第40部−214 明治維新の史的過程−新体制考察
 
1868年 明治元年 3月、新政府は「船中八策」を基にした「五箇条の御誓文を発表する。」
・現代訳
明治元年3月14日発布


【明治新政府の矢継ぎ早な近代国家形成革命政策】
 

 明治新政府は次のような方針を矢継ぎ早に打ち出していった。いずれも「文明開化」的中央集権制による近代国家の確立に向かっての適宜策であった。力走しました。新政を進めるために首都を京都から江戸に移し、呼称も東京と改め、に向けて、これまでの藩を廃止して県を置く廃藩置県や身分制度の変革、地租の改正など各種の政策を打ち出していきました。

@ 「東京遷都(せんと)」 1868年江戸を東京とし首都を京都から東京に移した。
A 版籍奉還(はんせきほうかん) 1869(明治2.6月政府は大名(だいみょう)が支配していた土地と人民を朝廷に返還させた。これを版籍奉還と云う。木戸が維新前から持っていた構想で、薩長土肥4藩主から建白する形で版籍奉還を実現させ、中央集権国家の体を整えていった。が、これは形式だけのことであり、実際に各藩はそのままの形で残っており、藩主も知藩事(ちはんじ)という名前に変えられただけで、領内の運営は全て藩が行っていた。
B 廃藩置県(はいはんちけん) 1871年には藩(はん)を廃止して府(ふ)と県(けん)をおき、政府の任命した府知事(ふちじ)・県知事(けんちじ)をおいた。これにより、政府の命令を地方にもいきわたらせることができるようになり、全国を一つにまとめる政治のしくみが整えられた。版籍奉還に次ぐ廃藩置県には、薩摩藩主の父島津久光が猛反対したという。こうした武士の不満を抑えるには、切れ者ではなく、人望のある西郷が必要だった。維新後、鹿児島に戻って悠々の生活を送っていた西郷を、大久保は自ら鹿児島に行って中央政界に引き戻した。
C 四民平等(しみんびょうどう) 政府は士農工商の身分制度をやめ、国民は全て平等であるとした。そして、人々は誰でも名字(みょうじ)を名乗り職業や住む場所を自由に選べることにした。しかし、天皇の一族は皇族(こうぞく)、公家(くげ)や大名(だいみょう)は華族(かぞく)、武士(ぶし)は士族(しぞく)、農工商などは平民(へいみん)とよばれ実際には差別は完全には無くならなかった。
D 学校制度 全国に小学校を設け、国民は6歳になれば誰でも教育を受けるようになった。
E 生活の洋風化 生活の変化:西洋文化(せいようぶんか)が急速に入り生活に大きな変化がみられた。洋服や靴が普及1し、牛肉を食べる2ようになり牛乳も飲むようになった。テーブルやいす3も生活の中に用いられるようになった。ちょんまげ4を切り、刀も持たなくなった。1872年には太陽暦(たいようれき)、一日24時間制1週7日制を採用した。

 明治維新は、どの段階に於いても中下級武士層、民衆の反封建闘争の高まりと欧米列強による日本半植民地化の危機に対抗する民族的自覚の成長とによって推進され、維新後の社会を欧米列強をモデルとする資本主義的体制の構築へと舵を切った。行政、軍事、社会、経済、教育、文化に至るまであらゆる方面にわたって大改革と構築を行い、維新勢力の新官僚形成のもとに西洋の近代文明の物質的成果を急速に学びとっていった。西洋文明の摂取、いわゆる「文明開化」は民族の風俗にも及び、「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」などともてはやされた。「上からの近代化」が急ピッチで進められていった。

 1、廃藩置県による行財政の中央集権化
 2、通貨の全国統一(新貨条例により、両から円へ)
 3、全国統一税制の確立(地租を年貢米から金納に)
 4、封建遺制の解体(旧藩体制の崩壊)
 5、富国強兵(殖産興業と近代兵制の整備)

 国家財政と資本主義経済の基礎基盤固め。列強への仲間入り。


「明治政府は三つの強力な制度改革、すなわち学校制度・徴兵制度・租税 制度の改革をおし進め、近代国民国家としての基盤を固めた。この三つは、やがて国 民の側から就学の義務、兵役の義務、納税の義務として広く一般に意識されるように なる」


明治維新に伴う種々の制度改革