第40部−25 明治天皇論





明治天皇睦仁−むつひと−(在位1867〜1912)

 

 

1867(慶応3)年1月9日、父孝明(こうめい)天皇が前年の1866年12月25日(この月の5日、水戸徳川家出身の一橋慶喜〔よしのぶ=御三家にひとつ徳川水戸家烈公斉昭〔なりあき〕の7男で、御三卿のひとつ一橋家を継いだ〕が15代将軍になる〔30歳〕)、35歳で急死(死因は、流行性出血性痘瘡〔とうそう〕と推定されているが、岩倉具視〔ともみ〕を主犯とする毒殺の噂がある。なお、孝明天皇の妹和宮〔かずのみや〕は14代将軍家茂〔いえもち〕の正室)したため、第2皇子の当時16歳の祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王が践祚(せんそ=天皇の位を受け継ぐことで、即位との区別はない)し、明治天皇睦仁(むつひと)となる(なお、明治天皇の即位の礼は1868〔慶応4〕年8月27日に行われ、同年9月8日には明治と改元され、一世一元の制度がここに確立されることになる)。

 

その明治天皇は、1852(嘉永5)年9月22日、孝明天皇を父とし、中山慶子(よしこ=公家中山忠能−ただやす−の娘)を母として生まれた。明治天皇は若年で即位したため、側近の岩倉具視(1825〜1883〔明治16〕 京都生まれの公卿・政治家で、当初公武合体に努め、のち、討幕運動に参加。維新後右大臣となり、特命全権大使として欧米視察。三条実美〔さねとみ〕や大久保利通らと並ぶ明治政府の最高の実権者の1人となり、自由民権運動の高揚に対して、天皇を中心に明治国家の基礎を固める方針を採用した。1881〔明治14〕年には井上 毅〔こわし〕に命じて帝国憲法の枠組みとなる「大綱領」を起草させた。絶対主義政府の専制支配者として内治優先・天皇制確立の政策を遂行した)らの主導で明治維新は推進されたが、公武合体(幕末期、朝廷の伝統的権威と結び付き、幕藩体制の再編強化を図ろうとした政治論)論者の孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変するのに十分で、それ以後、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進むのであった。

 

岩倉

 

すなわち明治天皇は、1867(慶応3)年、徳川将軍徳川慶喜に大政奉還(将軍慶喜が征夷大将軍〔鎌倉時代以後、幕府政権の長たる者の称〕の職を辞し、政権を朝廷に返上することで、公武合体派の前土佐藩主山内豊信の建白による)の勅許を与えるとともに、薩長両藩主に討幕の密勅を下し、王政復古(朝廷政治から武家政治に移った後、再び朝廷政治に戻ること)の大号令を発して新政府を樹立、1868年1月からの戊辰(ぼしん)戦争で旧幕府勢力を打倒、同年3月に五箇条の誓文を発し新政府の基本方針を宣言するとともに、1871(明治4)年6月に廃藩置県(全国の藩を廃して府県を置いたことで、当初、北海道を除き3府302県〔沖縄県の設置は1879年〕であったが、この年の末までには3府72県となった)を断行(274藩が奉還)して中央集権体制を実現し、1889(明治22)年に大日本帝国憲法を発布、帝国議会開設後は、政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を、また日清・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たした。

 

明治天皇(1852-1912)


明治天皇の誕生日は11月3日ではないかと思う方も多いと思うのですが、それ
は太陽暦での話。このシリーズは基本的にその当時の暦で書く方針を取って
おりますので、それでいくと嘉永5年9月22日未下刻(14時半頃)ということに
なります。はじめ祐宮(さちのみや)と名付けられました。

明治天皇の御生母は中山慶子権典侍(権大納言中山忠能の次女,のち従三位・
大典侍)です。良家の娘ばかりの当時の後宮において、身分も低く田舎育ち
であったものの、孝明天皇は逆にそれが新鮮な魅力にうつって御子誕生と
いうことになったとも言われています。時代的背景もあり、宮中で純粋培養
するよりも自然に育てた方が良いとの方針で8歳になるまで中山家で養育され
万延元年(1860)9月28日親王宣下、睦仁(むつひと)の名を賜ります。

そして慶応2年(1866)12月25日孝明天皇が急死すると年明けの同3年1月9日
弱冠15歳で践祚。天皇となりました(即位は翌4年8月27日)。なお睦仁親王の
上には3人の皇子がいましたがいづれも夭折しており、孝明天皇の子で大きく
育ったのは結局明治天皇だけでした。(准后九条夙子も内親王を一人産んで
いるがやはり夭折している。当時の天皇家の血統は危機的状況であった。
これは五摂家の娘でなければ女御になれない当時のしきたりに問題があった
ともいわれている)

世が世であれば天皇は学問や文芸だけをしていれば良かったのですが時代は
そのようなことを許してはくれませんでした。

まだ即位式もあげていない慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜が大政奉還を請い
24日には将軍職の辞職を建白。これをうけて朝廷では12月9日王政復古の号令
を発して将軍職を廃止しました。明治維新です。

明けて慶応4年3月14日には五箇条の御誓文が発表され、4月11日江戸城開城。
7月17日江戸を東京と改名、8月27日に即位式をあげると9月8日明治改元、
同20日には日本の分裂を避けるため天皇は京都を発って東京に向かい10月13
日江戸城に入って東京城と改名しました。

更に天皇が東京に移動したことに動揺した京都の人々のために天皇は12月に
はいったん京都に戻り12月28日一条勝子入内(結婚にあたって美子と改名)。
美子は天皇より2つ年上で、17歳と19歳のとてもお若いカップルでした。

ちなみに美子(はるこ,昭憲皇太后)は明治天皇の子供は産んでいません。体質
が弱く子供が産める身体ではなかったとも。この非常に困った状況を改善す
べく明治4年と5年に後宮の大改革が行われ、当時の上級女官のほとんどが罷免
され、以後の女官は家柄に関係なく登用されることとなり、やがて柳原愛子
(なるこ)が大正天皇となる明宮(はるのみや)を産みます。明治天皇の成人した
子供は5人ですが皇子は明宮のみでした。

さて、話を戻して天皇は明治元年12月に京都に戻ったものの翌年3月には再び
東京へ移動。「天皇が東京に滞在中は太政官もそちらに置く」という玉虫色の
遷都?宣言を行います。そしてこの年各藩が相次いで版籍を奉還し、日本は
天皇を中心とする新しい国家として生まれ変わりました。

さてこの激動の時代に国を動かしていたのはいったい誰でしょう??

慶応3年1月9日に二条斉敬が摂政となっていますが同12月9日には罷免されて
います。(彼は結局藤原家最後の摂政となった) 代わってトップに立ったのは
和宮の元婚約者としても知られる有栖川熾仁親王で、同月明治政府の初代総裁
に任命され東征大総督となって官軍を率いて江戸城入城を果たしますが、その
後は三条実美がはじめ輔相(1868-69)、ついで右大臣(69-71)、太政大臣(71-85)
となって実権を握っています。有栖川親王も三条も幕末から朝廷側で色々と
動いていた人でいづれも1863年に公武合体派のクーデターにより中枢から追い
出されています。それが恐らくは孝明天皇の死去によって公武合体派が挫折し
たことにより彼らのグループが復権。薩長の幹部と合わせた集団指導体制で
急速な改革を進めて行ったのでしょう。

明治時代は同10年(1877)の西南戦争を最後に全体がひとつにまとまり、22年の
大日本帝国憲法発布、翌年帝国議会の創設により政治体制も整備され、また
富国強兵に務めて明治27〜28年(1894-95)の日清戦争、37〜38年(1904-05)の
日露戦争を戦ってその実力を世界に誇示しました。

ひとつ間違えば西洋諸国のどこかの植民地にもされかねなかったこの時代に
江戸時代の平和に慣れきっていてまさに黒船数隻にも何も抵抗できなかった
武士たちに代わり国民皆兵による新しい軍隊を創設して大国と対等に戦える
実力を育てていく一方で、どんどん西洋の技術を移入して工業の発展を促し
繊維製品の輸出で利益を出せるようになり、また民主主義的な政治体制を
少しずつ整備し、近代国家としての基礎を作っていった。これがうまくいった
のはほとんど奇跡ともいうべきものです。

中国や朝鮮半島への干渉、女工哀史のような過度の社会的歪み、また後の
シナ事変・太平洋戦争へとつながる軍部の暴走などの問題点はあったものの
この時代に事実上の国の統合の象徴として君臨したこの天皇はやはり名君で
あったのでしょう。

天皇は帝国憲法でも主権者とされ法制的には政治体制のトップにありますが
実際には行政の責任は大臣にあり、また軍の指揮権も各軍のトップにあって
その地位は実際には形式的なものでした。

しかし明治天皇は20歳になられた1872年から1881年まで10年をかけて全国各
地を行脚し、そのほとんどの地で民家に宿泊。各地域で頑張っている人達を
表彰して国民の志気を高揚しました。そのため私達は今でもあちこちで睦仁
の署名のある額を見ることができます。昭和天皇が戦後行った全国行脚も、
ある意味ではこの時の明治天皇の全国行脚の焼き直しでしょう。

また天皇は実際に戦争が始まると前線近くまで自ら赴いて兵士たちを激励し
てはいますが、日清日露の両戦争自体には一貫して反対の御立場であったと
され、山形有朋らの軍閥や伊藤博文らの好戦派政治家とは次第に距離を置い
ていったといわれます。そのため伊勢神宮への戦勝祈願・戦勝報告も拒否し
たりしており、そういった意志もまた昭和天皇に受け継がれていったのでし
ょう。

●明治天皇 めいじてんのう

アジア 日本 AD1852 江戸時代

 1852〜1912(嘉永5〜明治45)第122代に数えられる天皇。名は睦仁(むつひと)。孝明天皇第2皇子。幼名は祐宮(さちのみや)。母は中山忠能の娘で,典侍中山慶子(よしこ)。のちに中山一位局という。1860年立太子。孝明天皇の急死により1867年(慶応3)1月践祚。関白二条斉敬が摂政となった。同年討幕の密勅が出され,将軍慶喜は朝廷に大政奉還を申し出た。ここにおいて約265年間の江戸幕府が滅亡し,同年12月王政復古が宣言されて,天皇を頂点とする明治新政府が成立した。1868年9月明治と改元して一世一元の制を定め,12月には一条忠香の女美子(はるこ,昭憲皇太后)を皇后に立てた。1867年から1868年にかけては政治的大転換期であったが,天皇がまだ若年であったことにより,薩長の倒幕派が勢力を伸ばし,天皇中心の中央集権体制の確立に努力した。幕末,欧米列強の力をみせつけられていた革新的な下級武士たちは,富国強兵こそ政治の根本であると自覚し,そのために旧幕府の処分を急がねばならぬと思っていた。版籍奉還から廃藩置県への移行は,まさにその第1歩であり,これによって新政府の基礎を固めることができた。また旧幕府の勢力が存在している関東・東北を鎮めるために首都を江戸に移し,東京と改めた。1868年の大久保利通の遷都建白書には次のように書かれている。〈是迄之通,主上と申し奉るものは,玉簾(ぎょくれん)の内に在し,人間に替らせ玉ふ様に纔(わずか)に限りたる公卿方の外,拝し奉ることの出来ぬ様なる御さまにては,民の父母たる天賦の御職掌には乖戻(かいれい)したる訳なれば〉との考えに立って,岩倉具視・三条実美木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通らが天皇の“君徳培養”に心血を注いだ。また,侍講となった元田永孚福羽美静・副島種臣・伊地知正治,それに侍補となった吉井友実・佐々木高行・杉孫七郎・徳大寺実則らも,天皇に大きな影響を与えた。だから天皇の政治的意見が政治に反映するようになったのは,岩倉・西郷・木戸・大久保らが死んでからである。天皇即位後,天皇の神格化を進めるとともに,1881年陸海軍人に対し,大元帥として勅諭を発し,ついで1889年大日本帝国憲法の発布・皇室典範の制定などによって,国家統治の大権・陸海軍の統帥権が明確にされ,天皇制絶対主義が確立した。また精神面では1890年の教育勅語で,忠君愛国を国民道徳の中心として教えるなどして,国神格化を完璧なものにしていった。在位期間中,強大な政治権限を付与され,その上,空前絶後といわれるぐらいの膨大な皇室財産を与えられ,日清・日露の両戦争で勝利し,国力を伸長させたので,ロシアのピョートル大帝・プロシアのフリードリヒなどと比較されて,「大帝」と呼びならわされている。確かに統一国家の成立・発展期にもあたり,なおかつ,日本資本主義の上昇期に面して,国際的地位も高めたので,“英王”として評価されたのである。また明治天皇は歌人として多くの業績を残している。幼時より父孝明天皇により作歌の指導を受け,のちに典侍広橋静子・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)・高崎正風(まさかぜ)らに教えを受けた。とくに,高崎正風は,桂園派の巨匠八田知紀(とものり)に学び,1876年御歌掛,1886年,三条西季知(すえとも)のあとを継いで御歌掛長,1888年には初代御歌所所長となって,明治天皇・昭憲皇太后に奉仕したので,天皇自身その影響を受けている。『明治天皇御製全集』162冊(宮内庁侍従職所管)に,その全部が収められているが,政務・軍務の忙しさのなかで,9万3,032首の詠作を残したのである。1916年(大正5)御製集編さんが始まり1919年に終わる。1922年12月文部省より『明治天皇御集』として発刊。1,687首が収載されている。1960年(昭和35),明治神宮が御製集改編を企画し,1964年に完了。『新輯明治天皇御集』上・下2巻を刊行した。8,936首が収載されている。桂園調でおおらかな,それでいて帝王調の風格のある歌風を樹立したといわれる。陵墓は京都の伏見桃山陵。

 「六大巡行」

明治5.2.22〜7.12 近畿・中国・九州方面
明治9.6.2〜7.21 東北方面(函館まで)
明治11.8.30〜11.9 北陸・東海道方面
明治13.6.16〜7.23 中央道方面
明治14.7.30〜10.11 東北・北海道方面
明治18.7.26〜8.12 山陽道方面





(私論.私見)