第10部−5 れんだいこの戦前党運動史総論

 志賀義雄は自著「日本革命運動の群像」の中で、徳球が自著「獄中18年」の後書きで次のように自己批判を記していることを「こう後書きに書いているのであります」として紹介している。「歴史が示す通り、共産党が日本の政党の中でただ一つ、平和を守り戦争に反対し続けてきた。これは確かに誇るべきことである。誇るべきことでは有るが、党が国民から孤立させられ、国民が党からおいてきぼりを食った。そのために国民が遂に治安維持法によって戦争に大規模に狩り出されていった。二度とこういう国民と党とが切り離されるという事態にならないようにすること、これを『獄中18年』の自己批判としてはっきりしなければならない」。

 徳球のこの「我々は誇るべき闘いをした。しかし、結果から見ると、治安維持法体制に敗北させられた。その責任を痛苦に感じ取らねばならない」観点、これこそ真っ当なものであろう。事実、党運動は、「毛穴まで塞ぐような特高警察の監視と抑圧の中で小さくなってしまうと、解党主義的傾向とセクト主義的傾向とに日和見していき、大衆の中へ入っていく実践を不可能にし、理論も凡俗化させてしまった」経緯を見せている。

 しかし、1955年の六全協で党中央を掌握した宮顕―不破系譜は、前段の「我々は誇るべき闘いをした」のところをのみ吹聴する。後段の「結果から見ると、治安維持法体制に敗北させられた。その責任を痛苦に感じ取らねばならない」に触れないどころではなく、これに言及しようとすると罵声怒声を浴びせる。現下党中央の遣り方は万事においてこの傾向を持ち、どうでも良いようなことを正義ぶってプロパガンダし、必要な検証作業に向かうことを掣肘しようとする。そういう訳だから、以下、「れんだいこの戦前党運動史総論」を手掛けることにする。

 「れんだいこの戦前党運動史総論」は、次のような眼目を持っている。それは、既成の通史本からはれんだいこの知らない史実を学ぶ資料的価値は認められるものの、それを解釈する観点となるや、穏健派のそれも急進派のそれも殆ど何の役にも立たないかあるいは有害と思えるものばかり、という失望と落胆と怒りに根ざしている。

 特に、宮顕ー不破系の党史がひどい。れんだいこの観点と悉く違う。れんだいこが高評価するところを罵倒し、れんだいこが批判する流れを得々と擁護している。党内の重要政変に触れず、あるいは言葉短く、あるいはご都合主義的に歪曲改竄している。その癖、さほど役にも立たない当時の社会情勢を饒舌している。分厚いが、肝心のところは全て曖昧模糊にされているので、通読しても役に立たない。

 という訳で、読むに耐えうるもの、学ぶに値する、我々の血となり肉となり骨となる党史論を論述して見たい。今は、網羅的に書き付けているが、そのうち前段でエッセンスを抜書きし、後段を資料編にしたいと思う。

 2003.7.25日、2005.1.15日再編集 れんだいこ拝



 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史(百年の歩みに学ぶ)」を参照しつつスケッチする。

 
町田氏は、概要「戦前の共産党の闘いの『革命的伝統』は虚像に過ぎない」として、次のように云う。「日本共産党は戦前・戦後を通じて社会の進歩と発展の方向に沿って基本的に正しく闘ってきたと自慢している。また、今の共産党はふやけてしまったと批判する人でも、少なくとも戦前は過酷な弾圧にめげず戦闘的・革命的に闘ってきたと評価する人は少なくない。だが、はたしてこれは真実であろうか」。

 町田氏はこのように問いかけ、綱領に間違いがあったのではないかと指摘する。「戦前の日本共産党には四つの綱領的文書があった。このうち22年テーゼ、27年テーゼ、32年テーゼの三つは当面する革命の性格を『ブルジョア民主主義革命』とするもので、これが戦前の綱領的立場の基調をなしているが、それにはさまって『社会主義革命』を提起した31年綱領草案が存在した」。

 概要「22年テーゼ、27年テーゼ、32年テーゼはいずれも、明治維新後の資本主義の急速な発展にもかかわらず、なお日本は『半封建』体制にあるとして、まずブルジョア民主主義革命、次いで社会主義革命への移行というスターリン主義の二段階革命論を適用していた。この綱領的立場は32年テーゼにおいて『完成』をみたが、このテーゼは今なお共産党の諸君によって賛美されており、『わが国の革命運動のすすむべき道をしめす画期的な指針』(1994年、日本共産党中央委員会刊『日本共産党の七〇年』)と評価されている」。

 32年テーゼは次のようなものであった。日本の支配体制を「絶対主義天皇制」、「地主的土地所有」、「独占資本主義」の「三つの要素」の結合と規定したうえで、しかし、その第一の要素は、天皇制にあるとして次のように言う。「日本の天皇制は、一方では地主という寄生的・封建的階級に主として依拠し、他方ではまた急速に富みつつある強欲なブルジョアジーにも依拠して、これらの階級の頭部ときわめて緊密な永続的ブロックを結び、なかなかうまく柔軟性をもって両階級の利益を代表しながら、同時にまた、その独自の、相対的に大きな役割と、わずかにエセ立憲的形態でかるくおおわれているにすぎないその絶対的性質とを保持している」。

 そしてここからテーゼは、「天皇制は、国内の政治反動と封建制のいっさいの残存物との主柱である。天皇制国家機構は、搾取階級の現存の独裁の強固なバックボ−ンをなしている。これを粉砕することこそ、日本における主要な革命的任務の第一のものとみなされねばならない」とし、日本の当面する革命の性質を「社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命」と結論している。

 町田氏は、この規定を次のように批判する。概要「明治維新から50年余、当時すでに日本資本主義は独占資本主義、帝国主義の段階にまで発展し、天皇制の専制政治は独占ブルジョアジー(とブルジョア化した地主)の階級支配の道具に転化していた。したがって、仮に半封建的な遺物を一掃する民主主義的な課題があったにせよ、それはブルジョアジーの支配に反対し社会主義をめざす闘いの一部として、それに従属させて提起すべきであって、まずそれを達成するためのブルジョア民主主義革命から開始して社会主義革命に進むといったものとすべきではない」。

 概要「ところがテーゼは、一方で天皇制をブルジョアジーと地主の『両階級の利益を代表』しているとか、『搾取階級の現存の独裁の強固なバックボーン』とか、あたかもそれを両階級の支配の道具であるかに言いながらも、他方ではそれを『その独自の、相対的に大きな役割』とかの訳の分からない空文句で神秘化し、いつの間にか労働者階級の当面する闘いの課題をこの『絶対主義天皇制』を打倒する『ブルジョア民主主義革命』へとすり替えてしまうのである」。

 概要「こんなものは社会経済体制や階級関係の科学的な分析に基づく戦略規定でも何でもなく、スターリンの二段階革命論のドグマに基づく理論的手品以外の何ものでもなかった。こうして、戦前の共産党の綱領的立場は労働者階級の社会主義をめざす闘いを棚上げし、彼らを真実の課題からそらせてしまうものでしかなかった。戦前の共産党が表面的にはいかに急進的・戦闘的に天皇制の打倒を呼号してやまなかったにせよ(そしてこれこそ戦前の共産党は革命的だったという神話を生み出した秘密なのだが)、こうした観点からの天皇制打倒の闘いはプロレタリアートの革命的な社会主義運動とは本質的に異なった小ブルジョア民主主義派の闘いでしかなかった」。

 町田氏は、更に次のように云う。概要「そして、野呂栄太郎、山田盛太郎らの講座派の面々による「資本主義分析」はこれらのテーゼを前提に、それを擁護し、正当化するためのものにすぎなかった。彼らは日本資本主義は通常の資本主義とは異なり、半封建体制に基礎を置き、それによって支えられた独特なものであるとして、不況や失業の発生、労働者・農民の貧困、帝国主義的な侵略政策等々の一切の原因をこの特殊性から説明したが、こうした説明はこれらの本当の根源である資本主義や帝国主義そのものの本性や矛盾から労働者の目をそらせ、労働者の反資本主義の意識をくもらせ、混乱させるものでしかなかった」。

 町田氏はむしろ、31年綱領草案に注目して、概要「これに先立って来るべき革命を『ブルジョア民主主義的任務を広範に包容するプロレタリア革命』と規定した31年綱領草案(サファロフらトロツキー派の起草した)が風間丈吉によってモスクワから持ち帰られた。これは戦前で唯一正しい革命戦略に接近したものであったが、コミンテルンのスターリニストからの『トロツキズム的』との批判であえなく葬り去られてしまった」と云う。

 町田氏は、労農派にも否定的であり次のように云う。「一方、労農派は共産党=講座派に反対して『社会主義革命』を戦略課題として提起していた。しかし、前回の山川の『共同戦線党論』で見たように、『社会主義革命』を提起したとはいっても、彼らもまた天皇制の軍事的警察的専制をブルジョアジーの階級支配の道具として暴露し、プロレタリア革命闘争の一環としてそれとの断固たる闘いを呼び掛けるものでなかった。彼らは『社会主義革命』の前に、それに移行するための『根本的な条件』を作り出すとかの口実の下に無産政党による民主主義闘争の一段階を置き、実質的には共産党の二段階革命論と同じものであった。彼らは31年綱領草案に対して労農派の革命戦略の勝利とうぬぼれたが、この時には共産党側が労農派こそ二段階革命論ではないかと批判を浴びせ、労農派の痛いところをついた。彼らの抽象的な『社会主義革命』論は天皇制との闘いを回避するための臆病な日和見主義を隠すものでしかなかった」。


 町田氏は云う。概要「こうした根本的に間違った綱領的立場に立脚した戦前の共産党が労働者人民の闘いを原則的に正しく導いていくことなどできるわけもなかった」。

 続いて、福本イズムについて次のような評価を下している。概要「そのうえ悪いことには、この党は福本イズムに始まって赤色労働組合主義や社会ファシズム論にいたる分裂主義・セクト主義の病弊に染まり、ついにそれを克服することができなかった。このため共産党の運動は労働者階級の闘いに多くの混乱と動揺を持ち込むものとなった。共産党の結成は1922年であるが、第一次共産党は実質的な活動をほとんどなにもなさないままに一年足らずで解体してしまった。その後、1926年末の再建に至る過程では福本イズムによる分裂主義、セクト主義が猛威をふるい、労働組合をはじめとする大衆運動の分野にまで分裂策動が繰り広げられた」。

 福本イズムに関するこの観点は如何だろうか。れんだいこは別の見方をしている。(後日記す)

 続いて、福本イズム後の動きを次のように云う。「この福本イズムを退けて二七年テーゼを基に再建された共産党が大衆の中に公然と姿を現したのは28年の第一回普通選挙に際してであった。したがって共産党の戦前の闘いといっても実際にはこの前後から組織が壊滅状態に追いやられるまでの七、八年間のことにすぎない。しかしこの時期は歴史の大きな転換点にあたっていた。すなわち、27年の金融恐慌に続いて29年には世界大恐慌の波が押し寄せ、日本資本主義は深刻な不況に見舞われた。ブルジョアジーは労働者階級への攻撃を強めるとともに、中国大陸への帝国主義的侵略に危機の活路を見出そうとしていた」、「再建共産党は当初、無産政党運動に積極的に参加し、そこを合法的な活動舞台として影響力の拡大を図るという方針の下に活動していた。彼らは労農党に浸透し、第一回普選には労農党の看板で共産党の候補者を立てた。しかし、選挙後の28年の3月15日、政府は検挙者1600人に及ぶ大弾圧をかけ、4月10日には共産党支配下の労農党、日本労働組合評議会などに解散を命じた。また翌29年4月16日にも再び大規模な弾圧をかけ、共産党はこれによって主だった幹部を奪われてしまった」。

 続いて、再建共産党の崩壊後の動きを次のように云う。「こうした状況の中で、共産党は一転して無産政党運動から手を引き、合法政党の組織化のいっさいの試みを『解党主義』として退けるとともに、28年12月には非合法の全国労働組合協議会(全協)を結成した。これはプロフィンテルンの赤色労働組合主義を実践に移したもので、『日本共産党の指導の下に闘争することによって、ただちに階級的左翼労働組合の本質を獲得しなければならぬ』という方針に明らかなように、労働組合を共産党のセクト的な支配下に囲い込もおうというものに他ならなかった」、「折から大恐慌の渦中とあって倒産・工場閉鎖・操短などが相次ぎ、大規模な人員整理や賃金切り下げが強行され、失業者が激増していた。そして、鐘紡や東洋モスリンの女性労働者のストライキや東京市電の争議に代表される激しい闘いが続発した。31年の争議件数は2456件、参加人員は15万4000人に上り、この年、労働者の組織率も戦前でピークの7.9%(組合員数36万9000人)に達した」。

 赤色労働組合主義に関するこの観点は如何だろうか。れんだいこは別の見方をしている。(後日記す)

 続いて、武装共産党時代の動きを次のように云う。「この重要な時期に田中清玄や三田村四郎らを指導部とする共産党=全協の打ち出した方針は極左冒険主義の全くでたらめなものであった。例えば彼らは東京市電争議に際しては「武装自衛団を組織してスキャップ(スト破り)どもに徹底的に赤色テロを加えると同時に、電力の輸送路を破壊し、電車、自動車の運転機械をぶちこわせ」と訴え、鐘紡争議では行動隊員に錐と唐辛子を渡し『奴ら(警官)が来たら、唐辛子で目つぶしを食わせ、錐でどてっ腹に穴をあけろ』と指示する有様であった(大河内一男『日本労働組合物語』)」、「彼らは闘いに立ち上がった労働者や労働組合に正しい闘いの方針を指し示し、粘り強い活動で労働者を社会主義の側に獲得するどころか、むしろこうした子どもじみた極左冒険主義をもてあそぶことに明け暮れて、総同盟などのダラ幹どもが労働者を自己の支配下にとどめるのを助けただけであった」。

 武装共産党時代に関するこの観点は如何だろうか。れんだいこは別の見方をしている。(後日記す)

 続いて、32年テーゼ共産党時代の動きを次のように云う。「一方、これと時期を同じくして31年の満州事変を突破口に日本帝国主義の中国侵略が始まり、また32年には五・一五事件が引き起こされ軍部ファシズムの台頭も顕著になってきた。しかし、共産党は『侵略反対』を叫んだものの、ここでも労働者人民の闘いに正しい展望を指し示し、断固たる大衆闘争を組織することができなかった。ちょうどこの頃に出された32年テーゼは、日本でファシズムの危険を叫ぶのは『迫り来るファシズムの幽霊を使って……大衆をば現在の諸条件における主要敵――ブルジョア地主的天皇制――に対する闘争からそらす』ものだといった批判を浴びせる始末であった」、「日本には西欧の資本主義国に見られるようなファシズムの危険性はない、労働者階級が打倒すべきは絶対主義天皇制であるというこうした主張は、軍部ファシストの野望とその背後で彼らを操る帝国主義ブルジョアジーの策動を覆い隠し、ファシズムに反対する労働者の闘いを武装解除するに等しいものであった。しかも共産党はコミンテルンが二九年に打ち出した『社会ファシズム』論に基づいて、社会民主主義を『ファシズムの特殊な形態』であり、とりわけ危険なのはその左翼であるとして、彼らとの闘いに熱中していた」。

 「これでは資本の労働者攻撃に反対する闘いと、軍部や独占資本の帝国主義的侵略やファショ的策動に反対する闘いとを結びつけて、労働者階級の断固たる反撃を組織していくことなどできるわけもないであろう。そして、32年秋に検挙者1500人に上る弾圧を加えられたうえ、33年には最高幹部だった鍋山貞親、佐野学が『天皇制の下での一国社会主義』を唱えて、獄中から転向声明を発したのを皮切りに、三田村四郎、田中清玄らが続々とその後を追うという状況で、これは党に強烈な打撃を与えるものとなった。そして、1935年に最後の中央委員・袴田里見が逮捕されて以降は党の中央体制は完全に崩壊してしまった。こうして翌36年の二・二六事件を契機に軍部ファシズム体制の確立と戦争への道が本格的に始まろうとする矢先に、あえなく解体してしまったこと――これこそ戦前の共産党の運動(スターリニズム運動)の無力さとその破綻を示して象徴的である 」。

【【「日本の赤い旗」について】
 ここに1952年発行の「日本の赤い旗」(パウル・ランガー、ロジャー・スウェアリンゲン共著、マサチューセッツ州ケンブリッジハーバード大学出版部、吉田東祐訳)がある。訳者の吉田氏は次のように記している。「本書はまた米国が日本共産主義運動についてどれほどの理解をもつているかを示す一つの水準である。惟うに、米国の対日政策はごく大きく分けて二つの面があると思う。一つは国際共産主義に対する世界的な反共戦略の一環として日本を如何に米国の政策に協力させるかということであり、もう一つは日本独自の帝国主義的発展を抑えつつ、その傾向を反共の線に撓めて行くため国内政治にどういう性格の、またどの程度の圧力を加えるべきかということである。終戦当時の共産党員解放の事情などは恐らく後者の一例であろう。当時日本国内に残っていた帝国主義勢力を抑えるためにはこれにカウンター・バランスする勢力の解放が必要だったのだ。こう考えるてくると米国の日本共産主義運動に対する評価の程度は米国の対日政策を理解する上に日本人としてどうしても知らなければならぬ問題の一つである」、「本書は日本共産主義運動研究のよい入門書であるといったが恐らくアメリカの同種研究所としては最高の水準を行くものだろうと思う」。

 戦前期時代の歴史的モニュメントをスケッチしておくと次のように云えるのではなかろうか。
 中世的停滞社会から逸早く抜け出した西欧諸国の先進的社会化、それによる西欧諸国の列強化、それによる世界の植民地分割化、北米アメリカの参入、それらに抗することに唯一成功した極東アジアの小国日本の列強化、続く西洋に在って相対的に後進国であった北欧ロシアの社会主義革命、それに続く西欧諸国での革命の嵐という流れで捉えることができる。

 ロシアの社会主義革命は、西欧列強の相互の帝国主義的対立にも拘らず革命抑止同盟的結束をもたらした。こうして、西欧社会内に相矛盾する体制間対立が生まれた。この対立は一般に、自由民主主義体制と社会主義体制の対立と云われる。この対立にアジアが巻き込まれたていくことになる。この中で、アジアに於いて逸早く成功裏に産業革命に着手し、西洋化した日本は、東亜の戦略的中心の座を得た。これにより、日本はアジアの一員でありながら同時にアジアの中で最も西洋化した国家となった。

 日本帝国主義の栄光と苦悩は実にここに存する。その特殊な地位と役割こそ日本が孕む宿命となった。




(私論.私見)