで相も変わらず「梁山泊掲示板」に投稿を続けている。善隣学生会館事件掲示板を見ようとしていないのか、見ていないふりをしているのか定かでないが、とんだ教養人であることよ。

 2003.5.3日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その35 れんだいこ 2005/04/02
 【読解力不足によるあてこすり批判考】

 れんだいこがインターネット界に自前サイトを持って登場したのが2000.2.11日を期してである。もう5年になる。その間気づいたこととして、議論があちこちで為されているが、往々にして読解力不足の例が見られるということである。

 れんだいこの立論に何人かがいちゃもんつけてきたが、その多くが曲解的な批判であった。そういう御仁がいっぱしのインテリサヨぶっている姿がさもしく、れんだいこは正面からの遣り取りを忌避した。逆恨みされては叶わんという思いからであった。この姿勢は今も変わらない。議論つうのはし甲斐のある相手とやるに限る。大人が小学生の子供をいたぶっても面白くもおかしくも無いからである。

 しかし、ある程度は火の粉を拭っておかねばならない。れんだいこが相手にしないことによって成り立っている曖昧さが、れんだいこの立論にも非があるというどっちもどっち的に処理されるのは迷惑至極だからである。

 武士の情けで許容しているのに過ぎないだけで、是非の白黒付けようとすればそれは造作も無いことなのだということを時には知らしめておく必要がある。普通なら気にかけないのだが、このところの体調不良がれんだいこの堪忍袋を切れやすくしており従来の曖昧さを質す方向に向ってしまう。

 ここでは、宮顕の芥川論におけるピッケル問題を取り上げる。主として猛獣文士氏の「善隣学生会館事件HPの掲示板」(http://www.konansoft.com/cgibin/zenrin_wforum.cgi)で遣り取りされたのだが、ある時、大阪の人なる御仁が、れんだいこの「宮顕式芥川文学論批判」にいちゃもんつけてきた。

 その内容は、宮顕が「敗北の文学」文中で「氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」と述べている件りに対して、れんだいこが何とも宮顕らしい無慈悲な観点よと批判していたところ、大阪の人なる御仁が、「何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」なる批判言辞を書きつけた。

 これに対して、れんだいこは、れんだいこが誤読なのか、大阪の人の方が誤読なのか、白黒付けようかと提案した。「宮顕の芥川論におけるピッケル記述問題」は、読解力さえあれば解ける問題である。

 れんだいこはその後、「果たして『野蛮』の読みそこないか」、「大阪の人はんの中傷に駁す。(2003.2.21日)」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron_2.htm)で立論している。「善隣学生会館事件HPの掲示板」で決着つけようと管理人氏の猛獣文士氏が配慮された。

 大阪の人氏は登場しないままに「梁山泊掲示板」に次のような一文を書き付けている。「猛獣さんは私に彼のHPに戻ってきて、彼のヨタ話に付きあえと口説いているようです。何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさんに調子を合わせて『私もそう読む』とか猛獣さんが書いていたのをBBSで読んで、暗澹としまして、もう猛獣さんやれんだいこさんのHPから得るものは何もないな、と思ったので、おいとま致しました」。

 これによると、大阪の人氏は、れんだいこの誤読に調子を合わせて「私もそう読む」と相槌するような管理人氏のところには出入りしないという方便で、議論を避けていることを合理化せんとしていることになる。

 しかしこれはおかしな手品ではある。大阪の人氏の方から振ってきた問題であり、ならば議論の場を提供しようとしているのだから大阪の人氏は据え膳を蹴っていることになる。本来なら、大阪の人氏はれんだいこの立論に反論せねばならない。これが大人の議論の嗜みであろうに。

 結局、大阪の人氏は現在に至るまで頬被りし続けている。氏はそのことで氏の信用を毀損せしめられていることに何とも痛痒を感ぜず、相変わらずの厚顔無恥さでインターネット掲示板界を世渡りし続けている。宮顕・不破系日共理論を賛美し万歳論を伝道し続けている。れんだいこにはかような劣性人士によってしか支持されない日共のブザマさが分かり興味深い。

 ここで問題をもう一度整理する。宮顕の原文はこうである。
「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」。

「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」。

 この文章をどう読解すべきか、これが問われている。大阪の人氏のれんだいこ誤読説から推理すれば、氏はどうやら、「ツルハシをうち下ろさねばならない」を山登りの際に打ち下ろすピッケルの意に捉えているのだろう。そのように芥川文学を乗り越えるのだという意味に理解しようとしていることになる。

 しかしだ、「日本のパルナッスの山頂で」とあるからには「ツルハシをうち下ろさねばならない」とは、脳天にバールを打ち下ろせの意であって、山登りの際に打ち下ろすピッケルの意では無かろう。

 大阪の人氏がどうしてもそのように理解したいというのは勝手である。しかし、その勝手な持論の為に「れんだいこの誤読」をあちこちで吹聴されるとれんだいこには迷惑な話である。この際決着付けようとの配慮を無視して相変わらず「若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」と逃げながら鉄砲撃つ芸当だけは忘れない。

 れんだいこと大阪の人氏との絡みはこれだけである。直接議論したことは無い。仮にしたとしても、こういう風に読解力が基本的に欠けている者との間には有益なものは生まれないだろう。

 他にに記せばキリが無い。その都度大阪の人並みの残骸が上がるのが避けられない。それはれんだいこの趣味ではないのでここではこれぐらいにしておき、必要の発生次第に記しておくことにする。

 2005.4.2日 れんだいこ拝




(私論.私見)