第40部−27 明治維新の革命論的位置付けを廻って

 我々が獲得すべき知恵は、本来平明なものではないかと思う。よしんば事柄が難しくても簡潔明解に要点を整理しておくべきでは無かろうか。ところが、本稿のテーマである「明治維新の革命論的位置付け」を廻って反対のことばかしが為されてきている。もっとも、こういう作法は明治維新論に対してばかりでは無いのだが。他方で、知識標榜人士が気取りながら碩学ぶりを振り撒いており、その権威で我々を誑(たぶら)かし続けている。それはおかしいだろう。賢こぶるほどの知識があるなら、もつれる糸を解かんかいとか思う。

 この現象は何を語るのだろうか。結論から云えば、医者がカルテをわざわざドイツ語で記すように、坊主がわざわざインド言葉で経文を読誦するように、わざわざ事を難しくして近寄り難くさせオマンマの種にしているだけなのでは無かろうか。そう読み解くことで理解が出来る。そうとならば我々の遇しようもあるだろう。案外このことに気づいていない現象があるので一言しておいた。

 とか云う感慨を覚えながら、れんだいこが本稿の課題の解明に向かう。というのは良いけれどそれがまた難しいのやふふふ。

 2002.11.24日れんだいこ


資料【かりの会・主張―真の愛国心で反動的「愛国心教育」を打ち破ろう!(2002年11月22日 )】

■「愛国心教育」と「個の自立教育」

 9月17日、文部科学省の諮問機関、中央教育審議会の中間報告素案が明らかにされ、「自立した人間育成のための個性教育」などと共に「公共心、郷土や国を愛する心」を基本理念に盛り込み、「法の見直しを行なうべきだ」と提言しています。

 朝日新聞は、これについての「解説」で、「新たな視点として、生涯学習の理念や個人の能力の伸長など新しい視点が打ち出されたが、それに混じる形で、国を愛する心や伝統の尊重が含まれている」と書いていました。これは、「愛国心教育」は一部の保守勢力が自分たちの持論を紛れ込ませたのだと言うことなのでしょうが、多くの人もそのように見ているようです。

 これまで度重なる「教育改革論議」では、主に、「個を尊重し、個人の能力を伸ばし、個性を大事にする」などという「個の自立教育」とでも言うべき方向が強調されてきました。

 確かに、この「個の自立教育」と「愛国心教育」は異質な感を否めません。しかし両者は、まったく異質のものなのでしょうか。

■「個の自立教育」の意味するもの

 それを考えるためのも、まず、この「教育改革」は、どういう時代的背景の下に、何を目的に行なわれようとしているのかを見る必要があると思います。

 昨年11月に文部科学省が中教審に出した諮問文は、これについて次のように言っています。

 「・・・冷戦構造の崩壊後、世界規模の競争が激化する中で、我が国の経済、社会は大きな転換点に立っている。このような厳しい状況の中で・・・新しい時代にふさわしい人材を育成することが急務になっている」。

 現代は、市場原理をテコに世界のグローバル化が進み、国際独占資本が世界的な大競争を繰り広げている時代であり、日本も市場原理第一主義の経済、社会に転換されつつあります。そうした時代にふさわしい人材。それはどういうものなのでしょうか。

 元来、市場原理主義とは、「個人の私利私欲を最大限発揮させれば、後は市場がすべてをうまく調整する」というものです。私利私欲を最大限追求する人材を育成すること、まさに、それが市場原理主義が要求する教育であり、「個の自立教育」だということができると思います。

 市場原理主義に基づく能力主義、成果主義を受け入れ、その結果を自己責任してくれ、国際独占資本に最大限の利潤をもたらしてくれる人材。すなわち、個々人の「独創的」な発明やひらめき、30代で身も心もボロボロになるような激しい利己主義競争を強いる能力主義、成果主義。そして能力がなければ不安定雇用に甘んじてくれる、そういう人材育成と、そのための学校制度改革・・・。

 すでに、日本の教育は、各種改革や指導要項を通じて、それを実行しつつあります。今日の学校の荒廃や青少年問題の原因がこの利己主義教育にあると指摘する声が大きいのに、「教育基本法」を改正してまで、この「個の自立教育」を強化すれば、一体どうなるのでしょうか。

■「愛国心教育」の目的

 以上のような市場原理に基づく教育改革において、愛国心教育はどういうものなのでしょうか。はたして、「愛国心教育」は、「個の自立教育」とは異質のものを紛れ込ませただけのものなのでしょうか。 そうではないと思います。そこには一つの共通性があります。それは「個の自立教育」も「愛国心教育」も人間観が同じだということです。

 そのことは、あの「新しい歴史教科書を作る会」の小林よしのり氏の主張を見ればよく分かります。彼の著書「戦争論」では、「暴力衝動や残虐行為も人間の本能に潜む」としながら、動物本能的なものを人間の本来性としています。そして、この本の最終章で「個は制限と束縛の中で完成される。自分を一番自由にしてくれる束縛は何か?それを大事に思う心を育てよう」と言っています。

 すなわち、エゴである個人を制限、束縛して人間として完成させてくれるのは国家だから、これを大事に思う心を育てようというのが、彼らの言う「愛国心教育」だということができると思います。

 このように、「個の自立教育」と「愛国心教育」は、人間を利己的存在=エゴと見ていることで一致しています。

 人間がエゴであれば、国や民族を愛するという考えは出てきません。それにもかかわらず「愛国心」を押しつけるのだから、それはファッショにならざるをえません。

 人間をエゴと見る彼らは、国家もエゴだと見ます。だから、彼らにとっては、強い国が弱い国を従わせるのは当然であり、言うことを聞かなければ、その国を侵略し戦争をしかけても構わないとなります。それは、「国際社会がどう思おうと米国は自国の利益を守るためには戦争も辞さない」というブッシュの単独主義に端的に現れています。

 過去の「愛国心」もそうでしたが、この愛国心教育も侵略と戦争のためだということができると思います。

 実際、世界的大競争の結果、経済は混乱し、市場はますます縮小しています。こうして、経済危機が深刻化する中で、米国が反テロの「21世紀型戦争」を騒ぎ立てながら、それを執拗に拡大しようとしていることを見ても、侵略と戦争が切実に要求されるようになっています。「愛国心教育」は、まさに、この要請に応えて出されてきたものなのではないでしょうか。

■真の愛国心を闘いの武器に

 国を愛し、民族を愛する感情は、人々の自然な思想感情であり、本性的な要求です。

 今回の拉致事件の5人の日本への帰国の情景を見てもそう思いました。誰もが自分のことのように喜び、5人もそれに心から感謝していました。地村さんの「日本の国民みんなや政府が『自分の子供の問題だ』ということで、一生懸命してくれた」という発言や曽我さんの「私は夢を見ているようです。人々の心、山、川、谷、みな温かく美しく見えます。空も土地も、木も私にささやく。『おかえりなさい』」という言葉に多くの人が「その素朴な感情表現にうたれた」などと言っていました。

 長い歴史の中で、共に自主的に運命を切り開いてきた人間の基本集団である国と民族。それゆえ、人々は国と民族をかけがえのないものとして愛し、その生命である自主性を何よりも貴重に考えます。

 人間にとって国と民族はかけがえのないものであるという民族至上の観点、その生命が自主性であるという民族自主の観点。これが、しっかり立てれば、他の国の人民も、自国、自民族をかけがえのないものとして愛し、その自主性を何よりも貴重にする気持ちが分かり、侵略と戦争に絶対的に反対する立場をもつようになります。

 民族至上、民族自主を核とした愛国心教育であってこそ、人間の本性に合う民主、自主、平和の真の愛国心を育むことができます。

 反動的「愛国心教育」がファッショと侵略、戦争を生むとすれば、真の愛国心教育は、民主、自主、平和を守ります。

 今、問われていることは、真の愛国心をもって、反動的「愛国心教育」を打ち破っていくことではないでしょうか。



資料【中野徹三氏の「いわゆる『自由主義史観』が提起するもの−その内容と問題点をめぐって」との対話
(関連ファイル) 中野徹三論文の掲載ファイル  健一MENUに戻る

 (地文)
 
二年ほど前から、これまでの日本の近現代史の教育と研究について、東大教授の藤岡信勝氏を中心とするグループが、烈しい批判を展開している。氏によれば、中学校社会科の歴史教科書の近現代史の部分は、日本の近現代史を国民が支配層に搾取され、弾圧された歴史としてひたすら暗黒に描き、また明治の初めから近隣諸国を侵略し、国民を戦争で悲惨な目にあわせたとして日本国家をもっぱら悪逆非道に描き出す「暗黒=自虐史観」が基調になっている(藤岡『汚辱の近現代史』徳間書店、七十頁)。


 (れんだいこ)
 藤岡信勝氏
「日共理論を頂点とする近時の左派系史観は、徒な『暗黒史観』であり、『自虐史観』であるとする」批判は、基本的に正しい。
 (地文)
 氏はこうした「自虐史観」が、戦前の日本共産党がその一支部だった共産主義世界党(コミンテルン)の日本革命論と、その支配的影響下に生れた『日本資本主義発達史講座』の日本近代史認識が、戦後の日本近現代史研究・教育の主流となり、これと極東軍事裁判での日本国家断罪の視点が合体して生れたもの、と論断して、これを「コミンテルン史観」または「東京裁判史観」と呼ぶ。
 (れんだいこ)
 藤岡信勝氏がそのように論旨展開し、「コミンテルン史観」または「東京裁判史観」と命名しているとしたならそこに論理の飛躍がある。『暗黒史観』なり『自虐史観』の由来の一要因として、コミンテルン及び東京裁判の影響を挙げるのなら分かる。しかし、もう一つの重要な要因を抜きにこれを語るなら捻じ曲げでしかない。

 『暗黒史観』なり『自虐史観』の由来には、宮顕の「党内リンチ致死事件」が関係していると云えば驚かれるであろうか。しかし、ここが震源地であるのが実際だ。宮顕は己の戦前の犯罪を弁明するために頻りに戦前の暗黒支配体制を説いて廻った。当然、そのように見なすことが自身の免責に繋がるという利益があるからである。その暗黒体制が生んだ戦争悲劇として各地での侵略行為をも又自虐的なまでに極力フレームアップさせた。『暗黒史観』と『自虐史観』は構造的にかく繋がっていると見るべきで、どちらに云い換えても同じというものでは無い。

 『暗黒史観』なり『自虐史観』の由来の主要因はこちらの方にあり、コミンテルン及び東京裁判の影響は従である。にも拘わらず、その従の方を持ち出して「コミンテルン史観」または「東京裁判史観」と呼ぶのはまやかしである。それは単に煽動的にコミンテルン及び東京裁判を批判するだけのものであり学問的にも実践的にも役に立たない。

 (地文)
 他方氏は、明治維新から敗戦までの日本の国家行動をすべて是認し、太平洋戦争をも欧米の支配と圧迫から日本とアジアの諸民族を解放する正義の戦争であったとする史観を「大東亜戦争肯定史観」と名づける。そして藤岡氏は、以上二つの史観はともに一面的であるとして、自分の史観を第三の「自由主義史観」と称するのであるが、あわせて氏はこの史観が、司馬遼太郎氏の歴史小説(とりわけ『坂の上の雲』)と史論から学んだものであることを自認し、したがって、「司馬史観」がその基本となっていると述べてもいる(のちに見るように、両者の間には、かなり大きい距離があるが)。以下、この史観を、氏のいう他の二つの史観と対比しながら、検討してみよう。

 これは、五二年前まで徹底した皇国史観で育成された私たち自身の、現在の日本近現代史観を、自覚的に再吟味する好機会でもある(「自由主義史観」の内容と主な論点については、会誌に別に付表が添えられるというので、それをご参照頂きたい)。


 (れんだいこ)
 体制側の「皇国史観」、「大東亜戦争肯定史観」、これに対するに『暗黒史観』、『自虐史観』であるとする構図が長らく支配的であるのは事実だ。この粗雑に対し「司馬遼太郎史観」及び「自由主義史観」で対抗するというがどのようなものであろうか。

 1、明治維新の理解をめぐつて

 (地文)
 「自由主義史観」によれば、明治維新は、西欧列強による植民地化の危険を回避し、自前の国民国家をつくり上げた偉大なナショナリズム革命であり、また「武士が武士階級(=封建制)を否定し」て個人の自由な活動を引き出した市民革命であった。
 (れんだいこ)
 この観点は基本的に正しい。明治維新を捉えるのに「民族主義が発揚した近代化革命」という視点こそ我々が長らく忘れさせられているものである。今一度ここに立ち戻る必要がある。

 (地文)
 これに対し、藤岡氏が批判を集中するところの、維新後の日本国家を封建社会の最後の政治形態としての「絶対主義国家」の一種=「天皇制絶対主義」としてとらえる見方は、藤岡氏がいうようにコミンテルンの「三二テーゼ」と、それに依拠した日本共産党および講座派のマルクス主義史学の立場から発しており、それはやがて日本戦後の近現代史学のもっとも有力な潮流となって、歴史教育にも根強い影響を及ぼしたことは、確かである。

 また客観的に見て、この立場が神がかり的な皇国史観とそれにもとづく維新以後の支配勢力による政策展開のすべてに対する官僚的、御用史学的美化に対決し、当時の歴史教科書――藤岡氏はなぜ、戦前、戦中の歴史教科書の批判をしないのか?――の背後にあった民衆生活の生々しい事実と、その基底にある社会の経済的構造とその運動に解明の光をあて、遂には太平洋戦争の破滅へと突き進んだ日本近代史を貫く論理を、それなりに明らかにしようとしたこと、それによって、日本史学をはじめて科学の水準にまで引き上げたことは、公正な論者たるもの誰も否定できないであろう。

 (れんだいこ)
 藤岡氏の「『三二テーゼ』的マルクス主義史学」批判は基本的に正しい。中野氏の「マルクス主義史学が日本史学をはじめて科学の水準にまで引き上げた」論による手放しの賛美はいただけない。それは半面の事実に過ぎない。やはり、「マルクス主義史学が近代民族主義の流れを評価せず、階級史観によりこれを捻じ曲げた」面をも見るべきだろう。 
 (地文)
 私見では、このことを承認することと、明治維新や明治以後の日本国家についてのコミンテルン=講座派的見解に全面的賛成することとは、けっして同じではない。むしろ、講座派理論――そしてそれを生み出したコミンテルンのスターリン主義的「マルクス主義」は、維新後の日本を把握するうえでも、多くの一面化と誤りを生んだ。
 (れんだいこ)
 そう、そう認識すべきだ。ところで、
中野氏は、「多くの一面化と誤りを生んだ」をどの位相でみつめようとしているのだろうか。れんだいこ史観と擦り合わせしてみたい。
 (地文)
 コミンテルンの革命理論は(特に一九二八年の第六回大会以後)、資本主義の「発展段階」に即してさまざまな国の来るべき革命の性質を類型化するものだったが、維新以後の日本国家については、天皇大権をうたう明治憲法体制と、そのもとでの官僚制国家権力の「相対的に大きい独自の役割」に注目して、これを「絶対主義」と規定し、この天皇制絶対主義国家が現在、一方では半封建的な寄生地主制、他方では独占ブルジョアジーに依拠し、三者で密接な同盟を結んで人民を奴隷化し、新しい帝国主義戦争を企てている、ととらえる(三二年テーゼ)。
 (れんだいこ)
 「三二年テーゼ」の構図は確かにその通りである。

 (地文)
 まず注意すべき点は、ここではヨーロッパ中世から近代への移行期に封建諸侯の割拠を打破して中央集権的国家を創出した絶対王政の歴史的経験が、単純に一九世紀後半以降の極東の一国家に「適用」せられた、という点である。この歴史認識の原点には、封建領主・ブルジョアジー両階級の勢力均衡の上に立つ強力な王権、とするマルクス主義的絶対主義論があるが、その理論と調和させるために、地租改正(一八七一年)と翌年の土地永代売買解禁以後に発展した地主制下の地主階級をも、一九三〇年代のそれを含めて、「三二年テーゼ」は、「寄生的封建階級」と呼んでいる。

 (れんだいこ)
 ふむふむ。

 (地文)
 さらに注意すべき点として「三二年テーゼ」は、「天皇制絶対主義」は地主的土地所有とともに労働者と農民による「ブルジョア民主主義革命」によってのみ打倒される、と主張するが故に、この「一八六九年以後に成立した絶対君主制」は、半封建的地主制とともに、一九三二年を超えて未来の人民革命の日まで永続することになる。だが敗戦は、人民革命なしに従前の天皇制を質的に変革し、地主制を一掃した。にもかかわらずこの「三二年テーゼ」的歴史観は戦後も永く日本共産党幹部と、その周辺の歴史家たちの頭脳を支配し続け、占領下の「五二年綱領」では、天皇制と寄生地主制を打倒し、占領制度を撤廃する「民族解放民主革命」が、第一段の革命として想定されていたし、六一年に採択された現綱領でも、「三二年テーゼ」の戦略規定は「基本的にただしかった」と総括されているのである。
 (れんだいこ)
 谷川氏のこの纏め方は粗雑である。というか、この観点が学会の主流なのであるから谷川氏を批判しても仕方ないが、重要な側面をいくつも見落としている。「32年テーゼ」の権威化は史実であるが、第一に「幻の31年テーゼ草案」に触れる必要が有る。第二に、「ブルジョア民主主義革命」を社会主義革命に急速転化させるというのが「32年テーゼ」の底流に流れており、この「急速転化」を廻ってはるけき今日永遠の彼岸にまで追いやられてきている論の展開史がある。これに触れぬ「32年テーゼ」解説は意味を為さない。

 つまり、同じ二段階革命論にあっても、徳球系の「52年綱領」と宮顕系の「61年綱領」には雲泥の差がある。これに触れぬのんべんだらりな「32年テーゼ」論は有害であろう、この視点が欲しい。

 (地文)
 ここに私たちが見るものは、先験的に権威づけられたある「普遍的教条」と、いくつかの「経験的諸事実」との機械的結合から生れたひとつの歴史像の固定化=実体化であるが、これはしばしば左にも右にも共通する傾向である、といえよう。
 (れんだいこ)
 ふむふむ。云っている意味は分かる。

 (地文)
 「明治維新=絶対主義確立」史観は、明治維新(自由民権期と明治国家体制成立期を含む)が、欧米列強の外圧を契機として、若い下級武士層を主体とする勢力が、古い幕藩体制と身分制度を打破し、その結果解放された人民のエネルギーが、当然ながらその力量の限界のなかで社会の近代化を急速に推し進め、ひとつの国民と国民国家を創生したアジアの「近代化革命」の一つだったことを、正当に評価できなかった。それは、絶対主義→市民革命という西欧型近代化の道を絶対化して日本に適用し、しかももっぱら一九三〇年代の帝国主義日本の原点としての維新像に固執したため、維新が帯びた独自の近代性を見落したのであった。

 (こうした傾向は、マルクスの理論そのものにも内在している)。だがそもそも「三二年テーゼ」以前の時期には講座派史学においても、維新を「革命」と評価する立場が、むしろ主流だった。「二七年テーゼ」も「一八六八年の革命」と呼んでいたし、野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』もそうだった。野呂の本と同年(二八年)に出た服部之総の『明治維新史』は、明治四年以後の過程を「上下からのブルジョア革命」として把握していたが、これは廃藩置県を「第二の革命」と見る司馬史観(『明治という国家』上、NHKブックス)と、基本的に一致する。

 (れんだいこ)
 そう。この観点で良いのではないのか。

 (地文)
 また戦後、明治期の民衆思想を研究したマルクス主義史家色川大吉が、「この時期(維新から自由民権期にいたる四半世紀)は、近代日本の黎明期であり、日本人民が、在来の封建制下の孤立分散的な社会の意識から、国民的な規模での視界へ開眼し、さらに啓蒙思想の助けもかりて世界的な自己意識へと飛躍した“感激”の時期にあたっている」(『明治精神史』、講談社学術文庫(上)、七頁)、と語っているのは、いくぶんかの過大評価を含むとはいえ、民衆の主体からとらえた維新期の革命的性格を、よくとらえている、といってよい。そしてこの限り、「自由主義史観」は、政治的教条から自由なマルクス主義者を含む、健全な史的良識と一致するのであり、特に独創的なものではないが、これまでの明治期の歴史教育批判として、肯綮に値する種々の指摘を行っていることは、それ自体として正当に評価されるべきである。
 (れんだいこ)
 そう。この観点で良いのではないのか。

 (地文)
 だが、次のことを見落してはならない。藤岡氏らも、維新を日本型の市民革命として評価する時、ある普遍的な(国家や民族を超えた)価値が前提されている(「自由主義史観」という自称にも注目)。従って、この史観自体も、この普遍的理念のもとで評価されねばならないのである。
 (れんだいこ)
 何を云おうとしているのか分からない。もっと分かりやすく云うべきだ。「自由主義史観」も又普遍的な(国家や民族を超えた)価値や理念に影響されており、それ故に批判的に評価されねばならない、という趣旨なのだろうか判然としない。

 で、結局、谷川氏の明治維新論はどうなのか。尻切れトンボで何が云いたいのか分からない。

 2、日清・日露戦争と明治期の歴史像について

 (地文)
 藤岡氏によれば、帝政ロシアが朝鮮を支配下に置こうとしたために「日本は朝鮮半島に手を突っ込まざるを得なかった」のであり、「こういう経過から見ると、日露戦争は日本にとって祖国防衛のための国民戦争であった」(藤岡前掲書一五四頁)。だが、日露戦争の十年前におこった日清戦争は、すでに朝鮮支配をめぐっての朝鮮の宗主国清帝国との争いであり、日露戦争もまた、朝鮮支配をめぐる帝政ロシアとの戦争であった。この二つの戦争が、日本のみが一方的に推進した侵略戦争でないことは、のちの昭和期の大日本帝国の戦争との主な相違点の一つであるが、その目的が武力によって他国(主に朝鮮、清国)から領土や種々の利権を獲得しようとするものだったことは、それぞれの講和条約の内容と、その後の事態で十分に明らかである。これを侵略と呼ばずして、欧米のアジア侵略などを非難することは、到底できない。

 たしかに、当時の国際関係のもとでは、三国干渉後のロシア軍の南満州居すわりや旅順・大連租借等は、朝鮮半島のロシア化を通じて将来の日本の安定を脅かす要素であり、その限りこの脅威の除去が、日本にとって一種の「自衛」の性格を帯びていたことは、否定できない。しかし、そのはるか前から、日本の朝鮮進出は、一八八二年の壬午軍乱から日清戦争期の甲午農民戦争のうちにはっきり現われるように、朝鮮人民の生活を圧迫し、また彼らの民族感情を著しく傷つけていた。日本にとっての「自衛」の遂行は、朝鮮の人民にとっては、まさに「汚辱」の限りない進行にほかならなかったのだ。


 (れんだいこ)
 藤岡氏の説は分かった。但し、谷川氏の観点が分からない。内在的に見れば藤岡説に同意するという意味なのか、不同意なのか。「日本にとっての『自衛』の遂行は、朝鮮の人民にとっては、まさに『汚辱』の限りない進行にほかならなかったのだ」観点は、ならばどう対応すべきであったのかを云わない限り無内容だ。
 (地文)
 ただ、にもかかわらず私たちが留意せねばならないことがある。それは、自国によって植民地化される他民族の民族的アイデンティティの危機をあづかり知らなかった当時の日本国民の「国民意識」のありかた、それと当時の日本国家との関係の問題である。司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で描こうとしたのはまさにこの問題であり、そして「自由主義史観」はここから出立しているのであって、すべてを結局は階級関係と階級闘争に帰着させようとするマルクス主義の「階級還元主義」的思考が、遂にとらえそこねた問題だった。そしてここにも、明治維新の末裔たる明治の時代のきわだった特質が投影されているのである。
 (れんだいこ)
 ここも意味は分かる。しかしてこの語りだけでは評論に過ぎない。
 (地文)
 この時代の初頭には、「一身独立して一国独立す」という福沢のかの先駆的命題が生れ、個人の精神的自立と国家の政治的自立、民権と国権は不可分に結びついて観念されていたが、この意識はその後国権の排外主義的叫喚がますます高まってゆくうちにあっても完全には消滅することなく、それなりの形で、明治をリードする政治家や知識人のなかに生き続けていた。このことについて丸山眞男氏は、「……その後の時代に比べると、やはり明治全体としてそこに何か根本的な健康性を宿していた。」と述べたことがあった(『戦中と戦後の間』、みすず書房、二四八頁)。

 ヨーロッパの超大国ロシアとの戦争という非常事態は、国民意識のなかの国民と国家との「一体性」を極限的に高めたが、指導層においても「のちの時代に比べると自己の権力に対する神秘的な幻想や自己欺瞞からはるかに解放されており、歴史的発展の動向に対してリアルな感覚を持っていた。」(丸山眞男「明治時代の思想」、上掲書五七一頁)。また、軍人精神の面についても、この二つの戦争で生れた多くの軍神聖将逸話が物語るように、将と兵、敵と味方の間にも太平洋戦争期とは違うある合理的でヒューマンななにものかが生きていたことも、間違いなかった。そしてそれも維新期をとおしてなお生き続けた江戸時代の武士道だったと、司馬氏は内村や新渡戸らを引きながら、こう語っている。

 「すくなくとも日露戦争の終了までの日本は、内外ともに、武士道で説明できるのではないか、あるいは、武士道で自分自身を説明されるべく日本人や日本国はふるまったのではないか、と思います。」(『明治という国家』下、NHKブックス、一一七頁)。

 だが、この点を一面では肯定しながら、私は司馬氏にこう問いたい。たしかにこの武士道は、日露戦争では旅順開城など日本が当時師として仰いだ欧米の軍民には示されたけれども、アジアの民族に対してはどうだったか、日清戦争中の旅順虐殺事件、下関講和会議での李鴻章狙撃事件、そして講和条約後の三浦公使らによる朝鮮国王妃閔妃惨殺事件等々は、どう説明できるのか? 中国人に対して「チャンコロ」と呼ぶ、アジア諸民族への侮辱感情は、日清戦争後急速に拡がった。また日本支配層は、国内の貧しい労働者と農民の大衆に対して、どれほどの「武士道」を示したのか? 司馬氏はこうしたテーマについては語らず、藤岡氏も、彼のいう「自虐史観」が取り上げるこのような主題については沈黙するか、あるいは弁護するにとどまる。明治期は、「コミンテルン史観」と「自由主義史観」のいずれによっても、けっして十全に解明されはしないのである。


 (れんだいこ)
 少々がっかりするが、谷川氏は、日帝の植民地行為に対するに植民地行為の残虐さを指摘しているに過ぎない。これでは明治維新初期の精神に基づきもう少し上手にやれば良かった論に繋がり、つまり日帝の植民地行為そのものに対する理論的対置が出来ていない。ということは、ここでも何ら有益な思想を述べていないことになる。

 3、太平洋戦争と司馬史観・自由主義史観

 (地文)
 日露戦争以後の時期の日本の指導層と軍部に対する司馬氏の批判はかなり厳しく、司馬史観から学んだという藤岡氏らのグループが、とかくこの期の日本の戦争を弁護する傾向が強いのと(「従軍慰安婦」問題や南京虐殺事件等々)かなり位相を異にするが、その背景にあるものは恐らく、司馬氏の戦車兵――あのみじめな日本の戦車!――としての軍隊体験であろう。司馬氏は、「この戦争(日露戦争)を境にして、日本人は十九世紀後半に自家製で身につけたリアリズムを失ってしまったのではないか」と述べている(『この国のかたち』四、文春文庫、二一七頁)が、氏は荻原延寿氏との対談で、第一次大戦中に日本が中国に提起し、以後の反日運動の起点となった二十一カ条の要求が、日中関係の転回点となったことを強調する。「日本を今日たらしめたのは、二十一カ条ですね。あれが一番大きかった。」(『歴史を考える』文春文庫、六六頁)。

 また司馬氏は、最晩年(一九九四年)に書いた『この国のかたち』のなかで、太平洋戦争をはっきりと侵略戦争と呼び、さらにあれがアジアの植民地解放の戦争だった、という弁護論を批判して、次のように述べてもいる。

 「あの戦争は、多くの他民族に禍害を与えました。領地をとるつもりはなかったとはいえ、以上に述べた理由で、侵略戦争でした。……あの戦争が結果として戦後の東南アジア諸国の独立の触媒をなした、といわれますが、たしかにそうであっても、作戦の真意は以上のべたように石油の獲得にあり、その獲得を防衛するために周辺の米英の要塞攻撃をし、さらには諸方に軍事拠点を置いただけです。真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです。ともかくも、開戦のとき、後世、日本の子孫が人類に対して十字架を背負うことになる深刻な配慮などはありませんでした。昭和初年以来の非現実は、ここに極まったのです。」(『この国のかたち』四、二四〇〜二四一頁、傍線引用者)

 司馬氏はまた、この「非現実」を導いた重要な要因として、その名目のもとに軍部が満州事変、日中事変、ノモンハン事変などをひきおこした「統帥権の独立」を、指摘している(同上書九二〜一四五頁)。

 明治にはまだあった「健全なリアリズム」と国際感覚、武士道精神は、昭和期の軍部の精神からは、あらかた消えていた。張作霖の爆殺から柳条湖事件にいたる河本大作、板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍参謀の謀略については読売新聞が最近入手、公開した河本大作の供述書がよい資料を提供している(『This is 読売』誌九七年一一月号)。

 しかも、板垣、石原ら関東軍参謀は、満州全土占領の口実のために柳条湖の満鉄線を爆破した(謀略に用いた中国人三名は直後に殺害)のみならず、関東軍支援のためのクーデターを東京で起こすべく東京の参謀本部の建川美次、橋本欣五郎、長勇らと打合せ、陸軍省、参謀本部、警視庁の爆破プランをも立てていたのだった(河本供述書、同上五八頁)。

 なお劉傑氏(早大専任講師)は、一九二七年六月六日付で関東軍参謀斉藤恒が陸軍次官畑英太郎にあてた「当軍司令官ノ対満蒙政策ニ関スル意見」のなかには、次の文章があるという。

 「一、支那人ハ支那人トシテ見ルベシ 「某曰ク、支那人ハ類人猿ナリト。批評酷ナリト雖モ、正ニ適中スルモノトイフベシ」(同上誌、四五頁)。

 こういう指導層を頂く日本軍隊が、激戦後南京を占領したのちにおこった事態については、ナチ党員でありながら中国人避難民を日本兵の殺害や暴行から身をもってかばったジョン・ラーベの日記が雄弁に証言している。藤岡氏のグループの一人である東中野修道氏は、「虐殺を証明する公式資料は一つもない」といって、南京虐殺を虚報として否定するが(『教科書が教えない歴史』A、産経新聞社七〇〜七二頁)、虐殺の規模が中国側で主張するように三〇万人でなく、ラーベがヒトラーへの上申書で推測する「およそ五万から六万人」だったとしても(ジョン・ラーベ『南京の真実』講談社、三一七頁)、それで虐殺の事実が消えるというのだろうか。

 この東中野氏の見解も「自由主義史観」なら、上の如き「健全なリアリズム」を持つ司馬史観とは、大いに異なっている。かりに中国軍が大軍をもって東京を占領し、数万の市民を殺害したとすれば、以後日本人はこの事件を何と呼ぶだろうか? ここにあるのは、当時の日本軍部に劣らぬところの、肌寒いほどの想像力の欠除、である。そしてその果てにおこった太平洋戦争が、日本軍の戦略と戦争技術、組織の非合理性をどれほど証明したかについては、共同研究『失敗の本質』(中公文庫)や千早正隆『日本海軍の驕り症候群』(中公文庫)などが、それなりによく物語っている。

 だが私は、何よりもあの「皇軍不敗」「必勝の信念」によるすさまじい人命無視の戦争遂行を、ひとつの集団犯罪とみなしたく思う。司馬氏がいうように、この戦争で十字架を負った私たちと私たちの子孫が、新しい世紀に真に創造的で建設的な人類の一員として迎えられる道を開くこと、ここにこそ、普遍的な理念に基づく真に自由な史観が果たすべき目標があると私は信ずる。そのためには、互いに古いドグマをカッコに入れた心ひろい討論が、必要と思う。

 (「コミンテルン史観」のもとになるマルクスの理論については、ソ連邦の崩壊の根源をマルクスにまで遡って検討した私の著書『社会主義像の転回』三一書房、『生活過程論の射程』窓社、のご参照をぜひお願いしたい)。


 (れんだいこ)
 結局、谷川氏の論は、藤岡氏らの「自由主義史観」を撃っていないのではなかろうか。「司馬遼太郎史観」を持ち出し、藤岡氏が「司馬遼太郎史観」に基づくといいながら、「司馬遼太郎史観」よりもオーバーランしているではないかとの指摘に止まっているに過ぎないのではないのか。れんだいこは読んで見て何ら得るところが無い。寒いことだがこれが学会の水準かも知れない(少し言い過ぎたか)。


資料【明治維新の評価
古川  明治維新というのは、ある意味では無血革命のようなところもあります。まあ、戊辰戦争をやりましたけど、わりと幕府が簡単に倒壊しましたね。あれはやはり幕府側に勝海舟だとか、そういう人物もいたということでしょう。だから、明治維新というのは革命かどうかという論争があります。ブルジョア革命か、あるいは絶対主義の本質は変わらず革命ではないというのがありますけど、大体フランス革命にしてもロシア革命にしても旧支配者をギロチンにかけています。明治維新は首斬ってない。だからその点で不徹底な革命だと言われているんですけれど、そのあたりが、やはり徹底しない形で、古い形が残っていくわけです。だから、いったんつぶしたつもりだけど、その古い形の上に乗っかったのが、山県だとかそういう人たちだろうと思うんです。
(れんだいこ)
 古川氏が、明治維新を「不徹底ながら革命であった論」にシフトしているのが分かる。しかし明確には述べていない。
早乙女  革命のメカニズムとちょっと違って、やっぱりクーデターでしょうね。クーデターだったから、いわゆるギロチンでもって王様の首を斬るというような形にならなかった。いままでの悪政に対する民衆の勃発ということじゃなくて、結局、クーデターだった。地方大名が中央政府を倒したということですね、これは。戦後かなり左翼的な空気が強かった頃は、明治維新をあくまでも民衆革命というふうに話を牽強付会に持っていきたい人たちがかなりいましたが、民衆は「武士(さむらい)たちのすることだ」というのに近い気持ちを持っていた。確かに長州奇兵隊は、一般の人たちが入ってできた軍隊ではありましたが、これは奇兵隊だけであって、幕府を倒そうという意識をもってよその藩の人たちが兵隊になったわけじゃないんです。ですからこれはあくまでもクーデターに近い。権力争奪に過ぎないということです。
(れんだいこ)
 早乙女氏が、明治維新をは「クーデター」と見ているということが分かる。

 権力争奪によって新しい時代をつくるには、それだけの抱負というものがあった上でやってしかるべきですが、その抱負がないままに事が行われたということは、結局、主動力になったのは軽輩連中だったわけです。ですから上層部の連中の持っている教養や知性に欠けている部分が多分にあった。ただ、情熱はあったかもしれませんよ。そういう情熱と爆発的な力は確かに軽輩たちにあったわけで、それは認めざるを得ないんだけど、どういう日本をつくっていくのかというような志があった上のことじゃないんです。
(れんだいこ)
 幕末討幕運動が青写真を持たなかった論は、史実に照らせば滅茶苦茶な暴論であろう。

 それが最もよくわかるのは明治2年から3年にかけての激しい朝令暮改です。いわゆる政府機構というものが、本当に猫の目のようにクルクル変わっているわけです。なんの計画もなかったということですね、知識もなかった。一つのポジションをつくっては、もう本当に朝令暮改という言葉通り、3、4日で変わるというような形でやっていますから、これでは一体どういう国家ができるのか。理想もプログラムもぜんぜんなかったということがいえるんです。手さぐりで、こうやってダメだったから、今度こうしようかというような、非常にいい加減な形で行われてきたということです。
(れんだいこ)
 朝令暮改が青写真を持たなかった故とは必ずしも云えないだろう。
古川  それは、私は破壊のあとの権力の問題、いわゆる政権を担当した者の試行錯誤というのはやむを得なかったと思いますよ。明治4年に岩倉使節団が出て、それから次第に軌道に乗っていくわけですけれども、それはね、早乙女先生、最初の朝令暮改というものは、これは僕は避けられなかったと思うんです。司馬さんがこう言われるんですよ。明治維新をやったいわゆる薩長は愚かだと。青写真なしに革命をやった。幕府を倒した。それで大慌てで明治4年に泥縄式に外国を学びにいったと言われるんですけど、革命というのは暴発だと思うんです。そう青写真を前もって描き上げて、それで倒していくというようなものは、それはちょっとないだろうと思うんです。
(れんだいこ)
 古川氏の朝令暮改は止むを得なかった論は正しい観点だろうと思う。しかし、司馬の「青写真なしに革命をやった。幕府を倒した。それで大慌てで明治4年に泥縄式に外国を学びにいった」論を認めた上で、革命暴発論を唱えているが論旨が一定していない。
早乙女  ただね、幕末における幕府の閣僚たちのなかに、例えば小栗上野介のような頭のいい人がいて、彼はすでに幕末において郡県制度を構想していた。こういう人たちが幕末にいたということを、明治以降の歴史教育はひっくり返そうとして、無血革命というか内部改革への道を壊してしまった。そして結局、自分たちの発想のような顔をして郡県制度がその後実行され、今日まで続いています。
(れんだいこ)
 これは史実だ。で、早乙女氏は何が云いたいのだろう。

 ですから、これは幕府の閣僚たちが考えていた構想の上に立ったものであって、それを盗んだとまではいわないけれども、朝令暮改のあの姿を見ますと、そういう構想が彼らにはなかったということです。最も形の上ではっきりしているのは、明治維新が行われた途端に大宝律令の昔に返したということです。いろんな省の名前と司とか、実に古臭い名前を持ってきた。これは彼らになんのビジョンもなかったということなんです。あれは、郡県制度を敷くためにはどうすればいいかとかということをパーッとやれる力があったわけなんです。なんでもできたわけですから。そういうものを、結局、試行錯誤せざるを得ないだけの、頭しかなかったということです。
(れんだいこ)
 「結局、試行錯誤せざるを得ないだけの、頭しかなかった」というより、早乙女氏が「結局、そのようにしか理解出来ない頭しかない」ということなではないのでせうか。

 確かに、伊藤や井上たちは留学しましたけれども、半年くらいで帰ってきているでしょう、確か、馬関戦争でね。半年なんていうのは、あっという間にたっちゃうんでね。何もなってないです、ほとんど。彼らにそのビジョンがないということが、結局、最初の混乱を招き、そして長州自体のなかでも、前原一誠とか奥平議輔とかがいろんな人たちに対して、これじゃしようがないと思わせたわけです。彼らがそう思わざるを得ないくらい、天下を取ったけれども、施政方針としてもなんのビジョンもなかった。これじゃいけないということで、前原一誠たちが立ったわけです。こういう立派な人たちが、結局は殺されざるを得ないことになってしまう。
(れんだいこ)
 伊藤や井上が半年間の留学へ出向いていったのは凄いことで、それを「半年なんていうのは、あっという間にたっちゃうんでね。何もなってないです」と云う方がオカシイ。前原一誠とか奥平議輔とかの不満も、ビジョンの無さに対するものであったのではなく、革命後の新国家像が食い違ってきた故に非和解的にまで発展したと読み取るべきではないでせうか。

 こういうところに明治維新の、クーデターの持つおそろしさがあると思うんです。自分たちが天下取った以上、前原や奥平が何を言っても、彼らの言うことは聞かない。前原は参議になっていた男ですから。スターリンがトロツキーを追い出して惨殺したのと変わらないでしょう。トロツキーは亡命してから内乱を策していたわけでもなんでもないです。それでも刺客をやってまで斧で叩き殺した。それとほとんど、いえ、むしろそれより悪いと思うな。暗殺者を差し向けて殺してしまえばそのままになってしまうけども、前原たちの場合、理想を掲げて反逆しようとした、それを結局、政府に対する反抗だといって殺しちゃったわけですからね。こういうのは、実に許せないと思うんです。江藤新平の場合もそうでしょう。大久保が隣の部屋で死刑の判決を聞いてニタリとしたということを、自分で日記に書いているくらいですから。こういう連中によって明治の最初の政府がつくられたということは、どう考えても明治維新というものの評価ができなくなってくるわけですね。
(れんだいこ)
 トロツキーが刺客によって殺されたのよりも、前原たちの反政府運動に対する圧殺の方が、「それとほとんど、いえ、むしろそれより悪いと思うな」なんて比較に何の意味があるのでせう。根本的に何か狂ってますな早乙女はんは。


 ようやく見えてきたことは、早乙女氏が明治維新の相続者達を好評価してない故に、そこから遡って明治維新そのものの価値をも落とし込めるという論理のようだということかな。
 一方で、プラスの評価というのはこういうことが考えられます。世の中というものは、地球というものは、常に何かの天災が起こります。例えば洪水がある。洪水というのはいろんなものを流して、下流のほうの家などを倒したりするけども、土地は肥沃にします。これは原始的な意味での効果なんですよ。これがなかったら、確かに下流のほうに肥沃な土地ができない。これと同じような意味では、確かに幕府が倒れたということは、近代化のそれだけの効果はあったと思います。東京だって爆撃されたから新しい都市が出来上がった。ですから、これは歴史的な見方の視点いかんにも拠ってくるんです。歴史を書く場合、歴史を調べるなら、その時、悲劇的な目にあった人たちはどうしてくれるんだということですね。
(れんだいこ)
 只今の議論の最中に、こういう一般論を持ち出して還元するのは意味を為さない。
古川  私は、維新のプラスについては、ちょっと早乙女先生と違うんですね。少なくとも、私はクーデターというよりも、限りなくやはり革命に近いものだというふうに思うんです。山県だとか伊藤だとか、彼らがやった私的な部分については、ずいぶん彼ら自身も批判も浴びているわけですけども、彼らがやったこと自体は、やっぱり認めてやらなければいけないと思うんです。
(れんだいこ)
 これが正解です。

 彼らが下層の出身で、幕府という権力に、少なくとも一時期命をかけてやったことは動かない事実だと思うんです。やはり、日本のそれまで、例えば源頼朝が幕府を建てて、700年間続いた武家政権のなかで培われた封建制という絶対主義専制政治を倒した。封建というものがあそこでいちおう倒れるわけです。しかし不徹底なところがあって、いわばアンシャレジームというふうなものが残ったわけですが、やっぱりあそこで急激な大きな変革があったことは確かで、日本という国家が、近代国家としての出発を見送ったわけですね。
(れんだいこ)
 そうです。そう読み取らなくてはなりません。
早乙女  なぜそこに革命が起こる必然性があるのかといったら、革命が起こるだけの、彼らをして野獣性を最大に発揮させるだけの悪いことが、為政者のほうにあったということがフランス革命でもロシア革命でも真実の姿なんです。結局、ロマノフ王朝があれだけ長く続いたために、それこそ腐り切った王政が続いていた。
(れんだいこ)
 革命を野獣性だとみなす早乙女氏の見識の程度が知れて参ります。

 ところが、日本の徳川幕府政治はどうかというと、そういうことがなかった。江戸時代を近頃、たくさんいろんな学者が見直しています、新しく。いかに江戸時代というのが、明治政府や戦後の左翼連中によって言われたようないい加減なものじゃなかったということを。けっこう楽しんで生活していた、意外に豊かだったんじゃないかということは、いま大勢の人が言っています。江戸の繁栄ぶりを見たって、世界一の都市だったわけでしょう。参勤交代で集まった季節は、本当に大変な人数なわけで、100万都市だとかなんとか言われたくらい、それはオーバーにしても、少なくとも50万や100万の都市になっていた。都市化して、なおかつその人たちが江戸の文化というものを醸成してきましたよね。文化ができるということは、心の豊かさ、生活の豊かさがなかったら、発展しませんから。食うに追われていたら文化は発展しません。その江戸の文化というものが今日われわれが甘受している着物とか生活の身の回りのものなわけです。たいていのものが江戸時代に完成したわけです。奈良朝から最初は発したかもしれないけれども、それだけの文化を醸成するだけの世の中が260年続いたというのは、ここには革命の必然性というのが、非常に少なかったんじゃないか。
(れんだいこ)
 江戸時代の内実をそう見るのは見識である。しかしながら、「ここには革命の必然性というのが、非常に少なかったんじゃないか」なんてこと云い出したら、これは体制派べったりの理論ということになります。

 ですから僕がいっているのは内部改革命なんです。黒船が来たことによって外国に対する目が開かれ、いままでの鎖国のままじゃいけないとなった。そして、攘夷ということが非常にカッコいいもんだから、勤皇の志士たちはみんな攘夷を口にしだした。ところが攘夷なんていうものは外国人をやっつけろということで、これは非常に偏狭な気持ちでしょう。
(れんだいこ)
 「攘夷ということが非常にカッコいいもんだから」、「ところが攘夷なんていうものは外国人をやっつけろということで、これは非常に偏狭な気持ち」なんて見なす早乙女氏の歴史家としての能力が疑われるわな。

 徳川家康が鎖国したのは17世紀においては必然だった。ところが18世紀、19世紀と時代が進むと、もはや世界というのは拓けてきた。大航海時代からきたところの世界的な趨勢ですよね。そうなるとやはり開港せざるを得なくなり、開港に踏み切っていく。ところが次は、天皇はそういうふうには言ってないぞと、開港を叫ぶヤツをやっつけろというのがいわゆる長州やその他の過激派のやり方だったわけです。それで殺人、暗殺、テロをはじめたわけでしょう。だから高杉晋作だって、イギリス公使館に火をつけた。それが天下を取っちゃったら、ケロッと口ぬぐって、これからは文明開化だと、この欺瞞性ですよね。高杉が生きていたら、何と弁解したでしょうか。この欺瞞性というものは、絶対に、いかなる理由をつけても嘘なんです。天下を取った自分に都合のいい理論を、それからつくりあげたんです。
(れんだいこ)
 この論に拠れば、革命は道徳的で無ければいけないということになりますね。「天下を取った自分に都合のいい理論を、それからつくりあげる」ことは通例で、この事自体が悪いと云い始めたらきりが無い。問題は、「自分に都合のいい理論」の内実の検証にこそあるだろうに。

 じゃ、江戸時代のままだったらどうかというと、江戸時代のままということは、ですからあり得ないわけでしょう。さっきいいましたように、もうすでに小栗上野介が郡県制度を考えていて、フランスなんかと密接になってた。江戸時代に培った江戸人の生活、それが結局は、そのまま内部改革、無血革命によって、公武合体という形になれたと思うんです。公武合体という形は、最初のいうなれば幕府の改革なんです。公武合体によって大勢の知恵をということは、確かにブルジョア革命の形かもしれません。公武には庶民が入ってない、だからブルジョア革命だということになるかもしれませんけども、結局、世界の必然によって、その形がずっと、19世紀から20世紀にかけて行われるということはあり得ないことなんですね。外国に門戸を開かれれば、いやでも外国の制度を見ることによって、いい点を吸収するというのは当然のことですから、無理なくそこに開かれていく。ですから、イギリスなどを手本にするというような形で最初はみんな勉強したわけです。留学生が行ったりして。
(れんだいこ)
 何が云いたいのでせうね。

 ですから、いわゆるゆるやかな革命、改革ですね。ゆるやかな改革があれば、そこに流血の惨事というのは起こらない。そうしてまた、禍根を残さないということです、いちばん大事なことは。禍根を残すような改革はダメなんです。結局、それに対する復讐心だって出てきますし。いちばん大事なことは、そこにあるんじゃないかと思います。つまり、ゆるやかな改革によって政治なり社会の仕組みなりが、次第に世界の各国のいい例を取り入れることによって変わっていく、これは一人や二人が反対したって止まるものじゃないでしょう。それをしないで急激に明治維新をやったものだから、これまであった江戸の文化とか日本人の持っている良さというものが、どんどん失われていったんです。
(れんだいこ)
 そうか、早乙女氏は「流血の惨事が起こらないゆるやかな革命、改革」を支持しているんですね。「明治維新は急激にクーデター的に為されたから駄目」という観点なんですね。

 例えば会津だけに限って見ましても、秋月胤永とか山本覚馬とか優秀な人がたくさんいました。秋月胤永なんか日新館の先生をやったり昌平校の先生をやったりしたんですが、結局、最後は、熊本五高の先生をやっていて、後からラフカディオ・ハーンが同僚で入ってくるんです。ハーンにしてみたら、実に素晴らしい人だ、この世の中に神様というものが人間の形をしているとすれば秋月先生だと、そこまで言わしめるほどの存在だったわけです。こういう有為な人材というのがたくさんいた。

 山本覚馬だって伏見の戦いで牢屋に入れられますけども、その時に盲目になったわけです。盲目になって両眼が見えなくなって、それでもそれまで培った知識というものは大変なものがあったわけです。ですから薩摩屋敷に閉じ込められていたけれども、そこで弟子に向かって、これからの世の中のあり方というものを書かせて、それを『管見』と謙遜した言葉で称して、西郷隆盛にやった。西郷隆盛は非常に驚きました。西郷隆盛にしてみれば、これからどんな世の中をつくろうかと思っていたところですから、非常に驚いて、あわてて牢屋から出す。そして自分の師匠にするということで、結局、彼は京都府議長に選ばれる。そういうふうに才能というものがあったわけですよ。

(れんだいこ)
 で、結局何が云いたいのでせうね。「いついかなる時も革命は悲劇をもたらすから駄目」ということがいいたいのでせうか。

 こういう人たちが会津だけでもいたわけです。ほかの藩だって、どれだけ上層部にそういう人たちがいたかわからない。少なくとも300藩だとしても、その300藩の上層部にそういう素晴らしい人たちがいた。結局、その人たちの知識と教養と知性というものを、全部叩きつぶすような形でもって暴力革命が行われたということです。それが明治の悲劇だというわけです。その人たちの知恵を吸収して、それこそ大勢の知恵を吸収して新しい日本をつくって、緩やかな改革を行っていけば、日本という国は、軍国主義に走ることもなかったんじゃないかと思います。軍国主義に走ったということは、日本がこれから、地球が存在している限り負わなければならない負い目だと思います。
(れんだいこ)
 なるほど。幕末志士達は幕府の有能人士と相和して協力しながら改革運動を目指すべきだった。ろくな青写真も持たずに暴発させたから、後々悲劇を生んだ、という論のようですな。
古川  早乙女先生のご意見とちょっと違っていることだけはいっておかなければいけないと思うんですが、ゆるやかな改革ということは確かに理想としてはわかります。だけど、あの幕藩体制のなかで、例えば士農工商という身分制、それからいろんな封建社会の非人間的な不条理を取り除いて、民主主義を実現するまでは、それは段階を踏めばおそらく40、50年はかかるだろうと。だから、急ぎ過ぎたといえばそれまでだけども、やっぱり幕府は倒れなければいけないものがあったと思うんです。幕府を倒す側に、なんらそういう理由はないといわれると、ちょっと僕は違うと思います。
(れんだいこ)
 古川氏のこの観点こそ正論でせう。

 徳川幕府のいちばんいけなかったことは、鎖国ですよ。鎖国の理由はあったでしょう。だけど、各大名に自由な経済活動を禁止した。西日本のほうでは、大陸に近いから、それまでは貿易なんかもやっていた。それを一切禁止しますね。そうして、参勤交代というふうなもので各大名は財政を破綻させ、みんな経済改革やろうにもできない。みんなピーピーしてて、衰弱していった。日本の大名のほとんどは、もう財政困難に苦しんでいる。それは、日本という国家が苦しんでいると同じことなんです。幕府としては、大名がピーピーして困っていれば安泰なんですが、そういうことをあえてやる政権だったわけで、僕はやはり、徳川幕府は亡国の政権だったと思うんです。
(れんだいこ)
 徳川幕府は幕府なりに体制建て直しに懸命に努力したが、既に制度疲労していた。新しい時代は新しい皮袋を用意せねばならなかった。旧体制と新皮袋運動は非和解的方法以外有り得なかった、という観点で宜しいのではないでせうか。

 それから安政の大獄なんかを見ても、幕府の内部抗争を原因にずいぶん有為な人を殺していますね。ああいう白色テロなど、幕府も終わりぐらいになると、とにかく根っこが腐敗していた。誰かがその腐蝕した屋台骨を押し倒さなければいけなかったんです。そういう状況を考えると、やっぱりクーデターではダメだと思うんです。幕藩体制というものをまず消さなければけない。それをやった。やったけども、その後をどうしたかというと、ここに問題があるんじゃないかというふうに思うんです。

(れんだいこ)
 そうですよね。早乙女さんは明治維新が旧体制の有能な士を封殺したことを批判するが、旧体制が有為な人士を殺していたことには触れておりません。全く目茶な論法ですよね、古川氏は的確にそのことを主張されてる。
早乙女  ただね、幕藩体制の改革はもうすでに戊辰戦争の以前に壊れていたと思うんです。というのは、例えば薩摩という77万石の大国が密貿易をやっていた。これに対して、その密貿易を止めるなんていう力は幕府にはなかったわけですよ。そして、薩摩の藩主を、幕政に参与させなければならない状況にまでなっていたわけです。大国の毛利もそうですね。結局は、幕藩体制のなかでの大国が、いろんな政治に口出しをするという形をすでに許していたわけです。ということは、もう改革は始まっていたということなんです。
(れんだいこ)
 ここも話をずらしているわな。
古川  だから、徳川慶喜なんかはその改革をやろうとしたわけでしょう。いわゆる雄藩連合、これは島津斉彬なんかも参加して、外様もふくめ、雄藩の連合国家のようなものをつくって、それで議会制でやろうとしたわけですよ。だからおっしゃるように、そこまで、まだ改革の一つの大きな胎動はあったと思います。ところが慶喜がいろいろ細かい改革はやろうとするんですが、ほとんど内部からの抵抗で、できない状態なんです。そういう改革に誰がストップかけるかといえば老中、幕閣なんです。幕府のなかの官僚が、改革を阻止したわけです。だから、おっしゃるような改革はとっても難しいことだろうと思います。いまのちょうど外務省の改革をめぐって官僚の抵抗が浮かび出ている。自分たちの保身を含めて、組織を守ろうとする、あれに似たような状況があったんじゃないかと思うんです。慶喜なんか、政策顧問といった腹臣3人が暗殺されている。
(れんだいこ)
 古川氏の観点は概ね正しいと思う。それにしても早乙女氏のそれは無茶苦茶な保守理論ですね、恐れ入りました。


「そういう意味では、明治維新は確かに変革ではあるけれども、歴史を前進させるための革命ではなかった。それは革命であると同時に復古であって、太政官制のような古めかしい、前代的形態のエリート権力でもって近代化を図っていくことになりました」(「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」)。