第40部−213 明治維新の史的過程考(3)(その後の政局、明治天皇崩御まで

 (最新見直し2006.5.6日)

 
これより以前は、明治維新の史的過程考(2―2)(伊藤が射殺されるまで)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 伊藤博文亡き後の突出した指導体制は見当たらない。それだけ人物が小粒になったということかも知れない。その中で、その後の歴史の歩みを見ていくならば、寺内正毅ラインの動きが歴史の主役を務めていた形跡がある。そこで、以下、寺内の履歴を見ておくことにする。


1909(明治42)年の動き

【軍隊の動き、陸軍の歩み】
 その前に軍隊の動きを見ておくことにする。日本陸軍の歩みは次の通りである。(以下、略)。

【軍隊の動き、海軍の歩み】
 次に海軍の動きを見ておくことにする。日本海軍は、明治元年の1月17日に創設された。陸軍を創ったのが「山縣有朋」ならば、海軍を創ったのは「山本権兵衛」と云われている。山本は、戊辰戦争に18歳で参加しており、その山本に海軍に入ることを勧めたのは、郷土の大先輩でもあった「西郷隆盛」である。西郷は、藩の特待生として開成所(東大の前身)に進学した山本を、勝海舟に紹介した。山本は、「大村益次郎」が創った海軍士官・下士官の養成所である「海軍兵学校」の学生となった。山本は在学中、征韓論問題で西郷が鹿児島に戻った時、山本もいったん鹿児島に戻ったが、西郷にさとされて再び帰京し、兵学校を卒業、海軍少尉補となる。山本は以後、アメリカ・ドイツ・イギリスなど海外留学や、視察を経て順当に出世して行く。薩摩閥の影響。西南戦争のときは、ドイツ留学中だった。

 1891年、山本は海軍大佐であり、また、海軍大臣官房主事に任じられた。このときの海軍大臣は、西郷隆盛の実弟でもあった「陸軍中将」の西郷従道。この従道は、西南戦争のとき、西郷軍には加わらず生き延びた。その人物評は高く、兄の隆盛よりも大物だと評する人もいるほどである。少なくとも、海外事情については兄よりも詳しく、開明派でもあった。台湾出兵の際、先頭に立って行動した人物でもある。西郷従道は陸軍中将であったので、海軍の整備については一切を山本権兵衛に任せた。閣議でも、議会答弁でも、「山本主事に答弁させます」として平然としている大人物であった。こうしたことから、世間では「山本権兵衛海相」と呼んでいたと伝えられている。

 山本が最初に行ったのは、海軍諸制度の大改革、つまりリストラ。将官8名を筆頭に、89人のクビを切った。これは、戊辰戦争以来の旧態依然とした旧思考派を一挙に整理したことを意味している。この背景には、日清間の風雲急な情勢に対応するために、海軍内部にある薩摩閥人事を改革し、膨れ上がった部内組織と放漫経営の一掃せねばならないという事情があった。リストラされた将官のほとんどは薩摩藩出身であった。さすがに反対も多かったものの、山本は屈せず、以来、山本は「権兵衛大臣」という異名をとるまでになった。山本は、それまで不遇であった海軍兵学校の出身者の若手を第一線に起用することを主眼とし、高齢者・凡才・病弱者を、藩閥にとらわれることなくリストラした。これにより、「藩の海軍」が名実ともに、「日本海軍」へと脱皮した。

 山本による改革の第二は、軍令部の独立でした。用兵・作戦に関する仕事は陸軍参謀本部の海軍部が行い、陸軍が主導で、海軍がそれにつづくといった「陸主海従」の形で統合されていた。日清間の緊張から、軍事的衝突が起こることを懸念した内閣は戦争準備を考えたが、始めての対外戦争ということもあって、皆目見当がつかない。そこで、陸軍からは川上操六(参謀次長)、海軍からは山本権兵衛(大佐)が呼ばれ、意見を求められた。このとき、山本は、川上(陸軍)の作戦が制海権を無視していることを指摘、日本の国防における海軍の役割の重大性を政治家たちに説いた。山本は、陸軍の重鎮である「山縣」などの反対を押し切って、海軍の軍令系統を陸軍の参謀本部と同格に昇格させることに成功した。

 この二つの改革が終わったのは、1893年であり、日清戦争の僅か一年前。ここで、「参謀本部」と「軍令部」という名称が生まれた。(ほぼ引用しております)

【寺内正毅の履歴】
 寺内正毅は長州閥で、1852.2.24(嘉永5.2.5)日生まれ、1919(大正8).11.3日没の61年の生涯を経ている。長州藩士宇多正輔の3男で、母方の寺内家を継いだ。16才の時、戊辰戦争が勃発。長州藩御楯隊に所属して第二次幕長戦争に参加。さらに整武隊に所属して函館戦争に参加する。明治維新後、陸軍大阪兵学寮に入り日本陸軍軍人となる。陸軍における山県閥の一人として出世していく。

 1871年、21歳の時、
少尉任官。1873年、西南戦争で、負傷。右手の自由を失う。このため、現場で軍を直接指揮することは出来なくなり、寺内の活躍の場は、戦場から軍の政策、戦略を練る軍政の場へと移っていく。西南戦争の後、寺内は兵学を学ぶためにフランスに留学。1882年、仏国公使館付武官・フランスに留学して軍事を学ぶ。3年の留学を終えて帰国後、陸軍大臣の秘書官(陸軍大臣官房副長)を経て陸軍士官学校の校長に就任した。陸軍教育のトップとして後輩の指導にあたる。

 1894年の日清戦争の際には運輸通信長官として情報管理を中心に国内体制の強化にあたっている。4年後、陸軍の教育を統括する教育総監に就任。その後、参謀本部次長・参謀本部第一局長などを歴任し、参謀本部時代には鉄道・運輸等の動員体制の整備にたずさわる。


 
1902(明治35).3.27日、第1次桂太郎内閣の時、兒玉源太郎と交代し陸軍大臣として初入閣。その後の第1次西園寺内閣、第2次桂内閣でも陸相に留任しし、およそ9年半にわたって陸軍大臣を務めた。その間、日露戦争を指導する立場に立つ。

 この過程で、寺内は、政治結社や集会を禁止し、言論を抑圧するなど、人権や自由を厳しく制限する政策を推進している。このタカ派的な強硬な政治姿勢が評価され、1916.10月、総理大臣に任命される下地となる。

 1903(明治36)年、ロシア陸軍大臣アレクセイ・クロパトキン大将来日時の接待主任。当時、陸軍大臣にして陸軍中将。

 1906(明治39)年1.7日、第1次西園寺公望内閣の陸軍大臣。11月陸軍大将。1907年、子爵。

1910(明治43)年の動き

 2.14日、旅順地方法院、伊藤博文暗殺犯人として韓国人安重根に死刑を宣告。3.26日執行。

 2.28日、外相小村寿太郎が外国在住使臣に韓国併合方針および施設大綱を通報。


【幸徳事件】

 5.25日、政府は、明治天皇を爆裂弾で暗殺しようとした計画が発覚したとして、数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まった。敗戦後、関係資料が発見されて事件の全容が明らかになった。翌1911.1.18日、死刑24名、有期刑2名の判決が下された。(鶴丈一郎裁判長)。1.24日、幸徳秋水ら11名が、1.25日、1名(管野スガ)が処刑された。(幸徳事件)(「大逆事件(幸徳秋水事件)」参照)


【韓国併合の動き】

 日本政府内において併合推進論者であったのは内田康哉である。内田は韓国内部の李容九を説得して、李完用に対抗する勢力の編制を依頼する。すなわち民党の糾合であった。李容九は日本勢力を倒閣の具に饗しようとしていた。しかし李は民党糾合には成功したが、つぎに来た内田の要求の前に膝を屈せざるを得なかった。内田の要求とはすなわち、日韓合邦請願を内閣に求めよ、という趣旨であった。そして、そのきっかけとなったのが、前韓国統監伊藤博文が満州哈爾浜で韓国人青年に射殺される事件である。李はついに、「いずれにしても売国奴となるの覚悟は免れがたい」として政府に請願を申し出た。

 5.30日、寺内正毅が陸相のまま韓国統監府の第3代韓国統監となり、韓国併合を画策する。6.3日、閣議で、併合後の韓国に対する施政方針を決定(憲法を施行せず,いっさいの政務を統轄する総督をおくなど)。6.22日、拓殖局官制公布〔勅〕(内閣総理大臣に直隷し,台湾・樺太・韓国および外交を除く関東州に関する事項を統理。6.24日、韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(6.25日統監府告示)。6.30日、統監府警察官署官制公布〔勅〕。


【日韓併合】

 8.16日、寺内正毅統監,韓国首相李完用に日韓併合に関する覚書を交付した。

 8.22日、韓国併合に関する日韓条約(日韓併合条約)が調印される。枢密院会議が調印前の日韓併合条約を可決、即日裁可。韓国では御前会議が開催され、韓国皇帝は、「諸臣いずれも可なりとする。朕に異議なし。日韓一家となるは東洋平和のために喜ぶべく、わが臣民は其の慶福に浴するを得ん」と述べた。日本政府が憂慮した、京城での大規模な反日暴動は起こらなかった。併合条約に従って李王家は日本皇室に準ぜられ、また朝鮮貴族令において76名の新貴族が誕生した。ここに朝鮮併合は成った。

 8.29日、併合に関する詔書。韓国王室を皇族の礼をもって遇する詔書を下し、条約を公布、即日施行した。

 8.29日、韓国の国号を朝鮮と改め、朝鮮総督府をおくことを公布( ’11.3.25 法制化)、韓国統監府は朝鮮総督府に改名される。9.12日、韓国統監府が、朝鮮の政治結社を全面的に禁止。併合を推進した一進会に解散を命じ、解散費として15万円を与える。朝鮮駐箚憲兵条例公布。9.30日、朝鮮総督府臨時土地調査局官制公布〔勅〕(朝鮮における土地調査事業の本格的開始。18年に同調査完了し、全朝鮮に土地私有制 確立)。9.30日朝鮮総督府官制(総督は陸軍・海軍大将とし他に政務総監をおく)。同中枢院官制(総督の諮詢機関.議長は政務総監)各公布〔勅〕、10.1日施行。


【寺内正毅が初代朝鮮総督に就任
 10.1日、韓国統監寺内正毅を初代朝鮮総督に任命(陸軍大臣兼任)。寺内は、その初代朝鮮総督に任命されている。

 11月、朝鮮人安明根が寺内正毅総督の暗殺をはかり捕わる( ’11 年にかけて多数の独立運動家逮捕)。12.27日、対馬・朝鮮沿岸を第5海軍区とし、鎮海を軍港、永興を要港とする旨公布〔勅〕。12.29日、朝鮮総督府,会社令を制定〔制〕(朝鮮における会社設立を許可制とする) 、11.1.1 施行 .’20.4.1 廃止〔制〕。

 11月、国際的金融財閥が、ジョージア州のジキル島で秘密会議。来るべき世界的大戦争を謀議した。この時、米国に私有の中央銀行を設立する事を申し合わせた。中央銀行構想はウィルソン大統領により推進され、1913年、連邦準備法が成立する運びとなる。


 11月、南北朝並立論者の喜田貞吉氏の講演に対して、小学校教員が南朝正統論の立場から反駁質問したことにより、「南北朝論争」が始まった。


 1910年、マッキンレー米国大統領が暗殺された。


1911(明治44)年の動き

 2月、藤沢元造代議士が、衆議院で南朝正統論の立場から、南北朝並立論を攻撃した。


【明治天皇が、南朝正統の勅裁を下す】

 3.3日、明治天皇が、南朝正統の勅裁を下した。これにより、後醍醐天皇の後の正統の皇統は、南朝の後村上天皇、後亀山天皇とされ、北朝系5代の天皇は、正統の天皇から除かれることにされた。


 3.7日、衆議院,韓国併合緊急勅令ほか12件中1件(総督委任立法に関する ’10 年の勅令 324 号)を除き事後承諾、勅令。324号は、朝鮮に施行すべき法令に関する法律案と改め可決。3.13日、貴族院可決、3.25日、各公布〔勅・法〕。3.23日、朝鮮事業公債法・朝鮮事業公債特別会計法公布〔法〕( 5600 万円以内の公債発行・借入金を認め,特別会計とする)。3.29日、朝鮮銀行法公布〔法〕(韓国銀行を朝鮮銀行と改称)。8.15日、施行。4.17日、朝鮮総督府,土地収用令制定〔制〕。6.20日、朝鮮総督府,経学院規程を公布〔府〕(儒学を講究して〈風教徳化ヲ裨補スル〉ため.明治天皇,設立基金として 25 万円を下付)。6.20日、日本基督教会,朝鮮人の教化と日本国民化を目ざし伝道に着手( ’18 年末,教会 149, 会員1万 3631人)


 6月、朝鮮総督暗殺計画発覚し、米人宣教師との関係が問題となる(宣川事件)。8.24日、朝鮮教育令公布〔勅〕(教育勅語に基づき朝鮮人を〈忠良ナル国民〉に教育し,日本語による教育を主体とした普通学校・高等普通学校・ 女子高等普通学校・実業学校・専門学校の各制度を設ける。


警視庁に特別高等警察課が置かれる

 8.21日、警視庁官制改正により、庁内に特別高等警察課が置かれた。これは、大逆事件後、国内の社会主義者を「特別監視人」として取り締まることになり、それに合わせて特別高等警察課が必要になった。警視庁に置かれた特別高等警察課の網の目は、約1年2ヵ月後に大阪府にも大阪府特別高等課として設けられた。その後、北海道、神奈川、長野、兵庫等各地におかれ、1925年の治安維持法制定の直前には11道府県に広がった。更に、1928.3.15日の日本共産党大弾圧の後は、全県に特高課が置かれるようになる。


【第14代、第二次西園寺内閣】第14代:第二次西園寺公望内閣(任:1911.8-1912.12)

 8.25日、約定通り桂内閣が総辞職。桂は後任に西園寺を奏薦した。第二次西園寺内閣成立の理由は、まさに「衆目一致するところ」と情意投合のためであった。すでに維新の元老たちは政権を担当するの意志なく、人々はこぞって桂太郎と西園寺公望の二人をただ二人の首班候補としてみていた。一時、台湾総督寺内正毅や海軍の大御所・山本権兵衛の名前がでても、実現の可能性はなかった。桂はその第二次内閣の時に政友会の支援を欲して、次期首班に政友会を推し、自分も再び政権を握ることはしない、という盟約を政友会の実力者・原敬と結んだ。これが情意投合である。かくして桂は約束通り総辞職し、その後継として政友会総裁・西園寺公望を再び奏薦した。

 8.30日、第14代第二次西園寺内閣成立した。(任:1911/明治44.8.30-1913/大正元.12.21)。

総理大臣 西園寺公望 政友会総裁
内務大臣 原 敬 政友会
外務大臣 内田康哉
大蔵大臣 山本達雄 政友会
司法大臣 松田正久 政友会
文部大臣 長谷場純孝 政友会
農商務大臣 牧野伸顕 薩派
逓信大臣 林 董
陸軍大臣 石本新六 明治44.8.30-明治45.4.2
上原勇作 明治45.4.5-大正元.12.21 薩派
海軍大臣 斎藤実 薩派
内閣書記官長 南 弘
法制局長官 岡野敬次郎

 第二次西園寺内閣で当面の問題となったのは、原内相の提出した選挙区制改革案、つまり小選挙区制の導入である。原の小選挙区導入の理由は、社会主義者の議会進出と伝播を防ぐためである。しかし、この意図は山縣有朋はじめ官僚派に強い猜疑をもたらした。大選挙区制を敷いたのは山縣当人であり、その底意には議会開設当初政府が望んだような政府党を躍進させる、ということがあったためである。

 かくして小選挙区制は、衆議院は通過したが貴族院で否認され、葬られた。未だ貴族院は山縣ら官僚派の牙城であったのである。のちにこの小選挙区制は、原が首相の印綬を帯びたときに選挙権拡張とともに施行されることになる。

 10.11日、朝鮮総督府,旧韓国の官立法学校を京城専修学校に改組〔勅〕(韓国時代の専門学校を廃止)。10.24日、明治天皇,教育勅語を朝鮮総督に下付〔訓〕( ’12.1.19 総督,その謄本を管内学校へ頒布する旨訓令)。11.1日、鴨緑江橋梁完成により,新義州・安東間開通,朝鮮総督府鉄道と南満州鉄道との直通運転を開始。


 明治44年度末の国債残高は26億円弱で歳入総額のほぼ4倍。一般会計に占める国債費の割合は25%以下に下がっていた。


1912(明治45、大正元)年の動き

 1.1日、南京に中華民国臨時政府樹立。孫文が臨時大総統に就任し、建国を宣言。  1.8日、犬養毅頭山満、南京で孫文と会見する。1.11日、孫文、北伐を宣言し、清朝政府と戦争へ。1月、三井物産、中国革命政府に30万円の借款供与。


 1.1日、東京市電ストライキ。1.15日、東京市電ストを指導したとして、片山潜ら治安警察法違反で逮捕。


 1.2日、夏目漱石の「彼岸過迄」が朝日新聞で連載開始。


 1.4日、朝鮮総督府、教育勅語下付を受け、官立・道立諸学校に訓令する。


 1.5日、日本と英米独仏の5ヶ国、北京−奉天間の鉄道保護のために出兵を決定する。


 1.13日、東京組合石炭回漕船船頭ら1500人がストライキ。


 1.26日、台湾に私設軌道規定を発布。


 1.28日、白瀬矗中尉らの南極探検隊、南緯80度5分に到達する。


 1.29日、川島浪速、内蒙古のカラチン王とモンゴル独立について契約する(第1次満蒙独立運動)。2.2日、川島浪速ら、清朝の皇族粛親王らを北京から脱出させ、旅順に移す。


 2.1日、京都瓦斯、規則改正に反対した職工を解雇し、職工ら争議を起こす。


 2.12日、清朝の宣統帝(愛親覚羅溥儀)が退位し、清朝滅亡する。2.13日、孫文、臨時大総統辞任を表明。2.15日、袁世凱、臨時大総統に選出される。3.10日、袁世凱、中華民国臨時大総統に就任。


 2.16日、英国、日本の満洲独自行動に警告を出す。


 2.20日、大谷大学で教師罷免を要求した学生200人を無期停学処分にし、学生は退校することを宣言。


 2.24日、衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制、定員34人増などを定める。


 2.25日、原敬内相、神道・仏教・キリスト教の関係者と会合し、宗教共同の国運伸張を目指すことを話し合う。翌日決議(三教合同)。


 2.26日、ロシア、中国の新政府承認問題に関して、日露の特殊権益確保を提案する。


 3.2日、朝鮮郵船設立(本社京城.資本金 300 万円.社長原田金之祐.朝鮮総督府の補助の下に沿岸航路を統一)。3.18日朝鮮総督府,朝鮮民事令・朝鮮不動産登記令・朝鮮刑事令・朝鮮笞刑令・朝鮮監獄令を各制定〔制〕 .4.1 施行。3.28日、在朝鮮日本人子弟のための初等・女子中等教育機関を公立(居留民団と学校組合により設置)とし,小学校令・高等女学校令に準拠させる 〔勅〕。


 3.3日、新橋の人気芸者政代が自殺。


 3.4日、日本赤十字社の清国革命戦傷者救護団34人が帰国。


 3.7日、予算成立。総額5億7000万円。


 3.15日、大阪の友禅職人役3000人が、賃上げ要求ストライキ。


 3.16日、神戸川崎造船所で新型戦艦「榛名」起工。3.17日、三菱長崎造船所で新型戦艦「霧島」起工。3.31日、最初の弩級戦艦「河内」完成。


 3.16日、ロシア、四国借款団加入に同意。3.18日、政府、南満州の権益留保を前提に四国借款団に参加を表明。


 3.29日、呉海軍工廠で共済会に関して不満を持つ工員ら2500人がストライキ。4.1日、呉海軍工廠のストライキが拡大。機能がマヒする。4.4日、呉工廠争議沈静化。


 3.30日、沖縄県に衆議院議員選挙法を施行。


 4.2日、米国、各国に対し中華民国承認を列国に要請。


 4.13日、石川啄木没。


 4.14日、豪華客船「タイタニック」が氷山に激突して翌日沈没。助かった日本人乗客を一方的に批判する動きが起こる。


 4.15日、乃木大将に英国からバス勲章が贈られる。


 5.5日、日本民俗学会設立。


 5.15日、第11回総選挙。政友会が議席数211で勝利する。


 5.17日、皇太子、早稲田大学に行啓。


 6.3日、講道館がオリンピックに参列する五輪委員嘉納治五郎の送別会が行われる。6.29日、第5回オリンピック、ストックホルム大会開催。日本も初出場。


 6.7日、日蓮宗富士派、日蓮正宗と改称する。


 6.26日、富山で米価が暴騰していることから、米穀積み出しに反対する暴動が起こる。7.1日、米価が暴騰し、堂島米市場が立ち会い停止となる。


 6.28日、堺利彦ら、ルソー生誕200年記念会を開く。


 7.6日、桂太郎後藤新平若槻礼次郎ら、渡欧のため東京駅を出発。7.28日、桂太郎ら訪欧使節団、天皇危篤の報を受け、急遽ペテルブルグを出発。


 7.8日、第3回日露協約調印。


【明治天皇崩御】
 7.20日、宮内省、「天皇陛下、尿毒症で重体」と天皇重態を発表。7.29日、明治天皇崩御。皇族会議が開かれ、発表を2時間遅らせる。7.30日、宮内省、明治天皇崩御を発表 (大正天皇即位)。

 これより以降は、大正時代史1





(私論.私見)