第40部213 明治維新の史的過程考(2―2)
(伊藤体制その一、第一回議員選挙から伊藤が射殺されるまで)
 (最新見直し2006.9.20日)

 これより以前は、「明治維新の史的過程考(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)」の項に記す。
1889(明治22)年の動き

【自由党の指導者たちが陸続と政界に戻る】
 憲法発布に伴う大赦によって、東京を追われていた、また獄中にあった領袖たちが復帰してきた。河野広中、大井憲太郎、星亨など自由党の指導者たちが陸続と政界に戻り、きたるべき第一回総選挙のための準備を整え始めた。

【超然内閣】
 黒田首相は、自由党など民党との妥協など毫も考えなかった。憲法発布の翌日、鹿鳴館で開かれた午餐会の席上、「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざるべからず」と述べ、昂然たる超然主義の宣言をしていた。これにより超然内閣と云われることになる。

 黒田首相は、政敵に対する買収、抱き込みを図った。大同団結運動の主唱者であった後藤象二郎に逓信大臣の椅子を与えて運動自体を揺るがせる一方、もう一方の民党即ち改進党の大隈重信を外務大臣に迎えて条約改正作業にあたらせた。案の定、民党特に自由党は四分五裂し、再び内訌に陥った。

【大隈外交の成果】
 6月、大隈外相は、明治政府始まって以来の平等条約をメキシコとの間に締結することに成功した。大隈外交の成果であった。大隈外相はこの余勢を駆ってアメリカ、イギリスなど欧米列強との条約改正、新条約締結作業にのりだした。しかし、その内容に「外国人裁判官の任用」の条項が入っていたことが、朝野の憤激の的となった。当初、民党の中から巻き起こった反対論は、国民や更に天皇と宮中に飛び火することになった。閣内でも山縣、後藤がこれに反対した。やむなく発効を目前にして新条約は破棄せざるを得ないことになった。

 10.18日、大隈外相は、帰途を狙っての青年による要撃により片足を失った。

【黒田内閣瓦解】
 黒田首相は、政局混乱の責任をとって全閣僚の辞表を三條内大臣に奉呈するが、天皇は黒田の辞表をのみ採納してあとはすべて却下し、三條をして臨時の総理大臣たらしめた(いわゆる三條暫定内閣)。

 12.24日、内務大臣山縣有朋に大命降下した。三條内閣は中継ぎの役目を終わり、退陣した。

【第3代、山縣内閣第3代:第一次山縣有朋内閣(任:1889.12-1891.5)
 12.24日、三代目となる山縣内閣が組閣された(1889.12.24〜1891.5.5)。山縣は、「一介の武弁」と自己を評価しつつも、その実は牢固な権力主義者、官僚主義者であった。内閣の主要ポストは、相変わらず薩摩・長州の出身者によって固められていた。伊藤博文が貴族院議長、松方正正義が大蔵大臣。陸軍大臣・大山 巌、海軍大臣・西郷従道。

第一回総選挙

 大日本帝国憲法の公布の際、1年後に総選挙を実施し、議会を開設することが宣明された。選挙権は、衆議院では直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限定されていた。このため、地価600円以上の土地を持っている地主(田畑約2町3反7畝以上)か年収1000円以上を取る高級官吏或いは富裕層が対象となった。(立候補の資格も、国に納める税金が15円以上の30歳以上の男子)。当時の日本の全人口は凡そ4000万人、そのうち有権者は45万人(45万3474人)、人口の僅か1.132%に過ぎなかった。

 第一回総選挙の投票率は92%。選挙資格のない者まで関心が高く、各地の演説会に聴衆が詰め掛けたと云われている。

 総選挙の結果は、自由民権運動を支えてきた板垣自由党と大隈改進党の圧勝。衆議院300議席のうち、士族は109名、平民191名。党派別の内訳は、民党の立憲自由党が135議席、立憲改進党が43議席、合わせて178議席と3分の2近くを反政府勢力が占めることになった。陸軍の山県有朋をボスとする藩閥政府系の大成会が79、中立系の国民自由党が5、その他無所属45。

 改進党では、尾崎行雄(32歳・三重選出)、犬養毅(35歳・岡山選出)、田中正造(49歳・栃木選出)、自由党では、中江兆民(42歳・大坂選出)、植木枝盛(33歳・高知選出)。高知県では、1区が吉田茂の実父・竹内綱、2区が林有造と片岡健吉、3区が植木枝盛と4議席全てを自由党が独占するという圧倒的強さを見せていた。


1890(明治23)年の動き

【第一回陸海軍合同大演習】
 3月、第1回陸海軍合同大演習が、知多半島一帯で行われた。侵入する敵軍を陸海両面で迎え撃つという設定の下、明治天皇が半田に大本営を構えた。

【第一回帝国議会】
 11月、天皇の名のもとに第1回帝国議会が召集された。帝国議会衆議院に集まった代議士は300名。開院式の日の日比谷の議事堂周辺では数万の群集が沿道に溢れ、「祝国会」と書いた熱気球も打ち上げられ、議会を祝う国民の熱気が取り囲んだ。このニュースは世界に打電され、例えば「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」では、「大君(将軍)の国がミカド(天皇)の国に代わって開かれた議会」と報じられている。明治維新以来20年余り、近代化を急ピッチで進めてきた日本は、遂に欧米の議会制度を取り入れ、アジアで最初の議会開催に漕ぎ着けることに成功した。

 第一帝国議会に議席を占めたのは、自由党系130名、改進党系41名、政府系が41名、中立5名、無所属45名である。政府の劣勢はあきらかであったが、山縣は政府権力でこの劣勢を押し戻そうとする。


 国会開設時の自由民権のリーダーは板垣退助と大隈重信であった。板垣は衆議院ではなく、貴族院として参加していた。衆議院に議席を持たない、いや、持てない板垣、さらには、同じく独自の「改進党」を作って野党として運動していた「大隈重信」も伯爵位を貰い、議会に参加した。この、二人の「政党」政治家が、彼等自身、国民による審判を受けないで議会に参加していた。

【山縣首相の富国強兵策予算案を廻って紛糾】
 山首相の初の施政方針演説か為され、この時概要「日本の国土と独立を守るためには、日本だけではなく、アジア周辺地域での軍事的影響力の行使も必要であるとして、陸海軍に巨大な予算を割かなければならない」と強調し、政府は8800万円の膨張予算案を出してきた。この富国強兵策に、議会が真っ向から反対し対立することになる。植木枝盛らは、議会独自の予算案を作り、政府案に800万円の削減と、重税に苦しむ農民の20%減税案を打ち出した。更に、中江兆民が、政府と議会は対等であるべきだと主張し、憲法67条の法文上の不備を突いて徹底的に抗戦しようとした。

 こうして予算案が争点となり、議会はのっけから荒れた。山縣有朋第一次内閣と議会の民党側は激しく対決した。政府は幕末以来の脅威であったロシアの南下を防ぐべく海軍増強を推進する意志を示す一方、民党側は民力の休養を標榜したのである。両者は拮抗し、議会はほとんど膠着した。政府としては解散という奥の手もあったが、東洋初の議会を解散という結果で終わらせることは外面的によろしからず、という判断もあって奥の手は威嚇として以外結局使われないまま、議事は一時中断するありさまであった。


 しかしその裏で、政府と民党の間で妥協工作がすすんでいた。山縣は土佐派の閣員を使って、立憲自由党の土佐派に交渉を仕掛けたのである。また、海援隊に所属していた前歴を持つ
陸奥宗光も、大いに力を発揮した。自由党では竹内綱(後の外交官首相・吉田茂の実父)などがこれに対応、第一回予算案は大幅に修正した恰好で衆議院を通過した。ちなみに戦後の自由党総裁吉田茂は板垣の側近・竹内綱の実子で、板垣と同じ高知県の出身であり、板垣らの自由党の血脈は、吉田茂を経て現在の自民党にも続いている。

 この内閣の存続しているあいだ、
伊藤博文は閣外から山縣に対して議会対策法としてきわめて強い内面指導をなしていたが、結局山縣はこれを用いることないまま、総辞職した。

(私論.私見) 第1回帝国議会に於ける抗争考

 この時の明治の藩閥VS民党の対立は、大正・昭和の官僚派VS党人派の対立へと引き継がれていく。この時の自由党と改進党の対立は急進派対穏健派の対立として宿アの如くこれまた引き継がれていく。つまりは、この時刻印された原型が日本政治史の血脈となっていく。

【「教育ニ関スル勅語」発布】
 1890(明治23).10.30日、山縣有朋内閣は、「教育ニ関スル勅語」(通称「教育勅語」、英: Imperial Rescript on Education)を天皇の勅語形式で発布した。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。発布の後には、日本のすべての学校に下賜(配布)され、その後の教育制度の根幹をなすことになった。

 明治15年の軍人勅諭、明治22年の大日本国憲法、明治23年の教育勅語の三典が明治政府のイデオロギーとなり、大きなえいきょうを耐えていくことになる。

 原案は、伊藤博文の下で大日本帝国憲法・皇室典範の起草にあたった内閣法制局長官の井上毅(こわし)と枢密顧問官にして侍講(じこう、天皇・東宮に書を講じた官職)の元田永孚(ながざね)によって起草された。天皇親政論者として知られていた元田永孚は、明治維新後の西欧化の流れに危機感を抱き、日本古来よりの伝統的精神の確立の必要を覚えた。明治天皇に進言したところ、井上毅と元田が任に就くことになった。

 「教育勅語」の原文が作成されたが、井上毅は教育勅語が思想や宗教の自由を侵さないようにすることを重視し、対して元田永孚は国家神道的な教典とすることを重視し、調整したとされている。最終的に、父母への孝行や夫婦の和合、遵法精神、忠孝、節義、誠実、義勇心など12の徳目を臣民の情操教育とし、天皇が徳治政治を旨とすることを詠い、臣民がこれに倣う形式でまとめられることになった。

 文部大臣西園寺公望は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本臣民(国民)の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ第二教育勅語を起草した。但し、西園寺の大臣退任により実現しなかったとされている。

 発布翌年の1891(明治24)年、内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)をきっかけに、大切に取り扱う旨の訓令が発せられた。同年、小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900(明治33)年に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、学校などで式典がある場合には奉読(朗読)されることとなった。1907(明治40)年には、行政が英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳された。

 昭和時代に入ると国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語額が、天皇皇后の真影(写真)とともに各学校の奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。生徒には、教育勅語の文章を暗誦することが強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938(昭和13)年に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、教育勅語は「軍人勅諭、靖国思想とともに天皇制国家イデオロギーの支柱として利用された。

 大東亜戦争後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP)が教育勅語を問題視しした為、1946(昭和21)年、文部省は奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないこととした。1947(昭和22).3.31日の教育基本法の制定によって教育勅語の内容が否定された。

 その後1948(昭和23).6.19日に、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」により、「根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、基本的人権を損ない、国際信義に対して疑点を残すものとなる」として、「軍人勅諭」、「戊申詔書」、「青年学徒に賜わりたる勅語」とともに排除・失効が確認された。


 教育勅語の原文は次の通り。(中段はれんだい式現代文、下段はれんだいこ現代文訳)
 教育勅語

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此 レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開 キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所 之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々 服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 明治二十三年十月三十日   御名御璽
 朕惟(おも)うに、我が皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠に徳を樹つること深厚なり。我が臣民、克(よ)忠に克く孝に億兆心を一(いつ)にして世世厥(そ)の美を済(な)せるは、これ我が国体の精華にして教育の淵源(えんげん)又実にここに存す。爾(なんじ)臣民、父母に孝に、兄 弟(けいてい)に友に、夫婦相和シ、朋友相信じ恭倹(きょうけん)己れを持し、博愛衆に及ぼし、學を修め、業を習い、以って智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務(せいむ)を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵(したが)い、 一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以って天壤無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし。是(かく)の如きは独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以って爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。 斯(こ)の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所、之を古今に通じて謬(あやま)らず。之を中外に施して悖(もと)らず。朕、爾臣民と倶に拳々服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其のコを一にせんことを庶幾(こいねが)う。

 明治二十三年十月三十日   御名御璽(ぎょめいぎょじ)

 朕思うに、我が皇祖皇宗がその昔に国を始めるに当って、徳治を広く及ぼしていく政治姿勢を打ち樹てたことには実に味わい深い意味が有る。これによって、我が臣民は心を一つにして忠と孝の道を代々能く受け継いできた。このことは、日本歴史の精華であり誉れである。教育の眼目根本はここにこそ在ると云うべきである。臣民は引き続き、父母に孝行し、兄弟仲良く、夫婦相和し、朋友には信を立て自身は慎み深く、博愛の心で世間に役立ち、学問を学び、業を習い、これらの精神に支えられて知能を啓発し、徳と才覚を磨き上げ、世間に役立つような人となり、各自仕事を通じて社会に貢献し、常に憲法を重んじ、その他法律を遵守せよ。もし、国家に緊急事態とならば、義勇を奮い立たせて公に奉じよ。このようにして世界に冠たる皇国の存亡と繁栄に役立つべきである。この伝統を臣民に教え、合わせて祖先の遺風を称えよう。この伝統こそが我が皇祖皇宗の遺訓であり、子孫臣民は相共に遵守すべきこととして尊び、事実道から外れることがなかった。この伝統は、国内だけでなく外国においても通用する立派なご政道である。朕は、臣民と共に心に銘記して政道を行う事を約束しよう。皆もこの伝統的な美徳に心を一つに合わせて奉らんことをこい願う。

 明治二十三年十月三十日 御名御璽(ぎょめいぎょじ)

(私論.私見) 「教育勅語考」

Re:れんだいこのカンテラ時評246 れんだいこ 2006/12/26
 (私論.私見) 「教育勅語考」

 さて、教育勅語をどう受け止めるべきだろうか。サヨ風の条件反射的毛嫌いの精神から離れて、これを左派風に検証してみたい。教育勅語が、記紀の日本神話に基づく祭政一致的天皇制精神を称揚し、一億一心精神を涵養しようとしていることは明らかである。幕末期の水戸学の精神を継承しているように思える。これを一概に否定すべきだろうか。

 れんだいこは、教育勅語イデオロギーの背後には徳治政治の前提が有り、仮にお上が徳治政治の遺風から外れたときには、臣民にはどういう権限が与えられるのかの下りを欠如させたところに欠陥が認められるべきで、このことを除けばそれなりに名文ではないかと思う。

 国際化の流れが押し寄せる明治の時点で、日本史の伝統的徳治政治を称揚することにどれだけ意義があったのかの判断は難しいが、21世紀の今日の時点で「非武装国際協調」を説く戦後憲法の精神を称揚することにどれだけ意義があるのかを問うことと通じている気がする。

 述べたように、教育勅語は人民大衆を臣民と規定し、臣民には無条件的恭順のみが説法されている訳であるが、その欠陥を除けば、「母に孝行し、兄弟仲良く、夫婦相和し云々」はこれを暗誦したとして有益無害ではなかろうか。戦後教育基本法はこの面を削除したが、それが正しいというものではなく功罪両面と云うべきではなかろうか。

 今、教育基本法が改定され、戦前の教育勅語的観点が移入された。れんだいこは新教育基本法を検証していないので論評を差し控えるが、次のことだけは云える。教育勅語は露骨に国体を称揚し、偏狭ながらも民族的独立精神を涵養した。今、教育基本法改正に従事している小泉ー安倍政権は名うての売国奴である。その連中が教育基本法を改正して何らかの有益なことをしでかすだろうか。れんだいこはここに不信がある。

 思うに、来るべき軍事事態に於ける国家的要請での臣民教育、戦争動員教育、愚民教育、恭順教育に向けての改正であり、教育勅語をより悪しくしたものにして、戦後教育基本法をより悪しくしたものにしかならないのではなかろうか。そういうことを確認するためにも、戦前の教育勅語そのものに精通しておくべき必要を感じ、ここに解析した。日本神話同様に知らないよりは知ってよかった気がする。

 2006.12.26日 れんだいこ

1891(明治24)年の動き

自由党の分裂

 自由党は、議会対策で三路線に分かれた。@・硬派(中江兆民ら)、A・実務取引派(板垣退助、植木枝盛ら土佐派の路線)、B・帝国ホテル派(中間軟派)。議会始まって間もないこの時期、自由党内は「四分五裂」の分裂の危機に陥った。

 1.19日、自由党の生みの親板垣退助が、突然、党を離れると党機関紙の「自由新聞」に発表。

 同2.20日、自由党土佐派が政府側に寝返り、その結果、政府案賛成135名、反対108名となり、妥協的な予算案が成立した。それは当初の政府予算案より650万円を削減し、17%の減税策という折衷となっていた。

 中江兆民等の自由党硬派が敗北した。翌2.21日中江は議員を辞職した。以降二度と政治の舞台に戻ろうとはしなかった。

 中江兆民
 1847・弘化4−1901・明治34。土佐藩出身。フランス留学後、東京外語学校長に就任するが、著書「三酔人経綸問答」により明治政府の保安追放処分を受けた。その後、東雲新聞や東京自由新聞で藩閥政府への抗議活動を展開。第一回総選挙に立憲民主党から出馬し当選。民党内の脆弱(ぜいじゃく)堕落を憤り議員を辞任。後に新聞の発刊、国民党の結成などを通じて、自由民権運動の啓蒙に努め、東洋のルソーと称された。
 植木枝盛
 1857・安政4−1892・明治25。土佐藩出身。福沢諭吉らの啓蒙思想の影響を受けて板垣退助の立志社に入り、自由民権思想・理論の指導者の一人として活躍した。第一回総選挙に当選。明治政府の専制に人民主義の立場から反対活動を行い、「民権自由論」など多くの著書も著している。1892(明治25).1.23日、植木枝盛は35歳の若さで逝去。

【第4代、松方内閣第4代:第一次松方正義内閣(任:1891.5-1892.8)
 5.6日、四代目となる第一次松方内閣が組閣された(1891.5.6〜1892.8.8)。第一次山縣有朋内閣の倒壊後、組閣の大命が降下したのは薩派の領袖で財政家の松方正義であった。本来松方は首相の座に着くことを欲さなかったが、伊藤博文山縣有朋の強い勧めにあって拒否が出来なかった。したがってこの内閣には「黒幕」として伊藤、山縣の姿がかいま見えることになる。

 注目される人事として、薩派の松方正義、西郷従道。農商務大臣に陸奥宗光、逓信大臣・後藤象二郎。陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・樺山資紀。

 松方の内閣改造は、薩長色を緩和するために伊藤がひねり出した方策である。文相に佐賀の大木喬任を、法相に尾張の田中不二麿を、そして外相に元幕臣の榎本武揚を据えて中立色を濃くしようとしたが、これは却って閣内の藩閥勢力(すなわち、海相・樺山、陸相・高島、内相・品川)の反感を買うことになる。政府はここに二分され、伊藤もこれに呆れて第二議会のはじまるまえ、故郷山口に帰国してしまっている。

 11.26日、衆議院がガ開会される。松方政府は、富国強兵政策に基づく予算案を提出した。ご意見番の伊藤が去ったあとの政府は、議会に対して激しい買収工作をもってする。政府党(吏党)は賛成したが、民党(自由党、改進党)が優勢を占めており、「民力休養」を旗印に歳出予算額の1割強(約892万円)の歳出削減を可決した。

 衆議院予算委員会において海軍費が削減されたのに憤った樺山海相は、「諸君は薩長政府などと罵るも、我が国今日の隆運を来したるは薩長政府のお陰にあらざるか」と怒号した(「蛮勇演説」)。議会の沸騰は頂点に達し、松方政府は天皇に上奏して裁可を得、12.25日、内閣は議会解散に踏み切った。

 政府はこの来るべき総選挙に対し、大干渉をおこなった。明治天皇の「沙汰」を引き出しつつ品川弥二郎内相ー小松原英太郎警保局長を責任者として、府県知事を総動員して民党候補者の落選運動を展開した。但し、選挙結果は、民党が健闘し、松方政府の目論みは潰えた。伊藤はこの結果に絶望し、枢密院議長を辞職し、品川内相も辞職した。

 伊藤はこの状況を打開するためには自ら政党組織を行うしかないと確信した。しかし、これは天皇に慰留され、一頓挫に帰することになる。閣内の陸奥農商務相などが黙っては居らず、議会は政府を追及し、5.11日、貴族院は政府弾劾建議案を88対68で可決し、5.15日、衆議院は緊急動議で政府弾劾案を提出し、154対111の大差で可決した。

 ついに松方内閣は品川内相を辞職させ副島種臣が後継する。それでも折り合いはつかず、結局総辞職を強いられることになる。肝心の25年度予算案は、衆議院と貴族院が対立したものの明治天皇の勅裁によって成立した。

帝政ロシア極東覇権へ始動開始、大津事件】
 1891年、帝政ロシア、シベリア鉄道計画の着工を開始した。ロシア皇太子・ニコライ2世は、シベリア鉄道の起工式の途中に極東視察を兼ねて来日、大津で警備に当っていた津田三蔵巡査に斬り付けられるという傷害事件が発生している。

 松方首相、山田顕義(あきよし)司法大臣ら政府首脳は、国家責任として犯人を死刑にすべしとして裁判所に圧力をかけた。ところが、刑法上負傷程度では死刑にできなかったことと、外国の皇族に対する危害責任の規定が欠けていた為苦慮することとなった。児島惟謙大審院長(現在の最高裁長官)は、法律の拡大解釈を拒み、政府の要求を受け付けなかった。

【足尾鉱毒事件の始まり】
 1924年、関東北部地方で1921年に続いてこの年も大洪水が見舞われ、渡瀬川、利根川一帯が足尾鉱山から輩出する鉱毒によって田畑に被害が発生した。1877年、古河鉱業が足尾銅山で本格操業を始めて以来、渡瀬川沿岸では農作物の立ち枯れなどが相次いでいた。地域の被害民一同が、連署を添えて政府に嘆願書を提出した。曰く、「速やかに鉱毒除害の道を講ぜよ。しからずんば寧ろ直ちに鉱業を停止せしめよ」と要望していた。

 田中正造は、「足尾銅山鉱毒加害の儀に付き質問書」を国会に提出し、政府の答弁を求めた。これにより事件が公になった。国会は時をおかず解散した為、政府答弁が出されたのは後になるが、概要「被害の原因確実ならず。試験調査中なり。一層鉱物の流出防止の準備をなせり」との典型的な官僚答弁が為された。(「谷中村滅亡史」参照)

1892(明治25)年の動き

【第5代、第二次伊藤内閣第5代:第二次伊藤博文内閣(任:1892.8-1896.8)枢府議長・黒田清隆暫定内閣(任:1896.8-1896.9)
 1892(明治25).2.15日、第2回衆議院選挙。

 1892(明治25).8.8日、5代目となる第2次伊藤内閣が組閣された(1891.8.8〜1896.8.31)。伊藤―井上馨―山縣有朋。外務大臣に陸奥宗光、農商務大臣・後藤象二郎、逓信大臣・黒田清隆。陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・仁礼景範。

 伊藤博文は、山縣、松方の二内閣における側面指導に失敗し、自ら模範的な「議会制御術」を披瀝する必要に迫られた。伊藤は既に超然主義を標榜する元老の一員であり、元老からの支持をも取り付ける必要があった。そこで、山縣の入閣を懇請し、渋々了承させた。こうして、第二次伊藤内閣は、元老と議会の両方を操るという曲芸政治を敷いていくことになった。

 しかし、議会操縦は困難をきわめた。第4議会において、伊藤は、民党の支持を取り付けるべく努力したが、。山縣内閣以来辛酸を舐めている議会は政府の言うことなど聞く耳持たぬ、とばかりに改進党を中心として内閣不信任を提出するに至った。山縣を筆頭とする超然主義者たちはこれを喝采し、議会との抗争を深めようとした。伊藤はこの板挟みを回避するために詔勅に頼らざるを得なかったが(詔勅政策)、いかに天皇の信任を得ている伊藤といえども、たびたびその威力を行使することは出来ない。

 かくして、続く第5議会(1893.11.28ー12.30)、第六議会(1894.5.15ー6.2)は解散に次ぐ解散で対応した。伊藤は、子飼いの伊東巳代治内閣書記官長を使って自由党との融和に努め、自由党約120議席に無所属30議席を併せて議会過半数を制しようとした。第二党で、反政府の急先鋒である改進党より自由党に接近のチャンスがあると踏んだ。政府と自由党接近の素地が着々と築き上げられていった。行政整理、条約改正、増税、海軍拡張を行う。

外相・陸奥宗光
 陸奥宗光(1844〜1897)は和歌山藩士伊達藤二郎宗広の6男。坂本竜馬の日本変革に魅せられ亀山社中、海援隊に参加する。龍馬にその才能、特に商才を高く評価され、「二本差しでなくても食って行けるのは俺と陸奥のみ」と評されている。龍馬暗殺のしらせを受けたとき、暗殺を指示したとみられる人たちの宿に斬り込んでいるとのエピソードを持つ。

 26歳のときに兵庫県知事となるも、戊辰戦争に幻滅、退職し、出身地である和歌山藩に戻り、軍政改革に努めた。もし、廃藩置県がなかったら、陸奥の作った和歌山藩兵が、日本一の近代化された軍隊になっていただろうといわれている。

 陸奥は、薩長派閥の専制政治に批判的でした。彼は土佐閥に友達が多かったため、西南戦争の際、板垣退助ら立志社のメンバーの挙兵計画に参加したとして投獄5年の刑を受けている。

 1883(明治16)年赦免により出獄し、約二年間ヨーロッパを回り、一心不乱に憲法を学ぶ。帰国後は外務省に入る。その後駐米公使、山県内閣農商務大臣、衆議院議員、伊藤内閣外務大臣などを歴任し、日清戦争前後の困難な外交にあたる。他方、条約改正に取り組み、井上薫や大隈重信が挫折していった過程を分析し的確に国際情勢を読み取る。19世紀後半から始まった大英帝国と帝政ロシアのグレート・レースは、極東において新たな展開を見せ始めたことから、大英帝国は自国の東洋の権益を守るために、日本の戦略的価値を利用するに違いないと見抜く。その手腕によって、イギリスとの不平等条約改訂・治外法権撤廃を成功させ、独立国日本としての立場を獲得し、その協調をもとに日清戦争を外交面から支援する。これが、いわゆる陸奥外交であり、彼は明治時代の代表的な外交官と言われている。

 もう一つの国内世論の分裂に悩まされた。陸奥は、国民からの選挙の洗礼を受けて当選した、ただ一人の議員閣僚だった。陸奥は政治における論争に、外交問題は持ち込まないという大英帝国議会の良識を、日本の国会には期待できないということを知っていた。政府案については、なんでも反対という野党の立場が、結果的には国益を損なうという例を、条約改正のこれまでの過程で彼は見てきていた。「より良い」という積み重ねではなく、非現実的な完全主義でもって外交当事者の活動を妨げるだけでなく、可能性の芽さえ摘んでしまう野党や、それをけしかけるジャーナリズムに対して陸奥は嫌悪感(というよりも侮蔑感)を持っていた。陸奥にしても、薩長派閥の政権のタライ回しと、その政策の偏りから、野党やジャーナリズムが反政府的に、異常に働くということも分からないではなかった。陸奥自身も閣内にあって、薩長閥の影響を受けていたので、そこでも苦悩していた。

1893(明治26)年の動き


1894(明治27)年の動き

東学党の乱
 この頃、朝鮮国内の対立が激化し、列強のアジア侵略に対抗して朝鮮への進出をはかる日本と,朝鮮を属国とみなす清との対立が決定的局面に陥った。朝鮮国内では、清にたよる勢力(事大党)と日本とむすんで近代化をはかろうとする勢力(独立党)とが対立した。

 1894.2月朝鮮で農民の反乱である東学党の乱(甲午農民戦争)がおこる。この東学党というのは、儒教・仏教・道教の三つの宗教を混ぜ合わせたもので、東学という宗教のもと島民一揆を煽動していきました。

 朝鮮政府は、800名の兵でもって鎮圧しようとしたのだが、東学党員に返り討ちにされる。東学党は朝鮮政府軍をたびたび破り、6.2日ついに朝鮮政府は国内で起こった東学党の乱を鎮めるために、宗主国清国へ軍の派遣を要請した。清国は、我々なら僅か10日で鎮圧して見せる、と豪語し、朝鮮政府に出兵を要請させた。清国は先に決めた「日清天津条約」を無視して、独断で朝鮮に派兵する。条約では、出兵の際には、前もって相手国に文書で通達するへし、とあったのに、無断で朝鮮へと出兵した。

 「陸奥」と川上操六は居留民の保護を名目に出兵し派兵に踏み切る。清軍に先立つ6.12日、日本軍一個旅団は仁川に上陸、この兵力を楯に駐韓公使・大鳥圭介は、清への宗主関係を廃棄し、清朝軍を日本によって駆逐することを日本政府に要請するよう、申し入れを開始。

 すでに朝鮮における権益を得ていた日本は、清朝が兵力を動員するとともに兵力を動かした。その根拠となったのが日本公使館警備のため「兵若干を置く」と定められた済物浦条約であった。日本は朝鮮内政共同改革を清国に提議して拒否される。

日英通商航海条約調印
 1894.7.18日、イギリスとの条約改正に成功して日英通商航海条約調印、領事裁判権撤廃に漕ぎつける。大英帝国は、朝鮮半島における日本の軍事介入に当初は警戒的だったものの、それ以上に帝政ロシアの朝鮮半島進出に対して警戒的であった。大英帝国は、清国の軍事力のモロさを知っており、むしろ、清よりも次に来る帝政ロシアの朝鮮半島への野心がより驚異的と見ていた。よって、大英帝国は、朝鮮半島における日本の立場を擁護する方針を打ち出し、日英通商航海条約を結んだ。 こうして英国の援助を期待し得る状態となる。

 勝海舟は日清戦争に反対し、日清は協力して西洋に当るべしと述べていた。


日清戦争(「日清戦争考」)
 7.25日、朝鮮政府は大鳥に押し切られ、この二項を呑んだ。

 7.29日、大島義昌の率いる日本軍一個旅団(戦時編制のため七千)は、牙山・成歓の清軍を破る一方、同月25日には海軍の第一遊撃隊が豊島沖で清国海軍に遭遇し豊島沖の海戦が発生。先制攻撃されたため応戦して清国艦艇を追い払った(このあと、「高陞号事件」が起こる)。これらの一連の戦いは、「朝鮮政府の依頼による」というスタイルがとられていた。

 
1894.8.1日、
朝鮮(李氏朝鮮)をめぐって日本と(中国)の対立が非和解的になり、清国に正式に宣戦布告された。こうして、日清戦争が勃発した。火力に勝る日本軍は9月に平壌、11月に遼東半島の旅順を占領し、北京・天津を脅かした。海軍も日本海軍連合艦隊を組織して、9月、黄海海戦に勝利して制海権を握り、翌1895(明治28).1月の威海衛攻撃で清国の誇る北洋艦隊を全滅させた。近代的な軍備をもつ日本軍は、朝鮮から満州(今の中国東北区)に進出し各地で勝利をおさめた。(1894-95、明治27〜明治28年)

 戦費2億円、当時の経常収入の2.5年分に相当。臨時軍事費特別会計が創設されたが、その財源は52%が軍事国債、24%が日銀借り入れ、10%が国庫剰余金で賄われた。戦勝で植民地台湾と賠償金3億6千万円を得て金本位制を確立した。しかし、一度膨張した財政規模が元に戻ることはなかった。これにより以降、「帝政ロシアの脅威」に備えて富国強兵路線を更に一歩進めることになる。


 この間、明治天皇は、自ら御駕を広島に進めて大本営をおき、第6議会も戦時議会として挙国一致色が強くなった。自由党と政府の提携が公然たるものになりつつあったのはこのころからである。政府の伊東巳代治は、自由党土佐派の林有造と接触、11月には公然と提携の趣意書を発表した。

1895(明治28)年の動き

下関条約調印
 1895(明治28)年、清は降伏し、下関・春帆楼で講和会議を開く。伊藤首相と陸奥宗光外相が全権として4.17日、講和条約を締結した(下関条約調印)。その内容の主なものは次の通り。
 清国は、朝鮮の自主権を認める。
 清国は、日本に遼東半島、台湾、澎湖島を割譲する。
 清は、日本に、賠償金2億両(当時の約36億円)を支払う。
 沙市、重慶、蘇州、杭州を開市、開港する。

 これにより、清国は、朝鮮の独立を認め宗主権を放棄し、多額の賠償金を支払わされることになり、日本との間に欧米並みの通商条約つまり不平等条約を結ばされることになった。これが、日本の帝国主義的海外侵略の足がかりとなった。

 日清戦争の結果、「眠れる獅子」とおそれられた清帝国の弱体ぶりを世界中に示す結果となった 。逆に日本は、遂に帝国主義国家として世界史に登場していくことになった。大陸進出の足場をきずき、西欧列強と伍す道へ足を踏み入れていくことになる。

 ラフカディオ・ハーンは、次のように評した。
 概要「一隻の船舶も失わず、一度も敗れることなく、日本は中国の大きな力を打ち破り、新しい朝鮮を創設し、自分自身の領土を拡大し、東アジアの政治的様相を変えた。これら全てのことが、かくも政治面において脅威であり、心理面では更に驚くべきものである。日本の力は古代の信仰の力に似ている。偉大な各民族の真の力が根付いている同じその中に根付いている-つまり人種の魂の中に」。

【板垣の入閣】
 4月、板垣退助が内相として入閣し、伊藤と自由党の提携はここに成った。このように成立した提携は、第9議会においてさまざまな影響を発揮した。だがそれがすべてがすべて、伊藤内閣にプラスに作用したわけではない。伊藤が議会過半数に基盤をおくことに成功したのはたしかに憲政の前進と言うべきだが、そのかわりに彼は、山縣を筆頭として政党と議会に対峙する官僚機構の支持をうしなった。また、ようやく制した議会過半数も、自由党首脳部がさしたる党内統制力をもたないために、しばしば混乱や意見の不一致をみることになった。

 それでも自由党は伊藤に板垣の入閣を要請した。伊藤は板垣に内務大臣のポストをあたえる(そのために板垣は党籍を離脱せざるをえなかったが)一方、挙国内閣を結成するために大隈重信(改進党)を外相に起用しようとした。自由党はこれに激しく反撥、そして官僚機構の反撥はさらに大きかった。

三国干渉
 下関条約締結後、日本の遼東半島領有が朝鮮半島における自国の権益確保に不都合と考えたロシア、フランス、ドイツによる三国干渉が為される。三国はそれぞれ勧告書を日本政府に突きつけ、「朝鮮国の独立性と極東アジアの平和の妨げとなる故に」遼東半島を清国へ返還するよう求めた。武力のおとる日本はこれに応じ、5月、日本と清の間で遼東半島還付条約が締結され、日本は半島返還の代償として庫平銀3000両(約4500万円)を取得する

 この外交折衝の経過は、陸奥の「蹇蹇録(けんけんろく)」に記されている。戦争中、国民の間では、平壌の戦い、黄海海戦での大勝利のニュースに接して以来、「北京へいつ日本軍が進撃するか」が関心事になっていた。陸奥によれば、「妥当中庸の説を唱うれば、あたかも卑怯未練、毫も愛国心無き徒と目せられ」るありさまだった。国民の喜びに水を差す、理不尽な三国干渉に直面した政府当局者は頭を悩ませたが、病身をおして善後策を検討した陸奥は、国民におもねることなく、国力を冷静に鑑み、まさしく「妥当中庸」を貫き、不当な三国干渉という「友誼に基づく忠告」に応え、他日を期した。

 三国干渉は、ロシアがドイツ・フランスをさそっておこしたため、以後、日本のロシアに対する敵意が強くなり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに国を挙げて対露戦の準備を進めることになった。これが日露戦争の伏線となる。

欧米列強の清国分捕り競争

 日清戦争ー三国干渉を契機にヨーロッパ列強の本格的な中国分割が開始される。「西欧列国はあたかも飢えた野獣の如く腐肉に襲い掛かった。日本の勝利は戦術的であり、欧米列強のそれは戦略的であった。日清戦争はこれに利用された観がある。

 ロシアは南下政策を取り、華北地方などを狙っていた。ロシアの南下政策の背景には、「満州進出」更にウラジオストックが冬季使用不能のため遼東半島の旅順・大連などの不凍港を欲していたという事情があった、と推測されている。その具体化として、ロシアは1896年露清密約で東清鉄道敷設権を獲得し、1898年には旅順・大連租借条約でハルビン・旅順間に南部支線を建設することが認められる。

 フランスとドイツも中国分割戦に食指を伸ばしていた。ドイツは膠州湾を、フランスは広州湾を、イギリスは威海衛をそれぞれ租借条約で手に入れた。

 
昭和八年に刊行された『機密日清戦争』によれば、開戦早々のものと思われる内閣総理大臣奏議で伊藤は次のように述べている。概要「英露などの開戦前の干渉は一応去ったが、決していつまでも黙ってみていることはなく必ずまた干渉してくるだろう。しかも、今度は実力を行使してその目的を達しようとするかもしれないし、仏独なども嘴(くちばし)を入れてくるかもしれない。目下の急務は、干渉がくる前に一大勝利を収め、日本側の要求をすぐにでも持ち出せる立場を確保することである。そうしておけば、たとえそれを全部達成できなくても、国威を損せず、日本の利益となる結果を得、しかも将来の計画も立てられる」。

 この伊藤の見通しに軍が見事に応える。干渉がくる前に勝利を収め、要求を出せるようにするという戦略に則り素早く動いた。清国の停戦要望に対して李鴻章のようなしかるべき人物がくるまではダメだと言ってやり直させたほどの余裕があった。

 外交の方が、開戦時手際良くいったのは、一つに陸奥宗光の功績と言える。日本の出兵をみて「しまった」と思った清国側は、ロシアや英国に事態収拾のための干渉を頼む。これを的確に処理していったのは陸奥の優れた判断力に負うところが大きい。何より陸奥の事務処理が機動的にして的確であった。朝鮮内政改革案に清国が拒否の回答をしてきた6.21日の翌日には理路整然たる長文のいわゆる「第一次絶交書」を手渡している。6.30日にロシアの干渉がくると、直ちに伊藤と相談して、言辞は丁重で事理を尽くした回答案を作成して、7.1日に閣僚と協議して天皇の裁可を得て、7.2日にはロシアに回答している。そして7.21日の英国の干渉に対する回答書は22日に出している。これだけの内容の仕事をこの早さで仕上げるのは至難のわざであるが、しかもそれが不平等条約改訂交渉の終盤と重なったことを思えば、なおさら。この陸奥の迅速さは、清国の対応、そしておそらくはロシアの対応を後手後手に回らせる効果があった。

 ロシアが反対したのは、この中の遼東半島の領有です。ロシア皇帝ニコライ二世は、皇太子時代に訪日したこともあり、珍しく極東に関心を持っていた。ウィッテの回想記は、「皇帝はこの方面に進出し領土を拡張したいという希望があり、そういう希望があると知った以上、日本に遼東半島を領有させることはとうてい容認できないと考え、日本が言うことを聞かない場合は、日本砲撃ぐらいはやむを得ないと考えた」と記している。そして独仏を誘って、日清講和条約批准の4.20日に三国干渉を始める。

 日本としては、米英の助けを借りようと思っても、米国はパワーポリティックスに参入する気は全くなく、英国も、陸奥の表現では「英国は他人(ひと)の憂(うれ)いを我が憂いとするドン・キホーテではなく、日本が同盟国として英帝国の防衛に寄与できる国とは思っていない。もし英国が一言(ひとこと)同盟と言ってくれれば、それに賭けたかもしれないが、そうでないので三国干渉を受諾」したとある。


1896(明治29)年の動き

進歩党結成
 1896(明治29).3月、進歩党結成される。大隈重信。

 3月、台湾総督府条例公布。


 4月、民法公布。


 7月、日清通商航海条約。


 伊藤が平和回復後の議会に軍備大拡張計画を提出する。


【第二次伊藤内閣総辞職

 8月末、伊藤内閣は総辞職した。伊藤がつぎの内閣首班として奏薦したのは、またしても薩派の松方正義である。


 第二次伊藤内閣の際には、板垣も大隈も与党に入閣した。これには、野党内部から反対の声もあったが、板垣も大隈もシカトした。この与党志向の、野党幹部というパターン、これが、自由民権を挫折させた大きな原因となった。

【第6代、第二次松方内閣第6代:第二次松方正義内閣(任:1896.9-1898.1)

 1896(明治29).9.18日六代目となる第二次松方内閣が組閣された(1896.9.18〜1898.1.12)。松方―板垣―西園寺。外務大臣に西園寺公望、農商務大臣・榎本武揚、逓信大臣・黒田清隆陸軍大臣・大山 巌、海軍大臣・西郷従道

 さきの第三次伊藤内閣は自由党と締盟したが、松方は三菱の岩崎弥之助の仲介を受けて、今度は進歩党(旧立憲改進党)と同盟して藩閥・改進党連立内閣を発足させた。いわゆる松隈内閣である。松方と岩崎はもとより姻戚関係にあり、まもなく岩崎は日銀総裁に就任する。大隈自身は外相の席を占め、内閣書記官長に高橋健三、法制局長官に神鞭知常を就任させて進歩党の確乎たる地盤を築いた。 

 この提携にたいして激しい不満を抱いていたのは、対外硬の超然主義の闘士である、薩派樺山内相高島拓殖務相であり、清浦法相の背後には長派の大親分である山縣有朋の意向が見え隠れしていた。閣内は紛糾し、ただ松方首相の右往左往する姿のみが印象づけられる。

 その松方首相の醜態を尻目に、閣内では、進歩党派と超然派が真っ向から対立する事態となり、明治30年10月末、あいついで改進党派閣僚は連袂辞職し、一挙に政府の敵側に廻った。進歩党は自由党と提携して政府に吶喊攻撃を開始する。超然政府はこの攻撃に対して有効な手だてを見いだし得ず、ふたたび伊藤が超然主義復活の期待と組閣大命を受けることになる。しかし、伊藤はとうに超然主義の前途に対して見切りをつけていたのである。


1897(明治30)年の動き

 1897(明治30).3月、貨幣法公布 金本位制確立。


 10月、台湾総督府官制公布。


1898(明治31)年の動き

【第7代、第三次伊藤内閣第7代:第三次伊藤博文内閣(任:1898.1-1989.6)
 1898(明治31).1.12日、七代目となる第三次伊藤内閣が組閣された(1898.1.12〜1898.6.30)。伊藤―井上馨。自由党と提携し連立内閣を組織。陸軍大臣・桂太郎、、海軍大臣・西郷従道

 その第二次内閣において見事政党を駕御し得た伊藤に組閣の白羽の矢が立ったのは、ある意味当然であったかもしれない。しかし、すでに事態は第二次内閣の頃と余程変わっている。自由党、進歩党が吶喊攻撃を繰り返し、明治政府はまさに動揺した。伊藤は両党に閣内協力を要請したが、その見返りとして要求された代償は、とても払いきれないほど過大なものであった。

 伊藤はここで一転して超然内閣を結成する。外相には薩摩派の西徳二郎、内相には山縣系の芳川顕正、外相に朋友の井上馨を任命し、第三次内閣は民党と対決の布陣を取って成立した。

 そして、伊藤は内閣劈頭地租増徴等増税案を議会に提出したが、激しい反対が巻き起こり、地租増徴策を否決した自由・進歩両党に対して、乾坤一擲に解散を喰らわせた。これに憤った両党は合同して憲政党を組織して民党はここに一元化された。政府は最大の危地に見舞われたのである。

 ここで伊藤は、三度持論を持ち出した。いうまでもなく元老による模範的な政府党の結成という持論である。伊藤はこれを成立させるために井上蔵相を説いて財界の協力を取りつけることに成功する。だが、この伊藤の動きにもっとも警戒心をあらわにしたのが山縣有朋である。第三次伊藤内閣辞表捧呈後の元老会議は紛糾をきたした。

 4月、福建省不割譲に関し日清交換公文。


【第8代、第一次大隈内閣第8代:第一次大隈重信内閣(任:1898.6-1898.11)
 第三次伊藤内閣総辞職を受けて開催された元老会議は紛糾した。その争点となったのは後継首班の奏薦と共に、伊藤主導の新政党結成についてである。特に山縣は政府不偏不党原則からこれに強硬に反対し、ついに伊藤も、内閣総理大臣としても、将た現職を辞するも、絶対に予の政党組織を否認するに於ては、予は已むを得ず官職・勳爵の一切を拝辞し、一介の野人として結党のことに当たらんのみと啖呵を切ったうえ、後継首班については、議会に大多数の議員を有する政党の領袖大隈重信、板垣退助に組閣の御沙汰があらんことを奏請するを以て憲政の本義に適えりと信ず と言って諸元老を唖然とさせた。

 しかし彼らも誰一人後継首班を買って出ようとはしない。ついに伊藤は呵々大笑して、
諸君皆な重責を負うを辞するならば、国家経綸の抱負を有する大政党の領袖を煩わすの外なきにあらずやと言って参内し、官職爵位の一切を拝辞したうえで大隈板垣を奏薦した。伊藤私邸に呼ばれた二人のうち、板垣はやや躊躇したが、大隈はこれを快諾するに至る。憲政党の反対にあい辞職。元老たちの反対を押し切って大隈、板垣を後継に押し、日本最初の政党内閣(第1次大隈憲政党内閣)を実現させた。

 1898(明治31).6.31日、8代目となる第一次大隈内閣が組閣された(1898.6.31〜1898.11.8)。憲政党による政党内閣の登場であり、史上初の政党内閣が成立した。「明治政府の落城」である。進歩派と自由派の合体で大隈―板垣の「隈板内閣」。文部大臣・尾崎行雄。陸軍大臣・桂太郎、海軍大臣・西郷従道。


 しかし初の政党内閣となったこの「隈板内閣」も、はじめから火種を含んでいたと言っていい。憲政党は言うまでもなく自由党と進歩党の合同によって成立した政党であるから、内部において自由派進歩派の反目嫉視が絶えなかったのである。その摩擦ははやくも閣員選考にあたって現れた。主要閣僚である外務・内務・大蔵三大臣について、大隈が総理・外務を兼摂して離さなかったためである。はじめ、この外務の席は「自由派に相応の人材があれば譲り渡す」という約束であったが、ワシントン駐剳公使として帰日した星亨が現れても大隈は外務大臣職を兼摂したままであったから、両者の軋轢はいよいよ音を出してきしみ始めた。

 これに拍車を掛けたのが、8月22日、尾崎行雄文相が帝国教育会の席上、行った演説が歪曲されて大波乱を引き起こした共和演説事件である。歪曲したのは東京日々新聞、社主は伊藤博文の股肱伊東巳代治である。ついに尾崎は文相辞任のやむなきに追い込まれ、大隈はその後継として自派、すなわち進歩派の犬養毅を奏薦したことによって両派の対立はついに頂点に達した。

 ここで動いたのがかつての自由党の剛腕、外相の席を逃した星亨である。星は隠遁先の別荘から駆け戻るや、まず山縣、また閣内における超然派である陸相などと渡りを付け、続いて忽然、自由党領袖会議に現れて憲政党解党を示唆し、進歩派があわてふためくうちに両派協議会においてクーデタ同然に解党を決議してしまった。こうして憲政党は分裂した。

 自由派はここで改めて、自由派のみの憲政党を結成。勿論、すでに自由派閣員は内閣を引き上げて新憲政党に合流した。大隈はそれでも政権に執着して宮中に出向き、徳大寺侍従長を介して今次は一旦総辞職するが、大命最降下があれば進歩党単独内閣を組閣する自信がある と奏上した。しかし翌日、それに対する返答はなく、元老会議が招集された。外遊中の伊藤をのぞいた元老会議において奏薦されたのは山縣有朋であった。

【第9代、第二次山縣内閣第9代:第二次山縣有朋内閣(任:1898.11-1900.10)
  隈板内閣を倒壊に導いたのは自由派切っての辣腕家・星亨と、その同盟者となった山縣有朋桂太郎西郷従道らの藩閥官僚たちであった。さしもの超然主義の巨頭・山縣も、もはや政党と相携えずには議会を乗り切ることは困難だと考えた。そこで自由派=憲政党と結びつこうとしたのである。しかし、著書の中で升味準之輔はこういう。
それは閣内に政党人がいないという意味で超然内閣であったが、自由党と密接に提携しているという意味ではきわめて党派的な内閣であった。・・・・つまり、山縣の超然内閣は、その実質において虚偽であるばかりではなく、持続しうる虚偽でもなかった。(升味準之輔「日本政党史論」二巻、297ページ)
 そしてその争点となった提携条件も、当初憲政党が自党から四名の閣員を希望したのに対し、山縣はこれを三名に限定、一旦交渉は決裂。11月8日、組閣はされたが、その後も交渉は継続し、11月28日にいたって山縣側が、
1)現内閣は超然主義を執るものにあらずとの宣言を発すること、
2)憲政党の綱領を採用すること、
3)憲政党と利害休戚を同じうすること

 の以上三点が提示された。星、河野などはこれを呑み、閣内協力なしで山縣政権は議会与党を成立させることに成功した。

 1898(明治31).11.8日9代目となる第二次山縣内閣が組閣された(1898.11.8〜1900.10.19)。山縣―西郷―松方。陸軍大臣・桂太郎、海軍大臣・山本権兵衛。


 11月30日、山縣首相は憲政党議員を招いて茶話会を開いて「肝胆相照」を宣言してここに超然の巨頭山縣と憲政党の蜜月が始まった。星はこの提携を、もっぱら憲政党のイメージ好転のために用いようとし、支持層の拡大、なかんずく実業家からの支援を期待した。
 しかし、政治上の締盟は長続きするものではない。特に超然主義と民主主義の蜜月が永続性のあるものであろうはずがなかった。星らの尽力によって地租増徴策が議会を通過した後、山縣が打った手は彼らに報酬として官職を分配することではなく、むしろ文官任用令を改訂して自由任用の利く範囲をきわめて限定した。猟官の防止である。

 憲政党議員たちは激昂し、山縣首相に詰め寄った。山縣はここで譲歩して、多少自由任用の利く範囲を旧に復したが、そのあとで文官任用令の改正については枢密院の諮詢を経ること、として今回の改訂をそのまま存置してしまった。憲政党議員たちは締盟分裂を察知した。星は山縣の本音を打診するために、地租増徴案可決の代償として閣僚の椅子を求めたところ、山縣はこれを拒否。星は提携破綻を宣言した。憲政党は次の同盟者を大至急捜さねばならない。

 そこで星が目を付けたのがいまひとりの長州の元老・伊藤博文である。星は伊藤の隠棲する大磯の別邸に急行し、伊藤に憲政会を率いてくれるよう要請した。伊藤はそこで、自分の本意は既成政党を矯正するために新政党を設立することだ、と述べると、星は憲政党を解党して伊藤の新政党に合流すること誓約した。元老・伊藤を元首としてここに日本政党史上初の縦断政党、政友会が誕生することになる。バックには、三井財閥の番頭とも云われた元老・井上馨が控えていた。山縣のもっとも恐れていた事態が現前したのである。

1899(明治32)年の動き

 7月、日英通商条約ほかの改正条約発効。



1900(明治33)年の動き

 1900(明治33).3月治安警察法の公布。
【「義和団の乱」】(「義和団事件考」)
 1900(明治33).6月、北清事変起こる。義和団の乱鎮圧のため陸軍派遣。

【第10代、第四次伊藤内閣第10代:第四次伊藤博文内閣(任:1900.10-1901.5))、枢府議長・西園寺公望暫定内閣(任:1901.5-1901.6)

 1900(明治33).9月、立憲政友会を結成。伊藤が総裁となる。自他ともに第一の元老を認める伊藤博文による政友会結党を受けた山縣は、北清事変の突発によって留任を余儀なくされていたが、ついに政権を投げ出して後継首班に伊藤を奏薦した。これは成立間もない政友会の前に政権という餌を放り出すことによって政友会内の内訌を発生させ、これを煽ってかつての隈板内閣の二の舞を演じさせようともくろんだのである。一方、伊藤は早期の組閣を望まなかったが、政権掌握こそが党勢拡張の最有効手段だと主張する原敬などの意見によって組閣に着手した。19日、組閣完了、親任式挙行。

 
1900(明治33).10.19日、10代目となる第四次伊藤内閣が組閣された(1900.10.19〜1901.6.2)。伊藤。外務大臣・加藤高明(初入閣)、逓信大臣・星亭。陸軍大臣・桂太郎、海軍大臣・山本権兵衛。明治立憲制のもとで政党政治への道を開いた。このころから山県有朋系の官僚派と対立。

 第四次伊藤内閣は短命内閣であった。まず第十五帝国議会において伊藤は、北清事変など国外脅威に対抗するための財源をひねり出すことに失敗し、結局増税に依存しようとしたことがつまずきの第一であった。衆議院は政友会が過半数を握っていたから問題はなかったとしても、強硬に反対したのは貴族院である。伊藤はこの反対を、詔勅を示すことによって切り抜けた。

 ほぼ同時に問題となったのは、逓信大臣星亨の東京市会汚職疑惑である。星は追及され、結局逓相辞任。代わって原敬が就任したが、内閣のマイナスイメージを拭うことは難しかった。

 災難は重なる。蔵相渡邊国武が公債依存事業の中止、又は遷延を主張して折れなかったため、閣議は紛糾した。かくて5月2日伊藤は単独で辞表捧呈、枢府議長西園寺公望が首相代理に任命された。天皇の諮問によって元老会議が開催され、山縣松方井上西郷の四元老は荏苒評議を重ねた。


1901(明治34)年の動き

 1901(明治34).1月、八幡製鉄所の操業開始。


【第11代、第一次桂内閣第11代:第一次桂太郎内閣(任:1901.6-1906.1)
 元老会議もまた混乱した。長派の山縣有朋井上馨、薩派の松方正義西郷従道の四元老は結局井上を推挙したが、閣僚候補者を得ることができず井上内閣は流産に終わった。再び元老会議がひらかれる。元老たちはここで心機一転か、自分たち第一世代ではなく、第二世代の物色をはじめる。そこで該当したのが桂太郎である。

 桂はこれを辞退。これは真意恐懼したのかポーズだったのか。ともあれ、桂はむしろ伊藤に大命再降下されんことを乞い、みずから大磯に赴いて伊藤を説得したが、伊藤は却って参内して桂を再三奏薦した。以上の経過を経て、桂は大命を拝受した。

 1901(明治34).6.2日、11代目となる第一次桂内閣が組閣された(1901.6.2〜1906.1.7)。陸軍大臣・児玉源太郎、海軍大臣・山本権兵衛。


 こうして誕生した桂内閣は、しかし四年以上にわたる長期内閣となった。この間、彼は日露戦争を乗り切るのである。

 すでに日露を巡る環境は刻々と悪化しつつあった。当時外交において二つの論があった。一つは、日本は幕末以来の脅威であるロシアと結んでこの脅威を緩和し、もって東洋の経略にあたるべきであるという説。もうひとつは、むしろ英米と握手してロシアに対抗しようとする説である。首相を辞した伊藤は前者の説を強く支持し、ために世人から「恐露家」という渾名を頂戴するほどであったが、かれは米国エール大学の博士号授与の外遊にかこつけて欧州をめぐり、ロシアの首都ペテルブルグに行って日露協商の可能性を打診しようとしていた。
 一方で桂は、外相小村寿太郎日英同盟の瀬踏みをはじめていた。イギリスは日露協商の成立を脅威と感じていたから、いわゆる「光栄ある孤立」というイギリス百年来の伝統外交を捨てるのにも躊躇はなかった。桂内閣はこのイギリスの対応に驚喜した。しかも伊藤訪ロを知ったイギリスは同盟促進の思わぬ働きをおこなった。1902年1月30日、日英同盟協約調印。これは攻守同盟であった。仮想敵は、もちろん極東、世界において最大の陸軍を擁するロシアである。

 この間に、国内では政友会内で内紛が起こっている。総裁伊藤の外遊中、伊藤の意志は桂に対して協調だったにもかかわらず、尾崎行雄などが吶喊したのである。しかし、政党は本来政権掌握のために動くものであって、その役目を積極的に果たそうとしない伊藤に対しては党内から激しい不満があがっていた。そもそも、伊藤の地位、「政局調整をはかる元老」にして「政権奪取をはかる政党総裁」という地位が矛盾したものであったのである。こうした突き上げにあって、伊藤は政友会総裁を西園寺公望に譲り、自らは枢密院に逃げ込まざるをえなかった。

 さて、対露関係は日英同盟の圧力によって調印された露清満洲還付条約によって好転したかにみられたが、ロシアは依然として満洲にいすわったままであった。日本政軍首脳の焦燥はつのった。もはや事ここに至っては開戦は避け得ないであろう。いうまでもなくロシアの本拠地はヨーロッパ・ロシア(ウラル以西)であって本来満洲と欧露は断絶しているが、近年この断絶を緊密に換えるべく、シベリア鉄道が建設されていた。近々これを複線にする工事にも着工するという。そうなれば大量の兵力が満洲に送り込まれ、もはや極東におけるロシアの優位は揺るぎがたいものになるであろう。軍部は「速やかに帝国軍備の充実整頓を図るべし」と意見書を提出、一方で御前会議は交渉継続を決定した、しかしその交渉も1904年2月決裂。対露開戦の詔勅が渙発せられた。

 戦局は朝鮮半島仁川港においてロシア艦艇ワリャーグ、コレーツの二隻を日本海軍が撃沈したところからはじまり、徐々に満洲に移っていった。国内の参謀本部からではすでに軍令に時差が生じるため、満洲軍総司令部が新設され、その総司令官には大山巌元帥が参謀総長から横滑りし、また児玉源太郎大将が閣内の席を辞して参謀長となった。(以下工事中)

 1901(明治34).9月、辛丑条約(北京議定書)。
田中正造直訴事件

 12.10日、国会議事堂の前にたたずんでいた田中正造がこの日開催された第15議会開会式に出席の帰路にある明治天皇の列に大声でわめきながら突撃し直訴した。その背景には足尾鉱毒事件があった。こうして、田中正造は、当時、最高刑は死刑という重罪の天皇直訴を行い、たちまち天皇警備の騎馬警官に取り押さえられ逮捕された。男の名は。その手には「謹奏」としたためた一通の書状が握られていた。決死の天皇直訴であった。


1902(明治35)年の動き

 1月、八甲田山事件。


日英同盟
 1902(明治35).1.30日、ロンドンで日英同盟締結。日本が世界に冠たる帝国として認められたことを意味する。

 調印時点での仮想敵国はロシアであり、清韓両国を対象範囲とし期間5年の国際条約であった。この条約により、両国のいずれかが一国と戦う時は他方は中立を保ち、二国以上と戦う時は参戦するという内容であった。この条約は、日露戦争末期の1905(明治38)年と1910(明治43)年の2回に亘って改訂され、朝鮮に対する日本の保護権の承認、ロシアに代わるドイツへの備え、イギリスのインドの領土保全条項が書き加えられ、期間も10年となった。

社会民主党の結成
 1902(明治35)年、社会民主党の結成→即日禁止。

1903(明治36)年の動き

 1903(明治36).6.23日、御前会議を開いて、日露談判開始の勅許が下された。小村外相が交渉に当たったが進捗しなかった。7月、伊藤が三度枢密院議長となり、対露開戦決定に参画。政友会総裁を辞任。

 8月、対日露の主戦論者が対露同志会結成。政府に対し、即時開戦を迫った。


 10月、小村・ローゼン間で日露交渉開始。


1904(明治37)年の動き

【日露戦争】
 「日露戦争考」に記す。

1905(明治38)年の動き

【ポーツマス講和条約調印】

 9.5日、ルーズベルト大統領の最後通牒恫喝により、ポーツマス講和条約が調印された。小村寿太郎全権の主張空しく戦勝で得たものは、。南樺太の割譲(北緯50度以南の南サハリン)と朝鮮、満州、旅順と大連のある遼東半島の権益、ロシア沿岸での漁業利権を得たが、賠償金は一銭も取れなかった。

 ポーツマス条約の講和条件がはっきりし始めるや、日本の有力新聞「東京朝日」、「東京毎日」、「大阪朝日」、「大阪毎日」、「報知」、「都」、「日本」、「万朝報」はこぞって、条約に厳しい批判を浴びせ、「恥ずべき」、「屈辱的」、「死体的講和」等々非難した。

 この頃、戦争中外債募集に参加したアメリカの鉄道王のハリマン(ユダヤ金融グループ)が来日、満州鉄道の買収を日本政府と交渉し、桂首相は、1億円の資金提供と引き換えに「満州鉄道及びその関連の財産に対し共同且つ均等の所有権」を確認する覚書を同意する。これを積極的に賛成したのが政界で井上馨、財界で渋沢栄一で共に欧米派(フリーメーソン)。

 小村外相は、帰途横浜郊外でこの話しを聞くや激怒し、覚書粉砕に立ち回る。小村は桂の軽率を責め、他の元老たちを説き伏せて遂に覚書取り消しに漕ぎ着ける。帰国したハリマンを待っていたのは、日本政府からの覚書破棄の電報であった。以降、米国の対日政策は反日強硬路線に転換する。

 ポーツマス条約締結の取材に赴いたジャーナリスト・石川半山は、日本に対する米国の感情の変化について次のように記している。

 概要「これまで米国の同情は、弱小なる日本が強大なる露国と戦へるに依って起こったもので、日本が勝った後は、生意気なる日本、猪口才なる日本より一進して、恐るべき日本、はたまた憎むべき二歩という心情に傾いた」(2004.11.30日付日経新聞文化欄、望月雅士「大隈重信支えた民の手紙」)。

【日比谷暴動】

 9.5日、東京日比谷公園で、「講話問題国民大会」が開かれ次の決議が為されている。憲政本党の河野広中、黒龍会の頭山満らは対ロ強硬を叫び、屈辱条約破棄を決議した。「我々は挙国一致必ず屈辱的条約を破棄せんことを期す。我々は我が出征軍が驀(ばく)然奮進もって敵国を粉砕せんことを熱望する」(山陽新報・明治38.9.6日付け)。

 日本国民はこの講和条件に憤激し、戦争継続を叫び、暴動が起きた。内相官邸、徳富蘇峰の国民新聞社、交番、教会などが次々と襲撃された。この事件で死者17名、負傷者500名、検挙者2千名。焼かれた東京の交番は7割以上。


【「桂・ハリマン仮条約」】

 10.12日、桂首相は、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンと会談し、満州国に於ける鉄道事業を両国が共同経営することに合意し、「桂・ハリマン仮条約」に調印した。元老・伊藤博文、井上馨、財界の渋沢英一らもこの案に賛成した。 

 10.16日、仮調印から4ヵ月後、ハリマンが離日した直後、小村外相がアメリカから帰国した。小村は、「桂・ハリマン仮条約」を知り激怒した。「この条約は尊い血を流して手に入れた満州の権益をハリマンに売り渡すものだ」と述べ、元老達を説き伏せ、「桂・ハリマン仮条約」を破棄させた。

 これに対し、外務官僚卒の歴史家・岡崎久彦は、著書「小村寿太郎とその時代」の中で次のように評している。

 「今となってみれば、日本としては、ハリマン提案を受諾しておくことが正解であり、小村の術策は、国の大きな運命を誤ったというべきであろう」。
(私論.私見)

 鬼塚英昭氏は、著書「20世紀のファウスト」5Pの中で、次のように述べている。
 「日露戦争そのものが間違いだった。あの戦争の勝者は日本ではなく、本当の勝利者はユダヤ王のロスチャイルドであった。エドワード・ハリマンの正体を見ずに、単純に物を見んとする学者たちは、時流に乗ることのみを大事と考える人々に違いない」。

【小村外相がフリーメーソンを監視団体に措置する】
 小村外相は更に、フリーメーソンの日本での活動に厳重な制限を加え、日本人がこの結社に参加することを禁止する措置をとった。これにより、日本人が国内に於いてフリーメーソンに入会すれば、警察によって逮捕されることになった。

 11.17日、第2次日韓協約を結び、韓国保護条約調印。11.23日、京城に韓国統監府を置く。12.2日、駐英公使館を大使館に格上げ。12.22日、満州に関する日清条約調印。


 12.21日、桂内閣総辞職。


【日露戦争戦費の重み】
 1904−05年の日露戦争時の戦費は17億円(日清戦争時2億円)、当時の経常収入の7年分に相当(日清戦争時2.5年分)であった。臨時軍事費特別会計が創設され、その財源の82%を軍事国債に頼った。そのうち54%は外債で、アメリカのクーンロエブ商会のヤコブ・シフの資金援助に頼った。

 その後2年続きの大増税で、合わせて1億4千万円を調達したが、戦後経営は苦しく、平時に戻っても財政規模は縮小せず、むしろ膨張が加速された。得た権益を守るための「守勢ではなく攻勢作戦を本領とする軍備」(帝国国防方針)の拡充が戦後経営の中心に据えられた。陸海軍の兵力をほぼ十年で倍増させようというもので、所要経費は6億円、1908(明治41)年度から予算に計上された。軍事輸送を強化するための鉄道国有化も大蔵省の強い反対を押しきって強行され、財政負担を重くした。

1906(明治39)年の動き

【西園寺の履歴概要】
 京都の公卿・徳大寺家の次男として生まれ、西園寺家を継いだ。明治3年より10年間に亘ってフランスに留学。留学中にフリーメーソンに入会したと言われている。帰国後、東洋自由新聞を創刊して自由民権運動を鼓吹した。その後、憲法制度調査を命じられ、伊藤博文の渡欧に随行。オーストリア大使、ドイツ公使、賞勲局総裁、貴族院副議長、文部大臣、枢密院議長、首相代理。明治39.1月、第一次桂内閣の後を受けて首相。以降、日本政界の最高峰として又元老として大正、昭和史に関与した。昭和15.11月、92歳で逝去。

(私論.私見)

 西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は、西園寺公望について次のように述べている。
 「西園寺公望(1849〜1940)はフランス留学帰りの政治家として知られ、フランス大東社(グランドトリアン)のメーソンであった。西園寺は徳大寺公純(きんい)の次男として生まれ、明治維新の際、軍功を立て、にとフランスに留学した。この時にフランスで洗脳を受け、グランドトリアンのメンバーになっている。帰国後、東洋自由新聞社長となるが辞任して、政界に入り、第二次政友会総裁となった。そして二度首相をつとめた。

 1919年(大正8)パリ講和会議首席全権委員として出席した。昭和期には最後の元老として内閣首班の総帥に当ったり、日本のフリーメーソン革命に奔走(ほんそう)した人物である」。

【第12代、第一次西園寺内閣第12代:第一次西園寺公望内閣(任:1906.1-1908.7)
 日露の満洲における戦況は、早期講和を欲するものであった。しかし講和にとって最大の障碍は、日本の戦争による政財界の疲弊が一般に知られていなかったため、国民と政党の一部が強硬に反対するのではないかと見越されたことである。そこで桂首相は熱烈に、議会最大政党の政友会の支持を欲していた。

 当時の政友会は、ジャーナリスト前田蓮山によれば次の三柱によって成り立っていた。すなわち、総裁西園寺公望の門地自由民権の長老松田正久の徳望。そして原敬の辣腕である。西園寺は政権にも栄誉にも興味恬淡であり、松田正久はその「天下第一の不得要領」で多くの党員の信望を集めていて、原敬などはむしろ人望薄く党員に敬遠されていたが、同時に彼がいなければ政友会は消滅してしまっただろう事は想像に難くない。
 桂はその原に提携を申し入れる。原はその提携の条件として、政友会が日露戦役の戦後経営に参画できる立場を望んだ。桂はこれに対し、次期首相として西園寺を推挽するが、この新内閣は政党内閣の体をとらぬこと、また桂内閣の基本方針を大きく逸脱せざることを望んで原にそういった。
 原と政友会は、これを呑んだ。

 これがいわゆる「桂園時代」のはじまりであったが、もちろんこの提携は永遠のものではあり得ない。桂はこの盟約を「貴族院は我がものなり、衆議院は西園寺のものなり」と簡潔に表現したが、原はその桂の牙城貴族院を陥落させるために暗躍するのである。

 1906(明治39).1.7日、第12代目となる第一次西園寺内閣が組閣された(1906.1.7〜1908.7.14)。西園寺―原―加藤高明。陸軍大臣・寺内正毅、海軍大臣・斎藤実。

 第一次西園寺内閣は、内部に長閥山縣系(逓相山縣伊一郎)、薩閥(文相牧野伸顕)、また貴族院の最大派閥・研究会(法相千家尊福)をふくむ弱体内閣であったが、これを補ってあまりあったのが内相・原敬の辣腕であった。彼の下で「新進有為」の若手官僚の政党編入と、地方行政機構の政党化が進んでいくのである。

 原内相はまず、内務省に巣喰う山縣系の大浦兼武の派閥を全排除して省内統制を確立する一方、非藩閥の帝大官僚たちを起用していった。当時の官僚たちのなかで著名なのが、若槻礼次郎濱口雄幸などであり、そのうちでも原に注目され、彼と共に権力の階梯を上っていったのが床次竹二郎、また水野錬太郎などにあたる。かれらは官僚機構の中で栄進したのち、揃って政友会に入党している。

 また、原は各府県知事の任命権を持つ内相の地位を活用して「老朽淘汰、新進登用」を行っていった。しかしその人事刷新が党派的な意味合いを持たないはずがない。彼が「新進」と認めたのは「親政友新進官僚」に限られた。反政友知事はこの美名の下に排除され、川島純幹など親政友知事が次々と誕生してきた。このようにして原は政友会の党勢を一挙に拡大していった。

 しかし、反政友知事とは取りも直さず山縣系知事のことにほかならない。原は山縣系知事を放逐することによって、山縣閥に対して未曾有の挑戦を行ったのである。山縣有朋はこれに強い不快感を示した。彼は官僚(なかでも内務省)、枢密院、軍部など多岐に渡り複雑をきわめる派閥網を駆使して、公然と西園寺内閣倒閣のために動き出し、また西園寺と桂の間の締盟も破れざるをえなかった。

 こうして第一次西園寺内閣は倒壊するに至ったのだが、内閣は倒れたが、この政権において政友会が得たものはまことに大きかった。まず、地方の政党化の端緒を掴んだこと。中央の新進官僚たちに、これからの立身のためには長閥よりむしろ政党と結んだ方が得策だということを示し得たこと。最後に、山縣閥の現在の勢力についての認識を深め得たこと、である。これをきっかけとしていよいよ政友会は勢力を展開していったのである。

 2月、片山潜らにより日本社会党結成される。

 2月、伊藤博文が、日露戦争後大使として韓国に赴き、韓国統監府が開庁して初代韓国統監に就任。伊藤は、韓国の保護国化を推進した。


 3月、島崎藤村が、代表作となった破戒を自費出版した。被差別部落出身の小学校教員、瀬川丑松が父の戒めを破り、自らの出自を告白する苦悩を描いた小説である。藤村はこの作品で作家としての地位を確立した。但し、小説に於ける丑松の態度が卑屈として批判を受け、藤村は自ら絶版にして後に改訂版を出した経緯がある。初版に戻ったのは藤村没後の戦後からである。

 11.26日、日露戦争でロシアから獲得した南満州鉄道の経営に当たる会社として南満州鉄道が国策会社として設立された。初代総裁に後藤新平が就任した。翌1907年、調査部を設置し、政局に大きな影響を与えていくことになった。


 同日、児玉源太郎に強く推挙され、後藤新平が台湾民政長官に就任。


1907(明治40)年の動き

 ハーグ密使事件を利用して韓国皇帝を譲位させ、第3次日韓協約を結んだ。これにより韓国の内政権を掌握した。


1908(明治41)年の動き

【第13代、第二次桂内閣第13代:第二次桂太郎内閣(任:1908.7-1911.8)
 西園寺の提携時代、つまり桂園時代において元老会議は開催されない。すでに元老たちは老齢で自ら内閣を主催するの意志無く、衆目は一致して元山縣子飼いの政治達者と政友会総裁の公卿政治家を推していた。

 7.4日、西園寺は辞表を捧呈して後継内閣首班に桂を奏薦し、明治天皇は朝鮮駐在の伊藤博文に下問した他は意見をとくに求めなかった。7.12日、桂に大命が降下した。7.14日、組閣完了。


 7.14日、13代目となる第二次桂内閣が組閣され、親任式が執り行われた。(1908.7.14〜1911.8.30)。桂―寺内。陸軍大臣・寺内正毅、海軍大臣・斎藤実。

 この内閣成立後の議会において問題となったのは地租軽減、管理増俸問題である。ここで議会操縦に難航を感じた桂首相は、第一次内閣の時と同様な政友会の友好を求めようとした。そこで桂が出した提案が、情意投合といわれる妥協締盟策である。

 原によれば、この情意投合は、「桂は今回限りにて再び内閣には立たざる事、彼の退任は条約改正結了後なる事、其の退任に際しては政友会に譲ること」であった。原は、最後まで桂が「政友会に譲る」と言い続け、「総裁西園寺に譲る」と言わなかったことに疑惑を感じているが、ここではそれほど注目しなくていいだろう。政友会、政府の間では調整が済んだ。ここに政友会と政府は一体化し、桂園時代はその極みを迎えた。

【韓国併合の動き】
 一方で明治政府の宿願であった韓国併合が進みつつある。伊藤博文が韓国統監を辞し、後任となったのは曾禰荒助であったが、曾禰は韓国首相李完用と結んで専横暴慢ははなはだしかった。

1909(明治42)年の動き

【伊藤博文射殺される】
 6月、伊藤は、韓国統監を辞し、四度目の枢密院議長となった。

 10月、韓国民族運動の矢面に立たされた伊藤は、満州視察と日露関係調整のため渡満した折、ハルピン駅頭で韓国の民族運動家安重根(アンジュングン)に射殺された(享年69歳)。

(私論.私見) 【安重根考】

 19世紀末、日本帝国主義は「援助」の名の元に朝鮮に軍隊を派遣し、半ば脅迫的な手段で政府から主権を奪った。閣僚内部にいた売国奴たちの後ろ盾もあって朝鮮は屈辱的な「日韓合弁」と「乙巳保護条約」を締結。条約締結後、失望の余り人々の間には自らの命を絶ったり、国を捨てたりする者も現れるが、一方では義勇団を結成して抗日戦に身を投じる者も多かった。しかしそんなゲリラ戦は日本軍の一層の弾圧を引き起こすことになり、徐々に亡国の運命を決定づけられていく。様々な戦いを経て安重根はやがて「朝鮮侵略の元凶」伊藤を暗殺することが民族を救う唯一の手段であると考えるようになり、実行に移すべく家を後にした。ロシア財務部長ココフツィェフと会談するため伊藤がハルピンを訪れるという知らせを聞き付けた安重根は、ハルピン駅で伊藤を暗殺し「独立万歳」を叫ぶ。安重根は、日本の新聞では「不逞鮮人」として極悪非道がなじられたが、朝鮮では南北を問わず愛国青年として最大級のヒーローとなった。

 鬼塚英昭氏の「20世紀のファウスト」は次のように記している。

 「安にはユダヤ勢力の影がちらつく。安に最後まで付き添っていたのはフランス人の神父のヴィへレムであった。一説に、アメリカの奉天総領事のストレートが暗殺を指示した、との説がある。どうして伊藤は殺されたのか? 彼はロシア帝国大蔵大臣のココフツェーフとハルピンで会談する予定になっていた。以東は日露同盟を結ぶ事を考えていた。アメリカとユダヤ資本は、この同盟を抹殺しようとしたのである」。

 これより以降は、「明治維新の史的過程考(2―3)(その後の政局、明治天皇崩御まで)」の項に記す。



(私論.私見)