幕末の民衆闘争

 (最新見直し2005.3.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本が西欧思想及びその運動に被れる前の人民大衆運動の精華として「百姓一揆、打ちこわし運動」があった。明治維新後、文明開化の流れと共に、在来の伝統が軽んぜられ、共和国思想、自由民権運動、、キリスト教的ヒューマニズム、社会主義、共産主義、無政府主義、社民主義その他諸々の西欧思想に被れて行った。

 その結果が肝要である。れんだいこに云わせれば、いずれも外来ものは外来であり根付かなかった。なぜなら、やはり感性的なものが違うから。してみれば、「百姓一揆、打ちこわし運動」を見直し、その伝統的なもののうち良きものを継承し、その上に外来の優れたものを吸収していく作法で再構成せねばならないのではなかろうか。

 2005.3.1日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その22 れんだいこ 2005/03/02
 【「回天運動としての百姓一揆、打ちこわし、ええじゃないか運動論」】

 明治維新の偉業には、「上からの革命」としての倒幕運動を支える「下からの革命」運動があった、それは「百姓一揆、打ちこわし、ええじゃないか運動」であり、更に「黒住、金光、天理」に代表される神道系民衆宗教が重なっている。それらを支える大衆的裏方の義侠、財政庇護者が存在した。財政庇護者には、後の新興ブルジョアジーの他に国際金融資本も列なっていた。つまり、いろんな要素が絡んでいたことになる。

 れんだいこは、明治維新の偉業をそのような史観で捉えている。これを一つの文章で書きつくすことはできないので、各項目ごとに検証しようとしている。ここでは、「百姓一揆、打ちこわし、ええじゃないか運動」を取り上げる。概要は、幕末の民衆闘争史(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/minsyushi.htm)に書き付けた。

 大塩八平氏の2004.12.5日付け「SENKI、1163号3面」の「今年は秩父困民党蜂起から120年、けっこう『お上』に強かった日本の民衆、百姓一揆は組織された異議申し立てだった」(http://www.bund.org/opinion/20041205-1.htm)に刺激を受け、これを参照し、取り込んだ。大塩八平氏は恐らく著作権云々云わないだろうと思い、地文に取り込んだ。読み直し、どんどん書き直すつもりです。

 思えば、白土三平氏の劇画「カムイ伝」が百姓一揆の生態を伝えていた。確か、1960年代後半の時期であり、それは全共闘運動の昂揚期と重なっている。そういえば、バロン吉本氏の「柔侠伝」も面白かったなぁ。云える事は、運動の昂揚にはそれを支える詩、音楽、絵、書があるということか。今はそれがない。テレビの洗脳ジャーナルが花盛りで、「文芸空間」を侵食しきっているように思われる。

 これに代わる「インターネット空間」を創造せねばならない。新聞よりもテレビよりも為になり情報も論評も的確な文芸戦線を構築せねばならない。れんだいこは今のところ「阿修羅」に見出している。全部は読みきれないので、お気に入りのところを読ませていただいている。この種のネット新聞でも出れば面白いと考えている。朝起きたらそこから入るようなものが欲しい。今の俗悪テレビは害が多すぎる。

 話を戻す。幕末の夜明け前がその後どう転変していったのか、させられたのか、それこそが明治維新論となるべきではなかろうか。ならば、その転変を解き明かすためにも、明治維新前の上からと下からの革命の息吹と構図を確認しておかねばなるまい。この辺りの考察が弱いのではなかろうか。

 最近のヒットは、何とレーニンが、日本の幕末回天運動に見せた日本人の能力を注視し、高く評価していることを知ったことである。メリニチェンコ(伊集院俊隆訳)氏の「レーニンと日本」がそれを教えており、れんだいこは、「レーニンの日本及び日本人論、明治維新論」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_lenin_nihonron.htm)に書き付けた。

 今日レーニン主義の偏りが明らかにされつつあるが、それはそれとして、レーニンの革命軍略家としての功績は評価せねばならないと思う。毛沢東然りであろう。金日成の主体思想の意義も分からないわけではない。ただ云える事は、経済の舵取りで一様に失敗している。それはなぜなのかを問うことも面白いが、それは別稿でしてみたい。

 皆中途半端になっているが、皆様方のお力添えも賜りそのうち有益なものにしたいと思う。

 2005.3.2日 れんだいこ拝


【幕末時の社会事情】

 さしもの徳川幕藩体制も政権200年を経過した頃より秩序が綻びていった。内政外交共にそれを御す政治能力に欠け、統治機構に揺らぎを見せていった。徳川幕藩体制の治政の乱れは、究極的には人口の大部分を占める農民への圧政として帰趨し、慶長の御触書式農民政策「生かさず、殺さず」が機能しなくなり、共同体的農村社会を苦吟させていった。度重なる自然災害、不作にも構わず諸藩の年貢米の取り立てが厳しく、農民に塗炭の苦しみをなめさせ、離散、赤子の間引き捨て子、餓死、人妻や娘の人身売買を進行させつつあった。この経過で寄生地主といわれる大地主階層も生まれ始め、農民階層内に富農と貧農の別が際立っていった。

 この頃、外圧問題も重なった。こうして、徳川幕藩体制は、内外外患とも云うべき多事多難な事情に突入していった。まさに時代の変わり目となった。幕府の統制力が陰り始め、諸藩は自律的に治政の立て直しに着手し藩政改革を断行していった。この改革に成功した薩摩藩、長州藩等外様大名が次第に勢力を増し「雄藩」として台頭し始め、幕閣にも影響力を行使していくことともなった。やがて政局の動向に少なからぬ影響力を占めはじめていくこととなる。このことは譜代、親藩、外様と秩序分けされていた大名支配の序列に対する空洞化を促すことでもあった。体制は、「上から」も少しずつ幕末維新を醸成していった。

 こうした時代に応じて、イデオロギー的にも、幕府官学の儒教思想や管理宗教と化していた寺院仏教と系統の異なる、陽明学、国学の台頭を生み出していくこととなった。新しい思想、信仰を求めようとする群像が日本の至るところに生まれ始めることとなった。こうした事情にともない、次第に統治論として尊皇攘夷の思想が声高にされ始めることともなった。尊王武士が現れだす等、幕府政治根幹を揺るがすかの如くに、時の流れが動き始めることとなった。体制は、体制イデオロギー界をも揺るがし始め幕末維新を醸成していった。

 他方では、長崎を上陸地点とした蘭学が西欧の新しい文化、科学技術を伝え、ひいては幕藩封建政治、鎖国体制を批判する風潮を強めつつあった。これらの新イデオロギーが、近代統一国家日の創出を志向する脱藩武士を生み出していった。彼らを支える協力者が広汎に存在したということでもある。

 この頃、庶民の間には、仏教、神道に限らず、俗信仰が流行し、世俗的な生活と結びついた講が盛んになった。霊場巡礼、寺社詣り、おかげ詣り、ことに山伏修験者などによる加持祈祷が流行の兆しを見せた。こうして、上から下から右から左から国学派から洋学派に至るまで、至る所に政情不安の種が蒔かれつつ、時の流れが否応なく幕府の屋台骨を揺さぶり続けていく時代となった。体制は、反体制イデオロギーを生み出し幕末維新を醸成していった。

 こうした時代の動きは日本史上にとどまらず、この時代西暦19世紀前半の一時期は世界史の上でも特筆される大変動の時代であった。政治.経済.社会.思想と、すべての面にわたって、広く深く根源的な大きな変革のうねりが進行しつつあった。西欧においてもっとも進んだ形で現われたこの大変革は、遠くアジア地域にまで、その余波を拡げることとなった。資本主義の発達は、生産の増大と販路の拡大を求めて止まない。ブルジョワ民主政治を基盤として力強く成長し始めた西欧近代国家は、海外に向けては武力を背景とした植民地の獲得に鎬を削る軍事列強として立ち現われることとなった。

 インド亜大陸や東南アジア地域をいち早くその手中にしていたイギリス、オランダ、フランスなどの諸国が、老大国清国に狙いを定めた東南アジア一帯に、この時期競って進出の機を窺い始めた。北の巨人ロシアが、しきりに日本の北辺を窺うようになったのは、既に前世紀の末からであった。この頃になると新たにアメリカが参列することとなった。こうして、いわゆる鎖国政策の中で独特の封建平和体制を維持し続けた日本も否応なく世界史の渦に巻き込まれることとなった。


【徳川政権時代の百姓一揆、打ちこわし考】

 2004.12.5日付け「SENKI、1163号3面」の大塩八平氏の今年は秩父困民党蜂起から120年、けっこう『お上』に強かった日本の民衆、百姓一揆は組織された異議申し立てだった」等を参照する。

 幕藩体制の揺らぎはその矛盾を農民や町人に皺寄せしていった。近世民衆史研究は、百姓一揆や打ちこわしが、困窮し絶望した挙句の破滅的な暴動ではなかったことを判明させつつある。むしろ、明確な目的・要求を掲げ、仲間内内に形成された作法(戦略と戦術)に従い諸要求を勝利的に獲得する合目的的な政治行動として、英明に遂行されていったように思われる。その目的・要求は何らかのかたちで達成されるのが一般的だった。

 例えば、凶作の年に年貢の支払い免除を求めた一揆が「支払いの10万日繰り延べ」の回答を引き出した例がある。10万日は273年。要するに権力側の顔を立てた上で、事実上の年貢支払い免除を勝ち取っている。一揆は、年貢の減免の他、飢饉の際には食糧を確保して住民に配給するよう迫るの公的扶助制を求めたり、あるいは特定の政策担当者の罷免など、具体的な要求項目を明示して行動する民衆運動だった。

 
農民による百姓一揆は後期になるほど増加していた。その内実を見るのに、@・次第に過激且つ持続的な様相を帯び始めていった。A・「世直し一揆」化し政体変革を求めていった。B・全国各地で爆発的に起こり且つ広域化していった等々に特徴が認められる。

 
その形態は、逃散(集団離散)、越訴(代官などの手順をこえて、直接領主、幕府などへ訴える)、強訴(集団で抵抗する)から次第に、惣百姓の村ぐるみの団結で強訴する広域的な惣百姓一揆つまり数ヵ村の村ぐるみの蜂起になりつつあった。初期に於いては代表が越訴、強訴などし、村方は代表の一身を擲(なげう)つ闘争を支援した。これらの諸闘争の経験から学び、代表は次第に各村落を糾合し始め、鎮守の森の境内等で代表協議会を開き密議するようになっていった。こうして、横の連絡を密にしていく闘争形態を創出発展させていった。惣百姓一揆は、村役人、豪農層と平百姓、貧農の対立激化を反映しており、しばしば領主側を圧倒して要求をかちとることが多かった。

 しかし、一揆の首謀者が無罪で免責されることはなかった。徒党を組むこと自体が非合法とされていたから、一揆の要求が受け入れられる代わりに一揆の責任者は罪を問われ、獄中死させられたり処刑されたりした。一揆が解散し日常生活に戻ったあとで、体制権力は一揆の指導者を摘発して逮捕、処罰を行った。 村人は、身代わり御供と化した彼らを義民とあがめ、その家族の生活を扶持した。それは、百姓社会が生んだ根強い抵抗運動を組織し持続させる為の知恵であった。現在各地に残っている義民塚はなべてそのようなものである。

 こうした権力の弾圧に対して民衆は、できるだけ犠牲者を出さないように努力した。権力側と145日間にもわたる交渉を続けた結果、所期目的を達成した上に、一人の処罰者も出さないですませた1853年の「南部三閉伊(さんへいい)一揆」など、犠牲者皆無で大勝利した一揆も複数例ある。

 江戸時代も中頃の17世紀末になると、一つの藩の中のほとんどの村が百姓一揆に参加する「全藩一揆」(いわばゼネスト)が多発するようになる。全藩一揆は、村々の間を廻状が回覧されて一揆が呼びかけられるところから始まる。参加を決めた村の代表者が廻状に署名を連ね、合意が明文化されていく。多数の村の合意が確認されるのと並行して、村ごとに蜂起の準備が整えられ、いよいよ大音量の合図(ほら貝や鐘、猟銃の発砲音など)で一斉に蜂起する。非合法の行動を呼びかける廻状にはリスクが伴う。廻状には神々への誓いを述べた起請文が付けられ、遊び半分の誘いでも「おとり捜査」の罠でもないことを保障する形になっていた。

 こうした一揆の大規模化に対応して幕府は、18世紀前半になると全国一律の百姓一揆禁令を発する。禁令では、蜂起の指導者(頭取)1人を死刑にすることが定められた。逆に言えば、最高指導者と見なされた1人以外の参加者は処罰されない原則が確立されたのだ。幕府はこれによって、指導者と一般参加者との間に亀裂を入れることを狙った。

 これに対し、一揆の側の合意文書(一揆契状、連判状)の内容は、一揆で処刑された者が出た場合にその遺族の生活を参加者が共同で保障することなど、具体的な契約内容を明文化するものになっていく。その他、一揆費用の分担方法なども連判状に明記されることが一般化し、民衆の側は一揆が指導者個人の煽動によるものでなく共同責任によるものであることを意識的に明示するようになっていった。

 一揆の合意文書への参加者の署名は、一般に名前を放射状に書き込んで円形に配置する形になっていた。これを「車連判」または「傘状連判」という。この形の連判がなされた理由は種々考えられる。一揆の筆頭者を不分明にして指導者処刑を避けようとしたためと理解することができよう。しかし、首謀者リストともなる訳だから、この説は穿ちすぎではなかろうか。むしろ、一揆参加者が相互同心円的に不退転の闘争決意を主体的に確認しあう儀式であった、と解するべきではなかろうか。ちなみに、同様の車状の連署方法は、東南アジア全域から朝鮮半島、さらにイギリスにまで存在する。

 1780年代を境に、人通りの多い場所に一揆の呼びかけ文を掲示する張札が、廻状にとってかわる。もともと都市部での「打ちこわし」ではこの動員方法が採られていた。百姓一揆もこの方法を採るようになった。村単位の回覧・村ぐるみの一揆参加を前提とする秘密廻状に加え、堂々と張札で決起を呼びかけるようになった。

 多くの百姓が参加した一揆に同郷の富農が敵対したような場合、一揆がこの富農の邸を打ち壊しの対象とすることもあった。また、利害関係において共通するはずの者同士でも、一揆参加者(「立ち者」)と一揆参加を尻込みし見送ってしまう者(「寝者」)との分離が生まれている。

 「打ちこわし」は、一言でいえば都市暴動だが、偶発的な暴力沙汰とは全く違い、こちらも組織的行動原則にのっとって行われるのが常だった。庶民生活を圧迫していると見られた豪商や高利貸しの店などを集団で襲撃し建物を破壊するのが具体的な行動内容で、@・人身の殺傷はしない、A・便乗しての略奪行為もしない、B・火災を引き起こさないよう注意する、この3原則が基本的には厳格に守られた。

 一揆の「武装」レベルを確認しておく。百姓一揆には鉄砲が使われることがあった。ときには鎮圧部隊の何倍もの銃を一揆側が所持していた例もあった。にもかかわらず、百姓一揆で民衆側が発砲して人員殺傷をした事例は1件も記録されていない。専ら威嚇ないしは鳴り物効果で使用されたようである。江戸時代を通じて銃は、廃棄されたわけではなく、鳥獣狩りのために実用されつづけていた。

 鉄砲以外の持ち物で相手を殺害した例は、幕末に近づくにつれ散見されるようになる。百姓達は鉄砲を鳴り物として、つまり発射音でアピールをするための道具として使ったのだ。武器を少なからず所持しながら、それを人身攻撃にではなく専ら意思表示に使う。百姓一揆は高度な目的意識性に支えられて行われていたのである。

 都市部での「うちこわし」でも同様の目的意識性が発揮された。経済的弱者が金目のものの集中する大商家などを襲撃するのだから、どのような理念を立てようと現場では略奪行為が起きる。だが、これが見つかれば必ず当人は仲間たちから殴りつけられ、盗んだものはその場に捨て去ることを強要された。自分たちは権力の政策変更を迫るための抗議行動をしているのだから、盗みの要素を間違っても混入させてはならない、というのが相当強固な共通認識になっていたのだ。  


【徳川政権時代の百姓一揆、打ちこわし考】
 19世紀日本の民衆思想等を参照する。
 260年間の江戸時代を通して、記録に残っている百姓一揆は3212件、打ちこわしは488件。江戸時代の日本は、一般庶民の識字率が近代以前の社会としては世界に例を見ないほど高く、一揆に参加した民衆の側が残した記録も膨大に残されている。これと権力側が作った記録とを照らし合わせると、今からでも相当に客観的な「百姓一揆の実像」に迫ることができる。保坂智著「百姓一揆とその作法」(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」)や青木美智男著「百姓一揆の時代」(校倉書房)、青木虹二氏の「百姓一揆総合年表」によって代表的なものを列挙してみると次のような事例が認められる。


1853 嘉永6  南部三閉伊一揆 90村参加  藩政改革・仙台領への移住要求
1855 安政2 豊前時枝騒動 数千人参加  苛政に反対。
1856 安政3 備前渋染一揆 八千人参加  部落差別反対。
1858 安政5 三河新城一揆 19村参加  減免・代官罷免要求
1859 安政6 信濃南山騒動 1600人参加  延納要求。
1860 万延1 丹波市川騒動 一万八千人参加  苛政反対。
1863 文久3 羽前屋代一揆 35村参加  米沢藩への知行替反対。
1864 元治1 大隅犬田布一揆  砂糖総買い入れ反対。
1865 慶応1 山城木津一揆  免割への不満から藩役人と対立。
1866 慶応2 武蔵武州一揆 数万人参加  米価引下げ、質物返還の世直し要求。
陸奥信達騒動 180 村参加  生糸税反対、米安要求。
1867 慶応3 日向竹槍騒動 1000 人参加  庄屋の非政追及。

 こうした百姓一揆で叫ばれた内容を確認しておく。

 「汝等よく聞け。金銀のあるにまかせ多の米を買しめ、貧乏人の難渋を顧みず、酒となして高値に売、金銀かすめ取たる現罰逃るべからず。今日只今、世直し神々来て現罰を当て給ふ。観念せよ」( 「鴨の騒立」天保7(1836) 年の三河一揆の記録)

 「免切らずめの大盗人共、世界にない取倒しめ、今からは我々らが心次第に、したい儘にするぞや。仕置が悪しくば、年貢はせぬぞ。御公領とても望なし、仕置次第につく我々ぞ。京の王様の御百姓にならうと儘ぢやもの。やれ早く打殺せ、打たたけ」( 「那谷寺通夜物語」)

 つまり、百姓一揆での要求の背景には、為政者には天下のご政道論に照らして仁政を施す義務があり、これに反する場合には人民大衆側からの掣肘権があり、天罰を加えて当然とする観念があったことが明らかにされている。

 このことは逆に、一揆の指導者の資質にも目が行くことになる。指導者は日頃、勤勉・倹約・孝行の厚い人徳者でなければならず、民衆思想史研究の代表的研究者である安丸良夫氏の言葉を借りるならば、「通俗道徳的生活規律の厳格な実践者であったこと、それに裏打ちされた確信とも言うべきものが、一揆の指導に欠かせないものであった」ことになる。

 例えば、南部三閉伊一揆の指導者の一人と目されている三浦命助は、「衆民の為死ぬる事は元より覚悟の事なれば、今更命惜しみ申すべき哉」と述べ、事実最終的に獄死した百姓であるが、たゆまない日常の勤勉を最後まで『獄中記』として家族に書きつづっている。また、信達騒動の指導者の一人と目される菅野八郎も、孝行山という興味深い図を残している。頂上に至る早道は、儒教・神道・仏教ではなく、「それはたらけ、やヤれはたらけ、金銭を遣うな、朝寝をするな、夜行をするな、風邪を引くな、けがするな、雨にぬれるな、悪事をするな、大酒するな、腹をたつな、口論するな、ばく
きするな、 女郎買いするな、邪淫するな」という道であるとも述べている。ここでは、神道・仏教などがそれぞれ「目薬と眼鏡を持たず、天地十方見通すこと能わず」、「今時の坊主共案内すると雖も、其身其身が、其道を行わずして、只口で斗り道を教へ、――迷惑して道を失ふなり」と批判している。


【幕末期の百姓一揆、打ちこわし考】
 幕末・維新期は、百姓一揆が「世直し一揆」へと転回していった時期であった。支配階級内部でも薩摩・長州のリーダーたちが回天運動に乗り出しており、これに呼応するかのように民衆の側からも反封建闘争を開始していたということになる。「民衆意識の伝統にふかく根ざした体制変革運動」が展開されていった。

 江戸時代の一揆には、国政そのものを動かす力があった。要求貫徹力が高く、闘争犠牲者も最少限に抑える、そんな一揆の方法が確立されていったのは、民衆の側が一揆の記録を意識的に後進に書き残し続けたことの成果だった。記録の内容が「次はこう闘えばいい」という教訓として広く共有され、それが全国的レベルにまで広がっていたことも、近年あきらかになっている。


【神山征二郎監督の映画「草の乱」考】
 神山征二郎監督の映画「草の乱」が話題をよんでいる。1884年11月1日秩父郡吉田村椋神社に、刀・槍・猟銃で武装した農民3000人が集まった。明治政府にもの申す世に言う秩父困民党の蜂起だ。今年は蜂起から120周年にあたる。

英国公使オールコックの指摘考】
 幕末期に日本を訪れた英国公使オールコックは、上級者の下級者に対する言動が丁寧なことを日本人の特徴として特筆している。戦国時代に日本に滞在していたキリスト教伝道師たちも、下級者の面目を潰した上級者は必ず復讐されるので、地位が高くても他人を侮辱しないよう常に注意を払っているのが日本人だと書き残している。

 これより以降は、「明治維新後の民衆闘争史




(私論.私見)