セム系一神教聖書の天地創造譚と泥海古記譚との比較

 (最新見直し2007.7.21日)

 参考サイト、【宗教

 (れんだいこのショートメッセージ)
 セム系一神教のユダヤ教聖書の神話は、1・天地創造譚、2・エデン譚、3・カインとアベルの兄弟譚、4・ノアの洪水譚、5・「ハムーカナンに対する呪い譚」、6・「人の寿命120年譚」、7・「バベルの塔譚」の7章よりなる。続いて、神話か歴史書か判然としないアブラハム編、イサク編、ヤコブ編、ヨセフ編へと続く。以上全体が「セム系一神教聖書の神話」となっている。ここでは、前者を純正神話とみなし考察する。(参照サイト「創世記」)

 ユダヤ教聖書の神話そのものは「聖書の天地創造譚」で解析する。ここでは、天理教教祖中山みきが開示した「お筆先の元の理」との比較で、ユダヤ教聖書神話の特徴を明らかにしてみたい。

 2006.11.22日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評200 れんだいこ 2006/08/15
 【「旧約聖書の天地創造説」と「みきの泥海古記」との創造の同一性と差異】

 2006.8.15日は、小泉はんは靖国に、れんだいこは、この掲示板を嫌がらせし続ける原理どもに対抗すべく、最も根本問題たる旧約聖書の天地創造説」の検証の一日とした。以下、「旧約聖書の天地創造譚」をユダヤ聖書と記し、「みきの天地創造譚」を「泥海古記」と記す。

 どちらも、文字で説かれた創世記であり、物語の完成度が高い点で双璧となっている。但し、ユダヤ聖書の天地創造説は世に遍(あまね)く知られているが、「泥海古記」は天理教徒及びその関連の一部の人にしか知られていない。そういう違いがある。但し、この説話を比較すると、「みきの泥海古記」の方がより手の込んだ内容となっていることに気づかされる。

 どちらも、神が人間を創ったとする点では一致している。神はいわば全てのものの創造主であり、今なお支配している全能主であり、如何なるものにも拘束されない叡智であることが大前提とされている。いわば主にして全知全能神であることを伝えている。但し、次のような違いがある。

 ユダヤ聖書に於けるヤハウェ神は概念的に一定せず非常に多義的である。創造主でもあり、人格神でもあり、ユダヤの民に契約を迫る神でも有り、ユダヤの民に契約する神でもあり、奇跡を為す神でも有り、破戒する神でもあり、反省する神でも有り、ユダヤの民のみに恩寵を授ける神でも有る。これを神義的に考証するのは不可能であろう。他方、「泥海古記」の創造主は、自然諸力の万能全能神であり、人格神ではない。共通しているのは、世の立替え立て直しを促す神であるというところであろうか。

 ユダヤ聖書では、神と人間の関係は一方通交的であり、あくまで創造主と被造物の主従関係である。両者は、神の命令する掟を通して関係づけられている。契約は律法として立ち現われており、神と人とはいわば契約関係となっている。これを犯せば厳罰が待ち受けている。小滝透・氏は、著書「いのち永遠に」の中で、次のように評している。
 「彼らの文脈における信仰とは、内面的には『神の脅しに竦(すく)み上る精神』を指し、外面的にはその結果引き起こる『律法遵守』を意味している」。

 もし、この世にみき教義がなければ、我々は唯一のユダヤ聖書教義に耳を傾けるしか術がない。幸いにも、日本には幕末時点でみき教義に基づくもう一つの創世神話が生まれた。有り難いことに、みき教義の核心を為す「泥海古記」では、神が被創造物である人間に罰を下すことはない。むしろ、慈愛深き血縁的な親子情愛関係として終始語られており、汲めども尽きない慈愛に貫かれている。

 ユダヤ聖書的神による絶対厳罰というものは記されておらず、何度でも神の思いに叶うよう努め直すことばかりが語られている。ちなみに、この点では、仏教と比べても瑞々しい。仏教教義でも、この世の根本を娑婆苦と捉えており、全体に虚無的世界観で説き分けられている。煩悩、因縁、業に取り付かれているとして、そこからの解脱を目指す。それに比して、みき教義の場合には無罰的埃思想であり、非聖書的非仏教的明るさが認められる。

 特徴的なことは、ユダヤ聖書の人間創造譚は、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」の一行で済まされているのに比して、「泥海古記」のそれは詳しい。というより、他に同種の考察が無いとすれば、史上独壇場となっている。この点はもっと注目されて良い。世間は一般に西欧被れを特徴としているので、日本が生み出し世界に打ち出しし得る「泥海古記」の凄さを知らなさ過ぎる。

 「泥海古記」は、人間創造に当り、「一つ人間というものを拵えて、人間が楽しむサマを見て私も楽しみたい」との思いであったことを伝えている。その点で、ユダヤ聖書の創世記は、人間創造の動機を明らかにしていない。そればかりか、「神は、地上に人の悪が増し、人が常に悪事ばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し心を痛めた。遂に、獣も家畜も地を這うものも、空の鳥も、私は、これらを創ったことを後悔する。これらをこの地上から消し去ろう、と決意した」などと述べ、神が後になって人間創造に後悔した様子を記している。「泥海古記」の創造主はそのように後悔することは無い。つまり、罰する神と慈愛の神との説き分け違いとなっている。

 「泥海古記」では、実際の人間作りも非常に手が込んでおり、自然諸力の内からハつの道具衆を引き寄せ、それらの神々作用によって人間創造されたことが説き明かされている。しかも、神の一度の行為によってではなく三度の御技によって完成されたことが記されている。「泥海古記」の場合、それは、神の深い慈愛を感じさせる説き方になっている。他方、ユダヤ聖書にはこれに該当する記述がない。この差は大きいというべきではなかろうか。つまり、簡便な天地創造と入念な天地創造の説き分け違いとなっている。

 男女を説き明かす場面も然りで、ユダヤ聖書は、「人が独りでいるのは良くない。彼に相応しい助ける者を造ろう」とあるように、女性が後になって男性のあばらの骨から作られたことを伝えているが、「泥海古記」では当初より男女が対で創造されている点も注目されて良い。付言すれば、「泥海古記」では、性差を認め、その差に立って助け合うことが要請されている。ユダヤ聖書にはこの辺りの記述が無い。あるとすれば、男尊女卑的文言ばかりである。

 更に、ユダヤ聖書は、神の「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」の御言葉を伝えているが、「泥海古記」には、人間ー自然間に支配服従思想は伝えられていない。むしろ、人間同士も然り、天地自然との共生を説き分けている。この差も大きいというべきではなかろうか。

 既に指摘されているところであるが、西欧思想の中に濃厚な支配観念、それに基づく現実政治に於ける絶対支配は実に、ユダヤ聖書に淵源しているとも窺うことができるのではなかろうか。神の御業を知らされても、「泥海古記」にはそのようなものはない。この差は大きいというべきではなかろうか。

 その他「貸し物・借り物思想」、「埃思想」、「談じ合い思想」等々諸々が、ユダヤ聖書的又は仏教的教義より秀でていると思わざるを得ない。この点まだまだ未熟であるが汲み取り続けて生きたいと思う。ユダヤ聖書にあるのは代わりに、カインとアベルの兄弟譚であり、ノアの洪水譚であり、バベルの塔譚である。そこにあるのは、正義とは何の関係も無い主の怒りとそれに基づく呪いや報復である。こんなものを幼児の頃より詰め込んでなんになるのだろうか、れんだいこにはさっぱり分からない。

 西欧の徹底殲滅型報復思想とそれに基づく現実政治とその阿諛追従は、ユダヤ聖書の創造記よりめぐり廻っている。こんなものに捉われるより、代わりのものを創造し、世界に提起する必要があるのではなかろうか。れんだいこは、「泥海古記」から打ち出されるみき教義はその際の有力な理論であると思っている。

 「セム系一神教聖書の天地創造譚と泥海古記譚との比較」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/omitinoriron_motonori_tentisozokanhikaku.htm)

 2006.8.15日、2006.10.22日再編集 れんだいこ拝

【ユダヤ教的戒めと「みきのかんろ台教理」との差異考】

 河合隼雄氏は次のように述べている。
 「キリスト教の中心には神がいて、完全に構造が決まっている。ところが日本社会は中空構造になっていて、みんながバランスをとってやってきた。中空だから後からどんな文物がきても受け入れることが出来る」。
 「欧米では『よい子はうちたの子。悪い子は出て行け』という。これは父性原理。日本は『いいも悪いも無い。みんなうちの子』という母性原理」。




(私論.私見)