第11部−2 宮顕の唯一非転向完黙人士的聖像」考
補足・非転向神話の暴力的君臨の実態資料

 (最新見直し2007.1.8日)

 「宮顕の唯一非転向完黙人士的聖像」による「非転向神話の暴力的君臨」を示す事例が刻まれている。これを確認しておく。

 2004.12.1日再編集 れんだいこ拝


【事例1―袴田の春日(庄)の転向批判問答】

 高知聡氏の「日本共産党粛清史」に次のような下りがある。れんだいこが意訳しながら再整理するとこうなる。
 「第7回党大会以前のある中央委員会の席上で、袴田里見が、春日(庄)の戦前の経歴への疑惑を持ち出した。『春日が戦前中央委員候補だったというのは疑わしいのではないか。春日は、獄中で転向していたのではないか』。春日は病欠でその場に居なかったので、亀山がこれをすぐ春日に伝えた。激怒した春日は、次の中央委に出て行って袴田を詰問したと云う。『自分は転向していない。自分の獄中での態度は、宮城刑務所で一緒だった袴田自身がもっとも良く知っているではないか。どういうつもりでそんなことを云うのか』」。

 この遣り取りから窺えることは、宮顕にとって春日(庄)が目の上のタンコブのような立場で位置していたことによってであろうが、宮顕−袴田ラインがどうにかして春日(庄)を挑発して失点の糸口を掴もうとしている様子である。ここでも宮顕は黒幕として位置し、袴田に切り込み隊長の役目を押し付けている。ところが、春日は袴田と宮城刑務所での獄中仲間であった。獄中の様子は袴田の方が当局に迎合的であった。そのことが明らかにされるに及んでこの論は打ち切られた。

 次に袴田が持ち出したのは、『春日が中央委員候補だったとすれば、出獄したとき、なぜ党を再建しなかったのか。中央委員が検挙されたあと、再建して中央委員になるのが中委候補の義務ではないか』論であった。春日はこれに対して次のように答えた。
 『私が出所したのは、君たちのリンチ共産党事件、それに続く多数派分派問題が党で潰されてしまった後である。あれは草木も生えぬ荒廃の後だったのだ。自分たちとしては、党を名乗れる状態ではなく、主義団の活動がぎりぎりであったのだ。それすらもすぐ弾圧され、再び入獄した。確かに苛酷な弾圧ではあったが、敢えて言えば、党を名乗りえない荒廃をもたらしたのは、自分たちの入獄中の党の活動による面もないとはいえない。軍事冒険主義、銀行ギャング事件、リンチ共産党事件−スパイが蠢動していたのであったにせよ、そうした者が党を名乗りがたくしていた。自分としては、そうした条件の中で、精一杯のことを実践してきたつもりだ。それを今更とやかく云われるスジは無い』。

 これは春日の立派な答弁である。もっとも、もっと明確に「お前達が党を滅茶苦茶にしておいて、なぜ再建しなかったのかと詰問するとは、あまりに厚顔無恥の度が過ぎる」と反駁すべきだったであろう。

 次に袴田が持ち出したのは、「しかし、中央委員会が壊滅させられれば、候補がこれを引き継ぎ、コミンテルンとの連絡を回復し、コミンテルンの承認を受けるというのは原則だ。第一、春日が候補であったという証拠を示せるのか」。春日はこれに対して次のように答えた。
 「証拠といったって何といったって、公式の辞令文書があるというものではなかろう。しかし、候補ということは、書記長の渡部政之輔から直々に云われたことだ。俺たちが先陣だ、俺たちがやられたら、君等が直に引き継ぐのだ≠ニ云われた。お墨付きこそなくても、書記長の権威で言われたことなのだ。それを疑うのか」。

 ここは批判する側もされる側も特殊な肩書き、お墨付きに拘っていることが分かる。そういう御仁同志の本家争いであるが、春日も受身だけでなく、攻勢的に「宮顕−袴田の最後の中央委員肩書きの虚構」を突いて見ればよかったのだが、そういう知恵は廻らないようである。

 次に袴田が持ち出したのは、「渡政の言を疑うのではない。しかし、党再建を実行しなかった事実からして、転向したのではないかという疑いは残る」で、執拗に食い下がっている。これに対し、春日は「転向とは何だ。自分は非転向だ。節を屈したことはない。そういう君こそ、労役でも何でも人一倍に励んで、一級扱いになっていたのではないか、あれは随分とみっともない恰好だったぞ」と、袴田の当時の獄中闘争の様子をからかっている。これは春日ならできる芸当では有った。

 これに対する袴田の言い訳と話題転換のさせ方が可笑しい。「それは---身体を動かさないと寒くってかなわなかったからだ。とにかくもういい。しかし、誰が一体春日に告げ口をしたのか、それが問題だ」。

 春日の反撃にタジタジとなった袴田のしどろもどろの弁明の様子が伝えられている。藪を突付いてヘビが出た恰好である。これは叶わんと思ったか、話題転換もかねて今度は春日に告げ口した者の詮索に向かった。

 亀山が次のように答えている。
 「春日に知らせたのは私だ。欠席裁判のようなことをしたのがけしからんと思ったからだ。春日の不在をいいことに、欠席裁判をしておいて、誰が漏らしたのかを詮議だてするのは、問題の本質を逸らすものだ」。

 以下はこう続いている。
袴田  「あまり変なことをするなよ。悪気があって言い出したことじゃない。ちょっとおかしいんじゃないかと感じたことを口にしてみただけだ」。
春日  「しかし、悪気もなしに、20年前のことを言い出した真意は何なのだ。誰にも疑われたことの無い私の過去を掘りなおそうという意図は何であるのか」。
袴田  「もういい、もういい」。

 ざっとこんな遣り取りが行われたとのことである。党の中央委員会レベル今日では幹部会レベルがこのようなくだらない話で充満しているという実態を痛苦に知るべきだろう。否、この程度のことならまだ真摯かも知れないという余程の腐敗が恒常的でさえある。

 春日の答弁は立派なものである。もっとも、もっと明確に『お前達が党を滅茶苦茶にしておいて、なぜ再建しなかったのかと詰問するとは、あまりに厚顔無恥の度が過ぎる』と反駁すべきだったであろう。


【事例2―芝寛(当時、東京都委員会書記)に対する転向批判
 1958.7.23日第七回党大会が開催された。この時、宮顕党中央に対する最も批判的な反対派であった東京都代議員団選出代議員・芝寛(当時、東京都委員会書記)と武井昭夫(当時、東京都委員)の2名が、「悪質転向者、党に対して誠実でない」との理由で強引に排除された。この時の遣り取りはつぎのようなものであった。

 宮顕一派は、らしきやり方で理論闘争で対応するのではなく、戦前の獄中闘争時代の『哀しい生き様』の暴露で芝を指弾した。後の宮顕綱領につながる『党章』決議に反対しようとしている東京都委員会選出の芝代議員に対し、壇上から、宮顕とぬやまひろしこと西沢隆二が一緒になって『戦前の黒い前歴』を暴き出した。

 芝氏の戦前の転向時の様子を持ち出し、「芝君の転向は悪質であった」と批判した。その内容たるや、『刑務所で一等飯を食ったか、三等飯を食ったか。一等飯を食ってた奴は買収されていたからであろう』というお粗末な罵声であった。れんだいこの研究によって明らかなように当人は百合子の差し入れで特上生活を確保していたというのに、己を問わず人に厳しい噴飯ものの云いによる攻撃であった。

 但し、この当時、宮顕のそうした素性はヴェールに包まれていたから、芝氏は抗弁できなかった。「それなら何故今まで都委員長の地位を認めていたのか」と反論するのが精一杯で、これに対しては、「武士の情けというか、あるいはいずれ正規の大会を経て人事を正すまでは黙認してきた」と傲慢な説明が為され、その他応酬が為されている。結局芝氏は、理不尽な攻撃で押し切られた。「非転向12年の宮顕神話」の金棒がこういう場合に振り回されるという好例がここにある。芝氏は泣き、眼を真っ赤にして「チクショウ、宮顕の奴‐‐‐」と唇を噛み締めていた様子が伝えられている。

 この時、党中央は会期中各代議員を分宿させて缶詰状態におき、横の連絡を不能にした。秘密漏洩を防ぐ為という理由であった。「代議員は一人残らず宿舎にカンヅメにされていたが、これは代議員達が会場の外で自主的に討論することを阻止する為の対策だと云われ、病人が出たとき看護の任にあたるとして配置された党員も、実は『監護』のための目付け役であろうとされる状態にあった」(三浦つとむ「社会党党員協議会をめぐって」・「現代思想」1961.10月号)という、宮顕グループによる過去に例の無い治安警察的手法での大会運営になっていた。にも関わらず、大会は冒頭から代議員提案が為され、議場は早くも混乱状態に陥った。

 陰謀家宮顕一派は、会場の中野公会堂で盗聴器を摘発し、混乱する党内を別方向の騒動で引き締め収拾を画策している。


【事例3―問答】




(私論.私見)